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歴史上の人物を数値化するスレ 3

[0] 地理公 2007/02/08 21:30

歴史上の人物を数値化しましょう。

基本となる能力値は【統率】【武力】【知力】【政治】【魅力】の五種類。
1〜100の百段階評価です。そのほか、列伝、特殊能力や解説など。

能力値のおおよその基準

0代=逆にすごい
10代=ゴミ
20代=ろくでなし
30代=苦手
40代=凡人
50代=可もなく不可もなく
60代=まあまあ
70代=優秀
80代=一級
90代=超人
100=神

能力値の説明

【統率】組織を纏めあげ、強固にする力。また、そのために組織を改編し、造り上げる能力。
     +利害によって人を動かし、広義の支配をする能力。
【武力】戦術・戦域級での戦闘指揮能力。
     +自分の意志を実現するため他者に対し物理的強制力を使用する能力全般。
      喧嘩から戦争まで、及びそれに付随する腕力から軍事才能まで、全般。
【知力】問題への正しい理解・判断能力。先見の明。戦略眼。意志力。
【政治】己の描いた方策を実現する能力。内政、外交、謀略の能力。
     +自分の意志を実現するため非物理的手段を他者に行使し、成功する能力。
      事の善悪・倫理性は関係ない。手段の内容も関係ない。プロジェクト実現能力。
【魅力】利害抜きで人を引きつける力。人望。

[1] siyajkak 2007/02/14 01:25

前レスで評価された人物の一覧を掲げてみました。
歴史上の人物を数値化するスレ[201]
歴史上の人物を数値化するスレ[301]
歴史上の人物を数値化するスレ[401]
歴史上の人物を数値化するスレ[501]
歴史上の人物を数値化するスレ[601]
歴史上の人物を数値化するスレ[701]
歴史上の人物を数値化するスレ[801]
歴史上の人物を数値化するスレ[902]
歴史上の人物を数値化するスレ[1001]

[2] ハーン 2007/02/19 16:16

 それでは、新スレでの最初の数値化を行うことにします。

 汪兆銘

 1883年5月4日 - 1944年11月10日

 字:季新 号:精衛。

統率……51 革命党では大抵、孫文の下で活動していたので、そのころは組織を纏めるような立場にありませんでした。孫文の死後に国民党の頂点に立ちましたが、その手腕を発揮する前に出奔したのでよく分かりません。後に復党すると行政院長兼外交部長の地位についています。蒋介石が重慶に逃亡すると南京政府の主席になりましたが、すぐに内部分裂が見られたそうで組織者としてあまり優秀ではないようです。

武力……30 特にありません。

知力……25 売国奴といわれていますが、その名に相応しい梟雄ではありません(大抵の売国奴はそんな感じですが)。むしろやることなすこと、裏目に出ることの多いこまったちゃんです。孫文の側近ということで、孫文の死後は国民党の長となりましたが、蒋介石の起こした上海クーデターで共産党が追い出されたのを見て、何を思ったのか渡米しました。そのため、蒋介石は国民党の首魁となり、何かと汪兆銘と対立しました。その後も(その前もだが)何か自分にとって不利なことが起こると、渡米しており逆境に弱い人柄だったと思われます。戻ってきても大抵の場合はあまりいい成果をあげていません(西安事件の真っ最中にも外遊しており、それに全く関わることが出来ませんでした)。国民党で行政院長兼外交部長になると、全く成果のあがらない対日交渉の矢面に立たされ、非難を逸らすための蒋介石の盾にされていました。また、一時は日本とまともに戦って勝てると思っていたらしく、蒋介石の消極的な戦略を非難したこともあります。日中戦争で国民党が重慶に逃げ込むと、とりあえず日本との交渉を行いました。そして、何を思ってか日本と直接交渉をすると言い出して蒋介石に無断で出奔。あえなく国民党から除名されてしまいました。日本に着くと、何がなんだか分からないうちに南京政府の総裁になってしまいました。この時点でもまだ国民党を分裂させたわけではない、と取り繕っていますが誰も本気にしません。どうやら彼は国家のナンバー2がトップに無断で敵国に行ってしまうことの重大性を理解していなかったようです。途中から当初の目的を忘れることにして重慶の蒋介石を倒すほうに傾いていたそうですが、それなら最初からそうしたほうが彼自身のためだったでしょう。その戦略も一貫していたとは言えませんが。

政治……70 なかなか優秀な事務屋だったようで、全権を掌握した蒋介石は基本的に軍事畑出身であったこともあり国民党の諸業務を行うために彼の協力を必要としていました。広東で自分の根拠地をもっていたり、彼が重慶を出た後も支持していた派閥が機能していたことからそれなりのことは出来たのでしょう。ですが、蒋介石がほとんど信用していなかったことは責めれるべきでしょう。また、南京政府が支配していた地域は当時の中国中央の豊かな土地だったということもあり、それなりに安定した統治が続いていたそうです。

魅力……73 知力の項にも書いたとおり、彼は悪党というような存在ではありません。国民的な人気という点では蒋介石を上回ってすらいます。ですが、悪いタイミングで重慶を出て日本との交渉に向かったこともあり、彼の派閥の人以外は全く彼を信用しようとせず、党から除名されています。戦後も売国奴と言われ、ほとんど庇う人がいないことからも彼は強い魅力のある人ではないのでしょう。

 スキル:売国奴(死後、魅力がマイナス60される)

[3] ハーン 2007/02/19 16:17


列伝 高潔な売国奴

 広東省三水で生まれ、科挙に合格。清の国費留学生として日本に留学し法政大学を卒業した。
 日本で革命思想に染まって帰ってきて、溥儀の父醇親王の暗殺を計画するが、失敗して死刑を宣告される。この時は執行前に辛亥革命が起きて政権が転覆したので、生き延びることに成功した。
 釈放後は孫文の片腕として重用され、袁世凱に対する第二革命などに関与した。孫文の死後は国民党のナンバー1となったが、すぐに蒋介石が汪兆銘の協力していたと考えていた共産党を弾圧した関連で身の危険を感じたのか、外国に出奔した。
 帰国後は蒋介石との対決姿勢を見せたが、軍事的に劣勢であったことと、軍事畑出身であった蒋介石が彼の協力を欲したことで和解するが、これまで色々あったせいで、関係がしっくり来ず終始対立していました。
 日中戦争時は「一面抵抗、一面平和」の哲学で交渉に臨んでいたが、蒋介石の軍が割合あっさり負けてしまったことと、日本の交渉が稚拙であったことで頓挫しました。
 国民を戦乱から救うのだと重慶を脱出し、日本と単独で交渉を開始。この時の彼の意図がどこにあったのかはよく分からないのだが、色々あって日本と協力して国民を救おうという結論に達して南京政府を樹立するに至る。
 南京政府はどうにもよく分からない連中で、日本に協力していると思ったら、蒋介石と協力して共産ゲリラに攻撃を仕掛けたりしていた。一貫していないところが汪兆銘らしいといえばらしいが。
 東京で開かれた大東亜会議に南京国民政府代表として他のアジア諸国の首脳とともに出席。その後も南京政府と日本を往復したが、若い日に受けた狙撃の際の傷が原因で病状が悪化し、名古屋で死去した
 死後は南京に葬られたが、当時は日本の敗色が濃厚であったため、墓を暴かれるのを恐れ、コンクリートで固めたが、爆破されたのであんまり意味はなかった。

 政治が高く、統率と知力のそれほど高くない典型的な官僚です。特に知力が低いので、何度も判断を誤ります。統率と政治は水準以上なので、一省庁の長として使うのがいいでしょう。

 恐らくは、本気で一般民衆を塗炭の苦しみから救おうとした男だったのでしょう。一貫した戦略がなく、右往左往している姿からはとても積極的に自分が中国を支配するのだという気概は感じられません。全てが彼にとって想定外のことだったと思われます。残念なことに彼は人民を塗炭の苦しみから救えるような器ではありませんでした。

[4] マフムード 2007/02/21 13:32

殤帝(105-106)
後漢帝国 第5代皇帝(在位106)
活動地域:中華
本名:劉隆

【統率】2 いちおう皇帝なので、姿を現せば文武百官を跪拝させる。
【武力】0 はなはだつまらない数値であるが、これ以外に査定しようがない。
【知力】1 ふつうの乳児レベル。
【政治】0 彼が単独でなんらかの政治的行為を行なったとは、「政治的行為」の定義をどれほど広く取っても考えられない。
【魅力】40 指導者としてのカリスマ性のようなものはむろんなし。ふつうの乳児として保護欲をそそるには皇帝という称号が邪魔するし、といって天子という称号に付随するカリスマを発揮するには幼すぎるので凡人レベル最低値。

【列伝】殤帝 ——史上最年少の皇帝——
 後漢第4代皇帝和帝の子。和帝の死後、皇太后?氏によって生後百日で即位させられるが、半年ほどで崩御した。
母の胎内にいるときから皇帝とされたササン朝ペルシアのシャープール2世を除けば人類史上で最年少の君主である。

[5] マフムード 2007/02/21 13:45

>>4
前からやろうと思っていた人物ですが、ほとんどネタです。
どうやっても冗談にしかなりません。

>>2
あまりよく知らない人物ですが、列伝を読むと知力の低さが納得できます。
政治と魅力が相当高いのに、知力だけこれほど落差があるというのは
本人にとっても周りにとっても不幸なことなのでしょうね。

>前スレのグスタフ・アドルフとヴァレンシュタインについて

>ヴァレンシュタイン
そう、「史上最大」というところがポイントです(笑
彼の数値については、政治よりもむしろ知力をどうするか迷いました。彼による傭兵軍団の運営について、自分は知力のなかにいれて評価してます。
もともと知力をグスタフ以上にしようと思っていたのですが、最後の最後で晩年の無様が気になって、結局引き下げてあの数値にしたという裏事情があります。だから知力なり政治なりをもう少しあげてもいいと思います。
もっともどちらも、90を超えることはないと思いますが。片方でも90を越えていたらボヘミア王位ぐらいは獲得していたと思います。

>グスタフ・アドルフ
グスタフの政治はたしかに高すぎたかもしれません。これも実は当初考えていた数値を直前になって引き上げています。
いかにも英雄然とした人物だけに、無意識のうちになるべくトータルで高数値を与えてやりたくなったような感じもします。
4世紀経っても彼の魅力96は不滅のようです。でもたしかに、政治はもう少し下げたほうが適切でしょうね。

[6] ハーン 2007/02/22 14:58

>>4
 まあ、これは完全にネタですね。乳幼児までいってしまうと、フォローも不可能なのではないかと。

>>5
 本当に不幸だったと思います。高い政治と魅力で人を集め、低い知力で破滅に導くのですから。だからといって、自分よりは知力の高い蒋介石とは相性が悪いので、いつまでも一緒にはいられなかったでしょう。仮にいても、蒋介石が毛沢東に勝てたとは思えません。
 彼が幸福になる目は最初からなかったのかもしれません。

[7] 地理公 2007/02/24 20:37

>>4
メアリ・ステュアートは生後六日でスコットランド王位を継承したみたいです。

>>5
スウェーデンでの内政の成果は、グスタフ・アドルフ自身の政治力が高いというより
政治力の高い配下に任せた統率力の高さで表現したほうがそれっぽいかな、
と思いました。

[8] 越中守 2007/02/28 12:09

石田三成 1561-1600
治部少輔
【統率】56
「西軍をまとめられなかった」と評されることが多い彼ですが、そもそも石田家と徳川家では石高に差がありすぎます。
むしろ、寄せ集めとはいえ集団を組織したことを褒めるべきでしょうね。
ただし、これは政治、及び魅力に加算しますので、統率には加えません。
敗北を喫した関ヶ原ですら一人の裏切り者も出さなかった点は、部下への統率力として評価して良いとは考えます。

【武力】62
賤ヶ岳では同僚大谷吉継らと共に先駆け衆戦功(一番手柄)を立てている他、関ヶ原でも10倍近い敵軍を(最終的に敗れたとはいえ)半日以上持ちこたえるなど、難局でも粘り強い印象が強いですね。

【知力】69
兵站の重要性を熟知し、秀吉の早期天下統一に大きく貢献しています。
文禄の役でも、兵站の問題から戦線の縮小を提案し、諸将を説得していますので、戦略眼にプラスを。
福島や加藤など、豊臣恩顧の武将をも敵に回したとされることの多い彼ですが、豊臣政権は室町幕府と同じく基盤が脆弱であり、中央集権派と地方派との争いが絶えない状態にありました。
特に秀吉政権後期は両者の経済面での領地(勢力)争いが激化していましたので、一概に彼のみの性質のみに起因するとは言えません。
ただ、機転を示すエピソードの殆どは創作であろう点に留意が必要です。(江戸時代は儒教の影響で功利主義が悪と見なされた為、そのような逸話は三成のものとされた可能性があります)

【政治】81
秀吉政権下におけるプロジェクトの数々は、とても彼抜きには語ることが出来ないでしょう。
内政面でも領地内では善政を敷き、なんと直訴ですら認めていた程だと言います。
そして、本来勝ち目のない家康との戦いに互角まで持ち込めた組織運営能力は、当時の人間としては驚異的なレベルではないでしょうか。

【魅力】64
確かに敵の多い人物ではありましたが、「味方」からの評価は高いことが多く、佐竹義宣に至っては「治部が死んでは生き甲斐が無くなる」とまで言わせています。
また、行き場を失った蒲生家や豊臣秀次の旧臣の多数が彼の元に馳せ参じていることからも、人間的魅力はあったようです。

[9] 越中守 2007/02/28 12:25

【列伝】秀吉政権の官房長官

豊臣政権の五奉行の一人で、秀吉の天下統一に兵站面で大きな功績を残す。
秀吉晩年は、彼の無茶な命に従いつつも、自らの権限の及ぶ範囲で被害を最小限に抑えようとしていた節が窺える。例えばキリスト教徒弾圧の際、少しでも逮捕者を減らそうとしたり、豊臣秀次の助命嘆願に奔走したりと言った具合である。
秀吉・前田利家死後に徳川家康と対峙するも、関ヶ原で敗れて処刑された。

[10] 片田舎の偏屈士 2007/02/28 22:39

眉輪王(まよわのおおきみ)
450年 - 456年
【統率】0 幼子と言えど人々を率いることは可能だが、彼にその実績は無い。
【武力】5 不意を打ったとはいえ大人を殺害出来る力はある。
【知力】20 父の死の真相を知った直後に継父殺害への行動に移っている思いこみの強さ……もとい意志の強さ。七歳の子供とは思えません。
【政治】10 父親の仇討ちを行うに確実な瞬間を定められる程度の判断は持っていた。
【魅力】50 死の間際まで継父である安康天皇からも息子として扱われていたこともあり、子供としての魅力は備わっていたのだろう。

[11] 片田舎の偏屈士 2007/02/28 22:41

【列伝】恐るべき子供

第16代仁徳天皇の子である大草香皇子と履中天皇の皇女中蒂姫命の子として生まれる。
安康天皇の弟の大泊瀬皇子と大草香皇子妹の草香幡梭皇女を結婚させるため、命を受けた根使主が大草香皇子の元へ訪れると、その申し出を大草香皇子は快く承諾し、家宝の押木玉縵を天皇家へと差し出した。しかし、玉縵を受け取った根使主はその壮麗さのあまりに天皇に差し出すことに惜しくなり着服をしてしまい、大草香皇子が婚姻を拒絶したと嘘の報告をしたたため、怒った安康天皇は軍を差し向け大草香皇子を殺すと、草香幡梭皇女を弟と結婚させた後、大草香皇子の妻であった中蒂姫皇女を自らの妻にする。
中蒂姫皇女が皇后となったことで、その連れ子である眉輪王にも皇位継承の目もあったのだが、456年8月のある日、天皇が自らの本当の父を殺し、母を娶ったという話しをしているところを高殿の下で遊んでいる時に偶然に聞いてしまう。
父の死の事実を知った眉輪王は幼くして仇討ちを心に決め、その日の夜、熟睡する天皇を刺殺してしまう。
天皇の跡継ぎ候補とは言え、天皇殺しの罪は許されることもなく、すぐさま行動に移した大泊瀬皇子の手により、逃げ込んだ先の葛城円大臣と共に焼き殺されてしまう。享年七歳であった。

[12] 片田舎の偏屈士 2007/02/28 23:05

伝説の域を出ない時代の話しではありますが、恐らくは史上最年少の暗殺者です。
余りにも出来すぎた話で史実とは思えませんが、後の雄略天皇となる大泊瀬皇子の立ち回りの要領の良さからして、彼が何らかの形で関わっていた事実が改変されて伝えられたのではないかと思われます。

>>4
触発されました。しかし、乳幼児の評価まで行うには他のサンプルが少なすぎますね。いや、あっても無理ですな。

>>2
高潔な人って日本にもいましたけど、自己の価値観に潔癖でも、周りを活かせないと全てが不幸な結果に終わってしまいますね。

>>8
良い意味で官僚的な人だと思います。二番目だからこそ自分で出来ることをこなそうとしただけの人物。
現在で例えると会社で派閥を作りたがる体育会系に嫌われる仕事の出来る文系といったところでしょうか。

[13] ハーン 2007/03/02 19:30

>>8-9
 一応、手柄を立てているのに戦ベタとか言われているのが不憫ですね。それなのに政治畑にいったのは彼が官僚としてとても優秀だったからでしょう。
 数値には大体同意できますが、魅力は70あってもいいと思います。

>>10-11
 そりゃあ、ちょっと若すぎます。小説などで若い暗殺者が出てきますが、全然若いですね。

 次回は架空の人を準備しています。

[14] 越中守 2007/03/03 06:35

>>2-3
>>13
如何に本人の志が高くとも、その方法を間違えてはどうにもならないという好例のように思えます。

とりあえず、その魅力に触れた人にとっては限りなく魅力的な人物だったようで、例の忍城攻略で三成麾下に加えられた人物は、その後の関ヶ原でも殆どが彼の味方をしているようですね。
とはいえ、(特に政敵にとっては)主君の権力を笠に着る人間に見えたようで、その分はさっ引いております。
>>12
その通りだと言いたい所ですが、彼自身も豊臣政権を強くする派閥の一員であり、独立傾向を強めようとする福島や加藤らの領地をあの手この手で削り、自分の派閥の大名に分け与えています。
これが、彼が恨まれる最大の原因だったのですが・・・。

[15] 越中守 2007/03/03 07:23

個人的には好きなのですが・・・

宇喜多秀家 1572-1655
【統率】25
(様々な原因はありますが)御家騒動を起こす辺り、とても統率力があるとは思えません。

【武力】65
こちらはなかなか大したものです。
文禄の役では碧蹄館の戦いで活躍し、関ヶ原でも西軍でもっとも大きな働きをしたのは彼だったからです。

【知力】23
彼が独断で出陣式を執り行ったことが、関ヶ原での西軍敗北の大きな要因の1つとなっています。
彼の性急な挙兵の為、西軍は準備もろくに出来ないまま戦いに望むことになったのですから。

【政治】35
御家騒動では、当初調停を行っていた榊原康政を下がらせた上で、適度に弱った所を自らが介入するという家康の陰謀に嵌るなど、散々たるものです。
もっとも、相手があの家康では仕方ないのかも知れませんが。

【魅力】73
秀吉に寵愛され、正妻の豪姫との仲も良く、関ヶ原以降も島津や前田に助命嘆願されるなど、憎めない人物ではあったようです。

[16] 越中守 2007/03/03 09:16

【列伝】豊臣のプリンス
秀吉を通じて織田に臣従した宇喜多家の嫡男。
秀吉に寵愛され、豊臣一門の待遇を受ける。
正妻の豪姫が熱心なキリシタンだったこともあり、日蓮宗徒の多かった領内に改宗令を出したことが発端となり、御家騒動を起こす。
後の関ヶ原では西軍の副大将を務めた。
近年、関ヶ原の発起人は彼だという説が浮上。関ヶ原の2ヶ月前に独断で出陣式を行っており、石田三成らに十分な準備期間を与えなかったという。(有名なものとして、真田昌幸が「何故前もって知らせてくれなかったのか」という三成宛の手紙がある)
敗戦後、八丈島へ島流しに遭い、余生を送る。

[17] のんびり屋 2007/03/05 01:38

お久しぶりです。謙信に続いてこの人物をやらせていただきたいと思います。
武田信玄
1521年〜1573年(在位1541〜1573年)
甲斐守護 信濃守護 叡山大僧正
通称甲斐の虎
【統率】72
国人の寄せ集めであった武田軍を当時としては統制のとれた軍団に編成し、近隣に勢力を拡大した。義信事件の時も多くの家臣は信玄に背かず、その統制力もなかなかのものといえる。独自性の強かった国人達を、時間をかけて家臣化していき、組織体制を強化した。死後の武田家の足並みの乱れからもその存在の大きさがうかがえる。
【武力】74
生涯に多くの戦で勝ち、武田家を甲斐一国から百数十万石の大大名にまで拡大させる。名将として名高いが村上義清に2度敗北し、長野業政に苦戦したりもしている。しかし塩尻峠、三増峠、三方ヶ原など見るべき戦いも多く、優れた武将であることは確か。生涯のほとんどの戦を敵より優位な状況で戦っており、本質は戦う前に有利な状況を作り出す人物なのであろう。
【知力】82
調略や謀略を多用し勢力を拡大させる。前述の通り生涯のほとんどの戦で敵より優位な状況をつくりだしている手腕は見事。一時期上杉・北条・徳川に包囲網をしかれた事もあったが、あの手この手を駆使してそれらの動きを封じこめ、目的の駿河を奪取したばかりでなく北条との同盟まで復活させた。最後の西上作戦を見ても知略に長けていたことはうかがえる。しかしグランドデザインという点では信長には及ばない。

[18] のんびり屋 2007/03/05 01:38

【政治】83
飢饉や水害に悩まされる貧しい山国において、治水事業、新村開発、新田開発、金山開発、貨幣鋳造、商人・職人の保護育成、甲州法度の制定、度量衡の統一、税制改革などを行って国土の安定と発展を目指した。これらの中には後世に引き継がれたものもある。重税体質が指摘されるがそれを差し引いても優れた政治家といえる。有力国人を婚姻政策によって取り込んだり、家臣化を着実に進めたり、子飼いの家臣を取り立てて自己の権力を強化するなど抜け目がない。
【魅力】75
近年では肖像画に疑念が呈されている。持病も抱えていたとされ、それほどいかつい風貌ではなかったのではないかと思われる。しかし自らに宗教的権威などを用いてたくみに演出し、カリスマをつくり上げていたようだ。後に徳川史観の影響もあろうが、崇拝され現在においても地元では尊崇されている。

[19] のんびり屋 2007/03/05 01:39

【列伝】戦国屈指の知将
甲斐守護武田信虎の長男として生まれる。幼名は勝千代。元服して晴信。いつからかは不明だが父とは不仲であったらしい。強引な統治で国人達の不満を買っていた父信虎を追放して国主につく。国主となった後は信濃に侵攻し、紆余曲折を経てその大部分を手中にする。しかし上杉謙信に介入され、川中島で5回にわたって戦闘を繰り広げた後、北信濃の多くも制圧し信濃をほぼ手中に収める。その後は精強な箕輪衆を調略でゆさぶり、軍略で支城をつぶし、最終的に孤立させて大軍で総攻撃をかけるといううまいやり方で箕輪城を制圧し、西上野を手中に収める。三国同盟を結んでいた今川と対立し、方針の違いから嫡男義信を死に追いやる。今川を倒したことで北条・上杉・徳川に包囲される羽目になるが、各地の勢力をたくみに動かして敵をからめとった上で軍を動かし、最終的に駿河を制圧して北条との同盟も復活させる。その後は信長包囲網に参加して西上の軍を起こし、三方ヶ原で徳川家康と織田の連合軍を撃破するものの軍旅の途上で死去。

名将と呼ばれ、その軍才が有名な人ですが、本質は政治家・知略家であったと思います。
ちなみに彼の戦歴は山本勘介が死んだとされる1561年以降のほうがむしろ見事な戦が多い。
勘介が創作された人物であるならばむしろ1561年以降に盛り込んだほうがよかったのでは?と思ってしまいます。まあ、つまらない疑問ですが。

[20] ZIRIA 2007/03/05 01:59

阿野全成

強烈な兄弟を持つ男パート2

【統率】24
【武力】55
【知力】51
【政治】47
【魅力】60
【特殊能力】サバイバル

源義朝の七男。頼朝・範頼の異母弟
義経の同母兄。幼名今若丸。
妻は北条政子の妹。

【統率】弟の乙若や牛若と前後して頼朝のもとにはせ参じるも
平氏との戦いに参加したとの記述は無し。いきなり戦死した
乙若(義円)や粛清された範頼・義経と異なり、頼朝没後まで
生き残るも、結局頼家に粛清されました。
【武力】通称「悪禅師」「悪」といえば長兄の義平ですが、
この全成も力が強いことで有名だったとか。でも戦争には行かない…
【知力】頼朝の信頼を得て北条政子の妹を妻にもらっているくらいな
のでよほど立ち回りが上手かったのでしょう。非常に慎重な人物
であったとの評価もあり。
【政治】そしておそらく、源氏の一門では政治のサポートをしていた
のか、或いは何もしていなかったのか…
【魅力】地味な男。でも、実は将軍の地位にすごく近かった男。
だからこそ粛清された。御家人を省みない頼家に諫言したとも
比企氏&頼家陣営と北条氏の板ばさみになったとも。

[21] のんびり屋 2007/03/05 13:37

レス遅れました、すいません。
>>15
秀家は私も個人的には好きな人物です。
関が原の勇戦が有名ですし、朝鮮出兵でも活躍していますね。
能力に関してはほぼ同意です。
善良で勇敢なプリンスというのがよくあらわされていると思いました。しかしこの能力を見る限り、多少の将才はあっても乱世ではとても生きていけそうにない人ですね。父の直家の素質は受け継げなかったのでしょうか。まあ、苦労続きの父と違い秀吉の寵愛を受けて育ったのが大きいのでしょうが。

>>20
まさに目立たない人ですね。この人についてはあまり知らないのですがそこそこ有能な人物のようですね。大抵義経を扱った書籍やドラマでは今若は幼い牛若と生き別れになるくらいしか出番がありませんが
地味ながら歴史の舞台で活動していたのですね。しかし最後は粛清ですか・・・。源氏の一族間はぎすぎすしたところがありますね。

[22] 聖水大橋 2007/03/05 17:15

新スレ移行お疲れ様です。
まとめページの更新もそろそろどうでしょうか。

[23] ハーン 2007/03/06 12:46

>>15-16
 それほど詳しく知っている人物で張りませんが、事跡を見ると西軍は本当に纏まりがないですね。

>>17-19
 妥当だと思います。これだけあれば、初期状態の家康には余裕で勝てるでしょう。
 山本さんが川中島辺りで死んでいるのは、そうしないと勝頼の不明さを補佐しきれなかった、てことになるのを嫌がったからではないかと。
 念のために、勝頼は武力はかなり高いと思っています。他は微妙かもしれませんが。

>>20
 気分は……いたっけ、こんなの? てところです。
 周りが強烈だと、忘れ去られるいい見本かもしれません。

>>22
 その辺りは、さば缶さん次第でしょう。忙しい人のようなので、あまり更新はしてくれませんけど。

それでは、予告していた架空の人物を投下します。

[24] ハーン 2007/03/06 12:47

 キャスバル・ダイクン

 宇宙世紀0059年〜宇宙世紀0093年3月12日?

統率……90 ブレックスの死後にエゥーゴの最高指導者となり、最終決戦で生死不明となるまでエゥーゴを纏め続けました。第二次ネオ・ジオン抗争では自分で一から勢力を立ち上げてネオ・ジオンの総帥となり、アクシズによる地球寒冷化計画を推進しました。相手は常に彼の率いる勢力よりはるかに強大なのですから、その指導力には並々ならぬものがあると思われます。

武力……100 一年戦争当時は戦艦の艦長とMSのパイロットをしていました。これくらいなら、50あればいいほうですが、彼の軍事能力はグリプス戦役当時に花開きます。ブレックスの死後、エゥーゴの最高指導者として多くの戦闘を指揮してティターンズを壊滅させました。大きな軍を率いて勝利を重ねることで戦役を終結させた人物はガンダムシリーズには他に存在しないので、この項目は最高の評価を与えたいと思います(ブライト・ノアを押す意見もあるかもしれませんが)。よく知られていることですが、MSのパイロットとしては非常に卓越していました。

知力……95 ザビ家への復讐のためにジオン軍に入隊し、見事にそれを果たしまた。グリプス紛争では圧倒的に不利な状況からアクシズと組んだり離れたりしながら、ティターンズを倒しました。第二次ネオ・ジオン紛争では相手が知力の低い連邦政府の高官ということもありますが、敵を完全に手玉にとってアクシズをかっぱらって地球氷河期計画を成功する直前まで漕ぎ着けています。彼は常に不利な状況から戦略的状況を奪い取る名手でした。最大のミスはアムロにサイコフレームの技術を渡したことでしょう。

政治……84 大した基盤もないと思われるのに、一からネオ・ジオンを作り上げました。独自で数々の新理論を取り入れた新型のMSを作っているような組織を作っているのですから、低く評価することは非常に困難です。

魅力……95 彼自身のカリスマとジオン・ダイクンの息子ということが相まって、とてつもなく魅力的な人物となっています。ダカールでは一パイロットに過ぎない彼の演説でティターンズが大打撃を受けています。相手が魅力のそれほど高くないジャミトフというのを差し引いても、彼が魅力的な人物であるということの証左になると思われます。やっと自ら率いることに下ネオ・ジオンの総帥となると、スィート・ウォーターを中心に絶大な支持を集めました。血筋に負っているものが大きいというかもしれませんが、王族にも魅力のない人物はいくらでもいるので、それは考慮しないことにします。

[25] ハーン 2007/03/06 12:48

列伝 ジオンの落とし子(後世の批評家風)
 ジオン共和国大統領ジオン・ダイクンの子としてサイド3で生まれる。ジオン・ダイクンがザビ家との対立で殺されると、政治的に完全に浮いたため、サイド3を離れざるえなくなる。その時の経緯はよく分からないが、ジンバ、ランバのラル親子の手引きでサイド3を脱出したようである。
 南ヨーロッパのマス家というところに匿ってもらっていたようで、この頃はエドワゥ・マスと名乗っていた。その後、ザビ家に対する恨みから、シャア・アズナブルという死人の戸籍をぱくってジオンの士官学校に入った。士官学校で優秀な成績で卒業し、ガルマ・ザビの知遇を得たといわれている。入隊するとめきめきと頭角を表し、二十前半で大佐にまで昇進したという。
 一年戦争時は任務をこなしながら、ザビ家の人間に対する復讐を果たした。生涯のライバルである最強のMSパイロットとして名高いアムロ・レイと出会ったのもこの時期のようだ。
 このタフな男もさすがにドズル・ザビの娘である乳幼児のミネバにまでは復讐の刃を伸ばさず、一年戦争終了後に結成されたジオン残党最大の勢力アクシズで彼女を守り立てていた。何らかの形で彼女を何かと担がれるザビ家の呪縛から逃したいと考えていたようである。何時の頃か、細かい時期は今となっては分からないが、グリプス戦争のある時期に彼が何処かに連れ去ったらしい。
 このせいでミネバ・ザビについては様々な嘘か真か分からない話が数多く伝えられているが、それはここで扱うことではないので、深入りは避けることにしよう。何時の時代も、この手の伝説は人気があるということだろう。
 アクシズにいた時に摂政のハマーン・カーンと恋愛関係にあった模様で、そのもつれが原因で、グリプス戦争時に対立したらしい。なんとも閉まらない話だが、他の事はともかく女性関係がそれほど芳しくないのを見るとありえそうな話である。
 ハマーンとの痴話喧嘩が原因なのか、それとも別に理由があったのかはよく分からないが、地球圏への偵察の名目でアクシズを離れ、クワトロ・バジーナと名を変えてエゥーゴに入る。MS開発に関わっていたようである。
 グリプス戦争の中盤にブレックスが暗殺されるとエゥーゴの最高指導者となり、同戦争を終わらせる。ティターンズとの決戦で行方不明となる。この頃の足取りはよく分からないが、どうも連邦政府が気に入らなかったようで、自分で一から新組織を作るために策動していたようである。まあ、あれだけの戦力を蜂起するまで悟られなかったのは大したものである。

[26] ハーン 2007/03/06 12:48

 ネオ・ジオンを結成し、連邦政府に弾圧されるスペースノイドのために立ち上がったらしいが、その手段がこれまた凄い。地球に隕石を落として、地球上に住む全ての人間を排除することで、人類が戦争を起こさないようにするという。よく分からないが、どうもこれで地球から人類を追い出し、地球を自然のなかに帰し、再生させるのだという理屈もくっ付いている。この男が言うには、地球にはしばらく休んでもらうのだそうだ。
 よくもまあ、こんな狂った計画を支持した連中がいるものと思う。というより、お前のやっていることが最大の自然破壊だろうが。同時代人のジャミトフが似たようなこと(戦争を利用して人口を減らし、地球の自然を回復とか何とか)を考えていたと言われているが、この男はさすがに口外するのは拙いと思ったのか、周囲の人物にもすぐにそれと分かるような発言はしていない。つまり、この男はそんないかれた政策を披露し、それで絶大な支持を勝ち得たのである。時代の空気というものがあるのは理解しているが、ここまでくるとわけが分からない。
 よくもまあ、こんな政策が受け入れられたものである。もっと言いたいことはあるが、ここはとりあえず、連邦政府がそれだけ無能で残酷だったと結論付けることにしよう。時代の空気は後の世の人間には分からないものである。
 5thルナをラサに落とした後、連邦政府を手玉にとってアクシズを地球に叩き込む直前までこぎつけるが、かねてからライバル視していたアムロに陣頭で指揮をとっていたところを見つかって撃墜される。なんで総帥が最前線で、と思う向きもあろうが、どうもミノフスキー粒子とMSが発展してからは、比較的よくある光景だったようである。他にもパプティマス・シロッコやハマーン・カーン、ミリアルド・ピースクラフト、ギム・ギンガナムと枚挙暇がない。そもそも、この男はグリプス戦争時にも同様の理由で行方不明になったものである。
 撃墜された後はアムロにアクシズの落下阻止に向かわされたというが、その後の生死は不明。死んだという話も聞くし、死ななかったという話も聞くので、どうにもよく分からない。後の時代に冷凍刑に処され、ギム・ギンガナムの起こした反乱で戦死したコレン・ナンダーというパイロットが彼ではないかとも言われているが、定かではない(コレン・ナンダーについてはミリアルド・ピースクラフト説もある)。
 それにしても、宇宙世紀になってまで、最後のはっきりしない人物も珍しい。一市民風情なら、いくらでもあるが、それが指導者ともなると不思議なくらいである。今となっては、ミネバ・ザビ同様に真相を知る術はないのだろう。

 すみません、インチキみたいな能力です。ですが、彼の活躍を振り返ってみると、彼の実力が並々ならぬものであることが分かります。個人的な事情で大きなポカもやらかしていますが、それがなければ彼を阻止することは非常に困難だったでしょう。

[27] ハーン 2007/03/06 12:48

ついでに作った100候補。完全にネタです。

 各項目TOP候補(ガンダムシリーズ)

統率……ギレン(1st) レビル(1st) ザイデル(X)

武力……キャスバル(逆シャア) ドズル(1st)

知力……キャスバル(逆シャア) ギレン(1st) ハマーン(ZZ)

政治……デュランダル(種) ドゥガチ(V) ラクス(種)

魅力……ギレン(1st) マリア(V) ラクス(種) リリーナ(W)

[28] ZIRIA 2007/03/06 22:36

>>20 補足
長男 義平 「悪源太」
 兎に角強かったらしい。平治の乱で敗れるも平清盛暗殺を
 謀り、捕らえられて斬首。パワフルなお兄さん。
次男 朝長
 平治の乱で受傷し、父・兄と落ち延びている間に傷の悪化
 で落命。泣き言を言って親父に怒られる役が何だか弱っちい。
四男 義門
 平治の乱の時には生きていたらしいが、比較的早世。一番影が
 薄い人。
五男 希義
 頼朝の実弟らしい。頼朝挙兵と同時期に土佐で挙兵するも敗死。
 子孫が吉良氏として残る。
八男 義円 乙若丸
 義経の実兄。兄弟達と相次いで頼朝の部下になるもあっさり戦死。
 結構激しい性格だったらしい。

[29] 「ど」の字 2007/03/09 01:50

>>24-26
 大作、お疲れ様でした。
 この架空の人も色々と評伝が立つ人ですね。
(最近では皆川ゆか女史の手による二冊の本が有名。自分は読んでませんが)

 時代を動かすには十分な才覚を持っていたとは思います。
 宇宙世紀におけるカエサルと言ってもいいくらい多芸多才でした。
 しかしこの人、時代を治めるという考え方はあったのでしょうか?
 地球圏共同体を戦禍や混乱から回復させるグランドデザインの欠如は、かなりの減点要素ではないかと思うのですが。
 しかし、それを考慮してもあの時代では突出した偉人であります。
 良くアムロ・レイやブライト・ノアと比較されることもありますが、彼らはちょっと小粒です。アムロは結局一介のパイロットでしたし、ブライトは戦術指揮官止まりの人物でした(それぞれの分野では時代でも突き抜けて一番の人だったでしょうが)。

 宇宙世紀時代の不幸は、最大の共同体である地球連邦政府に人を得なかったことでしょうね。

[30] ハーン 2007/03/09 20:22

>>29
 グタンドデザインに関しては思うことがありましたが、それを言い出すとガンダム世界の為政者の大半が自分の志を果たす前に死んでいたりするので、どうしても彼より高そうな人物がギレンかハマーンくらいしかいなくなり、結果として彼が最高クラスの知力になってしまうのです。ラクス辺りも考えましたが、彼女の思想はそれこそギム・ギンガナム以上に意味不明なので外しました。
 私もアムロやブライトとの比較は難しいと考えています。近代史で言えばヒトラーとオットー・カリウス(ドイツ最強の戦車兵の一人)を比較することくらい無茶な話です。長い間接することがあったから、そういうことになったのだと思いますが。

[31] のんびり屋 2007/03/09 22:20

>>24-26
ハーンさん、大作お疲れさまです。
しかしすごいですね、この能力は。
歴史上の並みいる英雄達さえかすんで見えます。
アレクサンドロス級でしょうか?
Zはカミーユの視点で物語が進むのでいまいちキャスパルの指導で
勝っているという印象が持ちにくいところもあったのですが
いわれてみると納得です。グリプスの最終決戦でティターンズの勢力を壊滅させたのは本当に見事だと思います。
しかしアムロとの最終決戦は無理に戦う必要はあったのでしょうか?
いまだに疑問に思ってしまいます。まあ、そうしないと物語上まずいのかもしれませんが。
ラクスは作品を見ている限りやたらと強力なカリスマ性で無理やり時代を動かしているように見えてとても知力が高いとは思えないのですが・・・。作品を見る力が足りないならすいません。

[32] 片田舎の偏屈士 2007/03/09 23:43

>>24-26
おおぅ!
これはやられました。自分も一度は考えたけど止めたガンダムネタ。お疲れ様でした。
しかし、ガンダムシリーズにおいて総合的に彼に匹敵しそうな人物というとウィングのトレーズとゼクスくらいかなぁ・・・?
(武力100候補には東方不敗もOKかも)

ガンダム(�)を数値化するとインフレ率が高いので難しいんですよね。特にザビ家の面々。
個人的に高評価したいのはキシリアとマ・クベ。立場上、能力を発揮できずにいたように思われますが、問題は魅力になってしまうので、ついていく人たちがいるのかどうか。

この手の作品は物語の都合上、本人が成そうとする事柄に対し重要な要素が知力なのか魅力なのか曖昧な点があるので、数値化が困難かと思います。
特に種シリーズは展開上の強引さ故に根拠も信念も無視して進んでしまいますので、結果的に歪な能力値に・・・。

[33] ハーン 2007/03/10 16:19

>>31
 これは高すぎたか? と思いながらやってました。ですが、宇宙世紀最大の英雄であることは疑いないと思います。まあ、無理にアムロと戦う必要はなかったでしょうけど。
 ラクスについては、ちょっと話がそれますが、デュランダルを政治100の候補にしたのは政略で地球圏全体の世論を自分の方に引き込んだということを評価してのことです。
 ラクスもその点を知力か政治で現そうとして、結局オーブから兵を借りて戦争(乗っ取ったようにしか見えないのは気のせいだろうか?)やったり、種死の最後にプラント・オーブの講和を成立させたことや、何時の間にか最高評議会議長に納まっているぽいのを見て政治の方に加算しました。
 それを差し引いても結構知力は高いと思います。MMRまがいの捜査で裏の陰謀を摘発するんですから、たいしたものです(ほとんど皮肉)。

>>32
 総合的に匹敵するのはその二人くらいしかいないでしょうね。ハマーンはガンダムシリーズでも珍しい一軍団を率いられての反乱を起こされているので、統率に辛い点数をつけることになると思います。
 キシリアは統率と政治が高そうです。マ・クベは意外と武力が高いと思います。何だかんだ言って、オデッサほど大きな戦いは珍しいですし、寡兵で結構頑張ってました。
 ラクスはまだ死んだという話はないので暫定ですが、相当高い能力がつくと思います。多分、種シリーズ最強の能力がつくと思います。

[34] マフムード 2007/03/16 10:26

アブラハム(紀元前19世紀〜紀元前18世紀頃?)
ヘブル族の族長
活動地域:メソポタミア、シリア、エジプト

【統率】70
 部族の人数が増えすぎたときに牧民分割せざるを得なかったが、それ以外でとくに内紛などがあったという記録はない。ただし妻たちの争いは裁ききれず、都合が悪くなると側女のハガルと庶子のイシュマエルを部族から追放してお茶を濁した。

【武力】66
 南カナン諸部族がエラム王ゲダルラオメルに反乱を起こしたさい、反乱側に加勢して318人の奴隷とともにエラム軍に夜襲をかけ、ダマスクス北方まで駆逐した。(創世記14章)

【知力】25
 エジプトに行った時、妻の美貌のために災いをこうむることを恐れて妻を妹と偽ったところ、妻が王に取り上げられてしまった。幸いこのときは神の加護か偶然かで事なきを得たものの、ゲラルに滞在したときも同じ方策を採って同じ失敗をした。
 牧民分割のさい、格下の甥にあっさり条件のいい牧地を取られ、自分は不毛なヨルダン川西岸に行かざるを得なかった。
 晩年、子どもがないことを憂える彼に神が息子の誕生を予言したにもかかわらずまったく信じなかった。また、神が試練かブラックジョークかは知らないが、その子供を殺して生贄に捧げるよう命じると、(創世記の文章を読む限り)ろくに悩みもせずにホイホイと応じているあたりが・・・。

【政治】85
 ある日、神と神の僕たちが彼の天幕を訪れた(と書いてある)。神は堕落したソドムとゴモラの民を絶滅することを告げるが、アブラハムは甥のロトがソドムで暮らしていたため、一定数の正しい者が存在すれば破滅を免除することを願い出て許された。おまけにその資格人数を6回もせり下げた。神を相手にここまでやれる人間は少ないと思われる。

【魅力】76
 妻の葬儀で先住民たちに墓地を譲ってくれるよう頼んだとき、「あなたは神のような方です」と持ち上げられ、墓地ばかりか耕作地まで無償で提供しようという申し出を受けている。(創世記23章)

【列伝】アブラハム ——諸民族の父——

 旧約聖書に登場する伝説的な人物。ヘブライ人の祖であり、ノアの洪水以後の時代で最初の預言者とされる。イスラームでは人類最初のハニーフ(唯一神崇拝者)にして、アラブ人の始祖イスマーイールの父、イブラーヒームとされている。
 以下、いちおう史上実在の人物と仮定して、比較的蓋然性の高い伝記を再構成する。

 初名はアブラム。のちに部族神のお告げで「多くの民の父」を意味する「アブラハム」に改名した。
 シュメール諸都市の郊外で暮らすアラム系遊牧部族の長、テラの子として生まれる。テラはウル第三王朝末期の混乱を逃れてシリア北部へ移住し、そこで死んだ。アブラムはテラの牧民を受け継いで生涯の大半をハッラーン近辺で過ごしたが、環境の悪化により水と牧草を求めて南下してエジプトに向かい、結局ヨルダン渓谷に落ち着いた。しかし牧地が不足したために甥のロトと協議して牧民を分割し、ヨルダン川西岸のカナン地方をテリトリーとする。
 晩年、カナン先住諸集団の指導者たちとともにエラム人の侵攻を撃退。ゲラルの王アビメレクと相互保護協定を結んで地歩を固め、豊かな畜群と牧民を息子イサク(イツハーク)に遺して高齢で世を去った。
 部族神への厚い信仰で知られ、晩年に息子を得たのも神の恩寵と考え、神への感謝の証しとして属民たちに割礼を命じている。

[35] マフムード 2007/03/16 18:03

>>7
メアリ・スチュアート! そういえば・・・忘れてました。
「人類史上最年少の皇帝」としたほうが正しかったですね。

>>15
碧蹄館の戦いで思いつきましたが、そのうち対戦相手の李如松を評価してもおもしろそうです。
明史列伝を読む時間があるかどうかわからないので、予告じゃないですが・・・そのうちやるかも知れません。

[36] 越中守 2007/03/19 07:26

>34-35
旧約聖書に登場する人物の評価は難しいものがありますが、それでもここまで詳しく評価出来るのは素晴らしいことだと思います。

李如松ですか。
反乱鎮圧の最中にあっけなく殺されてしまう辺りに、なんとなく哀愁を感じる人物ですね。
個人的には興味のある人物ですので、楽しみにしておりますね。

[37] 越中守 2007/03/19 08:13

イシュトヴァーン1世 969?-1038

ハンガリー王国初代国王

【統率】69
ハンガリーの諸部族をまとめ上げ、ハンガリー王国を打ち立てた。
この時のハンガリー王国領は、第一世界大戦直後のトリアノン条約まで「ハンガリー」と(少なくとも、ハンガリー側からは)された地域である。現在のハンガリー共和国領よりも遙かに広大であった。

【武力】69
神聖ローマ帝国と結び、対立するハンガリーの諸部族を撃ち破り、ハンガリー統一を成した。
とはいえ、対外的な遠征を特に行ったわけではないので、武力は60台とする。

【知力】69
それまでのハンガリーはマジャル人の伝統的宗教が主流であった。
だが、955年のレヒフェルトの戦いで神聖ローマ帝国に敗れて以降、徐々にマジャル人は劣勢となっていく。
イシュトヴァーンの父ゲーザは、この状況を打破する為にキリスト教を受け入れていく方針に転換した。
イシュトヴァーンもその方針を受け継ぎ、洗礼を受けるのである。
マジャル人がキリスト教化されたことで、神聖ローマ帝国にマジャル人討伐の大義名分を失わせたばかりでなく、友好を結んだことは大いに意義があろう。

【政治】71
国内に10の司教区を設立し、改めてキリスト教社会の一員となったことを強調させた。
また、ハンガリー王国(キリスト教社会における、世俗においての「王国」の成立)の初代国王となった点も、ここで評価する。

【魅力】72
ハンガリーをキリスト教化したことにより、後に聖人に列せられる。
現在でもハンガリーの開祖として名高く、彼の名を冠した祝日がある程。

[38] 越中守 2007/03/19 08:33

【列伝】ハンガリー王国の開祖

本名はヴァイク。
997年に遊牧民族(といっても、当時のマジャル人は半牧畜、半農耕であるが)マジャル人の大首長に就任。
自らと敵対する諸部族を撃ち破り、洗礼によってイシュトヴァーンと名乗る。
1000年12月25日(1001年1月1日説有り)にローマ教皇シルウェステル2世より贈られた王冠を用い、神聖ローマ皇帝オットー3世の同意を得て戴冠、ハンガリー王国を建国する。
(当時のカトリックの世俗社会の名目上の頂点は神聖ローマ皇帝であり、各地の国王は(無論名目上だが)皇帝の代理統治という扱いであった)
妻ギゼラ(バイエルン公の娘)との間に生まれた子ども全員に先立たれ、後継者に恵まれなかった。
彼の死後、ハンガリーは30年に渡っての混乱期を迎えるのである。

彼が即位した際のハンガリー王国の領土は、「神聖なるイシュトヴァーン王冠の王国」とされ、後の時代までハンガリーの「固有の領土」と主張されることになる。
特に1920年のトリアノン条約で領地が大幅に削られた際、連合国への反感が大いに高まり、第二次世界大戦での枢軸国での参加の原因の大きな要素となったり、現在でもトランシルヴァニア地方などを巡って周辺諸国との対立の種にもなっている。

余談ながら、ハンガリーには彼の右手のミイラが聖遺物として保管されている。

[39] マフムード 2007/03/19 23:57

アブラハムはほとんど冗談です(笑)
いざ創世記を見たら、予想以上に使える情報が少なかったです。
実在性はさておき、人類の精神史上決して無視できないキーパーソンなのに。

イシュトヴァーンとは、目の付け所がいいですね。
中欧の英雄王として気になる存在でありながら、情報が少ない。
誰かがいつか評価するだろうと思ってはいましたが、やっぱり細部不詳が厄介なとこですね。
こういう人は、なまじ本気で洋書とか使って調べれば、評価数値がどんどん変わっていきそうで怖いです。
でもいつまで経っても誰も評価しないと、それはそれで落ち着かない、という感じです(笑)

数値については知識不足でなんともいえません。
魅力がもうちょっとあってもいい気がするものの、後世の伝説が多すぎて判断しきれませんね・・・。

[40] 越中守 2007/03/22 05:46

>>39
有り難うございます。
ですが、当方ただのハンガリーマニアなので、ハンガリーの王を評価してみたいと思っただけなのです。
彼の地の研究と言えば、日本では南塚信吾氏が著名ですが…

後世の伝説は出来る限り排除し、主に実績より判断するように心がけています。

[41] 越中守 2007/03/22 07:31

評価は難しいと思われますが、この二人(セットで数値化します)を。

カール=マルクス 1818-1883
【統率】43
「何かを統率する」ということにかけては、これといって何もない。
一度ライン新聞の編集長を務めたことはあるようなので、その分をプラス。

【武力】32
こちらも特にこれと言った業績はない。

【知力】21
哲学者・経済学者としては(特に前者に)天才的と言って良いほど優れていたが、実生活は浪費家で、むしろ甲斐性なしに等しかった。
ロンドン時代は極貧といってよい生活を送っていたらしく、エンゲルスの援助がなければ、暮らしていくことは到底不可能だったろう。

【政治】26
あくまで彼は学者であり、政治家ではなかった。
思想的には「共産主義」で神格化されるが、彼自身は政府に噛みついて失職したこともあり、素養すら見出すことは出来ない。

【魅力】43
性格はかなり悪く、敵も多かったという。
だが、エンゲルスやハイネといった知己を得たことが彼の人生に幸いした。
特にエンゲルスとの親交は、それだけでも魅力に+10に値すると考え、最終的にこの数値とした。

特殊能力:哲学・経済学(哲学・経済学の分野に限り、知力に+70)
彼にとっては不本意かもしれないだろうが、彼の本質はヘーゲルの理論を批判しつつも発展させた哲学者であった。
後世に(良くも悪くも)与えた影響の大きさからも、経済学にも大きくプラスポイントをつける。
(ちなみに、私は、西洋哲学の知力90台後半はカントとヘーゲル、100はアリストテレスにつけられるものだと考える)

[42] 越中守 2007/03/22 08:01

フリードリヒ=エンゲルス 1820-1895

【統率】58
彼の本職は実業家で、紡績工場の共同経営者であった。
そのことから、一応プラス。

【武力】57
元近衛野戦砲兵隊。軍事論文も多数残しているらしいことから、少なくとも知識に関しては専門家レベルだったと言える。
一応武力に換算。

【知力】68
弁舌に優れていて、マルクス死後も常に一線級の「弁士」であり続けたらしい。

【政治】72
ビジネスマンとしては非常に有能。
数ヶ国語を操り、自らの経営する会社を大いに発展させたという。
社交界での評判も上々。
もしも共産主義に目覚めなければ、上流階級として一生を送れたのではあるまいか。
また、悪筆で有名だったマルクスのメモ(一説では、メモだけでも数立方メートルにも及んだと言われる)をまとめ、著書にしただけでも、この能力は高く見積もる必要があろう(苦笑

【魅力】71
高身長高収入といった、これで学歴さえ揃えば、どこぞの時代のどこぞの国での理想の結婚相手に選ばれそうな人物だったらしい。
幼い頃から社交的で、成長してからも乗馬を趣味とし、酒にも造詣が深かったそうである。
性格も親友マルクスとは対照的なほどに良かったとされる。

[43] 越中守 2007/03/22 08:11

【列伝】共産党宣言のコンビ
性格が悪く、甲斐性なしだが頭脳だけは天才のマルクスと、盟友にして実生活面での彼のスポンサーでもあったエンゲルス。
出会った頃はマルクスが一方的にエンゲルスを嫌っていたらしいが、後に和解する。
1848年、有名なパンフレット「共産党宣言」を発表するものの、欧州大陸の各国から国外追放処分を受ける。
唯一受け入れてくれたイギリスのマンチェスターで活動を続ける。
やがて完成した「資本論」は、現代でもよく知られた古典である。
彼らの行動は(良いか悪いかは別として)、その後の歴史に大きな影響を与えた。
(例えば、我々が当たり前のように使う「資本主義」という言葉も、元々はマルクスの造語であり、その影響が窺える)

[44] マフムード 2007/03/23 00:26

耶律阿保機(872-926)
契丹帝国 初代皇帝(在位907-926)
廟号:太祖 諱:億 幼名:啜里只
活動地域:華北、内蒙古、遼西、渤海

【統率】79

 長い伝統を持つ可汗交代制を廃して世襲支配を確立。契丹帝国の国制を完全に確立したのはのちの太宗や聖宗だが、耶律氏の専制権や多民族支配のあり方など、契丹国家の原型的な部分は、多くが阿保機によって基礎を据えられた。たびたび反乱があったことを考えても、このくらいの数値はつけられる。

【武力】75

 遊牧英雄としては意外なことに、阿保機が前線で指揮をとったことを記す明確な記録は乏しい。経歴から見ても彼は軍人というよりも組織者・政略家であった。しかし西方遠征や、弱体化していたとはいえ迅速な渤海国制圧などから水準以上の能力はあったと思われる。
 ただ、純粋に軍事能力だけでいうなら、おそらくこの時代で最強の武将は沙陀の李存勗であろう。

【知力】79

 冷静で慎重な性格だったと思しく、広大な版図のわりに派手な外征の記録には乏しい。華北の混乱をよそに着実に国家建設に励み、唐朝滅亡後の東アジアで最大の勢力を確立する。やはり軍人より政治家としての色彩が強い。
 また朔北と中国にまたがる微妙な地域に国を建てながらも一方に傾かない国家体制を築くことに成功し、モンゴルをはじめ、のちの征服諸王朝の範例となった。

【政治】81

 硬軟取り混ぜた手段によって契丹族を統合して新国家を建設する。また早い時期から後梁と沙陀を秤にかけ、両者と和戦を繰り返しながら華北情勢のキャスティングボードを握り続けた。

【魅力】65

 個人として優れた戦士で身長九尺の偉丈夫であったと伝えられるが、人柄を示すようなエピソードには乏しい。しかし一般的に遊牧集団の指導者にはある程度の魅力が求められると思われるので、この数値とする。

【列伝】耶律阿保機 ——キタイの建国者——

 契丹・遼帝国(キタイ)の太祖。名前の契丹語原音はアブーチ、アポキン、アバキーなど諸説あるが定かでない。
 中国北方の遼河流域で活動していた遊牧民、契丹族の迭刺(デレ)部のイルキン(部族長)、撒刺的(サラディ)の子として生まれる。当時契丹族は八つの部族の連合体であり、各部族の長が三年交代で契丹全体の指導者たる可汗(カガン)となっていた。
 901年、阿保機は痕徳菫可汗によって迭刺部のイルキンに任じられ、女真やケイなど周辺諸勢力への外を繰り返した。
 中国で唐王朝が滅んだ907年、阿保機は自らの実力と声望を背景に、全契丹を統括する可汗の地位についた。その前後の事情については謎が多く、平和交代説と武力奪位説がある。阿保機は以来九年にわたって可汗位を独占し、916年他部族の長たちを謀殺して中国式の第二次即位式を行い、その支配をいちおう確立した。
 同年、阿保機は河西方面への親征に出て西方を固め、間髪をいれず東へ転じて大同盆地を制圧した。翌年さらに河北平野への侵攻を試みるが、沙陀(のちの後唐)軍の抵抗によって撤退。当面のあいだ阿保機は首都・上京の建設や契丹文字の制定、政府機構の整備など内政に努めた。921年には再び河北を侵すが、李存勗率いる沙陀軍の猛抵抗によってまたも撤退。
 925年、阿保機は将来の華北進出へ向けた地盤固めとして、東方の渤海国へ侵攻する。契丹軍はわずか二ヶ月で渤海王を降し、渤海国を改めて東丹国とした。その後、阿保機は沙陀(後唐)の李存勗政権の動揺を知って、長子・人皇王突欲(トヨク)を東丹王に封じて急ぎ軍を返すが、本国へ帰還する途中で病を発して陣中に崩じた。

[45] ひよこ侍 2007/03/24 03:28

アーネスト=シャクルトン(1874-1922)

イギリス/アイルランドの探検家

【統率】90
南極大陸への探検中に座礁したエンデュアランス号の乗組員27名を
1年8ヶ月にわたり指揮し、一人の命も落とすことなく全員の脱出に成功した。
十分超人的なリーダーシップ能力だが、対象組織が小さいため入口レベルとした。

【武力】55
特に対人戦闘を指揮した事実はないと思われるが、
南極大陸での食料を得るため対動物の狩りを脱落者なく指揮したためこの数値とした。

【知力】88
一歩間違えば全滅と言う選択肢でことごとくベストを選択した判断力。
「求む男子。至難の旅。僅かな報酬。極寒。暗黒の長い日々。
絶えざる危険。生還の保証なし。成功の暁には名誉と賞賛を得る。」
有名な隊員募集キャッチコピー作成能力から

【政治】63
エンデュアランス号出航時は第一次世界大戦下であり、政府の出航許可が下りなかったが、時の大臣チャーチルを説得し出航に漕ぎ着けた。
探検資金の資金繰りを行い、何度も実行に漕ぎ着けていることからある程度の政治力はあったとするべきだろう。

【魅力】85
4度の南極探検により、当時から国民的な英雄でナイトも叙勲している。
極限下において常に楽天的であり冗談を絶やさぬよう努め、探検隊の士気向上させたことから相当の魅力があったと思われるが癇癪持ちの面もあることから一級レベルとした。

【特殊能力/修正】全滅回避/外洋移動距離+5/部隊士気+10

【列伝】シャクルトン ——エンデュアランス号の奇跡——

イギリス/アイルランドの探検家。スコットに同行した南極探検を皮切りに4度南極探検を行った。
中でも南極大陸徒歩横断を目指し1914年に出発したエンデュアランス号による探検は、南極ウェッデル海で氷洋に囲まれ船の座礁そして崩壊という探検隊全滅の危機に陥った。しかし、個性的な隊員をよくまとめ1年8ヶ月にわたる脱出行を敢行し死者をだすことなく全員生還したことで今でも極限下でのリーダーシップのお手本とされる。
1922年 南極探検に向かう途中のサウスジョージア島で心臓発作にて急逝し今もその地に眠る。

「ライオンとして死ぬよりロバとして生きたい」
アーネスト=シャクルトン

[46] マフムード 2007/03/25 21:31

ドルゴン(1612-1650)
大清帝国の皇族、睿親王、皇父摂政王
活動地域:満洲、中華

【統率】85

 部族連合体制から脱却してまもない満洲国家を解体させることなく、幼君のもとで中国進出の激動期を巧みに乗り切る。明の支配機構と満洲族の支配機構を融合させ、清朝中国統治の基礎を築く。大清帝国の第二の建国者といっても過言でない。

【武力】74

 早くから多くの戦いで活躍し、チャハル部討伐では功績第一として墨爾根岱青(メルゲンタイチン、勇者)の称号を賜る。しかし明との戦いで苦戦して降格されたこともあり、文句無しに名将といいきれるほどではない。

【知力】85

 幼いころから非常に聡明で、ヌルハチがひそかに後継者に擬していたといわれるほど。一歩間違えれば国家消滅を招きかねない状況のなかで独裁権力を握って強力に政権を指導し、予期せぬ突然の明朝滅亡にあたっても機を逸することなく中国進出を決断し、ほとんど一瞬のうちに北京無血入城を達成。明の宮廷が堕落と混乱のきわみに達していたとはいえ、これほど鮮やかな政権交代は古今に稀であろう。

【政治】79

 勲功多しといえども、同格の皇族たちをわずかのうちに蹴落として事実上の皇帝となる。大勢はともあれ、その時点では予想も準備もしていなかった突然の明朝滅亡に際しても冷静適切に対応し、短期間のうちに安定した華北支配を実現した。

【魅力】36

 きわめて犀利かつ冷厳で、多くの人々に恐れられた。

【列伝】ドルゴン ——清初の摂政王——

 漢字表記は多爾袞。称号は睿親王(えいしんのう)。九王とも呼ばれた。清の太祖ヌルハチの第十四子。太宗ホンタイジの死後、幼い順治帝を補佐して事実上の最高権力者となり、明の滅亡を受けて中国進出を達成した。

 後金国(後の清朝)の建国者ヌルハチと寵妃ウラナラ氏のあいだに生まれる。幼いころから聡明であったという。太宗ホンタイジのもとでチャハル部・明・朝鮮との戦いに加わって戦功を重ね、1636年に睿親王の称号を得る。1643年に太宗が崩じると、遺命によって従兄ジルガランとともに摂政として幼い順治帝福臨(フーリン)を補佐するが、ドルゴンはまもなく弟のアジゲ・ドドなど反対派を粛清し、ジルガランを抑えて独裁権力を掌握した。
 翌1644年に大将軍として明国遠征に向かうが、ときに流賊・李自成が北京を陥として崇禎帝を自害させ、明朝が滅亡したという急報が届いた。このとき明朝最前線である万里の長城の東端・山海関を守っていた呉三桂は李自成を討つため(私怨が絡んでいたという伝説もあるが)に本来の敵である清軍の力を借りることを請うた。ドルゴンはこの機をとらえて呉三桂を清に帰服させて山海関で李自成軍を撃破し、明朝の仇を報じるという名目のもとに北京に入城した。
 ドルゴンは直ちに減税、特赦・薙髪令などの諸法令を矢継ぎ早に発布し、同年内に順治帝を北京に迎えて従来の瀋陽から北京に遷都する旨を宣言し、中国支配の恒久化をはかった。
 入関後、ドルゴンは順治帝の生母を妻とし、皇父摂政王の称号を帯びて事実上の皇帝としてふるまったが、1650年に狩猟中の事故によって急死した。専権をふるったドルゴンに怨みを抱いていた順治帝は大逆の陰謀を理由にドルゴンからあらゆる爵位や称号を剥奪したが、乾隆帝の時代になって名誉が回復された。

[47] ハーン 2007/03/26 10:38

>>41-43
 赤い教祖がたとは。マルクスの生活力のなさがいい感じです。
 マルクスのデータには相当な誤りや恣意が入っていたそうですが、影響力を踏まえれば90は動かせないでしょうね。
 近代哲学を見ると、やけにドイツ人の名が多いので驚きます。ドイツ語は哲学を考えるのに適しているのでしょうか?

>>44
 かなり強そうなイメージがあったのですが、そうでもないですね。

>>45
 史上屈指の探検家ですね。あの状況で生還だけでも十分凄いのに、一人も欠けないでそれを成し遂げたのは超人としか言いようがないと思います。

>>46
 この人の魅力はやっぱり低くなるんですね。まあ、悪い噂くらいしか聞かないので、当然ですが。
 父上のヌルハチはどんな感じでしょ?

[48] ハーン 2007/03/26 10:39

 李自成

万暦三十四(1606年) - 順治元年(1645年)

統率……73 数十万(この数字がどこまで信じられるか、という話は置いていおくとして)の流賊の大軍を指揮しました。

武力……70 官軍に勝ったり負けたりを繰り返していますが、とりあえず明を滅ぼしました。ですが、呉三桂が清を招き入れるといいとこなしで負けまくっているので、こんなものでしょう。

知力……71 基盤の弱い流賊から天下を窺う大盗賊にまでなったのですから、戦略眼はそれなりにあったのでしょう。特に彼が北京を攻撃した際はあまりに突然のことで、明側は全く対応できず、あっさりと北京は陥落。明朝は滅亡しました。急ぎすぎて自分の勢力を確固たるものにしようとしなかったのは減点材料ですが、未だに豊かな江南を維持している明朝との長期戦は明らかに不利なので、同情の余地があります。事実、かなり変なのが揃っている南明ですら、ドルゴンを相手に17年も戦い抜いています。

政治……17 都市を破壊して略奪を行う流賊の首領ですから、初期にはまともな政治はおこなっていません。真面目に都市を支配しようとしたのは牛金星ら知識人を得て洛陽を制圧してからのことです。減税をして人気を集めましたが、さすがに無理があったのか北京を陥落させると略奪を行って新国家建設の費用を集めようとしました。基本的に行き当たりばったりです。

魅力……40 都市を襲撃しては略奪を行うような流賊だけあって大して人気はありません。減税を行って人気を集めましたが、北京から逃亡する際は歓呼されたそうなので人気はあくまで付け焼刃だったようです。ただ、貧民から一時とはいえ皇帝となり、その後一気に悲劇的な結末をむかえたこともあって、後世はかなり人気が出てきて、カッコいい流賊の逸話は大抵李自成のものとされるようになりました。

スキル:伝説化:死後に魅力が+40される

列伝 闖王
 延安府米脂県出身。
 元来は駅站の役員であったが、明が財政難からこれを中止すると失業してしまい、色々あった末に盗賊になったらしい。1632年に自分の集団をもったが、それをもって何処で何をしていたのか、かなり胡散臭い伝説が散りばめられていてよく分からない。闖王があだ名であったらしい。
 とにかく1641年にいきなり現れたと思ったら洛陽を陥落させ、民衆の人気取りを開始する。1644年には北京を陥落させて同地で皇帝に即位し、大順王朝を開始する。
 山海関を守る呉三桂らに大順に投降するように呼びかけるが、その関係が微妙になって(まあ、当然だろうが)清と手を結んで攻撃してきた。清にあっさり北京から追い出されると、西安に逃げ込むが、ここでもあっさり追い出されて、今まで行ったこともない南側に逃げる。
 そこでは不慣れな地理と風土に悩まされて、あっちで負けてこっちで負けてしているうちに村を略奪しようとしたところ、自警団によって殺される。
 彼の死には諸説あり、どこぞで首吊り自殺をしたとか、坊さんになって1674年まで生き延びたという伝説もあるが、自警団のメンバーが後に褒美を与えられているので、普通に殺されたのだろう。

[49] マフムード 2007/03/27 11:16

>>41-42
エンゲルスがいかに偉大だったことか(笑)
あまりにも偏りすぎた天才と、円満な秀才の組み合わせですね。

>>45
「史上最強のリーダー」、量を度外視して質だけで評価すれば文句なしに統率100でしょうね。

>>47
正史がいい加減で解釈に異説が多いこともあって耶律阿保機の実像ははっきりしませんが、
とにかく武人というより政治家としての才能を持った人だったようです。
天才的組織者でありながら猛将という評には馴染まない、
のちのチンギス・ハーンと同じタイプの指導者だったようです。

ヌルハチも前からやる気はあるんですが、これもイメージがつかめず、データがまとまらず・・・
清代初期はちょっと突っ込んだレベルになると一般向けの概説はほとんどないし、
そのくせ本気で調べると一次史料レベルで研究者が驚喜するぐらい情報が豊富なので、手を出すのが恐ろしい分野です。
生半可に調べて書いても、あとで満洲実録とか見て数値を変えたくなるかもしれず。

>>48
気になっていた人物です。唐突に現われて、突然明帝国を滅ぼしたかと思ったらあっさり敗死してるんですね(笑)
ほとんど明を滅ぼすためだけに生まれた人というか・・・
それにしても清王朝にとってはなんと都合のいい歴史展開だったことか。
魅力が高いイメージがありましたが、生前は意外と低いですね。

ここでひとつ、流賊つながりで黄巣とかはどうでしょう?

[50] さば缶 2007/03/27 19:09

一年以上の放置すみません。
おもむろに更新再開です。

とりあえず前スレ800まで更新しました。
前スレ分は何とか早めに更新したいと思ってます。
変更・ミスあれば指摘よろしくです。

[51] ハーン 2007/03/28 05:39

>>50
 お久しぶりです。お疲れ様です。
 スヴャトスラフの統率を75にしてください。
 エウメネスの武力を82にしてください。
 グナイゼナウの知力を83にしてください。今から考えると低すぎました。

 ダヴーの列伝の冒頭がウェリントンの生没年没になっています。

[52] ハーン 2007/03/28 06:00

>>49
 清代はそれはもう、時代が近いだけあってそれこそ資料は無限でしょう。資料が多いのは嬉しいのですが、多すぎても困り者という時代の典型かと。
 最難関はそれこそ一日一日の事細かな資料のある近代史なのですが。

 李自成は彼個人の人格的なエピソードが全く見当たりませんでしたから。それで、減税だけで人気を集めたのだと解釈しました。

 黄巣ですが、唐末はさして詳しくないので、やるとしても大分先のことになりそうです。

[53] さば缶 2007/03/29 00:14

前スレ900まで反映しました。
前スレ600台で修正依頼があったのを反映したつもり(抜けがあるかも)。

>>51反映しました。

[54] ハーン 2007/03/30 21:26

>>53
 張角の政治と魅力の項目が変になっています。それと、張角の魅力を74に変更してください。
 ヒトラーの政治を前スレの871に変更してください。

[55] ハーン 2007/03/30 21:28

>>53
 ところで、ネタはどれだけ掲載されるのでしょうか? アーサー王とかの前にも結構な数があるのですが。

[56] マフムード 2007/03/30 22:19

お疲れ様です、ありがとうございます!
数値や文章を変えたいものはたくさんありますが、キリがないからやめときます。ただし南越王趙陀だけ、統率を80に、知力を77に上げてください。
変なのとしては、秦叔宝のよこの727のリンク先がスキピオになってるのと、ティグラトピレセル3世とサルゴン2世の魅力の文章が同じになっているのに気付きました。

[57] さば缶 2007/03/31 01:26

前スレ最後まで反映しました。
色の変わらない比較的「普通の人」が多かったせいか、
ちょっとだけ早く処理できたような気がします(多分気のせい)。

>>54>>56
反映しましたー

>>55
一応「全部」の予定です。カテゴリも[アニメ][小説]など追加予定。
力作が増えてきてスルーするのももったいないかな、と思うように
なりまして。とりあえず本スレ追いついたら遡って掲載するつもりです。

あ、例えばのび太がオール100とかで、かつ説明が面白くないものは
個人的判断で勝手にスルーしますw

[58] 夕影鳥 2007/03/31 12:01

>>50
自分の作品が載っている!・・・それだけで感動です。
ありがとうございます。

私の作った平清盛(>>929)の知力チェックポイントが竇建徳(>>917)のものになっています。修正をお願いします。

[59] さば缶 2007/03/31 23:50

本スレの最後まで反映しました。

>>58
反映したです。

だが……
ワシのミスは108式まであるぞ!

……ごめんなさいw今後ともご報告お願いします。

[60] マフムード 2007/04/01 00:56

あ、また発見しちゃいました。
殤帝の数値が汪兆銘に、ドルゴンの数値がシャクルトンになってます。

あと修正なのですが、ドルゴンの知力を88に変えてください。
なんたって歴代征服王朝でいちばん漢化文弱化にしぶとく抵抗した体制を作った男ですから。
乾隆後半が限界だったようですが。

[61] マフムード 2007/04/01 01:26

追加。

竇建徳の列伝の最後にエンリケ航海王子のものが紛れ込んでいます。

[62] ヒミルコ 2007/04/01 14:14

こんにちわ!
こちらの掲示板に書き込みさせていただくのはこれが初めてです。ふつつかものですが、何卒。

皆さんのレスを眺めさせてもらっているうちに、自分も数値化やってみたいと思うようになり、やっとこさボチボチ一名完成しそうなところです。
元ネタのコーエーすら未プレイの自分ですので至らぬ点もございますしょうが、
どうかそういった突っ込みどころ、ビシバシ苛めてやってください(笑)
では

[63] ハーン 2007/04/01 14:24

>>59
 キャスバルの能力に武田信玄のそれが混じっています。
 波動球は108式まで見てみたかったものです。

>>62
 楽しみにしています。

[64] ヒミルコ 2007/04/01 15:30

クサンティッポス(〜BC2??)
スパルタ人/傭兵隊長
【統率】71
【武力】78
【知力】53
【政治】20
【魅力】65
【特殊能力/修正】助っ人、軍事指導(スパルタ教育コース)

【統率】冬から春にかけての半年にも満たない短期間で、自侭な傭兵と従軍経験に乏しい市民兵という、士気の低い大軍をよく統率したように思う。
と同時に指揮権を握った期間が短すぎだったりもする。元々一群のリーダーなのでこれぐらいが妥当じゃないかと。

【武力】出自や経験によって培われた武勇や高度な軍事知識をもって、カルタゴ軍隊の地力を大幅に底上げした功績は大。
マケドニアで考案された騎兵の有機的な活用を、カルタゴ側で実践したのも恐らく彼が初めて。
さらに味方騎兵や戦象部隊が本領発揮出来るような平原へ敵を巧みに誘い込むなど戦術家としての手際もかなり良い。
惜しむらくはその手腕をただ一戦でしか振るえなかったこと。ぎりぎり優秀止まり。

【知力】カルタゴ将帥の質の悪さを政府に直談判して権限を一時的にでも勝ち取った。
自分の置かれた状況を正しく理解する眼を持ち、実行力も備えている。
ただ、それだけの軍大将レベルであり、採点も並。

【政治】傭兵稼業なんかに身をやつしている時点でもう何か失策をやらかしている証拠っぽくてアウトなのだが
そのうえ危難を救った途端にさっさと指揮権を剥奪され以後歴史の表舞台に姿を現すことがなかった点に関しては憐れみを覚えないでもない。

[65] ヒミルコ 2007/04/01 15:32

【魅力】過去前例の少ない外国将軍に抜擢される程なのだから、傭兵世界じゃよほど名の知れた一角の人物だったのだろう。
あくまでダウンタウンの筆頭株というだけで、貴族層が愛着を抱く事がなかったにせよ。

【列伝】——副業、スパルタ教師——
第一次ポエニ戦争(BC264-BC241)中期にカルタゴに雇われた、スパルタ傭兵隊のリーダー。
当時のカルタゴはローマに連戦連敗を喫しており、本国の目と鼻の先にまで侵入を許してしまっていた。
そんなカルタゴの元に現れたクサンティッポスは陣営を一望して
「ローマ軍に敗れたのは、兵士たちのせいではなく指揮官の責任である」とカルタゴ政府に進言したところ、ならばお前が率いてみよと軍の総指揮権を預かることになった。
将軍となった彼はカルタゴ軍の時代遅れな戦闘技術を一新、歩兵陣形をギリシア式ファランクスからマケドニア式ファランクスに改良し、戦象や騎兵部隊の有益な運用法を伝授する。
さらにクサンティッポスによる訓練のもと進化したカルタゴ軍は油断しきっていたローマ軍を一蹴、彼らを本国領から撤退させることに成功した。
だが、この勝利によって得た成果に慢心したカルタゴ政府はすっかり厭戦気分になってしまう。軍備は縮小、クサンティッポス自身も解雇される。
第一次ポエニ戦争はそのままズルズルと長引いてゆき、結局はローマ側の勝利で終わってしまった。

後日談となるが、クサンティッポスが歴史上から姿を消した後も、彼が導入した戦闘隊形と騎兵の運用技術はそのままカルタゴに息衝いてゆく。
そして、彼が模倣したアレクサンドロス大王の戦術をさらに勉強したハンニバル・バルカの手によって、包囲殲滅という新戦術が生み出されるのだった。

ちょっとエコ贔屓気味かな…?
なんにせよ地味だw

[66] さば缶 2007/04/01 16:51

もろもろ更新しました。

ネタ評ですがティラノサウルスとか猿人とかバッタとか入れるかどうか
悩み中。どっちがいいですか?

[67] 片田舎の偏屈士 2007/04/01 18:36

>>50
初めまして。そしてお疲れ様です。
末席にて稚拙な文章を書く者ですが、よろしくお願いします。

夕影鳥もお書きしていますが、自分の書いた評価が乗っているという時点で感激のあまり頭が下がりまくりです。(しかも、サッカー関係まで!)
ゆっくりまったりの方針で充実させていきましょう。

取りあえず自分の分の修正を
最上義光の知力コメントが淵蓋蘇文のものになっています。
眉輪王の列伝が石田三成に!
ミケルスの知力コメントが後で修正が入ったので、〜彼の手が大きい。で止めてもらえると助かります。

[68] 片田舎の偏屈士 2007/04/01 19:06

さば缶さんが復帰したのでこの際に確認を取りたいのですが、
神話の域に達しているような不確定な人物。
たとえば初代スレ667の神武天皇。
彼は神話カテゴライズになるのでしょうか?
存在が伝説であるのと、行為が伝説(自筆では眉輪王)であるのでは、同じようでいて意味合いは大きく違うと思うのです。

そういった意味で、聖水大橋さんの評価されたケツァルコアトルが歴史スレに上がっていたので疑問を呈してみます。
歴史と共に神話好きな自分にとってはケツァルコアトルはどちらかというと神話の人物であり、前スレ968に自分が上げましたExcel表では意図的に外しました。(同じ理由で神武天皇)

歴史に刻まれた史実と呼ばれるものの中には確かに眉唾物の神格・伝説化された記述と思われるものが多いのはわかりますが、それでも、実在の不明瞭な人物を史実として捉えるか否かをここでは決めておいた方がいいのではと思いましたので、提案してみます。

[69] さば缶 2007/04/01 23:08

>>67
>>68

はじめまして、コピー&ペーストの達人さば缶です。
今後ともよろしくお願いします。他のお初の方々もよろしくです。

お尋ねの件ですが、自分の感覚だと神武天皇はネタ[神話]のカテゴリに入りますね。当時スルーしてまとめサイトの方に入れていないのもそういったことです。
ケツァルコアトルの方ですが、個人的に中南米についてあまり詳しくない事もあって、中南米の有名な蛇神の名前が付けられている事で少々引っかかりましたが、生年も書いてあり列伝も神話的トンデモ描写が感じられなかったので、あまり深く考える事なく入れました。

その線引きは結構曖昧ですね。アエネイスはもちろん神話、ロムルスならアリかも?なんて感じでした。なんでロムルスがアリで神武天皇がナシなのかは後の歴史がまだしも繋がっているからですかねえ。
ま、どの道ネタ[神話]カテゴリが無かった時の判断基準ですので、今ならそういう不確かなのはまとめてネタ[神話]に入れる方が良いでしょうね。

各種修正ですが、今は家のPCではないので更新はあさって以降になります。

[70] ヒミルコ 2007/04/02 11:36

はじめまして!今後ともよろしくお願いします。
昨日あまりにドキドキの心境のなか投稿をしてしまったので今日改めて文面を読み直すと何とまァ…反省しきりな今日この頃ですw
[神話]ネタや変化球ネタをどう扱うかで盛り上がっていらっしゃるようですが、
自分はまだまだ新参なのでとりあえず草葉の陰で皆さんの議論の成り行きを見守っていきたい所存で…。
とにかく、ご更新お疲れ様です。応援してます

しっかし、クサンティッポスはやっぱり能力高すぎたかしら…? また修正お願いするかもです。世話のかかる奴で申し訳なひ

[71] ハーン 2007/04/02 13:06

>>64-65
 この男は何処に消えたものかと思ってましたが、ひょっとしたら戦後ハンニバル一家とスペインに渡ったのかもしれませんね。当時のスペインなら、仕事に困ることはないでしょうし。まあ、現実的には戦後に起きた傭兵の反乱で一緒くたに殺された、てところでしょうけど。
 一発屋の評価は難しいのですが、誰がやってもこんなところに落ち着くと思われます。

>>66
 それについては自分で書いたということもありますが、是非とも入れて貰いたいものです。

[72] フードリヒ2世 2007/04/02 17:20

どうも、歴史カテには何度か名前を見た方もいらっしゃるでしょうが、
この記事には初めて投稿します。
過去に何度か歴史上の人物を数値化して投稿しようと思ってはいましたが、
常連の人々の記事を見ているうちに自信がなくなって、結局投稿できないでいました。しかし、次回から一念発起して投稿してみようと思います。

至らないところだらけだと思いますが、よろしくお願いします。

[73] 聖水大橋 2007/04/02 20:25

あー、やっぱそんな印象でしたかw
そもそも確固とした文字資料が残っていない地域・年代なので疑念はもっともなんですが・・
あそこで書きました年代は、マヤ地域に残る複数の「暦日の碑」に書かれていた年代です。(当然解読されてます)
正確に言えば、歴史伝承や先述の碑を考察すると、10世紀に神の名を名乗った王が実在していたようで、
その事績をまとめるとこうなったというところです。
日本で中米の歴史伝承の本なんかは少ないですが、4−50年前からこの説は紹介されていましたし、百科事典
なんかでも神話の神と実在の人物との二項で記載される例はありました(平凡社版とかですね)。
そういうわけでかまわないかと思ったんですけども・・扱いはお任せします。

[74] 片田舎の偏屈士 2007/04/02 23:47

>>73
確かに中南米は資料的に不足な点が多い(アフリカも)ので、実証するとなると難しい地域ではありますね。

自分の地元は本当に田舎なので、詳しい資料をすぐに探せなかったため、ネットで「トピルツィン」で検索するとそれなりに詳しい記述が出てきました。
この点を踏まえますと、名前をトピルツィンにして、神であるケツァルコアトルと同一化したと記述なされるのが妥当かと思います。
つまりは、神としてのケツァルコアトルとは別にした一人の歴史上の人物であればしっくり来ます。
このようなことでいかがでしょうか?

[75] のんびり屋 2007/04/05 23:02

お久しぶりです。
さば缶さん、更新お疲れ様です。自分の評価が載っているのを見て
感動しました。今は忙しいですがまた折をみて何か書いてみたいと思います。

>>72
フードリヒ2世さん、はじめまして。
私も新参者でえらそうな事はいえませんが頑張ってください!期待しています。

[76] 越中守 2007/04/06 08:39

>>59
お初にお目に掛かります。
そしてお疲れ様です。
まとめられると、とても見易くなりますね。

[77] さば缶 2007/04/08 21:45

とりいそぎ>>67のみ反映しました。

[78] どすよ。 2007/04/10 22:23

皆さんリクエストをお願いします。

初代モサド長官のイーサーハレル氏
巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄氏
天才漫才師・映画監督の北野武氏を
数値化できる方がいたらお願いします。

[79] いりあす 2007/04/15 00:16

 どうも、前スレの時にに幕末の人物を何人か評価した事のあるいりあすといいます。
 最近評価の作成から遠ざかっていましたが、この前とある本を読んでから評価してみたい人物が一人出てきましたので、ここに投稿させていただきます。

---------------------------------------------------------------

 コンスタンティヌス11世(1405〜1453)
 (ギリシア語ではコンスタンティノス11世と表記される)

【統率】 79
【武力】 83
【知力】 52
【政治】 51
【魅力】 80

【総評】
 彼が帝位についた時点では東ローマとオスマン帝国の力の差は圧倒的になっていて、
 既に多少の力量では劣勢を覆す事はまず不可能だったと考えられている。
 全体的には能力は平凡以上一流未満、戦闘力はやや高く政治力は中くらいとする。

【統率チェックポイント】
 モレアス時代、コンスタンティノポリス時代共に、圧倒的な劣勢の中で国内をよくまとめていた。
 西欧勢力との東西合同戦略を徹底させる事が出来なかった所から、80には及ばないものとする。

【武力チェックポイント】
 モレアス専制公時代にはアカイア公国を併合してペロポネソス半島をほぼ統一し、
 一時期アテネからテッサリアまで進出するなど軍事能力はかなりの水準があったと思われる。
 また、最終的には敗北するもののオスマン帝国の圧倒的大軍から、2ヶ月に渡って首都を防衛しているあたりから80を少し超えた程度と評価。

【知力チェックポイント】
 西欧との東西合同を推進、オスマン帝国の帝位争いに介入するなど、目の付け所は悪くなかった。
 が、結果としてオスマン側の敵意をあおる結果となったところから、50台が適当だろう。

【政治チェックポイント】
 帝国存続のために打った手は、結局どれを取っても中途半端な結果しか得られなかった。
 内政面ではそこそこの成果を挙げていたようだが、そのあたりを勘案するとこれまた50前後。

【魅力チェックポイント】
 ギボンによるとコンスタンティノポリス攻防戦における彼の行動は英雄的なものであり、
 また伝統ある国家の継承者にふさわしく穏和な人格者でもあったらしい。
 (もっとも側近のフランゼスの記述だから、ある程度のひいき目は入っているだろうが)
 没後も復活伝説が残ったりするなど人気もあったようなので、80ぐらいと評価。

[80] いりあす 2007/04/15 00:16


【列伝】
 〜〜戦場に散った最後のローマ皇帝〜〜

 パレオロゴス朝東ローマ(ビザンツ)帝国最後の皇帝、すなわちローマ帝国最後の皇帝。東ローマ末期の文人皇帝として名高いマヌエル2世の四男としてコンスタンティノポリスで生まれる。
 1428年にペロポネソス半島の南半分・モレアス専制公領の統治者の一人として赴任し、以後20年にわたり同地を統治する。翌々年には半島北のカトリック系勢力であるアカイア公国を征服し、ペロポネソス半島をほぼ統一する事に成功。その後オスマン帝国の属国であったアテネを攻略するなどギリシアの征服を目指すが、その後オスマン帝国の反撃に遭い敗退、アテネからの撤退を余儀なくされた。
 1448年、兄ヨハネス8世の死去により東ローマの帝位を継ぎ、コンスタンティノポリスへ入る。しかし3年後、オスマン帝国をメフメト2世が継いだ際に帝位争いに介入した事から両国の関係は悪化。オスマン帝国はついにコンスタンティノポリス攻略に動きだす。対するコンスタンティヌスはキリスト教会の東西合同を条件に西欧からの援助を受けるべく画策するも、直接動いたのは帝都に商権を持つジェノバとヴェネチアだけであった。
 こうして1453年4月初頭、オスマン帝国とのコンスタンティノポリス攻防戦が始まった。10万とも16万とも言われるオスマン帝国に対して、東ローマ軍は援軍を併せても僅か7000。それでも東ローマ軍は善戦し、2ヵ月に渡って持ちこたえたが、5月29日ついに帝都は陥落。コンスタンティヌスは「私の胸に剣を突き立ててくれる一人のキリスト教徒もいないのか」と言い残しオスマンの大軍に自ら斬り込み、死亡すら確認される事はなかった。
 戦後メフメト2世はコンスタンティノポリスへの遷都を行い、こうして1500年に及んだローマ帝国は今度こそ完全に滅亡することになった。

 補足(?)
 「コンスタンティノポリスは鍵のかけ忘れで陥落した」という話は有名ですが、この件は誇張が多分に含まれていると考えられます。2ヵ月に及ぶ攻防戦で鍵のかけ忘れなどという重大なヒューマンエラーは信じがたいし、そもそも攻防戦のさ中に城門の鍵を開けるという事自体そうそうあるものでもないでしょう。
 となると考えられるのはジェノバやヴェネチアの内応の線ですが、戦後ガラタのジェノバ居住区の城壁が破壊されたり、その後のヴェネチアがオスマン帝国により失陥した領土の広さなどを考えると、そういった事実からして彼らが内応して何か得をしたとも言いにくい。
 おそらくこの話は、戦闘中に損壊した城門を修復する事ができず、敵の突破口となる事を許してしまったというのが実情に近いのではないでしょうか。
 (と言うのも、ヒューマンエラーや内応があった事を勘案すると、コンスタンティヌスの統率や魅力に重大な影響が出かねないので……(汗))

[81] のんびり屋 2007/04/16 18:31

>>79
はじめまして、そしてお疲れ様です。
最後のローマ皇帝ということで悲劇的に描かれることの多い人ですが、随分優秀な人だったようですね。
あれだけ不利な状況であれだけ戦えたのはコンスタンティノープルの防御力はもとより彼の能力の賜物でしょう。
コンスタンティノープル防衛戦において雑多な部隊で構成された防衛軍をまとめていたのは戦闘で評価なされているのでしょうか。
個人的には西欧勢力との合同作戦がうまくいかなかったのは知力か政治で判断されることだと思いますので戦闘を80くらいに下げ、統率を81くらいにしてもよいのでは、と思いました。
それほど詳しくはないのですが彼の統率力には非凡なものを感じましたので。まあ、細かい違いといわれればそれまでですがw

[82] t-a 2007/04/20 01:36

唐突で申し訳ないのですが、あの有名なハンムラビ王を
どなたか数値化していただけないでしょうか。

[83] のんびり屋 2007/04/28 13:31

なんだか過疎ってますねえ。
保守の意味も含めて一人この人を。

今川義元
1519年〜1560年(在位1536年〜1558年、しかし58年以降も実権の多くを掌握。)
駿河守護、遠江守護、三河守護、治部大輔。上総介、三河守
通称 海道一の弓取り

【統率】76
当主就任後、名門今川一族をしっかりと掌握し、組織の発展と領国の拡大に努める。花倉の乱は氏輝の急死であり、彼自身も後継者と見られていたわけでもなく実権ももってなかった状態でおきたので減点材料にはしない。彼の代における今川氏の統制は見事なもの。
【武力】52
あまり強くない印象を受ける。第一次小豆坂では小勢の織田信秀に破られ、河東郡をめぐる争いでも北条氏綱に敗れているし、桶狭間も同情の余地はあれど痛い。それほど弱くはないのだろうが、彼の時期の今川氏の主要な勝ち戦は多くが太源を始めとする家臣の指揮によるもの。
【知力】70
外交・調略・謀略をたくみに用いて勢力を着実に拡大していった。
周囲の状況を利用して北条氏康から河東郡を取り返したり、西三河の
松平氏をうまく取り込んで勢力拡大の尖兵としたり、寝返ってきた山口親子を謀殺してその城に家臣を入れて前線拠点とするなど抜け目がない。
【政治】80
今川仮名目録の増補を始めとして領国の統制強化及び発展を行った。外交でも周囲の状況を利用して武田と同盟して河東郡を取り返したり、三国同盟を結んで西に進路を集中したり、松平氏を見事に取り込んだり、優れたものがうかがえる。
【魅力】65
後世に桶狭間や徳川史観の影響もあって矮小化されたイメージがはびこった事もあったが、実像はそれほど悪いものではなかったと思われる。死んだ後に200余りの部隊が織田勢にむかって玉砕したり、首の返還を求めて抵抗した部隊があったことからそれなりの魅力はあったと思われる。しかし生前に魅力で特に得をしたようには見えず、さらには遺徳を慕われたような形跡も薄いのでこのくらい。

[84] のんびり屋 2007/04/28 13:33

列伝 海道一の弓取り
今川氏親の5男として生まれる。若いころには兄氏輝が家督を継ぎ、
自身は寺に預けられる。後の軍師である太原雪斎とはこのときに知り合う。

[85] のんびり屋 2007/04/28 13:44

氏輝が急死した後に異母兄による花倉の乱がおきるが太原の助力もあって今川の家督を継承することに成功する。
その後は武田氏と同盟を結び、晴信(信玄)がクーデターを起こしたときには信虎を預かっている。その後、北条氏とも同盟を結んで三国同盟が成立し、西に進路を絞る。西三河の松平氏をたくみに取り込み
西進の尖兵とする。太原達家臣の活躍もあって順調に勢力を西に向けて拡大し、やがて尾張の一部にまで勢力を伸ばし、海道一の弓取りと
評された。1560年に当時尾張半国を支配していた織田信長を倒して尾張を制圧する為に2万5千の大軍を率いて出陣し、順調に勝ち進むが桶狭間で信長の急襲に戦死する。

その最後から後世に矮小化されたイメージを持たれてしまいましたが
かなり優秀な戦国大名といえるでしょう。
(最近は随分見直されていますが。)
誰にとっても意外であったろう彼の死がなければその後の戦国史は
どうなっていただろうかと思うと中々興味深い存在です。

[86] のんびり屋 2007/04/28 13:49

>>82
ハンムラビ大王はあまりくわしくないので他の詳しい方の登場を
待ちたいものですが、それでも政治は90近くいくと思います。
彼の残した法典は歴史的に非常に大きな意味を持っていますし、
もとは弱小国だったといわれるバビロニアを強国にしたのも偉大ですし。

[87] 三太郎 2007/04/28 21:47

おお。ヤンマガ増刊の連載でクローズアップされている人ですね。
ご苦労様です。

ところで、皆様。
この間、お亡くなりになったエリツィン大統領はどんなものでしょう?

[88] どすよ。 2007/04/29 11:08

>>87
うわー気になるね。誰か詳しい方に数値化してほしいですね。

[89] ハーン 2007/05/02 12:41

>>83-85
 前々から気になっていた人物の一人ですね。思っていたとおり、有能で嬉しい限りです。
 それにしても、信長に負けると大抵の場合は無能扱いされるのが少し理不尽に思えます。
 

[90] ハーン 2007/05/02 12:42

 大友宗麟

 洗礼名:ドン・フランシスコ

 享禄3年1月3日(1530年1月31日)〜天正15年5月6日(1587年6月11日)

統率……81 最も部下に恵まれた戦国大名の一人です。父の残した家臣の立花道雪や高橋紹運らを使って九州最大の大名となりました。耳川の大敗にも関わらず、息子に代わって彼が政務を執ると国内の動揺を押さえ込んで瓦解寸前の大友家を維持しました。そんなボロボロの状態で島津が秀吉に対抗しようと大友を併呑しようとした時も、秀吉の援軍が来るまで持ちこたえました。その指導力は晩年まで高い水準にあったようです。天下をとった連中を除けば戦国でも最高クラスの統率力の持ち主だと思います。

武力……44 この時代の諸侯にしては珍しく、積極的に自分で軍勢を指揮しない人物です。恐らく、自分の指揮能力に自信がなかったのでしょう。国内の反乱は自分で鎮圧していることもあるので、このくらいに。

知力……17 非常にむらのある性格をしており、色々な意味で一筋縄ではいかない人物です。九州最大の勢力となり、毛利元就すら退ける優れた人物なのですが、奥方の奈多氏との関係が悪化して引きこもるわ、どういうわけかキリスト教に改宗して国内を意味もなくかき回すわと、意志薄弱な部分がありました。最大の勢力になってからそれが遺憾なく発揮され、なにをトチ狂ったのかは知らないが、耳川の合戦では戦争の指揮を一切しないで後方で延々と神に祈りを捧げ、邪教ということで寺院を片っ端から破壊して、軍全体の士気を徒に低下させた。これで勝てるわけがなく、島津に史上稀に見る大敗を喫する。キリスト教に改宗する前も臣下の妻を奪おうとして反乱を起こされたり、将軍家に取り成してもらった婚姻を破棄して話をややこしくしたりとかなり意味不明なことをしています。毛利、竜造寺戦では優れた采配を振るいますが、戦略は吉岡長増らによるもので、宗麟は指導と外交に立ち回っていたので、そちらに加算することにします。彼は高い統率力と政治力で九州最大の大名に上り詰めましたが、低い知力(というよりは意志の弱さ)によって全てを台無しにしてしまったのです。戦国日本で最も知力が低いのは多分彼です。

政治……78 貿易活動に非常に熱心で、南蛮貿易は勿論、日明貿易や日朝貿易も手がけていました。事実上、当時の九州最大の大名でした。外交にも長けており、己の九州支配を正当化するために幕府に莫大な謙譲をして九州探題になったり、己のミスで危機に陥ると信長や秀吉に援助をさせて乗り切っています。

魅力……50 アホなエピソードや、乱交の数々を見ると、とても魅力的な人物とは思えません。ただ、損得を超越してキリストの教えに魅了されて切支丹大名になったのは事実上、彼だけなので、その心意気に免じてこのくらいあげましょう。晩年には念願の日向にキリスト教国を作る機会を見逃したことで、熱心ではなくなったと言われていますが、死期を悟ってのことだったと解釈しています。

[91] ハーン 2007/05/02 12:42

列伝 豊後のボケ老人

 二階堂の変で父が死んだことで家督を受け継ぐ。彼が画策したとも言われているが、恐らく単なる偶然だろう。北九州を狙う毛利家を退け、その地位を確固たるものにしました。
 毛利元就すら退けました。
 このままいけば、九州全域が彼のものとなったかもしれませんが、キリスト教にはまってしまったことで、全ての歯車が狂いました。統率力の低い息子の義統に家督を譲って信仰の生活に入る、だけならまだしも、日向にキリスト教を基盤にした新国家を作るという意味不明な目的で島津との戦争を開始しました。国力ではどう見て負けそうにない戦いでしたが、彼自身は後方で神に祈りを捧げ、前線では仏閣を意味もなく破壊して味方の士気を下げ、任命した司令官は無能で役に立たないという馬鹿馬鹿しい状態で、結局は耳川の合戦で信じられないような大敗を喫しています。
 仕方なく義統に代わって国政を担当すると、これだけの大敗を喫したにも関わらず、国内を纏め上げ、信長に泣きついて危機を脱しました。どうやら、能力が低下していたわけではないようです。
 島津が秀吉に対抗しようと大友を併呑しようとした際も、どうにか家臣と秀吉に助けられて大友家を生きながらえさせることに成功しています。
 その死の一ヵ月後に秀吉は禁教令を出していますが、彼が生きていたらどうしたか、とても興味があります。

 統率と政治の高い典型的な指導者タイプです。
 統率が高いので最高指導者にしたいところですが、知力が低すぎるので、何としてでも阻止しましょう。就任した日には低い知力で考え出した愚劣な戦略を高い統率力と政治力で押し進めるので、とりかえしのつかないことになります。部下の言うことも聞かないので、知力の高い指導者の下で後方の大きな組織を担当させるべきでしょう。大きな成果をあげてくれるはずです。

 戦国大名で一番見てて楽しい人です。名将と愚将の間を揺れ動く素敵な人ですので、話題に事欠きません。大河にしたら人間の本質について多くの知見が得られるように思います。
 信長よりもお近づきになりたくありませんが。

[92] ハーン 2007/05/02 12:45

 列伝の前半に不備があったので書き直します。

列伝 豊後のボケ老人
 大友家第二十代当主・大友義鑑の子として豊後に生まれる。
 父と不仲だったらしいが、二階堂の変で父が死んだことで家督を受け継ぐ。彼が画策したとも言われているが、恐らく単なる偶然だろう。
 色々問題があったものの、それなりに順調に勢力を拡大し、北九州を狙う毛利家を退け、その地位を確固たるものにしました。
 このままいけば、九州全域が彼のものとなったかもしれませんが、キリスト教にはまってしまったことで、全ての歯車が狂いました。統率力の低い息子の義統に家督を譲って信仰の生活に入る、だけならまだしも、日向にキリスト教を基盤にした新国家を作るという意味不明な目的で島津との戦争を開始しました。国力ではどう見て負けそうにない戦いでしたが、彼自身は後方で神に祈りを捧げ、前線では仏閣を意味もなく破壊して味方の士気を下げ、任命した司令官は無能で役に立たないという馬鹿馬鹿しい状態で、結局は耳川の合戦で信じられないような大敗を喫しています。
 仕方なく義統に代わって国政を担当すると、これだけの大敗を喫したにも関わらず、国内を纏め上げ、信長に泣きついて危機を脱しました。どうやら、能力が低下していたわけではないようです。
 島津が秀吉に対抗しようと大友を併呑しようとした際も、どうにか家臣と秀吉に助けられて大友家を生きながらえさせることに成功しています。
 その死の一ヵ月後に秀吉は禁教令を出していますが、彼が生きていたらどうしたか、とても興味があります。

[93] 越中守 2007/05/02 17:38

エルジェーベト=フォン=テューリンゲン(聖エルジェーベト) 1207-1231

【統率】33
彼女自身、特に統率に関わるエピソードはない。

【武力】22
こちらも特記事項はない。統率より低くしているのは単なるイメージの問題。

【知力】58
ドナウ地方初のフランシスコ会の信者となったことを考えれば、少なくとも周囲に流されない意思と理解力を持っていたことが分かる。

【政治】65
病院や修道院を建て、慈善事業に奉仕したという。
その行動力を評価して、この数値とする。

【魅力】89
生前時からその評判は高かったらしいが、死後列聖され、その人気はさらに高まった。
数々の聖人伝説を持ち、エリザベス(ハンガリー語でエルジェーベト)という名が欧州において人気が出たのは、彼女の功績とされるほど。

[94] 越中守 2007/05/02 18:14

【列伝】聖エルジェーベト
無能の野心家、ハンガリー王(アールパード朝)エンドレ2世の娘として生まれる。
1歳の時にドイツのテューリンゲン方伯ヘルマン1世に引き取られ、次男のルートヴィヒ4世と結婚する。
夫が第6回十字軍に参加する途上で病死すると、不仲であった義弟ハインリヒ=ラスペ(4世)に追放され、慈善活動を開始する。
「7つの慈悲」を初めとして、様々な活動に従事した。
1231年、夫の後を追うようにして死去。
その功績が讃えられ、教皇グレゴリウス9世により列聖された。

彼女についての民間伝承に、次のようなものがあるので、紹介しておく。
「エルジェーベトは王女でありながら、幼少期より貧しい人々と接し、彼らに食べ物を配り歩いていた。
 ところが、父王は娘が貧民と付き合うことを快く思わず、娘に施しを禁じてしまう。
 それに対し、彼女は籠にパンを入れ、父の目を盗んで出かけようとした。
 それを見咎めた父は、籠の中に何が入っているのかを詰問する。
 王女は薔薇が入っていると答え、籠の中を見せると本当にそこには薔薇が入っていた。
(彼女の機転とも、心優しき王女が窮地に追い込まれているのを見かねた神の慈悲とも伝えられている)
 以降、聖エルジェーベトの肖像画には、大量の薔薇が描き加えられることになったのだという」

余談ながら、同じくハンガリーに生を受けた「エルジェーベト」の中に、かのバートリ=エルジェーベト(エリザベート=バートリ)がいるのは、なんとも皮肉なことであろう。

[95] さば缶 2007/05/09 15:32

どうも、まとめ人です。前にコピペの達人だと書いたら友人に
「ミスが多すぎるわ!達人などとおこがましい」と言われ、
コピペ係長代理補佐見習いの称号を賜りました。

>>94までと前スレのネタ評を入れました。
あと大昔のやつとかちょこちょこ修正。

次回、超大型更新します。
なんとサイト立ち上げ時からある、あの開かずの項目が遂に……
乞うご期待!

[96] ハーン 2007/05/09 16:13

 毎度お疲れ様です。
 ショッカー大首領の魅力の項目が碇シンジのそれになっています。
 スレ1のネタ>>175のNyarlathotepと、>>405のギルガメッシュが抜けています。

 今度更新するのは、ひょっとして、時代区分ですか? あるととても助かるのですが。

[97] さば缶 2007/05/09 16:36

>>96
ショッカー直しました。スレ1のネタは次回更新時にやります。

>ひょっとして
ぐふふ、まだ秘密ですw
まとめサイトを作り始めた時に考えていた形態にようやく
たどり着きそうだ、とだけ言っておきます。

[98] やっち 2007/05/11 19:47

 マイナーですが興味深い人物を。

ジェームズ4世(スコットランド王)

【統率】72
 貴族による内乱続きだったスコットランドにあって、貴族をよく掌握し安定をもたらす。北方ハイランダーの宣撫にも成功。
 ただし、これらの勢力を軍事的に統合することには失敗、それが後述する大敗北に繋がる。
 平時の統率は一級だが、戦場での統率は平凡。全体として優秀レベル。

【武力】40
 貴族の反乱は簡単に鎮圧しているので無能ではなかろう。
 ただし、強敵イングランドとの「フロドゥンの戦い」では、4万の兵を動員しながら2万5千のイングランド軍に、自身を含む高級指揮官がごっそり戦死するという歴史的かつ致命的な大敗北を喫している。
 よくいって平凡レベル。

【知力】65
 頭脳明晰で、ハイランダーの言語を含む数か国語を解したという。
 国内もその知謀でまとめ上げていったが、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻に対抗して対仏大同盟が結成されると、フランスとの交誼を重んじて同盟の一角イングランドに単独で戦いを挑むという失策を犯している(それが前記フロドゥンの戦いにおける大敗北に繋がる。)。
 まあまあレベル。

【政治】80
 アバディーン大学の創設、巡回裁判の充実、首都エディンバラの整備、軍備の強化等、内政面での成果は大きい。

【魅力】85
 魅力的な人物と伝わる。国内の貴族やハイランダーらの服属を勝ち得たのも彼の個人的魅力に負うところが大。

[99] やっち 2007/05/11 19:59

−戦場に散った理想の君主

 スコットランド、スチュアート朝では歴代幼君が続き、有力貴族間の政争や王と貴族との対立が相次ぎ、混乱を極めていた。また、フランスと同盟してイングランドに対抗するという遠交近攻策をとっていたが、直接国境を接するイングランドとの戦いは常に不利で、敗北の辛酸をなめ続けていた。
 そのような中、15歳で即位したジェームズ4世は、貴族の反乱を粉砕した後、温情をもって対処に臨んで心服を勝ち取る。また、ハイランダーへの働きかけを積極的に行い、彼らの掌握に成功する。
 ジェームズ4世は温厚かつ冷静沈着な人物で、前記政治欄記載の治績と魅力欄記載の人的魅力をもって理想の君主と称えられた。
 が、南方の大国イングランド(ヘンリー8世治下)との関係では失策を犯す。国内を完全に掌握し切れておらず、かつ国際関係も不利な状況で単独で戦いを挑んでしまう。結果は、上記の大敗北で、治世を支えた優秀な指揮官層と、自身の命をも戦場に散らす結果となった。
 これによりスコットランドの改革は頓挫、同国は更に迷走を続けることとなる。

 政治では優秀、しかし戦争は不得手、と、アウグストゥスを小さくしたような人物です。
 平和な時代に平和な国に生まれていれば、長く名君と称えられる治績を残したでしょう。
 敵であったヘンリー8世よりも、個人的には優秀でかつ魅力的な人物だと思います。

[100] 越中守 2007/05/12 12:44

>98-99
時代が時代であるが故に、実力を発揮出来なかった君主の一人ですね。
こういった人物が表舞台から引きずり降ろされることは、歴史にとって損失という他ないのでしょうか?

[101] 地理公 2007/05/12 17:42

100までに評価された人物

>>2-3 汪兆銘
>>4 殤帝
>>8-9 石田三成
>>10-12 眉輪王
>>15-16 宇喜多秀家
>>17-19 武田信玄
>>20>>28 阿野全成
>>24-26 シャア
>>27 ガンダム系
>>34 アブラハム
>>37-38 イシュトヴァーン1世
>>40>>42 マルクス
>>41>>42 エンゲルス
>>44 耶律阿保機
>>45 シャルクトン
>>46 ドルゴン
>>48 李自成
>>64-65 クサンティッポス
>>79-80 コンスタンティヌス11世
>>83-85 今川義元
>>90-92 大友宗麟
>>93-94 聖エルジェーベト
>>98-99 ジェームズ4世

[102] ハーン 2007/05/13 02:17

>>98-99
 優れた能力をもっていたのに、たった一度の判断ミスで全てを台無しにしてしまったような感じですね。
 敵のヘンリー8世も相当優秀な人だったようですが。

>>100
 イングランドにとっては幸運だったのではないかと。

[103] ハーン 2007/05/13 02:17

 ユスティニアヌス1世

 483年5月11日 - 565年11月14日または15日

統率……96 彼の時代にビザンツ帝国の皇帝は良いか悪いかは別にして、それまでの市民の代表のような意味合いを脱却して文字通りの専制君主となりました。優れた指導力で北アフリカ、イタリアの征服を完了しています。ローマ法大全も作り上げました。ですが、ブルガリアにドナウ川を越えられたり、東方をペルシアに脅かされていたりするので、かなりの無理をしたことが伺われます。それでも、北アフリカとイタリアを保持し続けたんですから、傑出していたのは間違いないでしょう。

武力……30 実戦経験はありません。

知力……63 壮大な戦略で西ローマ帝国領を取り戻そうとしましたが、二正面作戦の歪みによって東部戦線では大抵はホスローに出し抜かれています。ペルシアで反乱が起きて立場が微妙になった時にも攻めましたが、どうも上手くいきません。イタリアでもベリサリウスのもとにナルセスを送って指揮系統を混乱させ、敵に防衛体制を整える時間を与えたりしています。ただ、彼が遅れをとったのはこの時代でも屈指の名君であるホスローくらいで、ゲリメルやテオダハト、トティラ(ベリサリウスは負けましたが、そもそも彼に勝たせる気がなかったんでしょう)には問題なく勝利していますし、失敗も致命的なものではないのでこのくらはあるでしょう。

政治……45 統治機構の構築は素晴らしいのですが、どうも彼は民衆の統治が下手でした。ニカの乱以降も重税によって何回も反乱が起きています。特に占領地の統治は酷く、北アフリカやイタリアで何度も反乱を起こされています。後継者のユスティヌス2世によると、即位した当時の国庫は借金の証書くらいしかなかったそうです。

魅力……61 プロコピウスなんかは死ぬほど嫌っていたようで、自著に罵詈雑言の限りを書き込んでいます。これを全面的に信用できるのかと言われると、かなり厳しいのですが、治世のほとんどを戦争に費やし、重税をかけまくっていたせいで反乱が起きていますから、皇帝の政策を快く思っていない人々が多数存在したようです。とはいうものの、叔父ユスティヌスが病気になると官僚たちが彼の即位を求めたそうなので、それなりに人気はあったのでしょう。怒りを表さず、人の話によく耳を傾けていたともいいます。

列伝 最後のローマ皇帝
 叔父ユスティヌスが皇帝になるまで何処で何をしていたのかは不明だが、即位前にダンサー出身のテオドラと結婚するために法を変えたことから、法学に関する知識はあるものと思われる。ユスティヌスの政務を助け、彼が死ぬと即位し、旧西帝国領奪還計画を発動させる。
 そのための戦費調達で反乱が何度も起こるのだが、虐殺でそれを乗り越えてベリサリウスやナルセスといった有能な将軍の力を借りて北アフリカとイタリアを奪還する。だが、西にかまけている間に東でホスローが策動し、その国境を脅かし、勝ったり負けたりを繰り返した。
 占領した地域でも反乱が勃発し、重税で反乱が続くなどしたのに聖ソフィア大聖堂を建設し、文学的にも一時代を築き上げました。相当にタフな男です。
 西ユーラシア最大の国家の膨大な国力で派手なことをしまくったユスティニアヌスもさすがに年には勝てず、565年にその長い治世を終える。

 統率が突出して高い独裁者タイプです。全国的な大組織の構築を行なわせましょう。大きな成果をあげてくれるはずです。知力もそれなりにあるので、露骨な判断の誤りもしません。
 ただ、政治力に難があるので、最高指導者にしたくないところでしょうが、これだけ高い統率力を最大限に生かすためには最高指導者にするしかないのが悩みどころです。

[104] ZIRIA 2007/05/14 21:17

>>103
せっかくなので戦争をし続けたのに
国庫を満タンにして増設し続けた
バシレイオス2世も見てみたいです。
是非お願いします。

[105] マフムード 2007/05/15 02:15

>>103
個人的に、あまり好きになれない数少ない歴史人物です(笑)
武帝やルイ14世みたいなタイプですね。ん〜、統率だけ突出した指導者は危ない…。

>さば缶さん
おつかれさまです。大修正楽しみにしてます。やっぱり時代区分でしょうか…。

>どなたか
自分が全然やらない、どころかレスもつけない、
以前にそもそもほとんど見る暇がない状態で申し訳ないですが、
どなたかナチスの軍需相、アルベルト・シュペーアの数値化をしていただけないでしょうか。

[106] さば缶 2007/05/15 04:14

つ、疲れたーw
ばたんQ

[107] 地理公 2007/05/15 12:58

>>106
これはすごい
お疲れ様です

気がついたところでは、
〜前7世紀のティグラトピレセル3世の数値が間違っています
18世紀の、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがヨーロッパのほうに入っています
(アフガニスタンなのでイスラムに入れたほうがいいと思います)

[108] ハーン 2007/05/15 13:02

>>104
 コーエーまとめの2スレ556にあります。死んだ後に政策を否定される人の評価は難しいんですよね。

>>105
 ルイ14世はそのうちやろうかと思っている人物です。問題はユスティニアヌスと大差ない能力になりそうな点ですね。
 シュペーアはナチの高官の誰かをやろうと思っていたので、近いうちになんとかしたいと思います。

>>106
 お疲れ様です。まさか、ここまでやってくれるとは思いもよりませんでした。地図付時代付。一目でどの時代が人気があるのか分かりますね。
 時代と地域20世紀に私の再評価スターリンが入っていないので、追加してください。
 ジューコフの知力を90に修正してください。
 綾波レイの魅力がシンジのそれになっています。

[109] マフムード 2007/05/15 14:23

>>106
おつかれさまです! 素晴らしすぎます。見るだけでもとても楽しいです。
気付いた点ですが、最後の橋本龍太郎の評者が違っています。

ついでに生態系ネタをひとつ。

ホモ・サピエンス(約20万年前〜)
活動地域:地球

【統率】100
地球史上唯一、他種族の奴隷化に成功
寄生や共生の例はいくらでもありますが、人類のように異種生物を生殖段階から徹底的に支配し操作して自らに奉仕させた生物など他に存在しません。

【武力】35
単独素手であれば、こんなものでしょう。地上生物のなかでは比較的大型で行動力に優れていますが、柔らかい体表が露出し、角や牙のような武器も備えていません。新石器革命以後は平均的基礎体力も低下の一途をたどり、近代医学の発明以降は細菌への抵抗力もがた落ちです。
ただし闘争がひとたび知能戦にうつれば、カラスなどごく少数の種族を除いて彼らに対抗しうる生物は存在しません。さらに闘争の規模が大きくなり、集団戦・機械化戦争となれば、人類は疑いなく地球史上空前絶後の最強戦闘力を誇ります。ホモ・サピエンスの登場以来、集団化した人類の武力によって滅亡を余儀なくされた種族は数え切れません。

【知力】100
もっとも基礎的なレベルでは、一度に7つ以下の対象しか認識できないなど、彼らの知能はカラスと大差ありません。しかし獲得した「情報」を保存し体系的に整理して「知識」を形成するという生物界に類例のない能力を持つため、地球史上空前の成功を収めました。また彼らは自分自身を外界の一切から切り離して孤立した「自我」を認識するという、これまた類例のない能力を持っています。
ホモ・サピエンスは初期状態の武力のハンデを知力その他で完全に補い、環境に適応する努力を放棄する代わりに、環境そのものを改変してしまうという荒業に踏み切りました。おかげでいまや彼らの支配は惑星全域を覆い、地球史上はじめて大気圏外にまで進出してしまいました。あまりにも強引な生存戦略を展開したため、遠からず地球そのものを破壊しかねないと恐れられるほどです。この凄まじい能力、ぶっちゃけ100でも低すぎるぐらいです。

【政治】97
人間は社会的動物です。ホモ・サピエンスはその誕生以来、常に群れを作って生活してきました。彼らの新生児は単独で生存することは絶対に不可能で、少なくとも数年にわたって他の個体に庇護される必要があり、この間に高度な社会性を身につけます。また、彼らは言語というすぐれたコミュニケーション手段を有し、共同体や国家という複雑な相互依存システムを発達させてきました。
群れ集団同士の抗争は絶えることがありませんが、いまのところそれがホモ・サピエンス種族全体の存続に致命的影響を及ぼしたことはありませんし、異種生物と遭遇したさいは、おおむね協力して対抗します。
集団組織性において彼らを凌駕するのはアリやハチぐらいのものでしょう。

【魅力】12
数々の悪業もあり、その人気は極めて低いものです。彼らによって追い詰められ少数化した種族は、彼らの接近を察知するや直ちに身を隠します。ホモ・サピエンスに好んで従うのは、長年奴隷化されて服従精神を植えつけられたイヌやヒツジぐらいのものでしょう。

——地球最強の生物——

20万年ほどまえにアフリカ大陸北東部に出現。その初期の歴史は謎に包まれているが、次第に勢力を増し、やがてアフリカを出て各地の同族を駆逐しながらユーラシア大陸全域を制覇。4万年ほど前にはオーストラリアへ進出し、1万数千年前にはアメリカ大陸へ進出。9千年ほど前に西ユーラシア南部において、組織的に食用植物を栽培して生存を確保するという戦略が発見されるや、その勢力は飛躍的に増大。いまや地球世界に彼らに対抗しうる生物は皆無である。

[110] マフムード 2007/05/15 14:27

>>109
追加です。

【特殊技能】社会化・・・武力+65

[111] 越中守 2007/05/15 15:45

>>106
お疲れ様です。
これはとても見易いですね。

[112] マフムード 2007/05/15 16:30

トニュクク(7世紀〜8世紀)
突厥第二帝国の重臣、宰相
活動地域:モンゴル高原
漢名:阿史徳元珍

【統率】74
可汗ではないが、突厥第二帝国の建国と発展に多大な功績を残した。第二帝国の歴史はトニュククとともにあったといってよい。トニュククの死後、柔弱なビルゲ可汗は国内の乱れを抑えられず、まもなく第二帝国の滅亡をまねく。

【武力】85
第二帝国の建国時から各地を転戦し、唐、鉄勒、キルギス、突騎施、ソグドなどとの戦いで数知れぬ武功を挙げた。キョルテギンと並ぶ突厥の驍将として中国にまで知られ、唐初の伝説的な名将たちに匹敵する存在といわれている。

【知力】82
中国と草原の二つの世界を熟知し、イルティリシュやビルゲ可汗の軍師として多くの助言を行った。唐との外交交渉で活躍したうえ、智謀の才にも優れ、「賢明なるトニュクク」として内外に畏れられた。

【政治】60
これといった逸話はない。知力の数値も勘案して、このくらいだろうか。

【魅力】70
突厥第一の功臣、宰相、軍師、賢者、長老として人々の敬愛を受けた。イルティリシュやビルゲ可汗の信頼も厚く、中国でも高く評価された。

略伝:トニュクク ——突厥の名宰相——

 630年、唐と鉄勒の挟撃によって東突厥(突厥第一帝国)は滅亡した。唐皇帝は突厥に代わる草原世界の盟主としてテングリ・カガン(天可汗)を称し、薛延陀の族長をインチュ・ビルゲ可汗に冊立し、これを通して鉄勒諸部への統制が行った。突厥の遺民は山西・オルドス地方で唐の羈縻支配を受けることになった。646年には薛延陀の支配が崩れ、モンゴル高原も唐の羈縻支配下に入り、662年には北モンゴル高原に都護府までもが置かれた。

トニュクク(トンユククとも呼ばれる)は645年頃、唐に服属していた突厥の名門、阿史徳氏に生まれた。生地は華北であり、若年時代には人質として長安で暮らし、高度な中国的教養を身に付けた。
682年、突厥の王族・阿史那氏傍流のクトルクが陰山山脈で唐に叛旗をひるがえした。トニュククはクトルクに従って信任を受け、顧問官およびアパ・タルカンとなり、兵馬の統帥を命じられた。クトルクの突厥軍は683年に雲中の単于都護府を陥れ、686年末にはかつて突厥第一帝国の本拠であったモンゴル高原北部の聖地・ウトゥケン山を回復。鉄勒諸部を再征服し、突厥帝国の復興を達成した。
 トニュククはクトルクを推戴してイルティリシュ可汗としたうえ、顧問官として可汗に常に適切な助言を与える一方、突厥軍を率いて各地に転戦して無数の軍功を立て、中国に「その顧問、賢明なり」と恐れられた。
 691年にイルティリシュ可汗が死ぬと、弟・黙啜が「位をうばい」カプガン可汗となった。トニュククはイルティリシュ可汗の系統に忠実であったために政権から遠ざけられたが、圧制によって国内が乱れ、カプガン可汗は714年に鉄勒の反乱軍との戦いで殺害された。
 そこでイルティリシュ統とカプガン統で可汗位継承をめぐる対立が起こったが、イルティリシュの次男キョルテギンとトニュククがクーデターを起こしてカプガン可汗の一門を粛清し、イルティリシュの長男・黙棘連をビルゲ可汗として即位させた。老齢のトニュククはビルゲ可汗を助けて突厥の建て直しに尽力し、唐との関係のあり方について優れた助言を行い、晩年に自らの生涯を総括したバイン・ツォクト碑文を残した。
 唐の玄宗朝の宰相・張説は「トニュククは深沈にして謀あり、老いてますます壮、李靖、徐勣の流なり」と評している。

[113] マフムード 2007/05/15 16:46

>>106
発見。安禄山の武力69が39になってます。

いま安禄山の評価をやったら、どれも全然違う数値になりそうな気がしますが…。

[114] シラス 2007/05/15 22:53

白洲次郎

【統率】99 魅力、政治と連動するが、エピソードや現役が語る人物像からすると、人を束ねる能力は神業。
【武力】70 若い頃は相当な暴れん坊。ストリートファイトもしばしば。
【知力】89 ケンブリッジ大卒というだけでなく、元来の頭の良さがあってこそ、GHQに対抗できた。
【政治】95 これも魅力、統率と連動するが、政治に関する知識という意味では75くらいかも。が、人を動かすという意味での政治力だとこれくらい。政界入り後、当時の政界、財界で彼の支配力が及ばないところはわずか。
【魅力】99 神ではないだろうけど、彼を知った人は彼に魅き寄せられたと言われてます。田中角栄とかも。身近なとこだとキムタクも彼に心酔してるらしい。

[115] 越中守 2007/05/16 03:50

ベーラ3世 1148-1196(在位1172-1196)

【統率】70
貴族勢力の強いハンガリー史では珍しく、貴族の内紛を鎮め王権の強化を一時的にとはいえ成功させています。

【武力】75
セルビアやクロアチアなど、ビザンツに占領されていた地域を奪回。また、ヴェネツィア共和国からザラ(ザーラ)を奪取したり、内紛で混乱するロシアにも介入するなど、後のマーチャーシュにも匹敵するほどの戦果を挙げています。

【知力】68
聡明さを買われて、一時はビザンツの帝位継承候補に挙げられたこともあるそうです。

【政治】79
積極的に海外文化を受け入れる政策に出た為、市場にはイタリア人やドイツ人、ロシア人にユダヤ人や、果てはイスラム教徒までが訪れたそうです。マジャル語(ハンガリー語)による世俗文学がこの時代に生まれたのも、これと連動しているとされます。

【魅力】65
個人の魅力としてはそこまでのエピソードはありませんが、少なくともビザンツ皇帝マヌエル1世に後継者候補としてあげられたのですから、それなりの魅力はあったものと考えられます。

[116] 越中守 2007/05/16 03:59

【列伝】 アールパード朝最盛期の王

幼少期より聡明で、後継者のいなかったビザンツ皇帝マヌエル1世の養子として、ビザンツにて教育を受ける。
マヌエル1世の娘と婚約し、一時は帝位継承者とされるが、マヌエル1世に男子が産まれたこと、兄イシュトバーン3世が後継者を得ずして死去したことが相まった為にハンガリーに帰国、王位に就いた。
国内の内紛を平定後、主に1180年頃より積極的な対外政策に出て、周辺諸国を平らげ、果てはロシアの内紛にすら介入した。
彼の時代にアールパード朝は全盛期を迎えるが、彼の死後、長男イムレ1世と次男のエンドレ(アンドラーシュ)2世の王位継承争いが起こった為、ハンガリーは混乱の極みを迎えることになるのである。

[117] さば缶 2007/05/16 18:47

 どうも、まとめ人です。
 更新好評のようで良かったです。
 レビューの量が膨大になってきたので、それの整理は必須だと前々から思ったんですが、量が多くなればなる程手が出しづらくなり・・・・・・w
なんとかまとまって良かったです。地図もつけられて大満足!
 念のため言っておきますが地図の作成者様の了解は取っています。
(でも元々著作権フリーだったらしいです・・・・・・確かに添付txtに書いてありました)
 個人的に、編集していて目指していたところは「世界史初心者から歴史変態マニアまで楽しめてためになる!」だったんですが少しは近づいたでしょうか。

 モチベーションを保って作業を続けられたのも皆さんのレビューのクォリティが高かったからです。
 僕自身も世界史の知識は高校時代の成績が良かった程度の域を出ていないので、「へぇー、こんな事が」というトリビアを知る事ができて、読んでて面白かったです。
 知らない武将を知る、知ってる人物でも知らない側面などが分かる事は楽しい事ですね!

[118] やっち 2007/05/17 00:05

 さば缶さん、毎度ありがとうございました。
 まとめサイトを見るたびに、自分の評価に疑問を抱いたり、ああでもないこうでもないと考えを巡らすことしばしばです。これもさば缶さんがまとめてくださったおかげ、今後ともよろしくお願いいたします。

 これからは、できる限り評価に当たって使用した参考文献・サイトも挙げたいと思っています。
 これらもサイトに載せるとなるとさば缶さんには更なるご苦労をかけることになりそうですが・・・

[119] やっち 2007/05/17 00:09

>>115

 納得です。
 蛇足ですが、彼がビザンツ帝位を継いでいたら、ほぼ確実にアンドロニコス(後の同1世コムネノス)との間で内戦になっていたでしょうね。

>>98

 スコットランド王に着目したのは、先日のスコットランド議会選で独立派が勝利を収めたことがきっかけです。ウォレスやロバート・ザ・ブルースにしなかったのは単に好みの問題。
 独立。イングランド人への複雑な思いはまだまだ収まらないようです。

[120] ネタメイン考察者 2007/05/19 00:05

ネタメインでやらせてもらうです。まずはベルセルクのグリフィスを。まだ人間だった頃の彼です。
【統率】92
鷹の団を完璧なまでに統率していた。その統率力は一軍の将として完璧である。だがふとしたことからガッツを手放してしまったのでそれを減点としました。
【武力】99
個人の腕前もさることながらその戦略、とりわけ戦術は天才的なものがあります。100にしなかったのは個人的な戦闘力において微かにガッツが勝っているからです。
【知力】93
これまた見事なものです。ガッツを手放すまではあらゆることを完璧に洞察し、遂行しています。その知力は天才と言うべきです。ですがやはりガッツを手放した後自暴自棄になりましたのでそれを減点とします。
【政治】90
これに関しても政略面において抜群の冴えを見せています。謀略もまた得意としていてそれを隠すしたたかさも備えています。順調にけば間違いなく一国の王になっていました。
【魅力】100
彼の能力において最も素晴らしいのはそのカリスマ性です。平民出身とは思えぬ気品と美貌、そして時折見せる無邪気さによりあらゆる人物を心服させてきています。ガッツもまた彼を知りはじめて平穏を知った程です。
【特殊能力/修正】
自暴自棄、魅了、洞察、一騎打ち

[121] 越中守 2007/05/20 03:41

>>112
突厥の名将ですね。
北方騎馬民族の歴史に触れる機会というのはなかなかありませんが、なかなかに興味深い人物です。

>>119
ええ、もしもベーラ3世がビザンツ帝位を継いでいたら…という御意見には同意致します。
ならばこそ、彼は帰国したのでしょうし。

[122] 越中守 2007/05/20 04:08

エンドレ2世 1167-1235

【統率】15
民衆のみならず、貴族にまで重税を掛けようとした為に猛反発を受け、父ベーラ3世が強化させた王権を大きく弱体化させました。
また、後述しますが、ヴェネツィア共和国と対立し、領地を奪われています。

【武力】21
即位後、父も行ったロシア遠征を何度も行いますが、尽く失敗します。
また、第5次十字軍の際にはヴェネツィア共和国と対立して、せっかく父が手に入れたザラ(ザーラ)を再奪取された挙げ句、戦場でも大敗を喫しています。
とはいえ、甥のラースロー3世から王位を奪っていますので、一応ゴミレベルは避けます。
もっとも、ラースロー3世は当時6歳の幼児ですが…

【知力】13
多大な軍事費(それも全て失敗した)により、ハンガリー王国の財政が逼迫したのを重税によって誤魔化そうとしたり、ユダヤ教徒の銀行業者を重んじたが故に教皇から破門されたりと、救いようのない判断力を持っています。
ただし、当時の軍事行動自体、それまでの時代に比べて必要な経費が多くなっていた(軍装をそれまでの時代と比べ、ある程度派手にしなければならなかった)ことは考慮しても良いでしょう。

【政治】18
とにかく無能の代名詞のような存在です。
内政外交全てにおいて失策しか見当たりません。
唯一成功した謀略は、兄イムレ1世の死後、幼い甥ラースロー3世から王位を奪ったことでしょうか。
もちろん、とても褒められた類のものではありませんが。

【魅力】19
教皇から破門されたり、民衆や貴族から総スカンを食らったりと、お世辞にも魅力ある人間とは言えません。
彼を許したのは、謀反を起こしたにも拘わらず罪に問わなかった兄イムレ1世のみでした。
そんな兄に対してすら、死後にその子を廃位させるという恩知らずな行動に出るのですが。

[123] 越中守 2007/05/20 04:28

無能な野心家

父ベーラ3世の死後、兄イムレ1世が王位を継承したのを不服として、兄が異教徒討伐に出ている最中に謀反を起こす。
この時の内乱が元でハンガリーの国力は大きく削られてしまったが、それすらハンガリーにとって不幸の第一歩でしかなかった。
兄が30代前半で死去すると、幼い甥ラースロー3世を廃嫡して王位に就く。
即位後の彼の政策は失敗続き。
ロシア遠征を行えばほうほうの体で逃げ帰り、十字軍に参加すれば逆に領土を奪われ、財政再建でも問題行動を繰り返し、貴族には権力拡大(免税や武力抵抗権などの特権)の金印勅書を発行させられ、挙げ句に教皇からも破門されるという有様であった。
このためハンガリーは混乱し、衰退していく結果となった。

また、彼の妃ゲルトルードも彼に劣らぬ嫌われ者で、重臣バーンク=バーン(バーンク辺境伯)が彼女を殺害したエピソードが、ハンガリーの国民的行事の際の催し物としてオペラ上演される程であるという。

彼にとって幸いだったのは、迫り来るモンゴル軍が来襲する前に世を去ることが出来たことだろう。

所謂義理が低く野心が高いタイプ。そのくせ能力は低いので始末に負えない。ハンガリー版のジョン王と言っても差し支えなかろう。
もっとも、これだけ能力が低ければ、ある種熱狂的なファンがつきそうな予感もする。

ちなみに、聖人として人気の高い聖エルジェーベトは彼の娘である。

[124] やっち 2007/05/30 18:46

フランシスコ・ソラノ・ロペス
 パラグアイの独裁者

統率 70
 小国とはいえパラグアイを掌握。後述する悲惨な戦争を最後まで権力を奪われることなくやり遂げた統率力は、善悪は別として、無能ではなかろう。
 戦前、パラグアイを南米有数の軍事国家とした手腕があり、また良将を抜擢して用いる能力もある。
 ただし、それは賢明な父親が構築した統治体制に拠るところが大きいので、かろうじて「優秀」レベルのこの数字とした。

武力 53
 戦略・外交といった能力が決定的に欠如しているが、それは「知力」「政治」欄で述べる。
 部隊指揮官としては平凡。

知力 12
 軍事的冒険に駆られて、国力にして10倍のブラジルを敵に戦争を始めてしまう。繰り出した虎の子の遠征軍が孤立した現実を直視せず更なる進撃を命じたことから、戦争序盤で自軍の最優秀部隊を失う大失態を犯してしまう。
 外交・戦略ともかなり拙く「ゴミ」レベルだが、最も拙いのは、自国が強国に囲まれた小国である現実を直視できない現実把握能力のなさであろう。

政治 26
 政治家としてみるべき治績はない。
 外交能力も低く、強国ブラジルとの無謀な開戦の後、外交の失敗からウルグアイ、更にブラジルの天敵アルゼンチンをも敵に回してしまい、三か国同盟軍に攻められるという絶望的な事態を引き起こしてしまう。
 戦争により国内が疲弊してもこれを顧みず戦いつづけ、後に述べる壊滅的な結果をもたらすことになる。

魅力 63
 名門の出身であり、独裁者として君臨し、表だった反抗もないことから、それなりの人望はあったのだろう。
 死後しばらくは亡国の君として激しい非難に晒されるが、ナショナリズムの高揚に伴い大国に立ち向かった英雄としての評価を受けるに至る。

[125] やっち 2007/05/30 19:05

−無能な二代目が引き起こした史上最も悲惨な戦争
 父カルロス・アントニオ・ロペスもパラグアイの独裁者であったが、地域大国ブラジルやアルゼンチンとの紛争を外交で解決し続けた有能な政治家である。カルロスは、後を襲う長男ソラノに「剣に拠らずペンで解決せよ」と遺言したが、ソラノは父から権力は継いだもののその遺言は守らなかった。
 父の生前、フランスに赴任したソラノは、そこで時の皇帝ナポレオン3世の華やかな治世に完全に魅了されてしまう。そこで帰国するや国力に不釣り合いな軍備を増強。
 父が死んで権力を継いだ後、隣国ウルグアイの内紛に絡み、大国ブラジルに対抗して、同国が支援する方と逆の勢力を支援、ブラジルに戦いを挑むが、無謀な遠征を命じたせいで、序盤で自軍の最優秀部隊を失ってしまう。外交の失敗により当のウルグアイや、アルゼンチンもブラジル側に立ち、パラグアイ対三国同盟という絶望的な展開となる。にもかかわらず、ロペスは国民を総動員して徹底抗戦を命じ、パラグアイに大変な惨禍をもたらすことになる。
 敗戦が続き成年男子が不足すると老人や少年まで動員して防戦に当たるが、首都アスンシオンも陥落、それでも交戦を諦めず、北部山岳地帯にて少年兵を主力とする部隊でブラジル軍の精鋭に当たり続けるが、結局戦死する。
 この戦争により、パラグアイは領土の4分の1を失っただけでなく、少なく見積もっても人口の半分以上(一説には4分3)が死亡するという大変な惨禍を被ることになる。特に成年男子は8割から9割が死亡したと言われており、「外国人男性がパラグアイに行くと女性の集団に襲われる。」との伝説が残るほど。
 パラグアイがこの惨禍からとりあえず立ち直るのに半世紀以上を要したが、現在も完全に立ち直ったとはいえず。同国は南米最貧国の一つである。
 このパラグアイ戦争は史上最も悲惨な戦争といわれている。
 これも全て彼ソラノ・ロペスに帰責されるべきもの。

 無能です。それだけでなく、夢想家で、現実をみる力もありません。典型的なバカ2代目です。
 この点、ナポレオン3世と似ています。ただ、フランスは大国だったので敗戦してもそこまでの被害はありませんでしたが、小国パラグアイは悲惨なことになりました。
 こういう男が無批判に無制限の独裁権力と強力な軍備を継ぎ、国内にストッパーもないとなるとどういう状況に陥るか、よく示していると思います。

[126] 素人歴史好き 2007/05/31 23:38

うわー、久しぶりに顔を出してみたら、これは凄い。さば缶さんお疲れ様です。
で、早速ですが(笑)、イツハク・ラビンの政治のコメントがウリャンハタイのものになっています。あと、もし数値の変更を希望しても良いなら、ラビンの武力を82に、知力を80に変更していただけるでしょうか。今見直すとさすがにインフレだったと自分でも思いますので。

[127] 素人歴史好き 2007/05/31 23:38

高仙芝(生年不詳〜755年)

【統率】92…純粋に軍指揮官としてのみ。(というか彼にはそれ以外ない)
1万の軍勢を率いてパミール高原のダルコット峠(標高4,575m)を踏破する。スタインのいうように「ハンニバルのアルプス越え以上」かどうかはともかく、充分超人的統率能力だろう。
李靖という化け物がいるので唐朝最高とは言えんが、個人的には朝鮮半島出身者で最高の軍指揮能力の持ち主だと思う。
タラス河畔の戦いでカルルク族に裏切られたのは政治・知力でマイナスすべき事柄だと思うのでここではマイナスしない。
【武力】81…吐蕃の同盟国小勃律を討ち、西域七十二ヶ国を服属させ、さらに石国(現在のタシケント辺り)も討伐。こちらも充分一流クラス。個人的武勇の面でも、天下一と言われるほどの馬上弓の名手だった。
ただ、タラス河畔といい、潼関といい、政治能力の無さが軍事能力の足を引っ張っている気がしてならない。
上司に恵まれれば、本当はもっと出来る子なんです! …多分。
【知力】39…偽の和約を結んで油断させる。部隊の士気が落ち始めたとき、敵からの偽の降伏の使者をでっち上げて士気を回復させるなど、知略もある。しかし彼の天才的頭脳の全ては戦争にかかわることにしか機能せず、勝った後のことにさえ考えが及んでいないように思える。
【政治】12…巨大な才能を持って生まれてきた人間は、巨大な才能の欠落も合わせ持っているという典型例。
一言で言うとバカ。節度使を務めていたことからそれなりの政治能力はあったのではないかとも思われるが、自分を引き立ててくれた上司を無視して勝手に都へ戦勝報告して激怒されたり(当たり前だな)、石国での略奪その後の対応など政治センスの欠片も無い。
辺令誠にしたって、(記述は無いが状況からして)賄賂を贈ってミスを庇ってもらったのだから人となりは知っていただろうし、もう少し上手く立ち回れなかったものか。
【魅力】68…パミール高原越えの功績から兵士の支持は絶大。
辺令誠の讒言により高仙芝が処刑されたとき、兵士たちが叫んだ「冤罪だ」という声は、天地を震わせるほどだった伝えられる。

高句麗出身。高姓なので王族説もある。
747年、行営節度使となり、吐蕃の勢力下にあった小勃律を平らげ、西域七十二ヶ国を服属せしめた。この時上司を無視して都へ戦勝報告してしまう。当然上司は大激怒するが、辺令誠の取り成しにより助けられ四鎮節度使に抜擢される。
749年には石国を攻め滅ぼす。が、その際、石国の財宝を略奪し、住民を虐殺してしまう。からくも唐軍から逃げ出した石国王子は周辺諸国に高仙芝の暴虐を訴え、西域諸国の反唐感情は爆発。アッバース朝へ救援を求めることになる。
751年タラスの戦いで、アッバース朝に惨敗。その折、唐兵の捕虜の中に造紙職人が居たため、製紙技術が西方に伝達したのは有名。してみると彼の知力、政治の低さが世界史を大きく動かしたのだから逆にすごいレベルでも良いかもしれない。
755年に安史の乱が起きると、安禄山を潼関で迎え撃つ。戦いを有利に進めながらも、監軍の辺令誠への賄賂を断って「敵前逃亡・官庫横領罪」で誣告されて軍中で斬られた。

[128] マフムード 2007/06/03 20:46

アブー・ムスリム(700年頃〜755年)
アッバース革命の指導者、ハーシミーヤ教宣員
アッバース朝イスラーム帝国 初代ホラーサーン総督(在任750年〜755年)
活動地域:西アジア、中央アジア

【統率】85
動くのはまったくの無から作り上げた諸勢力混成軍団、しかも自分自身はあくまで後方指揮というありえないような条件で革命を成功させる。革命後にホラーサーン総督に任じられて大過なくこの地方を統治しているため、決して単なる反体制諸勢力の御輿ではなく、相応の権威や実力も持っていたと思われる。

【武力】70
西征もタラス河畔も彼本人が指揮を取ったわけではない。ホラーサーンの支配を確立してからは実戦は部下に任せていたらしい。ただ、最初にウマイヤ朝のホラーサーン総督を倒すまでは彼自身が指揮を取ったと推測されるのでこの数値。

【知力】71
やったことは凄まじいが、その最期からすると、これまた辣腕政治家のマンスールには一歩を譲ると見るべきだろうか。

【政治】89
掲げたスローガンは「みなが満足する者を指導者に」という、考えてみればとんでもなく曖昧なものだったが、それでもありとあらゆる反体制勢力を組み込んでアッバース朝の成立を既成事実化してしまった。勢力基盤ホラーサーンの統治も優れたものだったらしい。

【魅力】86
特に逸話などがあるわけではないが、その出自と活躍を考えればこのくらいはあるだろう。死後には一部で神格化までされている。

略伝:アブー・ムスリム ——アッバース家の走狗——

 アッバース革命の指導者、アッバース朝建国における最大の功臣。
 出自不詳。イラン系の解放奴隷出身という説が有力。ウマイヤ朝末期にメッカで預言者ムハンマドの叔父の血を引くアッバース家のイブラーヒームに出会い、ウマイヤ朝の打倒とアッバース王朝の建設を目指すアッバース一族の秘密結社・ハーシミーヤに加入する。

 743年、ウマイヤ朝のカリフ・ヒシャームの死によって世情が混乱すると、ハーシミーヤはアブー・ムスリムをイラン東部のホラーサーンに送り込み、その地でウマイヤ朝に対する反乱を煽動・組織させた。
 アブー・ムスリムは「アッバース一族のカリフ位擁立」という最終目的を公然化することはせず、ひたすらウマイヤ朝への不満を煽って現体制に不満を持つ諸勢力を糾合。
747年に漆黒の軍旗を掲げてメルヴ近郊で蜂起し、翌年までにホラーサーン全土を掌握した。さらに大軍を西方へ派遣し、749年10月にイラクのクーファでアッバース家のアブー・アル・アッバースをカリフに擁立、アッバース朝の成立を宣言した。

 アブー・ムスリムはアッバース朝によってホラーサーン総督に任じられ、イラン東部から中央アジアに及ぶ広大な地域を支配した。751年にはタラス河畔の戦いで唐軍を撃退し、イスラームの西トルキスタン支配を確立した。
 しかし彼の功績と権力の巨大さは中央政権の警戒を招き、755年、第2代カリフのマンスールはクテシフォンでアブー・ムスリムを謀殺した。彼の死はアッバース帝国東半で大混乱を巻き起こし、その本拠地ホラーサーンでは、その後数十年にわたってアッバース朝への反乱が続いた。

[129] マフムード 2007/06/03 20:46

>>127の敵役をやってみました(笑)

[130] ハーン 2007/06/05 14:39

>>109
 勝てるかこんな化け物!!! と思ってしまうような凄まじい能力ですね。さすがは我等が人類、ということです。
 そして他の種族の凄まじい力を知れば知るほど、それを完全に無効化できる人類の英知が素晴らしく思えます。
 魅力の低さはご愛嬌、てことで。

>>122-123
 確かに、ここまで無能だと本当にファンがつきそうです。そのファンが弁護するのか、それとも無能すぎるところが可愛いと思うのかは知りませんが。

>>124-125
 徹底抗戦して国土を荒らされまくったアホですね。そしてそれは六十年前の枢軸国にも当てはまったりするんですけどね。

>>127
 彼がタラスで負けた人物でしたか……知力と政治が凄いことになっていますね。第二の班超にはなれそうにありませんね。

>>128
 ここまで優秀だと逆に邪魔ですね。それにしても、凄い条件で革命を成功させたものです。

[131] ハーン 2007/06/05 14:40

以前に予告していた人物を数値化しましたので、投下します。

 アルベルト・シュペーア

 1905年5月19日- 1981年9月1日

統率……79 彼の前任者であるトートはドイツ道路総監、水路・エネルギー総監、さらにヒトラーの代理として軍需大臣を務め、北部ノルウェーから南フランス、占領したロシア領に高速道路、独仏国境要塞と大西洋沿岸の潜水艦基地まで建設していました。彼の死とともにシュペーアはこの大規模な組織を引き継ぎました。そして第三帝国の軍需を連合軍からの度重なる爆撃を受けていたにも関わらず、44年当時の生産高を大戦を通じて最大のものとなりました。これだけの功績をあげたのですが、ゲーリングやヒムラー、ハイドリヒ、トートといった大組織そのものを構築した人物とは異なり、すでに大規模になっていた組織を引き継いだのでその分を差し引きました。

武力……30 特にありません。

知力……54 ゲーリングやヒムラー、ボルマンといった他人の領分にまで自分の勢力を広げたがるナチス上層部の連中とは異なり、無意味な権力闘争で国内を混乱させたりはしませんでした(ゲーリングの目には必ずしもそうは映っていなかったようですが)。この時代の第三帝国の要人への評価で問題になるのは、ヒトラーの戦略の誤りを正したか否かという点になることがあるのですが、誰の意見を採用しても第三帝国に勝つ目はなかったというのが私の結論なので、このくらいあればいいでしょう。ちなみに、彼はクルクス戦に反対していました。

政治……89 彼が軍需大臣となる前からすでに第三帝国は総動員を行っていましたし、彼以前にも各種生産の統合というアイディアはありましたが、第三帝国首脳陣の勢力争いで実現できなかったものを非常に高い水準で現実化したのが彼の功績です。第三帝国最高指導部においてテクノラートとしての実力はゲッベルスにも迫るものがあります。彼の仕事の成果は終戦時のアンダーソン将軍の発言を引用すれば事足りるでしょう。「もしあなたの軍需生産の成果を前もって知っていたならば、あなたを地下に葬るために、第八空軍の全機を派遣したことだろう」。政争にも長けており、幾度となくボルマンらの陰謀で失脚させられそうになりましたが、どうにか自分の権力を維持し続けました。戦後はばっちりナチ批判をした回想録の出版で余生を送りました。

魅力……48 大戦中に活躍したナチス高官で戦後まで生き残った数少ない人物で、しかも贖罪のためともとれる回想録を出版したことで好意的に見られることの多い人物ですが、私は他の生き残ったナチ幹部と同様、保身のためだと思っています。それに彼の昇進は芸術趣味のあったヒトラーに気に入られてのことだったので、それほど高い魅力は必要ないと思われます。

列伝 ヒトラーの建築家
 マンハイムで三兄弟の次男として生まれる。
 父が建築家であったことから建築家になることを目指すが、世界恐慌その他諸々であまり順調に学ぶことは出来なかった。それでも一応は建築家となったある日、ナチスの大会を見に行ってヒトラーの演説に影響されたことが皮切りとなってナチズムに、というかヒトラーに傾倒して党員となる。
 ナチスに入るとその技能を生かして有力な党員の邸宅を改修したことから芸術に興味のあったヒトラーに気に入られて側近の一人となり、ベルリン建設総監となりました。
 1942年に事故死したトートに代わって軍需大臣となる。最初は断ったらしいが、ヒトラーに強く押されて引き受けた。目覚しい成果をあげた彼はヒトラーの後継者候補とまで目されていました。そこで陰謀渦巻くナチス最高指導部で暗闘を続けることになり、軍需とは別の意味で苦労したそうです。
 その彼の努力をもってしても第三帝国は敗北し、彼はニュルンベルクに戦争犯罪者として裁判を受けることになりました。
 その結果、禁固二十年の刑を受け、出所後に回想録を出版したところベストセラーになりました。イギリスでBBCに出るためロンドンに滞在していたところ病死(本当かどうかいまいちよく分からないのだが)。

 統率と政治の高い典型的な政治家タイプです。特に政治力が凄まじいので、彼の担当した部署は目覚しい成果をあげてくれるでしょう。統率力もあるので完成した部署なら完璧に指導してくれるはずです。
 ただ、魅力はそれほどないので指導者の抜擢でどうにかものにしたい人材です。
 第三帝国最高指導部はヒトラーをはじめ統率と政治の高い連中ばっかりです。さすがファシズム、てところでしょうか?。

[132] マフムード 2007/06/10 14:27

>>131
リクエストに応えていただいてありがとうございます。
総力戦体制構築の大立者にして保身の天才。やはり政治が高いですね。
自分はもう少し魅力が高そうなイメージがありましたが、こういう評価でも納得できます。
やはり戦後の反省姿勢は保身のための計算という気配がします。

>>128
文章がちょっと変なところを修正。

>ひたすらウマイヤ朝への不満を煽って現体制に不満を持つ諸勢力を糾合。

ひたすらウマイヤ朝への不満を煽って反体制の諸勢力を糾合。

>警戒を招き、755年、第2代カリフのマンスールはクテシフォンでアブー・ムスリムを謀殺した。彼の死はアッバース帝国東半で大混乱を巻き起こし、

警戒するところとなり、755年に第2代カリフのマンスールによって謀殺された。彼の死によってアッバース帝国東半で大混乱が起こり、

[133] マフムード 2007/06/10 14:51

ヘファイスティオン(紀元前356年頃〜紀元前324年)
テメノス朝マケドニア王国(アレクサンドロス帝国) ヘタイロイ指揮官、キリアルケス(帝国宰相、在任・前324年)
活動地域:マケドニア、ギリシア、オリエント

【統率】75
組織化の才能があったようで、シリア沿岸の治安維持やインダス架橋などの功績を挙げている。またインド侵攻前後に別働隊を指揮して活躍している。

【武力】74
軍事面で際立った功績はなく、ガウガメラの戦いでパルメニオン部隊の援護をしたことが特筆される程度である。とはいえ彼ほどの地位の指揮官で軍事能力が水準以下であれば、地獄のバクトリア・パンジャブ戦から帰還することなどまず不可能と思われるので、優秀レベル。

【知力】53
与えられた任務は達成するが、自分から大王に何か進言をしたというような記録はない。可もなく不可もなし。

【政治】60
パンジャブ諸侯への帰順工作などをしていることから、ある程度の能力はあったものと思われる。しかし大王軍の幕僚のなかでは孤立していたらしい。

【魅力】31
大王に寵愛されたことや武勇と美貌の評判から魅力が高そうなイメージがあるが、実は大王以外の武将たちからは嫌われていたらしい。王母オリュンピアスとの不和や、書記官エウメネスとの衝突も伝えられる。

略伝:ヘファイスティオン ——アレクサンドロスの分身——

 アレクサンドロス大王の武将、側近、親友。
 マケドニアの貴族アミュンタスの子。少年時代から王子アレクサンドロスと親しく、ともにアリストテレスの教えを受けた。アレクサンドロスが即位すると側近護衛官に任じられ、東方遠征では王の副官を務めた。
 紀元前330年10月、フィロタスの陰謀事件でアレクサンドロス暗殺計画の首謀者とされた武将フィロタスの即時処刑を主張して容れられ、その後を受けて騎兵指揮官となった。インド侵攻ではペルディッカスとともに別働隊を率いてカーブル渓谷を制圧し、大王に先行してインダス川に達し、パンジャブ諸王への工作を担当した。
 東征帰還後、紀元前324年の春にスーサでダレイオス3世の娘、ドリュペティスを娶り、キリアルケス(帝国宰相)に任じられる。しかし同年秋、エクバタナで病を発して急死した。アレクサンドロスはその死を非常に悼んで盛大な葬儀を行った。
 わずか半年後に大王自身もバビロンで病に倒れ、アレクサンドロスの帝国は瓦解する。

[134] 素人歴史好き 2007/06/18 16:46

>>128-129
役者が違うということが一目でわかる見事な数値化ですね。まるで項羽と劉邦みたいだ(笑)
実は最初は左宗棠を数値化しようと思ったのですが、調べれば調べるほど曽国藩は偉大だなとしか思えなくなってしまい、同じ偏った天才でも可愛気のある高仙芝にしたという裏話があったり。

>>130-131
それこそアブー・ムスリムクラスの上司がいないと無理でしょうね(笑)
面子を潰された上司に怒られてガクブルしちゃうおバカさんなので。
しかしドイツは能力だけみればとんでもない連中があれだけ揃っているのに、なんであんなことになっちゃったのか。

リクエストで恐縮ですが、現在「風林火山」で活躍中の北条氏康、太原雪斎をどなたか数値化していただけないでしょうか。

[135] のんびり屋 2007/06/20 03:14

お久しぶりです。
僭越ながらリクエストにお応えし、
北条氏康についてやらせてもらいたいとおもいます。

1515年〜1571年
(在位1541年(1538年説もあり。)〜1559年、しかしそれ以後も実権の多くを掌握。)
従5位上、左京大夫、相模守
通称 相模の獅子

【統率】80
生涯において河越、謙信襲来、武田との戦いなどの苦境が多かったが
組織を見事に統率し戦い抜いた。さらには組織体制を整備し、先代からの宿敵の両上杉等を打ち破って関東に大勢力を築きあげたことは指導力の証として高く評価できる。
【武力】73
河越夜戦は虚構ともいわれるが、それでも両上杉・古河公方などを打ち破りその勢力を壊滅させたのは事実である。さらには謙信が大軍を率いて襲来した時も篭城戦を主体として戦い抜き、見事に小田原を守りぬいた。他にも国府台など戦術の冴えは伺える。ただ信玄が襲来した時はうまくやれていない。謙信との小田原防衛成功も主に戦術よりは統率で評価すべきかと思われる。
【知力】72
武田と連携して謙信を振り回して関東を奪取し、不利と見るや河東郡を今川に割譲して上杉に集中するなど判断力も悪くない。さらに外交的離れ業ともいえる越相同盟を成立させ信玄を包囲しようとするなど
着眼点や戦略眼もある。しかし信玄の知略や謙信の思惑によって越相同盟は機能せず、逆に信玄に関東の反北条勢力を煽られて逆包囲され、結局武田に駿河も奪われた。悪くはないが信玄には劣る。
【政治】87
彼の本領とも言うべき所。税制改革・領民の身分体系化・検地・目安箱設置・評定衆を始めとする行政機構整備などで戦国大名の中でも優れた統治体制を確立した。飢饉や領国疲弊をかんがみて撫民政策や隠居を行って支持と政権の安定を行い、古河公方を利用した新しい関東の政治秩序の確立を目指したりと政略においても優れていた。
越相同盟においても譲歩に譲歩を重ねて上杉を動かそうとするが結局不発に終わったことは主に知力で減点する。
【魅力】68
名将と呼ばれ称えられたとされている。接見した南禅寺の僧侶は彼を
当代の覇王とまで称している。しかし後世において与えられる印象は極めて地味であり、特に魅力で得をしているようにも見えない。実績において人に慕われていたと見るのが無難ではないかと思われる。

[136] のんびり屋 2007/06/20 03:30

列伝 相模の獅子

1515年北条氏綱の嫡子として生まれる。小さい頃は臆病だったらしい。家督を継ぐ前から第一次国府台で大勝を収めている。
1541年に氏綱死去を受けて家督を継ぐ。(家督継承自体は1538年という説もある。)その後は今川に武田の仲介のもと河東郡を割譲して
和議を結んで上杉の相手に集中し、両上杉を撃破して関東に覇を唱える。しかし上杉憲政にたよられた長尾景虎(上杉謙信)の介入によって窮地に陥る。武田・今川と三国同盟を結んでこれに対抗し、謙信の小田原攻撃を篭城戦によって撃退する。
その後は武田と連携を取りつつ謙信を翻弄し、関東に領土を拡大して
いく。しかし武田の駿河侵攻によって三国同盟は崩壊。
上杉と組んで武田を包囲する越相同盟を成立させ、一時は武田を撤退させるが、信玄に翻弄され越相同盟も機能せず小田原も襲撃され、
反北条勢力にも攻勢されて主導権を失い駿河も奪われた。
越相同盟に固執し息子を謙信の養子に出すのをはじめとして譲歩を重ねなんとか逆転を謀るが果たせぬまま死去。後を継いだ氏政は武田との再同盟を選択した。

[137] のんびり屋 2007/06/20 03:40

多くの能力に秀でた非常に優秀な戦国大名です。
戦国時代における英雄の一人でしょう。
特にその政治は現在でも学者などには高い評価を受けています。
最後の武田との争いではうまく行かず失点を重ねてしまいましたが
これさえなければほぼ非の打ち所の無い業績だったのに惜しい事です。

[138] やっち 2007/06/20 11:22

>>137

 武田との争いですが,三増峠の戦いで北条軍が完敗したというのはどうも
甲陽軍鑑による虚構で,「北条軍は撤退する武田軍を捕捉・包囲しようとするも,
武田軍はかろうじて包囲網の一角を突破して撤退した」もので,引き分けってのが
真相のようですよ。
 駿府を明け渡したことについても,氏康の戦略は関東制覇で,房総方面に
主敵を抱えていますから,二正面作戦を避けるため,駿府に強いこだわりは
なかったようです。
病で寝込みがちでしたし。
 ってなわけで,最後の武田との争いも,そう失点になるものではないと
思うのです。寸土も奪われていませんしね。

[139] さば缶 2007/06/20 12:53

更新しました。

>>136まで更新。
>>126の訂正を反映
・ハーンさんの一連の神話レビューがFate関連のようなのでFate属性を追加しました。それにともない佐々木小次郎をネタカテゴリに移動。ハサンは史実・ネタ両方に属すという判断ですがOKですか?

次回は「評者から探す」を中心に更新予定です。
ちとかかると思いますが。

[140] のんびり屋 2007/06/20 13:41

>>138
やっちさん、ご意見ありがとうございます。
私が武田との争いを氏康の失点と考えるのには理由があります。
まず武田の目的自体がそもそも駿河でした。
北条は外交的な離れ業ともいえる越相同盟を成立させ、信玄を
一時は撤退させ、今川氏真に駿河の支配権を譲らせまんまと
駿河を支配する事に成功しました。ここまでは見事です。
しかし信玄に甲越一和や越中一向一揆などを謙信に絡みつかせられ
その間隙をついて領内に乱入され首都たる小田原を蹂躙されてしまいました。三増峠も結局信玄を取り逃がしてしまった事は痛い。
その後信玄に反北条勢力を煽られ、関東に力を注がざるを得なくなり
武田に駿河を奪われてしまいました。武田からすればこれは紛れもない勝利でした。駿府に強いこだわりがなかったといっても
武田によって蒲原で北条綱重兄弟をはじめとする一門・重臣を討ち取られ、北条きっての名将である綱成も深沢で敗れました。
さらには駿河だけではなく伊豆にまで侵攻され北条の劣勢は否めません。関東に敵がいるといっても、氏康は越相同盟によって武田の打倒を狙っていましたが、信玄の策や謙信の思惑によって機能できませんでした。氏康は「謙信を正当な関東の支配者と認める」「上野一国と武蔵の一部を譲る」「息子を養子に出す」といった涙ぐましい外交努力をし、何度も謙信に武田を攻めてくれるように要請しましたが結局うまくいかず武田に駿河を奪われてしまったことは減点材料とせざるを得ません。息子の氏政は「そんなに譲歩してこれなら武田と組んで関東攻めたほうがいいじゃん」と考え氏康死後にそれを行い関東での拡大に成功します。やはりこれらの点から見て武田との争いにおいては氏康に失点があるものと私は考えています。

[141] のんびり屋 2007/06/20 20:03

レス遅れてしまいました、すいません。
>>122
すごい君主がいたものですね。ゲームでこんな君主がいたら
逆に人気を集めてしまいそうです。
>>124
無能とおっしゃられますが能力を見る限り中々のものがあると思います。それでも知力と政治が圧倒的に劣れば国家に悲惨な事態を招いてしまうという典型例のようで興味深いです。
>>127
この人物は前々から気になっていた人物の一人です。タラスの敗戦が有名ですが軍人としてはやはり有能ですね。しかしこれだけ低い知力
と政治では別の時代に中国で生まれても蹴落とされてしまいそうですね。
>>128
敵役の人とは違ってすさまじく万能な人ですね。これだけの能力を持ち、これだけの業績があるとやはり崇められるか警戒されるかに
なってしまうんでしょうか。
>>131
ナチスの軍需大臣ですね。いやはややはり政治は高いですね。
ヒトラーはなんだかんだいって有能な人物を多く取り立てているのは
もっと評価されていいと最近は思います。それからハーンさんのやった大友宗麟とユスティ二アヌスもおもしろかったです。特にユスティ二アヌスは前々から気になっていた人物でしたので感動しました。
偉大さと危うさの共存した能力で見ていて思わず納得しました。
>>133
大王を取り扱った作品では必ずといっていいほど登場する人ですね。
能力的には大王に遠く及びませんが紛れも無く有能で、精神的にも能力的にも大王の支えであったろう歴史に欠かせない名脇役ですね。
大王死後まで生きていたら彼はどんな行動をとったか興味深いです。

[142] ルー・ルア 2007/06/21 01:37

多分3〜4年ぶりくらいに書き込まさせていただきます。

Fate属性が出来たとの事で、この人を。
歴史人物と全く関係無くてすみません。

衛宮士郎(作品:Fate/stay night)

統率:30
(どう考えても、人の上に立つタイプの人物ではない。)
武力:75
(通常状態でも、百発百中の弓の腕前に、やたらと丈夫な体。 最低値はこれくらいか?)
知力:21
(独断専行タイプで、他人の忠告を無視して独走し、危機に陥る事しばしば。
人の身でサーヴァントに戦いを挑むこと数々。
他人の頼みを「嫌」と言わない性格故、都合良く利用されている。)
政治:29
(かなり口下手。)
魅力:81
(何だかんだ言って友達は多い。
人間、英霊、ホモンクルス等、色んな面子からやたらとモテる。)

[特殊能力](以下の特殊能力は、兼用する事は不可能)
投影魔術:武力+10
(最強の剣から、最強の盾まで、コピーすることが可能。 ただし、投影速度はまちまち。)

固有結界(無限の剣製):武力+15
(目視した剣を瞬時に複製し、記憶することができる。 ただし、複製した剣は、オリジナルに若干劣る。
武器の記憶も再現する為、初めて使う武器も、それなりに使いこなすことが可能。
原作では、作品最強クラスに近いギルガメッシュを撃破した。)

左腕移植:武力+20
(英霊であるアーチャーの左腕を移植した衛宮士郎。
魔力、身体能力、強度か格段に跳ね上がり、殆どオリジナルと同等の剣の投影を行うことが可能になった。(ただし、投影は5回までしか行えない)
原作では、黒バーサーカー、黒セイバーを撃破し、エクスカリバーやら宝石剣やらを、ほぼオリジナル状態で投影した。)

[列伝]
人気ゲーム「Fate/stay night」の主人公。
10年前に起こった大火災の唯一の生存者で、助けてくれた魔術師の衛宮切嗣の養子となり、魔術の指導を受けることになった。
切嗣亡き後は、彼への憧れと、火災で自分一人生き残ってしまった後ろめたさから、本気で「正義の味方」を目指すようになる。

とある夜、突如召喚されたセイバーと契約。 彼女のマスターとなる。
以後、殺し殺され合いの聖杯戦争に身を投じていく事に…

久々の投稿がネタですみませんm(_)m

[143] ハーン 2007/06/21 21:53

>>133
 意外と魅力が低いんですね。ただ、同僚間の悪口は何処の世界でもあることなので、それほど下げなくともいいと思います。

>>134
 極端な話、ヒトラーが国力差を見誤って世界大戦起こしたからだと思います。それでもあそこまで世界を引っかきませたんですから、彼が傑出した人物であることだけは間違いないのですが。

>>135-137
 北条氏の統治が上手く行き届いていたおかげで、家康着任前からあの辺りはかなり栄えていたそうですから、この政治の高さは納得です。

>>139
 佐々木小次郎も史実を参照して判定しているので、ハサンみたく双方に跨らせてください。
 あと、ホスロー1世の統率を90に修正してください。

>>141
 戦後にヒトラーをこき下ろしているマンシュタインやグデーリアンもヒトラーがいなければ、埋もれていたという事態もありえていたかもしれませんね。よくもまあ、あんな実力者を片っ端から登用できたものだと感心します。
 ユスティニアヌスは確かに偉大なんですが、あまり彼の時代に生まれたくないなあ、と思います。

>>142
 ネタにはネタでお返しします。

[144] ハーン 2007/06/21 21:54

 ミハイル・ロア・バルダムヨォン

 1200年代から〜現代

統率……78 埋葬機関の前身である埋葬教室を設立したり、無派閥の死徒を集めて一大勢力を築き上げるなど、その能力には見るべきものがあります。

武力……90 転生体によってパラメーターが変動することから、戦闘力が安定しない。初代はアルトルージュを返り討ちにし、アルクェイドと教会の連携でよやく打倒されたそうなので95くらいはありそうです。二十七祖の大半は85〜97のどれかに入るとして判定することにします。100はアルクェイド。99はORT。98ゼルレッチ、朱い月はにでもあげておきましょう。

知力……70 永遠を求めてアルクェイドに血を吸われて死徒になった。転生の秘術を編み出したまではよかったのだが、アルクェイドに惚れたために転生するたびに殲滅されてしまい、実質彼女に会うこと自体が目的と化しているという本末転倒な事態に陥っていた。

政治……55 組織設立のための人材とか集められたんですから、人並みにはあったんでしょう。

魅力……00 歌月十夜の会話を見る限りだとさして嫌われるような要素は感じられないのですが、第一回公式人気投票では脅威のゼロポイント獲得という偉業を成し遂げました。

列伝 アカシャの蛇
 中世ヨーロッパの教会で司祭をやっていたということから、恐らく貴族階級の人物で、しかも学識があり教皇庁の組織に関われることから考え合わせると、イタリア出身ではないかと思われる。まあ、単なる推測で全く根拠はないが。
 神に仕える身でありながら、魔術を学んで永遠を手に入れたいと欲した彼はアルクェイドを騙して血を吸わせて死徒となる。元々優れた魔術師であった彼が吸血鬼となると非常に強力で、作中最強のアルクェイドが教会と手を組んでようやく打倒がなったほどである。
 その後は転生の秘術を使って優れた素質をもった人物に転生してはアルクェイドにヘチ倒されるといういたちごっこを十七回に渡って繰り返す。そして、現在、遠野志貴の手によって消滅させられて、彼の転生人生は終わる。

 完璧にネタですので、あまり真に受けないでください。ちなみに、第四回聖杯戦争の数値化はバーサーカーの正体が明らかになってからにします。

[145] いりあす 2007/07/03 00:28

 お久しぶりに投稿させていただきます、いりあすです。

 今回はローマ・東ローマの有名人物の中でまだ評価されていない(それだけ評価が難しいと言える)人を挙げさせていただきます。
 この評価は一つのたたき台の域を出ていないと思いますので、皆様のご意見をお待ちしています。

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 テオドラ(東ローマ皇妃、500?〜548)

【統率】 45
【武力】 27
【知力】 76
【政治】 88
【魅力】 41

【統率チェックポイント】
 国内の統率や統制は夫のユスティニアヌスの役割なので、彼女の出る幕は少なかった。40台ぐらいとした。

【武力チェックポイント】
 ベリサリウス夫人のアントニナとは違い、実戦経験はなかった。
 しかし彼女の場合、兵を率いたら夫程度の指揮能力はあるんじゃないか? と思わせる何かがあるので20台に設定。

【知力チェックポイント】
 彼女の判断力や意志力については、ニカの乱のときの毅然とした対応だけでも高く評価できる。
 彼女の助言が元でローマ教皇や高級官僚に対して必要以上な追放や処罰が行われた節があるのはマイナスポイントだが、当時の東ローマが財政難以外の大きな誤りを犯さなかったのは彼女の知力も関わっていたと思われるので70台ぐらい。

【政治チェックポイント】
 生まれのゆえか行政に対して無関心な人ではなく、特に女性への福祉には非常に熱心だったという。
 また、自分の名で外交文書を他国に送り、受け取った王を驚かせたというエピソードもある。
 謀略面ではその能力は主に国内に対して発揮され、自分とユスティニアヌスに対して危険な人物(例えば、武名の高すぎるベリサリウスなど)を逮捕・左遷などを行い、ユスティニアヌスへの権力集中を維持し続けている。
 政治家としてはおそらく夫よりも有能な人だったと評価した。ただし、非ローマ的な専制君主制の推進が短期的には有効でも、長期的にはどうだったのかは別問題になるだろう。

【魅力チェックポイント】
 男尊女卑的な考え方の強いギリシア系社会では、テオドラは出しゃばりな女性としてあまり好かれなかったらしい。
 ベリサリウスの秘書官であったプロコピウスが『秘史』の中で彼女をボロクソに言っているのも、ギリシア系ローマ人の上層階級のおおよその総意ではなかっただろうか。当時のお国柄のせいでもあるので、その辺はさっ引いて40前後。

【列伝】

〜〜賢婦か、悪妻か?〜〜

 東ローマ帝国皇帝・ユスティニアヌス1世の皇妃にして、事実上の共同統治者。
 元々はコンスタンティノポリスの闘技場で見世物をしていた下層階級の出身で、夜の街の女性でもあったらしいが、どういう経緯か当時副帝だったユスティニアヌスに見初められた事が彼女の運命を大きく変える。
 ユスティニアヌスは法律まで変えて彼女と結婚し、単なる皇帝の妻ではなく実質的なナンバー2である皇妃の座に彼女を据える。
 532年に帝都で『ニカの乱』と呼ばれる大暴動が起きた時、亡命しようとする夫を『帝位は栄光ある墓場です』と叱咤して踏みとどまらせた事は有名である。彼女自身も政治には積極的に関与し、ユスティニアヌスにとっての有能な共同統治者であり続けた。

 若い頃の荒れた生活ゆえかあまり健康な人ではなかったらしく、美容と健康には非常に熱心だったらしい。548年、年長の夫に先立ち病没している。

[146] やっち 2007/07/03 12:30

>>145

 政治的能力は確かに高かったと思いますが、さすがに88は過剰ではないでしょうか。
 >>0によると、
> 80代=一級
> 90代=超人
 とあります。
 88は、「一級の中でも最上位、超人の一歩手前」ってことですが、これには
当てはまらないでしょう。
 具体的な功績もないですし、ベリサリウスの排除も短い目で見ても
帝国・帝国民・帝国軍全てにとって明らかにマイナスにしかなっていませんしね。
 その余は概ね同意。
 ユスティニアヌスを完全に虜にしていることからすれば、魅力はもっと高くてもよいように思います。

[147] ハーン 2007/07/04 14:41

>>145
 やっちさんと同じく、政治が高すぎると思います。60代あれば十分だと思われます。

[148] 片田舎の偏屈士 2007/07/07 00:03

司馬懿
179年〜251年

【統率】80 蜀の北伐、公孫淵の反乱に対し異なる手段で的確な処置を見せた。

【武力】72 軍略では大きな破綻もなく、軍の指揮能力にも優れていた。

【知力】89 曹操存命中は的確な献策を行いながらも、扱いやすいであろう次代の曹丕、曹叡にうまく取り入ることで司馬一族の地盤を広げることに成功した。その次第に強まっていく権勢を奪おうとする曹爽に対し、重度の痴呆を装い油断させクーデターの成功に導くなど判断力、意志力ともに優れている。

【政治】88 戦乱で疲弊した国力の増強を図るために農業を奨励。それが後に司馬一族の権力基盤に。また、蜀の地を取った勢いで迫りくる関羽を同盟国であったはずの呉に討ち取らせたことで両国の疲弊を図らせた手腕は当時でも随一の謀略と言える。

【魅力】57 才能を買われた曹操に恐れられはしたが、その子、孫には破格の待遇を得ていた。しかし、その権力奪取の過程により周囲の不評を招き、ついには暗殺を計画されるまでに至った。

曹家の諸刃の剣

漢代から続く名門司馬一族に生まれる。八人兄弟の皆が優秀だったことから「司馬八達」と称される中で、最も才能あふれていたといわれ、その評価通りの道を進む。
曹操の代では関羽を敗死させるなど鋭い献策を提言するものの重用されず、彼が真に表に出るのは魏の初代皇帝曹丕の代であり、曹丕が在位わずか7年で崩御すると、その息子曹叡の補佐に回った。
228年の孟達の離反から続く蜀の北伐に対しては徹底的に防衛を重視する戦略で見事これを押さえることに成功すると、238年には遼東に権勢を誇っていた公孫淵の反乱を迅速に処理。軍事面の成功により魏の内部での地位を確固たるものにしていく。
増大する司馬懿 の権勢に対し、ライバルである曹爽の手により一時は失脚するものの、様子を探りに来た李勝に痴呆を装い油断させ、隙を突いてクーデターを決行し、曹爽の粛清を持って魏における全権を掌握した。
死後、孫の晋の武帝である司馬炎により高祖、宣帝と諡号される。

[149] 片田舎の偏屈士 2007/07/07 00:03

司馬師
208年〜255年

【統率】78 司馬懿 の死後も破綻なく軍を掌握し、反乱も鎮めた。

【武力】70 呉の諸葛恪がせめて来た際にも的確に軍略を練り上げたことから父と同程度の指揮能力を持っていたと思われる。

【知力】68 内政的にも対外的にも問題のない手を打っていたが、そのあからさまな独断専横により要らぬ反乱を招いてしまった。

【政治】63 父があらかじめ均した道ではあったが、それを継承し、破綻させることなく一族の繁栄に導いたが、それにより不安定な権力基盤に頼らざるを得なくなってしまったことが、後の晋の崩壊の一つにもなる。

【魅力】33 司馬一族の簒奪への道を確定させた人物としてすこぶる評判が悪い。その独善的な態度から度々反乱を起こされた。

司馬家の懐刀

司馬懿の長子であり、父の信任も厚い策謀家であった。
曹爽一派に対する司馬懿 のクーデターに際しても的確な処置により高齢となっていた父の後継者たる実力を証明し、その死後は父の跡を継ぎ魏の全権を担うこととなったものの、直後に呉の諸葛恪が魏の領内に攻め込んでくるが、それをいとも容易く敗走させ、父譲りの戦才を遺憾なく発揮した。
だが、他に父から譲られたものに司馬一族に対する恨みがあり、254年の斉王である曹芳が排除の動きを示せば、翌年には毌丘倹と文欽が反乱を起こすなどその処理に追われる。
曹芳の件は難なく収めたものの、毌丘倹・文欽の討伐に赴いた際に持病の目の瘤が悪化。れが元で危篤状態に陥ると、死後のことを弟の司馬昭に託し急逝。
死後、晋の武帝により廟号は世宗、贈号は景帝とされる。

[150] 片田舎の偏屈士 2007/07/07 00:04

司馬昭
211年〜265年

【統率】60 簒奪への道も明らかであったが、軍・政権内での破綻はない。

【武力】59 諸葛誕の反乱を鎮圧した。蜀は?艾、鍾会に任せたが、攻め時期を見定めるくらいには軍才があったのだろう。

【知力】66 父、兄の負の遺産を受け継いだものの、晋王へ至る道を幾度となく固辞するなど段階を踏んだ禅譲の形にこぎつけさせた。

【政治】61 司馬一族簒奪の最終章を完成させた実績はあるが、それも父と兄がいればこそ。法の編纂という歴史的事業を行ったことに意義がある。

【魅力】26 皇帝である曹髦自ら殺害のために挙兵したのは、父・兄から続く悪縁のせいでもあったが、それでも負の遺産を解消させるまでにいたらなかったのは彼自身に惹きつける魅力がなかったからか。簒奪者として見ても兄以上に評判が悪い。

晋王

司馬懿の息子。司馬昭の異母弟。
突然の兄の死に司馬一族の命運と魏の全権力を託されることとなったが、それを破綻させることなく継承。
そして兄と同じく受け継いだ負の遺産により諸葛誕の反乱、皇帝曹髦の暗殺に見舞われるが、無難にその処置をする。
この頃から相国、晋公に命じられ簒奪の準備も整う中、蜀への侵攻を決行。これを完遂させることで王位につく算段であった。
鍾会に叛意の念があったものの、蜀は魏の手に落ち、司馬昭はついに晋王の座に。
だが、その直後、患っていた中風のために死去。王朝創設直前の呆気ない死であった。
死後、晋の武帝により太祖文帝と諡号される。

[151] 片田舎の偏屈士 2007/07/07 00:05

司馬炎
236年〜290年

【統率】61 生まれながらにしての貴公子ゆえに従う者も多く、続いていた司馬一族への反乱も彼の存命中は発生していない。

【武力】50 呉を滅ぼす命令を出すぐらいしか目を見張るものはない。

【知力】48 統一前までは暗愚ではないにしろ優秀な指導者であったが、統一後はボンクラに。後継者問題で後の反乱を招く結果となった。

【政治】42 長く続いた戦乱から疲弊した国力の回復は祖父の代から続く司馬一族の政治的信念であり命脈であったことから、一族のみならず庶民への民爵賜与を行い、富裕層の形成につながる占田・課田制を実施するなど民心への配慮も欠かさなかった。しかし、一族への権力委譲は後の八王の乱により華北動乱の原因となった。

【魅力】74 強引の手段で簒奪を完遂させながらも、その高貴な立ち振る舞いから人を惹きつけた。それと後宮一万人(笑)

晋の武帝

司馬昭の長子。晋の建国者。
父である司馬昭は当初、兄である司馬師の養子としていた司馬攸を後継者としようとしたが、重臣の反対により長子である司馬炎を司馬一族の正流とすることで決着。晋王の太子となる。
後継者問題が一段楽したのだが、ほどなくして司馬昭が没すると、晋王の名を継ぎ、もはや準備の整っていた禅譲を魏の元帝迫り皇位に就く。ここに晋王朝が誕生することとなる。
司馬炎がまず行ったことは、一族に兵力と土地を分け与えることで晋の基盤強化を図るために一族を各地の王として配置したことだった。これは、魏が一族に権力の移譲を行わなかったことで滅亡を早めたことを考慮してことであったが、それは逆に晋の滅亡を呼び込むこととなる。
また、民心掌握のために民爵賜与を行ったことで郷村での秩序構成が促進され、後に定められる占田・課田制により富裕層の形成が顕著となり、後に政治・文化の担い手となる貴族・士大夫の活躍を促すこととなった。
280年に呉を滅ぼすと、約100年にわたり分裂した中国の統一を達成し、名実ともに正統王朝としての地位を確立することとなるが、これが晋の崩壊の序章となった。
統一の気の緩みで司馬炎は政治的に堕落、女色にふけるなどして晋の政治の停滞を招き、各地に流入してくる胡族問題に対し何ら解決策も見出せぬまま、後継者問題で弟である司馬攸を憤死させてしまったことで決壊が現実のものとなる。
死後、太子である司馬衷を補佐する有能な人物もおらず、司馬炎によって力を与えられた各地の一族により八王の乱が引き起こされ、それが後に五胡十六国時代の幕開けとなる。

[152] 片田舎の偏屈士 2007/07/07 00:11

お久しぶりです。勉強勉強勉強です。

なぜか誰も評価しなかった唯一の統一王朝の一族。
やっぱり嫌われ者なんですかね?

中国史の勉強をやり直しているところで評価はしてみましたが、司馬懿の能力が高すぎるかどうかは皆さんの判断に任せます。
過去に評価された三国志の人物はあまりにも高すぎるので知力・政治がライバルのお方と同程度にしてしまいました。

[153] マフムード 2007/07/07 14:42

源為朝(1139〜1170?)
平安時代末期の武士、鎮西総追捕司(自称)
活動地域:日本
異称:鎮西八郎為朝

【統率】65
おそらく相当誇張されているのではあろうが、九州だの伊豆大島だの、流刑される度に現地で勝手に独立勢力を打ち立ててしまったこと自体は事実らしい。

【武力】79
九州や伊豆七島を本当に制圧したのかどうかによって変わってくるが、とりあえず保元の乱での活躍だけから評価。大軍を指揮したわけでもなく、わずか一夜の戦いで結局負けたわけだが、なにしろ個人的武勇があまりにも桁外れなので、優秀レベルの最高点としておく。

【知力】30
どう見ても知性派の雰囲気は感じないが、軍議で断固夜討ちを主張したり(その意見が的確だったことは、その後敵方が実際に夜襲をかけてきたことによって証明される)、「兄に弓引けば神仏の加護を失う」という義朝に対して「父に弓引くのはどうなんだ」と言い返したりと、それなりに頭の回転はよかったよう。

【政治】08
確認できる限りで政治的なことは何もやっていない。しいていえば白川北殿の軍議で天皇方へ夜討ちを仕掛けることを主張して藤原頼長に一蹴された程度か。となるとあとはフィーリングで評価するしかないので、フィーリングでこの数値。

【魅力】79
実際どうだったのかは難しいところだが、とりあえず都の貴族たちには異様奇怪な豪傑として一種の人気を集めていたようだし、あとは流刑先の実力者の娘とくっつく話がやたらと多い。まあこのくらいの魅力がなければ、流刑地で独立なんて反則技は難しいだろう。

【特殊技能】強弓:武力+12 伝説化:魅力+10

略伝:黒潮の伝説

 平安末期、源氏の棟梁・源為義の第八子。源義朝の弟、頼朝の叔父。確かな史実として言えるのは、彼が保元の乱で父とともに上皇側に立って奮戦するが、敗れて伊豆大島に流されたことと、無類の弓達者であったことである。

 多かれ少なかれ脚色されているであろう『保元物語』の記述によれば、為朝は容貌魁偉・勇猛果敢・傍若無人であったため、13歳で父に勘当されて九州へ追われた。しかし彼はその地で暴れ周り、わずか3年で九州全土を制圧して鎮西総追捕司を称するにいたったという。たぶん史実が三十倍ぐらいに誇張されているのであろう。
 1156年、崇徳上皇と後白河天皇の対立によって保元の乱が勃発すると、為朝は二十八騎の九州武者を引き連れて上洛し、白川北殿を守って奮戦する。しかし形勢利あらず、父や兄弟とともに逃走し、近江の坂田で捕えられることになる。
 為朝は武勇を惜しまれて一命を許され、伊豆大島へ流罪となった。ところが(史実なんだろうか?)彼はたちまち大島を制圧したばかりか、はるか八丈島・青ヶ島にいたる伊豆七島の全域を支配してしまう。
 とうとう業を煮やした伊豆介工藤茂光が為朝討伐の院宣を手に入れて攻め寄せたので、為朝は強弓で軍船一艘沈めるという滅茶苦茶な反撃をしてから自害した。

……ということになっている。
ここまではいちおう大筋において史実と認められているが、さらにレベルアップした伝説によれば、彼は伊豆七島の支配に飽き足らず、さらに琉球に遠征してこの地を従え、琉球王朝の祖となったとされていう。おいおい、そこまでやるか。

[154] マフムード 2007/07/07 15:06

いろいろあって遅れてしまいました。

>>135
16世紀頃の日本は自国ゆえの贔屓目を除いてもかなり優秀で個性的な支配者が多いですよね。北条氏康も地味ながらなかなかの人物だと思います。
80台後半というのは自分の感覚だと「一国の歴史上に燦然と輝く希少な天才たち」というイメージなので、自分だったら氏康の政治は80台前半(「一国の一時代における有数の人材」)にすると思いますが、87でもそれはそれで納得できます。

>>143
ヘファイスティオンの魅力についてですが、直接判定材料にできる情報が少なすぎるので、最終的には個人的なイメージです。たぶん偏見入ってます(笑)
ただ、難とか使えるわずかな情報から判断しても、彼は普通の仲間内の引っ張り合いですまないぐらいに周りとしょっちゅう衝突していたようです。
同じ幕僚でもクラテロスのように明らかに人望があった人物もいるので、やはりヘファイスティオンの(対大王以外の)魅力は平均以下でいいと思います。まあ、大王に寵愛されているとかフィロタスの後釜になった成り行きとか、本来の魅力と関係なく(?)反感を買う理由になりそうな要素もけっこうあるので、もう少し数値を上げられるかもいいかもしれませんが、それでも45以上にはならないと思います。

>>145
やはり政治がちょっと高い気がします。70台ぐらいが妥当だと思います。でも全体のバランスはいかにもという感じですね。

>>148
納得できます……(笑)
実際人気ないんでしょうね。一族トータルで陰険すぎます(笑)

[155] マフムード 2007/07/07 15:48

織田秀信(1580〜1605)
戦国大名、織田家当主(1582〜1600)

【統率】46
普通の小領主。それ以外の何者だと?

【武力】32
たぶん木曽川の戦いが彼にとって最初で最後の戦場経験でしょう。さすが覇王の孫だけあって、やたら勇敢ではあったらしいけど、勇気と軍事的才能はイコールではない。

【知力】50
心優しく凡庸な若君。彼が覇王の後継者たろうと望まなかったのはそれはそれでひとつの人生の選択肢として悪くはないと思うけど、結局何もしていないわけだから、可もなく不可もなしでしょう。

【政治】42 べつに策略を弄したり韜晦したりして生きながらえたのではなくて、単に世人から忘れ去られただけなので。性格的にも政治
家には向いてなさそうな雰囲気を感じる。領民には慕われていたらしいけど、それは善政のためというより、彼の個人的性格と血筋のカリスマ性のためでしょう。結局彼が歴史の表舞台から姿を消したときですら、まだ21歳の若者に過ぎなかったのだし。

【魅力】77
「世が世ならば……ああ、なんと不幸な若様!」、「でもあのお方はさすが育ちがよくていらっしゃる。なんとお優しい若君なのだろう」、「いやまったく、あの信長公の孫君とは思えぬほどにお優しい」、「けれどあのお姿のなんと凛々しいこと。まるで故右府様の若い頃にそっくりでいらっしゃるわい!」
……という感じで、家臣ならびに領民一同に、それはもうたいへんたいへん慕われていたらしい。
もっとも、そのカリスマで織田家再興という流れには全然ならなかったが。

略伝:覇王の孫

 戦国の覇者・織田信長の嫡孫。信忠の嫡子。幼名三法師。美濃国岐阜城主。
 1582年に本能寺の変で祖父と父が相次いで倒れたあと、清洲会議の席上で羽柴秀吉によって絶好の傀儡として織田家当主に推戴される。ときに3歳であった。秀吉は一度も織田家を廃してはいない。法的には秀信は織田家家臣たる秀吉の主君といってもあながち強弁ではなかったが、誰もそんなことは主張せず、誰も秀信のことを覚えてはいなかった。
 秀信は安土、坂本、さらに1592年には岐阜13万石を与えられた。祖父とはまったく違って彼には野望など何もなかったらしく、それどころかむしろ王位簒奪者たる豊臣秀吉を優しい義父として慕っていたらしい。げに運命は数奇なるかな。
 1597年、キリスト教に入信。
 1600年、関ヶ原の戦いのさいには「今は亡き優しいお義父さま」に義理立てして西軍につき、派手好みの祖父の血筋か、まことに豪華絢爛な戦装束をしつらえて木曽川に出陣する。しかしむろん圧倒的な東軍のまえに敵すべくもなく敗退し、岐阜に篭城し、一夜で降伏。苛烈な気性の祖父からは考えられないぐらい心優しい青年であった彼は家臣一人ひとりに感状を与えて再就職の手配をしてやり、城を出て高野山に蟄居。ところが祖父の悪業・高野山攻めの因果か、高野山からも追い払われてしまい、失意の内に大和向副で死去。26歳であった。
 

[156] いりあす 2007/07/07 22:25

>>146-147

 言われてみますと、政治力については過大評価になっていたようです。才能や実績が無かったとは思いませんので、70前後が妥当な線でしょうか。
 魅力についても評価は難しいところですね。ユスティニアヌスと馬が合ったのは間違いないのでしょうが、ギリシア人の官僚層に受けが良くなかったのも事実かと思いますし、少し上方修正して50台ぐらいでしょうか。

 そういうわけで、テオドラの評価の修正案です。政治を−15し、その分魅力を+15してみました。それでも、ハーン様評価のユスティニアヌスより政治が高かったりしますが(笑)

【統率】 45
【武力】 27
【知力】 76
【政治】 73
【魅力】 56

【魅力チェックポイント】の“40前後”を“50台”に修正。

 まとめサイトの管理人様、もしテオドラの数値を載せる際には修正版の数値でお願いします。

[157] マフムード 2007/07/09 00:26

>>155をちょっと訂正します。

【統率】46→35(血筋と実態を考えれば、平凡というより苦手にしたほうが、より相応しいかも)
【知力】50→38(はじめは東軍加担も検討していたくせに、祖父にあこがれたのか軍装に芸術性を持たせようとこだわっているあいだに三成に説得されて西軍に、という成り行きは、いくらなんでも…)
【魅力】77→69(さすがにちょっと高すぎた)

[158] マフムード 2007/07/10 12:20

豊臣秀長(1540〜1591)
戦国武将・大名、豊臣秀吉の弟、豊臣政権の大和大納言
活動地域:日本

【統率】84
早くから秀吉の分身として豊臣家臣団を取りまとめ、のちには山陰平定・紀伊制圧・四国征伐軍の総司令官となり、九州遠征では日向方面軍約10万を指揮した。最初期から天下統一にいたるまで豊臣政権の確立に軍政両面で絶大な貢献を果たし、彼の生前には武断派と文治派の対立や秀吉の暴走(利休切腹、秀次処刑、朝鮮出兵)も表面化しなかった。

【武力】76
秀吉の右腕として数々の戦に出陣。独力で但馬を平定し、山陰方面の平定を委ねられる。晩年には大軍を率いて四国・九州に遠征し、戦国最強を謳われる島津義弘の猛攻すら退けて任務を完遂した。鮮やかな逆転勝利などの記録はないが、攻守ともに非常に堅実で、自ら指揮を取った戦いについては不敗といってよい。

【知力】79
「段取りの秀長」と言われるように、どんな難事でも効率よくさばいていったという。秀吉のような天才性はないが、堅実冷静で秀吉にとってなくてはならない相談役だった。

【政治】85
常に兄の陰でその功業を支え、豊臣政権の内部調整に心を砕いた。諸大名と秀吉の調整・仲介役として活躍し、表向きのことに関しては秀長が一手に取り仕切っていたといわれる。また難治の地、紀伊・和泉・大和を平穏に統治し、商業を保護して莫大な財貨を蓄えるなど内政にも手腕を発揮した。彼の生前には豊臣政権の基盤は堅固になる一方であったが、彼の死とともに秀吉の暴走、内部対立が表面化し、豊臣家の勢威は次第に傾き始める。

【魅力】79
秀吉のような華やかなカリスマ性や強烈な存在感はないが、温厚な人柄で誰からも慕われた。彼の人望と調整手腕は豊臣家にとってなくてはならないものであった。

略伝:豊臣秀長 —ある補佐役の生涯—

 豊臣秀吉の弟。兄と同じく尾張中村の農民の子として生まれ、永禄年間に兄に誘われて織田家に仕官する。真面目で堅実冷静な努力家で、有能な補佐役として数々の活躍をするが、その功績を喧伝することを望まなかったため、存在感が強いとはいえない。しかし彼が秀吉の天下取りにあらゆる面で欠くことのできない人物であったことは疑いない。
 浅井・朝倉との戦いを通じて次第に武将としての実績を積み重ね、天正年間には秀吉の片腕として山陰方面の平定戦で活躍する。
 本能寺の変で信長が倒れたあとは、秀吉の副官として数々の戦場で采配をふるい、大軍を率いて西国を平定。一方で豊臣政権の内部調整や基盤固め、政権の体制構築、諸大名との折衝に奔走する。
 大和大納言として百万石の大領を与えられるが、その私生活はいたって質素なものであったという。晩年は病気がちで、最後まで豊臣家の行方を案じながら世を去る。その死後、秀吉は数々の無謀な政策を展開して人心を失い、武断派と文治派の対立によって豊臣政権は分裂し、わずか10年で崩壊することになる。

[159] ニート大作戦 2007/07/10 21:08

最初のスレからみていないのでわからないですが
菅原道真
お釈迦様
エジソン
フロイト
などを数字化していただけたらありがたいです。

[160] 越中守 2007/07/10 23:27

>>155
個人的には好きな人物ではありますが、同時に関ヶ原西軍の敗北の一翼を担ったのも彼ではないかと感じています。
もっとも、参加してくれただけでも西軍にとっては有り難かったと言うべきなのでしょうが。

>>158
派手でこそないですが、組織には必要な人物ですよね。
彼の死が秀吉政権の終わりの始まりだったと言っても過言ではないでしょう。

[161] 越中守 2007/07/11 00:17

マックス=ヴェーバー(1864-1920)

【統率】33
特に何かを統率した経歴はない。

【武力】25
これも特筆すべき事項はないが、敢えていうなら実父との確執から神経を病んでいたことを踏まえ、マイナス査定に含める。

【知力】54
宗教から経済倫理を研究しようと試み、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を皮切りに、西洋の宗教のみならず、ヒンドゥー・仏教・道教・儒教にまでそれは及んだ。
とはいえ、彼の知的活動はあくまで学問の範囲内であった為、この能力査定の趣旨からは少々外れる。
にも関わらず、少々のプラスにしてあるのは、第一次ロシア革命の際、ロシアに関心を持ってロシア語を習得したというエピソードによるものである。

【政治】55
第一次世界大戦に対し、有識者としての立場から政治的発言を行う。
また、野戦病院に勤務し奉仕活動を行ったことを行動力として評価する。

【魅力】59
知識人によるサークル活動を通じ、数多くの弟子を得たことから、少々のプラス。

[162] 天魁☆ 2007/07/11 00:45

初カキコですが。

パチャクテク
(?-1471年)
活動地域: アンデス

【統率】 82
クスコの一勢力にすぎなかった小王国をアンデス屈指の帝国に仕立て上げた手腕は見事というほかない。もっとも征服された諸民族が心から心服していたかとなると怪しいきもする。
【武力】88
  父や兄まで逃げ出す中、クスコ谷に攻め込んだ敵部族を打ち負かしている。その後他民族を征服。
【知力】65
【政治】72
インカ帝国の実質的な創始者。法整備やクスコの整備などを行っている。最もアンデス文明は文字を知らなかったので、彼の責任ではないけどちょっと低めに。また後にインカ帝国崩壊の原因となる跡継ぎ問題までは修正できていない。
【魅力】80
今でのインカの創立者として人気は高い。

 新大陸の人物を旧大陸の人物と同様に評価することは難しいだろうけどやってみました。だれかアタワルパもよろしく。

[163] 越中守 2007/07/11 01:17

【列伝】社会学の父

フルネームはカール=エミール=マクシミリアン=ヴェーバー。
ゲオルグ=ジンメルやエミール=デュルケーム、カール=マルクスと並び、社会学初期の重要人物の一人。
プロイセン王国にて、裕福な家の長男として誕生。
以降学問の世界でエリートコースを進み、なんと30歳でフライブルク大学の経済学教授に就任するという有様だった。
後、実父との確執や自身の病気により一線を退くものの、復帰後には学者として大きく活躍した。

彼は人間の内面から行動を研究するという立場に立ち、とりわけ宗教のような精神活動が経済に与える影響についての研究を行った。
これは特にマルクスの唯物史観への反論としての意義も大きいとされる。
経済学者のアルフレート=ヴェーバーは実弟であり、彼もまた学者として業績を残している。

特殊能力:学問(社会学に知力+44、経済学に知力+22)

[164] ハーン 2007/07/11 05:49

>>148-151
 代を重ねるごとに劣化している司馬一族の末路が見えてくるような感じで素敵です。

>>153
 なんというか、彼は一体何者なんですか? と聞きたくなるような経歴ですね。これを見ると、義経がチンギスになったなんていう話なんてどうってことないと思えてきます。

>>155
 とりあえず、何もしないで大人しくしていたほうがよかったのではないかと。

>>158
 一国の長でもないので少し高いように思えますが、細かく批評が出来るほど詳しく知っている人ではないのでやめときます。
 しかし、この三人は日本史ちょいマイナーを選んでやったとしか思えない素敵な選抜ですね。

>>161>>163
 やはりドイツ人は哲学を考えるために生まれてきたんですかね?

>>162
 統率は90あってもいいと思うんですけどね。たとえ旧大陸と比べると微妙であっても、技術的な限界を考えればあれだけの大帝国の創始者なんですから、そのくらいあってもいいと思います。

[165] ハーン 2007/07/11 05:50

ホレーショ・ネルソン

1758年9月29日 - 1805年10月21日

統率……77 彼は英国海軍最強の提督ですが、海軍全体の統率は上司の海軍大臣バラムがやっているので、このくらいでいいでしょう。

武力……100 艦長として非常に有能で、数々の海戦に参加して数多くの功績を立て続けました。少数とはいえ陸戦を指揮したこともあり、いつも寡兵で敵を打ち破っています。将官に昇進し、艦隊を自分自身で指揮をするようになるとそれこそ手のつけられない連戦連勝の無敵の提督になりました(ナイルのときはあくまで分艦隊の司令官でしたが)。ナイル、コペンハーゲン、トラファルガーと常に戦力で優越していた敵を相手に圧勝しています。彼によって英海軍は第一次世界大戦前まで世界最強であることが確認されました。さらにネルソンタッチなる新戦術まで編み出しています。初期には幾つかの敗戦もあるものの、私の中では海軍関係者で唯一武力100を与えるに相応しい人物です。

知力……80 誰が上司でも大抵は自分が最善と考えた決断を下して行動しており、命令無視はいつものことでした。それでいつも大きな成果をあげるという素敵なことを繰り返しています。ウェリントンによると戦術的なことだけでなく、国内外の情勢に広く精通していたそうです。敵艦隊の捕捉に失敗しているところがやけに目につきますが、それは時代の限界でしょう。

政治……59 政治的な駆け引きにも長けており、軍と取引をしている商人の不正を暴いたりもしています。あまりにも厳格なので足元をすくわれることもありましたが、彼は人並み以上の政治力を有しています。さすがに同盟国(ナポリ)との共同作戦には苦労させられ、望んでいた援助を受けることが出来ませんでしたが、コペンハーゲン海戦後はロシアやデンマークで外交任務を成功させています。

魅力……95 彼は恐ろしいまでの強い愛国心の持ち主で、常に率先して敵に突っ込んでいきました。そのせいで右腕と右目を失い、トラファルガーでは命まで失ってしまいます。そのせいか生前からとても人気があり、青色艦隊で彼が役不足な地位(副司令長官)についたというだけで大衆は不満の声をあげたといいます。剛毅なだけでなく、細やかな心遣いも出来る人物で、部下の水兵が恩賞に与れるよう常に八方手を尽くしました。外国でも人気があり、ナポリから帰還する際は行く先々で歓迎を受けました。トラファルガー海戦終結後、彼の死が全軍に知れ渡ると、ある船では彼と会ったことのある人々の全員が泣き崩れてしまい、仕事にならなかったそうです。彼の死は君主以外では初の国葬でセント・ポール大聖堂に葬られました。

列伝 最強の海将

 ノーフォーク州バーナム・ソープ村の教区牧師の第六子として生まれる。家計が切迫していたことから船酔いになりやすい体質であるにも関わらず、叔父のコネを使って海軍に入隊。北洋探検航海などに参加。アメリカ独立戦争にも参加した。
 フランス革命戦争で戦列艦アガメムノンの艦長に就任。勝ったり負けたり、時には負傷しながらも功績を立て続けた。
 それが評価され、ナポレオンのエジプト遠征を阻止するため分艦隊の司令官に抜擢される。不運も手伝ってナポレオンの艦隊を補足することは出来なかったが、アブキール湾に停泊していたフランス艦隊に勝利を収め(ナイルの海戦)、ナポレオンを孤立させた。
 その後はナポリ近辺で対フランスの任務についていたが、ナイルの英雄ということで歓迎されたもののナポリ政府と上手く連携がとれず、満足のいく結果をえることは出来なかった。この時にエマと恋に落ちた。周囲は勿論、エマの夫すらそれを温かい目で見守っていたという、
 英国に帰国した後、デンマークに副司令長官として派遣されてフランス側についていたデンマークの海軍をコペンハーゲンで死闘の末打倒し、バルト海における英海軍の優位を示した。あまりに強すぎてフランス海軍はネルソンが来たというだけで逃げることを選ぶようになったほどです。
 英国でエマとその夫とともに住む家を購入し、楽しく暮らしていると高齢であった夫が死去。ネルソンは英国侵攻を目論むナポレオンの意図を挫くべく、再び海に戻る。トラファルガーの海戦を勝利に導くも、そのさなか狙撃されて死去。
 彼は遺言に愛人のエマに年金を与えることを政府に頼んでいたが、どんな理由かは不明だが断られている。

 武力、魅力が高いカリスマ軍人タイプです。その他の能力も平均以上なので、軍事以外をやらせてもそれなりに功績をあげてくれるかもしれません。ただ、あまりにも働きすぎるところがあり、常に自分で率先して行動しないと気がすまない気性なので健康と安全には気を使ってあげてください。50前に失うのには勿体無い人物です。

[166] ハーン 2007/07/11 05:50

 彼の事跡を調べていると、海外SFドラマの宇宙船の船長は彼という人物を参考にしているのではないかとすら思わされます。勇気があって部下思いで、政治的な駆け引きにも長けている。そして祖国に対する強い忠誠心ももっています。
 恐らく、欧米人にとって船長の理想像が彼なのでしょう。

 うっかりコピペし忘れた

[167] ニート大作戦 2007/07/11 09:24

>>161
でたぁマックスウェーバー!
法学系の大学生なら知らない人はいない有名人。
でも結構しょうぼい人だったんですね。

[168] 越中守 2007/07/11 10:11

>>164
確かに19世紀のドイツにて西洋哲学は完成を見ますが、別にドイツだけに優秀な哲学者が集中していたわけではありません。
また、ドイツにしてもドイツ観念論の時期に有名な哲学者が多く(といっても、全体の数からすれば微々たるものです)輩出されただけですので、そこまで言い切ってしまうのは少々大袈裟ではないかと考えます。
むしろ、ドイツ観念論の諸集団が活発な活動をなし得る条件となった政治的・社会的背景の方が重要でしょう。

と、真面目に答えてみます。

>>167
しょぼいと言いますか、彼はあくまで学者であり、政治家でも軍人でもありませんでした。
故に、主にその二つに関与する能力値査定であれば、門外漢である彼が低い能力値に抑えられてしまうのは当然のことでしょう。
ですので、「特殊能力」を付け加えております。
これに従えば、専門の「社会学」では知力が98となりますので、世界史レベルで見ても超人と言えるのではないでしょうか?

[169] マフムード 2007/07/11 11:43

>>159
道真はまとめサイトにあります。シッダールタはやってみたいとは思っているんですが、事績が不明すぎて難しいです。他の二人は学者系なので知力の評価が難しいと思いますが、詳しい方にお任せします。

>>162
パチャクティですね。前に自分がやったときは魅力以外オール90台ぐらいの能力にしました。もっともこれはこれで高すぎたような気もしますが、統率はもう少し高いほうがいいように思われます。

>>164
秀長については一国の長ではなくとも、ちょっと大袈裟にいえば一時は日本の副王(やっぱり大袈裟かな)ぐらいの立場にいた人なので、これでも大丈夫だと思います。

>>165
あまり詳しくないのですが、武力は90台でもいいのではないでしょうか? ナポレオンも100ではないですし…。

[170] ハーン 2007/07/11 14:48

>>168
 今更ながら、学者も歴史的背景がないと生まれないというのがよく分かりました。

>>169
 なるほど日本の副王というなら、納得できますね。
 ネルソンが100でないと、海軍関係者で100を与えられる人物というものが見当たらなくなってしまうので、100をつけました。
 バルバリア海賊やバッカニアを見る限りだと彼らは武力よりも統率と政治力に長けていたように見えますし、日米戦は最初のころはともかく、途中から国力の差で一方的になってしまいますから。

[171] 「ど」の字 2007/07/13 21:36

 しばらくぶりです。「ど」の字です。
 今回は、自分の思うところ日本史上最強の武力を持つ武将を評価してみます。

 楠木正成 1294年?〜1336年7月4日

【統率】75
 小集団の統率経験しかないが、その中では絶対的と言うべき能力を見せています。
【武力】95(特殊項目・野戦攻勢任務では-30)
 防衛戦遂行能力は世界史上屈指(或いは最高かも)ですが、攻勢任務は不得手。彼の本領は的確な予測と戦略構築能力。
【知力】91
 広域な戦争の流れを読む力量は日本史上最高でしょう。河内の小土豪とは思えないほどの高い教養も持っていました。
【政治】48
 政治においての足跡はみつけられません。そもそも彼は政治的人間ではありません。
【魅力】77(特殊項目・死後は+20として扱う)
 生前には味方より敵に認められていた節があります。死後その人物像は勝者・敗者双方によって天まで持ち上げらました。

【略歴】
 河内国石川郡赤坂村の生まれであるといわれますが、実はこの人物は前半生はほとんど不明です。
 日本史上これほど重要でありながら、出自がこれほど謎に包まれた人物は他には居ません。
 実像として捉えられるのは、元弘元年(1331)の挙兵から建武3年(1336)の湊川での自刃までのわずか6年ほどです。
 どうも、鎌倉時代の技術と経済の進歩によって現れた「戦う物流業者」とでも言うべき存在だったようです。

 後醍醐天皇が「楠」を連想させる夢を見て登用したという逸話があります。
 事実ではないでしょうが、夢のお告げでもない限り、天皇と当時の「悪党」は身分が違いすぎて接点が無いのは事実です。
 実際は、当時最新の外来思想である朱子学思想を学ぶうちに、同学の士である互いを認識したというのが正解でしょう。
 楠木正成は朱子学の行者としての生涯を送っており、また建武の新政にも朱子学の影響は見られます。

 楠木正成は当時の鎌倉政権を揺さぶる方法としてゲリラ戦による治安擾乱を選択し、元弘元年(1331年)8月に挙兵。
 圧倒的な大軍を下赤坂城で散々振り回し、落城し脱出するまでに鎌倉政権の脆弱振りと自らの武名を大きく宣伝しました。
 その後は潜んで再起の頃を伺い、元弘2年(1332年)11月、千早城にて再度挙兵し畿内を混乱に陥れます。
 これに対抗して幕府が送った百万を号する大軍(実数は十五万ほどと推定される)を元弘3年(1333年)千早城にて迎撃。
 わずか総数千人(非戦闘員も収容していたため実働兵数はさらに少ない)で3ヶ月間を持ち堪え、撤退に追い込みました。
 この鎌倉政権の権威を大きく傷つける活躍によって倒幕の機運が広がり、有力御家人の離反により鎌倉政権は崩壊しました。

 建武の新政において楠木正成は後醍醐帝の絶大な信任を受け高位に上りましたが、そこでの活躍はありません。
 建武元年(1334年)には紀伊で起こった北条氏残党の蜂起でも鎮圧任務に失敗し、解任されています。

 足利尊氏が新政に離反し、追討の命を受けた新田義貞が敗北した後では北畠顕家らと連絡して足利方を京より駆逐しています。
 この戦いにおいては設置式の盾を部下に持たせて重装歩兵の戦列を作るという日本史上例の無い事を行ったりしています。
 京を落ちた足利方が九州で激闘の末再起すると、彼は後醍醐帝に新田義貞を捨てて足利尊氏と和睦するよう進言しました。
 献策は後醍醐帝に容れられず、結局建武3年(1336年)に新田義貞の麾下での出陣を命じられます。
 湊川の戦いでは敵前逃亡した新田義貞に取り残されて敵の上陸軍の渦中に孤立、弟の楠木正季と刺し違えたとされています。

 太平記の前半部分では、欠徳の君主に付き従う優れた忠臣として過剰なまでの活躍ぶりが描かれています。
 しかし足利氏寄りの史書である梅松論でさえも彼は無類の武将として扱われており、当時の彼の人気の高さが伺えます。
 事跡を分解してみても、武将の枠におさまらない謀臣としての献策も幾つか見つけられます。
 冒頭にも述べましたが、自分の見るところ特殊条項があるにしても日本史上最高の武力数値を与えられるのは彼です。
 活躍が地域限定なため世界史的には無名の人物ですが、実力は世界史上の巨人たちと比べても遜色は無いでしょう。

【総評】
 戦争全般に広く目を配ることの出来る、優秀な参謀です。ロジスティックに詳しいのも強みです。
 前線に置いても防衛任務では絶大な威力を発揮する武将ですが、前線に貼り付けておくのは勿体無い人材です。
 むしろ総司令部で最高司令官の傍に懐刀として置くのが最高の使い方でしょう。
 大兵力を扱うに秀でていないので、彼を目標とした敵の強襲には注意を払うべきです。早死にさせると激しく悔しいです。

[172] ハーン 2007/07/14 05:20

>>169
 前回は書き忘れましたが、私が海軍関係者から武力100を出したいと思うのは陸戦と海戦はその性質が大きく異なるからです。事実、ナポレオンは海戦を理解しきれていなかったのか、トラファルガー前後でかなり無茶な注文を出しています。
 勿論、この広い世界には双方で功績を立てている人物もいるのですが。

>>171
 知力は確かに基本的にアホな後醍醐天皇に加算できない分、得をしてるのを勘定に入れれば、この条件で全国政権を倒す原動力になったんですから確かに同意できます。
 ですが、さすがに武力は高すぎると思います。ここまで高いと、武力が80前後の尊氏がどこかで殺されてしまいそうに思います。

[173] ハーン 2007/07/14 05:21

 フリッツ・エーリヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタイン

 1887年11月24日 - 1973年6月10日

統率……72 ドイツ軍の司令官を歴任し、破綻はありませんでした。

武力……90 名将の多い第三帝国でも指折りの戦術家の一人です。クリミア半島のセヴァストポリ要塞を攻略し、陸軍元帥に昇進。レニングラード攻略を担当したが、失敗。その代わり、一軍を撃破することには成功する。スターリングラード救出作戦では作戦そのものは失敗したものの、質のよくなかったドン集団軍を率いて迫り来るソ連軍を撃退し、南部の崩壊を防ぎました。第三次ハリコフではその手腕を遺憾なく発揮して、迫り来るソ連軍を撃退し、スターリングラード以来撤退続きであった東部戦線をスターリングラード前くらいにまで押し戻すことに成功しています。クルクスでも優勢なソ連軍を相手に大打撃を与えています。ですが、パットンとモンゴメリーのイタリア上陸に対抗するために兵力を引き抜かれたため、さすがの彼の手腕をもってしてもこの後に訪れる東部戦線の崩壊を防ぐことは出来ませんでした。

知力……70 回想録「失われた勝利」のなかでヒトラーを批判しており、自分の言うとおりにやれば独ソ戦に勝てたと言い張っていますが、今日ではソ連の圧倒的な予備軍の存在がそれを否定しています。二十世紀最高の戦略家という名声は大国フランスを一蹴したマンシュタインプランが評価されてのことでしょうが、どうもフランス侵攻計画はヒトラーの指示に従って何度も改定が行われていたようで、それを彼一人に帰することには抵抗があります。それにドイツ軍は純粋な兵力面でフランスを凌駕していました。クルクスでヒトラーと「後の先」か「先の先」かで議論を戦わせました。第三次ハリコフにおける敵を引き付け、消耗のピークに達したところを攻撃しての勝利に気をよくしてのことでしょうが、ソ連軍を甘く見すぎです。ソ連軍が何度も同じ失敗を繰り返すことを前提にした作戦をヒトラーが採用しなかったことは非常に尤もなことです(この後の攻撃が正しいのかは意見が分かれることでしょうが)。事実、クルクス戦後のソ連はばっちり補給を済ませてから着実に進撃しています。この後、ヒトラーとの対立が原因で更迭されると東部戦線でドイツ軍が攻勢に出られなくなったと言われていますが、それは東部戦線の兵力を連合軍の上陸作戦に備えて振り分けなければならなくなってしまったからであり、彼の存在は大して関係ありません。さらに彼は一度解任されると再任されておらず、ヒトラーは彼よりもルントシュテットやグデーリアンのほうを高く評価していたようです。

政治……43 別に良くも悪くもないのですが、政治的に不適格と見られたのか、ヒトラー時代に何回か左遷されたことがあります。それに、結局ヒトラーから戦争指揮の主導権をとることは出来ませんでした。そして、ドイツの世襲貴族は地位が安定しているので、情勢が不利になるとすぐ政治的に中立な立場になります。彼もまた良くも悪くも日和見でした。

魅力……58 戦術における手腕から崇拝者が多かったそうですが、そのためか傲慢だと言われています。

[174] ハーン 2007/07/14 05:22

列伝 二十世紀最高の戦略家?
 プロイセン貴族のエドゥアルト・フォン・レヴィンスキーの十番目の子として産まれる。生まれる前から母方の叔母の養子になることが決まっており、そのためにフォン・レヴィンスキー・フォン・マンシュタインというどちらかを削れよと言いたくなる長い名前になることが運命付けられた。血筋とコネが良かったため、出世は保障されており、そのまま陸軍に入隊する。第一次大戦でにも参加する。
 大戦後はヴェルサイユ条約締結後も陸軍に残る。当時のドイツ人と同じく、彼も例外なくヴェルサイユ体制に嫌気がさしており、軍の再編プランなんかをまとめていた。ヒトラーが政権につくと喜んで再軍備に協力しましたが、ブロンベルク元帥の失脚に巻き込まれて左遷された。
 第二次大戦ではポーランド戦に参加。ルントシュテットのもとで参謀として戦果をあげる。フランス戦ではその侵攻計画に貢献することになるも、また左遷されて東部戦線に追いやられた。作戦そのものは成功し、ドイツは第一次大戦で四年もかけて倒せなかったフランスをあっさり降すことになる。
 独ソ戦がはじまると機甲師団を率いてレニングラードを攻撃。その後はクリミア半島で活躍するも、次第にドイツとソ連の国力差が顕在化してきて押されるようになる。そこで彼は卓越した戦術的才能で東部戦線の維持に貢献するも、次第にヒトラーと意見が噛みあわなくなって解任される。後にヒトラーへのクーデター参加を打診されるが、「プロイセン軍人は裏切らない」と言って断った。
 戦後、戦犯裁判で虐殺の責任逃れに終始したが、禁固18年を食らう。だが、東西冷戦とかでそんなこと言ってられず、仮釈放されてたった4年で出てきた。その後はドイツ連邦軍の創設に力を尽くし、西ドイツの国防委員会の顧問になる。
 回想録「失われた勝利」を出版し、ドイツ南部のイルシュハウゼンで死去した。

 武力が高い典型的な軍人です。知力もそれなりにあるので、参謀にも使えますが、過度な期待は禁物です。
 戦後の負け惜しみが目立ちますが、基本的には極めて優秀な戦術家です。とりあえず、味方を過大評価して敵を過小評価することはやめましょう。回想録は「失われた勝利」ではなく、「当然の敗北」と改題するべきかと。

[175] 「ど」の字 2007/07/14 18:49

>>172
 尊氏と正成が実際に戦ったのは、楠木正成が京の入り口を守る宇治での戦いと京都市街戦で足利尊氏が敗北した後の追撃戦です(湊川の戦いで楠木一党を敗死させたのは直義軍)。
 これらの戦には、二人の武力以上に多くの要因があり、尊氏を捕捉撃滅できなかったのを正成の武力判定に使うことは出来ないかと考えます。
 足利尊氏と楠木正成の決戦は、非常に面白い歴史のIFだと思います。実際はと言うとこの二人は武将としての格が違いますので、まず同じ歴史の舞台で相対することは無いのですが……。
(なお、自分の個人的予想ではこの二人の決戦は足利尊氏の頓死でケリが付くと思っています)

>>173-174
 ナチスドイツを彩る、綺羅星の如き将星のひとつですね。
 自分はこの時代には詳しくないのですが、これほどの将星をずらり並べながら勝ちきれなかったドイツ第三帝国は、やはり最高指導者の力量が全ての敗因であるように思えてなりません。
 ともあれ、評価判定お疲れ様でした。

[176] ハーン 2007/07/15 18:33

>>175
 敗戦の理由はそもそも独ソ戦そのものが間違いだった、という身も蓋もない結論が存在しますね。
 それに人海戦術のせいでイメージしにくいかもしれませんが、ドイツに名将が揃えていたようにソ連も負けず劣らず名将を揃えています。閣僚も共産の幹部がナチの幹部に大きく劣っていたとは思えません。人材だけで言えば互角だったと思います。
 と、言ってみても国力で上回るソ連に喧嘩を売ったことから、責任は疑問の余地無くヒトラーにありますけど。
 ですが、戦後になって「俺がやれば勝てた」とかいうのは物凄く見苦しいのです。

[177] 閑人 2007/07/16 20:21

関羽

?〜219年
字は雲長、河東郡解県(山西省)の人

【統率】・・・84
当時、一国に匹敵する規模を誇る荊州の守護を任される。
劉備軍においても司令官として単独で軍を率いる事が可能だった
統率力を持つ。

【武力】・・・98
これは個人武勇による点がそのほとんどを占める。
中国史上において「兵一万に匹敵する武力」という人間離れした誉れの言葉で語られる猛将の象徴のような存在。
唐代には張飛と共に猛将の代名詞ともなった。
対袁紹においては魏の名だたる猛者を次々と敗走せしめた猛将顔良の陣のど真ん中に切り込み、その中にいる顔良をやすやすと斬り、首級を上げ悠々と立ち去る関羽に敵将及び敵軍は恐れおののいたという。

【知力】・・・73
春秋時代の治乱興亡をまとめた「春秋左氏伝」を諳んじるほど
兵書にも通じる学力を持ち、軍師の徐庶や諸葛亮の指示がなくとも単独での作戦行動も可能。

【政治】・・・33
一個人としてあまりにも強すぎる故、傲慢になりすぎ政治には非常に疎かった。荊州の背後には呉という強国が控えており、後顧の憂いをなくすためにも慎重な外交が要求をされる立場にあったが、呉の方から関羽の娘と孫権の息子を結婚させようという話が持ち上がった際に
「虎の子を犬にやれるか!」と一蹴し、一国の王たる孫権の恨みを買ってしまう。
劉備対曹操の漢中攻防戦において、劉備の勝ち戦に乗り自らも荊州から北上。連戦連勝を重ね、魏の曹操をも震え上がらせる快進撃を見せたが、魏が呉に内応を促し、それを呉が承諾。
挟撃にあった関羽は奮戦むなしく捕らえられ処断。
政治面における傲慢と失策が招いた欠点故に自滅を招いてしまった。

【魅力】・・・95(死後は100)
忠義を非常に重んじる人であり、それは敵である曹操からも賞賛されるほどに人間的な魅力に溢れていた。
後世においては国に「忠」を尽くす格好の存在として民を纏める象徴的な存在にまでなる。
宋の時代には公、王の位を与えられ、明代になるとついには帝にまで昇格する。
民間信仰においては武神、商業神、火神、水神、文学神など様々な顔を持つ人気を誇る関帝。
アジア圏一帯における関帝信仰は仏教信仰を上回るほど。

不器用な軍人、それでいて一個人の武力はもはや超常的。
それが関羽ではないかと個人的には思えます。
政治に疎いのは、致命的ですが古代中国の政治といえば
足をひっぱりひっぱられる血みどろの謀略戦でもあるので
忠や義を重んじる関羽にはやはり不得手とするものだったのでしょうね。

[178] 片田舎の偏屈士 2007/07/17 20:27

PCの再インストールに戸惑ってレス遅れました。
>>154
やっぱり魅力が……(-_-;)
大らかに見えてもやっていることは恐怖政治寸前ってところがあるので、上にも下にも贔屓目に見られない一族ですね。
ただ、親類には、もの凄く良い人もいるので、その人たちに光が当たっていれば……っと思ったりもします。

>>153
悪源太義平とともに伝説化された人物ですね。
ただ、琉球まで征服したというのは、さすがに……ねえ?

>>155>>158
秀信については詳しくはないのですが、秀長はこの国の人物の中では極めて優秀な人材だったと認識していましたが、それ以上の高評価。
なるほど。不敗だったのですね。武力が高すぎるかと思いましたが、納得します。

>>161>>163
ドイツの哲学者といったらベッケンバウアーですよ!
……って、このネタわかる人少ないんだろうな。

>>165
イギリス海軍が強かったと言えば強かったわけですが、確かに海軍関係者で100を与えられそうな人物はネルソンくらいしかいませんね。
他の二大提督は実績の面で劣るともいうし、相手がゲフンゲフン!

>>171
う〜ん。武力がインフレ気味?
防衛戦を得意とする武将の場合、自分は知力と統率を高めに設定しますので、武力そちらでカバーさせるのが妥当かと。
ただ、野戦攻勢任務では-30とあるので、その点で考えると妥当かなとも……痛し痒し。

>>173-174
同じくこの時代はまだまだ勉強中で詳しくないのですが、マンシュタインの名は聞き及んでいます。
政治と魅力の低さから考えると、要職に就こうとも周りから煙たがられる扱いづらいタイプで、司令部としても使わざるを得ないと判断した人物なのでしょうか。

>>177
田中先生ではありませんが、中国の歴史を三国志だけを基準にして判断するのは、この板の趣旨にも反します。
世界史的に見ると関羽は、中国の一地方である荊州辺りでわずかな期間権勢を誇った武将程度でしかありません。
統率77 武力78 知力63 政治65 魅力80
簡易評価ですとこれくらいでしょうか。武力・魅力に関しては+5前後加える程度で。

[179] 片田舎の偏屈士 2007/07/17 20:30

侯景
503年〜552年

【統率】75 軍を指揮することに関しての手腕は高い。わずかな手勢で梁に反旗を翻した際にも迅速な行動で建康へ進撃し、農民、奴婢等が混入して膨れ上がった軍隊でも見事に包囲戦を成功させた。

【武力】69 指揮官としては優秀ではないが有能ではある。ただ、逆境に弱いためか、その能力に安定感がないことで必ずしも有能であり続けていられるわけではない。

【知力】8 いきあたりばたりです。高慢で先見もないといった、その場限りの行動で最期には何もかもを失い見捨てられてしまったのは当然の結果。

【政治】15 包囲戦での駆け引きくらいしか見るべきものはない。自己の名声を高めるためだけにあらゆる官職に付くなどして不信を招いた。

【魅力】18 無法者の指揮官として千人くらいはついてきてくれるミリキはある。あくまでも報酬目的であろうが。

[180] 片田舎の偏屈士 2007/07/17 20:34

宇宙大将軍

当初は北魏(東魏)に仕えていたが、高慢で強い野望を持っていたため、高歓の跡を継いだ高澄の代に反旗を翻し、南朝の梁へと亡命をする。
時は武帝の治世末期。過度に仏教に傾倒した政策から人心は既に離れ、漠然と不穏な空気が流れていたが、南朝は未だに強勢の域にあった。
しかし、侯景を引き入れたことで北魏との関係は悪化。侯景の討伐に派遣された慕容紹宗に援軍ともども敗北したため、すぐさま和睦に応じたことで、今度は侯景との関係が悪化するという悪循環。自己の身が危うくなったと感じた侯景は、敗戦後に残ったわずか千人の手勢で梁の都、建康へ進撃を決意する。
幾度となく騒乱を経験してなお権勢を保った南朝であったが、半ば宗教国家化した武帝の政治により弱兵となっていた軍隊ではそれを防ぐことも出来ず、ついには武帝と敵対する王の援軍と流民の流入により10万とも膨れ上がった軍によって都を包囲されてしまう。その攻勢に武帝もよく粘ったが、侯景からの偽りの停戦に引っかかったことでついに建康は陥落。歴代南朝の都として繁栄をした建康は略奪の嵐に見舞われ、その栄華は灰塵と化すこととなる。
その後、一時は梁の実権を握り、宇宙大将軍などと途方もない位を僭称したが、王僧弁・陳覇先ら梁の将軍に相次いで敗北し、その逃亡の果てに味方には見捨てられ、惨めな最期を遂げた。

扱い要注意のキ○ガイ将軍。
不安定ながらも権勢を維持していた南朝政権に止めを刺した反乱の首謀者ですが、まあ、明らかにヤバイ人間で、北朝側の出身でありながら、諸所南朝の暗君・暴君に通じるものがあります。
イメージとしてはヤザン(Zガンダム)ですが、性格はジャギ(北斗)です(笑)
能力的に優秀な指揮官の下で働かせるには問題ないでしょうが、知力と政治力の低さから、上に立たせると先見・展望の無さで自滅すること間違いありません。

[181] 片田舎の偏屈士 2007/07/17 20:47

180の北魏との関係は悪化→東魏との関係は悪化の間違いです。

[182] 閑人 2007/07/17 23:59

>>178
逆にアンチ三国志目線というのもどうかと。
のちの時代にも関羽の武は広く伝わっていますし
世界史レベルで見れば、三国時代は突出した個人武力のみが
特徴的な能力であることを考えればこれくらいでもいいと
思ったんですけどね。
個人の腕力も評価対象に入れていいみたいなので書いてみましたが。
関帝のことは完璧にスルーされちゃってますね・・・。

[183] 越中守 2007/07/18 12:31

>>177>>182
横レスを失礼致します。

三国志が個人的武勇に突出したと言われるのは、後の三国志演義の影響ですね。
三国志演義はあくまで小説であり、これを鵜呑みにするのは危険が伴います。(例えば、幕末新撰組の土方歳三と沖田総司は、司馬遼太郎氏の小説から仲が良かったとされるのが一般的ですが、残っている手紙の文面などから、実際はそこまで親密ではなかったというのが定説です。司馬氏自身も、両者の関係は創作である旨を述べています)

また、片田舎の偏屈士様も、ことさら三国志を貶める意図はないでしょう。
確かに三国志演義は中国のみならず、東アジア各地に広まった大ベストセラーですが、これを特別視するのはいけないとしているだけであって、それをもってアンチとするのは些か乱暴ではないでしょうか?

ただし、閑人様の仰る「関帝信仰」も確かに無視出来るものではありませんので、それを踏まえて私なりに評価を出したいと思います。

[184] 越中守 2007/07/18 15:35

関羽 生年不明-219
関帝聖君・壮穆侯

【統率】54
主君劉備より荊州(現在の湖北省及び湖南省)一帯を預かり、半独立状態にあったものの、同僚や部下に対しては傲慢であり、彼らからの信望は薄かったとされる。
現に彼の死は配下の寝返りによるものである為、減点材料に加える。
また、正史には個人的な武勇に頼りすぎ、自らの兵をいたずらに失うといった意味合いの批判が成されている為、これも減点対象とする。

【武力】71
彼の「武勇」は小説などで大きく語られるが、その武勇で持って大局に変化を与えたことはない。
(彼の指揮による樊城及び襄陽攻略戦は、いずれも失敗に終わっている)
曹操麾下にいた際に顔良を斬ったとされるが、これは当時劉備が袁紹の下にいた為、関羽を味方だと思った顔良が不用意に近づいた為とする説もある。
ただし、個人的な武勇に頼りすぎたという記述は、逆に言えば彼の個人的な武勇がそれだけ優れていたとも取れる為、一応の加点材料とする。
尚、彼の侵攻によって、曹操が遷都を考えたというエピソードは政治に加点する(理由は後述)

【知力】48
武人でありながら古典にも通じていて、教養豊かであったとされる。
もっとも、戦略面では孫権との外交に失敗している為、この数値とする。

【政治】67
むしろ彼の本分はここにあると言って良い。
内政では商業を奨励し、謀略面でも自身の勢力圏に近い箇所に対しての反乱を扇動するなど、成功こそしなかったが、十分に評価して良いだろう。

【魅力】66
生前のみならず死後も人気は高く、特に歴代王朝が人気取りの為に彼の格をどんどん押し上げていった為、ある意味孔子並みの神格を与えられた。
講談でも人気者であり、京劇でも岳飛と共に、多く採り上げられる人物である。
また、敵方の武将とも親交を持ち、互いに尊敬し合っていたともされる。
しかしながら、傲慢な態度から敵を作りやすかった為、数値を下げている。

【列伝】美髯公

出身は河東郡(現在の山西省)で、若い頃は塩の密売に携わっていたとされる。
その後故郷を出奔し、幽州(現在の北京周辺)で劉備と出会う。
各地を転々としながら、最終的に荊州一帯を支配下に収める。
だが、孫権との外交に失敗し、身を滅ぼした。
死後は神に祭り上げられ、戦の神、商売の神として人気が高い。
なかでも、商売に最も大切な「信用」を司っているとされる。
特に華人の信仰が厚く、東・東南アジア中にそれは広まっていると言えるだろう。

特殊能力:神格化(死後に魅力+30)

[185] 越中守 2007/07/18 15:42

関羽の項目に補足
特殊能力:傲慢(魅力に-10)威圧外交(外交に限り、政治に-30)

[186] 閑人 2007/07/18 19:18

越中守様

これ以上固執するのも五月蝿く思われるかもしれないので
これきりにしますが関羽の「兵一万に匹敵する武」というのは正史評ですよ。
どうも、傲慢な性格のみをクローズアップしてるように思えますが
どの時代でも平民層の数が人口の大多数を占める歴史において
貧民や庶民には優しく、鼻持ちならぬ富豪にのみ傲慢な態度で望むのはそれほど魅力のない人物と見えますかね?
それに関羽と言えば、中国においては岳飛と並び、武人の代表格とも言える英雄です。武力、魅力のみにおいてなら中国史上トップクラスでも良いのでは。と感じ書かせて頂きましたが、どうも偏屈な見方が往行しているようですね。

[187] 地理公 2007/07/18 19:37

>>184
だいたい僕の評価も似たようなものになると思います
僕なら統率と魅力を上げて知力を下げるでしょうか
もうちょい武力を下げて、特殊能力で『万人之敵』(個人的武勇として武力プラス)
などとやっても面白いかもしれませんね

>>186
このスレでは基本的に武力は戦術指揮能力ですから
関羽はその点、当時としても一流とは言いがたいのは確かです
個人的武勇にしても、評はともかく実際わかってるのは顔良を斬ったことのみ
ですから、見方によってさほど評価が上がらないこともあるでしょう
また、死後の評価が高いというのは特殊能力で表現されていると思います
自分と違う見方を偏屈と切って捨てずに、こういう見方もあるのだというふうに
考えてみてはいかがでしょうか

そろそろ僕も新しい評価を投下したいところですがなかなかできません
たぶん近世ヨーロッパの人物になると思いますが

[188] 閑人 2007/07/18 19:51

中国史の武人と言えばこの人というメジャーどころから
言って見ようと思ったのですが様々な意見があるのもですね。
偏屈などといってしまったのは短慮すぎました、すみません。
しかし関羽でさえこんな評価になってしまうとは。
今後も中国史の人物で行こうと思ったのですが
評価選定が難しくなりますねぇ・・・。

[189] 越中守 2007/07/18 21:12

>>186
なるほど、調べましたら確かに正史の記述ですね。
これに関してはこちらの不明です。
ご指摘有り難うございます。
また、大多数である貧民・平民にこそ良くあるべきだとする考えもまた、敬うに値します。
実生活において、その思想を生かすことの出来る場で、存分に発揮されることをお祈りします。

>>187
なるほど、確かに特殊能力「万人之敵」は面白いかも知れませんね。
それならば、武力は55とし、特殊能力で+30が妥当でしょうか。
実績が殆どないので、90台にするのは二の足を踏んでしまいますが…
近世欧州とは興味深いです。
楽しみにしておりますね。

[190] 片田舎の偏屈士 2007/07/18 22:01

仕事から戻ってきたら自分の言いたいことはほとんど先に言明してくださったようなので補足だけ。

>>177>>188
道教の神様っていうのは日本の神道と似たようなもので、他にも神様になったとか、仙人になったなどの謂れがある人物はいます。特に唐代以降になると顕著で、この関連スレでよく名前の挙がる尉遅敬徳もそうです。
中国史の人物選定としてはまとめサイトの複数の評価を参考にして、自分の色を足してみてはいかがでしょうか。
尉遅敬徳も神格化した武将としても素晴らしい評価ですので、神格化の基準としてみてもよろしいかなと思います。

>>184
う〜ん。自分の評価より辛辣だ(笑)。
やはり、関羽の弱点はその傲慢ですよね。黄忠に対しても含むことを言ってますし、気配りの出来ないタイプというか、自己中心主義というか……。
政治に関しては商業奨励の実績がありますから、この点だけは実のある評価として評価できますね。
「万人之敵」というと韓世忠もそうですね。
ただ、特殊能力は+は20、−は30くらいがちょうど良いかと。いきなり30も増えたりすると別人っぽくなってしまいそうで。

とりあえず今は中国史の勉強中なので、段階的に評価をしていこうと思います。今は隋唐ですから、目標である明の忠臣までの道のりはまだまだ……

[191] 閑人 2007/07/19 00:05

只今、遅まきながらスレ全体の流れを確認してきました。
関羽にも様々なご意見が交わされていましたね。
それを個人論で意固地になって正論として通そうとしてのも
恥ずかしい限りです。
それぞれの主観がある、と思えばいいのですね。
ネタで神話キャラを投入してくるような
方々の柔軟さを見習いたいですね。(苦笑)

[192] 越中守 2007/07/19 01:10

シルウェステル2世 950?-1003
ローマ教皇(在位999-1003)

【統率】59
ローマ教皇としてイシュトバーン1世をハンガリー王に叙するなど、東欧世界に宗教的な支配を広げたことを評価して。

【武力】33
特にこれといったエピソードは見られない。

【知力】78
学問的業績は大きく、中でもアラビア数字を積極的に採り上げるなどしたことが知られている。
また、望遠鏡や機械時計、水圧式オルガンを所持したとも、制作段階から携わったとする説も存在する為、優秀さは認められていると言っていいだろう。

【政治】67
フランス(カペー朝)の敬虔王ロベール2世や神聖ローマ皇帝(ザクセン朝)オットー3世、ローマ諸貴族などの間を渡り歩き、謀略の限りを尽くした。
また、内政面では教会の組織改革も手がけ、聖職や聖遺物売買の禁止などで成果を上げた。

【魅力】68
ロベール2世やオットー3世は自らの生徒(彼は教職にもあった)で立場を支えて貰った恩人であるにも拘わらず、そのいずれをも最終的には見捨てている。
しかし、そんな状態にあっても恩知らずの行動については非難されることはほとんど無かった。
(三国志の劉備に近い感覚だと言えば分かりやすいだろうか)

【列伝】紀元千年の魔術師教皇
本名はジェルベール。
フランスの庶民の家に生まれ、幼少期に修道院に入る。
学問で名声をなし、教師として活躍する。
教師としての能力・名声も高かったらしく、オットー1世も息子オットー2世の教育を依頼したほどであったという。
後、ランス大司教に任命されるも、政敵によって破門され掛けてしまう。
これは当時蜜月関係にあったロベール2世の取りなしで事なきを得るが、やがて彼と対立し、オットー3世に接近していく。
教皇になった後は教会改革にも努めた。
最終的にはローマの諸貴族の暴動でオットー3世共々ローマを追われるのの、オットー3世の死後に和解し、ローマに戻った。

数学者・天文学者としても傑出していたらしく、数々の学問的な功績が残っている。

[193] 逆押しオート 2007/07/19 01:22

ジョー・ストラマー
(1952〜2002)
英国が生んだ世界的パンクバンド『ザ・クラッシュ』のVo

【統率53】
1990年代にトップミュージシャンを集めてバンドを組んだり、ストライキ中の消防団のために聴衆を集めて演奏するなどしている事から統率力はそれなりにあると判断。

【武力40】
中背で細身、喧嘩は弱いと思われるが根性はありそうなのでこれぐらい。

【政治71】
クラッシュは英国のバンドとして初めて政治的内容の歌詞を歌ったバンドと言われており、自身も政治会合などに参加している。
またユーゴスラビア紛争の難民のためにチャリティーライブを行ったり、U2のボノとともにエイズ撲滅運動に参加したりと社会的な貢献は非常に大きなものがある上、その全てを成功させている。

【魅力92】
身分のやかましい英国にあってミュージシャンとしては珍しく中産階級出身(イギリスにおいてミュージシャンは大多数が労働者階級出身)であるがそんな事を鼻にもかけず、困っている人がいたら助けずにはいられないという性格のため、彼は男女問わず誰からも慕われたという。
その様な自身の素晴らしい人間性に加え、音楽的センスや世界中にファンがいる事、ロックの殿堂入りした事、ニルヴァーナやレッドホットチリペッパーズやU2などの世界トップレベルのバンドに影響を与えた事、汽車に彼の名前が付けられるなど英国内において彼は音楽界の枠を越えたカリスマ的存在である。
余談ではあるが、日本の某ロックミュージシャンは彼に初めて会った時「ずっとあなたのファンでした!」と言ったら笑顔で抱き締められたという。そして雑誌のインタビューでジョーの死についての質問が出た時涙が溢れて言葉が出ず、インタビューが一時中断された。ジョー・ストラマーとはそのような人物である。
以上により魅力は十分に超人レベルと判断し、このような数字になった。

【特殊技能・ギター破壊】
ギターを地面(ステージ)に叩き付ける事によって兵士(観客)の士気(熱狂度)を大幅に上昇させる。

[194] さば缶 2007/07/19 17:03

更新しました。前言ってた評者別更新はまだです。ネタ物も今回の更新に入ってないので少々お待ちを……。ごめんさい。
それと言ってなかったですが、「地域・時代から探す」の地図は無駄にクリッカブルマップになっていて該当地域を押すとその地域に飛びます。

あと、ニコニコ動画で最近歴史ネタの替え歌が地味に流行っている様なのでまとめてみました。興味ある方は是非のぞいてみてください。

[195] 越中守 2007/07/20 00:30

>>194
いつもお疲れ様です。
毎回の更新を楽しみにしております。

[196] ルー・ルア 2007/07/20 04:08

>>194

スターリンネタに笑いました(笑
しかし、クレヨン王国とか、懐かしいなぁ…

[197] 片田舎の偏屈士 2007/07/20 08:13

>>194
お疲れ様です。更新時にはいつもワクワクしてしまう自分です。

>>178
でのたまった哲学ネタ。ニコニコアップ記念で
http://www.nicovideo.jp/watch/sm28817
モンティパイソンです。

[198] 中国史フリーク 2007/07/20 19:25

関羽

統率:80
武力:85
知力:70
政治:65
魅力:80

特殊能力:
万人敵(武力+10、但し単騎駆けなどで大群に威を示した場合のみ)
威圧外交(政治−30、弱小勢力なら降伏させることも可、強国の場合は怒りを買うのみ)
関聖帝君(死後、魅力+20)

列伝:
関羽、字を雲長
?〜219年

劉備に仕えた武将、河東郡解県の人。
劉備と苦楽を共にし、214年劉備が蜀を得ると
荊州の総司令官となる。
正史では「一人で万人の敵を相手にできる」「国士の風格がある」
「当代随一の猛臣」などの賛美も受ける反面
「羽ハ善ク兵伍ニ持ツモ士大夫ニ驕ル」
と評されてもいる。
貧しい出の者は可愛がったが、身分の高い高官のみには傲慢だった。
庶民の英雄とも言える。
個人の武ばかりが目立つが、軍略の手並みもなかなかに見事で
荊州北上時、魏からは于禁、鳳徳率いる8万7500の大軍が派遣されたが天候、地形の機知を見極めこれを降り続く長雨による水計で撃破。
北部拠点のハン城も陥落寸前まで追いこまれ、時の魏王曹操も黄河の北へ都を移そうと考えた。
荊州は魏呉蜀それぞれが第一線級の司令官を投入し、要所を守らせていたが単純に考えても関羽は魏呉の司令官2人+あまたの名将数人をも投入しようやく討ち取れた武将なのである。
上記の統率力と武力はそれによるもの。
知力面に置いては、兵書でもある左伝を暗唱できる学力の他
地元にいた時は子供に勉学を教えていた。
その他、そろばんの発明者としても有名。
死後は道教神となり、宋代には武神を祭る武廟の主神となり
明代には帝となりその武廟も「関帝廟となり」、清では「関帝大聖」となりついに民間信仰の王座を占めるほどに至る。
その位たるや、民間における道教神の最高位ともいわれる玉皇上帝をも上回っているほど。
日本にも華僑ゆかりの地には必ずといっていいほど、関帝廟は存在し
今なお、多くの人々の敬慕を集めている。
日本における主な関帝廟は函館、横浜、長崎など。
関帝廟はアジア圏のみにあらず、オーストラリアやアメリカにもある。

まあ、意外なほど冷遇されてる能力だったのをみかねてつい。(笑)
中国史の英雄といえば、やはりこの人が代表格ともいえるので
それなりに評価はしていただきたいですね。
三国志の時代のみに留まらないスケールの持ち主でもありますし。

[199] ルー・ルア 2007/07/20 22:16

私も、関羽の数値化してみます(笑
昔、2chのコーエー数値化スレでやったことある気もしますが。

厳しい評価かもしれませんが、ご了承ください。

関羽(?〜219)

統率:49
(下ヒの太守事務を代行したり、重要な荊州を任される等、劉備から信頼されていたが、樊城攻めの際、援軍、補給を要求するも断られる等、部下からの信望は薄かったと見られる。
他人からの評価は高いものの、特に優秀な統率能力を発揮した場面は見当たらないので、この評価に。)

武力:73
(楽進、満寵、徐晃等、魏の一流の将が相手では勝てていないが、国力の差已む無しか。 益陽で、数千人を率いた甘寧相手にビビって渡河を断念したようなマイナス点も有るが、樊城で曹仁相手に圧していた点や、援軍として駆けつけた于禁やホウ悳を破ったよう、評価すべき点も多い。
曹操、程?らが彼を高く評価する一方、廖立からは辛辣な評価を下されている。(まあ、この人は口だけっぽいですが)

知力:36
(教養自体は高かったが、呉との外交はあまりにもお粗末。
呉の使者への恫喝、孫権が派遣した太守を追い散らす、陸遜の謙った手紙を読んで慢心、呉の国境線にある倉から兵糧を無断で持出…etc
性格面での問題もあっただろうが、これだけ暴走されたら、高く評価することはどう考えても不可能。)

政治:67
(樊城や襄陽を包囲した際、印綬をばら撒き群盗や一部の魏の臣下の反逆を煽動する等、意外と政治能力は高かったらしい。
「商売の神様」と言われるよう、商業を奨励していたみたいだ。)

魅力:70
(後世では神格化されているが、部下からは尊敬され、同僚からは嫌われるタイプの人物だったらしい。
傲慢さ故、敵を作ることも多かったが、敵からも高く評価された事が多かった事からも、中々の魅力の持ち主だったと思われる。
彼の死を聞いた劉備は怒り心頭に達し、呉へ大軍を送った程である。)

[特殊能力]
神格化:魅力+25
(後世、神格化され、数多くの人々から崇拝される。
ちょっと昔の時代では、彼を捕らえた呂蒙等の呉陣営は、ボロクソに言われていた。)

髭:魅力+1
(「美髯公」と呼ばれていたらしい。 それだけ。)

傲慢さ:同僚武将の友好度が低下する
(傲慢さ故、敵を作りやすい。)

[列伝]
あまりにも有名なので割愛(−−;)
余談ですが、恋○無双の彼(彼女?)は、極度のツンデレだとか。

[200] ルー・ルア 2007/07/20 23:27

ついでにこの人も(文章が消えてしまったので、短めで…)

呂布(?〜198) 字は奉先

統率:34
(特に指導力を発揮した訳でもなく、最期は侯成、宋憲、魏続等に裏切られ。呆気なく死亡。 高くは無いだろう。)

武力:81
(敗戦も多いが、張燕の率いる強大な黒山賊を撃破したのは見事。
彼の率いる騎馬軍は強く、騎乗していた赤兎馬と併せ「馬中の赤兎、人中の呂布」と讃えられた。)

知力:16
(とにかく長期展望が皆無。
黒山賊を撃破し信望を得たにも関わらず、傲慢になり略奪行為を行い袁紹の恨みを買ったり、陳宮や高順等、優勝な人物の進言を無視し、自軍に多大な被害を被らせたり、妻の意見を選択して、作戦を却下する等、余りにもお粗末。
武力が高いにも関わらず敗戦がかなり多いのは、彼の知力の低さ故だろう。
問題への正しい理解・判断能力、先見の明、戦略眼等は全く無いが、無駄に意志力だけはあったので、ゴミレベルということに。)

政治:42
(行く先行く先で、案外受け入れられている。
劉備と紀霊の和解を行う等、案外一定以上の政治見解は持っていたのかもしれない。)

魅力:40
(傲慢かつ猜疑心が深い為味方からは嫌われ、凶悪さから敵からは畏れたれた。
もっと低くても良いと思ったが、様々なエピソードが残されており、後世には圧倒的武勇の持ち主として描かれているため、少し上乗せ。)

[特殊能力]
馬中の赤兎、人中の呂布
(一騎討ちでは、殆ど負けない。)

謀反:行うごとに、魅力や信用度が低下していく。
(長期展望が多い謀反が多い。)

[列伝]
御存知、三国志の強くて裏切りまくる人。
小説や漫画では美化されがちだが、実際はとんでもない人。

[201] ルー・ルア 2007/07/20 23:31

200ゲット!

>>200

×侯成、宋憲、魏続等に裏切られ。呆気なく死亡。
○侯成、宋憲、魏続等に裏切られ、呆気なく死亡。

×畏れたれた
○畏れられた

×長期展望が多い謀反が多い。
○長期展望が無い謀反が多い。

間違いが多くてすみません(−−;)

[202] 閑人 2007/07/21 00:37

三国志系はさすがにメジャーなだけあって評価が厳しいですね。(笑)
まあ、個人の見方は様々なものがありますからね。
では、本題に写らせていただきます。

楊業

五代十国時代の地方政権「北漢」
その後の統一王朝「北宋」に使えた武人
楊家軍と呼ばれる自前の軍隊を所持。
知略にも富み、天文を見て戦の勝敗を占うこともできた。
「無敵将軍」とあだ名さえ、旗印から「令公」とも呼ばれる。

統率:87
武力:88
知力:80
政治:41
魅力:90

列伝:
北漢時代の皇帝からは性の「劉」を賜り
一時期は「劉継業」と名乗っていた。
優秀な騎馬軍団を作り上げ、自前の楊家軍は
当時最強を誇る軍隊だった。
北宋との戦いで北漢が滅ぶと北宋の将になり
「楊」の性を賜る事になる。
遼の屈強な騎馬軍団に歩兵主体の宋の軍団がしばしば
打ち負かされるなか楊家軍のみは何度も遼軍を撃退し
民衆を守り抜いた。
人々は敬意を込めて彼を「楊無敵」と呼んだ。
宋の太宗の悲願は古来より漢民族保有の領土「燕雲十六州」を
異民族の手から奪還することであり、986年に太宗は燕雲十六州を
奪還するために遼に戦いを挑む。楊業は方面軍の副司令官として参戦し善戦するも、味方である宋軍の内訌と不手際により戦死。
正史「宋史」によると、楊業は遼兵を数多く倒した末に捕まったが
虜囚の屈辱を潔しとせず絶食し、3日後に亡くなった。
敵国であった遼でさえ楊業の武威を称え神格化され、遼の民は
厄除けの神として楊業の肖像画を祭ったという。
中国には今なお楊業の子孫を名乗る人は多い。
水滸伝に登場する青面獣楊志は楊業の子孫という設定にもなっている。

個人的にどうしても悲劇の猛将というタイプが好きなので
今回のそういう人物をノミネートしてみました。

[203] ルー・ルア 2007/07/21 20:08

意外と数値化されていないみたいなので…

苻堅(338〜385) 字は永固
前秦第三代皇帝 世祖宣昭帝

統率:68
(王猛ら有能な人物を数多く用いて、中央集権を強化し、前秦の全盛期を築いた。
しかし、ヒ水の敗戦後、国内の諸部族が独立していき、彼が築き上げた国は、あっさりと崩壊した。 其の死も呆気無かった。
有能な部下が居た時は優秀、その部下の死後は凡人といった所だろうか。)

武力:40
(前燕、前涼、代と次々と華北を統一していった。 有能な部下が多かった点もあるだろうが、彼自体も、それなりの軍事見解が有っただろう。
しかし、ヒ水の敗戦は酷すぎる。 論外。
歴史上に残る大敗を喫した彼の武力は、大幅に減点せざるを得ないだろう。)

知力:63
(若い頃から武術兵法に優れ、漢文化にも親しみ、将来を嘱望されていた。
暴君苻生を倒して即位し、有能な
信頼していた王猛の「東晋を撃ってはならない」という進言を無視したのは大幅なマイナス点)

政治:89
(貧しい出の王猛を丞相に抜擢し、内政を整え国力を強化した。
灌漑施設の整備改修や荒蕪地への徙民など、数多くの農業政策を実行し、国力を充実させた。
勿論、有能な王猛の存在あっての事だが、優秀な部下の進言を用いて、太平の世を築いた彼も、評価に値するだろう。)

魅力:81
(親孝行かつ慈愛に富んだ性格で、人望が厚かった。
民族融和という壮大な夢を持ち、敵の降将や亡命者を許し、厚遇する等、非常に仁愛に満ちた人物だった。
ヒ水の敗戦後は暴君と化したが、やはりかなりの魅力を持った人物であっただろう。)

[特殊能力]
理想過剰
(勝ち続けると慢心し、理想と現実の区別が付けなくなる)

[列伝]
魏王苻雄の子で、前秦の初代皇帝苻健の甥。
暴君であった二代皇帝の苻生を殺し、兄の苻法が皇帝の座を固辞した事もあり、三代皇帝として即位する。(後、苻法は、その人望を恐れた苻堅の母に殺されるが、裏で苻堅が手を引いていたという説もある。)
有能な王猛や、人望が厚い苻融を採用し、数多くの政策を行い、前秦の全盛期を築いた。
また対外的にも、前燕、前涼、代と次々と滅ぼしていき、巨大な版図を築いた。
しかし、王猛の死後、部下の反対を押し切り東晋に攻め入るが、部下の裏切り等もあり、大敗。 有名なヒ(三水に肥)水の戦いである。
この敗戦後、彼が築いた前秦は崩壊していき、385年、後秦の姚萇に捕らえられ、殺されたとも自殺したとも言われている。

[204] ルー・ルア 2007/07/22 02:57

苻堅修正
政治89→84(やはり、王猛の存在は大きいからなぁ… 高すぎた。)
魅力81→83(慕容垂との逸話を見ると、この数値は若干寂しかったかもしれません。)

王猛もまだ数値化されていないみたいですね。

王猛(325〜375) 字は景略

統率:83
(数多くの民族から為る前秦を実質纏め上げたのは、彼と言っても良いだろう。)

武力:71
(一応、自ら軍を率いて前燕を滅ぼしているが、大軍で攻めた上、相手は、アホな慕容イによって既にボロボロだった(慕容垂は、讒言を受け前秦に亡命していた。)から、評価は難しい。
戦上手の慕容恪が生きていた頃は前燕に攻め入っていないから、「勝てる戦いは落とさない武将」くらいの評価と判断。)

知力:82
(東晋の制圧をするなと進言し、それを守らなかった結果、ヒ水の敗戦があった事からも、的確な判断能力を持っている。
前秦の政策、戦略は、殆ど彼が立案したものと言われている。
博学で兵書を好み、実は桓温と天下の大勢を談じた事がある。)

政治:92
(前秦、いや、五胡十六国時代で最も優れた宰相と呼んでも過言では無いだろう。
民族融和政策を慣行し、優れた人物を数多く抜擢した。
また法制を整備し、中央集権を進め、さらに農業を勧奨し、国力を充実させた。
また、軍政の改革にも一役買っていたりしている。)

魅力:64
(苻堅からは「玄徳にとっての孔明のごとき存在」と、信頼を受けていた。
その反面、テイ族からは嫌われていたらしい。(最も、彼への厚遇に対する嫉妬のような面も大きかっただろうが)
亡命してきた慕容垂を殺す様に進言した事からも、ガチガチの合理主義者で、付き合いやすい人間では無かったと思われる。)

[列伝]
貧しい家の出だが、苻堅に見出され、前秦の躍進の原動力となった。
外政面では数多くの戦略を立案し、また内政面でも数々の政策を実行し、前秦の国力を増大させた。
ただ、死に際した遺言だけは守ってもらえず、彼の死後、前秦は滅亡の一途をたどっていく事に…

[205] ルー・ルア 2007/07/22 03:32

最近投稿が多くてすみません。
ネタです(笑)

郭海皇(登場作品:バキ)

統率:83
(具体的に、拳士を育てた訳では無いが、全ての海王を統べる「海皇」の称号を持つ男ゆえ、最低でもこれくらいは無いと、話にならない。)

武力:96
(現時点で唯一範馬勇次郎が勝てなかった人物。
「必要な時、必要な術を、必要な速度で発揮する」という理合に基づいた「消力」と呼ばれる技術(物理法則は完全に無視している)を用い、圧倒的パワーの勇次郎と、一定時間互角以上に戦った。
また、手刀で一気に三人の手首を切り落とす等、元々の実力も無い訳ではない。)

知力:89
(勇次郎の渾身の一撃を喰らう直前に「擬態死」を用いて難を逃れる等、危機に於いても高い判断力を発揮している。
人生の大半を使って理合を得る等、意志の強さは作中でもトップレベル。
まあ、あまり賢そうな人が居ないこの漫画の中では、トップクラスの知力の持ち主かと。)

政治:85
(海皇の称号を外国に出さないため、大擂台賽の裏で暗躍する。
勇次郎との大戦後、勇次郎に海皇の称号を贈り、最強の人物に称号を持たせる事により、「海皇」の名を絶対な物にしようと企てた。(これに関しては、読者によって諸説有)

魅力:69
(数多くの拳士から尊敬を受けているが、個人的魅力に関しては不明。
腹黒く、一筋縄ではいかない人物だが、勇次郎と実力を認め合ったりした点など、人間味が有る所も見せている。)

[特殊能力]
消力
(スピードやパワーといった人智を超えた力。
大抵の拳士には、打ち破ることは不可能。)

インフレし過ぎたかもしれませんが、作中で唯一後期勇次郎と互角に渡り合った(前期勇次郎は、鎬紅葉に力負けする等、そこまで絶対的な強さでは無かった)彼の能力は、かなりのものであったと思われます。
最近の酷い展開(オリバとゲバルの試合は何だったんだ…)を見ると、大擂台賽編がかなりの名作に思えてくるから不思議。

[206] ハーン 2007/07/22 04:42

>>179-180
 天下の宇宙大将軍……称号の馬鹿馬鹿しさでこれを上回る人物は多分存在しないでしょう。
 本当に将軍としてしか使えない能力ですね。

>>192
 教皇は数値かされそうでされませんでしたよね……そりゃあ、近代以前の教皇は在位数年で死ぬからやりにくいことこの上ないのは分かりすけど。

>>193
 こうしてみると芸能人関連は魅力が高くなりますね。彼に限らず人気の高い芸能人は下手な政治家よりも人気がありますし。
 ところで、まとめサイトに載るためには最低限、その人物の経歴を書いておかなければならないそうなので(管理人のさば缶さんの方針です)、次回やることがあればそうしたほうが嬉しいと思います。
 それと、知力の項目が抜けています。

>>194
 いつも更新お疲れ様です。なかなか素敵な画像が揃っていますね。

>>198
 出来れば能力値の解説を入れたほうがいいと思います。掲示板に載せている時は大して気にならないのですが、まとめサイトに載せるとかなり寂しく感じますので。

>>199
 関羽はこれで最も数値化が試みられた人物になりましたね。信長のほうが多いかもしれませんが。
 例の無双はかなり素敵な出来ですよね。まあ、話が進むたびに三国である理由が見当たらなくなる困った内容なのですが。

>>200
 彼はこの時代でもトップクラスのアホかもしれませんね。対抗馬は劉備くらいです(これと比べればましですが)。

>>203-204
 前秦最強のコンビですね。二人でやっていた時は万事が順調だったのに、小細工を弄したところ大軍が快走するという物凄く情けない没落を迎えるのがギャップが凄くて好きです。

>>205
 あの作品は結局どうなるんですかね? 第二期が始まってからいい感じに迷走していますし。
 武力100は本編終了まで分かりませんね(本当に終わるのか?)。

[207] ハーン 2007/07/22 05:02

>>193
 訂正。最低一回は列伝を書いていることが条件だそうです。事実、かなりいい加減な列伝でもOKですから(私も結構書いた)。

>>194
 訂正を書き込み忘れました。
 ホスローの統率を91にしてください。
 ネタに>>142>>144を追加してください。ここまで世界史と離れていると嫌かもしれませんが。

[208] やっち 2007/07/22 12:33

>>204

 かつて私も評価したことがあります。
 前スレ>>535
http://history.log.thebbs.jp/1105177274.html

 そのときの数字は,
統率 82
武力 80
知力 87
政治 90
魅力 75
でした。

[209] 中国史フリーク 2007/07/22 14:14

ハーン様、ご指摘ありがとうございます!
能力値の解説も入れておいたほうがいいのですね。
>>198の能力値解説に

統率:80
一軍の司令官クラスで万単位の軍隊指揮も可能。
曹操の荊州南下時は水軍1万を率いて牽制していたこともある。

武力:85
当代においては並ぶ事無き武勇を誇ると言われた中国史きっての豪傑。中国においては岳飛とならび二大聖人とも称される。

知力:70
兵法にも通じ、呂蒙による荊州侵攻時には狼煙台を設置し
危急の難が迫ったときには煙を上げ、遠方に居てもその煙を見て
すぐさまに本営の危機をしることができるような措置も施した。

政治:65
荊州北上時に魏の首都近辺で反乱を起こすように仕向け
魏の屋台骨を根幹から揺さぶるなどの政治工作も行えた。

魅力:80
強きものをくじき、弱きものを助けるという精神からか
部下や民には程よく慕われた。
しかし、富豪層へは傲慢で一部では反感も買う事もあった。

を加えて頂けると幸いです。

[210] ルー・ルア 2007/07/22 15:45

まとめサイトを読ませてもらいました。
取り合えず、私が評価した人物について…
できれば、現在のHN「ルー・ルア」に修正していただければ有りがたいです。
あと、できれば、数値の修正も(よく考えればおかしい数値…)

スレ3
>>268 諸葛亮(多分… もしかしたら違う人の査定かもしれません。)
統率72→76 武力77→70 知力65→72 政治そのまま 魅力84→79

スレ4
>>635 魯粛
統率71そのまま 武力74→50(具体的な記述が無い…) 知力93→88 政治そのまま 魅力56そのまま

スレ5
>>722 公孫鞅(商鞅)
統率そのまま 武力60→53 知力71→68 政治81→79 魅力そのまま

thebbs 0
>>124 サラディン
統率65→73 武力そのまま 知力96→83(この数値にしたのは最大の謎… おそらく知識不足です) 政治70→76 魅力そのまま

>>125 劉邦
統率87→91 武力45→61(武力45では、項羽に何処かで殺されてますね) 知力78→74 政治70→60 魅力90→72(あの魅力チェックポイントで、どうして90という数値が出たのだろうか…)

>>136 アウグストゥス
統率そのまま 武力そのまま 知力90→94 政治そのまま 魅力86→93

>>206
正式には三期ですね(笑)
まあ、二期の死刑囚編から既に迷走している感は有りますが。

現段階で武力100はやはり勇次郎でしょう。
板垣せんせいがこの男の負けるシーンを描くとは思わないので、最後まで彼が武力100かもしれません…

[211] ルー・ルア 2007/07/22 16:53

項籍(前232〜前202) 字は羽

統率:47
(血筋が良かった事もあるが、数多くの人材が、彼を慕って集まってきた。
ただ、その優秀な人材達をどうも上手く扱えていない。
常に反乱に悩まされていた程だが、これは「反乱に関与したものは皆殺し」という無茶苦茶な考え方への抵抗だろうから、そこまで減点はしない。)

武力:96
(自身の超人的な個人的武勇に比べ、直接対決で韓信を討ち破る等、戦術能力にも優れていた。
古代中国史の兵数はあてにならないとは言うが、彭城の戦いでは、僅か3万の兵を率いて、50万を超える劉邦軍を討ち破る等、圧倒的武威を誇った。)

知力:30
(兵法に親しみ、聡明さを示すエピソードが多い。
しかし、鴻門の会で劉邦を殺さなかったり、反間の計に引っ掛かって、范増、鍾離昧、龍且等を疑う等、判断能力が非常に欠けているところがある。
反乱軍や劉邦の軍といたちごっこを繰り返し、圧倒的な戦力を上手く活用することが出来なかった。)

政治:09
(直情直行型で、功臣に褒賞をやるのを渋ったと思えば、お気に入りの臣下は優遇するなど、論功行賞が無茶苦茶であった。
敵は生き埋めにして殺し、住民も容赦無く殺したため、行く先行く先兵民一丸となって抵抗され、手を煩わされることとなった。
人物の活用も物凄く下手で、死後劉邦に、「私は張良、蕭何、韓信ををよく用いた。しかし項羽はただ一人の范増をさえ、うまく使いこなせなかった。」と評されている。
優秀な部下が多く、戦力に圧倒的な差があり、自身の超人的戦術能力があったにも関わらず、劉邦に破れたのは、逆に凄いと思われる為、一桁の数値に。)

魅力:56
(残酷な性格で、多くの人物から畏れられたが、優しい面も有ったらしい。
住民を皆殺しにしようと号令を発したが、子供に説得され住民の皆殺しを取りやめる等、人間味も有った。
苛烈な人生は人々の心に強く残り、現在でも多くの人々を魅了している。)

[特殊能力]
覇王:一騎討ちでは殆ど負けない

兵民皆殺し:兵数、住民数が激減し、民忠度が0になる。

[列伝]
すいません、割愛させてもらいます…

[212] ピヨ彦 2007/08/04 22:51

>>211項羽って本名は項籍というんですね。知りませんでした。

[213] カイザー 2007/08/05 20:57

島津義弘
統率:87
武力:90
知力:80
政治:60
魅力:88

[214] ルー・ルア 2007/08/08 23:57

お久しぶりです。
郭だけ数値化するのもアレなので、あの親子も。

範馬刃牙(登場作品:バキ)

統率:67
(判断が難しいが、まあそれなりにはあるだろう。)

武力:89〜96
(実は一番厄介な数値。 刃牙の強さは戦闘時によってコロコロ変わるからだ。
烈海王に圧倒されたかと思ったら、作者補正でパワーアップして圧倒し返し、
死刑囚に手玉に取られたかと思ったら、次の戦いでは逆に手玉に取り、
オリバ&ゲバルの張り手を食らって気絶したかと思ったら、本気オリバとガチで殴り合って勝利する等、枚挙に暇が無い。
それを「成長」と見る事も出来るのだろうが、私には場面場面によって強さがコロコロ変わっているとしか見えない。
よって、最低時89(一級レベル)、最高時96(超人レベル)として、その間を動いているという事にさせていただく。)

知力:71
(馬鹿っぽく見えるが、意外と格闘技の知識は豊富。
機転も利いていて、危機を乗り越え勝利すること数々。
しかし、妄想の100Kgの蟷螂と戦う等、何処か頭のネジが飛んでいるような所も見受けられる)

政治:05
(米国大統領を誘拐して、オリバと一緒の刑務所の入る事を要求する等、後の事は全く考えずに行動していると思われる。
この手の人間に政治センスを期待することは出来ないだろう。)

魅力:60
(家には「刃牙死ね」等の落書があちらこちらに描かれていたり、〈その割には、学校では普通にクラスメートと話すようなシーンもあるが。〉ヒロインの梢江から捨てられる等、主人公とは思えない嫌われっぷりである。
その反面、格闘家達からの受けはよく、すぐに仲良くなる。
ユリーや花山とは、よく分からないうちに仲良くなり、歯を折って、殺す寸前まで追い詰めた烈海王に、命を救ってもらった上、肉体の回復の為料理を振舞ってもらう等、殆どの主要格闘家から好かれている。
最大トーナメントで優勝した時は、出場者から笑顔で拍手を受けており、嫌われるだけのキャラでもないらしい。
よく分からないので、主人公ということも加味してギリギリまあまあとさせてもらうが、私は最も魅力の無い漫画主人公の一人だと思う)

[特殊能力]
エンドルフィン
(脳内からエンドルフィンを分泌させて、身体能力を向上させる。
当初は追い詰められた時にしか使えなかったが、後に自由自在に操ることが出来るようになった。)

リアルシャドー
(対戦相手を想像して、その相手と戦う。 相手は人間に限らず、猛獣や、100kgの蟷螂等をイメージすることが出来る。
何故か、痛みや傷まで具現化してしまう。)

鬼の貌
(背中に鬼のような表情を浮かべて、身体能力を格段に向上させる。)

キラが最も出来の悪いアニメの主人公なら、コイツは最も出来の悪い漫画の主人公でしょう。
何故か人気投票では一位になっているが、ネットでの人気は殆どゼロに等しい。(キラみたく腐女子人気を獲得する事すら出来ない)

[215] ルー・ルア 2007/08/09 00:24

刃牙の特殊能力に
パクリ(他人の技をパクる)を追加。

範馬勇次郎(登場作品:バキ)

統率:96
(数々の格闘家、政治家、権力者達と親交(?)を持っている。
その気になれば一国の軍事戦力を崩壊させる事が出来ると言われており、それ故、彼を監視する事こそ出来ても、拘束する事は誰にも出来ない。)

武力:100
(地上最強の生物。 その強さは語るまでも無い。
初期にはいくつか失態もあるが、すぐに最強生物の地位を獲得し、なお恐ろしいスピードで成長し続けている化物。
他作品の江田島平八やラオウ等と比較される事が多い。)

知力:79
(格闘技の知識は刃牙以上で、話術にも優れている。
恐ろしいまでのエゴイストで、意思の強さも神掛かっている。 咄嗟の判断力も天才的。
ただ、あくまで格闘家なので、このくらいが限界か。)

政治:10
(政治家との関わりこそあるが、まず政治力は無いだろう。
何事も、力で解決するタイプの人間である。)

魅力:70
(オーガとも評される圧倒的な力は、数多くの格闘家達から畏敬を受けている。)

[特殊能力]
超エゴイズム:一騎討ちには必ず応じる。
(自分以上の強さを認めない、圧倒的なまでの傲岸不遜さ。)

鬼の貌
(背中に鬼のような表情を浮かべて、身体能力を格段に向上させる。)

これくらい極端な能力の方が面白いでしょう。
郭海皇との友情や、力を頼りに戦う所等を見ても、口先ばかりの刃牙よりずっと主人公っぽい。

[216] ハーン 2007/08/09 01:33

>>211
 陳平なんかはまともな人間は項羽のほうに行くが、劉邦の周りは恩賞目当ての軟弱な連中、とか言っているので魅力は70くらいあるとあると思います。
 最大の問題は身贔屓が過ぎて使いこなせないことですかね。

>>214-215
 とうとうここまで……私がやっても統率以外はこんなものになると思います。特に刃牙の武力は判定し辛いです。
 この作品は明らかに質が低下しているのに、それでも何ともいえない魅力があるのが本当に厄介です。主に主人公以外の魅力ですけど。
 いっそ種のように一貫して最低なら諦めもつくのですが、きっと完結するまで付き合うんだろうな。

[217] ハーン 2007/08/09 01:35

 アウレリアヌス

 214年 - 275年9月

統率……76 優れた軍司令官で、ローマ帝国各地を転戦しまして勝利を収めました。彼自身の手腕によるものかは疑問ですが、この時代になると元老院はほとんど皇帝に口を出せなくなっていました。

武力……93 恐らくは最強の軍人皇帝で、帝政以降のローマでベリサリウスが出てくるまでは最も傑出した戦術家です。三世紀の危機当時のローマ帝国はイタリアを中心とするローマ本国、ガリアとヒスパニアから分かれたガリア帝国、エジプトとシリアを支配するパルミラ帝国の三つに分かれていました。さらに各戦線で蛮族の侵入が相次ぎ、それに不安を感じた各戦線の兵士は自らの司令官を皇帝に擁立(ガリアとパルミラはそのなかでも特大のものだと思って間違いはありません。司令官自身の意志の有無は場合によって異なったようですが)してその混乱に拍車をかけていました。そのなかで彼はあっさりパルミラのゼノビアを倒し、ガリアを取り戻し、ローマ帝国を再び一つにしたのです。その影響力は大きく、死後半年に渡って元老院と軍隊が悠長に新皇帝の選定を行なっていられるほど安定しました。

知力……70 すでに前任者であるガレリウスやクラウディウス2世がそこそこ有利な体勢を作っていたので、彼自身の戦略眼はいささか分かり難いですが、ガリア帝国との対決では事前に相手方の僭称帝を降服させていることなどを勘案すると、そこそこ策謀にも長けていたものと思われます。また、トラヤヌスの獲得したダキアを放棄して、その住民を南の属州の復興にあてており、思い切りのよさも持っています。

政治……42 ローマに再び城壁を築いたりしましたが、さっさと殺されてしまったので、多くのことは後継者に任せることになってしまいました。

魅力……62 実はゼノビアに恋をしていて、振られた腹いせにパルミラを倒しただの言われています。それでも兵士からの支持は高かったらしく、彼を暗殺した人物はたちまちのうちに血祭りにされました。

列伝 世界回復者
 ダキアかパンノニアの生まれ。父が元老院議員であったらしい。
 何度か戦争で活躍し、ガリエヌスの時代に登用されたらしい。彼が暗殺されるとクラウディウス2世の騎兵司令官として活躍。同皇帝の死後に皇帝となり、パルミラ帝国とガリア帝国を再びローマへと取り戻すことに成功する。
 ローマを統一するといい加減、ローマも落ち目になっていたことから首都ローマに城壁を築かせ、支配の安定しなくなったダキアをゴート族に譲渡してドナウ川の防衛を安定させる。
 その後ペルシア遠征を行おうとした際、秘書を叱責したところ、秘書が身の危険を感じて彼を暗殺する。だが、それがばれた秘書もすぐに処刑された。
 不敗太陽神を崇拝しているところがいかにも軍人皇帝らしい。コンスタンティヌスもそののりでキリスト教を採用したのかもしれない。

 武力の高い典型的な軍人です。それ以上の存在ではないと思われます。
 ガリエヌス死後に即位した一連の軍人皇帝はディオクレティアヌスまでは在位期間こそ短いものの、どいつもこいつも武力の高い連中ばっかりです。だからこそローマは三世紀の危機で崩壊しなかったのでしょう。彼らはローマの崩壊を防ぐために天が遣わしてくれたメンバーであったとしか思えません。

[218] 「ど」の字 2007/08/12 17:38

>>217
 お疲れ様でした。
 武力93とありますが、彼の業績はむしろ強力な統率と周到な外交的根回しであり、戦場の外で事を決してしまうタイプと自分は見ていますが……(無論、戦術指揮力も並外れていることは認めます)。
 使うにしても使われるにしても、非常に強力な人物です。内政は未知数同然ですが、この人物があるうちは共同体はにわかに崩れることは無いでしょう。自分なら武力を10下げて、統率と知力に10上げます。

[219] 「ど」の字 2007/08/12 18:42

 さて、今回は日本史において実像以上に評価の高い武家政権の指導者を評価します。

 徳川吉宗 1684年(貞享元年)11月27日〜1751年(寛延4年)年7月12日

【統率】85
 後継者と目されていなかったにもかかわらず藩主となり、藩内をまとめ立て直す能力があるのでこのくらいはまずある。
 将軍になっても統率力に翳りは無く、強力な改革をいくつも実施した。
【武力】45
 当時の幕府に、武の要素は求められていない。彼もご多分に漏れず実戦経験の無い将軍として生涯を終えた。
【知力】91(注・経済的な政策に対しては数字が-85されて6になる。国民生活を崩壊させるある意味すごい才能)
 経済観念への無理解を除けば、きわめて高い評価を下してよいはず。寛容にしてバランス感覚に優れていた。
【政治】88(注・経済的な政策に対しては数字が-85されて3になる)
 政策立案と実行能力は当時の世界的に見ても優れたものを保持。惜しむらくは、狂った経済観念を実現するための方法論にも優れたものを持っていたこと。その朱子学原理主義的経済観念さえなければ、世界の名君の一人として名が残ったはず。
【魅力】92
 寛容にして真摯な政治的姿勢は広く認められていた。後世においては間違い無く実像以上の評価が為されている。
 ただし当時の庶民には経済政策の愚策と酷政から非常に嫌がられてもいたらしい。彼の時代には一揆が頻発し、打ち壊しもこの時代にはじめて起こっている。

【略歴】
 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の4男として生まれる。
 父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぐ。率先垂範しての倹約によって藩財政の再建に努め、成果を挙げた。
 第7代将軍・家継の死により徳川将軍家の血筋が途絶えると、先々代の6代将軍家宣の正室である天英院に指名され、宗家以外からはじめて江戸幕府8代将軍に就任した。
 紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の確立に努め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、目安箱の設置などに代表される享保の改革を行った。

 破綻しかけていた幕府財政を再建したことから江戸幕府中興の祖と呼ばれる。しかし、その財政の再建は酷政と倹約という両輪から成り立っていたもので、日本経済を危うく崩壊させるところだった。そのため、現代の研究家からはあまり良い評価を受けていない。
 米相場の安定に苦心したことから米将軍(八木将軍)とも言われるが、この点においても狂った政策で相場を崩壊させたり部下に米の買占めをさせたりと禄な事をしていない。
 ただ、努力すれば実る類の政策に関しては経済的にも多大な効果を見せている。例えば、当時の日本で芋を普及させることで庶民を飢饉から救ったことなどはその一例である。

 前政権の政策に対しては是々非々の態度で臨み、嫌っていた新井白石のものを始めとする種々の改革に対しても効果のあるものについては残すなど、極めて高いレベルでバランスの取れた寛容な知性の持ち主であった。
 ただ、その寛容も自己の理念を批判するライバルに対しては全く無かったようである。尾張徳川家藩主の徳川宗春は『温知政要』という書物を著して吉宗の倹約令などを「国民を苦しめる」として批判した事が原因で、その後吉宗によって隠居謹慎を命じられ69歳で亡くなるまで幽閉された。宗春の死後75年を経て赦免させるまで、墓石には罪人を示す金網が被せられていた。
 またその事後処置として(尾張徳川家を将軍位から排除するために)、御三卿制度を作り自らの血筋で将軍位を独占する行為に出て、徳川家康が作った幕府存続のフェイルセーフ機構を壊すという愚行も行った。後世、徳川慶喜の代になってこの行為が徳川幕府を滅ぼす一因となる。

【総評】
 全体的に見るなら誠実かつ優秀な為政者です。苦境にある共同体でも、彼が上に立てば何とかなるでしょう。
 ただし、『経済以外は』という痛い条件がつきますが。
 経済に対する認識が朱子学原理主義的観念から一歩も出ていない上に、その狂った観念を現世に実現する権力と意志力と方法論だけはしっかり持っているので最悪です。
 とにかく経済的な愚策が、彼の全体的評価を非常に下げています。ここさえまともならば、始祖である徳川家康やローマ初代皇帝のアウグストゥス並みの評価が与えられていたはずです。
 本人はひたすら国民のために努力しての結果であるだけに、不幸と思わずにはいられません。

[220] とおりすがり 2007/08/14 02:33

どうもです。いつも覗かせてもらっています。
すごくためになってます。
もしよろしければお時間のある時に陳平、ベルティエ、ランヌの評をお願いできますでしょうか?
よろしくお願いしますm(__)m

[221] やっち 2007/08/14 11:51

>>219

 数字のバランスには同意ですが,全体として高すぎるように思います。
 武力以外は,家康がちょうどそれくらいの数字かと。
 吉宗は,明らかに家康より劣るでしょう。
 確かに財政再建は成し遂げていますが,それは25%(4割から5割に。)も増税したから。これだけ増税すればそりゃ一時的に財政は再建されるでしょう。
 が,社会の疲弊は明らか(自分の立場で想像するに,所得税が一気に25%も増税されれば,明日からマジメに働くのをやめかねません。)。
 経済的な政策に関してのみ政治がマイナスされるとのことですが,それも含めてトータルの政治力を評価すべきなのでは(たとえば「退却戦に関してのみ武力に+5」が許容されるのは,限定された特定のカテゴリーに関するものだからでしょう。経済政策は政治の根本かつ広範すぎるカテゴリーなので,それを別枠にするのは違和感あります。)。

[222] ハーン 2007/08/14 20:09

>>219
 経済を政治の別枠にするのに抵抗があるのはやっちさんに同意します。
 私なら統率はそのままで政敵を葬り、不利な立場から将軍にまで上り詰めたことを評価して知力を70台、無茶な政策で政治を30台にすると思います。
 彼は多分、統率力の高い独裁者タイプだと思います。

>>220
 そのうちやりたいと思っている人物なので、期待して待っていてください。

[223] ハーン 2007/08/15 10:09

>>218
 うっかりレスするのを忘れていたので、ここで行います。
 強力な軍隊はガリエヌスが編成したのでそれほど高めなくてもいいと考えました。
 ゼノビアには普通に戦場の駆け引きで勝っていますし、ガリア帝国最後の皇帝なんかはやる気のほうから疑いたくなるような人物で、嫌々皇帝をやっていたようです。
 これなら知力はそんなに高くしなくてもいい、と思いあのような評価にしました。

 陳平

 ? - 紀元前178年

統率……53 数多くの功績の割には彼は大きな組織を任せられていません。大抵のポストには彼より地位の高い人物がいます。思うに高祖は遺言で「陳平に全てを任せてはならん」と残しているので、その能力を警戒されていたのでしょう。彼自身もそれをわきまえていたように思います。

武力……64 秦戦争で河内を平定し、高祖にも勝ったことのある殷王司馬仰が反乱を起こした際に鎮圧しています。ですが、この時の軍隊がどの程度の規模であったのかは分かりませんし、何分軍勢を率いた実績が少なすぎます。

知力……92 金品をばら撒いて項羽と范増を離間させたり、張良ともども「講和で油断している項羽を後ろから襲うよろし」などという汚いにもほどのある作戦を立てたりしています。また韓信が斉王を名乗ろうとした際に怒り出した高祖を張良と一緒に諌めています。高祖が匈奴にボロ負けすると単于の后に口を利いてもらって切り抜けました。高祖の死後に呂后が台頭すると酒と女に溺れたように装い、呂后の粛清の嵐を潜り抜けました。彼女がくたばると天下統一戦争で培われた謀略の才能をいかんなく発揮して呂氏を誅殺。再び権力の座に返り咲きました。ただ、張良と比べると個別事項対応型の人物で、いささかスケールが小さく思えるので少し下げます。

政治……70 優れた実務家であったようで、名宰相といわれる曹参が死ぬと左丞相(副首相格)に任じられています。周勃なんかはあまりにも彼が政務に詳しいことから自信をなくしたほどです。ただ、彼のしたことは主に謀略面での活動であり、彼が内政で大きな功績をたてていたという話は全く聞かないのでこのくらいにしておきます。

魅力……66 背の高いハンサムだったようです。数々の汚い仕事と兄嫁と密通していたというダーティなイメージがあるわりには親交が広く、人に好かれていたようで行く先々でそこそこのポストを与えられました。ですが、高祖が崩御した際に号泣して呂后の警戒心をといたという話もあるので、彼の行動は全て策略に結び付けられてしまうくらいに評判は悪くなっていたようです。

列伝 鬼謀機略

 陽武戸版(現在の河南省原陽県)出身。貧しい農家の出だが、学問はあった。
 陳勝・呉広が反乱を起こすと魏咎・項羽に仕えて功績をたてたが長続きせず、当時蜀に追い出されていた高祖の元に行く。知人の魏無知を頼ってのことだったらしい。
 高祖に仕えると持ち前の権謀術数の才能を発揮し、張良ともども項羽打倒に貢献する。
 天下が統一されるとさっさと引退した張良に代わって高祖の主席参謀みたいなことをやっていますが、あまり信頼されていなかったようです。高祖が崩御すると呂后の専横が始まると、誅殺を恐れて呂后に取り入りました。
 呂后が死ぬと周勃と連携して宮中クーデターを起こそうとしていた呂一族を滅ぼす。文帝が即位すると周勃ともども丞相となる。周勃は陳平の実務能力に自信をなくし、職を辞したので結局陳平が一人で政務を切り盛りすることになる。これが策略であったかどうかは分からない。
 死ぬ前に「私は陰謀の罪があるから、子孫は絶えてしまうかもしれない。爵位を失うことがあれば二度と再興はできないだろう。」と残しました。

 非常に優れた参謀です。時宜に応じた策略から将来設計まで幅広く扱えます。政治も高いので宰相級の仕事を任せてもいいかもしれません。ですが、魅力に難があるのでそこまで地位をあげようと思わないでしょう。
 汚い仕事を一手に引き受けていた感のある人物です。自己嫌悪に陥ってあのような遺言を残したのでしょうが、彼と同じく権謀術数でのし上がって行った人物は天寿を全うする前に酷い目に遭うことが多いのでそういう人たちと比べれば恵まれていたかもしれません。

[224] 「ど」の字 2007/08/15 10:55

>>221-222
 確かに言われることには同意します。
 政治家が経済政策に無知な(というか吉宗は積極的に悪化させた)のは致命的なので。

 しかし残っている資料からは知力・政治力について日本史上でも抜群のものを持っており、何故これほどの人物が自分の経済政策の過誤に気が付かなかったのか聞いてみたくなります。やはり朱子学原理主義という宗教的イデオロギーが原因なのでしょうか?

 正直、この人物の表記には、非常に迷いました。
 結果から判定すると知力は80台後半(国史に名が残る)、政治は10台(健全な国家を潰す「才能」がある)ということになるのですが、それだと数々の優れた(経済政策以外の)個別業績が取り上げられなくなりますので評価が低すぎます。
 全く、アンバランスな人物でした。

[225] 「ど」の字 2007/08/15 10:59

>>223
 漢の建国を支えた謀臣の一人ですね。数値的には大体自分も同意します。
 自分としては、張良に欠けていたあざとい面を補強する存在と見ています。
 自分を弁えた言動が出来た点が、彼に天寿を全うさせたのでしょう。

 評価、お疲れ様でした。

[226] 「ど」の字 2007/08/15 11:10

>>221-222
 というわけで、自分としては知力・政治の数値に修正をかけてみます。
 特殊能力でバランスを取ってみたものです。

 徳川吉宗
【】
【知力】83(寛容にしてバランスの取れた知性の持ち主であった)
【政治】11※(当時の日本経済を徹底的に破壊。むしろある意味凄い)

※特殊能力・改革能力(上記の政治数値とは全く関係無く、時々優れた政策のアイデアを考え付く。しかも置かれているボストの権限の及ぶ限り実行までしてしまう。プレイヤーは彼が実行した結果を事後に知らされることになる)

[227] スイ 2007/08/16 11:24

ソンツェン

581〜649

【統率】87 チベットを最初に統一した
【武力】80 勇猛果敢 李世民の唐に圧勝したこともある
【知力】85 知略に秀でる 自らチベット文字を学ぶ
【政治】88 インドに留学生を派遣、唐と有利な外交 仏教の普及
【魅力】89 吐蕃王朝を創ったチベット最初の英雄

個人的に唐の李世民に匹敵する英雄かと、ただ本人の能力と家臣の能力の線引きが難しいので高めになってしまった。

[228] 無為 2007/08/17 20:03

初めまして無為と申します。
ここの方々は博識な方ばかりで本当に勉強なります。
そこでリクエストなのですが、どなたか五代最高の名君と言われる柴栄を評価していただけないでしょうか。

[229] とおりすがり 2007/08/19 01:02

>>223
ありがとうございます。
陳平はこの時代で一番好きな人物ですのでお願いしました。
漢室を守ったという点でもっと評価されてもいい人物だと思っています。

[230] ハーン 2007/08/19 01:56

>>225
 近代ではベリヤやヒムラー、ハイドリヒが彼みたいな立場でしたが、全然弁えていませんでしたね。残っている数々の言動が素敵過ぎます。

>>227
 未知の人物なのでコメントしようがありません。

>>228
 その時代には詳しくないので、私には無理ですね。

>>229
 劉邦の発言を見ると、本当に信頼されているのか? というくらい立場が微妙なのに劉氏のために頑張ったのが健気ですね。えげつないことをたくさんやっているからなんでしょうが。

[231] ハーン 2007/08/19 01:57

 ルイ=アレクサンドル・ベルティエ

 1753年2月20日 - 1815年6月1日

統率……83 優れた軍官僚であり、巨大な大陸軍の整備、補給、諜報を取り仕切っていました。参謀長として各地に散らばっていた軍を常に把握していただけでなく、陸軍大臣として軍隊の編成も行っていました。

武力……53 参謀長という職務についてるのですが意外にも勇敢で、アメリカ独立戦争でも勇敢に戦ったそうです。とはいえ彼がその指揮能力を振るう機会はそれほど多くありませんのでこのくらいでいいでしょう。

知力……45 彼はナポレオンの命令を各軍団に分かりやすく伝えることをしていましたが、上司のナポレオンが細かいことまで自分で決めたがる性分であったので彼自身の戦略眼は分かり辛いです。ロシア遠征でも彼の提案は取り上げられませんでした(ナポレオンが大きな作戦における議論を許したのはダヴーくらいのものです)。他の元帥はナポレオンのいないところで戦う機会があるのですが、彼の場合はその職務の都合上ほぼ一貫してナポレオンの近くにいないとならないので、その機会がありませんでした。そのため長所も短所も全く分かりません。

政治……62 陸軍大臣や参謀長、副宮内長官の職務をこなしました。保身にもなかなかめざとく、万一に備えていたのか王家に便宜を図ったり、自分の地位を脅かしそうなジョミニを逮捕しようとしたり、ナポレオンが退位すると王家との繋がりを利用してルイ18世に仕えました。その後、ナポレオンがエルバ島を脱出した際に誘われましたが断り、百日天下が始まると自分から仕えようとして断られました。保身を減点したくなりそうですが、エルバ島脱出からパリ入城までのシナリオを頭に描けたらそれこそ頭がおかしいので、減点材料とはしません。

魅力……54 彼と諍いを起こしたネイの幕僚であるジョミニはボロクソ言っていますが、部下の発言などを見る限りだとそれほど酷い人物というわけではないので、このくらいに。

 列伝 大陸軍の管理人
 ヴェルサイユで貴族の庶子として生まれる。父親のコネのおかげで王立工兵学校に入学。17歳で軍隊に入隊する。アメリカ独立戦争にも従軍して功績をたてるが、アメリカに渡ったのが戦争の末期ということもあってすぐに帰国することになる。
 革命が勃発すると革命騒ぎで逃げ出した将軍に代わってルイ16世からヴェルサイユ国民衛兵の参謀長に任命される。これに感じ入ったのか、ルイ16世の叔母の亡命に手を貸すなどをした。この王家との関係を問題視されてクビにされる。
 だが、さらに多くの貴族が国外に逃げ出したおかげで再び軍務に戻る。その過程でイタリア方面軍にて未来の皇帝ナポレオンと出会い、長く彼の覇行を助けることになる。
 彼は長い間(1800〜1807年)フランスの陸軍大臣と参謀長を兼務していたが、さすがに陸軍大臣を一々戦場に連れて行くとパリのほうが危なくなるのでクラルクにその地位を譲ることになる。
 数々の栄誉を与えられ、ナポレオンが皇帝に即位した際は最初の元帥の一人に任命されるも、ナポレオンが退位するとさすがにさっさと姿を消した。
 ナポレオンの百日天下がはじまると再びナポレオンに仕えようとしましたが、さすがに前回の裏切りが堪えて取り合ってくれませんでした。その後、国王ともども逃亡したヘントで死亡する。自殺とも暗殺とも言われているが、真相は不明。

 統率力に優れた軍人です。後方で軍の掌握や編成を担当させましょう。目覚しい成果をあげてくれるはずです。政治もあるので閣僚としてもそこそこの仕事をしてくれるはずです。ですが、武力不足なので一人で戦わせないようにしましょう。
 ナポレオン軍の欠点はナポレオン自身があまりにも優れた軍人であったため、国家の命運を左右できそうな将帥が育ちにくく、使い切れなかったことです。ベルティエはそのなかでは適材適所だったのですが、ひょっとしたらもっと大きな野心があったのかもしれません。彼のたまに見せるミュラやスルトにも劣らない勇猛さがそんな声を形にしていると思います

[232] t-a 2007/08/19 17:26

ヤン・フスやアンドレアス・プロコプがいるのにヤン・ジシュカ・トロツノフがいない・・・。
やはり武力95以上?

[233] やっち 2007/08/20 00:27

>>232

 うーん,確かに相当な名将だと思うけど,ターボル軍の強さはその
組織力・軍紀・士気・武装がしょぼい皇帝軍を上回っていたことが大きいと思うので,
武力としては,いっても90代前半ではないかな
(エドワード黒太子に90代後半をつけないのとほぼ同じ理由。)。私見だけど。

[234] やっち 2007/08/20 01:24

 マイナー路線いきます。日本史上の隠れた名将。

村国男依 むらくにのおより
−壬申の乱の立役者

統率 77
 乱に先立ち不破をしっかり確保。その後も「反乱軍」である大海人皇子方の
東山道方面軍の事実上の総司令官として数万の軍勢を破綻もなく
見事に統率している。
 かなり「優秀」といってよいであろう。

武力 85
 息長横河,鳥籠山,安河,瀬田唐橋と連戦連勝。
 敵方近江朝廷軍が内紛を起こしたこともあろうが,坂上田村麻呂を
超える古代史上最高の名将であろう。

知力 60
 大海人皇子側の戦略(急いで不破・鈴鹿を押さえることで東国を掌握し,
その軍勢をもって西進する。)を彼が立てたとの確証が持てないので,
「まあまあ」レベルとする。
(もし彼が立てたのであれば「一級」レベル80に跳ね上がる。)

政治 55
 政治家としてみるべき治績はない。
 軍政にはそれなりの能力があるようなので,この数値。

魅力 70
 地方豪族の出身であり,名門としての衆望には恵まれていない。
 武人として,司令官としては魅力的な人物であったようである。

[235] やっち 2007/08/20 01:35

 美濃の豪族。壬申の乱で大海人皇子に属する。大海人皇子は天智天皇の政治に対する
地方豪族の不満を集めて近江朝廷にぶつけたが,男依もそのような地方豪族の
一員であろう。
 皇子の吉野脱出に先行し,地元美濃の不破を押さえる。これで東国の精兵は
ことごとく大海人皇子につくことになる。
 その後,集まった大海人皇子軍のうち,東山道方面軍の事実上の司令官と
なって近江路を進撃。優れた作戦指揮を以て息長横河,鳥籠山,安河と
近江朝廷軍を連覇。
 瀬田唐橋での最後の決戦でも勝利。壬申の乱における最大の功労者となる。
 戦後は,地方豪族出身であり,皇族を中心とする大海人皇子の新政権にあっては中央の中枢を占めることはなかったが,個人的に高い栄誉を与えられた。

 実直で,極めて優秀な将軍です。戦バカではなく,柔軟性もあります。
彼に一軍を任せれば,恙なく戦略的目標を達成してくれるでしょう。
 私見では,日本の古代史で最高の名将です。史料が少ないのが惜しい。

[236] ハーン 2007/08/20 12:44

>>234-235
 これはまたマイナーな人を……壬申の乱で戦ったこと以外よく分からないのが惜しいです。まあ、古代では王以外は大抵こんなものですけど。
 ただ、古代日本最強は雄略天皇辺りだと思うのですが。

[237] ルー・ルア 2007/08/20 15:05

柴栄(921〜959)
後周二代皇帝 世祖・睿武孝文皇帝

統率:95
(954年に郭威が没して即位し、959年に亡くなる僅か5年6ヶ月の間に、凄まじい改革を行っている。
趙匡胤を長とする皇帝直属の軍隊を整備し、当時力を持っていた節度使の力を弱める。
さらに、内治にも務め、減税や土地の開墾等で、成果を収めている。
しかし、最も彼の改革派としての凄まじさを物語るのは「三武一宗の法難」と呼ばれる仏教弾圧を行ったことであろう。
当時、税や兵役から逃れるため、僧になりたがる者が多く、財産を溜め込んでいる寺院も多かった。
しかし、柴栄は貨幣不足と生産力を確保するため、出家していた人間を強制的に還俗させ、銅製の仏像等を銅貨に鋳造しなおした。
非難を恐れぬ改革を行い、その上成果を収めた彼の組織力は、凄まじい物がある。
余談だが、「三武一宗の法難」と呼ばれる事件は、柴栄の仏教弾圧を含めて4回あったが、柴栄を除く3回は、みな道教がらみの廃仏であった。)

武力:80
(即位してから5年6ヶ月の間に、数多くの外征を行っている。
外征でも数多くの成果を挙げているが、決して完璧な指揮官ではなかった。
自らの判断ミスで危機に陥ることが多く、寿州包囲戦では戦局が動かない事に苛立ち、「餅屋の餅が薄くて小さい」と激怒して餅屋を手討ちにしようとした、よく分からないエピソードも。
しかし、彼の最後の外征、燕雲十六州奪還戦では、果断な攻撃と采配が悉く当たり、大勝利を収めることが出来た。
まさに、「成長型の名将」と言って良いだろう。)

知力:77
(優秀なグランドデザイナーである王朴、後に宋を建国することになる趙匡胤、五朝八姓十一君に仕えた馮道、超一級の范質、王溥、魏仁浦等の文官陣と配下に優秀な人物が多かった。
しかし、彼等を上手く用いた彼も、それなりの知力の持ち主であった事は間違いない。
ただ、キレやすく、すぐに周りの者を殺そうとする欠点も。)

政治:72
(政治家としても優れているが、部下に彼以上の政治力を持ってそうな文官が数多く居るのでこれくらいに。
彼の政策は統率力に帰属する割合の方が大きいと思われる。)

魅力:81
(聡明さを見込まれ郭威の養子となった。
若くして皇帝となったが、当初は彼を侮る廷臣や、命令に服さない将軍が多かったと言われている。
しかし、軍を鼓舞するため、自ら武器を持って最前線に現れた事等から、次第に信望を集めていった。
ちなみに、容貌が優れていると評されているが、肖像画を見る限り…(笑))

[考察]
「五代最高の名君」と言われ、聖人君主のように思われている事も多いが、実際は堅君らしからぬ行動も多く起こしている。
「武力」の項で明記したような餅屋事件(笑)の他にも、性急な性格からイラついて部下を殺したりしたことも多かったらしい。
そうした性格や、短期間で数多くの改革を行った所から、宮崎市定氏は彼を織田信長に喩えている。(ちなみに同氏は、趙匡胤を秀吉、趙匡義を家康に喩えている。)

>>228
若干インフレかもしれませんが、このような数値になりました。

どうやら、この時代の人物はあまり数値化されていないみたいですね。
次回は郭威、王朴、趙匡胤あたりの数値化に挑戦してみましょうか。

[238] ルー・ルア 2007/08/20 15:34

>>223
私が数値化しても殆ど同じになると思います。
ただ、知力は陳平>張良となりそうです。
過去ログを見ると、知力100候補によく張良が挙げられていますが、張良を知力100とするにはエピソードが不足しすぎている気が。(私は中国史にしか詳しくない人間ですが、中国史で知力100候補に選ばれそうな人は、劉基くらいしか思いつきません。)

>>231
思いのほか武力が低く、驚きました。
ナポレオン軍の元帥にも、このような人が居たのですね。

>>234
初めて聞いた人物です。
しかし、日本の人物を世界史評価するのは難しそうですね。
どうも過大評価になりすぎたり、過小評価になりすぎたりしてしまいそうな気がしてなりません。

[239] やっち 2007/08/20 19:24

>>223

 私も、知力は90代後半(場合によっては100も)でいいと思います。
 中央政府の最高官職にありながら具体化した猜疑を受けることなく
終わりを全うした点を評価します。

>>236

 継体天皇以前は嘘くさいので評価対象外としてます。
 雄略天皇が兵を直率していたのかわかりませんし。

>>237

 異議なしです。

>>238

 あまり気にする必要はないように思います(以前、世界史基準と
日本史基準とを分けることについて議論がなされましたが、私はダブル
スタンダード反対派でした。)。
 世界全体における日本という地域の重みはそれほど小さくないので、
普通にやる限り(ゲームの影響で甲斐の田舎大名の武力を95にしてしまう、
等々をやらかさない限り)自然とワールドスタンダードにマッチするのではないかと
思っています。
 村国男依くんを例にしても、数万の軍勢を率いて、数万の軍勢を擁する中央政権を
連破して造反を成功させていますので、武力85も決して過大でないと
思います。

[240] ルー・ルア 2007/08/21 15:28

陳慶之(484〜539) 字は子雲
南北朝時代の梁の武将

統率:84
(彼の麾下は皆、白袍を身に纏せ、向かう所従わぬ者が無かったという。
ただ、大軍を率いた経験は無いので、これくらいが限界か。)

武力:96
(一言で言って”凄まじい”戦績だ。
まず、揚州刺史の李憲を相手に、五二の砦を落とし、曹仲宗に従い征将軍南の元昭が率いる十五万の軍を破った。
彼の戦績で最も有名な北伐では、北魏へ僅か七千の兵で攻め入り、四十七戦四十七勝、三十二城を落とし、首都の洛陽まで陥落させるという奇跡的な勝利を収めた。
その後、北海王元?が洛陽の防備を固めなかった事もあり、爾朱栄らが大軍を率いて洛陽へ攻め入り、陳慶之も退却せざるを得なかったが、退却戦でも、十一戦にわたって爾朱栄の軍を撃破したという。(因みに陳慶之は、洛陽入城後しっかり兵力の増強を要請していた。)
初の敗戦後、帝を自称した仏強や乱を起こした蔡伯龍をあっさりと討ち破ったり、一万の兵を率いて、七万の兵を率いる東魏の侯景(かの有名な宇宙大将軍)を破るなど、指揮官としての冴えが衰える事は無かった。(ただ、資治通鑑によると、東魏の尭雄相手には勝ったり負けたりしていたらしい。)
北伐当時の北魏は政権争いで混乱していたのも事実だが、普通の将軍が敵国の首都を簡単に落とせる筈が無い。 また、北伐以外でも、しばしば寡兵で大軍を破っている。
爾朱栄に破れた事から低く評価する向きもあるが、あれは武力100の指揮官でも勝てないだろう(もう少し善戦できたかもしれないが。)
なお、得意の戦術は奇襲で、無謀としか思えないような突撃も多かったものの、これだけの戦果を収めることが出来た。
「過大評価」との声も多いが、中国史上屈指の名将であることには間違いない。)

知力:85
(洛陽の防備の増強を進言したり、僧に変装して逃げる等、戦略眼、判断能力に非常に優れている。
彼の奇襲がしばしば成功したのも、その戦略眼故だろう。)

政治:60
(一応、豫州が飢餓に襲われた時、官倉を開いて多くの民衆を救うなどしている。
部下による自立の勧めを拒絶したのは、政治的感覚に優れると評価すべきなのだろうか。)

魅力:74
(性格が慎み深く、贅沢な衣服を纏うことも無かったという。
兵士をよく労わったので、戦場では常に死力を尽くして戦った。)

[特殊能力]
白袍隊
(陳慶之の率いる統率のとれた部隊。
訓練、士気は常に最高級で、戦場で勝手な行動に出たり、逃げることは無い。)

個人的武勇(の無さ)
(弓射をすれば的に当たらず、馬にも習熟しなかったらしい。
同時代の楊大眼と比較するのも面白い。)

[考察]
「中国で最も優れた将軍」といった話題ではよく名前が挙げられていますが、それは田中芳樹氏の影響が強いのは間違いありません。
ただ、同氏が描く陳慶之以上に凄いのが、史実の陳慶之です。
同氏の小説『奔流』では、505〜507年の鍾離の戦いに重点をおいて描いていますが、実際の陳慶之は、それ以降もガンガン戦って勝ちまくっています。 かの北伐も、529年の事です。
不敗な訳でも無いし、新戦術を生み出した訳でもないですが、不利な状況から勝ちまくった彼には、武力90代後半の数値を与えたいと思います。
因みに、私が最も優れた中国史の武将は、唐時代の李靖(字は薬師)だと思っています。
いつか数値化に挑戦してみたいと思っています。

[241] ルー・ルア 2007/08/21 16:25

楊大眼(?〜518)
南北朝時代の北魏の武将

統率:71
(数々の遠征を行っているが、最も有名な鍾離では配下に逃げられ、押し止める事が出来なかった。)

武力:82
(妻の潘宝珠と共に戦場を疾駆し、数々の戦功を上げた。
ただ、鐘離では3分の1の兵力しか持たない韋叡に破れる失態も。(だが、この敗戦は知力のマイナスポイントとする。)
しかし、個人的武勇は中国史でもトップクラス。 体に9mの布を巻き、布の先が地面につかず走ったと言うエピソードは余りにも有名。
関羽や張飛ですら及ばないと評され、その異常な武勇は梁軍に恐れられ、泣く子供を黙らす為に「楊大眼がやってくるぞ」と言ったという。(しかし、中国史にはこういう逸話がやたら多い。)
おそらく、尉遅敬徳と互角以上の個人的武勇の持ち主だろう。)

知力:49
(用兵能力は高かったものの、鐘離で火攻めにあって負けていることからも、智将タイプでないことは間違いない。)

政治:30
(まあ、高くはないだろう(笑))

魅力:56
(部下からは慕われていたらしいが、妻からは不倫され、異民族からは嫌われるなど、本当に魅力があったのかどうかはよく分からない。)

[特殊能力]
個人的武勇
(中国史上屈指の武勇の持ち主。
マスクデータの個人的武勇は最高値。
個人的武勇を武力に換算できるなら、一騎討ちの際、武力が15上がる。)

陳慶之と同時代(少し前か?)の楊大眼を。
この人も、意外なことに数値化されていないみたいですね。

[242] マッカーサー 2007/08/24 00:59

>>237
 話には聞いていましたが、かなり個性的な人物ですね。

>>238
 私は張良のほうが上だと思います。理由は以下の通りです。
 劉邦が項羽にボコボコにされると正面からやっても勝ち目がないと判断した張良は黥布や彭越に誘いをかけ、さらに韓信を派遣して多方面攻撃に切り替えました。項羽以外はそれほど強くない楚には非常に有効で、何時の間にか劉邦と項羽の立場が逆転していました。
 さらに劉邦陣営にあった六国復活派の策動を潰し、地方で独自性を強くしていた韓信と黥布、彭越を取り込んで、劉邦を中原の盟主ではなく、中華皇帝に押し上げました。この時代、劉邦をマジで帝国の君主にしようと行動していたのは彼くらいだと思います。
 特に後半はまさしくこの時代最大の決断に位置付けられるものだと思うので、私は張良のほうを高く評価するのです。

>>240
 彼の武力については今までも色々ありましたね。まあ、私には彼の武力を査定するような知識はもっていないのですが。

>>241
 コメントすることがないくらいに知らない人です。

[243] ハーン 2007/08/24 01:00

>>242は私です。

[244] FK 2007/08/24 12:39

漫画のキャラがありなら…
『イビチャ・オシム』

【統率】92
ユーゴ、オーストリア、ギリシャ等のクラブに監督として就任し、いずれの国でも弱小チームを強豪に変えた。
指揮を執った全てのチームでタイトルを獲得しており、成績不振による解任が一度も無い。
また90年代初頭に彼が率いたユーゴ代表は、専門家の間でもヨーロッパサッカー史上最強レベルの強さとの評価をされ、欧州選手権に出場していれば間違いなく優勝していたと言われている。
欧州では伝説的な名監督として知られいる。

【武力】71
恵まれた体格(191cm)&一流のFWだった事を考えると身体能力及び、キック力は相当なはずなので、単純な喧嘩なら一般人が勝つのは不可能。

【知力】77
名門サラエボ大学で物理、数学を学び教授になる道もあった程の秀才。
オシム語録や戦術に関する知識からいっても頭脳はかなり明晰。

【政治】68
マスコミを煙に巻く態度は、内紛時にマスメディアによるナショナリズム報道を経験しているため、あえて本音を話さないようにしているためである。
オシム語録に比喩表現やことわざを多用し、相手に解釈させようと仕向けるのは、日本のメディアに自身の発言を歪曲化されるのを避ける政治的な配慮からきていると思われる(ユーゴにいた頃は都合のいい事しか報道しないメディアに嫌気がさしていた)

【魅力】82
クラブの監督を退任する際に、何処のチームでも必ず引き止められる程選手達に慕われていたらしい。
日本では、「ロスタイムのあの場面で佐藤が決めていれば勝っていた」と発言したインタビュアーに「あの時間にボランチがあそこまで攻め上がった事をどうして誉めないんだ!」と叱責する等、常に選手の立場で物事を考えた。
多民族国家のユーゴにおいて、どの民族からも尊敬されている数少ない人物の一人。

【列伝】
サラエボ生まれ。幼い頃から秀才の誉れ高く将来を期待された。
サラエボ大学を中退後は家計を助けるためプロサッカー選手になり、ユーゴ代表として活躍。
その後はユーゴ代表や様々なクラブの監督に就任し、多大な功績を上げる。
ユーゴ代表監督時に「何故○○を使わないんだ?」と口うるさく言ってくるマスコミに対し、その通りに布陣したところドイツに大敗。次戦では自身の考える布陣でドイツを撃破し、マスコミを黙らせたエピソードは有名。
現在サッカー日本代表監督。

[245] 「ど」の字 2007/08/24 19:40

 しばらくぶりです。「ど」の字です。
 今回は、日本史上で少しマイナーな二代目君主を扱います。

 徳川秀忠
 天正7年7月7日(1579年7月30日)〜寛永9年1月24日(1632年3月14日)
 将軍在位1605年〜1623年

【統率】75
 間違った方向にであろうと、部下を一つにまとめ強引に引っ張っていくだけの旺盛なエネルギーがある。
【武力】6
 勇猛果敢にして率先垂範の姿勢を堅持、最前線で負傷する将として家臣に愛された。しかしそれだけである。
 戦においてはやる事為す事ことごとく失敗。負けるはずの無い戦いに負け、失敗するはずの無いことを失敗する。
 徳川一門を神の如くに書く御用史書にまで扱き下ろされている。ここまで酷いと逆に凄い。
【知力】83
 自分を軽んじている部下に担がれた神輿の立場にもかかわらず、家康の遺したグランドデザインを実現する現実的解法を策定した異能。官僚として極めて優れた能力の持ち主。非常時の能力が未知数なのでこの数値。
【政治】74
 家康の片腕として政務を補佐し、家康の死後は親政して結果を残したのでこのくらいの数値とした。
【魅力】24
 温厚な性質であり、家臣に愛されてはいたらしい。だが敬意や支持を受けるような人格では全くなかった。

(この項続く)

[246] 「ど」の字 2007/08/24 19:41

(続き)
【略歴】
 徳川家康の三男として、遠江・浜松に生まれた。長兄・信康は秀忠の生まれた年に割腹死を遂げ、庶兄の秀康は豊臣秀吉の養子に出され後に結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として扱われた。
 恐妻家として知られる人で、正室は信長の姪で豊臣秀吉の養女の於江与(彼女の父は浅井長政。母は織田信長の妹であるお市)。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康直卒の本隊に対して中山道を進む別働隊を率いる重責を与えられたが、信濃国上田城攻めで真田昌幸・信繁父子の巧みな防戦の前に大敗を喫し、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった。当初与えられた命令は信州の平定であり本隊との早期合流は命じられていなかったものの、その拙い戦振りと決戦への遅参という二つの大失態に家康は激怒し、秀忠にしばらくは対面することすら許さず、ようやくの対面の際には厳しく責めなじったと言われる。
 慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、わずか2年で秀忠に将軍職を譲った。秀忠は江戸城に居住し、本多正信らの補佐により駿府城に住む家康の意を汲んだ政治を執った(家康の本質は独裁者であるが、彼が秀忠に政権を譲る際は独裁的な権力は渡さなかった。むしろ部下に主導権のあるようなお飾り的権力を渡した)。
 大坂の役には家康と共に参戦して総大将となったが、ここでも自軍に常軌を逸した強行軍を強いて部下を疲労困憊させたり、優れた将とは言えない豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされるなど数々の失態を演じている。
 大阪の役直後では家康の策した武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定に協力して働いている。
 元和2年(1616年)に家康が死去したのちは親政を開始。酒井忠世、土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮して家康のやり残した諸問題の解決に当たった。
 大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、御三家を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。また、弟の松平忠輝・娘婿の松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。
 元和9年(1623年)に将軍職を嫡男家光に譲る。父家康に倣って、引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年初めに亡くなった。享年44歳。

 人格は温厚であるとされるが、武の面での拙劣振りがあまりに目立ちすぎるため家臣が家康に廃嫡を願うまでされるほど支持されていなかった。家康の後継者指名が無かりせば、まず徳川家の当主になれなかった人物である。二代目将軍という権力者であるにもかかわらず、当世や後世の史書にも散々な書かれようがされている。
 しかし、凡君や暗君では断じて無い。家康の積み残した課題を片付けて、250年を超える世界史上稀に見る繁栄時代を築き上げたその内政手腕は特筆すべきものがある。結城秀康でも松平忠吉でもなく、他の誰でもなく、秀忠を後継者に選び自身の死後の統率にまで気を配った家康の眼は、やはり正しかった。

【総評】
 圧力を加えられていない平時の際には優秀な官僚です。出された問題に対する解法策定には優れたものを持っています。意外と強引な統率力もあるのですが魅力には全く欠けていますので、組織の上に押し上げる際には強力な権威・正当性の後ろ盾を付ける必要があります。また、グランドデザインを描く大局観にも欠けていますので、大きな戦略や政略を任せてはなりません。
 非常時の人物としては全くの未知数です。また、武の面においては絶望的に無能。日本史上で兵を率いた武将としては恐らく最低レベルの能力の持ち主でしょう。何があろうと絶対に軍事に係わらせてはなりません。
この人物を国家の最高指導者にするというのは非常に勇気の要る決断です。普通の指導者なら、まず彼にそんな重責を担わせようとはしないでしょう。その飛びぬけた内政能力を知っていたとしても、なお大いに迷うでしょう。
 しかし、徳川家康は迷いませんでした。市井の声や家臣の諫言を振り切って、秀忠を後継者として日本の政治を預けました。そして、その決断の正しさは、日本史上において証明されています。
 徳川家康の眼力と統率力、恐るべし。カエサルをも上回り、世界史上最高の能力と冠しても良いでしょう。
(共和制ローマ末期で言うなら、カエサルがアントニウスとクレオパトラにオクタヴィアヌスを後継者とすることを納得させるに等しい偉業です)

[247] 「ど」の字 2007/08/24 19:44

 修正事項。
 徳川秀忠の享年は52歳に修正。

[248] 片田舎の偏屈士 2007/08/24 19:50

周徳威
?〜918年

【統率】75
沙陀族の荒くれ者達を率いて李下の猛将として死の間際まで戦場を駆け抜けた。

【武力】81
軍団一の武勇で李克用・李存勗の信を受け、後梁・燕との争いには、常に前線で敵対勢力との戦いに身を投じ、少数で大勢を破るなど用兵に優れた手腕を見せた。
また、個人的な武勇にも優れ、この時代の将としての力量は随一と言われている。

【知力】62
梁との戦いにおいて、攻め時を見定め、陳章を捕縛するなど武勇一辺倒ではない面を見せている。

【政治】30
最終的には李存勗の不評(彼の過失とは言えないが)を買い、命を落としてしまった。

魅力:59
容貌により周りから恐れられ、最終的には性格に難がある李存勗に疎まれた。

[249] 片田舎の偏屈士 2007/08/24 20:03

後唐の悲将

沙陀族の李克用の配下。他の例に漏れず騎戦術に優れ、李嗣源・李存審らと軍の中核を担った。
李克用死後は義子の李存勗に仕え、その隙を狙い後梁が攻め込んで来た時にも、少勢の騎馬軍団を率い、後梁の大敗せしめた。
その後、燕の劉守光の治める幽州を攻め滅ぼすと、その功により盧龍軍節度使に任ぜられた。
だが、軽率な行動を取るようになった李存勗の不評を買い、寡兵にて戦場に挑まされ、胡柳陂の戦いで戦死した。

[250] 片田舎の偏屈士 2007/08/24 20:15

一般的に高評価ですが、武力については後梁の李思安に対して攻めあぐむなど、攻城戦については不得手な部分がありますので、初めて特殊能力を。
特殊能力
騎馬突撃+5
一騎打ち+5
攻城戦-10

沙陀一族の評価については、いずれはやってみようかなとも思いますが、自信が持てないので……

[251] 地理公 2007/08/24 20:39

ジョン・チャーチル 1650〜1722

イギリスの将軍、政治家。初代マールバラ公爵。

【統率】77
【武力】89
【知力】76
【政治】53
【魅力】56

【統率】同盟軍の司令官として、オランダやデンマークなどの外国部隊を率いて、その手腕に
    揺るぎを見せなかった。
【武力】英国史上最高の名将といわれることもある。前半生はあまり目立たなかったが、スペ
    イン継承戦争で歴史に輝かしい名を残した。高速の戦略機動を得意とし、1704年の戦
    役では完璧な欺騙と常識を超えた距離の機動を見せてフランス軍を翻弄した。また野
    戦・攻城戦にも手腕を発揮。彼の得意とする戦術は、まず敵翼に攻撃を仕掛けて、そ
    の対応で手薄になった敵中央部を突破するというものであり、ブレンハイム(ブレニ
    ム)、エリクセム、ラミイなどの会戦がその代表といえる。ただしマルプラケの戦い
    では、フランスの名将ヴィラールを相手にして、勝利したものの敵を上回る損害を出
    してしまった。とはいえ生涯不敗を誇り、代表的な会戦の数は当時としてかなり多く、
    それにことごとく勝利していることは高い評価に値するはずである。
【知力】名誉革命のときの転身っぷりはかなりのもの。スペイン継承戦争ではオランダや、本
    国の厭戦派に常に行動を掣肘されており、当時の国際情勢もあり、十全に手腕を発揮
    できる状態ではなかったが、自身の戦いが国際政治の中でどういう意味があるかちゃ
    んと認識できていたと思われる。また、実現はできなかったにしても大胆な戦略を提
    示することもできたので、優秀な戦略眼の持ち主であることは間違いない。
【政治】ウィリアムのもとではオランダ人優遇のもと冷や飯を食わされていた。スペイン継承
    戦争当時の、政府における彼の立場は、女王と妻サラの仲がよかったうちは磐石であ
    ったが、関係が冷え込み、さらに政権が交代すると罷免されてしまった。順風のとき
    は良く、逆風になるとだめになることから、可もなく不可もないレベルだと思われる。
【魅力】気品があるという評もあり人当たりは悪くなかったようである。特に、オイゲン公と
    は意気投合して息の合ったコンビネーションを見せた。ただバイエルン公など嫌われ
    る相手には嫌われており、特に突出した数値の高低はないようだ。

[252] 地理公 2007/08/24 20:40

1650年、ピューリタン革命の時代に生まれる。
若いころはフランスの名将テュレンヌに師事し、のちに最大の敵となるヴィラールとともに戦った
こともある。

その後イギリスに戻りジェームズ2世に仕えるが、オラニエ公ウィレムがやってきた際には
マールバラをはじめとする軍隊は主君の元を去りウィレムについた(名誉革命)。当人の手紙
によると信仰心ゆえ(ジェームズはカトリックだった)らしいが、ウィレムの勝利を予見し、
勝ち馬に乗っていい地位を得ようとした野心がなかったとは言い切れない。彼は名誉欲や権勢
欲が旺盛なたちであった。

しかしウィレム、イングランド王ウィリアム3世はイングランドの人物よりもオランダ人を重用し
マールバラは日陰の存在となる。投獄すらされたこともあった(早くに釈放されたが)。

ウィリアム3世が死去するとアンが女王として即位した。マールバラの妻、サラは女官として
アンの親友であった。
スペイン継承戦争が勃発すると総司令官として大陸に渡り、十年にわたりフランスを相手取って
赫々たる武勲を示した。その間も冬になるとイングランドに帰り議会に出席していた。

しかしアンとサラの仲が冷え込み、議会の動向が不利に流れるとついに司令官職を解かれる。
その後は表舞台に出ることなく(反乱鎮圧などはしたが)1722年に死亡した。

18世紀前半のヨーロッパ最強の人物でしょう。同時代の名将にはオイゲン公、ヴィラール、
スウェーデンのカール12世が、数十年くだればフリードリヒ大王やその好敵手レオポルト・
フォン・ダウンなどがいますが、その中でも最も武力が高い人物だと思います。
ちなみにマールバラ公とカール12世は直接面会したことがあります。

[253] 地理公 2007/08/24 20:46

武力90台にしようかどうか迷ったんですがこの数値に。

>>241
当時の北魏だったら元英が一番武力高いでしょうね
確か十倍くらいの敵を撃破したりしてます
総司令官だった鐘離では負けちゃってますけど

[254] 片田舎の偏屈士 2007/08/24 21:01

>>203
王猛の力が大きいですよね。何故、この時代の人たちは最後にミソつけるんでしょうかね?

>>バキ
作者が自ら弱い強いに口出し出すなって感じになり始めた死刑囚編からおかしい方向に。

>>217
ローマ史の勉強は一時停止中orz

>>219
中国史の勉強中で、朱子学についても少しずつ頭に。
理想的な生き方としてのみ、その価値があるのですが、その考え方は政治経済の分野において足を引っ張る要素しかないのですよね。
モノの本に、吉宗が倹約を進めたのに経済は好転しなかった……とありましたが、公的機関がただ単に支出を減らすだけでは、経済が崩壊するのは当たり前だろ!
と、突っ込みたくなりました。
今の日本、朱子学的な倹約精神の弊害を理解していない人多すぎ。

>>227
実態が良く掴めない人物。資料が少なすぎて。文化面以外においては、吐蕃(トゥプト)が中国西方をたびたび脅かした〜以上のことが出難い現状。

>>234
知りませんでした。どうしても日本史は上に立つ人物にしか光が当たりにくい面があるので。(なおかつ、古代史だと……(-_-;))

>>237
高評価ですね。この人、活躍してこれからって時に死んじゃうんで……。やろうかと思ったところでしたが、より詳しい方に評価してもらい、自分の不明を理解するばかりです。

>>240-241
陳慶之は良くも悪くもこういった話題に上がる人物ですね。
楊大眼については、こう、何だか、運の無い人っていうか……ねえ?
で、同じく運の無い周徳威を評価してみました。

>>244
う〜ん。サッカー系は昔ちょこちょこと上げましたが、オシムについてはマスコミが少々過大評価?
という感じです。シュトルム・グラーツでも、結局は色々あって解任されるなど、言葉で味方も作り敵も作るというのが知られていない。
っていうか、息子も皮肉屋っぽいので、そんな家系なのかと。

>>245
いや、この人をよく後継者に任命したと。正直自分も、これは——って思ってしまいますが、その後の長期安定政権を見ると、家康の眼力の凄さを見せ付けられます。
後、この人は、影武者のせいで不当な評価を受けている悲しい人物でもありますね。

[255] ルー・ルア 2007/08/25 00:12

>>254
個人的にバキがおかしくなったのは、最大トーナメント編のベスト4辺りだと思ってます。
刃牙がドラゴンボールの如く不可解なパワーアップで烈海王を圧倒した辺りから、「予想は裏切るが期待は裏切らない」という本来の作品信条からずれていった気がします。
死刑囚編以降は、ただのネタ漫画となってしまったのは、昔からの読者として悲しいです。(それでも、読み続けてしまうのには、何かしらの魅力がまだ有るのかもしれませんが)

柴栄の評価を見直したら、若干過大評価だった気がします…
統率に関しては、インパクトが欲しかったため、若干数値を上乗せしてしまった感があります。
90代は堅いと思いますが。

片田舎の偏屈士様の柴栄の評価も見てみたいので、もし良ければ評価の方をしていただければ嬉しいです(数値だけでも構わないので)

[256] 片田舎の偏屈士 2007/08/26 17:52

>>255
いえいえ、まだこれから勉強といったところでしたので。
せっかくのお勧めですが、数値については未評価としておきます。
本当に、この人の活躍を見て、何で統一できないのか?
と思ったところで知った、突然の死でしたので。

流れの中での体系的な中国史の勉強だけですので、深く掘り下げるのはこれからなのですが、ボチボチ、評価されていない中国史の人物評価をやって行きたいと思います。

[257] 片田舎の偏屈士 2007/08/26 17:59

ああ、そうそう。
五代最高の名君とか聖人君主のような扱いっていうのは、
後の宋の影響でしょうね。
あの時代、異民族に支配された反動か、
やたらと漢民族に有意な人を持ち上げる性質があるので。

自分としては、中国の歴史の中で、悪い意味での弊害が
そこにあると思うのですが。

[258] ハーン 2007/08/27 20:54

>>245-246
 私も大体このような評価をつけると思います。ただ、私なら知力と政治を入れ替えるかもしれません。
 ここまで武力の酷い人物(公家を除く)は稀でしょうね。
 家康もよくもまあ、こんな問題のある人物を登用したもんです。

>>251-252
 マールバラ公とはこれまた意外な人物を。
 スペイン継承戦争の帰結がフランスの頑張りで少し曖昧になったように思うので、武力はこれでいいように思います。他の数字にも大体同意します。
 ルイ14時代のヨーロッパは第二次百年戦争の序盤なので重要な時代ですが、最終幕が派手すぎてマイナーなイメージです。

[259] ベタピン 2007/08/28 22:24

しのけん(スロプロ)

【統率】51
ノリ打ち軍団を率いてイベントシマを占拠し、確実に収支をプラスにしている事から統率力はそこそこ

【武力】15
不摂生な生活がたたってか貧弱そうな体つき。間違いなく弱い

【知力】36
彼の知性に関するエピソードは皆無。
スロプロなんてやってるくらいだし、ライターとしても文章はお世辞にも誉められたものではないのでこれくらいが妥当

【政治】78
常に店のクセを読み、高設定台をツモる眼力は見事としかいいようがない。新台についても研究を怠らず、収支を大幅に上昇させるその姿はまさにギャンブルのプロ。
スロプロ=スロットで稼ぐ事が目的なのだから、目的遂行能力は非常に優秀と言える。

【魅力】50
カリスマスロッターとして尊敬される反面、彼のマイホの常連からはノリ打ち軍団の件もあり、あまり好かれていないらしい。
ルックスはまずまずのレベル

【列伝】
本名・篠原健二
スロプロの先駆け的な存在。
雑誌主催のパチンコ王決定戦で優勝し、当時のスロット攻略マガジンの編集長と会談した際「スロットで食っている」と発言してその編集長を驚かせる(当時はパチプロはいてもスロプロはいなかった)。それをきっかけにスロマガでページを与えられ『しのけんの喰うならやらねば』を連載する事になり、これによってスロプロという存在が世間に知られるようになった。
しのけんの立ち回りは当時のスロッター達に大きな影響を与え、喰うならやらねばは一躍人気となり現在も連載が続いている。
こうしてしのけんは現在、梅屋シン・射駒タケシと並ぶカリスマスロッターとしての地位を確立する。

[260] ハーン 2007/08/30 20:45

>>251-252
 ここ数日考えていたのですが、当時のフランスを率いるのが統率90後半に手が届きそうなルイ14世なんだから、別にマールバラ公の武力が90台あっても構わないのではないかと思えてきました。

>>259
 ますますカオスになっていくなあ……まあ、私もそれに一役買っていたのですが。

[261] ハーン 2007/08/30 20:46

 ジャン・ランヌ

 1769年4月10〜1809年5月31日

統率……71 前線の軍団長としては優れており、単独で軍を率いることになっても破綻は見られませんでした。もう少し自分だけで戦う機会があると評価しやすいのですが。

武力……75 勇敢な割に結果が伴わないこともありましたが、概ね成果をあげてくれます。ネイさえいなければ「勇者のなかの勇者」と呼ばれていたのは彼だったでしょう。単独で軍を率いてスペイン軍に勝利したこともあります。単純な攻撃力ではスルトやミュラに劣りますが。

知力……54 ナポレオンの元帥のなかでは珍しく、自分なりの判断力をもっていました。まあ、他の元帥がナポレオンの命令どおりに動くのに慣れすぎていたことが原因ですが。ナポレオンによると少しずつ成長していったそうです。

政治……47 内政に関する経験はありませんが、ポルトガルに対する外交任務を成功させたことがあります。

魅力……77 兵士からとても好かれていたようで、今でもフランス人の間で最も人気のある元帥の一人です。ナポレオンからも友と遇されていました(実は仲が悪いんじゃないか? と思いたくなる話もありますが)。家庭的には相当問題があったようです。

保有スキル

突撃:先陣を切ることで指揮下の部隊の士気をあげる。

 列伝 フランスのローラン
 小作農で貸し馬車屋の厩務員の息子として生まれる。フランス革命が勃発すると染物屋をやめて革命軍に志願する。当時は士官が投票で決められており、彼は容貌がよかったのか人気があったのか少尉に任じられた。
 この当時から無鉄砲な士官であったらしく、戦うたびに傷を負っていた。ナポレオンがイタリア遠征軍司令官になると歴史の表舞台に登場することになる。この遠征でナポレオンに気に入られ、皇帝になってからも「君」と呼び合う関係になったという。
 ナポレオンが即位すると最初の帝国元帥の一人となる。元帥になってからも勇敢で、ミュラにライバル意識を燃やして勇気試しのような真似を繰り返した。ナポレオンの妹カロリーヌを巡ってミュラと争ったりもしている。
 こんなことばっかりやって長生きできるほうがどうかしており、さすがの彼も第六次反仏大同盟のヴァグラムの戦いで右脚を負傷し、切断するも間もなく死亡する。
 この時にやけに長い遺言を残しているのだが、それはどうやらナポレオンの捏造らしい。

 武力と魅力の高いカリスマ軍人タイプです。とりあえず、軍隊を率いさせましょう。勇敢に戦って成果をあげてくれるはずです。魅力も高いので兵士たちにも喜ばれるはずです。それ以上のことは未知数ですが。
 ナポレオンから「友」とまで呼ばれた人物で、士官学校すら出ていないのに少しずつ能力を向上させていった人物です。もう少し生きていたら面白かったのですが、残念なことに天は彼にそれほど時間を与えてはくれませんでした。
 まあ、元帥になってからも無鉄砲きわまることばかりやっていたんですから、あそこまで生きていただけでも十分に天に愛されていたと思いますが。

[262] 「ど」の字 2007/08/31 21:30

 こんばんは。「ど」の字です。
 このスレッドでは架空の人物評もありなので。
 今回は、遠い昔、遥か彼方の銀河を揺るがした物語の一方の主役を考察してみます。

 パルパティーン
 82BBY(ヤヴィンの戦いの82年前)〜11ABY(ヤヴィンの戦いの11年後)

【統率】21
 本人の居る地域での統率は万全。しかしそれは本人の個人的戦闘力と特殊能力、そして何よりも容赦の無い態度に依存した極めて限定されたもので、目の届かない場所では部下は自分勝手な行動をしていた。
 大提督ターキンとダース・ヴェイダーという帝国の両輪とも言える部下の暴走が自分の帝国と自身の命までも損なっているので、この程度の数値と推測。
 組織の構成と運営の能力にも大きな難がある。
【武力】30
 残念ながら軍を率いる才能は全く無く、共和国の議長時代も、皇帝になって以後も、軍の指揮は部下に任せきり。
 反乱軍の活動が活発になった後に策定した大戦略も性急かつ無理のあるもので、自らの建てた帝国の寿命を大いに縮めている。
 なお、良く知られているが個人的武勇は極めて卓越している。ジェダイ抹殺の謀略においては彼一人で銀河系最強のジェダイ評議員を4人も相手取って優勢な戦いを展開(三人を瞬く間に斬殺、残るメイス・ウィンドゥに対しては負ける姿をタイミング良くアナキンに見せるほどの演技を披露)。また単独で宇宙艦隊にも匹敵する戦闘力を発揮できたという(宇宙戦艦を徒手空拳で撃沈できる能力があり、また弟子にもその能力を教授できた)。
【知力】90
 腐敗の極に至っていた銀河共和国の行き詰まりを看破し、ジェダイのアンチテーゼであったシスの思想によって銀河に強力な政治を敷こうとしていた。洞察力にも卓越(予知能力を持っていたとも言われる)。
【政治】97
 特に謀略に能力を発揮。当時腐敗した共和国の中にありながらいまだに勢力と思想を保っていたジェダイ壊滅のための遠大な謀略を一つずつ積み上げ、ついにその壊滅に成功。これでジェダイを完全に壊滅する詰めを見せていたら98以上の数値を与えても良い
【魅力】98
 極めて卓越した話術と演技力の持ち主。合法的に銀河共和国を帝政に変化させられたのは、その政治力や知力より彼の持つカリスマ性によるものであった。
 銀河帝国の皇帝になると、この能力はとたんに使われなくなる。もったいない話である。

(この項続く)

[263] 「ど」の字 2007/08/31 21:32

(続き)
【略歴】
 謎の多い人物である。パドメ・アミダラと同じ惑星ナブー出身の人間であるが、彼の家族や先祖更には幼少時代に関する詳しい記録は一切残っていない。政治家を志したものの、その最初の道程はあまり順風満帆ではなく失態続きで、とても将来元老院議員、まして銀河の支配者になろうとは誰からも思われていなかったという。ただ、彼は幼少の頃から過酷な訓練を積み上げたジェダイ騎士を超えるほどの強い忍耐力を持っていたという。
 後の彼を特徴付けるシス思想(フォースの暴走を抑止するために利他的な使用に限定するジェダイ思想のアンチテーゼ。フォースのパワーを活用するには人間の本能と欲望に根差した利己的な使用をすべきであるとする思想)に染まった経緯は明らかではないが、ダース・ブレイガスという師についてシスの道に入ったことは言及されている。強大なシスの技の数々を会得した後、師の寝込みを襲って殺害し、シスのマスターとなったという説が有力。
 壮年期になると急速に頭角を現して銀河共和国元老院に当選を果たし、すぐに元老院でも一頭抜けた存在となった。惑星ナブーの国政でも君主ヴェルーナ王を凌ぐ政治の実力者に昇りつめ、やがて実質的なナブーの代表者となる。
 彼は普段は共和国元老院議員パルパティーンとして過ごし、裏ではシスの暗黒卿ダース・シディアスとして銀河帝国の樹立とジェダイの排除を画策し、政治家として巧みにその手腕を発揮していく。特に当時の銀河共和国の武力であったジェダイ騎士団とは別の武力である共和国軍創設とその乗っ取りは、彼の謀略の最たるものである。
 銀河共和国で政治的に上り詰めるのと平行してジェダイの盲点を突いた謀略を組み上げ、やがて銀河共和国の土台を揺るがすクローン戦争を勃発させる。この破滅的な戦争を終結させるのと同時に、共和国軍の大多数を占めるクローン兵士の機械的な行動を活用したジェダイ抹殺の謀略を実行に移し、当時一万人いたと言われるジェダイ騎士団を壊滅に追いやった。残存ジェダイの抵抗も個人的武勇と策略で排除したパルパティーンは銀河元老院に立ち、ジェダイによる暗殺未遂のせいで自分の顔が醜く歪んだとジェダイ騎士団を断罪、ジェダイが共和国に対して反乱を起こした事を議員達に説明して納得させ、ジェダイ抹殺を正当化した。そして平和と新しい秩序の構築のために自ら全権をもって事にあたるため、共和国の統一的支配を請け負う旨を宣誓した。この提案は銀河元老院に所属する彼の支持者の大喝采をもって承認され、解体された銀河共和国の代わりに現れた銀河帝国の皇帝として全銀河の頂点に立った。
 人間種族である彼は、自分の政治や軍隊を編成するに当たって同じ人間(特に男性)を重用、幾つかの例外を除いて殆どのエイリアンを公式に奴隷身分とした。皇帝となった彼はその絶対権力の名の下にこれらの勢力を力で弾圧し始めたため、帝国に対する反対勢力の軍事蜂起が始まるのにそう時間はかからなかった。
 銀河各地で蜂起した反乱同盟軍に銀河元老院の影を見た皇帝は元老院を解散するという暴挙(この結果、逆に反乱同盟軍の陣営は飛躍的に強化される)に出て、各星系に帝国軍の総督を置き軍事的威圧による直接支配に乗り出した。その象徴として惑星さえ破壊可能な超巨大移動要塞デス・スターを建造し、大提督ターキンにその指揮を任せたが、彼はこの要塞の力を砲艦外交の道具としてではなく実際に反乱軍のバックボーンである惑星オルデランに使用するという暴挙に出る(軍事的恐怖で抑えていた地域も、この暴挙を見て破れかぶれの反乱に加わるようになってしまう)。直後にようやく発見された反乱同盟軍の本拠地ヤヴィン星系第四惑星を攻撃するが、これは反乱同盟軍の無謀とも言える起死回生的作戦によってデス・スターを破壊されることで頓挫してしまった。
 その後は自分の最も遅くに得た弟子ダース・ヴェイダー(アナキン・スカイウォーカー)に軍事の全権を預けて反乱同盟軍との戦いを指揮させるが、詰めを欠いたため主力の捕捉に失敗。
 軍事的に追い詰められたわけではないはずなのに、何故か自らの身と第二デス・スターを囮に使っての大作戦を企画し実行するが(敵中に自らが得たい人材……アナキン・スカイウォーカーの子ルーク……が居たからとされる)、その戦いの最中に弟子ダース・ヴェイダーの裏切りにあって殺害された。
 その後、クローン技術によって蘇ったが、殺害以前に持っていた帝国への支配権はついに取り戻せなかった。結局、復権を果たしたジェダイの前に蘇る度に殺され続け、ついに滅んだとされる。

(この項まだ続く)

[264] 「ど」の字 2007/08/31 21:32

(続き)
【総評】
 共和制国家の指導者として、傑出した実力を持っています。もし彼が共同体の繁栄に尽くせば、銀河の歴史にも稀に見るほどの素晴らしい成果が残せたでしょう。個人的武勇にも非常識なほど卓越していますので、カエサルみたいな死に方をする恐れもありません。
 しかし、彼本人が目指した専制国家の君主としては全くの不適格。特に共和制国家では他人に丸投げ出来た統率と軍事の領域での能力の低さが極めて重く、結局それが彼と彼の創った帝国の破滅に繋がってしまいました。
 自分が時代でも傑出した個人能力(フォースのダークサイドパワー)を持っていたが故に、その能力に頼ってしまい逆に能力では理解できないものに対する洞察が浅かった欠点も、専制国家の君主になったとたん噴出しています。
 彼の不幸は、シスに染まったが故に共和制国家の元首という立場で満足できず、また自分の特殊能力に溺れてしまったことに尽きます。思うに、彼はシス思想に触れなかった方が銀河の歴史に大きな足跡を残せたのではないでしょうか?

[265] ハーン 2007/08/31 22:03

>>262-264
 大作ご苦労様です。先を越されたような気分ですが。
 数値は大体同意しますが、統率力は私ならもう少し上げると思います。それでも大した点数はないでしょうね。部下が暴走しすぎです。
 SWの武力100はアクバー提督かスローン大提督かと。知力はレイアかモン・モスマ、政治はよく分かりません。
 少し話はずれますが、小説版のSWはとても終わりそうにありませんね。

[266] 越中守 2007/09/01 05:32

ラースロー1世 1040-1095(在位1077-1095)

【統率】71
初代国王イシュトバーン死後、混乱していたハンガリーをまとめ上げ、再び大国へと押し上げた。
ハンガリーは南スラブ、ラテン民族が多く住む地域を支配する多民族国家であり、王権が強くなれば彼らはハンガリー王の支配に甘んじ、弱くなればそれから抜け出すということを繰り返していた。
ラースロー1世は前者の典型例であったといえよう。

【武力】57
積極的な対外進出を行い領土を拡大した。
とはいえ、武力というよりは政治的駆け引きによるものが多い為、知力及び政治に換算。

【知力】83
彼が即位した頃、折しもローマ=カトリック教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ帝国ハインリヒ4世の聖職者叙任権闘争は熾烈を極めていた(ラースロー1世はカノッサの屈辱のあった年に即位している)。
ハンガリーは神聖ローマ帝国の圧力を受けていた為、彼はここでグレゴリウス7世を支持する。
これは大正解で、以降教会の力を後ろ盾に国内外に影響を与えることに成功するのである。

【政治】75
王位が断絶したクロアチアを乗っ取り、豊かなダルマツィアの諸都市を支配した。
ダルマツィア諸都市の富は王の財政に大きく貢献したのである。
もっとも、この地はヴェネツィア・ビザンツ・ローマ教皇なども狙っていた為、彼らとの不和を招くこととなるのだが…

【魅力】64
生前は特にこれといった魅力に関するエピソードはないが、アールパード朝の勢力を大きく拡大させた為に「聖王」とまで称されるようになる。
現在でも、同国では人気の高い王である。

[267] 越中守 2007/09/01 07:42

【列伝】ハンガリーの聖王

11世紀後半、ハンガリーは動乱の最中にあった。
ハンガリーを統一し、同国をキリスト教社会へ仲間入りさせたイシュトバーン1世は3人の息子全てに先立たれていた為、後継者たる人物がいなかった為である。
数十年に渡る混乱に終止符を打ったのが彼、ラースロー1世であった。
彼は国内の反キリスト教勢力を鎮圧すると、アールパード王家の正統性を示す為にハンガリーの初代国王イシュトバーン1世を列聖。
また、国外にあっては叙任権闘争に明け暮れる教皇と皇帝の中で上手く立ち回り、教皇の後ろ盾を得てクロアチアに進出した。
ところが、この時に得たダルマツィア諸都市の権益を巡って周辺の各勢力と対立し、特にヴェネツィアとは直接矛を交えることとなる。
死後、列聖。
現在も「聖王」としてハンガリー国民から愛されている。

【総評】
おそらくハンガリー王の中でも、特に知謀に優れた人物でしょう。
周囲の混乱や弱体化につけ込み、着実に勢力を広げました。
手際の良さがかえって周囲の反発を招くことになり、この後も周辺諸国との戦いが続いていきますが、国内をまとめ、ハンガリーを完全にキリスト教化させた功績は無視出来ないでしょう。
武力はともかくとして、謀略面であればフニャディ=マーチャーシュを上回り、ラヨシュ1世(大王)並であると思われます。
アールパード朝ハンガリーの成長期がこの後エンドレ2世の大失政まで続いたことを考えれば、その最初を担った王として評価は高くすべきでしょう。

[268] 越中守 2007/09/01 07:48

追記
【特殊能力】列聖(後世、魅力に+15される)

[269] 越中守 2007/09/06 07:09

レーニン 1870-1924

【統率】36
ボリシェビキ(後のロシア共産党)のリーダーとなるも、スターリンを初めとして彼の思う通りに動かなかった人間は多く、国家のトップとしての統率力があるとは思えない。

【武力】41
戦場では特にこれといった業績はないが、武力革命においては「実績」を残しているので、一応のプラス査定とする。

【知力】25
理想主義に走りすぎ、特に対外関係では現実を全くと言っていいほど無視していた。
実は学生時代は常に主席であり、哲学者としてはそれなりの功績を挙げている為、これも一応のプラス査定とはする。

【政治】85
悪い意味で政治能力は高い。
自らの政策を多くの反対にも拘わらず強行し、反対者を次々に粛清した。

【魅力】42
数多くの暗殺者に狙われるなど、常に恨まれる人物であった。
もっとも、ロシアの政権の正当化の為とはいえ、現在に至るも遺体が「神格化」されている点はプラス査定に入れてもいいだろう。

【特殊能力】極端な理想主義(知力に-20される)

[270] 越中守 2007/09/06 07:49

【列伝】独善の革命指導者
本名はウラジーミル=イリイチ=ウリヤノフでレーニンはペンネーム。
ロシアの貴族の家に生まれ、幼い頃から神童として周囲の畏怖を集めていた。
兄がロシア皇帝の暗殺を企てた為に処刑されると、活動家の道に身を投じるようになる。
ロマノフ朝末期の混乱の中で一時は隣国フィンランドに逃れるものの、後に復帰。十月革命の指導者となる。
ロシア共産党を率い、様々な政策を強行するが、彼の政策は現実から遠く離れており、失敗を繰り返した。
晩年になってようやく自らの愚に気づき、方向修正を試みるものの時既に遅く、彼は息を引き取るのであった。

【総評】
完全な理想主義者であり、その「理想」を達成する為に手段を選ばなかった人物です。
そもそも教育の行き届いていなかったロシアの民衆に自らの理想が伝わらないことを知ると、地道な活動という選択を無視して強硬手段に訴えるなど、長期的な視野の出来る人物ではありません。
本人は至って真面目で、理想に向かう姿そのものに限れば、むしろ高潔さすら窺えるだけに、余計に質が悪いと言えるでしょう。
いずれにしても、如何に本人の理想が「崇高」であろうとも、やり方を間違えるとロクなことにならないという良い例でしょう。
彼のようなケースは、共産主義云々に拘わらず、どのような主義主張であっても起こりうるものですので、他山の石とすることが歴史を学ぶ者に科せられた使命ではないかとすら感じさせられます。

[271] ハーン 2007/09/06 15:34

>>269-270
 これまで誰かがやりそうで、その実誰もやらなかった人物ですね。後継者のスケールが斜め上な方向に大きすぎるからかもしれませんが。数値にも同意します。彼は扇動家のようなタイプだったんでしょう。
 こんなイカレタ原理主義者が台頭できる時点で、ロシアの命運は決まったようなものかもしれませんが。

[272] やっち 2007/09/06 17:28

>>269-270

 うーん、「帝国」の事実上の創始者としては能力が低すぎるように思います。特に統率。
 10数年前まで高い評価を受けていたことに対する反動でしょうか。
 権力を奪取し、あれだけの大混乱にもかかわらずそれを維持し(←ここが大事。一発屋ではない。)、
かつあれだけの内乱を勝ち抜いたのですから、善し悪しは別として、その
統率力は半端ないと思うのですが。
 近年の研究では、スターリンがやったことはほぼ既にレーニンがやっていた
ようですし。

[273] やっち 2007/09/06 17:32

 念のため申し上げると、私は共産主義者でもシンパでもありません。
 もっといえば、行き過ぎた社会民主主義も好きではありません
(何だよ、「所得の再配分」って。)。
 上記意見は純粋に力量だけを評価してのものです。

[274] たばこ神社 2007/09/06 18:31

>>271
>イカレタ原理主義者・・・

これってあからさまな君の政治的な主義主張じゃないの?
人物評というよりロシア革命そのものや社会主義に対する評価のように聞こえるんだが。
正直な感想を述べたつもりなんだろうが学問カテのスレでする発言としては下品に感じたんだが、どうだろう?

価値観や政治思想はそれぞれにあるだろうが、それを極力排除して数値化したり感想を述べたりしているスレだとばかり思っていたが、違うんですか?

[275] ハーン 2007/09/07 01:42

>>274
 一応、なるべく好き嫌いは忘れて評価していますが、誰を評価していても政治的な主観、特に時代が近いとそれに左右されるのは、ある程度やむおえないと考えています(今回は私が評価したわけではありませんが)。
 ただ、今回の発言はあまりにもあからさまなので、気をつけたいと思います。

[276] たばこ神社 2007/09/07 06:53

>>275
了解しました。

[277] 「ど」の字 2007/09/08 23:36

>>265
 スターウォーズのスピンアウト小説は多数出ていますからね。多分ジョージ・ルーカスが死んでもあの世界は発展を止めないんじゃないでしょうか。

>>269
 自分は、この人物には、操られた小人が狂気に駆られて大悪を為したという印象を受けます。事実、彼の革命には日本政府をはじめとする諸外国の援助があったのですし。近現代のロシアは、混迷した国では間違った人間が指導者になる可能性があること、そしてそんな指導者が共同体にどんな惨禍をもたらすかを示した反面教師の意味があると考えています。
 周囲の国を見るにつけ、つくづく日本という国は指導者に恵まれているなと思ってしまいます。

[278] 「ど」の字 2007/09/08 23:37

 さて今回は、再びネタ人物の評ということで、中つ国を長い間騒がせた冥王を評価します。
 自分が以前評価した、銀河帝国皇帝パルパティーンの元ネタの一人でもあります。

 サウロン

【統率】38※
 組織の構成能力は大したもの。倒されるたびに再起して、再び大軍を整備するのには驚かされる。
 しかし部下の統率力には乏しい。下っ端のオークにすら面従腹背され、危機に陥るや腹心にすら見捨てられたりしている。彼があんな大組織を維持できたのは、ひとえに個人的能力を背景にした恐怖があったために過ぎない。
【武力】49
 戦略戦術の才は良く言っても二流。力押ししか知らない。彼の本領は、圧倒的な物量を整備する才覚であった。
 なお個人的戦闘能力は神の一柱というだけあって飛び抜けていた。
【知力】85
 謀略には優れたものを持っていた。対峙した相手の心を察知し揺さぶるのが上手い。ただ断固たる意思を持った相手を読むときには詰めに欠ける。これが戦場でも発揮できていれば、武力の数値をもう少し上げていいのだが。
【政治】11※
 土地を統治する内政の才能は絶無。そもそも統治という概念を理解していたかどうかすら怪しい。
 彼の支配は住民にとって責め苦であるとまで言われた。
 ただ、離間外交はそれなりのものを持っている。
【魅力】46※
 部下がカリスマに信服していたという表記は無い。ただ弁舌は巧みで、その詭弁は多くの者を騙してきた。
 姿形も生前では文字通り光るものがあった。さすがに堕ちても神様だっただけのことはある。
 しかしヌメノール沈没の巻き添えを喰らって死んでからは惨たらしい姿を変えられなかったという。

【特殊能力】
※組織整備……組織を構成する場合、統率に+50する。
※離間外交……敵対意識を煽るような外交を展開する場合、政治に+70する。
※弁舌……会談や演説をする場合、魅力に+50する。

(この項続く)

[279] 「ど」の字 2007/09/08 23:38

(続き)

【略歴】
 俗に『指輪の王』『冥王』『死人占い師』などと呼ばれる、中つ国を長らく騒がせた存在。
「サウロン」とはクウェンヤ(神の御膝元に居たエルフの言葉)で「身の毛のよだつもの」という意味。
 シンダリン(神の御許に赴かなかったエルフの言葉)で同様の意味である「ゴルサウア」と呼ばれることもある。

 その元々の出自は、鍛冶の神アウレ(ドワーフの創造主でもある)に仕えるマイアール(小神たち)の一柱で、ガンダルフやサルーマンと同格であった。しかし、モルゴスに誘惑されて副官として彼に仕え、城砦アングバンドの支配を任された。 ヴァラール軍によるウトゥムノ陥落の際に逃れて中つ国に隠れ潜んでいた。モルゴスが西方から逃亡し、中つ国に帰還すると再び姿を現して仕えている。
 エルフとモルゴスの抗争時代である第一紀でも彼は猛威を振るい、モルゴス第一の配下として恐れられた。
 中でもエルフ王フィンロドとの魔歌での一騎討ちに快勝するなどの功があるが、ルーシエンの連れた神犬ファンには敗れて肉体を一時失った上に降伏を強いられている(この時は程なく元に戻ったらしいが)。
 神々が遣わした軍勢とモルゴスの最後の戦いである怒りの戦いでも奮戦したが、敗勢が明らかになるとヴァラール軍の指揮官のエオンウェに服従する意を示した。しかしエオンウェはサウロンを裁く権限を持たなかったため、自分の上に立つ神々の裁きを受けるよう命じ、サウロンはその裁きを恐れて行方を晦ました。

 第二紀では500年ごろから再び活動を始めた。最初は美しい姿と弁舌をもってエルフたちの間を歩き回り、彼らの力と知識を自分のために役立てようとした。彼は特にエレギオンにおいて歓迎され力の指輪の製作に力を貸したが、後に彼らを裏切り、モルドールで密かに力の指輪全てを支配する一つの指輪を製作した。ケレブリンボールはサウロンの裏切りを見抜いて自分のみの手によって作った三つの指輪を隠したが、サウロンはエルフに指輪の引渡しを求めて戦いを挑み、エレギオンを滅ぼした。
 この後、残存エルフと抗争しながら中つ国の支配を進めていったが、あと一歩のところでエルロンドの弟エルロスによって創建された国ヌーメノールから攻撃を受け、腹心の指輪の幽鬼にまで見捨てられて降伏した。サウロンはヌーメノールに連行され、牢獄に幽閉されたが、やがて王をたぶらかしてヌーメノールを堕落と滅亡へと追いやった。ヌーメノールが滅亡するときにかれも巻き添えを食って海に投げ出され、肉体を失い、二度と美しい姿をとれなくなったが、魂のみの姿となってなんとか中つ国に逃げ戻った。
 ようやく復活を果たした時には既にヌーメノールから逃れた者たちがゴンドールとアルノールを建設しており、怒り狂ったサウロンは一つの指輪を身につけゴンドールに戦いを仕掛ける。しかしこれに危機感を覚えた人間とエルフが結んだ最後の同盟との戦いに敗れ、モルドールの軍は壊滅した。サウロン自身も人間の王エレンディルとエルフ最後の上級王ギル=ガラドによって相討ちに倒れ、エレンディルの遺児イシルドゥアに指輪を奪われた。

 第三紀に入って再び魂を復活させたサウロンは緑森大森林の南端で死人占い師として力を蓄え、敵対勢力の力を削ぐことに専念する。その結果、アルノールは滅び、ゴンドールは弱体化した。2941年に闇の森を追われるがすぐにモルドールに戻り、バラド=ドゥアを再建して冥王の復活を宣言する。一つの指輪が見出されていることを知ったサウロンは軍備を整えて指輪奪取と中つ国支配を試みるが、ホビット族のフロド・バギンズによって滅びの山オロドルインの滅びの罅裂に指輪を投げ込まれ、力の源泉を失って完全に滅亡した。

[280] 「ど」の字 2007/09/08 23:40

(続き)

【総評】
 徹底した特化型の参謀です。得意とする部門を統括させると周囲を驚喜させる仕事をしてくれるでしょう。勇敢であり、時代でも突出した個人戦闘能力を持っていますので、最前線で部隊を率いさせても面白いと思います。
 しかし戦闘や戦争全てを高い視点から見る能力に欠けており、また敵対する相手の心理洞察も鋭いように見えて甘さが見て取れます。参謀長には向いていませんし、まして総司令官ともなると完全な不適格者です。グランドデザインを描き出す能力も無く、彼の戦略はモルゴスのそれから一歩も出ていません。
 モルゴスの次席指揮官であった頃、彼の驕りと欲による判断ミスは幾度も致命的な結果をもたらしています。また、モルゴスを失ってからの彼の長い戦いはどう考えても無駄な迷走です。
 高い個人的能力に溺れて、自分の分を超えた事を試みたことが彼の不幸の元でした。

[281] 「ど」の字 2007/09/09 02:06

 続けて行ってみます。古代日本の軍官僚として、伝説になった人物です。

 坂上田村麻呂 天平宝字2年(758年)〜弘仁2年5月23日(811年6月17日)

【統率】75
 弱体な中央政府の軍隊を率いて遠方遠征をして、統率に誤りが無かった。
 問題の全てを知力で片付けてしまったからであるが、しかしこのくらいの数字はあって然るべきだろう。
【武力】55?
 戦術能力的や個人的武力にはあまり見るべきものは無い。難しい局面に至ったことが無いためである。
 歴史の結果的に見るなら、勝てる戦いは落とさない武将といった程度。個人的には「全力」を見てみたい武将。
【知力】90
 政戦両略のバランスが取れており、非常に広範囲な知識と知恵があった。
 恐らく、楠木正成登場までは、日本史上の武人として最高の知力の持ち主。
 当時の日本でこれほどの世界史級能力があれば、武力や統率の高低など関係無く「無敗の名将」で居られただろう。
【政治】89
 外交調略や謀略に長ける。またインフラ構築にも飛び抜けた知識を持っている。武人として終わらせるのはもったいない。
【魅力】85※
 後漢の霊帝を始祖とする帰化人であり、中央高官からは煙たがられていたようである。
 指導者アテルイの刑死後でも蝦夷の地が反発を起こしていないので、日本史上屈指レベルの魅力の持ち主とした。
 死後、伝説化して多数の逸話が作られてしまったため、かえって実像が分かりにくくなってしまった。非征服地で美談が残るのだから、死後の魅力は世界史レベルにしても良いのではないかと思われる。

【特殊能力】
※伝説化……死後、魅力に+10。また被征服地の反乱も起こりにくくなる。

(この項続く)

[282] 「ど」の字 2007/09/09 02:07

(続き)

【略歴】
 その出自は、後漢の霊帝を始祖とすると二十代目となる帰化人であるという。
 当時の日本においては、祖父や父の代には武の家系として知られていた。
 当初は近衛府に勤めていたが、当時激化していた蝦夷との抗争において日本軍が大敗を喫するとその後任の副将として征東軍の編成に当たり、主将の大伴弟麻呂を助けて延暦12年(793年)蝦夷を征伐した。ほぼ正史として認められている『類聚国史』では副将ながら彼の事跡だけが書いてあり、彼が中心的な役割を果たしたことが伺える。
 延暦15年(796年)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせ、加えて翌年には征夷大将軍に任じられた。延暦20年(801年)に遠征に出て成功を収め、蝦夷の討伏を報じた。
 いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻り、そこで阿弖利為(阿弖流為)と母礼ら五百余人の降伏を容れた。田村麻呂は円滑な征服地支配のために彼らを許すことを主張したが、都の貴族は反対し、二人を処刑した。延暦22年(803年)には志波城を造った。
 延暦23年(804年)に再び征夷大将軍に任命され、三度目の遠征を期した。しかし、延暦23年(804年)に藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった。
 田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた。

 戦功によって出世を重ね、弘仁元年(810年)についに大納言にまでなった。また、田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる。ほぼ史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説が錯綜していてはっきりしない。
 平城上皇と嵯峨天皇が対立したとき、田村麻呂は上皇によって平城遷都のための造宮使に任じられた。しかし薬子の変では嵯峨天皇につくというなかなかな判断力を発揮している。子の坂上広野は近江国の関を封鎖するために派遣され、田村麻呂は美濃道を通って上皇を邀撃する任を与えられた。平城京から出発した上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、大和国添上郡越田村で進路を遮られたことを知り、平城京に戻って出家した。
 田村麻呂は弘仁2年(811年)5月23日に54才で病死した。嵯峨天皇は哀んで一日政務を執らず、田村麻呂を称える漢詩を作った。死後従二位を追贈された。
 平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、その子孫を称する多数の家系が出来た。
 また太平洋戦争の敗北までは、文の菅原道真と武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。

【総評】
 当時の日本なら、これほどの能力を持っていれば不世出の才能ある人物として何をやっても成功したでしょう。
 能力ある人物によくある「尖った」ところが無く、また野心的でも無いので、使う側の力量を要求しないというのも大きなポイントです。政治の流れを読む嗅覚も良いものを持っています。
 日本古代における武の代表格とされていますが、その実像は貧しい蝦夷に優れた農業やインフラを伝えることで暴発を防ぐ任を帯びた文化指導者のようなものであったという研究がなされています。
 特に何が向いているということが言えないほど優れた人物です。唯一武力が未知数同然というのは皮肉ですが、しかし劣っていたはずもありません。結果で見たため上記の数字55に落ち着けていますが、自分は少なくとも「国家級」である80はあると考えています。難しい戦争での彼の活躍を見てみたかったと個人的に思いますが、しかし彼の本領は難しい戦いをしないで終わらせる知力と政治力にあるのですから、この歴史の結末は妥当でしょう。
 こんな人物を得た政府は、非常に幸運です。難しい問題があったら、何も考えないでこの人物に丸投げするだけで望む成果が得られるでしょう。隣国で敵対する相手が李世民やカエサルやグスタフ・アドルフのような弱点の無い(これ重要)世界史上の巨人でも無い限り、大抵の難事はどうにかしてくれるはずです。

[283] 三太郎 2007/09/10 00:14

>>279
 最初、読んで「む? オークのみならず、東夷にハンド、ハラドと言った諸国民の軍勢を組織していたにしては、統率低くないか?」と思いましたが、特殊能力見て納得です。
 ツッコミ入れるなら、政治。
 彼の支配下にあるとき、モルドールの人口は爆発的に増えてるわけで、あの砂漠同然の土地で、食わせて、増やす偉業を成し遂げている辺り、政治的能力がそこまで低いとは思えません。なんちゃって(笑

[284] 「ど」の字 2007/09/10 06:12

>>283
 モルドールの人口が増えているのは、そもそもオークが貧しい土地でも増えやすい種族であるという事情によるもので、これはエルフを「改良」してオークを創造したモルゴスの功に帰します。サウロンの凄味は、その増えた人口をそのまま軍事力に変換する組織構成力です。

[285] マフムード 2007/09/15 17:37

ウルグ・ベク(1393〜1449)
ティムール帝国 第4代君主
活動地域:中央アジア

【統率】43
父の生前には総督として大過なくサマルカンドを統治しているが、即位してからは各地の一族をまとめられず、国内は混乱へ向かった。

【武力】48
武人としては祖父や父に遠く及ばず、ウズベク族に大敗し、最後は息子の率いる反乱軍に文句無しの完敗を喫して処刑された。

【知力】70
賢人の誉れが高かった。また「この人唯一の苦手分野」ともいうべき「現実世界の支配」でも、自分に軍事の才能がない事を悟ると専守防衛政策に徹するなど、それなりの冷静な判断力はあった。

【政治】69
統率力と武力の低さゆえに国家の統制は駄目駄目だが、首都サマルカンドの文化と商業の振興に限れば、大きな成果を挙げている。

【魅力】60
文化人たちのパトロンであったため詩人や歴史家には賞賛されている。しかしそれ以上に彼の魅力を伝える具体的な逸話などはない。当初は関係良好だった息子と対立して反乱を起こされ、その反乱軍に敗れると全ての家臣から見捨てられた。少なくとも強い求心力は持っていなかったようである。

【特殊技能】
学芸保護(魅力+15)、建築(政治+20、知力+20)、文学(知力+15)、科学(知力+25)

略伝:ウルグ・ベク ——王の蒼穹——

 ティムール朝の君主。ティムールの孫、シャー・ルフの子。
 幼い頃から聡明で、戦いと学芸を好んだ祖父に愛された。
 ティムール晩年の未完に終わった中国遠征に従い、父シャー・ルフの即位後はサマルカンドの総督としてこの町を治め、文化と商業を振興した。
 1447年には父の後を継いでスルタンとして即位するが、各地の一族はウルグ・ベクに服従せず、北方からは遊牧民のウズベク族が侵攻して国内は混乱を極める。さらに息子アブドゥッラティーフが王位への野心を抱いて反乱を起こし、サマルカンド郊外でウルグ・ベクの軍を撃破。在位わずか2年にしてウルグ・ベクは王位から追われ、程なく処刑されてしまった。

 このようにウルグ・ベクは支配者として有能とはいえなかったが、文人・学者としてはきわめて偉大な人物であった。
 首都サマルカンドに多くの美しい建造物を建立し、多分野にわたる学問や技芸を保護し、自らもそれらの学問に通暁していた。
 なかでもサマルカンド郊外に天文台を建設し、自ら天体の運行を観察して作成した「ウルグ・ベクの天文表」は有名で、現代天文学に照らしてもほとんど誤差のない記録として高く評価されている。ほかにも歴史書や鷹狩りに関する著作などもある万能型の文化人で、中世世界の十大学者の一人に数えられている。

 彼が帝国の支配者として生まれてきたことは、あるいは不幸なことだったのかもしれない。

[286] マフムード 2007/09/15 18:07

全部に感想書いているとキリがないので、最新40だけから。

>>245
おおむね同意です。ただ武力が低いのは事実にしても、せいぜい20台下半ぐらいにしておけば十分かとも思います。なにしろ世界は広いからどこにどんなとんでもない超絶(ただし逆方向の)天才的軍人が潜んでいるかわかりませんから(笑)
武力10以下となると、たとえば数十万規模の錬度の高い軍隊を率いて数百規模の普通の暴徒に叩きのめされるとか、平地に柱と縄で柵を作っただけの小さな砦を一年かけても落とせないとか、敵軍を見ただけで怯えて気絶とか・・・(いや、そんな人物が存在するかどうかはわかりませんがw)

>>248
五代十国は面白そうなのに未開拓の分野なので楽しみです。自分も機会があったらやってみたいですが、なまじある程度史料が手に入りやすい環境にいるので、始めると調査の泥沼に浸かりそうで怖いです。

>>251
近世ヨーロッパには綺羅星のように名将たちがいますが、なぜか自分のまわりにはあまり情報がないので、これも楽しみです。さすがに武力が高いですね。もっとメジャーになってもいい人物だと思います。彼の時代そのものが相対的に地味なのが問題なのか。

>>261>>262>>269
あー、正直どれもあまり詳しくない人物ですが、架空世界の英雄もマイナー英傑も好きです(笑)
ハンガリーはそれ自体がマイナー英傑の宝の山な気配です。
ランヌについては断片的にしか知りませんが、所属していた軍隊にもっと優秀な武将が少なければ、さらに勇名をとどろかしていたでしょうね。

>>269
ついに出ましたね(笑)
やっぱり革命家というのはどこかしら偏ってる・・・

>>278
各評を読むとどれも納得できる数値ですが(サウロンに統治の概念がなかったのは確実。しかしヌアネンの湖の周辺の農耕地帯は・・・誰か有能な官僚でもいたんだろうか?)、こうして数値だけ見ると、指輪戦争の時代になぜあれほど彼が恐れられたのかわからなくなってきます。やっぱり腐ってもwマイアールの一員だけに、数値以前に能力の次元が他の種族とは全然違うんでしょうね。
数値の比較だけならアラゴルンにすらオール負けしそう(笑)

>>281
前からやりたいと思っていましたが、史実と伝説の境が見定められずに諦めていました。自分だったら全体的に数値を押し下げると思いますが、やはり総体としてかなり優秀な人物だというのには同感です。

[287] 「ど」の字 2007/09/15 20:39

>>286
 感想ありがとうございます。

 徳川秀忠の武力については、彼は間違いなく超絶(もちろん逆方向)の軍人です。当時の日本で最優秀の幕僚と最優秀(というより超人的な錬度の)兵士に恵まれて、40000対2000という兵力差でぶつかって大敗を喫したのですから。相手が「表裏比興の者」真田昌幸であったことを考慮しても、この結末は酷過ぎます。家康が付けた幕僚は的確な助言をしていますので、この拙い戦いの責任は全てが秀忠の低能に因るものです。

 再興王アラゴルンと冥王サウロンとでは指導者としての器が違いすぎます。ゴンドールの執政デネソール二世と比較してもまだ下でしょうね。農耕地帯の整備は、多分黒いヌメノール人の一人である副官「サウロンの口」の功績でしょう。

 坂上田村麻呂については、普通不可能な技術力による地方教化を成し遂げたということで、ぎりぎり世界史レベルという評価にしました。

[288] 「ど」の字 2007/09/15 23:20

 さて、では再び架空人物の評伝をします。
 遠い昔、遥か彼方の銀河で伝説になった人物です。

 オビ=ワン・ケノービ
 57 BBY〜0BBY

【統率】51
 特に統率力があったとする記述は無い。
 クローン戦争では大軍の指揮も執ったが、命令に絶対服従するクローン兵相手だから可能だったことである。
【武力】48※
 彼の戦闘記録を俯瞰しても、指揮官としては二流以下。彼の伝説は全てがその個人的武勇によるもの。
【知力】64
 思考能力そのものはとても高いのだが、無鉄砲な性格がその知性を阻害した。
【政治】31
 まるで駄目。根回しなどの技能も無く、その政治技能は底が浅い。まだ過大評価かもしれない。
【魅力】98
 当時の銀河で彼の名と顔が知られていないのは、情報が届かない銀河の最果て(例・惑星タトゥイーン)くらいのもの。
 クローン戦争で英名を轟かせて銀河共和国のカリスマとなり、彼らの文明が滅んだ後までその伝説は残った。
【特殊能力】
※個人的武勇……彼が部隊の先頭に立つ時、その部隊の戦闘を判定する武力は+50される。

【略歴】
 オビ=ワン・ケノービは、統一銀河共和国の最末期に活躍したジェダイの中では最も有名な人物の一人である。
 特にジェダイ聖堂を陥落させ銀河共和国の打倒に決定的な役割をしてしまったダース・ヴェイダーこと「選ばれし者」アナキン・スカイウォーカーと、その息子であり統一銀河帝国の打倒に決定的な功績を上げたルーク・スカイウォーカーの両名を育てたことで銀河史に名を刻んでいる。また彼の名は後に再生された銀河共和国最高の名誉であるCongressional Medal of Honor(元老院名誉勲章)の別名…ケノービ・メダリオン…にもなっている。

 多くのジェダイと同様に、オビ=ワン・ケノービは幼いころにコルサントのジェダイ聖堂へ連れてこられ、訓練を開始している。彼は努力家で真面目な訓練生だったが、13歳になるまでパダワンとして受け入れられなかった(これは当時としては極めて異例)。
 結局、ジェダイへの道を絶たれて農場へ送られるところであったが、数奇な運命によってジェダイマスターの中でも異端児として知られるクワイ=ガン・ジンがかつての弟子である墜ちたジェダイ・ザナトスを打ち破ることに助力した。これをきっかけにして、クワイ=ガンはオビ=ワンを訓練することに同意したのである。

 その後12年間、クワイ=ガンとオビ=ワンは無数の冒険を共にしてきた。そして25歳となり、まさに一人前のジェダイ騎士になろうとするとき、師弟はナブー星系の貿易紛争を解決すべく派遣される。そこで2人は通商連合の陰謀と、続いて謎のシス戦士との戦いに巻き込まれた。そして、彼らは銀河辺境のそのまた最果てにある惑星タトゥイーンで、極めて強いフォースを持った幼いポッドレーサーパイロットのアナキン・スカイウォーカーと出会う。惑星ナブーでオビ=ワンとクワイ=ガンは再びシス卿ダース・モールと対決し、クワイ=ガンはモールに殺害されたが、オビ=ワンは相手の驕りに付け込んでモールを斬ることに成功した。
 クワイ=ガンは最期の時に、オビ=ワンに自分が見出したアナキンをパダワンとするよう懇願し、ジェダイ評議会にアナキンの訓練許可を願ったため、その意見を容れられて例外的にマスターでないオビ=ワンがアナキンを弟子として教育することとなった。
 オビ=ワンは正式にアナキンの訓練を開始して10年以上にわたって行動を共にし、両者の関係は師弟のみならず親友でもある強固なものへと変わっていった。

 やがて銀河系と共和国の歴史を大きく揺るがす事件が引き起こされる。かつてのクワイ=ガンの師匠であり、クワイ=ガンの死をきっかけにしてジェダイ騎士団を去ったドゥークー伯爵が、数千の星系を率いて共和国からの分離主義運動を展開したのである。
 その問題を討議する銀河共和国元老院の内部で進行する陰謀を探るうちにジオノーシスにまで追跡の手を伸ばすが、そこはドゥークーら分離主義者の集結地点であった。オビ=ワンは捕らえられ、救出にやってきたアナキンとパドメと共に処刑闘技場へと運ばれる。そこにジェダイの援軍とカミーノのクローン軍が到着、分離主義者のドロイド軍と熾烈な戦いを繰り広げる(この戦いが『クローン戦争』最初の戦いであるとされる)。
 オビ=ワンはアナキンを伴って逃走するドゥークーを追跡するが、かつてのジェダイマスターは圧倒的な力で2人を翻弄する。危機に瀕したジェダイの師弟を救ったのは、ドゥークーを手ずから鍛えたかつての師ヨーダだった。
(この項続く)

[289] 「ど」の字 2007/09/15 23:24

(続き)
 その後、オビ=ワンとアナキンは激化したクローン大戦に身を投じることになる。将軍となったオビ=ワンは、弟子アナキンとコンビを組んで数々の歴史的な戦いを逆転勝利に導き元老院と共和国に英雄的な貢献を果たし、共和国の至るところで伝説を語られるまでになる。アナキンが「恐れを知らない英雄」と称されるように、オビ=ワンはより洗練された戦略と粘り強い交渉術から「交渉者」と呼ばれるようになるのもこの頃のことである。またクローン大戦の間、オビ=ワンはジェダイマスターに昇格し、ジェダイ評議会の席を与えられた。彼はジェダイの最上層部における戦略に貢献できるようになり、この名誉ある地位から、ジェダイ騎士団と元老院、そしてパルパティーン議長との間の確執を目撃することになる。
 戦争末期、共和国首都コルサントを奇襲されて始まる長い会戦でも大活躍し、ついに分離独立運動の旗頭ドゥークー伯爵を斃した(斬ったのは弟子アナキンで、彼はそのとき気絶していた)。続いての任務では分離独立運動の戦略策定者であるグリーヴァス将軍を追い詰めて激闘の末についにブラスターで射殺することに成功したが、その直後にはクローン兵たちの裏切りが待っていた。オビ=ワンには知る由もなかったが、はるか遠くのコルサントではパルパティーン議長、すなわちダース・シディアスが、ついに計画の最終段階に着手していた。
 ほとんどのジェダイ騎士団員がクローン兵の裏切りによって銀河各地で殺されたが、オビ=ワンは辛くも逃れることに成功し、ヨーダと合流することができた。2人のジェダイマスターは生き残ったジェダイ支援と真実を突き止める目的で首都コルサントへと潜入する。しかし、既に壊滅していたジェダイ聖堂で発見された事実は、オビ=ワンの想像をはるかに超えるほど衝撃的なものだった。彼の弟子アナキンがジェダイ騎士団を裏切り、シス卿ダース・ヴェイダーとなって殺戮を繰り広げていたのである。そして、パルパティーン議長こそが、ジェダイの追い求めていたシスの暗黒卿の正体だったのである。アナキンを弟同然に愛していたオビ=ワンは自分がパルパティーン議長を倒すことを主張するが、結局シス卿ダース・ヴェイダーとなったアナキンを止めることになり、さまざまな紆余曲折の末についに師弟は惑星ムスタファーで刃を交えることになる。
 その戦いは、遥か未来、彼らの文明が滅亡した後の世にまで伝説として語り継がれる戦いになった。クローン大戦の2人の英雄が、敵同士として蒼いライトセイバーをぶつけ合う。ダース・ヴェイダーは力量においてすでにオビ=ワンを圧倒していたが、彼には傲慢という決定的な弱点があった。ムスタファーの燃えたぎる溶岩流の上での死闘の末、オビ=ワンはついに有利な立ち位置を得てヴェイダー卿の手足全てを切断したのである。もはや動くこともできなくなったアナキンは、激しい憎しみの言葉を残し、そのまま溶岩の炎に包まれた。オビ=ワンは激しく憔悴し、彼のライトセイバーを拾うとムスタファーを後にしていった。
 その後、オビ=ワンはアナキンが遺した双子の片割れであるルークを惑星タトゥイーンで暮らすアナキンの異父弟オーウェン・ラーズ夫妻に預ける。
 その後、オビ=ワンはベンと名前を変え、タトゥイーンで隠遁生活を行いながら幼いルークを見守り続けていた。
(とはいうものの、オビ=ワンはその後も銀河各地でひそかに生き延びるジェダイを支援するために度々冒険をしているのであるが)
しかし、タトゥイーンの人々は彼を狂気じみた老隠者と罵り、彼を砂漠の外れへと追いやった。ルークの叔父であるオーウェン・ラーズも、ルークをアナキンの二の舞にしたくないと言い張り、彼を甥っ子から遠ざけていたのである。だがその間、彼は瞑想によってかつてのマスター、クワイ=ガン・ジンの意思との接触を行い、フォースの冥界に潜む秘密を学んだのである。オビ=ワンは二十年の歳月を掛けてこの能力を研究し、ついに死んだ後も自らの意識を保つ術を体得したのだった。
(まだ続く)

[290] 「ど」の字 2007/09/15 23:25

(続き)
 やがて、再び運命の日が訪れた。皮肉にもデス・スターの設計図を反乱同盟軍にもたらすために逃走していたレイアを追ってタトゥイーンの軌道にやってきたヴェイダーは、設計図を奪還するため2体のドロイドの捜索を命令する。偶然にもこのドロイドを購入していたラーズ夫妻は帝国軍に殺害され、運命の波はルークを銀河内乱へと巻き込んでいった。オビ=ワンはルークと共にドロイドたちをオルデランに運ぶためタトゥイーンを発ち、彼にアナキンの残したライトセイバーを与えると共にフォースの教えを説く。しかし、オルデランは既にデス・スターによって破壊されており、彼らもデス・スターに収容されてしまう。脱出のためこの宇宙要塞のトラクター・ビームを解除しに行ったオビ=ワンは、彼の存在を察知し待ち受けるヴェイダーと対面した。かつての師弟は再び対決の時を迎えるのだった。しかし、長い隠遁生活で年老いたオビ=ワンはヴェイダーの敵ではなかった。彼はルークにその後の希望を託し、自らかつての弟子の刃に身を曝して肉体を消滅させた(斬られたのではない。ヴェイダーはその後彼の服を突付いて手応えの無いのをいぶかしんでいた)のだった。このときオビ=ワンは死亡したが、彼の魂はいつでもルークの心に助言を与え続けることになる。ヤヴィンの戦いではルークがデス・スターを破壊することに助力し、ホスでは彼にヨーダの下での修行を指示した。ヨーダはルークへ修行を施すのに懐疑的だったが、これを説得したのもオビ=ワンである。
 そしてエンドアの戦いの直前、オビ=ワンはルークにスカイウォーカーの血統の秘密を打ち明ける。彼はヴェイダーとパルパティーン皇帝の死によってのみダークサイドを打ち破ることができると考えていたが、ルークには父がまだ善の心を宿しているという強い信念があった。そして、ルークは自分が彼の愛したパドメの子であるということをきっかけにアナキンをダークサイドの淵から救い出し、彼の邪悪な心を改心させることに成功する。
 皇帝を倒した戦いの後、アナキンは光を取り戻してこの世を去った。その後、帝国の崩壊を祝う反乱軍の祝宴が開かれている最中、フォースと一体となった若き日のアナキンが、オビ=ワンとヨーダと共にルークの前に姿を現すことになる。

【コメント】
 ものすごい長文になってしまいましたが、これでも流れを理解できる程度に相当端折っています。
 とにかくその足跡が物凄く、彼を語ればこの銀河共和国の崩壊と再生まで丸ごと語れると言っても良い位多くの重要場面に顔を出した人です。しかし能力的にはさほどではありません。ジェダイの能力に頼った銀河共和国運営をしていたジェダイ騎士団そのものが当時硬直し腐敗しつつあったためで、その中でも師クワイ=ガンの思想を受け継いでやや騎士団の規範から外れた彼はまだマシだったと言えます。そもそも生まれて間も無く家族から離され、一生肉親の温もりを感じることの無い生涯を送るというジェダイ騎士団の教育方法そのものが気の狂ったものであり、この能力限界は全てのジェダイが等しく持つものでもあります。
 この当時のフォース能力者全てに言えることですが、彼らはフォースによる洞察と予知に相当頼っており、それでは感知できないもの(つまり、一般人にも出来る理論構築による洞察と予測)を軽んずる傾向があります。銀河共和国を長い混迷に落としたのは、自分の能力に溺れたジェダイ騎士団の驕りでありました。
 オビ=ワンは漠然とそれを感じていたきらいはあったようで、ルークを育てられた僅かな期間の教育ではそこに気を配っていたようです。

【総評】
 本質は、最前線でしか真価を発揮できない将軍です。相当に無鉄砲で破天荒な性格のため、武を必要とする以外の場所では実力を発揮できないでしょう。また、統率力がその個人的武勇に比較して乏しいので、通常の軍隊を率いさせるには組織を良く監督できる人物を付ける必要があります。
 知性は高いものがあり、穏やかな人でもあるのですが、それを生かせない人格であるというのは悲しいところです。

[291] 「ど」の字 2007/09/16 01:05

(補追・彼の知力について)
 各所で「交渉人」とまで呼ばれ、力のアナキンに対して知のオビ=ワンという見方が為されていますが、物語を追うにつれ相当割り引いて考えないといけないなと思うようになりました。
 探索の際に、通常のジェダイでは気が付かないようなことに気づいたりする知性の閃きは大したものなのですが、しかし彼はどうも自己の能力を過信して物事を拙速に解決したがる癖があったようで、あちこちで不必要な危険を冒しています。
 彼は弟子アナキンが思慮に欠けた言動をする度に注意を加えて矯正しようとしていますが、そんな彼自身も間違いなくアナキンを歪めています。
 アナキンがもしも他の人物のパダワンになっていたら、と考えずにはいられません。当時のジェダイ騎士団の硬直性を思うと、むしろ悪化していた可能性は無きにしも非ずなのですが……。

[292] 「ど」の字 2007/09/16 14:37

 続いて、はるか遠い銀河で消えない足跡を残した「選ばれし者」の評伝です。
 前回のオビ=ワン・ケノービの評伝が長くなった反省から、今回は書き方を変えてみました。

 アナキン・スカイウォーカー(ダース・ウェイダー)
 42BBY〜4ABY

 以下の数字、斜線の左側はアナキン時代のもの。斜線の右側は全身サイボーグとなったヴェイダー時代のもの。
【統率】48/72
【武力】49※/69※
【知力】55/78
【政治】30/69
【魅力】98/14
【特殊能力】
※個人的武力……彼が最前線に立つ時、その部隊の戦闘を解決する際の武力は+50/+20する(ダース・ヴェイダー時には相当個人的武勇は低下している)。
※政争……ダース・ヴェイダー時に限り、政治闘争の分野では政治が+20される。

【統率チェックポイント】
 アナキン時代には特に見るべきものは無い。一般人に毛が生えた程度。
 ダース・ヴェイダーになってからは、相当勉強したのかクローン兵でない普通の軍隊を統率できる才能を得た。
【武力チェックポイント】
 アナキン時代には戦術指揮能力を特に持っていない。二流以下。彼の伝説は全てが個人的武勇によるもの。
 ダース・ヴェイダーになってからは長足の進歩を遂げ、有能な指揮官になった。ただ詰めの甘さが気になる。
【知力チェックポイント】
 師匠に輪を掛けて無鉄砲な性格なので、師より下と判定。ちょっとジェダイとしては低い。
 これもダース・ヴェイダーになってからは長足の進歩を遂げた。有効活用できていないような気もするが。
【政治チェックポイント】
 アナキン時代には、全くの門外漢。全く政治的な足跡は無い。
 ダース・ヴェイダーになってからは相当な政争能力を身につけ、ライバルを次々葬って皇帝第一の部下の座を保持した。
【魅力チェックポイント】
 アナキン・スカイウォーカーはクローン戦争で銀河に遍く知れ渡る伝説を作り、銀河共和国最大のカリスマになった。彼の名は彼らの文明が滅んだ後も残ることになる。
 ダース・ヴェイダーになってからの彼の人間的魅力は最低。皇帝の苛烈な命令を実行するマシーンとして嫌われ恐れられた。帝国内部でも激しく憎まれており、彼が死ぬと同時に彼の城にある巨大な像は粉々にされたという。
(この項続く)

[293] 「ど」の字 2007/09/16 14:37

(続き)
【コメント】
『予言から生まれた子』と呼称されるアナキン・スカイウォーカーは、フォースの意思そのものによって産み落とされた処女懐胎による子と考えられています(後に皇帝となるパルパティーン議員の実子であるという有力説もあります。フォース能力は遺伝で伝わるのですが、当時彼より強いフォース能力者はジェダイの中には居らず、ただ一人パルパティーンが彼に匹敵するためです)。彼は銀河系の歴史を遍く染める光と闇をもたらし、決して忘れられることのない巨大な功績と汚点を銀河系に残していきました。
 略歴を書き出すと物凄い長さになってしまうので、ここでは彼の人生を簡単に要約します。
 とどのつまり、彼は母親のためにジェダイを志し、妻のためにジェダイを裏切り、息子のためにシスを裏切った人物です。悩み苦しみつつも、彼の人生は「家族への情」という行動規範で統一されており、肉親関係というものを否定するジェダイ騎士団の規範にはそもそも収まらない人物でした。
 彼の不幸は、人生のごく早いうちにシス卿にその素質を見出されてしまったことですが、もしそれが無かったとしても早晩彼はジェダイ騎士団を飛び出していたでしょう。そもそも当時のジェダイ騎士団は銀河共和国ともども腐敗を始めており、彼に手を下されなくても遠からず壊滅していたはずです(例・ジェダイマスターのメイス・ウィンドゥはダークサイドに堕ちかけていました。アナキンに斬られていなかったら、今度はメイス・ウィンドゥとその他ジェダイとの血で血を洗う闘争が展開されていたでしょう)。
 彼自身、オビ=ワンや他の人間にも言っていますが、自分も思わずには居られません。
「別の道、別の終わり方があれば良かったのに」と。

【総評】
 アナキン・スカイウォーカーは、師のオビ=ワン・ケノービ同様に最前線でしか真価を発揮できない将軍です。
 ジェダイ騎士団の教育を受けるのが例外的に遅く、当時のジェダイ特有の欠点からは相当自由なのですが、クワイ=ガン由来の無鉄砲さは彼にも色濃く受け継がれ、結果として師に輪を掛けた無鉄砲な性格になってしまいました。
 最前線に置けば、どんな過酷な劣勢をも跳ね返して勝利を掴んでくれる奇跡の将軍としての活躍が見込めますが、その伝説的なカリスマに比べると指揮能力は二流以下です。彼を使いこなすには、統率と武力に優れた上司を置く必要があります(オビ=ワンでは役不足です)。政治や行政の教育を受けた形跡は無く、そちらの方面では全くの門外漢です。

 サイボーグ化したダース・ヴェイダーは、師ダース・シディアスに根気良く教育されたのか、全くの別人格になりました。
 魅力と武力は大きく低下しているもののその他の能力が大幅に向上しており、巨大な帝国を運営するに足る人物になっています。師と相討ちに果てることが無ければ、帝国を受け継いでいたのは間違いなく彼だったでしょう(魅力に欠けますので、その統治は恐怖政治にならざるを得なかったでしょうが)。
 しかし、妻パドメを失って以後の彼の人生は彼自身にとって空しいものであったに違いなく、熱意無い統治者となったであろう彼が長い間帝国を維持できたとは思えません。
 悲しいことですが、彼の死はまさに時宜を得た死だったと考えます。

[294] マフムード 2007/09/20 18:15

セレウコス1世(紀元前358〜紀元前281)
セレウコス朝シリア王国 初代国王(在位:紀元前312〜紀元前281)
活動地域:マケドニア、ギリシア、オリエント
異称:ニカトール(勝利王)

【統率】85
ペルディッカスの配下に過ぎない立場から出発してアジアの支配者にまで上りつめる。かつてのアレクサンドロスと同じく中央アジア・インドへの苛酷な遠征を敢行し、アケメネス朝の後継国家を建設して西アジアにいちおうの安定をもたらした。セレウコス朝が東方領を維持した期間は長くはないが、それでもこのくらいの評価には値する。考えようによっては、彼の支配者としての能力はアレクサンドロスよりはるかに優れていたともいえる。

【武力】79
プトレマイオス・リュシマコスとはほぼ互角。アンティゴノスとチャンドラグプタには及ばない。とはいえ決して凡将ではなく、バビロン回復後は多くの競争者たちからバビロニアを守り抜き、ソグディアナとバクトリアの独立勢力を再征服し、イプソスではアンティゴノス軍の一瞬の隙をついて急襲し、その後リュシマコスをも破っている。

【知力】84
ペルディッカスの暗殺にはじまり、エジプトへの亡命と巻き返しや、チャンドラグプタとの講和など要所要所で優れた判断力を見せている。とくにチャンドラグプタとの講和では、統治困難な東方領を切り捨てる代わりに最強兵器の戦象を大量に譲り受けるという取引を結び、これを利用してイプソスでアンティゴノスに大勝するという大成功を収めた。
グランドデザインを描く能力も高く、アレクサンドロスの構想を受け継ぎつつアケメネス朝の支配方式を踏まえて改良を加え、アジアに新しい秩序を確立した。

【政治】88
大王死去の時点では決して有力部将とはいえなかったが、長い戦乱のなかで生き残り、力を増して、ついに最大の領土を獲得した。またソグディアナ人の王妃アパメーと終生連れ添ったことに象徴されるように、アジアの人々の支持を得ることにつとめ、アケメネス朝消滅後の西アジアに安定をもたらした。さらにアンティオキアをはじめ多くの都市を建設し、国家統治に意を注いだ。

【魅力】71
逸話などはあまり多くなく、一時亡命したプトレマイオスにはやや軽侮されていたらしい。しかし王妃アパメーの存在もあってアジア系住民の支持は厚かった。また王子アンティオコスと寵妃ストラトニケの伝説などから、後世には寛大で度量の広い人物としてのイメージが伝わっていたと考えられる。

略伝:セレウコス1世 ——もっとも強き者——

 セレウコス朝の始祖。アレクサンドロス大王の部将として出発し、後継者戦争を勝ち抜いて最大の領土を手にする。

 アレクサンドロスの在世中はその遠征軍に従ってインドにまで赴くが、さほど有力な部将ではなかった。紀元前324年にスーサで行われた集団結婚式では、かつてソグディアナでアレクサンドロスに頑強に抵抗したスピタメネスの娘であるアパメーを娶る。翌年バビロンで「もっとも強き者が我が後を継げ」という、はなはだ無責任な遺言を残して大王が急逝する。

 セレウコスははじめ帝国摂政を称したペルディッカスに従うが、紀元前321年にエジプト遠征失敗の混乱のなかでペルディッカスを暗殺。フリュギア総督アンティゴノスが招集したトリパラディソスの会議でバビロニア総督の地位を手にする。
 その後、旧帝国領を二分したアンティゴノスとエウメネスの争いのなかで次第に力を養うが、紀元前316年のエウメネス戦死後は領土配分をめぐってアンティゴノスと決裂、一時エジプト総督プトレマイオスのもとに身を寄せる。紀元前312年の春にプトレマイオスがガザでアンティゴノスを破ると、その力を背景にバビロンを回復し、ニカノルを破って事実上の独立を達成する。

 その後、アンティゴノスとプトレマイオスの対立によって戦況が膠着した隙に東部国境に遠征し、イラン東部と中央アジアを再征服。インダス流域にまで進軍するが、ここで北部インドを支配するマウリヤ朝のチャンドラグプタ王と遭遇し、和平条約を結んで領土東境を確定する。

 西方帰還後はリュシマコスと結び、紀元前301年にイプソスでアンティゴノスを撃破。シリア北部を支配下とし、アジアにおける覇権を確立する。シリアに新たに建設した都市アンティオキアを首都として国制を整え、紀元前281年にはリュシマコスを破って故郷マケドニアを目指すが、ヘレスポントス海峡に面するリュシマキアの陣営でエジプト王プトレマイオスの子、ケラウノスに暗殺された。

[295] 「ど」の字 2007/09/21 16:55

>>294
 大王の後継者の一人ですね。(総合力で同僚の将軍プトレマイオスとどちらが上でしょうか?)
 こうやって業績を査定すると、相当に優れた人物だったんですね。
 というか、大王が当時の世界を「かき混ぜて二三度振った」後に秩序をもたらしたのですから、少なくてもこんなレベルなのでしょうけど。
 大王の死後を、歴史物語的に書いても結構面白いものが出来るかもしれませんね。

[296] 「ど」の字 2007/09/21 16:58

「ど」の字です。
 今回は、我が町の有名人を取り上げてみました。

 大村益次郎
 文政7年5月3日(1824年5月30日)〜明治2年11月5日(1869年12月7日)

【統率】65※
 部下のコントロール能力はそれなり。組織構築能力の図抜けた高さは特殊能力で表現。
【武力】81
 圧倒的兵力の幕府軍を打破するなど、十分国家級の能力の持ち主。本来なら日本史で絶対学ぶ必要がある人物。
 後世への影響(特に日露戦争)を含有するなら、世界史教科書にも脚注で名が出ておかしくない。
【知力】84
 元は医学で世に出たこと、その知力を他分野に広く応用した応用力の高さでこのくらいをつけた。
 難しい論理を平易に解説する能力は特筆される。
【政治】39
 政治力学利用術は拙劣。自己保身能力も無い。そもそも政治で活きる人物ではない。
【魅力】35
 外見はあんまりにもみずぼらしかったらしい。また人を惹きつける内面の魅力も乏しかった。風采颯爽ならず、と良く言われる。
 後世に良く書かれているのも加えてこの数字。靖国神社前の銅像は格好良過ぎである。

【特殊能力】
※制度構築……組織構築・再編の際にのみ、統率を+20して判定。(過小評価の可能性極めて大。+30あたりが適当?)

(続く)

[297] 「ど」の字 2007/09/21 16:58

(続き)
【略歴】
 靖国神社の境内前に大きな像があることで知られる、医者から身を起こした明治の兵制改革者。
 なお大村益次郎という名は長州藩の命により変えられたもの。元は村田良庵。江戸では蔵六と改名した頃もある。

 現在の山口県山口市鋳銭司に村医の長男として生まれ、舶来医学とその前提となる語学を学んだ。
 彼が医学の道から離れたのは、嘉永6年(1853年)伊予国宇和島藩の要請で出仕した頃から。この頃から西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、54年、55年には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行い洋式軍艦の雛形も製造している。安政3年(1856年)4月に江戸に出て「鳩居堂」を開塾。蘭学・兵学・医学を教える。また同年に宇和島藩御雇の身分のまま同時に幕臣として教授する身となる。
 万延元年(1860年)故郷の萩藩(長州藩)の要請により長州藩士となって以降は完全に軍学者として扱われ、教授の傍ら長州藩の兵制改革に着手。また将としても幕長戦争(第二次長州征伐)において石州口方面の指揮を担当。幕府側を悉く撃破し浜田城を陥落させる功績を挙げた。その後の明治新政府でも重用され、上野において彰義隊を破ったり戊辰戦争では兵站参謀として働いたりなど色々な功績がある。
 戊辰戦争での功績により木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び新政府の最重要幹部となる。
 日本の国防をどのように編成するかという点においては大久保利通と意見を違え(大久保利通は列強藩の藩兵で国防を担う論を主張し、大村益次郎は農兵論(一般徴兵論)を考えていた)一時は野に下る。しかし彼の実力を惜しんだ木戸孝允と大久保利通によって慰留されて兵部省に出仕することを求められ、その結果として大村は兵部大輔に就任して日本の軍制構築を担うこととなった。
 その後の彼は猛スピードで日本軍のインフラを整えていき、主に建軍の中核を東京から関西へと移転させている。これについては、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由のほかに、自身の軍制改革に対する大久保派の妨害から脱するという政治的思惑によるものも大きかった。そのほか、大村が西南雄藩(特に薩摩藩)の動向を警戒し、その備えとして大阪を重視したとの証言もある。
 そんな矢先、明治2年9月4日、大村は京都三条木屋町の旅館で刺客に襲われ重傷を負った。兇徒が所持していた「斬奸状」は、大村襲撃の理由が彼の急進開化主義に対する強い反感にあったことを表している。辛くも一命をとりとめた大村は山口藩邸に移送され数日間の治療を受けた後、大坂の病院に入院し手術を受ける。しかしその後の容態思わしくなく11月5日死去。享年46歳。
 大村の「農兵論」は彼の後継者たちに引き継がれ、やがて明治6年(1873年)に徴兵令として結実することとなる。

 なお、彼は維新戦争後に西からの反乱(西南戦争)を予言したことでも有名である。

【総評】
 極めて優れた組織構築者です。一から組織を作るという才能で彼を超える人物はなかなか居ません。後に日本が日露戦争を戦う上で、彼の作った組織の有効性は確かめられました。部隊を率いる戦術指揮官としても秀逸で戦略策定者としても優秀です。教育者としてもずば抜けています。広範囲な知識を有し視野が広いので、国家の全体的な方針を策定するという任にも応えられるでしょう。
 しかし政治と魅力の能力が低いのは致命的です。政治の能力が低いので、既得権益保持者の排除と利益の再配分が出来なくて苦しむでしょう。魅力が低いので、他人の実力を上手く出せませんし人を集めることも出来ません。彼と他人の間に立って、方針を現世に実現する有力な後ろ盾が絶対に必要です。
 絶対に国家の指導者にはなれない人物です。本人もそのあたりは分かっていたみたいですが。

[298] ハーン 2007/09/21 21:52

 ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム

 宇宙暦268年-帝国暦42年

統率……100 銀河連邦を潰して銀河帝国を成立させました。劣悪遺伝子排除法を施行したり、共和主義者を大量虐殺したり、貴族階級を遺伝子を重視して創設したりするなど無茶なことを行いましたが、それも高い統率力あってのことでしょう。彼の作り上げた社会システムは強固で、死後に起きた反乱も割合あっさり鎮圧されています。

武力……85 各惑星への開拓民を襲う宇宙海賊を苛烈とまで言われる豪腕でもって殲滅しました。その宇宙海賊の規模はよく分かりませんが、当時の銀河連邦で最も優れた軍人であることだけは事実だと思われるのでこのくらいに。

知力……100 行き詰っていた人類社会に一定の方向を指し示しました。個人的にはこんな体制が五百年も続いているのが信じられないのですが、彼のビジョンが優れていたことだけは間違いないでしょう。

政治……100 数々の選挙で勝利をおさめ、大統領に就任。大統領と首相を兼任して終身執政官を名乗るわ、しまいには銀河帝国皇帝にまでなってしまう。時代に逆行しまくっているが、それでも大多数の支持を得ての行為なんですから彼が絶大な支持を集めることに成功しています。彼の政策で具体的なものは治安や悪弊の改善と劣悪遺伝子排除法や貴族制度創設くらいのものなのですが、こんな素敵な法を実施できた時点で凄まじい政治力の持ち主です。少なくとも即位してからすぐに病死したラインハルトよりは上でしょう。

魅力……99 後世では新帝国同盟問わず、基本的に全否定の対象でしたが、まともな選挙で絶大な支持を得て独裁権力を得ているのですから、低いということはないかと。単純な比較は難しいですが、どちらかといえば非難の声がルドルフよりはるかに少なそうなラインハルトのほうが上でしょう。

列伝 黄金樹

 銀河連邦の軍人の家庭に生まれる。ドイツ系の貴族みたいな名前だが、どうもドイツでは貴族の称号が乱発されていたようなので、大した家系の出身ではないのだろう。
 しかし、血筋と能力は別であることを証明するかのように士官学校を主席で卒業し、宇宙海賊退治で名をあげて少将にまで昇進する。あまりにも過酷な手段を行使したため非難の声はあったが、賞賛する声はそれを上回っていた。
 少将を最後に退役すると政界に入り、自分の人気を駆使して若い政治家たちを結集させて幾度もの選挙に勝ち抜き、独裁権力を確立する。憲法で兼任が禁じられていなかったことを利用して大統領と首相を兼任して最高権力を手に入れ、終身執政官を名乗るなど専制的な色合いを強めていく。
 そして宇宙暦を廃止し、帝国暦元年に国民の圧倒的な支持で神聖不可侵の銀河帝国初代皇帝に即位。ルドルフ大帝とて銀河系に君臨。ゴールデンバウム朝銀河帝国が興される。
 劣悪遺伝子排除法という素敵な法律を制定して大量虐殺を敢行。遺伝子が人間の全てを決めるという本当に宇宙時代の人間なのか疑いたくなる発想の法だが、作中の描写を見る限りほぼ厳密に実行されたようで、全人口の1パーセントが殺されてしまう。
 他にも議会を永久解散させたり、共和主義者を弾圧するなど悪の限りを尽くすが、今更どうにもならないので、虐殺されるしかなかった。功績のある部下にわざわざゲルマン風の名と貴族の称号を与えて、その奉仕に報いるなど明らかにおかしな政策ですが、時代の流れを一気に押し戻してしまうことから彼が凄まじいまでのエネルギーの持ち主であったことだけは疑いない。
 ほぼ自分の思うがままに銀河を変えていったルドルフですが、後継者の男児に恵まれず、やむなく長女カタリナの息子ジギムントが帝位を受け継ぐことになる。余談だが、どうも妾に生まれた息子は白痴だったらしく、秘かに消されたようである。
 ルドルフの死後、これを好機と見た共和主義者はクーデターを敢行したが、ルドルフの遺臣たちはそれを鎮圧。最後の抵抗勢力を排除したゴールデンバウム朝はその長い歴史をスタートさせる。

 作中で実際に登場しない人物の中では比較的多くの情報が与えられていますが、ほとんど憶測の粋を出ません。はっきり言って情報が少なすぎます。ですが、仮にも人類社会全体の統治者となり、さらに五百年も続く政治体制の創始者に低いパラメーターを与えるわけにはいかないので、こういうことになりました。
 私はルドルフのパラメーターはラインハルトとヤンが組んでようやく対抗できるくらいの怪物であると考えています。彼らがあくまで時代の流れに乗ったり、翻弄されて足掻いているのに対して、ルドルフはその圧倒的な主体性で時代の流れを逆行させ、世界を自分の思うがままに変化させているからです。
 いずれにしても、ルドルフは架空世界でも指折りの強力な指導者でしょう。

[299] ハーン 2007/09/21 22:07

>>288-293
 スターウォーズの有名人を全て網羅しそうな勢いですね。まあ、新世代の連中は全く死にそうにないので、評価ははるか先のことになりそうですが。
 大抵のジェダイ騎士は武力ばかり高そうですが、ヨーダはどんなものでしょ?

>>294
 さすがに最後の勝利者だけあってとても優れた人物ですね。ディアドコイ最強はアンティゴノスですが総合力で彼を上回っているようなイメージです。

>>296-297
 なんとなく融通の利かない人物というイメージです。大久保とかがいなければ、偉く慣れなったでしょうね。
 彼は早死にしなくても元老になれなかったでしょうね。

[300] ジャイアン 2007/09/21 22:32

【統率】78
 ガキ大将。みんなをまとめて遊び始める。ジャイアンズという、自分のあだなが入っている野球チームも存在する。
【武力】38
 そこらの子供たちの中では強いかもしれないが、大人になったのびたに簡単に負けてしまうので、この数値で。
【知力】3
 のびたに劣らないテストの点数・・・
 しかし、のびたよりはできるかも??
【政治】2
 コンサートを開いてみんなの迷惑。全くだめ。
【魅力】42
 劇場版では、魅力のある行動をとる。しかし、脅えてしまうこともしばしば。
【特殊能力】ほげ〜  武力+15

[301] 地理公 2007/09/21 22:52

今までに評価された人物
200でやるの忘れてたので101〜300まで

>>103 ユスティニアヌス1世
>>109 ホモ・サピエンス
>>112 トニュクク
>>114 白州次郎
>>115-116 ベーラ3世
>>120 グリフィス
>>122-123 エンドレ2世
>>124-125 フランシスコ・ソラノ・ロペス
>>127 高仙芝
>>128 アブー・ムスリム
>>131 シュペーア
>>133 ヘファイスティオン
>>135-137 北条氏康
>>142 衛宮士郎
>>144 ミハイル・ロア・バルダムヨォン
>>145 テオドラ
>>148 司馬懿
>>149 司馬師
>>150 司馬昭

[302] 地理公 2007/09/21 22:52

>>151 司馬炎
>>153 源為朝
>>155 織田秀信
>>158 豊臣秀長
>>161>>163 マックス・ヴェーバー
>>162 パチャクテク
>>165-166 ネルソン
>>171 楠木正成
>>173-174 マンシュタイン
>>177 関羽
>>179-180 侯景
>>184-185 関羽
>>192 シルウェステル2世
>>193 ジョー・ストラマー
>>198 関羽
>>199 関羽
>>200 呂布

[303] 地理公 2007/09/21 22:52

>>202 楊業
>>203 苻堅
>>204 王猛
>>205 郭海皇
>>211 項羽
>>213 島津義弘
>>214 バキ
>>215 勇次郎
>>217 アウレリアヌス
>>219 徳川吉宗
>>223 陳平
>>227 ソンツェンガンポ
>>231 ベルティエ
>>234-235 村国男依
>>237 柴栄
>>240 陳慶之
>>241 楊大眼
>>244 オシム
>>245-246 徳川秀忠
>>248-250 周徳威

[304] 地理公 2007/09/21 22:53

>>251-252 マールバラ公
>>259 しのけん
>>261 ランヌ
>>262-264 パルパティーン
>>266-268 ラースロー1世
>>269-270 レーニン
>>278-280 冥王サウロン
>>281-282 坂上田村麻呂
>>285 ウルグ・ベク
>>288-291 オビワン・ケノービ
>>292-293 アナキン・スカイウォーカー
>>294 セレウコス1世
>>296-297 大村益次郎
>>298 ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム
>>300 ジャイアン

[305] ルー・ルア 2007/09/22 01:51

>>300
それはあまりにも過小評価でしょう。

剛田武(登場作品:ドラえもん)

統率:64
(ガキ大将として振る舞っているが、心から従っている子供は居ない。 暴力と恐喝により従えているだけ。
それ故、自分より強い男が現れたら、しばしばガキ大将を乗って変わられている。)

武力:70
(身体能力は高く、また柔道や空手を習っていて、それなりの腕である。
とはいえ、中学生相手には敵わない所からも、あくまでも小学生レベルでは優秀というレベルか。
大人になってからの戦闘描写は殆ど無いと思われる。)

知力:31
(のび太に将棋で一度も勝てなかったり、磁石のSとMがくっつく事を長年知らなかったなど、教養はゴミレベルだろう。
しかし、意外と悪知恵の持ち主で、「表の模様が裏に、裏の模様が表にある珍しい50円」と言ってのび太を騙した事もある。(まあ、これは相手がのび太だから騙せたと言えるかもしれないが)
とはいえ、教養面が足を引っ張っているので、これくらいか。)

政治:53(+30)
(前述したように、ずる賢い面もあり、道具の使い方も、スネ夫と同じくらい上手い。
毎回のようにのび太をいじめているが、殆ど親や教師にバレたことが無いことからも、彼の狡猾さが分かるだろう。

大人になると、独立して巨大なスーパーマーケットの社長となっている。。
かなりの額の財産を有していた描写もあり、非常に経済感覚に優れた人間になったのだろう。)

魅力:50
(すぐに暴力を振るう自己中心的な人間と取るか、友情に厚く、仲間のために命を賭けようとする任侠的な人間と取るかで評価が分かれる。
とりあえず、間を取って平均ということで…)

[特殊能力]
【おれはジャイアンさまだ】
破壊的な歌唱法により、周囲を混乱させる。
下手をすれば病院送りにされる場合もある。

【ジャイアニズム】
What's yours is mine, what's mine is my own.
極めて自己中心的な思想。

[306] 「ど」の字 2007/09/22 16:15

>>298
 自分も、彼は怪物だと考えています。
 ただ、自分なら老境時の愚行を考慮して、特殊項目に劣化を織り込みます。
 また、そのやり方が過激に過ぎ、人類の発展を大いに阻害し人口を減少させたので数字は相当落とすと思います。

>>299
 大抵のジェダイ騎士は、実は魅力と知力と個人的武勇に並外れた存在です。しかし彼らの能力は構造的欠陥(ヨーダの項で必ず取り上げます)により年々減少の一途を辿りました。
 ヨーダとルークという銀河共和国の指導者については、必ず評価をせねばならないと考えています。
 銀河共和国の中にあって、時代に影響を与えたのはこの5人が最大だと思っています(反乱同盟軍生みの親であるパドメを含めるべきかどうかは迷っていますが)。

 さて、今後の予定です。
 まずはヨーダとルークを書くことにしています。そして政権を守ろうとして失敗した石田三成と新田義貞の両将を取り上げ、次いで日本に最後の大改装を加えたダグラス・マッカーサーと現代日本の政治家たちを取り上げる予定です。その後はイベリア半島でトラスタマラ朝を創始したエンリケ・デ・トラスタマラを評価します(『アルカサル—王城—』の完結記念です)。

 で。ここを見ている人たちにお聞きしたいのですが。
 架空の物語である『妖精国の騎士』(中山星香著のプリンセスコミックの傑作漫画。これも20年連載の末に最近完結しました)に出ている指導者を取り上げて、どれほどの人がついて来てくれますでしょうか?
 もし見てみたいと思われましたら、一声掛けてください。
 自分ではやりたいと長い間思っていたのですが、読み手に話が分からない人物を評価してもと思って自制していますので。

[307] ハーン 2007/09/23 05:12

>>305
 スネ夫はどんなものでしょ? 政治は一応、会社の社長として上手くやっていそうなのでジャイアンより高そうですが、それともあそこからスーパーマーケットにこぎつけた彼のほうが高いのでしょうか?

>>306
 そこまで予定を立てているとは……偶然ですが、今からその予定の人物と関係する人を投稿します。
 『妖精国の騎士』はほとんど初めて聞くタイトルです。少なくとも私には分かりません。

[308] ハーン 2007/09/23 05:14

 足利尊氏

  嘉元3年(1305年)〜正平13年/延文3年4月30日(1358年6月7日)

統率……35 それなりに優れた指導力の持ち主でしたが、全国政権を運用するような器の持ち主ではありません。弟直義、腹心の師直の対立が原因で幕府を分裂させ、内乱まで引き起こしてしまいました。さらに息子直冬にも九州に築いた勢力を切り崩されかかりました。それを何とか落ち着かせると、全国で南朝系の武士を叩き潰そうと全力を尽くしましたが、それは統率、知力、政治の高い孫の義満の時代になってようやく果たされました。組織の構築者としての手腕も疑問で、領土がなければ、兵力もない不思議な支配者・室町将軍が誕生してしまいました。

武力……73 その軍事能力は間違いなく楠木正成や新田義貞に劣り、弟の直義や息子の直冬と比較してもそれほど大きな差があるようには思えません。それでも彼がこの時代で最も経験を積み、派手さに欠けるとはいえ多くの勝利を積み重ねている指揮官である事実を鑑みて、このくらいは与えたいと思います。

知力……33 恐らく、日本史における全国政権創設者で最も低い知力の持ち主です。倒幕戦では楠木正成や護良親王が事態を好転させてから参戦したので、彼自身の戦略眼は試されませんでした。まあ、勝ち馬がどちらくらいは分かったでしょうが。建武政権では幕府を開こうと考えるようになり、様々な布石を打ちましたが本気になった新政権に九州にまで追いやられており、いきなり失敗しています。また妙に気の弱いところがあって朝敵と見なされると出家したり、合戦で敗北すると腹を切ると言い出したりもした。九州での再起から幕府を開くまではミスはなく、彼の最も輝かしい時期なのですが、観応の擾乱辺りから雲行きが怪しくなります。直義に負けて和睦を余儀なくされると、一時の急を凌ぐために南朝に降服して、直義を討伐に向かう。これによって北朝の天皇が拘束され、南朝は息を吹き返し、直冬に京都を追い出されたり追い出したりしているうちに、戦争が泥沼化してしまいました。彼の判断の拙さが南北朝時代が続いた大きな要因です。よくもまあ、これだけのミスを重ねて幕府を残せたものです。

政治……84 恐らく睨まれていただろう建武政権下でも巧みに影響力を浸透させ、後醍醐天皇の恐れていた鎌倉幕府再建の一歩前にまでこぎつけています。遠い西国で追い詰められても、彼が魅力を活かして宣伝すれば大した基盤のない九州でも大軍が集まりますし、鎌倉幕府再建のために打っていた布石のおかげか上皇から院宣まで受け取っています。気前よく領土をあげ、守護の権限を拡大したことから広い支持を得ることが出来ました。まあ、やりすぎて後の将軍が困ることになりますが。謀略にも長けており、直義に負けると南朝に降服して直義の外堀を埋め、しまいには直義を暗殺してしまいました。これほど何回負けても復活してくる人物というのも珍しいものです。

魅力……85 倒幕戦で情勢が有利になってから参戦したのに、それなりの地位を得られらのは彼の高い声望と大きな勢力のためです。領土を広く分配したおかげで、人気が高く夢窓疎石もその徳を称えています。情け深い性格で、後醍醐天皇が崩御すると敵対していたにも関わらず、わざわざ天竜寺船を派遣しています。まさにこの時代の武士最大のカリスマ的存在であり、この時代の日本に魅力で彼以上の数値を出せるのは後醍醐天皇しか存在しません。ただ、後世では後醍醐天皇と対立したため否定的に扱われることがありました。

逆賊:死後に魅力が60マイナスされて25になる。
復活:全滅しても何処かに逃げ延びて、軍勢を整えて戻ってくる。

[309] ハーン 2007/09/23 05:14

列伝 最も弱い幕府創設者
 河内源氏の名門足利氏に生まれ嫡男となる。始めは、執権北条高時の諱を賜り「高氏」と名乗っていた。その割には北条氏との関係は必ずしもしっくりいかなかったようである。
 後醍醐天皇の二度目の倒幕計画鎮圧に貢献したが、楠木正成らが事態を好転させると、北条氏の命令で反乱軍鎮圧に向かっていたというのに、天皇方について六波羅探題を陥落させる。
 建武政権下では実権のある役職は与えられなかったが、影響力は強く後醍醐天皇はわざわざ自分の名である「尊」を与え、「尊氏」と名乗るようにさせた。護良親王との政争にも勝利を収めています。関東で北条氏の残党が蜂起すると無断で鎮圧に出陣。勝利を収めて鎌倉で論功行賞を行う。
 これに危機感を抱いた後醍醐天皇は正成や新田義貞に討伐を命じ、尊氏は九州西国まで逃亡を余儀なくされる。だが、尊氏は何とかして九州に勢力を築き、京にも味方を作って畿内に舞い戻り、正成や義貞を破って後醍醐天皇と講和し、皇位を譲らせる。これに不満だった後醍醐天皇は譲った三種の神器は偽物として、吉野に南朝を開いて徹底抗戦の構えを見せる。
 それでも基本的に北朝が優勢であることには変わらず、室町幕府を開いて征夷大将軍となる。だが、基本的に優勢なのに油断したのか弟直義と反直義の武士が対立し、観応の擾乱にまで至る大騒動となる。
 観応の擾乱で敗れた尊氏は腹心の高師直を殺され、しかも直義の力が強まったことに脅威を感じ、直義を倒すために南朝に降服して直義打倒の大義名分を得ると、今度は連戦連勝して鎌倉にて謀殺する(諸説あり)。
 京に戻ると今度は怒り心頭の直義の養子にして、自分の息子の直冬と対決しているうちに南朝も多少は事態を好転させ、一応の命脈を保つことに成功した。どうも彼は事態を悪化させることが得意なようである。
 九州に逃亡した直冬に止めをさそうとしていたが、その前に逝く。死因は背中の出来物のためであるという。

 武力、政治、魅力の高いカリスマ的指導者です。魅力的で政治力に長け、戦いもそれなりに強いので、広範な支持を期待出来ます。ただ、統率と知力が低いので、乱世を平定することは困難です。有能な後継者が何とかしてくれることを祈りましょう。

 日本史の全国政権の創始者のなかで最も好きになれそうな人物ですが、彼の統治する国家で生活したいとは思えない不思議な人物です。
 そんな彼がまがりにも幕府を残して逝けたのは、この時にはもう彼の優位が覆しようのないほど強固であったことと、南朝方も負けず劣らず変なことを仕出かしているのが原因でしょう。いわばなかなか決着のつかないヘボ将棋といったところでしょうか(間違っても千日手ではない)。

[310] 「ど」の字 2007/09/23 11:24

>>309-310
 お疲れ様です。
 南北朝の騒乱がヘボ将棋である点には、大いに同感です。
 ただ、言うなら中で言及された新田義貞の武力評価が高すぎです。彼は鎌倉攻めでの功績の他、たいした勝利を挙げていません。足利尊氏の武力を73とつけるなら、湊川などで頓珍漢なことをやっている新田義貞の武力は60以下だと思われます。

 こうやって見ると、足利尊氏は長く国を保てる指導者ではないですね。国家輔弼の一翼というのが最適でしょうか。

[311] マフムード 2007/09/23 16:17

エンヴェル・パシャ(1881〜1922)
オスマン帝国の軍人、政治家、青年トルコ革命指導者、バスマチ指導者
活動地域:西アジア、東欧、中央アジア

【統率】61
青年トルコ革命の指導者の一人であり、第一次世界大戦期にオスマン帝国最大の実力者の一人となる。しかしそれは彼の多分に過大な名声と時の勢いに乗ったもので、彼自身にさほど優れた組織運営の才能があったとは思えない。せいぜい「まあまあ」レベルに過ぎない。
それゆえ亡命によって名声が失墜するや、あっさりムスタファ・ケマルに取って代わられ、ソ連の野望に利用されたすえに中央アジアの辺境で犬死に等しい死を遂げるしかなかった。

【武力】58
青年トルコ革命やリビア戦争において小規模部隊を率いた戦闘で活躍しているが、大軍による本格戦争の指揮はむしろ拙劣。第二次バルカン戦争でのエディルネ回復を除いて大した戦績はなく、第一次大戦の東部戦線では知力の不足もあって見事に愚将っぷりをさらしている。

【知力】19
青年トルコ革命に参加して英雄としてもてはやされ、内親王を娶るなど高いカリスマ性を背景に出世を重ねた。しかし第一次大戦以降は判断力と先見性の乏しさを露呈し、打つ手打つ手がことごとく裏目に出る。汎テュルク主義を唱えて帝国復活を図る戦略にいたっては、多くの歴史家に「政治というより一種のロマンチシズムに過ぎない」と酷評されている。

【政治】31
三頭政治の担い手の一人として一時帝国の実権を握ったとはいえ、結局のところ彼は軍人であり政治は不得手だった。全盛時代には高い魅力が能力不足を十分に補っていたが、落ち目になってからは知力不足もあいまってソ連を初めとする諸勢力に利用されるだけ利用され、帝国復興にもバスマチの組織化にも失敗して死んでいった。

【魅力】79
高い求心力こそが彼の最大の取り得だった。革命の英雄、エディルネ回復の功労者として、秀麗な容貌もあって一時は国内外で絶大な人気を博した。失脚・亡命後も依然ある程度の虚名は維持しており、それがソ連の中央アジア経略に利用され、壮烈な最期は伝説となった。とはいえその魅力は知力や政治力の不足を補うに足るものではなく、本国でもムスタファ・ケマルの登場とともに忘れ去られる運命にあった。

略伝:エンヴェル・パシャ ——オスマン帝国最後のヒーロー——

 オスマン帝国末期に下級官吏の子として生まれ、士官学校を卒業して軍人となる。1906年に若手改革派将校たちによる秘密結社「統一と進歩委員会」に加入し、1908年に憲法復活を求めてサロニカで挙兵。これが青年トルコ革命の発端となった。12月には憲法の復活がなったが、エンヴェルは要職から遠ざけられ、ベルリン駐在武官とされた。この時期彼がドイツに赴任して軍事学を学び、人脈を築いたことは、後の世界大戦で彼がドイツ側への参戦を強く主張する伏線となる。

 その後エンヴェルは1909年の反動派によるクーデターの鎮圧、1910年のリビア戦争での活躍で頭角をあらわし、1913年には第一次バルカン戦争の敗北に反発して盟友のタラート、ジェマルらとともに大宰相府を襲撃。軍事面での実権を握り、第二次バルカン戦争でエディルネを回復した功績によって帝国軍の最高司令官となる。

 第一次世界大戦勃発時には、タラート、ジェマル、エンヴェルの三人が帝国の実質的支配権を握る三頭政治の状況にあった。新ドイツ派のエンヴェルは一部の反対を無視してドイツ側に立った参戦を強行し、テュルク系民族の大統一を目指して東部アナトリアでロシア軍と激戦を繰り広げる。しかしこのサルカムシュ作戦は無惨な失敗に帰し、エンヴェルの名声は失墜する。

 1918年10月、オスマン帝国は世界大戦の敗北を認めて降伏する。その直後、国政の責任者であるエンヴェルら三人の実力者は密かに国外に脱出し、ドイツ・ロシア・トルコの秘密同盟やソ連の力を背景にしたテュルク系民族糾合による帝国復興など数々の夢想的な計画を抱くが、いずれも実現はならず、新しい英雄ムスタファ・パシャの登場によってエンヴェルはトルコにとっても完全に過去の人物と化した。
 エンヴェルはアナトリア帰還を諦めて中央アジアに新たな活躍の舞台を求めた。ソ連は赤軍に対する中央アジア諸民族の抵抗運動(バスマチ)を切り崩すためにエンヴェルの名声を利用しようとして彼をトルキスタンに送り込むが、エンヴェルは汎テュルク主義の理想をなおも夢みて出奔、かえってバスマチの陣営に身を投じる。一部のバスマチの支持を得て短期間タジキスタン一帯に勢力を広げるものの、やがて赤軍の反攻によって東に追い込まれていき、1922年8月にフェルガナ東部で壮烈な戦死を遂げた。

カリスマ的な魅力を除いて大した取り得のない人物です。その魅力にしても本当にずば抜けたレベルとはいえません。
この程度の人物が一時的とはいえ、あれだけの勢力を握ったこと自体がオスマン帝国の衰弱ぶりを示しているように思えます。

[312] マフムード 2007/09/23 16:38

>>295>>299
できればプトレマイオス・アンティゴノスと三人セットでやりたかった人物ですが資料がないのでやめました。それにセレウコスがいちばん好きなので(笑)

アンティゴノスは間違いなく武力が三人のなかで最強だと思います。プトレマイオスは要領のいい政治家というイメージで、知力と政治が高めになると思います。「城塞破壊者」の異名を持つだけに軍人としても相当の才能は持っていると思いますが。
総合では
セレウコス≧プトレマイオス≧アンティゴノス
でしょうか?

>>296
特化型の軍人ですね。ゲームをするか国家を統治するなら欲しい人材ですが・・・

>>298
有害極悪なカエサルですねw

>>301-304
いつもながらお疲れさまです。

>>300>>305
どちらも一理ありという感じで(笑)

>>308
たまたま最近興味を持っている人です。数値は自分がやっても同じような感じにすると思います。人柄は文句なしだけど、一国の支配者としては・・・。

[313] スネ夫 2007/09/23 22:14

【統率】61
 やはり、スネ夫はキャラの位置的にも統率は低めだが、ドラえもんの道具の一つで消したい人の元からの存在をけす道具でジャイアンが消えたとき、その、ジャイアンが消えた世界ではスネ夫がガキ大将になっていたので、普通よりやや高めで
【武力】37
 武力・・・この男には縁のない言葉だが、全くないこともないようだ
【知力】71
 この男の知力は幅が広く、豊富な知識を持ち合わせている。
 ずる賢さもあるが、物知りでもあり、手品なども披露している。
【政治】46
 あまり、いい人柄ではない。自慢が激しく、人をイライラ、ムカムカさせる。しかし、親が社長であり、その自慢は本当(嘘のときもある)なので、みんなはあまり口出しできない。
【魅力】37
 映画では、必ずと言っていいほど「そんなの、無茶だ!」という役を受け持っている。度胸がない。

[314] 三太郎 2007/09/24 22:13

>「ど」の字さま
王の占い師……オルゲニーが見てみたいと言ってみます。
はっきり言って、私しかいないっぽくて恐縮ですが。

[315] モッフォル 2007/09/25 13:53

 はじめますて。
 架空人物で『沈黙の艦隊』の海江田四郎艦長なんか、どなたか評価してみてくれませんかね?
 ベネット大統領なんかも見てみたいですが。

[316] マフムード 2007/09/27 00:10

とりあえず架空人物は他の方々にお任せして・・・

微妙にマイナーな人物が連続登場しそうで恐縮ですが、
かなり前にチンギスからクビライまでやったモンゴル帝国シリーズに続けて、
しばらく「その後のモンゴル」シリーズをやってみようと思います。

[317] マフムード 2007/09/27 01:14

武宗カイシャン(1281〜1311)
大元大モンゴル帝国 第7代大カアン(在位:1307〜1311)
漢字表記:海山 廟号:武宗 モンゴル語尊号:クルク・カアン
活動地域:モンゴル高原、中華

【統率】69
軍隊からの支持は強かったが、それは統率力というより、むしろ彼のカリスマ性と優れた軍事才能が理由と思われる。カイドゥの乱の鎮定も西方諸王家の緩やかな服従による平和の実現も多くはクビライの遺産であり、バラマキ政治以外では、彼自身の功績は大きくない。

【武力】79
8年にわたって西北国境の防衛を担う。中央アジアのカイドゥの勢力はすでに飢饉と疫病によって弱体化していたが、彼ら反クビライ派が残る全力を振り絞っての猛攻を次々に撃退し、1301年には帝国史上最大の内戦とされるカイドゥ勢力との最終決戦で大功を挙げ、1306年には最後まで抵抗を続けたメリク・テムルを降す。建国時代の将帥たちほどではないにしても、この時期のモンゴルとしては間違いなく最強クラスの軍指揮官であった。

【知力】52
戦場での采配や即位前後の果断な動きは見事だが、政治面での先見性には疑問が残る。バラマキ政治によって財政と経済を悪化させ、軍部の重用によって近衛軍団専横の契機を作り、母と弟の一派に断固たる処置を加えなかったがために足をすくわれた上、女人政治とチベット仏教狂信の種をまいてしまうなど、彼の選択の多くは結果として帝国の命運に負の影響を与えてしまった。

【政治】50
査定理由は知力とほぼ同じ。優れた軍事的才能とカリスマ性、バラマキ政治による圧倒的支持を集めたものの、それを活かすまでもなく早世してしまった。もう少し在位が長ければ評価もまた変わってきたかもしれないが、残された事実からでは「“可もなく不可もなし”のいちばん下」あたりが妥当と思われる。

【魅力】84
高貴な生まれでありながら辺境の戦地に流されるという不遇、この時期のモンゴル皇族にまれな勇敢さ、そして大らかで寛大な性格ゆえに多くの人々が心を寄せたという。とくにモンゴル高原の牧民たちとアルタイ戦争に従った軍隊の支持は圧倒的で、アルタイからの「大返し」と弟からの無血の政権移譲は、これなくしてあり得ない奇蹟だった。漢文史料は彼を酒色に溺れた暗君として描いているが、その記述は必ずしも無条件に信頼できるものではない。

略伝:武宗カイシャン ——パクス・モンゴリカの光と陰——

 クビライ・カアンの曾孫。クビライの早世した皇太子チンキムの次男ダルマバラの長子にあたる。
 1294年にクビライ・カアンが79歳の高齢で没すると、後を嫡孫のテムルが継いだ。テムルには子がなかったためカイシャンは有力な皇位継承候補であったが、テムルの妃で国政の実権を握っていたブルガンとカイシャンの母ダギが不仲であったためか(一説によるとブルガンの嫉妬のためという)、中央アジアの反クビライ朝勢力・カイドゥに備える前線司令官として、1299年にモンゴル高原西部に左遷される。
 そのためカイシャンは青年時代を草原の戦塵のなかで過ごすことになり、8年間にわたってカイドゥの乱の鎮定に多大な戦功を挙げ続けたうえ、モンゴル高原の牧民たちの強い支持を集めるようになった。

 1307年にテムルが没すると、皇后ブルガンは実権を保持するため、テムルの従兄弟アーナンダを大カアンに擁立しようと図った。これに対して反対派によるクーデターが発生し、首都の大都近辺にあったカイシャンの弟アユルバルワダを大カアンに擁立しようとした。
 ところが遠くアルタイ山脈にあったカイシャンは事態の急変を知るや、手元のほぼ全軍とともに東へ急行。上都でアユルバルワダから政権を譲り受け、大カアンとなった。

 カイシャンは帝国内外の諸方面に大使節団を派遣してカイドゥの乱鎮定による平和の回復を宣言し、交易を促進した。また一族や臣下に次々に財宝や称号を下賜し、帝国支配層のあいだで圧倒的な人気を勝ち得た。しかし一方では軍事費や歳賜の増加によって財政の悪化とインフレが起こり、漢族のあいだには不満が広がりはじめた。とはいえ見かけ上はカイシャンの時代こそ、ユーラシアを覆う「モンゴルの平和」が最も輝いた時代だったといえる。
 カイシャンはモンゴル人たちの間でチンギス・クビライの再来と讃えられて将来を嘱望されたが、1311年元旦に突如崩御。漢文史料ではカイシャンの酒色荒淫を理由とするが、弟アユルバルワダ一派による暗殺説もある。治世わずか3年半であった。

なお、某架空歴史小説では長命を維持したカイシャンが再び帝国を結集させ、いくつもの大遠征を行ってユーラシア大陸とアフリカを完全制覇していたりする。

[318] マフムード 2007/09/27 14:28

順帝トゴン・テムル(1320〜1370)
大元大モンゴル帝国 第14代大カアン(在位:1333〜1370)
漢字表記:妥懽貼睦爾 廟号:恵宗 明朝諡号:順帝 モンゴル語尊号:ウカト・カアン
活動地域:中華、モンゴル高原

【統率】19
37年にわたる在位の間、彼は常にその時々の実力者たちの傀儡に過ぎなかった。そもそもリーダーシップを発揮しようとか国政に携わろうとかいう意欲自体がなく、後宮の奥深くでひたすらチベット仏教の密儀に耽るばかりであった。そんな彼が多少なりとも自らの意志で行ったと思われる処置はトクトの追放と北帰の決断であるが、トクトの失脚によって宮廷唯一の実力者が突然消滅した結果、曲がりなりにも残っていた帝国の秩序は完全に崩壊し、情勢挽回の最後のチャンスが失われた。ゴミレベル。

【武力】18
一度も戦陣に立ったことがなく、カアンとなってからは宮中の奥深くでチベット仏教の性的密儀に耽溺して体力をすり減らした。モンゴル王としてはあるまじきことに狩猟すら行わなかったらしい。

【知力】20
元末の政治情勢と自然環境の悪化はおそらくどんな名君にも手がつけられないほどの状況に達していたであろうが、宰相に全てを押し付けて性的密儀に耽った挙句(本人の意識としては本気でヘーマジュラ仏に化身して帝国を救済するつもりだったのかもしれないが、客観的には誰が見ても酒池肉林の狂宴にすぎない)、いきなりその宰相を追放して完全な無政府状態を我とわが手で招いてしまう。最後は全てを放り出して漠北へ遁走した。どうしようもない。

【政治】48
生き残りの才能だけは確かだった。エル・テムル、バヤン、トクトと相次ぐクーデターによる実力者たちの浮沈興亡のなかで、彼だけはひたすら玉座を維持し続け、暗殺陰謀の絶えなかった元朝における最長在位期間を記録している。

【魅力】27
漢文化に陶酔し芸術的才能に優れていたが、漢人からもモンゴル人からも良いことは何もいわれていない。

略伝:順帝トゴン・テムル ——北へ帰るとき——

 明宗コシラがモンゴル高原に亡命していたとき、カルルク族の族長の娘とのあいだに生まれた。幼年時代をモンゴルで過ごし、コシラの復権にともなって大都に入るものの、まもなくコシラが急死すると宮中から遠ざけられ、遠く高麗や江西に流された。江西にいたさいに土地の長老が流浪の皇子を哀れんで漢文の手ほどきをしたことから、彼の漢文化への傾倒がはじまったという。
 1332年に寧宗イリンジバルの死によって大都へ招かれる。ただし時の権力者エル・テムルが彼の即位に難色を示したため、登極は翌年春のエル・テムルの死まで持ち越された。
 エル・テムル死後に実権を握ったのは軍閥を握るバヤンであった。バヤンは漢人を憎んで五大姓氏根絶を建議、バヤンの甥で漢人尊重派であるトクトにクーデターを起こされ、流刑先で自害した。
 トクトは正史の編纂などで漢人の支持を集めて政権を維持しようとしたが、黄河決壊をはじめとする無数の天災と反乱への対処に追われ、1354年に自ら帝国中枢に残る全軍をかきあつめて南征へ向かう。おそらくこれが元朝立て直しの最後のチャンスであったが、トゴン・テムルは有能なトクトのもとにあまりに多数の軍隊が従ったのを見てカアン位簒奪の恐怖を感じたのか、急遽詔勅を発してトクトを解任し、親征を宣言する。ところが突然主将を失った遠征軍はたちまちのうちに崩壊してしまい、モンゴル帝国大カアンの精鋭軍団は全て消滅した。
 南方ではトクトが最大の張士誠軍を叩いたことによって力の空白が生まれ、長江下流を押さえた朱元璋が台頭。1368年に南京で自ら皇帝を称し、大明国の建国を宣言した。朱元璋は名将徐達と常遇春に北征を命じ、対する元朝はこれを阻止する手段を失っていた。トゴン・テムルはついに大都放棄を決意、群臣の反対を押し切って北方の上都に逃れ、さらに翌年内蒙古の応昌にまで逃れ、そこで生涯を閉じた。

 トゴン・テムルの逃亡4日後に明軍が大都に達し、クビライが築いた世界最大の都市は灰燼と帰した。このとき、東は遼東から西は甘粛にいたるまで、数十万のモンゴル人がいっせいにモンゴリアへ去っていった(北帰)と伝えられる。これをもって元朝の滅亡とするが、実際には大元大モンゴル帝国は属州としての中国から撤退したのみであり、依然その勢力は日本海から漠北を経て中央アジア・雲南にまで及んでいた。新興の大明帝国は、なお数十年のあいだ大元帝国との南北戦争を続けることになる。

[319] マフムード 2007/09/27 15:37

エセン・ハーン(?〜1454)
オイラト部族連合(ドルベン・オイラト、オイラト帝国)の指導者、タイシ(在任:1439〜)
大元大モンゴル帝国ハーン(自称、在位:1453〜1454、大元天盛可汗)
活動地域:モンゴル高原

【統率】70
何度か反乱が起こり、ハーンとして人々を従わせることもできなかったとはいえ、一時はモンゴル高原から周辺地域におよぶ諸部族を統率したのだからこのくらいはあったはず。元の北帰から1世紀も経っていないこの時期にチンギス統原理を破るためには、おそらく統率力と政治力がともに一級レベル以上でなければ無理だろう。

【武力】85
主なものだけでも大興安嶺のウリャンカ三衛、マンチュリアの女真族、中央アジアのモグーリスターン王国を破り、朝鮮半島からカザフ・ステップにまで勢威を及ぼした。土木の変では相手が弱すぎたとはいえ公称50万(実数でも20万以上はいたと思われる)の明軍をわずか2万で包囲殲滅した。

【知力】54
エセンの知力を判定するために利用できる材料は少ない。于謙のまえに手も足も出なかったり、史実かどうか多少の疑問は残るが酷刑で臣民の反感を買ったりするあたりからして、あまり頭が切れるほうではなかったのだろうか。

【政治】32
外交では明との交易トラブルとトクト・ブハとの衝突、内政では複数の臣下による反乱。正統帝を人質としての交渉も失敗し、いたずらに臣下の不満を高めるだけで終わってしまった。もちろんハーンとして人々を心服させることもできなかった。

【魅力】57
ハーンとして認められなかったのは統率や政治も関係するが、簒奪者扱いされているため無駄に残虐伝説が発生し、実像がわかりにくくなっている。『蒙古源流』や『アルタン・トプチ』などの年代記によれば、機密を漏らした側近を酷刑に処したり、恩賞をケチって重臣に背かれたりしたらしいがいかがなものか。とはいえ、いくら簒奪者とはいえプラスの伝承が何も残っていないことから、少なくともあまり高い魅力の持ち主ではなかったと推定。

[320] マフムード 2007/09/27 15:37

略伝:エセン・ハーン ——草原の覇者ふたたび——

 1368年に元が北帰し、1370年にトゴン・テムルの後を継いだアユルシリダラがカラコルムへ撤退したあと、1388年にアユルシリダラの後継者トクステムルがアリク・ブカ裔のイェスデルに殺害されてクビライ王朝は断絶した。これが狭義の北元朝の終焉である。
 以後モンゴル高原では詳細不明な混乱が続くが、次第に西部モンゴルのオイラト部族連合が台頭。1412年にはアリク・ブカ系の実力者プンヤシュリーがオイラトの首領マフムードに殺害され、オイラトの勢力は東モンゴルに拡大した。
 マフムードの子トゴンは1434年に高原東部の雄アルクタイを敗死させ、ついにモンゴル高原唯一の覇者となった。しかし彼はチンギス・ハンの血を引いていないためハーンにはなれず、クビライ系といわれるトクト・ブハをタイスン・ハーンとして擁立し、軍司令官を意味するタイシ(太師)を称した。そのトゴンの子がエセンである。

 1439年にトゴンの死によってタイシ位を継ぐまでのエセンの経歴はあまり知られていない。タイシとなったエセンは、モンゴル高原のほぼ全域を制圧したうえ、東は女真を服従させ、西はモグリスターン(東トルキスタン)を討って交易の要衝ハミを押さえ、さらにはるか西方カザフ草原のウズベク王アブールハイルをも破ったと伝えられる。こうしてエセンの版図は、かつての東突厥やチンギス・ハンのそれに迫るほどとなった。
 エセンは東の明と西のティムール帝国がともに安定期にあったため、東西交易で莫大な利益をあげて、収益を臣下に分配して権力を強化していた。ところが1448年に明との交易をめぐるトラブルが発生し、翌年戦争に発展した。ときの明国皇帝・英宗正統帝は寵愛する宦官・王振の口車にのって自ら塞外へ出撃するが、9月5日に土木堡(現・河北省の張家口市付近)でエセンに大敗し、皇帝自らが捕虜となるという中華帝国史上で前代未聞の事態が発生する。
 エセンは中華皇帝を捕らえたことを知ると驚愕し、これを丁重に遇する一方で皇帝の身を盾にさまざまな要求を明に突きつけた。しかしこれらは明の兵部尚書・于謙によってことごとくはねつけられ、翌年成果のあがらないまま皇帝を釈放せざるを得なかった。
 正統帝を人質とした交渉が長期化したあげく失敗に終わったことと、その間の交易の断絶によってエセンの支配力が低下して内紛が起こった。1452年には名目上のハーンであったトクト・ブハとエセンの間が決裂し、トクト・ブハはエセンを急襲するが逆撃されて敗死。エセンは一挙に北元皇族のほとんどを皆殺しにしたうえ、勢いに乗じて自らがハーンを称した。
 しかしチンギス・ハン家の血(黄金の血脈)をひかないエセンのハーン即位は不敬の極みとして猛反発を買い、翌1454年に重臣アラク・テムル、ハタン・テムルらが反乱。エセンは側近を信じられず、ほとんど単機で逃走したすえに殺害された。彼の死によって「帝国」ともいわれたオイラトの大勢力は一挙に崩壊し、モンゴル高原は再び混乱の時代を迎える。

[321] 「ど」の字 2007/09/28 03:33

>>317-320
 お疲れ様でした。
 モンゴルその後、ですね。
 しかし共同体の規模を維持できなかったにしても、彼らはまだ幸運だと思いますよ。降伏することなく、殲滅されることもなかったわけですし。

>>314
 王の占術師オルゲニー・メリドールは必ず取り上げます。
 万能の人であり、物語完結後も長く生きた人です。

[322] ハーン 2007/09/29 16:46

>>310
 言われてみれば確かに新田義貞の評価が高すぎたので、まとめサイトに載せるさいは以下のように変更したいと思います。

武力……73 その軍事能力は間違いなく楠木正成に劣り、弟の直義や息子の直冬と比較してもそれほど大きな差があるようには思えません。それでも彼がこの時代で最も経験を積み、派手さに欠けるとはいえ多くの勝利を積み重ねている指揮官である事実を鑑みて、このくらいは与えたいと思います。

>>311
 世界の名だたる大帝国が次々と消えていったなか、こんな妙な人物の登場後でも、ケマルが現れたんですからトルコにとっては幸運なことだったでしょうね。
 ドイツはあの人、ロシアにはあの人が出てきちゃいましたから。

>>313
 大体、そんな感じですよね。私なら武力と政治に10くらい上乗せすると思いますけど。

>>317-320
 カイシャンが大帝国を築く架空歴史……どんな小説なんでしょ? 信長が長生きして明を征服するのと同じくらい、リアリティのない話だと思うのですが。
 トゴンはいらんことをわざわざしただけ、万暦帝以下の能力ですね。
 エセンはティムールみたくずっとチンギスの子孫を擁していたほうが長生きできたのではないかと。

[323] 「ど」の字 2007/09/29 17:14

>>322
 重箱の隅を突付く様な指摘をしてすいません。
 足利尊氏は自分も評価をやろうとして失敗してますので(本人が支離滅裂なことを色々やらかしてるのが原因)、これは良くまとまってると思います。
 南北朝の騒乱は、そもそも北条時宗が朝廷の帝位争い調停の際に極めて拙い解決法を取ったのが原因なんです。自分は北条時宗の評価をかなり低めにしています。若くして亡くなったことと多忙だったことで同情の余地はありますが。

 今はヨーダの考察を推敲しながら、石田三成の情報をかき集めています。
 三成の評価は(徳川幕府時代に色々情報を歪められているので)難しいですね。
 最大の焦点は、主君秀吉のところへ上げるべき情報を小西行長と共謀して遮断したという唐入り時の話の真偽解明です。もしこれが本当なら、彼の総評は日本の為政者として最低レベル(近代では村山総理のレベルに該当)にまで下落します。
 もっとも、それが無かったとしても徳川へのあまりにあからさまな敵意表明など知力の底が浅いので、高い評価は下しようがありません。

[324] マフムード 2007/09/29 22:59

>>321-322
コメントありがとうございます。

カイシャンが大帝国を築く小説↓
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AE%8B%E5%85%89-%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%AD%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%B1%8A%E7%94%B0-%E6%9C%89%E6%81%92/dp/4894565994
架空歴史というより歴史改変もののSFですね。
しかしよくもまあこんなマイナーな人物を・・・w

トゴン・テムルはその「余計なコト」のおかげで、暗君にしては評価しやすいです。もちろんマイナスの意味で(笑)
まあトクトを放っておいたらそれはそれで確かに危険だとは思いますけどね。
タイミングがあまりにも悪い。

このあとは北元を中興したダヤン・ハーンや、
ダライ・ラマ制度を作ったアルタン・ハーンでもやって、
余力があれば満洲実録を読んでヌルハチ・ホンタイジ親子まで手を伸ばそうかと思います。
マイナー人物が多いので、まあノンビリと。

[325] 三太郎 2007/09/30 00:45

>>324
 豊田先生ですか。遥か大昔、スペースオペラ大戦争と言う、偉人ごった煮のスペースオペラを読んだことを思い出しました。
 と、言いますか、モンゴルの残光って、最初1967年に出たんですよね。たしか。

[326] 2007/09/30 19:39

最近まとめ見だした新参なんですけど、
ピュロスってまだ評価されてないんですか?
まとめには載ってない気がするんですけど。

[327] 「ど」の字 2007/10/01 01:35

>>326
 やってないはずですよ。
 ローマの敵対者としては、ハンニバル・バルカに次ぐ有名人ですけどね。

 誰かやってくれないかなー。それとも自分がやろうかな?

[328] 2007/10/01 04:29

>>327
ぜひともお願いします。
ピュロスの勝利といわれる故事ができるほどローマに勝ちまくった彼の評価が見てみたいです。

[329] やっち 2007/10/01 12:40

>>328

 確かにおもしろそうですね。
 詳しい人の評価を期待します。
 私がやると,武力と魅力以外は壊滅的な数字になりそうで。

 ちなみに,ご存じかも知れませぬが,「ピュロスの勝利」は英語で「Pyrrhic victory」です。
 「割に合わない勝利」の意だそうで。

[330] やっち 2007/10/01 13:18

 英雄伝の4巻(「ピロス」となっている。)だけを参考に簡潔にやってみます。
 たたき台にされたく。

ピュロス(エペイロス王)

統率 65
 麾下の軍勢は破綻なく統率していたが,侵攻先の諸勢力をまとめる力量はなかった。
 タレントゥム,シチリア,マケドニア,皆彼に従わず離反している。
 優秀な師団長ではあっても,覇者の器ではなかったのだろう。

武力 79
 ローマ軍に連戦連勝するも,その度に自身も数千の損害を被っている。
 シチリアでも連勝しており,優秀な戦術家ではあったが,当時のローマ軍が
サムニウム戦の直後で山岳戦仕様から抜け切れていなかったこと,発展途上のレギオンに
比べてファランクス+戦象戦術の
完成度が高かったこと,対スパルタ戦で苦戦していることからして,「一級」の評価は下せないだろう。

知力 32
 戦略的な才能は乏しい。
 イタリア,シチリア,マケドニア,どの戦場でも戦術的勝利を戦略的勝利につなげることができていない。
 そもそも戦略的な目的があったのかも微妙。
 征服者として振る舞ってシチリアを離反させたこともマイナス。

政治 28
 外交や政略の能力に乏しいことは明らかであろう。
 海千山千のすれたギリシア人に翻弄されている。

魅力 75
 騎士道スピリットを地でいく人物で,個人的には魅力的であったよう。

[331] やっち 2007/10/01 13:30

〜ピュロスの勝利−採算のとれない勝利〜
 エペイロス王。
 ディアドコイ戦争への参戦を経て,当時ローマの圧迫を受けていたタレントゥムの要請で
イタリアに上陸。
 ローマ軍と連戦し,幾度となく数千の損害を与えて勝利するが,そのたびに自らも
それに劣らぬ損害を被ってしまう(このことから,割りに合わない勝利を「ピュロスの勝利」というようになった。)。
 大きな損害とタレントゥムの非協力にも嫌気がさし,カルタゴを追っ払って欲しいとのシチリア諸都市の要請を
受け,シチリアに転進。
 同地でカルタゴ軍を破るが,カルタゴから提案された有利な講話を拒絶し,
シチリア諸都市に対しても征服者として振る舞ったことから(何でフィリッポス2世の良き前例を踏襲しなかったのだろう。),
その支持を失い,目的を遂げることなくタレントゥムに撤退。
 ローマと再戦するも,動員力と回復力に優れたローマ軍にベネベントゥムの戦いで敗れる。
 その後,バルカン半島に戻り,マケドニアを征服し,ギリシア本土に
兵を進めるが,息子に任せたマケドニアはあっさり敵に恢復され,自身はスパルタ軍との
戦いで戦死。

 夢想家です。西方にて大王の偉業を再現する,それ以上の細かなビジョンは持っていないようです。
 優秀な戦術家ですが,それ以上でも以下でもありません。
 優秀な上司がいれば,その能力を遺憾なく発揮してくれそうですが,性格的に人の風下に立てなそうなので,
使いどころが難しいです。
 ディアドコイ戦争のまっただ中に身を投じていれば,その他大勢に埋没し,これほど高名にはならなかったでしょう。
 彼に対する高評価は,後に世界を征服するローマの勃興期に刃を交えたこと,
ハンニバルが高く評価したことによるのでしょう。

[332] 2007/10/01 15:53

>>331
評価ありがとうございます。
結構厳しい評価ですね。
ハンニバルに自分以上と言わしめた人だからもう少し高いかと思ってたんですが……。
でも確かに戦争は強いけど立ち回り方がヘタって感じですね。
王より将軍の方が向いてるタイプですか。

[333] ベタピン 2007/10/03 09:12

大友勝将
(ヤンキー漫画『BAD BOYSグレアー』の主人公・第2次廣島連合の頭)

【統率】46
廣島連合の頭ではあるが、メンバーを下には見ず対等の仲間として見ており命令を下す事は好まないため、彼が誰かを率いる描写は少ない。
とはいえ頭という立場の上、メンバーは彼に心酔しているので命令を下せば忠実に働くだろう。そういう部分を加味すればこれくらいが妥当か。

武力【99】
尋常ではない怪力(中学時代にゴミ捨て場にあったゴミの山を一撃で崩壊させたほど)を生かし、圧倒的な強さで嚼呪やブルービアード等のメンバーを撃破。
刃物で刺されてもピンピンしており、翌日には完治している。腹を刺された時は流石に苦しそうな表情を見せたが、何故か出血は殆ど無く普通に生存。もはや彼のタフネスぶりは、頑丈を通り越して人間の領域を超越している。

【知力】25
昇喜郎やその仲間に簡単に騙されたり、後の事を全く考えずに行動し、廣島連合のメンバーを困らせている。良く言えば純粋、悪く言えば単純。

【政治】12
政治的な思考は皆無に等しい。彼が頭になったのは長谷川・福沢・柳に推戴されたからで、他チームに喧嘩を売るのは友達(仲間)を増やしたいという子供のような発想からきており、力によって何かを成し遂げようというような政治的な意図は無い。

【魅力】95
喧嘩相手から頭に推戴されそのメンバーから心酔される等、人間的な魅力は絶大。
凌や蓮太が自分の身が危険に陥っても勝将を助けようとしたこと等からもそれが窺える。

【列伝】
幼少の頃から異常な程の怪力で、彼が触れると物なら壊れ人なら大怪我をした(本人としては普通に振る舞ってるつもり)。
小学生の頃遊んでいたら同級生の骨を折ってしまい、父親が謝罪に行く姿を見て罪悪感を感じ他人と関わるのを避け孤独に過ごす。
成長した後は父親に大阪に置き去りにされ、昇喜郎と出会う。
広島の抗争を望む昇喜郎はその力を利用しようと「ブルビアや嚼呪、蛇道神に喧嘩を売れば友達が出来る」と吹き込む。それを真に受けた勝将は次々に喧嘩を売ってはこれらを撃破する。
昇喜郎の目論みは成功したかに見えたが、逆に勝将の実力と人柄に惚れた男達は勝将の下に付く事を決意し結束する。
こうしてブルービアード・嚼呪・蛇道神は連合を組み勝将は第2次廣島連合の頭になる。

[334] 「ど」の字 2007/10/06 12:53

 こんにちは。「ど」の字です。
 今回は滅び行く銀河共和国を懸命に維持しようとした、一人のジェダイマスターの評価です。

ヨーダ 896BBY〜4ABY

【統率】94
 当時の共和国唯一の武力であるジェダイ騎士団のトップとして、遍く銀河に轟く人物。
 権威と力量はほぼ完璧。法的にジェダイが共和国を統治する形態を取っていなかったため、正統性は薄い。
 組織変革能力に欠ける点もあるが、彼の下で長らくジェダイ騎士団が組織を維持したことを思うと組織維持能力は相当なものがある。
 彼の生きた時代に、統率能力で彼を上回る人物は居ない。
【武力】86※
 戦術能力はかなりのもの。兵聞拙速を知り、行動する勇気も持ち合わせていた。
 なお、個人的武勇は絶大。『銀河系最強の剣士』とまで言われている。
【知力】92
 真の智恵を持っていたと言って差し支えない。
 フォース能力による予知と洞察も飛び抜けているが、それ無くしても人を教え導く智恵があった。自らの過ちを認めて正す柔軟さもあった。
 また、分離主義勢力のグリーヴァス将軍と対峙する、共和国側の戦略を策定するジェダイ評議会の一人。
 グリーヴァス将軍の不自然な用兵の原因(パルパティーンから軍機が漏れていた)に気づかなかったので、このくらいと判定。
【政治】88
 政治テクに富んでいたとは言い難いが、広範囲で豊富な知識を持っていた。特に紛争解決のための外交には優れた手腕を発揮。
【魅力】95
 外見は身長70センチ足らずのちんちくりんな緑色の皮膚のクリーチャー。だが内面の人格は光り輝いていた。
 彼を知る人で彼を悪く言った人間を見つけることは出来ない。

【特殊能力】
※個人的武勇……部隊の先頭に立つ時、武力に+50(修正を加えた最大値は100)。
※対フォース能力……フォース能力者との戦いの際には相手の武力を-20。多分ハット族と同じ能力。シスとの戦いは相当有利に展開できる。

【略歴】
 共和国の末期に絶大な功績を残したヨーダは、8世紀近くにわたり数多くのジェダイを育て上げた最高位のジェダイマスターである。シスがダース・ベイン以来たった二人の師弟で地下活動を続けたのとほぼ同じ年月を生きた彼は、シスが表舞台から姿を消して以降のジェダイが辿った衰退の歩みを象徴する存在である。
 ジェダイの訓練を始めたのは100歳になろうかという頃でのことであり、ジェダイとしては例外的な存在であると言える。その修行も4年にしてあっさりマスターの称号を得ていることも例外的である。
 クローン戦争の足音が密かに聞こえてきた頃、彼は12人の評議会メンバーの中でも群を抜いて最年長者であり、メイス・ウィンドゥやキ=アディ=ムンディなどと同等の重要な地位にあった(だが、その扱われ方から見て最高位にあったと言っても過言ではない)。ジェダイ騎士団において彼の果たす役割は極めて重く、これから修行に臨む幼いパダワンたちに重要なガイダンスを与えていた。この当時、幼いジェダイ候補生たちは物心つく前から始める修行の最初の段階を彼の下で集団生活し、10代になった時点で1対1の修行を受けるべく1人のマスターに配属されていたのである。早い話、ずいぶん長い間、彼は全てのジェダイのマスターであったのだ。
 また、ヨーダは人生を通じて何百何千という惑星を旅し、フォースの理解を深めており、彼の知恵と洞察力は銀河系全域を通じて尊敬されていた。彼は専用の小型ライトセイバーを所有しており、アクロバティックなアタールの剣技型を使うジェダイ最強……すなわち銀河系最強の剣士としても知られているが、クローン戦争以前にこのジェダイの象徴と言える武器を使ったのははるか数百年は昔のことであったという。フォースを体得したヨーダは、武力を使わずに紛争を解決し和平を導く術も十分に心得ていたからである。
(続く)

[335] 「ど」の字 2007/10/06 12:56

(続き)
 7000年前の予言にある「フォースにバランスをもたらす選ばれし者」の可能性を秘めたアナキン・スカイウォーカーと初めて対面したとき、ヨーダはこの少年がジェダイの訓練を開始するには歳を取りすぎているという決定を下す。ヨーダにはアナキンの未来を予見できず、彼を訓練するには大きな危険が伴うと判断したのだ。しかし、ナブーの戦いにおけるアナキンの活躍を知った評議会はクワイ=ガンの懇願を受け入れて彼の訓練に賛成し、ヨーダも他の評議員の総意に押されて以前の決定を撤回する。結果として、この判断は人の世に歴史ある限り消えない輝きと汚点を同時に刻むことになる。

 すでにこの頃にはジェダイ最大の特長であったフォースによる予知と洞察能力は相当に衰えており、ジェダイの人数は増加する一方だったにもかかわらず銀河共和国の運営維持には相当の無理があったと言われている。
 分離主義勢力による独立運動に陰謀の影を見たジェダイ騎士団ではあったが、その原因を特定するには至らず、ついにクローンによる軍の創設を(ヨーダ自ら先頭に立っての戦場への投入により)追認することになってしまう。
 その後もクローンを有効で忠実な戦力として使い続け、結果としてクローン戦争の最終局面で手痛い謀略により騎士団員ほとんどの死を招いてしまった。クローンの製造事情はオビ=ワンによって相当不明瞭なものであったことが明かされていたにもかかわらず、その事情の裏を取る事もしなかったジェダイ評議会の致命的ミステイクであった。このミスにヨーダの責任が無かったことは有り得ない。

 彼最大の決戦は、皇帝位を元老院に認められた直後のパルパティーンを襲撃した際のものである。ある意味、シスとジェダイの雌雄を決する至高の決戦であった。この戦いで彼はオビ=ワンを連れて臨んでおらず、この期に及んでもまだ自らの力を恃みとしていた節が伺える(パルパティーンがジェダイ評議員4人を一人で打ち破ったことを知っていたにもかかわらず、である)。
 対フォース能力を持つ自分との戦いを避けるだろうと読んだヨーダの思惑を外した皇帝パルパティーンの強さは予想以上で、結局ヨーダは戦いを打ち切って逃走する。ただヨーダはフォース能力者から見たら銀河を遍く照らすとてつもなく目立つ存在で、彼は自分の存在をフォース的に隠すためフォースの暗黒面の力が色濃く残る惑星ダコバへ隠棲せざるを得なかった。

 時を待った末にやって来た彼最後の弟子が、史上有名なルーク・スカイウォーカーである。オビ=ワンによって簡単な修行を与えられてはいたが、既に20歳を過ぎているルークの訓練は困難を極めた。だが、これはヨーダの長い人生において最も重要な訓練になった。
 ヨーダはルークに指導するに当たり、必要最小限のことを教えるに留めている。自分の頑なな教育が騎士団壊滅の原因の一つであったことを認めていたからで、この彼の配慮がルークのその後に多大な利点として働くことになる。剣技の型やフォースの使い方などこれ以後のジェダイにとって失われたものも多かったが、柔軟な思考を失わなかったことはルークが後にパルパティーンの下でフォースの暗黒面を吸収し得た要素になったからである。
 彼はルークを送り出した直後に老衰によって体調を崩し、戻ってきたルークに色々な真相を明かして900歳の生涯を閉じた。
 ただ彼もオビ=ワン同様クワイ=ガンによって死後も意識を留める術を学んでおり、その後も顔見世程度に姿を見せている。

【総評】
 真の智恵を持った教育者です。彼にとって、ジェダイ候補生の教育責任者は天職だったでしょう。
 天才的外交官でもあり、その前提となる軍事的素養も豊富に持っていました。
 百年の平和を保つ上では、彼以上の人物は史実にも架空にも存在しません。
 しかし、ジェダイ騎士団の構造的欠陥はそんな彼を以ってしてもどうにもなりませんでした。
 フォース能力は血筋によって遺伝するので、ジェダイが特権階級化することを防止するためにジェダイは妻帯と子孫を残すことを禁止されていましたが、それは同時に優秀なフォース能力者を使い潰していく事を意味しました。結果、銀河共和国の末期にはいわゆる「強いジェダイ」はほぼ絶えており、パルパティーンが台頭してきた際にその脅威に対抗できるジェダイは居なくなっていました。パルパティーンの勝利の原因は「選ばれし者」アナキンを自陣営に取り込んだことですが、もしアナキンがこの時代に居なかったとしてもパルパティーンの勝利は揺るがなかったはずです。

[336] ハーン 2007/10/12 00:25

>>330-331
 私もそこそこ優れた将軍だと思いますが、それだけだと思いますので、この評価に同意したいと思います。ローマには結構勝っているのに、スパルタで妙に梃子摺っているのを見ると、ドクトリンの差は大きいのだと感じました。

>>333
 すみませんが、知らない作品です。

>>334-335
 さすがに900年も生きて偉業を重ね続けていると、晩年に瑕があっても高い水準にあるのはその通りだと思います。まあ、自分の能力を過信しているところがありましたが。
 長すぎて小説版を追いかけるのをやめて随分たちますが、共和国末期はかなりジェダイも微妙な存在だったんですね。映画ではまともなのはジェダイだけ、という乗りでしたので。
 この四人は主人公であるはずのルークが普通に見えてくるほど素敵な人生を歩んでいますね。

[337] ハーン 2007/10/12 00:26

 ヘルマン・ゲーリング

 1893年1月12日‐1946年10月15日

統率……82 ゲシュタボや空軍といった第三帝国にとって欠くことのできない組織の創設を行いました。実務を部下に丸投げしているところもありますが、彼の存在なくしてドイツ空軍は存在しなかったでしょう。

武力……52 第一次世界大戦では戦闘機のエースパイロットでした。バトル・オブ・ブリテンでは目的であるドーバーの制海権確保に失敗していますが、損害はそれなりに与えました。恐らく、ナチ幹部で一番武力が高いと思われます(全く自慢になりませんが)。

知力……35 知能そのものは知能テストで非常に高い点数(IQ138)を叩きだしていることから優れているようなのですが、残念なことにその能力は全く有効に生かされませんでした。挫折に弱いところがあり、ミュンヘン一揆で国外に逃亡している間にモルヒネ中毒になりました。ボルマンやヒムラーのように大戦中も勢力拡大のための政争を繰り広げ、ただでさえ混乱している戦線をさらに悲惨なものにしてしまいました。彼が総司令官を務めていた空軍は大抵、連合軍からの爆撃に対処することが出来ず、作戦面では空軍関係者から完全に見捨てられています。そのせいでまたモルヒネ中毒になりました。しかし、ニュルンベルク裁判に及んでモルヒネ中毒を克服。連合国の判事と舌戦を繰り広げました。なんつーか、何でその精神力を大戦中に発揮してくれなかったんだ、と思ってしまいます。

政治……71 あまり出自がよくないナチ幹部のなかで彼は上流階級に多岐にわたるコネクションをもつ数少ない人物でした。ヒンデンブルクからヒトラーの首相就任の言質をとるなど、ナチスの政権奪取に最も貢献した人物で、ヒトラーの後継者第一候補でもあります。謀略で政敵を追い落とすことも得意でした。ですが、次第に影響力を失っていき、ゲッベルスやヒムラー、シュペーアといった大物のみならず、リッペントロップやボルマンといった小物にも出し抜かれていきます。

魅力……78 汚い仕事をたくさんしていたわりには人気があり、ヒトラー暗殺計画ワルキューレ作戦の時点で、ナチス高官でヒトラーを除いてゲーリングのみが全国的な人気をもっていました。奢侈な生活を批判されることもありますが、それもどこか憎めない奴ということで人気があります。バトル・オブ・ブリテンやスターリングラードの失敗で権威を喪失しても国民の間の人気は高く、ヒトラーはそのために彼を大戦終了間際まで処罰することが出来ないでいました。さらに英国でも航空戦における騎士的態度を賞賛されていたそうです。

[338] ハーン 2007/10/12 00:27

列伝 第三帝国永遠のナンバー2
 バイエルン州南端のローゼンハイムで植民地南西アフリカ初代総督の子として生まれた。彼はナチ幹部では珍しい上流階級の出身者で、これがナチの政権奪取に大いに役立つことになる。
 陸軍士官学校を優秀な成績で卒業すると陸軍に入隊。第一次大戦では航空機のパイロットとして勇名を馳せる。戦後はこれまで培ってきた航空戦の技術を使って、スウェーデンやデンマークで航空ショーに出て金を稼いでいた。
 帰国後、一目でヒトラーに魅了されてナチに入党。ヒトラーとともに様々な政局に臨み、その信任を勝ち取っていく。ミュンヘン一揆の際に傷つき、痛みを和らげるためにモルヒネを使ったところ、モルヒネ中毒となる。それを克服したことから『太った鋼鉄』と呼ばれるようになる。
 ヒトラーが組閣するとプロイセン内相となり、警察機構に影響力を広げ、後にプロイセン首相になると警察機構を再編してゲシュタボを創設する。強制収容所創設にも深く関わった。再軍備では空軍の創設に尽力し、自ら巨大鋼鉄財閥の総帥となるなど活躍した。しかし、レーダー能力の認識不足、攻撃偏重主義による戦闘機不足や戦略爆撃への無理解が後々尾を引いていくことになる。
 外交でもヒトラーをも出し抜いて、オーストリア併合に漕ぎ着けるなど活躍してたが、リッペントロップがヒトラーに気に入られた辺りで、彼の外交における活躍は少なくなっていった。
 第二次世界大戦が勃発すると、度重なる失敗でヒトラーの信任を失っていく。それを慰めるように美術品の蒐集とモルヒネに溺れていった。敗戦間際にベルリンに篭っていたヒトラーから指揮権を譲り受けようと、ボルマンがヒトラーを唆したため、逮捕された。
 第三帝国が崩壊するとニュルンベルク裁判で、「ゲシュタポと強制収容所設立の責任」に関する罪を問われ死刑を宣告される。当人は銃殺刑を希望したが、叶えられなかったので薬が欲しいと騙して服毒自殺をした。
 裁判中に「諸君は我らの遺骨をいつの日か大理石の棺に納めるだろう」と大口を叩いたが、連合国は聖地が出来ることを恐れられて遺体を灰にしてドナウ川に流した。

 統率と政治、魅力の高いカリスマ的独裁者です。大組織の構築から交渉調整、宣伝活動まで幅広く行えます。魅力もかなり高いので、彼自身が看板を勤めてもいいでしょう。ただ、知力が低いのでそれを補ってやる必要があります。
 二十世紀の三悪人の一人にも数えられることもある人物です(明らかに彼より相応しい人物がいますが)。初期こそヒトラー政権に必要不可欠な存在でしたが、次第にいてもいなくてもいいんじゃないかと思えてくるくらいに凋落しました。ゲーリング自身にも見捨てられるようなところがあったのは確かですが、ヒトラーとしても権力欲が強い上に、人気のある彼は使い難かったんでしょう。

 第三帝国の連中(国防軍も含む)を見ていると、あまりにも個性的過ぎてヒトラーが実は奇人変人大会でも開きたかったんじゃないかと思えてきます。

[339] 三太郎 2007/10/12 00:58

>>337
 最近、ニュルンベルグ裁判の記録映画を見たんですが、確かに、ゲーリングは主役級の活躍をしてました。
 それを思い出して、魅力に関して、なるほど、と頷きました。
 一方、他の被告たちも……言い方はアレですが……キャラ立ちしていたので「ヒトラーが実は奇人変人大会でも開きたかったんじゃないか」と言う意見に、賛成の念を禁じえません。

[340] 「ど」の字 2007/10/12 04:40

>>336
 というか、この四人はスターウォーズサガ世界観の中でもキャラが立っている人物です。
(彼らに匹敵する「濃ゆい」キャラは、古代の堕ちたジェダイであるウリック・ケル・ドローマくらいしか思いつきません)
 この四人に比べれば、ルーク・スカイウォーカーは人間的な感情を備えた常識人です。

>>337-338
 ヒトラーが強烈過ぎて感化されたのか、それとも元々ヒトラーがそういう人物を集めたのか?興味は尽きませんね。

[341] 2007/10/12 19:16

李存勗(885〜926)
後唐荘宗(在位923〜926)

【統率】65
劣勢であった前半戦において離反者を出していない。むしろ戦局が優勢に転じた後半になって寝返る者が出始め、最後には反乱を起こされて終わる。沙陀軍閥の結束は強かったが、それは彼の配下の忠誠心の高さに帰すべきかもしれない。

【武力】82
常に騎兵の先頭に立って突撃し敵を蹴散らした。一部の例外を除いて戦争後半の後梁軍は彼のとの野戦を避けるようになる。北方に契丹という強敵が控えている状況で後梁を滅ぼし、その間一度も本格的な敗北を喫する事のなかった彼の軍事能力は極めて高いといえるだろう。ただし、これは彼だけの力ではなく周徳威をはじめとする有能な将帥と沙陀騎兵の精強さによるものでもある。

【知力】45
外交的な駆け引きではいくらか見るべきものがある。内政においては梁の旧臣をほぼ取り込んだことぐらいか。洛陽に都を遷し、宦官を復活させたことは大きなマイナス。ただ、晩年を除けば人の進言はよく聞いた。

【政治】40
李克用時代に緩みきっていた軍隊の規律を引き締めた。基本的に内政は張承業に任せており、その死後は郭崇韜がその任に当たった。晩年の政治放棄で自らの成果をぶち壊した。

【魅力】60
何度か敵に包囲される危機に陥ったが、その度に部下のうちの誰かが命がけで彼を救った。しかし最期には彼の側で戦っていたのは十数人だけであり、彼の遺体を葬ったのはたった一人であった。

【略歴】
908年に父李克用を継いで24歳で晋王に即位。当時晋は朱全忠の後梁に対し圧倒的劣勢にあった。しかし即位直後から自ら軍の先頭に立ち、潞州を包囲していた後梁軍を急襲して撃破する。911年には柏郷で大勝した。この後周徳威を派遣して幽州軍閥を征服し、916年には後梁の有力軍閥である魏博節度使の寝返りによって黄河以北の全てを支配化にいれた。917年には遂に黄河南岸に進出し、翌年総力を挙げた大軍を率いて胡柳陂で後梁軍と後梁軍と激突する。この時不運なアクシデントにより周徳威を失い総崩れの危機に直面するが、挽回して辛うじて勝利した。これ以降戦局はしばらく膠着するが921年に南下した契丹軍を撃退し、923年に帝位につく(後唐の成立)。直後に始まった王彦章による後梁最後の猛反撃により一時は危うくなるが防ぎきった。
この時後唐は財政的に既に限界に達していたため君臣の多くは講和を主張したが李存勗はこれをはねつけ、一気に敵の首都・汴京をついて後梁を滅ぼした。

こうして華北は後唐の支配化に入ったものの、長年の戦乱で荒廃しきっていたため財政状態は依然として厳しかった。李存勗は後梁を滅ぼした後は緊張の糸が切れたのか政治を顧みなくなって遊びほうけるようになり、彼のために奮闘してきた軍隊に対する給与もなおざりにされたために遂に反乱が起こってあっさりと殺されてしまった。享年43。

[342] 「ど」の字 2007/10/12 23:14

>>341
 お疲れ様です。

 この人、君主でなく武将として生まれ合わせていれば、幸せな人生を送れたかもしれませんね。
 やはり政治する人間にとって「倦み疲れる」というのは死に至る病なんですね……。

[343] 「ど」の字 2007/10/13 18:41

 さて、ではそろそろ予告していた武将の評価をしていましょう。
 今回は、豊臣政権を維持しようと悪戦苦闘した「忠義の奸臣」です。

 石田三成
 1560年(永禄3年)〜1600年11月6日(慶長5年10月1日)

【統率】80
 組織構築と維持の能力は日本史に残るレベル。豊臣政権でも秀吉に次いで高い。関が原における激戦でも、彼の部下で寝返る者は無かった。
【武力】90
 実は密かに彼の至芸はこの分野。個人的武勇でも名を馳せ、緻密で神速な戦術指揮能力を持っていた。
 徳川家康が知恵を絞って構築した戦略政略上の必勝の構えを、戦術能力だけで引っ繰り返しかけるほどの超絶の能力を見せた。
 関が原の戦いに集った武将の中でも武力が最も高いのは彼(次点は島津義弘)。
 徳川家康に勝利していれば、世界史のレベルでネガティブな影響を及ぼしていたはず。そして、それは決して低い可能性ではなかった。
【知力】39※
 彼にとって、上に優れた人が立っている間には問われることの無かった能力である。細かい個々の事象については優れた判断力を有していた。
 しかし、情報統制で豊臣秀吉の行動をコントロールしようとして以降はぼろぼろ。どうも彼は広い視点で問題を解決する能力が無かったらしい。
 また、秀吉の没後は打つ手打つ手が裏目に出て(相手に裏を取られて)、その軽挙妄動は豊臣政権の寿命を著しく縮めている。
 仮に徳川一門を滅ぼせたとしても、この程度の能力では豊臣政権の維持はおぼつかなかったであろう。
【政治】81※
 内政・政争能力ともに高いものを持つ。豊臣政権における政治的建設の殆どは、彼の手によるもの。
 角の立たない意見提出能力にも長けており、自己保身に優れる。
 しかし後年における外交感覚の欠如は致命的。彼の外交と調略は、単に敵を増やし戦禍を長引かせるだけだった。
【魅力】4※
 日本史上に、彼より不人気な総司令官があっただろうか。伝説に残る「へいかいもの(横柄な人物)」。
 徳川史観による後年の歪曲があるのを除いても、緒将の評価も市井の評価も最低(高く評価する者もいるのだが)。
 刎頚の交わりを結んだ親友の大谷吉継にまでボロクソに言われ諌められている。
 ここまで酷いと逆に凄い。味方になるべき者をも敵に回す「才能」の持ち主。

【特殊能力】
※ロジスティック……補給・物流・経済を手がけるとき、知力に+40。
※外交感覚欠如……外交・調略を手がけるとき、政治に-50。若年時は優れていたのに、何故?
※家臣の心服……部下や領民に対する魅力は+80。目下の者の心を掴む術は極めて優れており、彼の刑死後もその威徳を偲ぶものは多かった。

【略歴】
 近江国坂田郡石田郷にこの地方の土豪の子として生まれた。幼名は佐吉。
 1572年(天正2年)のころ近江にて直属家臣を求めていた羽柴秀吉に見いだされ、その家臣となったとされる。仕官に際しては有名な三献茶のエピソードがある(異説も多々ある)。
 その後は秀吉に付いて戦場を巡り、危険な物見や一番槍などで武勲を立てている。1583年(天正11年)には武功により近江・水口4万石の城主となっている(この頃に有名な家臣の島左近を召抱えたという資料もあるが定かではない)。
 これ以降は各地の検地や堺奉行などを歴任、行政官・外交官・輜重監督としての活躍が多くなってくる。
 1590年(天正18年)には近江佐和山19万4千石の城主となったとされるが、佐和山城主となったのは1595年の秀次処罰時であり、この時の加増は美濃・近江で五万石程度とする説もある。
 1592年(文禄元年)に始まった秀吉の唐入りにおいては準備から現地での指揮まで一通りこなし、同年の漢城会議の直後早くもこの出兵を批判する書(三奉行連署状)を国内に送る。三成が兵站の視点からこの戦いの行く末を見通していたものとして注目される文書である。三成はその見解を確定させた後、講和成立へ向けて尽力していく。しかしその方法は情報操作(味方の戦果の過小評価と外交の捏造)と味方の抑制(この頃からすでに撤退を念頭に置いた消極的指揮を執っていたようである)を基盤とする理知的ではあっても危ういものであり、海外領土を得ることを考える主戦派の武将の反発を買ったのみならず敵にも部下にも騙されたことに気が付いた主君秀吉の怒りを買い、かえって戦禍を拡大してしまう。

(続く)

[344] 「ど」の字 2007/10/13 18:43

(続き)

 1598(慶長3年)に秀吉が死去した後は、自らの政権樹立を策する徳川家康を制するための術策を様々に施しているが、いずれの策も底の浅いものであり一つ一つ裏を取られてかえって状況を悪化させていく。
 1599年(慶長4年)3月、前田利家の死の当日に三成は加藤清正ら七将の襲撃を受け、その後佐和山に退隠する。どうもこの頃から武断派(先の唐入りにおける主戦派)との仲は最悪だったらしい。
 1600(慶長5年)6月に家康が上杉攻めの為に出陣した隙(と言うか、家康がわざと見せた隙)を突いて、三成は大谷吉継に家康打倒の挙兵への協力を求める。大谷吉継は彼の無謀を諌めるがそれを聞かず家康への武力行使を強行、そこから関が原の戦いに至る戦役を戦い始める。
 9月15日の天下分け目の関が原の戦いでは西軍の中核となって大奮戦、一時は徳川家康の本陣に銃弾を撃ち込むほどの活躍を見せるも、その他緒将の傍観と小早川秀秋の裏切りがきっかけで起こった大量の寝返りによりついに敗北し戦場を離脱。彷徨の末に田中吉政に捉えられ、9月21日に六条河原にて処刑され晒し首にされた。

【総評】
 数値評価するのも極めて難しい、アンバランスな危険人物です。特殊条項がこんなにつくとは思いませんでした。
 統率、武力、政治が極めて高いので、平時でも戦時でもすぐ市井から登用され功績を残して高い地位に上れます。
 出自からでしょうが、ロジスティックや経済面にも非常に明るいので、知力があるようにも見えます。
 目下の者への心配りも絶やすことが無いので、その部下は彼のためなら水火も厭わず働いてくれるでしょう。
 しかし、その事跡を分解してみると、その意外な知力の低さに驚かされてしまいます。三奉行連署状でも分かるとおり状況の分析能力には優れた物を持っているのですが、解法策定能力と実行能力はぼろぼろです。特に情報を捏造して上司(秀吉)を操作した点において、彼に一切の弁護は不可能です。その有り様は、情報を捏造し国民を騙し貶めてでも中韓との友好を推進しようとする現代日本のマスコミや一部政治家を思わせます。
 彼は、そんな捏造で築かれた講和が長続きするとでも思ったのでしょうか?極めて底の浅い知性です。
 また、優れた人物に得てしてある尖った性格も大いに問題です。伝説に残る「へいかいもの」振りで、本来なら豊臣政権の不動の味方たるべき人々をまとめて敵に回し、止むを得ず味方についた人々をも激しく怒らせてサボタージュされてしまっています。この魅力の低さは致命的です。周囲からは度重なる諌めがあったのですが、彼は全く聞く耳を持たないで突き進み、結局自らと豊臣政権の破滅を招いてしまいました。

 結局、徳川家康という世界史級の巨人を相手にして豊臣政権を維持するには器が足りなかったとしか言いようがありません。
 それでもなお、徳川一門を倒そうとした気概と能力はたいしたものです。
 関が原ではあれほどのどたばたがあったにもかかわらず必勝の布陣を敷いて不意をついていますし、超絶的な戦闘能力で昼過ぎまで戦線を持たせました。徳川家康の突出し過ぎる欠点が噴出していたこともあり(徳川家康戦死説すら出たほど)、関が原の戦いに勝利して徳川一門を滅ぼすという可能性は相当高いものがあったでしょう。何せ、家康が死んだ後の徳川一門の総帥は、歴史に残る戦下手の徳川秀忠だったのですから。
 しかし、それが日本史や世界史に残しただろう傷跡を想像すると、彼が負けたのは後世にとっての幸運であったと思わざるを得ません。

[345] むた 2007/10/14 00:06

シャルル5世

統率80
100年戦争中盤で、父ジャン2世がポワティエで負け、パリに革命がおきた状態のフランス王家を立て直した手腕、実行力はさすが。

武力15
前述ポワティエでは第一列の司令官として参戦するも、恐怖で硬直。早々に戦線を離脱したことからフランス退廃の原因となったと年代記に記述されている。

知力90
まず、前述の統率力からもわかるとおり、問題の認識解決能力が高い。
三部会を利用した手法、年貢から消費税の祖となる間接税への転換など近代国家への転換点となった人物から知力は相当高いものと判断できる。また、法律のエキスパートであり、日本の民法の基礎となったフランス法学の礎をつくった人物ともいえる。ニックネームは賢王、税金の父。

政治85
統率、知力の項に書いたように、財政、法律、中央集権化を推し進めるなど成果は大きかった。また、軍事、外交でも優秀な軍人、官僚を抜擢しイングランドに押し込まれるフランスの失地を回復した。その一方で重すぎる税負担が治世の後半の貴族や民衆の反乱を招くなどひずみが噴出している。

魅力55
カリスマ性の高いタイプではなく、あくまで堅実さと実務能力の高さが売りのタイプ。他人にも自分にも厳しい分、上司として仕えるには骨が折れそう。ただ、直接的な意見を好み、人の話は耳に痛くても聞き入れるタイプなだけに裏表のないタイプには付き合いやすそうだ。

[346] 「ど」の字 2007/10/14 01:50

>>345
 お疲れ様です。先を越されたような心持ちです。
 ベルトラン・デュ・ゲグランを登用したフランスの名君、その能力値には全く同意です。
 同時期のイベリア半島の君主がおしなべて禄でもないのばかりなので、より一層能力が際立ちます。よくぞあの破滅的な状況でフランスという共同体を守れたと感心します。彼無かりせば、欧州の姿はまた違ったものになっていたでしょうね。激務が祟ったのか早死にしましたが、長生きしていればまた欧州の姿は変わっていたものとも予想します。
 

[347] 詠み人知らず 2007/10/16 13:42

シャルル5世と云えば、かのタイユヴァンが仕えてましたね。
もっとも、シャルル5世の死因は食中毒らしいですが……

>>345
・当時の社会問題化していた傭兵のスペイン誘導(と云うか押しつけ)
・同地の相続問題に介入しカスティリャ海軍を味方につけ、大陸の英軍と本国の海路を妨害
などを考えると、知力か政治が更に微増しても良さそうに思えます。

[348] むた 2007/10/16 19:28

>>347
そうですね。数値はあくまで目安ですから、増減は可と思います。
一応知力は超人レベルと判断したので90。
政治は治世の後半に暴動が起こっているので少し減点という感じです。

[349] 粛清天使 2007/10/20 13:24

石田三成の武力について。

・関ヶ原前哨戦で散々チャンスを逃し、家康の注文どおりに野外決戦に引きずり込まれている
・西軍最大戦力は宇喜多秀家軍
・石田軍もよく戦っているが、それはどちらかといえば島左近等の前線指揮官の手柄

結局のところ三成は大勢をひっくり返すこともできなかったし、
奇跡的な勝利も、戦術の革新もしていません。
基準は人によって違うとはいえ、大村益次郎より高いというのは?

私が評価すれば40台。

[350] やっち 2007/10/20 14:22

>>349

 全く同感。
 仮に「実は武力に優れているんだよ」という解釈をとるとしても,世界史レベルで「超人」なんてあり得ない
(韓信やベリサリウスとタメをはっちゃうレベルか???)。
 この解釈をとるとしてもいいとこ70代,通説にのるなら20〜40代でしょう。
 

[351] 「ど」の字 2007/10/21 00:00

>>349-350
 きましたね。感想ありがとうございます。

 前哨戦などでの石田三成の拙劣な戦略については、武力でなく知力にマイナスして解釈したのです。どうも、石田三成という人間は部隊や兵士や戦場を駒や盤として見ており、戦場では指揮官の思うとおりにいかない事が多々あるという「戦場の霧」が理解できていない節があったので(会戦直前に隘路の伊勢街道を強行軍させて部隊を疲弊させたことなどは典型的)。
 しかし、全体を俯瞰して見れば哀れな程の状態から、あの徳川家康に対してあわやというところまで追い込んだこと(島左近は早い段階で負傷していました)、ほとんど時間の無い中で東軍への包囲を完成させ不意をついたことなどを踏まえて「超人的」数値90を与えたわけです。
 40台というと日本の戦国武将にあるまじき低い数字ですし、70でも「普通に優秀」クラスです。70台の武勇の武将が、数でも質でも勝る徳川家康の精鋭相手にあんな粘りは見せられなかったのではと思うのですが…。

 ですが、言われてみれば確かに韓信やベリサリウスなど世界史上の巨人たちとは比肩出来ませんね。90はインフレだったでしょうか?
 あと、あの状態から徳川家康を倒せていたら、どのくらいの武勇数値だったと思います?

[352] やっち 2007/10/21 01:34

>>351

 「実は武力に優れていたんだよ」という解釈は人それぞれなので,異議を述べるつもりはありません。
 ただ,そこから来る「90」という数字と,その前提となる史実に異議があります。

> あの徳川家康に対してあわやというところまで追い込んだこと

 程度問題ですが,別に「あわや」ってほど追い詰められてもないでしょう。三方原と比べても。
 家康直属隊はまだ温存されていますし,その本陣に迫ったわけでもない。
 粘りといっても,1日で敗走してますし,再起もできてませんし。
 大体,三成は笹尾山の本陣にいて,直接部隊の指揮をとっていないのでは。

> 40台というと日本の戦国武将にあるまじき低い数字ですし

 これにははっきり異議があります。
 どんな時代,どんな地域にも,色々な数値の人物がいるでしょう。
 「この時代だから最低限はこう」といった制約があるとは思えません。
 たとえば,私は,戦国時代でいうと,朝倉義景に武力20台をつけて何ら躊躇はありません。

> あと、あの状態から徳川家康を倒せていたら、どのくらいの武勇数値だったと思います?

 あの状態から家康を倒すなんてあり得ないと考えています。
 石田隊4000が戦場でどんなにがんばっても,政略・戦略上の不利を挽回できないでしょう。
 そういう意味で,倒せていたら「神」,数値は100です。

 武力の影に隠れていますが,統率80も過大評価だと思います。
 事務次官にはなれても,党首にはなれないタイプでしょう。

[353] 粛清天使 2007/10/21 12:35

石田三成が先頭に立って、正面の黒田・細川軍を蹴散らす
    ↓
南方に迂回して福島・藤堂の後方を遮断、宇喜多軍を挟撃して撃破
    ↓
これをみて小早川秀秋が西軍につく

ここまでできれば90台でもいいかなと。
こうなれば勝ち目も大いにあります。
かなり無茶苦茶ですけど、その無茶をやってのけてこその90台でしょう。

黒田官兵衛や伊達政宗の行動は、明らかに長期戦になることを想定しています。
家康が長期戦を望まなかったからというのが最大要因とはいえ、
半日で負けるというのはやはりだらしないといわざるを得ません。

確かに前半戦において西軍は善戦していますが、東軍が攻めてくるのを押し返しているだけです。
兵力不足のため、それを追撃して戦果を拡大することができていない。
ということはあのまま推移したとしても多少時間はかかるにせよ西軍の負けは確定です。

家康が焦って小早川秀秋の陣地に鉄砲を撃ち込んだという話がありますが、
別に負けそうになったからではなく長期戦を恐れたからです。
長引いて秀頼が出陣してきたりすればどう転ぶか分からないですから。

[354] 「ど」の字 2007/10/22 15:36

>>352
 そうか…。家康が危ないほど突出したのは、危機に陥っての督戦ではなく100%完全に性癖の産物だったということになる…。
 >> 40台というと日本の戦国武将にあるまじき低い数字ですし
 >これにははっきり異議があります。
 失礼しました。「真っ当な戦績を残した武将としてはあるまじき」ということです。

>>353
 >黒田官兵衛や伊達政宗の行動
 当時、西軍に付いたり日和見して利を得ようとする勢力にとって、戦いは長引くという予想(もしくは行動計画の連絡)があったんでしょうか。
 となると、家康の構えに乗って一日で事を決する会戦を挑んだこと自体が石田三成の致命的失策になりますね。
 素早い手当てで完全な鶴翼の陣形を描き、東軍を包囲網に捕らえたことまで、相手の読み通りに動いてしまっていたんでしょうか?
 もしこんな明白な陣形の不利によって寝返る筈の敵が寝返らなかったら、家康はどうするつもりだったのでしょう?
 自分の戦略と調略にそこまでの自信があったのでしょうか……。

[355] ラスカリス 2007/10/23 00:27

>>352
 横レス失礼しますが、島左近負傷後に先頭に立って指揮を執り、戦線を立て直していますよ。

[356] マフムード 2007/10/23 01:31

荒れるとあれなので、皆さん荒れない程度の議論をお願いしますね(笑)

数値評価はもちろん評価者が好きなようにすればいいというのを前提にしてですが、仮に自分が三成をやるのであれば、やはり武力90はあり得ないと思います。
また知力や政治の評価も変わると思います。たとえば朝鮮との裏交渉をやったという行為自体は別に減点理由にならないと思いますし。

まあ、おそらく「ど」の字さんの評価スタイルというか、方法論(?)と自分のが違うのでしょうね。
だからこういう評価もまた、ひとつの見方としてはありなのだと思います。

ただ、三成を90にしてしまうと、やはり他の人物とのバランスが難しくなってくると思います。それに北条攻めで三成の大軍から城を守りぬいた忍城の成田一族なんかもいますが。

[357] 三太郎 2007/10/23 13:30

北条氏規(1545〜1600)

統率62
 伊豆韮山城主。伊豆半島三浦半島を統治していました。
 また北条の水軍も彼の管轄下にありました。
 遺漏無くそれらを統率してましたが、後北条家と言う完成したシステムの中でのことですから、この程度で。

武力70
 守城の名将。
 武田軍も、豊臣軍も、彼の守る城を力押しで攻め取ることは出来ませんでした。

知力69
 上方との戦力差を正確に認識していました。結果論かもしれませんが、その認識を基にした立ち回りの結果、彼の一族は幕末まで血を保つことができました。
 また、各種技術者の保護と、有事における利用などもやってました。

政治75
 北条の外交担当者。外の大勢力と折り合いをつけ、結果、後北条が関東で一人勝ちできる状態を作り上げる。

魅力71
 抵抗した最後の大勢力の領袖の一人でありながら、後々、大名並の石高を得ていること、外交官として実績を上げていることから、魅力的な人物であったと推測される。

略歴:
 北条氏康の五男。兄たちが他家へ養子として出て行ったため、公式の場では、次男として扱われたとか。
 幼少時は今川に人質として出されていました。同様の立場にあった徳川家康のエピソードなどを鑑みると、後の外交官としての素養はこのときに養われたのではないかと思われます。
 その後、伊豆韮山城、上野館林城及び相模三崎城の城主となる。後北条氏の守勢方面担当として、重きを成しました。
 武田、織田、徳川、豊臣など激変する西方の有力者との外交に尽力。
 だが、豊臣秀吉の小田原攻めの際はに韮山城に立て籠り、十倍余の豊臣軍に対し武勇の将たることも発揮しました。
 小田原開城後は氏直とともに高野山に赴き、後に河内国に領地を与えられています。

[358] ベタピン 2007/10/24 00:43

カート・コバーン
(伝説的ロックバンド【NIRVANA】のボーカル、1967〜1994)

【統率】52
バンドのフロントマンとしてやるべき事はやっている。デビュー当時はハードロック全盛期だったにもかかわらず、圧倒的なライブパフォーマンスによって沢山のファンをライブハウスに呼び込んだ

【武力】35
白人(アメリカ人だが、アイリッシュ系の移民の血を引いている)として普通の体格ではあるが、ドラッグによって肉体はボロボロのためこのくらい

【知力】60
知力に関するエピソードは殆ど無いが、歌詞に『白黒混血児』や『本当に銃は持ってないんだ』等の意味深な比喩表現を使うなど、音楽の専門家の間では詞の評価が高く、よく頭の回る人物だったらしい

【政治】20
生放送の番組でプロデューサーに「レイプミーだけは絶対に歌うな」と言われたのに1曲目に持ってきたり、MTVの壇上ではマイケルジャクソンの物真似をしておちょくる等(実際にやったのはカートではないが)、後先の事を全く考えず行動して後に色々と不利益を被っている

【魅力】82
米国の若者にとって『ロック=ニルヴァーナ』という方程式が成立つ程のカリスマ。
彼らの音楽を表すグランジとは『薄汚い』の意であるが、これはカートを始めとしたシアトルのロックグループ全般がボロボロのシャツやジーンズを着用していたからである。穴開きジーンズが当時ファッションとして広まったのはカートの影響だと言われている。
容姿は十分男前と言えるレベルで、かのビヨンセも「カートはクールでセクシー!」とベタ褒めしている

【列伝】
本名カート・ドナルド・コベイン(コバーンは誤った読み方)
幼い頃に両親が離婚し親戚中をたらい回しにされ、音楽のみが友達という寂しい幼少期を過ごした。後にベーシストとなるクリスと出会ってからは共に車の中で生活し、お互いの彼女がバイトしているカフェの食料を盗んで食い繋いでいたという。ニルヴァーナ結成後はアルバム『ネバーマインド』の成功によって一気に音楽界の頂点に駆け上がる。
めったに新人を褒めない事で有名な英国の評論家に「ニルヴァーナこそロックの救世主であり、ネバーマインドは時代の聖典である」とまで言わしめた。

(続きます)

[359] ベタピン 2007/10/24 01:30

【列伝(続き)】
当時はハードロック&メタルの全盛期であったが、ニルヴァーナはそれらを一掃し『ニルヴァーナ以前の音楽とニルヴァーナ以降の音楽』という言葉が表す通り世界のトップバンドとなる。
しかしこの巨大な成功によってアンダーグラウンドシーンで共にやってきた仲間からの妬みや、メディアからの過剰な期待に疲れ果てついには銃で頭を打ち抜き自殺してしまう(他殺説有り、また彼の死んだ年齢はジャニス・ジョプリンやブライアン・ジョーンズ、ジミヘンといった音楽界の偉人と一緒)。
こうして瞬く間に音楽シーンの頂点に立ち、消えていったカートは世界中のメディアに『ジョン・レノン以来の衝撃』と報道され、死後ロック界の伝説になる。
尚、遺書にはニール・ヤングの歌の歌詞から取った『衰えて消えるよりも今燃え尽きたい』と書いてあった

今でも世界中の若手ロックミュージシャンに「影響を受けたアーティストは?」という質問をすると、先ずニルヴァーナとカートの名が出てくる。
また米国の音楽誌が『アメリカ史上最も偉大なバンドは?』というアンケートをやると決まって1位はニルヴァーナであり、世界一有名な英国の音楽誌ローリングストーン誌が『歴史に残るバンドは?』というアンケートを行った際は、ビートルズに次いで第二位であった。
さらに2006年にはジョン・レノン、エルヴィス・プレスリーという巨人達を抜き故人として最も稼いだ人物となる。

【特殊技能】
(1)伝説化
死後魅力が100になる
(2)カリスマ
彼の所持するアイテムの価値が跳ね上がる(カートの使っていたジャガーというギターは不人気機種でフェンダー社も生産を中止していたが、彼が使った事によって人気が爆発し再生産されるようになった)

[360] やっち 2007/10/24 02:33

>>358

 遂に出たね。
 リアルタイムで聞いたのは高校のときだったかな(歳がバレる・・・)。衝撃だった。みな髪型真似ようとしたなぁ。
このとき買った「ネヴァーマインド」と「インユーテロ」のCDは聞き過ぎて
すり切れシャカシャカいってるなぁ。
 数字については何ともいいようがないけど,何となく納得だ。

[361] 「ど」の字 2007/10/24 20:25

>>ALL
 活発な指摘、ありがとうございました。
 もう少し練ってからとも思いましたが、自分の意見を上げてみてよかったです。

 次回は新田義貞かルーク・スカイウォーカーの評価になると思います。

[362] 片田舎の偏屈士 2007/10/27 00:47

マテオ・リッチ
1552年 - 1610年

【統率】56 明におけるイエズス会の代表としてキリスト教布教に成果を上げた。
【武力】5 軍事的才能を発揮した機会はないので最低ランクで評価。
【知力】89 苦節20年。明の官僚らによる賄賂の要求にも応えるだけではなく、その万能な知識を駆使した知識人との交流。地道な普及活動により中国におけるキリストの布教活動を成功させた。その柔軟な姿勢は、中国の言葉、習慣を身につけただけではなく、中国人の性質を理解した上で、それを蔑視に結び付けない先見性の賜物であったといえる。
【政治】82 清貧、貞潔をモットーとするイエズス会の人間でありながら、明の宮廷に入るまでの辛抱強い根回し。西洋の知識を切り売りしての人脈確保。中国文化に順応したキリスト教の解釈(これにより今に続くカトリック本山との典礼論争が起きるのだが)を提案するなど、手段を問わない行動により、ザビエルですら適わなかった布教という目的を果たした。
【魅力】85 知識の高さからくる優れた人格者として有名。20年もの間、中国から排除されること無く布教を続けられたのも、適応主義を第一と考える彼の穏やかな性格があったからと思われる。

【特殊能力/修正】
適応主義:政治+5 魅力+10(カトリック派に対しては-20)

[363] 片田舎の偏屈士 2007/10/27 00:47

中国、布教への道

東アジアにおけるイエズス会の中心人物。中国名、利瑪竇(りまとう)としてキリスト教の中国宣教の道筋をつけた。
イタリア生まれ。若くしてイエズス会に入会し、宗教学の他、様々な学問(地理学・天文学・数学)を身に付けた。
若くしてアジア布教に赴いた彼リッチは、インドを経て、アジアの覇権国家であり、海禁策の影響で布教も困難な中国(明)での布教を試み、マカオから広東の地へと入り、そこで定住の許可を得た。
彼はイエズス会が提唱していた「適応主義」を実践し、中国の言葉と習慣を学び取っただけではなく、儒学者の服を着て中国風の生活を送るという、当時の西洋人としては考えられないほどに現地に溶け込み布教活動を行った。
広東での布教に手ごたえを感じたリッチは、次に南京を拠点を移し、
万暦帝の宮廷へ入廷の許可を取り次ぐ努力を開始する。
政府高官・官僚ら明政府の関係者には機械時計や世界地図・地球儀などの西洋渡来の品物を贈ったりなどし関心を惹こうとした。また、噂を聞きつけた知識人階級には科学知識を紹介。その中には後に明末期の宮廷で偉才を発揮する徐光啓もおり、人脈の確保は着々と整いつつあった。
一度は秀吉による日本の大陸侵攻によって途絶しかけた入廷の許可だったが、1601年についに念願の北京入廷を果たし、中国の政府による公式的なキリスト教の宣教活動の許可を得る。
リッチは、キリスト教の西洋的な考えを強要するのではなく、中国の文化、儒教の考えを取り入れた柔軟な——正統派から見れば明らかに異端・異質と取られる——教義を取り入れた布教を行った。

[364] 片田舎の偏屈士 2007/10/27 01:00

ようやく現役復帰。長い作業も終わったので、ちょこちょこと評価していきます。

ちなみに、最終的にリッチの取った行動がキリスト教布教へ影響があったのかを判断すると、プラスよりもマイナスの面が大きいように思えます。(カトリック側から見た場合ですが)
ただ、リッチが——というか、リッチのもたらした知識は、中国では高く評価され、更には海を越えた日本にも『坤輿万国全図』、『農政全書』が輸入され、世界情勢・農業技術の進歩など大きな影響を与えています。

>>評価方法
遅れましたがレスを。
私の場合、能力評価はいわゆる平均法です。過去に評価された人物の中で、似たような人物から検討して高すぎないようにして数値を出しますので、極めて受動的なスタイルです。
才能云々は、机上の空論と取られかねないので、自分がやるとなると恐れ多くて恐縮してしまいます(-_-;)

[365] 2007/10/28 22:50

イエス
オール100

[366] やっち 2007/10/29 01:41

>>362

 全然詳しくないですけど,適応主義の発案者はヴァリニャーノで,リッチはその体現者だと
イメージしています。
 優れた人物であることは疑いありませんが,先見性よりも政治力に優れていそうなので,
私見では知力と政治力の数値を別にするかも知れません。

[367] 片田舎の偏屈士 2007/10/29 21:56

>>366
知力と政治力に関しては結構悩みました。
政治の評価に
※己の描いた方策を実現する能力。内政、外交、謀略の能力。

とありますが、リッチの場合はさほど困難ではないかもしれませんが、地道な行為を忍耐強く行ってきた結果によって宣教活動の許可につながったと思いますので、

※問題への正しい理解・判断能力。先見の明。戦略眼。意志力。
の意志力を中心とした知力評価を優先させました。

なお、私的な感想ではありますが、リッチは当初、キリスト教徒たる中国人になろうとしていたのが、中国人たるキリスト教徒に変容していったように思えます。
その中で、リッチが、儒教の考え方を西洋人として初めて宗教・信仰ではなく、思想・哲学としてとらえたと考えるのであれば、知力は90を超えて評価しても良かったと思いますが、そこは仮定でしかないので今回はそこで止めました。

[368] ヘレニコイ・カタフラクトイ 2007/10/31 12:18

一世紀のローマの将軍(ゲルマニクス、コルブロ、パウリヌス、アグリコラなど)の誰かをお願いできますか?

[369] ヘレニコイ・カタフラクトイ 2007/11/01 14:46

お願いするだけでも何なので自分でもやってみました。
人物はトイトブルクの森でローマ軍を壊滅させたアルミニウスです。

アルミニウス(本名は恐らくイルミン) 紀元前18年〜紀元21年
ケルスキ族長、後にゲルマニア中部の諸部族で構成された反ローマ連合のリーダー

【統率】85
寄せ集めのゲルマン諸部族を、長期間に渡ってローマを相手に率いました。

【武力】88
寄せ集めの部族の少ない兵力で、トイトブルクの森でローマ軍の精鋭三個軍団を見事に包囲し殲滅に成功しました。
その後、彼に加わった部族は大幅に増え下手をすれば烏合の衆になっていたかもしれませんがこれを見事に纏めて、知将ゲルマニクスに率いられた質・量ともに大きく勝っていたローマ軍を相手に互角以上の戦いを演じました。

【知力】78
幼少期はローマに人質として住み、ローマ市民権を獲得し、騎士階級に任命されたのである程度の教育を受けています。また、しばしば敵対していた多くの部族を何とか一つに纏めた手腕は見事な物です。

【政治】75
バラバラのグループを一つに纏めて共通の目的に当たらせ、大きな成功を収めましたが最後は身内に寝首を掻かれたからこれ位だと判断しました。

【魅力】82
反目しあっていた諸部族を長年率いた事からカリスマ性はあったのでしょうがローマの撤退後は内紛が起こり、最後は同じ部族の者に暗殺されました。

アルミニウスは紀元前18年頃にケルスキ族の長セギメルスの息子として生まれ、幼少期は人質としてローマで暮らしました。
その後、何らかの経緯によってローマ軍の補助軍に入隊。
ケルスキ人で構成された補助大隊を率いて紀元4年のパンノニア蜂起での活躍によってローマ市民権と騎士階級を授与されます。
その後故郷ゲルマニアに戻った後はゲルマニアを属州化しようとしていたローマ軍を追い出す為に他の部族を纏めようとします。
ローマ人の総督ワルスの忠実なアドバイザーを演じつつ何とかケルスキ族のほかに今まで敵対していたマルシ、カッティ、カウキ、ブルクテリ等の部族を指揮下に置き、紀元7年に嘘の反乱の情報をワルスに報告。
彼を信頼しきっていたワルスは全軍、三個軍団を率いて出発。
アルミニウスは見事にローマ軍をトイトブルクの森に誘い込み、ローマ軍よりも少ない兵力で包囲に成功しワルスとその兵士3万人以上が戦死したと言われています。
これによってローマのゲルマニア属州化は失敗しましたが、必ずあるであろうローマの逆襲に備え更に多くの部族を自分の反ローマ連合に組み込みます。
そして彼の予測通り4年後の11年にティベリウス率いるローマ軍が侵攻を開始します。
ティベリウスは大きな成功を収める事が出来ませんでしたが橋頭堡を築く事には成功しました。
2年後、皇帝になったティベリウスの後を引き継いで彼の甥であるゲルマニクスが後を引き継ぎます。
10万以上とも言われる圧倒的な大軍を率いた彼は彼は幾つかの大きな成功を収めゲルマニア深くにまで侵攻。
その間アルミニウスは更に多くの部族を引き入れローマ軍に対抗出来るだけの兵力を得、ローマ軍の全騎兵部隊を罠にはめその殆どを殲滅する事に成功しました。
この大損害を受けゲルマニクスは撤退を開始しますが、道路を確保する為に別方向に派遣されたベテランの将軍カエキナ率いる三個軍団をアルミニウスは包囲します。
この軍団は大損害を受け下手をすればトイトブルクの二の舞になったかもしれませんが、アルミニウスの叔父が先走り不用意な総攻撃をしかけた為ローマ軍が大勝、なんとか撤退する事に成功しました。
16年に再びゲルマニクスはゲルマニアに侵攻し、アルミニウスの連合軍と三つの会戦を戦います。
三つとも双方が多大な損害を受けた引き分けに終わり、これ以上戦うのが無理だと判断したゲルマニクスは再びゲルマニアから撤退し、ここに至ってティベリウス帝は勝利が不可能であると悟り、ゲルマニア征服を公式に中止しました。
アルミニウスはローマ軍を追い出す事に成功し、その後はアルミニウスに加わらなかったマルコマンニ族の長マルボドゥスと争い始めますが、これは引き分けに終わります。
21年、アルミニウスは彼の権力を恐れたケルスキ族とカッティ族の人間に暗殺され、その39年の生涯を終えました。

どうもこの人間は過小評価されてる様に思えます。
装備でも訓練でも、そろどころか数でさえ劣っている寄せ集めの部族を率いて知将が率いるローマ軍を相手に互角以上の戦いをし、ローマ軍をゲルマニアから撤退させる事に成功したのですからもっと評価されても良いんじゃないでしょうか。
寄せ集めの部族を率いて知将に率いられたローマ軍を相手に戦ったと言う点でウェルキンゲトリクスと似ているかもしれませんが、ウェルキンゲトリクスと違いアルミニウスは成功しました。が、知名度で上なのがウェルキンゲトリクスなのは何でなんでしょう?

[370] やっち 2007/11/01 15:29

>>369

 アルミニウスをどう評価するかは、その敵手であるゲルマニクスをどう評価するかと表裏一体だと思います(ヴァルスが「文官」であって軍事に
疎いことは争いがないので。)。

 で、私見ですが、ゲルマニクスをそれほど高く評価べき材料が見つかりません。
 彼の率いた遠征軍はトライアヌス帝のダキア遠征軍と双璧をなす、全時代を通じてローマ最強の軍隊だと
思いますが、その成果はトライアヌスとは比べようもありません。
 練度、装備、技術、士気に優れた大軍団を持っていれば、ある程度優秀なら
あの程度の戦果はあげられるでしょう。逆にいえば、精鋭の大軍団を持ちながらあの程度のことしかできなかったのです。
 それからすると、ゲルマニクスは、統率が70台半ば、武力も70台に届くかどうか、といったところ。

 とすると、アルミニウスの数字も自ずから決まってきます。
 優秀な武人であることは疑いませんが、武力88は過剰であるとの念を禁じ得ません。いって80、ってところでしょうか。

 ウェルキンゲトリクスは、武力90を確実に超えるであろうカエサルが相手ですからね。
 ただ、戦場では鎧袖一触にされているので、武力は60台、統率や知力が高いタイプとみます。
 アルミニウスと比較すると、武力はアルミニウスが上、統率はウェルキンゲトリクスが上で
あるとの印象です。

 あくまで私見ですので、ご参考までに。

[371] ヘレニコイ・カタフラクトイ 2007/11/01 19:34

ご意見ありがとうございます。
初めてでちょっと勝手が解らないので色々と問題があったかもしれません。
ゲルマニクスが70台(優秀、知将レベル)であり将軍としてカエサルより一段下の人間である事に異論はありません。
タキトゥスは色々と言い訳をしていますが敵より大幅に優れた戦力を率いてもあの程度の戦果しか残せなかったのは歴とした事実です。
しかしそれはやはりアルミニウスが相手だったから、だとも思うのです。
またアルミニウスはウェルキンゲトリクスと比べて幾つか不利な点がありました。
まず兵数の問題。
ガリアの人口はゲルマニアよりもずっと多い為、誇張はあるとしてもウェルキンゲトリクスの兵数がローマ軍を大幅に上回っていたのは事実です。
これに比べてアルミニウスの方は殆どの場合ローマ軍より少ない兵数で戦わざるをえませんでした。
そして装備の問題。
ガリアの軍はローマ軍までではないがある程度は発達しており多くの兵士が少なくとも盾、兜、鉄製の武器を持っていました。
ゲルマニアの方はいわゆる未開地域で、殆どの兵士は半裸で戦い盾はただの木の板という粗末な物で武器も木の棍棒を使う物が少なからずいました。
最後に自意識の問題。
ガリア人は確かに幾つもの部族に別れていましたが自分達を「ガリア人」であると明確に認識しておりウェルキンゲトリクスは割合簡単に「全ガリア解放の為」と言う名分で彼らをまとめる事が出来ましたが、ゲルマニア人は自分のアイデンティティをまず部族においてあり「自分はゲルマニア人」と言う意識は非常に希薄でした。
これらの面でアルミニウスはウェルキンゲトリクスより不利であり、その上でウェルキンゲトリクスより優れた結果を残した事からアルミニウスの方が上だと考えたんですが…
ただ公平を期すればローマ軍を観察するしか出来なかったウェルキンゲトリクスと違い、アルミニウスはローマ軍の将校にまでなりパンノニア蜂起で補助兵大隊を率いると言う事までやり、ローマ軍の長所と短所を知り尽くしていたと言う点ではずっと有利でした。

優秀な将軍に率いられ、数、錬度、装備で大きく上回る当時世界最強クラスの軍隊をともすれば烏合の衆になったであろう諸部族の寄せ集めを率いて勝利した事を考えれば武力・統率は一級レベルが妥当だと思いますが、どうでしょう?
ただ知力か政治は致命的な失敗(自部族を掌握出来ずに勝機を逃し最後は暗殺される)を犯した事から見て60、50台にした方が良かったかも。

[372] 「ど」の字 2007/11/01 23:36

>>369
 労作、お疲れ様です。
 自分、このあたりの時代のローマ関係者はいつかやろうかと思っていたのですが、その他の人々の評価を優先させていましたので伸ばし伸ばしになっていました(ちょっと筆が動かし難い人でもありましたので)。

 で。私見です。
 自分は、アルミニウスを謀略と学習能力で戦った知将タイプであると見ています。ローマ人によるトイトブルグ森の戦場跡の記録から、ローマ軍を熟知している様子も伺えますし。
 知力と政治力については、この数字でだいたい間違いないかと思います(自分なら政治力に70、知力は80台前半をつけます。彼の存在はゲルマンの歴史に大きな影響を与えていますので)。
 逆に統率と魅力は高くないのではないかと思います。弟や叔父の手綱捌きを誤り、また最終的に部族内の掌握にしくじっていますので。
 また、武力はそんなに高くしなくてもいいかと思いますよ。彼は知力によって勝つ算段をつけてから戦場に出るタイプに見えますので(自分なら70ですね。なおこの数字はローマの将ゲルマニクスと同値です)。

[373] やっち 2007/11/02 18:04


 比較対象として、この人をやります。

ヴェルキンゲトリクス

統率 82
 一有力部族の族長に過ぎない身で、多くの部族が割拠するガリアの「王」となり、
諸部族を対ローマにまとめた統率力は一級である。
 戦いに敗れても統率を失うことなく、ますます強化されたと評される。
 ただ、その期間は約1年と短く、長期戦となった場合も結束を保てたたどうか微妙であること
(本人自身も過剰な期待を抱いていなかった節がある。後述。)、自らの方針を徹底できずアヴァリクムを焼き払えなかったことからして、
過大な評価は与えられないであろう。

武力 60
 戦闘自体はそれほど得手ではない。
 ゲルゴヴィア攻防戦ではカエサルを破っているが、これは地の利によるもの。
 アレシア攻防戦に先立つ平地での会戦では、優秀かつ優勢な騎兵を投入し、三方から包囲する陣形を布いたにも
かかわらず、カエサルに取り返しのつかない惨敗を喫している。

知力 75
 アルウェルニ族における権力奪取は見事。
 強力なカエサル麾下の軍団に会戦を挑まず、焦土化作戦・ゲリラ戦を挑むという戦略も正しい。
 が、惜しむらくは、ローマ軍の策源ともなりうる要衝アヴァリクムの焼き討ちを行わず焦土化作戦の徹底を欠いたこと、焦土化作戦が功を奏し
カエサルを撤退寸前まで追い込んだにもかかわらず、その有利な状況を捨てて
無謀な会戦を挑んでしまったことからして、戦略の徹底を欠き、一級の評価は与えられないだろう。

政治 72
 ガリア諸部族の扇動に見事に成功。
 これらガリア諸部族を統率するのに、ローマ人を殺して背水の陣を布く方法、強圧的な手段で抑えつける方法をとっているが、
これはさしあたり有効であり、「自分の意志を実現するため非物理的手段を他者に行使し、成功する能力」
は優秀である。

魅力 65
 アルウェルニ族の勢力と強圧的な手法で他部族を従えており、その人的魅力で
他部族を引きつけていたとは言い難い。

[374] やっち 2007/11/02 18:33

−ガリアの王−
 ガリアの有力部族、アルウェルニ族の族長の家に生まれる。
 カエサルのガリア遠征に対してガリア諸部族は結束を欠いており、アルウェルニ族も親ローマ派族長の下にあったが、これを通報して部族を掌握。
 ガリア諸部族を「全ガリアの自由」を旗印に扇動し蜂起させ、その結束を図る。
 戦略としては、ローマ軍に会戦を挑まず、ガリアの地を焦土と化し、ゲリラ戦を挑むことで、ローマ軍の兵站を破壊するものである。この戦略は極めて有効でありかつローマ軍に対抗しうるほぼ唯一の方法であったが、
ヴェルキンゲトリクスの独創ではなく、反ローマの先達であるアンビオリクスが
中途半端に行って失敗していた施策を発展的に継承したものである。
 ガリア中部を焦土化し、ローマ軍を苦しめるが、物資豊富な要衝アヴァリクムについて、
諸部族より焼き討ちを免除するよう懇願を受け、焼き討ちを断念する。
直後、図ったかのようにカエサルにこれをターゲットとされ、アヴァリクムは陥落、要地と物資を失う。
 その後も焦土化作戦、ゲリラ戦を続け、アルウェルニ族の本拠ゲルゴヴィアでは
攻めるカエサルを撃退する。
 このように有利な状況にありながら、何を勘違いしたのか、ゲリラ戦を放棄して
ディジョン近郊でカエサル相手に無謀な会戦を挑んでしまい、大敗。
彼がこのような自殺的な選択をしてしまった背景はよくわからないが、出撃を望む族長たちを抑えられなかったか、カエサルが南仏に一時的に撤退すると、脅威が去ったことで現在のガリアの結束を保っていられないと判断し、有利な状況で「ダメ押し」をすることに賭けたかの
いずれかであろう。
 敗退し、近郊のアレシアに籠城する。
 アレシアを包囲するローマ軍に対し、自らは籠城軍を率い、駆けつけた解囲軍と共に決戦を挑むが大敗(アレシアの戦い)、
自らカエサルに降伏する(なお、「ガリア戦記」にはガリア軍が30万近い大軍であったかのような描写が
あるが、これは明らかにカエサルの故意又は従者や奴隷まで数に含めた誇張された数字であるとの
指摘が、ナポレオン以来根強くなされている。現在では、ガリア軍の純戦闘員は籠城軍と解囲軍をあわせてローマ軍とほぼ同数かやや上回る程度と
されている。)。
 その後刑死。

 扇動家です。支配者にとっては危険なタイプの人物です。自尊心も高く、
人の風下にたてる人物ではないので、有能ではあってもさっさと粛正するにしかずです。
 戦略に徹底を欠いたのは、その若さもあったのでしょう。優秀な人物であったことは
確かなので、もう少し修行を積み、人間的にも練れていたら、その蜂起はもう少し成功に近かったかもしれません。

 近代、ナショナリズムの高揚によりフランスの英雄とされています
(死後、1900年経過すると魅力+30)。

[375] 振ると面食らう 2007/11/02 18:55

この手のスレはキライだなぁ。
数値化なんかゲーム世代しかしないぞ?
てことでさげ。

[376] やっち 2007/11/03 04:09

 皆様、>>375に対してはいろいろおっしゃりたいこともあるでしょうが(キライなら見るな、とか。)、
ここはスルーでいきましょう。

[377] ハーン 2007/11/03 18:27

>>368
 意外と食いつきのいい話題なので、思いっきり変化球を投げることにします。勿論、重複を防ぐためです。

>>373-374
 相手がローマ最強のカエサルであることを踏まえても、一年ちょっとで敗北しているので、このくらいが妥当だと思います。

[378] ハーン 2007/11/03 18:28

パブリウス・オストリウス・スカピュラ

??〜52年

統率……62 初期の総督ということもあって、結構反乱が起きていました。同盟部族に助けられることもあります。ただ、それほど大規模なものではなく、兵の規律がやけに悪いわけでもないのでこのくらいはあるでしょう。

武力……68 それほど優勢とはいえない状況でよく戦い、自分のミスで事態を悪化させながらも勢力拡大に貢献しました。といっても素晴らしい勝利があるわけでもないのでこのくらいかと。

知力……52 彼自身がどのようなビジョンをもってブリタニアに挑んだのかは分かりませんが、征服を目論んでいたウェールズ辺りで足止めを食らったんですからこんなものでしょう。勝てそうな戦いを配下に説得されるまで見合わせようとしたりすることもあり、戦場の判断に疑問がないわけではありません。

政治……45 ブリタニアで最初のコロニアを作ったのですが、彼の時代のブリタニアは世情が安定していたとは言えず、細かいことは彼の後継者に委ねられることになりました。さらに彼は過激な発言(「南と東のブリタニア人は全て武装解除だ」とか「シルリア人は皆殺しか追放だ」)をしており、その言葉を発するたびに反乱が起きたり抵抗が激しくなったりします。

魅力……42 人柄が良かったという話はありませんが、タキトゥスによると有能な軍人であったというのでそこそこ評価されていたのでしょう。ですが、前述の発言を考慮すると人望に乏しいようにも思えます。

 列伝 ブリタニアの征服者その2

 親衛隊の長官であるクイントゥス・オストリウス・スカピュラの息子であったと言われているが、本当かどうかは分からない。
 彼の経歴はあまりはっきりしないが、46年に補欠執政官を勤めたと言われている。47年の冬にクラウディウス帝からアウルス・プラウティウスの後任としてブリタニア総督に任命される。
 ブリタニアの征服を押し進めて成果をある程度あげるが、52年に長年の従軍がたたったのか、突然死亡する。まだまだ問題を抱えていたブリタニアが安定するのは当分の先のことである。

 武力の高い典型的な軍人タイプです。規模の大きくない戦場なら十分に活躍してくれるでしょう。それ以外の能力も平均か、それからやや落ちる程度なので、過度な期待は出来ません。
 全ての人物が有能というわけではないのですから、こういった人物を適切な場所に配置することが君主の勤めであることを忘れてはなりません。
 古代中世ではあんまり珍しくない一発屋です。ブリタニア総督になる前のことなんてほとんど分かりません。

[379] 三太郎 2007/11/11 01:34

三好長慶(1522年〜1564年)

【統率】58
 気にはかけていたようです。
 有力者の跡継ぎに自分の弟を送り込むなどのソフトな統率、一族内部の有力者である三好政長を殺害するなどのハードな統率を使い分けています。
 しかし、一族内部の反抗を気にしすぎた結果、松永久秀の専横を許してますので、その分を減点しています。

【武力】75
 内戦作戦に長けていました。
 水上輸送力を十全に利用したその戦術は、細川管領家とその与党。六角畠山連合軍を向こうに回した戦いを優位に進めています。

【知力】50
 教養人では在りました。
 また、畿内で実権を握るための適当な処置をしているとは言えます。
 しかし、世界は畿内で完結しているわけではありません。

【政治】61
 父の代、敵対関係にあった本願寺と完全な協力関係を成立させています。また堺や山崎などの経済上の要地との関係も良好で、それらは彼の死後の三好党が、畿内で長く戦いを続け得た理由の一つになりました。
 天皇家、将軍家、管領家と言った既存権威を利用して、己の権力維持を強固にしようとしていた模様ですが、こちらは上手く行っていません。

【魅力】47
 同輩以上には温厚な君子であった模様です。民からは、暴虐をなせば嫌われ、そうでなければ賛同される程度でした。
 また、目上の者に慕われるということもありませんでした。
 そして、後世の評価は、腹黒い権力欲の虜以外の何者でもありません。

【略歴】
 応仁の乱以降、信長以前に畿内で最大の力を得ていた人物。
 細川管領家に仕えた三好元長の子。とは言え、当時の畿内は極めて混沌としており、離散集合は当たり前であり、そのうちの一コマとして、元長は管領細川晴元方の一向一揆によって殺されている。その後、晴元は法華宗と組んで、一向一揆と矛を交え、それが長慶の勢力回復の役に立つあたり、真面目な話訳が分からない。
 ともあれ長慶は、父の死により、11歳で後を継ぐ。
 畿内に元長が持っていた勢力は失われていたたが、代々阿波に維持してきた勢力は健在で、それを背景に失われた勢力を回復していった。
 細川晴元の重臣として転戦するが1548年、三好一族の有力者三好政長を除こうとした際、晴元とも敵対。加えて足利将軍家、近江の六角氏、摂津の伊丹氏、紀伊の根来衆徒なども敵に回すことになる。
 この危機を、しかし長慶は1549年摂津江口の戦いで六角軍来援前の速戦で三好元長を戦死させ逆転、以降、摂津、山城で攻勢に出る。その後、度々暗殺の危機に見舞われるものの、1552年に一まず足利義輝らと和睦した。
 だが、細川晴元は三好方の波多野氏、芥川氏を引き込んだ上で反抗に転じる。これに足利義輝も加わったため、長慶は再び各地を転戦することになる。とは言え、全般的に三好方は優位を維持し続け、1558年に義輝と再び和睦する。
 その後、河内、大和に勢力圏を広げていくが、1561年、六角義賢、畠山高政に、和泉と山城で同時に戦端を開かれる。
 戦力の分散を余儀なくされた三好方は長慶の弟、義賢が久米田で戦死するなどの損害を被るが、戦力の集中に成功した葉引野の合戦で勝利し高政を追い、六角軍も撤兵に追い込む。
 しかし、落とし穴は内側に開いていた。
 1563年、嗣子義興が急死。重臣松永久秀による毒殺と噂される。
 1564年、弟安宅冬康を誅殺。これまた久秀の讒言によるとされる。
 同年、7月4日に河内国飯盛城下の屋敷で病没。またまた久秀の企みとの流言が流れる。

[380] 片田舎の偏屈士 2007/11/19 21:45

文天祥
1236年 - 1282年
【統率】43
 対モンゴル戦においてゲリラ活動で対抗したが、最後は見限られてしまった。
【武力】50
 軍事的な知識は持っていたのだろうが、それで大勢を変えられたわけではない。
【知力】59
 滅び行く宋の希望の星らしく優れた知識と才能を持っていたが、それを活用出来る機会があまりにも少なかった。また、モンゴルとの和平交渉の際には高慢な態度を取り、伯顔の不評を買ったとも言われる。その後も囚われの身でありながら、頑なに自己の信念を貫くあまり、宋の反抗勢力を救うことに何ら貢献することなかったことは、上に立つものとしては贔屓目に見ても問題があるといわざるをえない。
【政治】62
 献進する政策が実を結ぶことはなく。また、それが効果的であったかは不明。それなりと評価するしか。
【魅力】73
 宋の文官らしく理想的で実直な性格の持ち主であることから、敵味方問わず貴族的な思考の持ち主には評価されたが、その一方で、妥協を許さず融通の利かないことから疎まれる面も多くあった。死後、武人としての岳飛に対する文治主義の理想像として神聖化され、その精神は日本の知識人にも影響を与えることとなる。

[381] 片田舎の偏屈士 2007/11/19 21:51

忠節に殉じた文官

南宋末期に偉才を発揮損ねた忠臣。20歳の時に科挙を首席で合格するほどの優れた知識の持ち主であり、試験官の王応麟をして理宗に「人材を得たことを慶賀します」と言わしめさせた。張世傑、陸秀夫と並ぶ南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人。
現在の江西省吉州廬陵の出身で、1258年、20歳の時に科挙を状元(首席の事)で合格した。その際提出された論文の題は「法天息まず」という名論文であり、試験官の王応麟をして理宗に「人材を得たことを慶賀します」と言わしめた。
迫り来るモンゴル帝国の前に滅亡寸前の南宋の中で最後まで徹底抗戦を主張する抵抗派であったが、モンゴルとの密約で生き残りを図ろうと専横を極める宰相・賈似道に反発。遷都に反対し免官され、辞職をするが、後に復職しモンゴル軍との戦い身を投じる。その後、モンゴルとの和約交渉の使者として派遣され、伯顔(バヤン)との会談が行われるが、「文明の担い手である正統なる宋を北朝(夷狄)であるあなた方は、我々の国を永らえさせるのか、それとも滅ぼすのか」と傲慢に振舞い、伯顔の不評を買う。しかし、決して臆しない文天祥の態度は評価をした伯顔によって捕縛されてしまう。
文天祥の捕縛により和平交渉が事実上決裂。首都・臨安(杭州)が陥落したことで宋はほぼ滅亡。遺臣の張世傑・陸秀夫・陳宜中らは幼帝を奉じて抵抗を続ける中、文天祥もモンゴル軍から脱走しそれに合流。各地でゲリラ活動を行っていたが、後に不仲になり2年以上の孤独な転戦の後、遂に捕らえられ、大都にいるフビライの元へと連行される。
文天祥の才能にほれ込んだフビライに臣従することを要求されたが、それを3年にわたり拒み続け、ついには彼が生きていることで元に対する反乱が活発化していることもあり、惜しみながらも処刑を決断した。その忠義に対し、フビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評し、刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠を建てた。著名な『正気の歌』は獄中の作である。

[382] 片田舎の偏屈士 2007/11/19 22:17

食いつきの悪い中国史の人物です(笑)

死して英雄となった文官として評価が高いのですが、事実だけを見ていると一般的な評価に比べて低くせざるを得なかったのでこの能力です。
個人的には好きなタイプなんですけど、どうにも自己満足的な行動が目に付きます。田中芳樹氏は評価してますけど、杉山正明氏はとことん貶しています。
まあ、事実、死ぬ気で最後まで突っ走った結果の人間なので、見る人によて評価が分かれるのは当然かと思われる人物です。

>>ローマ関係
ようやく自分の中でのローマ史の勉強が一段落しそうなので、近い内に一人評価してみます。
しかし、ウェルキンゲントリクスの評価も見ようによっては能力が分かれますね。やはり同じ人物でも、色々な見方があるので、自分も一度は、他の人が評価した人物をやってみようかと思います。

>>379
結構、好きな三好長慶。ここまで低いのか……(-_-;)
信長の野望で全国統一したのも今は昔。三好義賢がすぐに死んでしまう……。
知力に関しては、この人は全国統一は考えておらず、畿内だけで満足していた節があるので、もう少し上げてもよろしいかなと思います。

[383] 三太郎 2007/11/20 00:57

>文天祥
 あの、フビライと元軍相手に、見栄を張る以上の何をすればよいのか? と聞かれると困りますが、妥当な数値じゃないかな? と思いました。

 私も三好長慶好きなんですが、好意に負けちゃ不味かろうと少し辛めになったかもしれません。
 ただ、総合力で見れば、信玄、謙信、氏康、元就あたりに負けてないだろうとは思います。
 となると、一つくらい一級があっても良かったかもしれません。
  

[384] 「ど」の字 2007/11/22 09:29

>>380-381
 お疲れ様でした。自分もこの評価にはおおむね同意します(自分なら魅力を上げ、その他の数値をもう少し下げたでしょう)。
 文天祥は志は高かったようですが、それを現世に実現する方法論に欠けていた人としか言いようがありません。先見性と共同体への貢献から人材を見れば、良く言っても二流未満です。

 田中芳樹氏は南宋(の滅亡)に対して強い思い入れがあったようで、自分は田中芳樹氏の著作でこの人を知りました。彼はこの人に高い評価を下しているようですが、そもそもこの人は中国に対しては(日本と対比して)ダブルスタンダードで論じる傾向が強い人なので、その見方は信頼すべからざるものではないかと思います。この人物が日本の武将であったなら、多分田中芳樹氏はボロクソに貶していたことでしょう。

[385] やっち 2007/11/22 14:57

>>380-381

 うーん、少し酷な評価だと思います。
 誤解を恐れず言うなら、個人の力では如何ともし難い大きな歴史の流れを、彼の力量不足に帰す傾向があるように思われます。
 彼が大した現実社会で業績を残せなかったのは、相手(全能力平均値80代がつきそうなバヤン)と、
何より情勢が悪かったに尽きるのでは。
 似た状況にあった完顔陳和尚や呂文煥は優れた人物ですが、大勢に影響を与えることはできませんでした。
文天祥はそれよりも何倍も悪化した状況にあり、かつ文官です。
 あの情勢では、能力が如何に優れようとも(カエサルやアレクサンドロス級の能力があったとしても)、
個人の力量でそれを覆すことは不可能でしょう。誰がやったとしても、
彼がやったこと以上のことはできなかったと思います。

 彼が提唱した軍管区制も悪くないと思います。
 彼に欠けていたのは、ご指摘のとおり、構想を実現するための、清濁併せのむ政治的手腕だと思います。

 魅力は、私なら90代つけます。
 味方にあっては反元運動の象徴たり得ていますし、バヤン、張弘範、フビライと、敵側の人物も魅了しています。

 以上を踏まえて、次レスで私なりの評価を。
 

[386] やっち 2007/11/22 15:01

統率 75
 絶望的な状況にあって2年以上も抵抗運動を組織できたことを評価。
武力 50
 戦上手とはいえない。
 文官であり、戦闘経験もなければ、勉強のしていない。才能もなさそう。
知力 70
 頭の良さは中国史上でも指折り。
 立案した対元戦略も悪くない。
政治 40
 自らの構想を実現に移す手段には乏しい。
魅力 90
 前レス記載のとおり。

 ※ カウンターアイデアであるため、5点刻みで評価しています。

[387] やっち 2007/11/22 15:02

 統率は65でした。
 誤記です。

[388] やっち 2007/11/22 15:05

 連レス失礼。
 結局、生まれた時代が悪かった。
 あと100年早く、孝宗の時代に生まれていれば、多少頭は固くとも
有能で良心的な政治家として一生を送ったことでしょう。
 近接した時代でいえば、寇準に似ているような気がします。

[389] 片田舎の偏屈士 2007/11/22 21:25

>>383
見栄を張ったからこその今の評価がある!
……ちと悲しい。

>>384
田中芳樹氏は文天祥を貶すことは、それを認めたフビライをも貶すことだと同意義だと反論していますが、優秀な人物が認めたから、その人物が優秀ないしは、傑物とするのはいささか横暴な論理だと思いましたね。
わかりやすい例で言うと白洲次郎が認めた政治家=宮澤喜一とか?

>>385-388
やはりこういったカウンターでの評価が出ると評価のしがいがあります。
やはり、統率に関しては優秀はあげられないのが現状ですよね。75の数字を見た時は嘘だろうと思いました(笑)

しかし、知力・政治力・魅力の三要素を計るのが困難な人物です。
頭脳の優秀さは誰もが見張るべきモノを持っているのに、それを活かしきる場を与えられなかったのが、文天祥の悲劇なのですが。

魅力は、90〜70代のどこで評価しようか、最後まで悩みました。
文天祥の魅力というのは、彼自身が望む形(捕縛→名誉の死)となった後に、発揮されたことが大きいので(反元の象徴が文天祥でなければならなかったのか。それとも、文天祥以外でも、同じ立場の近い場所にいる人物なら誰でも良かったのか…)
ですので、80代後半……としようかと思いましたが、今回は辛めにつけてみました。(自分の手法では、死後の神聖化による+能力はしない方針ですので)

さて、このサイトでは中国史の人物がまだ少ない。評価を増やさないとなぁ・・・とは思いますが、資料を探さないとorz
ローマは塩野七生氏のおかげで、日本でも広く知られるようになった感じがします。中国史ないしは、アラブ史で同じことを試みてくれるお方はいらっしゃらないかなぁ……

[390] 天魁☆ 2007/11/23 12:11

宗教家ネタを。

ジョセフ・スミス (1805-1844、アメリカ)
【統率】59 発見したと称するモルモン書をもとにモルモン初期教団をまとめあげました。もっともそのうちいくらかは宗教によるものだったでしょうから控えめに。
【武力】55 最期は"暴徒"に襲われ命を落としますが、その際暴徒に向かい果敢に反撃し数人を道連れにしています。もっともその前のモルモン戦争では敗北していますのでこの程度に。
【知力】49 自らを預言者とかたり教団内で絶大な権力を振るいました。また、モルモン教団を半ば国家として独立させるという彼の方針はその後ブリガムヤングにも受け継がれましたが、それが指導者として正しかったのかははなはだ疑問。よってこの程度に。
【政治】18 教団内では無敵でしたが、教団とミズーリの地元住民とのトラブルは絶えず、最期はそれがもとで命を落としました。また銀行経営にも失敗しています。また彼の預言はしばしモルモン書とも整合性がありません。
【魅力】89 本家ヨーロッパのカトリックやプロテスタントの影響が及びにくい地域とはいえ、新しい"モルモン書を周囲の人に信じ込ませ、教団を成立させるに至ったのは彼自身の魅力によるところが大きかったのではないでしょうか。

ブリガム・ヤング (1801 – 1877、アメリカ)
【統率】85 ジョセフスミス亡き後、混乱する教団をまとめロッキー山脈を超えて今のユタ州に教団を移住させました。
【武力】72 教団を攻撃しにきた正規のアメリカ陸軍に対し地の利を生かしてゲリラ戦を仕掛けこれを撃退しています。
【知力】75 住民と軋轢の耐えなかったミズーリを捨て、不毛の地であるロッキー山脈のど真ん中に移住するという計画は正しかったと言えるでしょう。
【政治】92 アメリカ政府に対し一夫多妻制の廃止や州知事を受け入れることなどを条件にユタ州に宗教的独立集団を根付かせ、しかもそのトップとして君臨することに成功しています。さらにユタ州において産業を発展させ信者の生活を安定させました。今でもユタ州はモルモン教徒が大多数です。
【魅力】81 ジョセフスミス亡き後教会の預言者として認められたのですから、魅力も高かったのでしょう。

  結局、今のモルモン教団があるのはブリガムヤングに帰するところが大きいでしょう。今の教団にとってジョセフスミスよりも彼の方が重要な存在となっている感じすらします。彼がいなかったらこの教団も19世紀のアメリカの片田舎で起こったカルトとして一部の人のみしか知らない存在として終わっていたことでしょう。

[391] マフムード 2007/11/25 17:24

ナレスワン大王(1550〜1605)
アユタヤ朝タイ王国 第21代国王(在位:1590〜1605)
活動地域:タイ
異称:大王(タイ三大王のひとり)、黒い王

【統率】80
 過去の王国の再興者という強みがあったにせよ、バインナウンのビルマとは違って、彼が再建した国家は二世紀近く保った。父が後ろ暗い経緯で王位についた事情も考えると、彼の統率力はかなりのものといえるだろう。王位を巡る陰謀や暗殺の絶えないアユタヤの歴史にあって、彼が王国第二位の地位を与えた弟のエーカートットサロットと常に良好な協力関係を維持していたことも特筆される。

【武力】89
 彼は18世紀のタークシン王のように滅亡された王国を再興して広大な地域を征服した。タークシンにはチャクリ兄弟(のちのラーマ1世)をはじめとする有能な副将たちがいたのに対し、ナレスワンは自身で主要な戦いのほとんどに出陣してほぼ全勝していることを考えると、その武力はタークシン以上であると考えられる。
 個人レベルでも剛胆な戦士として知られ、人質時代にビルマの名高い勇士らと格闘して全員を打ち倒したり、単身スパイを追って銃撃戦を演じたり、サーベルを加えて敵陣に突入したり、さらには1593年に象上の一騎打ちでビルマの皇太子を斬り殺すなど数々の武勇伝が伝わっている。(全部史実らしい……)
 ちなみにタイの格闘技として有名なムエタイはナレスワンが兵士の訓練のために考案したものといわれる。

【知力】75
 人質中にビルマの政情や戦術を学んで国家再建に活用した。その事績からもビルマに対する反感がうかがわれるが、それを必要な時機まで秘めておくだけの忍耐心と冷静さを持ち、ビルマの協力者として王位についた父とも常に協調していた。属国時代にはビルマの目をかすめて優秀な軍隊を育成。戦場では単に勇猛なばかりでなく策略にも優れ、待ち伏せや奇襲などを得意とした。

【政治】71
 在位中は絶え間ない戦争に明け暮れたが、外国との関係にも関心を持ち、スペインやオランダ、日本などの商人を招いている。知力の項も参照。

【魅力】84
 同時代から剛胆な戦士として人々の信望を集めていた。寛大さでも知られ、命令に背いて敵に攻撃を仕掛けて失敗した将軍たちを処刑しようとしたものの、高僧たちの助命嘆願を受け入れて罪を免じ、代わりに敵国都市の占領を命じた逸話がある。将軍たちは見事に任務を達成した。これが1593年のテナセリム占領である。
 1584年にビルマの王がモン人の族長たちにナレスワン暗殺を命じたが、族長たちはビルマ人への反感とナレスワンへの共感によって彼に計画を暴露し、これによってナレスワンは独立の決意を固めたという。このような事実からも彼の魅力を高く評価できるだろう。

略伝:ナレスワン大王 ——アユタヤ王国の再興者——

 16世紀なかば、インドシナ半島最大の王国アユタヤは隣国ビルマ(タウングー朝)の強大化と皇太后の専権という内憂外患に揺れていた。1548年には皇太后の愛人ウォラウィンサティラートが王位にのぼるが、このときティエンラージャ親王を擁して簒奪者を打倒した地方官吏のピーレントラテップがナレスワンの父である。

 ピーレントラテップは新王によって北部の都市ピッサヌロークの総督に任じられたが、当時西方のビルマではアヴァの風雲児バインナウンが急速に勢力を拡大していた。バインナウンはラオス北部からインドにいたる広大な地域に覇をとなえ、1560年に第一次遠征でアユタヤを屈服させ、68年の第三次遠征ではアユタヤを完全に破壊する。
ピーレントラテップ(マハー・タマラージャ)は抵抗叶わずとみてビルマに降り、アユタヤ占領に協力したため、戦後ビルマの傀儡としてタイ王に任じられた。その子ナレスワンは1564年からビルマの人質となっていたが、このとき帰国を許された。

 ナレスワンは人質となっているあいだにビルマの言語や文化、政情、そして戦術を深く学んだ。帰国後、カンボジアの侵攻を口実に軍備を強化し、バインナウン死後の1584年にアユタヤの独立を宣言。以後数回にわたるビルマ軍の襲来をことごとく撃退し、1590年には父の死によって即位。この頃からタイとビルマの勢力は逆転しはじめた。
1593年にはマレー半島北部のビルマ領テナセリムを奪回し、翌年にはカンボジアの首都ローウエックを占領し、同年ビルマ中部のペグーを占領。1599年にはビルマ北部のタウングーまで侵攻した。タウングーの征服には失敗したものの、この遠征の結果ビルマは分裂状態となった。1605年、チェンマイ北方に遠征中に病死。

 ナレスワンの死の時点で、アユタヤ朝の版図は現在のタイ全土に加えて、ラオスとカンボジアの大部分、ミャンマー南半分を含む広大なものとなっていた。彼はビルマを放逐してアユタヤ王朝を再興した功績、卓越した武勇と寛大さなどの美徳により、タイ三大王のひとりとして讃えられている。

[392] マフムード 2007/11/25 17:49

>文天祥
とても評価が難しい人物ですね。もし自分がやったら最終的には>>380に近い評価に落ち着くと思いますが、少し酷な評価というのも一理あると思います。
彼の能力を論じるならばどうしても「未完の可能性」とか「死後の評価」とかの要素を考える必要があるし…。良くも悪くも賈似道とかのほうがずっと評価しやすいですね(笑)

ついでといってはなんですが、どなたか賈似道をやっていただけないでしょうか?
悲劇の「忠臣」つながりで南朝の北畠親房なんかも見てみたいです。

>>390
目の付け所がさすがというか、実にいいネタですね。宗教家と政治家を兼ねてるような人種は評価が面白いです。数値も二人ともだいたいこんな感じだと思います。

[393] ハーン 2007/11/26 00:51

>>380
 私も似たような数値にすると思います。結局獄中で詩を読んだことくらいしか業績ありませんし、海上朝廷では全く主導権を握れていませんので(あんなところの主導権を握ってどうするんだ、という説もありますが)。

>>390
 いわゆる成功したカルト、てやつですね。どんな人物が創始したのかと思っていたので興味深いです。

>>391
 なんというか、特攻野郎Aチームみたいな王様ですね。それもムエタイの創始者というなら納得できます。
 ついでに結果的にリクエストに応えることになりますので、次のレスを参照ください。

[394] ハーン 2007/11/26 00:52

賈似道

字 師憲

1213年(嘉定6年)-1275年(徳佑元年)

統率……78 彼は南宋最後の有力な宰相として、十六年間に渡って独裁者として君臨しました。彼はこれまでの実力者が抑えられなかった学生たちをすっかり押さえ込むことに成功し、それはフビライが南宋への総攻撃を決意するまで続きました。

武力……50 フビライの撃退が誇張表現であったにしろ、そこそこのことは出来たのでしょう。バヤンに一蹴されていますが。

知力……63 彼が南宋の宰相になったとき、すでに南宋は周辺を占領されて実質的に勝負はついていました。そういう意味では少し非難の矛先が鈍りそうです。国境沿いに多数の砦を築いたり、どう見てもスパイにしか見えない使者を拘留するなどやるべきことはやっています。ですが、宰相になる前の彼はすでに首都近郊を除いた南宋全軍の総司令官と言ってもいい位置にいたんですから、彼自身も甘んじて同じ穴の狢と謗りを受けるべきです。
とはいっても、彼以外の人物も大したことのないのばかりで、彼を非難した人物など本当は定数の半分くらいの兵力(今日の研究ではそんな感じだそうです)が全て存在していると思い込み、彼にその兵力を使えば元に勝てる、と進言していたりします。恐ろしいことですが、この当時の南宋首脳陣に知力が70ある人物は一人として存在しません。

政治……80 彼は恐らく南宋後期で最も優れた政治家です。財政の破綻しかけた南宋において公田法によって軍事費捻出に奔走し、腐敗しきっていた軍閥をさまざまな名目で潰して、信頼できる人物に首を挿げ替えました。さらに南宋において台頭しつつあった外戚勢力と宦官勢力を巧みに抑え込み、南宋最後の盛大を築きました。政争でも強く、彼の政策に反対する士大夫は片っ端から追放されており、彼がモンゴルに徹底的に叩き潰されるまで誰も彼を打ち倒すことが出来ず、南宋宮廷を思うがままに操りました。ですが、その一方で財政が悪化していたとも言われています。

魅力……41 秦檜と並んで最も評判の悪い南宋人です。科挙を経ずして出世したことを妬まれ、公田法で大土地所有者を敵に回したことが嫌われたのでしょう。ですが、フビライを撃退した後の彼の人気は圧倒的で、彼を称える文書がたくさんあったそうです。

[395] ハーン 2007/11/26 00:52

列伝 南宋最後の希望
 台州の出身。賈渉の子として生まれる。姉が南宋の皇帝・理宗の寵妃であったため、科挙を経ずにその縁から取り立てられる。
 素行に問題があったらしいが、有能であったことから順調に出世して国境に砦を建てて回っていた。モンケが南宋征服に乗り出したときは実質的に総指揮を執っていたようであるが、何のかんの言っても南宋軍が各地で負け続けているのを見る限りだとそれほど大した軍事能力があったようには思えない。
 この時にフビライと屈辱的な裏取引をしたとされるが、その後のフビライの行動(後ろに逃げたくせに臨安に行くとかなんとか言っていた)を見る限りだとそんな取引など存在せず、ひたすら南宋からの追撃を恐れていたようなので、ただの中傷だと思われる。
 カク経を拘留したことはそもそも密約なんてなかったのだと考えれば、無理に裏取引がどーたらと悩まないですむ。仮に丁寧にもてなしても、モンゴルに懐柔が通用しないのはチンギス・ハーンの時代から共通なので、スパイとして情報を持ち帰るのが落ちだったでしょう。
 フビライ撃退の功績から南宋の宰相となり、モンゴルの脅威に備えて腐敗した軍閥を潰し、公田法で軍事費の捻出を行いました。あまりの強権であることから非難されましたが、破綻寸前の南宋の財政をある程度助けたことは確かなようだ。
 それでもやはりモンゴルは強く、フビライが権力を握って襄陽攻略に乗り出すと長年の包囲戦の末に襄陽を失う。この時に十分な援軍を送らなかったといわれているが、その理由はよく分からない。最初の援軍があっさりやられて救援を諦めたか、呂文煥の勢力拡大を恐れたかのどちらかだと思われる。
 襄陽が失陥するとフビライは南宋への総攻撃を開始する。モンケ戦のように南宋軍は各地で負け続け、しかも入念に準備がされていたため中だるみがなく、バヤン率いる主力が破竹の勢いで臨安を目指してやってくる。
 さすがにここまで来て自分で戦わないわけにいかず、蕪湖でバヤンを相手に十三万の軍を百万と号して戦うが、そんな小細工が通用するはずもなくバヤンに一蹴される。ここにきて彼の権勢も凋落し、宮廷でこれまで賈似道に媚売ってた連中を中心とした非難の大合唱が起こる。大后はその声を抑えようとしたが、抑えきることが出来ず賈似道は流刑されることになる。
 流刑先の福建に行く途中で彼に恨みを持つ者に殺された。

 統率力と政治力の高い政治家タイプです。内政は勿論、政争にも強いので長く地位を維持できるはずです、ただ、ちょっと強引なところがあるので強力な後ろ盾がないと上手く行かないかもしれません。
 かなり贔屓目に見ていますが、南宋末期において、彼以上の能力を有していたと思われる人物は孟キョウくらいのものです。南宋の歴史上、最も重要な人物の一人なのは疑いないでしょう。

[396] 地理公 2007/11/26 15:22

賈似道は僕もやってみようかと思ってざっと数値化をしたことがありますが
ほとんど同じような評価になりました。
(あと特殊能力で『美術品蒐集』と『コオロギ飼育』がついてました)
能力的にはかなり優秀な人物だったと思います。

[397] 地理公 2007/11/26 16:34

夏貴 1198〜1280

南宋末の将軍。

【統率】70
【武力】68
【知力】54
【政治】46
【魅力】66

【統率】当時宋軍の規律は弛緩し、略奪を行うこともまれではなかった。だが鄂州の役につい
    ての記述では夏貴の軍だけが略奪を行わなかったという。
【武力】正史の記述を見る限り、七州四県を奪うなどの勝利もあるが負けは更に多い。とはい
    え敵は圧倒的な元軍で、よほどの名将でもない限り勝ち続けることはできなかっただ
    ろう。国の力が違ったならば、長く支えた良将として名を得た可能性もある。
【知力】大局的な戦略はないにしても、相手の虚に乗じて兵を動かす戦略眼はあったようだ。
    国が滅亡するまで敵に降らなかった意志力もあるだろう。
【政治】生粋の武官で内政の功は特にないと思うが、知州になったということでこの値にする。
【魅力】人望については、率いる軍が民を犯さず、宋のために滅亡するまで戦い続け、また死
    後その生涯を惜しむ声があがった点を鑑みてこのくらいはあったんではないかと思わ
    れる。

夏貴は南宋の将軍である。前半生は目立たず、おそらくずっと軍役についていたのではないか
と思われる。正史に名が出てくるのは五十代に近くなったころ、孟キョウが死ぬ前年のことで、
戦功によって賞された。その後も戦は続き、勝ったり負けたり、国の勢いは支えがたくて負けた
ほうが多いものの、長江流域のさまざまな場所で兵を率いバヤンや郭侃とも矛を交えた。
賈似道の専横の下でも地位を失わず、呂文徳らと共に重用されたようだ。賈似道最後の戦いと
なった蕪湖の戦いにも参加したが敗退、逃れた先で敵に遮られてみやこに帰れず、淮西に拠
って屈せずにいたが、宋が滅びたのを契機についに投降した。ときに七十九歳であった。
最後の最後で元に下ったために宋史に伝を立てられず、また元での功績がないため元史にも伝
を立てられなかった。
死後、人は「享年八十三、なぜ七十九ではなかったのか」と嘆いたという。

[398] 片田舎の偏屈士 2007/12/02 17:29

http://www.csync.net/service/file/index.html

2007/12/02 17:18登録のhistory.zipにて
人物・年表Ver2βを上げさせていただきました。
パスはあってないようなもの
history
です。

皆様の数値化ライフの足しになればと思います。
※さば缶さんのまとめに乗っていない人物評もわずかに入っています。
マフムードさんも侯景を上げていたのですね。驚きました。
※完成品ではありませんので、足りない部分もあると思います。その点は、はなはだ恐縮ですが、手直しして使っていただけると幸いです。
※国家の興亡に関しては至らぬ点が多いことと思われます。ご指摘がありましたらご教授いただければと思います。
※また、一番の功労者であられるさば缶さんにこの場を借りてお礼申し上げます。

[399] 片田舎の偏屈士 2007/12/04 20:57

劉永福
1837年 - 1917年

【統率】84
兵器の質で見劣る軍勢で諸外国の軍隊に勝てたのは彼の類まれな統率能力があったからに他ならない。
【武力】69
際立った強さがあったわけではなく、新興として勢いづく日本軍にはあえなく敗れた。同等の相手ではその強さは発揮できない場面が多い。
【知力】63
学は無かったが、用兵に才能を発揮。また、自分の立ち位置を的確に判断し、反乱軍の関係者としては異例の待遇で生涯終えた。
【政治力】30
策を弄することはなかったが、一時期とはいえベトナムに勢力を築き上げ維持した。
【魅力】79
その生まれゆえ、生来の魅力は乏しかったが、その生き方から義侠心ある親分肌の人間に成長し、敵対していた政府すら無視できない人物となった。

[400] 片田舎の偏屈士 2007/12/04 20:58

列伝

不撓不屈の魂

広東省の貧農に生まれ、幼い時に一家は流民となる。
生活に困窮した末、一旗揚げようと、21歳の時に太平天国とつながりのある天地会に加わり、清朝政府との戦いに身を投じるが、長い転戦の後、ついに清の軍隊に破れ、ベトナム(当時は阮朝越南国)へと逃げ込むこととなる。
しかし、逃げ込んだ先で清軍の追跡が弱まると、ここで劉永福は率いていた黒旗軍を指揮し、独立勢力を築くことに成功。かつて烏合の衆だった黒旗軍は精鋭集団となり、清の追討軍を追い払うだけではなく、ベトナム侵略を目論むフランスに対し、阮朝の要請を受けてこれに対峙。宗主国である清を交えた清仏戦争に発展するこの戦いで、清の正規軍は近代兵器を揃えたフランス軍に敗北を続けるも、劉永福の黒旗軍は連戦連勝。司令官二名を戦死させるなど戦果を挙げた。
その後、独立を図る朝鮮半島の勢力(金均)を押さえるために早期講和を図った清朝政府によってベトナムより撤退。一時は、黒旗軍も解散解散させられるが、日清戦争が勃発するや、台湾防衛を任ぜられる。(この扱いを見ると、明らかに正規軍として期待されていないように思われる)
清が破れ、1895年に台湾割譲を認めた下関条約が締結されると、官僚と地主勢力を中心に反政府・反日本の抵抗運動が起き、独立宣言をした台湾民主国の将軍として(後に台湾民主国総統にも就任)抵抗を試みるが、清軍に比べて士気も練度も高い日本軍の前に破れ、本土へと逃亡する。
その後も清朝・中華民国と政権が変わっても指揮官として出仕を求められ、軍人として生涯を終えただけではなく、そのほとんどを自国に対する対外勢力との戦いに終えたことを誇りにしていたという。

[401] 片田舎の偏屈士 2007/12/04 21:30

人生のほとんどを戦いに身を費やした元気なお方です。
人物表を使っての初めての評価となりました。

政治以外、平均的に高い能力を持っているので、指揮官として扱うには不都合が無いのですが、有能な指導者の下でないとその能力を発揮できないでしょう。
※武力に関してはもう少し下げてもいいかも。50代後半から65くらい?

>>391
ついにナーレスワン大王が来ましたね。某FLASHでの超人ぷりな活躍が記憶に残るほどのインパクトがありました。

>>394
賈似道も一緒にやろうかと思ったのですが、みなさんの文天祥の評価を見たかったので、控えました。
自己評価より知力が低いのと、魅力が高いのを除けば、だいたい同じですかね。やっていることはやっているので、無能とは言えない人物です。

>>397
う〜ん、勉強不足。私物の中国史リストに加えさせていただきます。

※ここで聞くべきところではないのかもしれませんが、清朝中期の人物である陳弘謀(ちんこうぼう)について詳書となる本に記憶がありましたら教えていただけると幸いです。ネットでも全くといって知られていない人物ですが、行ったことは、かなり評価出来る人物だと思うので。

[402] マフムード 2007/12/05 17:19

ヴィクトリア女王(1819〜1901)
ハノーヴァー朝イギリス王国
(大英帝国;グレートブリテン・アイルランド連合王国および海外植民地諸領)第7代女王(在位1837〜1901)
インド帝国(英領インド) 初代女帝(在位1877〜1901)
活動地域:西欧

【統率】59
「君臨すれども統治せず」

【武力】20
戦争を指揮したことはもちろん、戦時政策の積極的指導を行ったこともない。軍事的な知識もなかった。せいぜい乗馬が趣味だった程度。

【知力】65
それなりの識見や才知はあったものの、パーマストンやグラッドストーンのような一流の政治家には遠く及ばない。頑固なまでに強い意志力や「君臨すれども統治せず」の建前を維持したことは評価されるが、気に入らない政治家を無理に排斥しようとしたり、議会の支持を失った政治家を強引に地位に留まらせたりという無理押しも多い。

【政治】73
表立って統治を行うことはなかったものの、終身制の君主という立場を活かして、知力の項にあるようにしばしば議会政治に干渉を試みた。グラッドストーンなどともほぼ互角の勝負を繰り広げており、その政治センスは低くはない。また外国君主との交際や勲章授与など王室外交も巧みだった。

【魅力】78
大英帝国の象徴として慕われ、夫アルバートとの家庭生活はヴィクトリア朝イギリスの中産階級における健全な家庭のモデルとなった。しかし女王のカリスマは有能な夫アルバートの助言と補佐や在位の長さによるところも多く、女王個人としての魅力は低くはないものの、一級レベルまでは届かない。アルバート死後の長い引きこもりや王子エドワードに対する軽視、宰相グラッドストーンとの対立などに対してマスコミや民衆は遠慮なく女王を批判したし、王室廃止論が出たこともある。

略伝:ヴィクトリア女王 ——太陽の没することなき帝国——

 アレクサンドリーナ・ヴィクトリア。七つの海の女王。ヨーロッパ諸王室の祖母。人類史上もっとも広大な領域(およそ3550万平方キロメートル)に君臨した人物。その治世はイギリス帝国の絶頂期であり、世にヴィクトリア朝と称される。

 ドイツ系のハノーヴァー朝イギリス王家、ケント公の娘として生まれる。当初王位継承権には遠かったが、上位の継承権者が相次いで死没したため、1837年に18歳で即位。1840年にザクセン・コーブルク・ゴータ公家のアルバートと結婚。
 女王の治世前期、アヘン戦争、ロンドン万博、クリミア戦争、インド大反乱などを通じて大英帝国は着実に発展を続けた。女王はメルバーンやピールなどの政治家と協調し、夫アルバートの補佐を得て君臨し、国民の支持を集めた。しかし1861年にアルバートが世を去ると女王は激しい衝撃を受け、以後二年にわたって政治の場に姿を見せず、その後も終生にわたって喪に服し続けた。
 女王の治世後半は二大政党の確執とビスマルク外交、東洋進出と東方問題の時代だった。女王は「君臨すれども統治せず」の建前を貫きつつも、保守党のディズレーリを寵愛し、自由党のグラッドストンと対立して保守的・帝国主義的政策を支持した。1877年には東インド会社の解体とインドの直轄化にともない、ヴィクトリアはインド女帝の称号を得た。
 イギリス王家は複雑な婚姻関係によってヨーロッパのほとんどの王家と血縁を有するにいたり、晩年の女王は「ヨーロッパの祖母」、「ヨーロッパ諸王家のゴッド・マザー(名付け親)」と称されるにいたった。
 女王の治世末期にはアフリカ分割、義和団の乱と中国分割、ボーア戦争などによって大英帝国は史上空前の大帝国となり、イギリス本国ではヴィクトリア朝の華やかな文化が咲き誇った。
 在位64年、1901年1月22日没。女王の死は英国の黄金時代の終わり、そして20世紀という新たな時代の始まりを告げるものであった。

[403] マフムード 2007/12/05 17:45

>>394
結果的にでもありがとうございます。数値は予想通りという感じですね。やはりかなり有能な人物だと思います。
というか末期(に限らず?)南宋宮廷って賈似道みたいな例外除いてほんと人材乏しいですねえ・・・。

>>397
中堅どころという感じですね。でもこういう人物が国家防衛の背骨になるんですよね。
列伝に載せられなかったいきさつを読んで、三国の夏侯覇を思い出しました。

>>398
おつかれさまです。こうして見ると時代と地域の密度差がよくわかりますね。アメリカ史なんて開発のし甲斐がありそうです。ほとんど手付かずの分野もやってみたいくなります。中世のアフリカとか。

>>399
最初武力がもっと高くてもいいように思いましたが、読んで納得です。中国ではちょっと珍しいタイプの人物か・・・そうでもないかな?

地理公さん、一覧の場所とってすみません(汗)

[404] 地理公 2007/12/05 18:30

400までに評価された人物

>>305 ジャイアン
>>308-309 足利尊氏
>>311 エンヴェル・パシャ
>>313 スネ夫
>>317 カイシャン
>>318 トゴン・テムル
>>319-320 エセン・ハーン
>>330-331 ピュロス
>>333 大友勝将
>>334-335 ヨーダ
>>337-338 ゲーリング
>>341 李存勗
>>343-344 石田三成
>>345 シャルル5世
>>357 北条氏規
>>358-359 カート・コバーン
>>362-363 マテオ・リッチ
>>369 アルミニウス
>>373-374 ヴェルキンゲトリクス
>>378 パブリウス・オストリウス・スカピュラ
>>379 三好長慶
>>380-381 文天祥
>>386 文天祥
>>390 ジョセフ・スミス、ブリガム・ヤング
>>391 ナレスワン大王
>>394-395 賈似道
>>397 夏貴
>>399-400 劉永福

[405] 里香 2007/12/12 07:29

日本橋5丁目レンタルショーケース
 Bockaeに日曜いってきたよ。

手作りロボのフィギュアがあるよ。

かっこええの、かわいいし、販売してるからまた友達と買いに行く

[406] やっち 2007/12/13 00:18

 中国史の人物が少ないとのご指摘がありましたので,個人的に好きな人物を。

漢の宣帝 劉病已,後に劉詢。

統率 80
 武帝以降弛緩を見せていた西漢の朝廷を締め直した。地方官に対するコントロールは特に見事。

武力 40
 戦場に出たことはないのでこの数値。たぶん,戦場に出てもそれなりの成果は残せたと思うが。

知力 83
 霍氏粛清時にみせた政略は一級。皇帝権力強化のための政略も的を射ている。
 建前としての儒学と,実利を追求した法学とを使い分けるバランス感覚にも優れる。
 対匈奴外交も極めて適切。

政治 88
 魏相,丙吉ら名臣・循吏を適切に配置し有効に用いた。
 民意に配慮し,減税,中央・地方を含む行政改革など,適切有効な政策を立案・実行した。
武帝期の疲弊・混乱した社会の救済に成功。

魅力 80
 平民の生活を経験した特異な皇帝として合理主義者。
 儒者を重用しなかったことから儒者からの評判はそこそこだが,民衆には慕われた。

[407] やっち 2007/12/13 00:32

−平民から皇帝へ−
 武帝の曾孫,武帝の皇太子であった戻太子の孫。
 嬰児であったころ,祖父戻太子が曾祖父武帝に反逆し,敗亡。彼も連座するところであったが,
丙吉の尽力と嬰児であることをもって助命され,以後長安城内にて平民として育つ。
 市井にあって民衆の心情をよく知り,また侠の気風を好んだという。
 昭帝の死後,劉賀を廃した霍光らによって皇帝に擁立される。王朝創始者以外で
庶民の生活を経験した希有の皇帝。
 霍光在世中はこれを尊重していたが,その死後専横をふるう霍氏を一気に粛清して親政を開始。
皇帝に直奏する方策を始め,皇帝権力を強化。
 魏相や前記の丙吉らの名臣と,循吏とよばれる良心的な官僚をよく用いて民政に意を尽くす。
彼の治世中,武帝期に疲弊した社会はかなりの回復を見せた。
 対外的にも対匈奴政策に成功し,匈奴の臣従を達成。
 漢の中興の祖。それも,唐の憲・武や清の同治のうさんくさい中興とは違い,しっかりしたものである。
 惜しくも40代で死亡。彼の死後,西漢は衰亡の一途を辿る。
(彼の後継者指名を問題視する見解もあるが,嫡長男を皇太子としていたので
あるから,これを責めることはあまり適切ではないだろう。)

 極めて優秀な為政者です。
 民心を解し,頭もよく,意思力にも優れています。
 どのような王朝の統治者であっても,一定の成果を残すことができるでしょう。

[408] 素人歴史好き 2007/12/23 00:25

貧乏暇なしを地でいく生活のため中々顔を出せなかったんですが、あの後すぐのんびり屋さんがリクエストに応えて下さったんですね。
大変遅ればせながらお礼を言わせていただきます。ありがとうございました。

>>380-381
>>386
>>394-395
賈似道と文天祥、この二人の人生を見る度、なんと言うか、この二人が仲良く出来ていればというか、でなければこの二人の特徴を併せ持った人物(賈似道の実務能力に文天祥の人格・人的魅力)がいれば、南宋の寿命も50年くらいは延びたんじゃないかなと思ってしまうんですよね、どうも。
賈似道はかなり好きな人物なので贔屓目入ってるのは自覚してるんですが。

>>391
楊大眼や尉遅敬徳と近接戦闘(特に徒手格闘)で人類史上最強をガチで争えるお方の登場ですね。
この人はそこらの格闘漫画に出てくる超人たちを軽く上回るエピソードの持ち主なので、世界史無双とか世界史バサラが出たら絶対にマイキャラにしたい人物です(笑)

>>399-400
武力よりも組織化に優れた人物だったんですね。
フランス軍に完勝したというくらいしか知らなかったので、さぞかし武力突出型の名将だったんだろうなと漠然と思っていたのですが、列伝を読んだら全然違いました(笑)
勉強になります。

>>406-407
漢の宣帝は個人的に凄く好きで高く評価している人物なので、やっちさんの評価も高くて嬉しいです。
もし自分が評価したら、政治と魅力以外の能力がもう少し高くなっちゃうでしょうね。
妻を殺されても霍光が死ぬまで時機を待ち続けた意志力といい、儒者の問題点を正確に把握し、その後の歴史を予言していたような名言「漢家自ずから制度有り」で始まる説教が現す洞察力といい、まず名君と呼んで相応しい英雄だと思います。
しかし、生い立ちといい、糟糠の妻である許氏との悲劇的な別れといい、凄くドラマチックなんですが、なんで彼を主役にした小説とか漫画がないんだろう。
青年誌で大河歴史モノはもちろん、少女漫画だって似合うと思うんですけどねえ。

[409] 素人歴史好き 2007/12/23 01:13

自分も流を読んで中国志の人物を評価してみます。
南宋最高の人材と言っても過言ではないメジャーな人物なので、自分の評価を叩き台にして皆様の評価を聞かせていただけたら幸いです。

秦檜(しんかい)。字は会之。
1090年〜1155年。

【統率】85
最初に宰相になった時は主戦派にその座を追われているが、返り咲いた後は南宋宮廷の絶対独裁者として君臨。
反対派を徹底的に弾圧して国内を固め、逃亡政権であった南宋の基盤を固める。
やりたい放題やった挙句、あれだけ敵を作りまくった秦檜本人が天寿を全うしているのに対し、彼の一族がその死後一気に没落しているのも彼の統率能力の高さの証明になるだろう。

【武力】0
この項目に関してはこの数値をつけるしか…。
いくら金の和平派とパイプがあったとしても、相手が有利なカード(欽宗の身柄など)を揃えていたとしても、軍事関連での指示が酷すぎる。
歴史上和平派でも武力を上手く利用して、より自国に有利な条件を引き出した例はあるのだから。
彼には「軍事力の有効利用」という発想自体がなかったとしか思えない。

【知力】60
25歳で科挙に合格した秀才であり、靖康の変の際には御史中丞まで出世していたことを考えても、彼が大変優秀であったことに間違いはない。
しかし武力の項目で述べた通り、その優秀な頭脳が、何故か軍事が関わることにおいてはまともに機能しなくなってしまう。
そしてそれは一国の宰相としては致命的であり、その他の分野での優秀さを考えても、ぎりぎり60台とするのが妥当と思われる。
文字の獄起こしたり、岳飛抹殺を最期まで踏み切れなかった辺りも個人的にはマイナス要素。

【政治】96
謀略の天才。軍閥解体の手際は素晴らしいの一言に尽きる。
岳飛の自尊心を利用して、軍首脳陣の仲をどんどん修復不可能にしていく様は離間策の見本と言っていい程鮮やかで、秦檜の謀略は岳飛を中心に鉄壁と思われた岳家軍をも容易く崩壊させた。
また「プロジェクト実現能力」という定義通りの意味でも政治能力は史上屈指レベル。官僚としては史上最高かもしれない。
欽宗の返還拒否を含めて、彼はクライアントである高宗の要望に完璧に応えてみせた。
例えその為にとった手段がどれほど卑劣で、彼と高宗以外の人間がどれほど苦しんだとしても。

【魅力】45
高すぎだろといわれるかもしれないが、金に連行される際のエピソードや、ダランに見込まれて南宋に送り込まれたことを考えても元々はこれ位あったと考えた方が自然。
人的魅力がゴミクラスの人間に敵国の国論をまとめさせようとする馬鹿はいないでしょう。

【特殊能力/修正】
莫須有、千古の冤罪
自軍に統率・武力・忠誠心の合計が260を超える武将がいた場合にのみ使える秦檜の固有特殊スキル。
その武将の命と引き換えに、どれだけ友好度の低い国とでも和約を結ぶことが出来る。
ただし、使用できるのは一度だけで、使用後は秦檜自身の魅力が0になってしまう。

[410] 素人歴史好き 2007/12/23 01:17

-中華史上最大の悪役-

秦檜は江寧(江蘇省)出身で若くして進士に及第した秀才であった。
順調に出世し、順風満帆と思われていた彼の人生に転機が訪れる。靖康の変である。
自殺行為のような数々の愚行の結果、北宋は金によって滅亡した。
金が張邦昌を皇帝にした傀儡国家・楚を建国すると、秦檜はこれに公然と反対、金軍により逮捕され、皇族とともに金本国に連行される。
その頃、南方では金の追求を逃れた皇族の一人・趙構が南宋を建国、高宗となる。金軍はこれに大規模な攻撃を加えるが、韓世忠・岳飛らの活躍により、撃退される。このような状況で、秦檜は金の和平派の巨頭ダランに、有能さを見込まれ南宋に送り込まれる。
実際秦檜が個人的欲望の為に行動したのか、真実南宋のためを思って行動したのかは分からないが、両国和平のため、彼はその辣腕を振るうことになる。
華北奪回など不可能であるとする彼の意見は高宗の利害とも一致し重用され、秦檜は一年足らずのうちに宰相となった。
いちじ主戦派が優勢となって失脚したが、ダランの働きかけもあってまもなく復帰して枢密使になり、1138年には再び宰相に返り咲く。その後は宮中を掌握。帝意を背景として反対派を弾圧し強硬に和睦策を推し進めて一度は和議を成立させる。
だが思わぬ形で和議が頓挫する。金国内で政変が起こりダランが殺害され和平派が失脚、主戦派の宗弼らが実権を握ったのである。金と南宋との間に再び激しい戦いが始まったが、今回も岳飛を始めとする南宋の名将たちが活躍。金軍は各地で敗北を重ねた。
その結果再び金国内でも和平の動きが高まり、逆に南宋国内では岳飛ら主戦派が台頭する。しかしここで秦檜がその偉才を発揮し、歴史の流れを逆転させる。
秦檜はまず詔勅によって将軍たちを呼び戻し、高位や財貨と引き換えに軍権を剥奪、私兵的彩色の強かった軍を朝廷直属の正規軍に編成し直し軍閥を解体する。
「華北奪回」「皇族救出」を豪語し、最後まで中央への召還に反対した岳飛に対しては、それを逆手にとり、謀反の罪ありとして有無を言わさず、無実の罪で投獄し、罪を認めさせるため拷問を加える。しかし岳飛は拷問に耐え、罪を認めない。この処置に憤った韓世忠は単身秦檜の邸に向かい、詰問する。秦檜は岳飛の謀反が「莫須有(あったかもしれない)」と言い逃れをし、これが岳飛の獄が後世「莫須有、千古の冤罪」と呼ばれる所以となった。
また救国の英雄・岳飛を救おうと朝野を挙げての抗議運動が起こり、秦檜は追い詰められていく。その様を見た彼の妻・王氏は火鉢の灰に火箸で「虎を捉うるは易く、縦(はな)つのは難し。」と書き、決意を促した。
秦檜はようやく決断し、岳飛の自白文を捏造させ、1141年、ついに岳飛は処刑される。
こうして南宋の主戦派は一掃され、秦檜は翌年についに金との和約を実現させる。しかしこの和約は宋は金に対して臣下の礼をとり、歳幣を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であった。
しかし秦檜にとって、いや高宗にとっては利点のある和約でもあった。高宗の兄欽宗の南宋への帰還が許されず、東北の五国城で見捨てられ、不遇の生涯を閉じることとなるのである。
その後和約を成立させた秦檜は権勢並び立つ者がなくなり、南宋を代表する詩人陸游の省試に横やりをいれて不合格にしたり、民衆に対して文字の獄を起こして言論を弾圧したり、反対者を徹底的に弾圧したりして皇帝をも凌駕する独裁者として振舞った。
1155年、宰相の地位にあること20年。さしもの秦檜も病魔には勝てず病床に臥せり、皇帝が自ら秦檜邸に病状を見舞ったその翌日に没する。
享年66歳。勅命により申王の位が追贈され、忠献と謚された。

[411] 素人歴史好き 2007/12/23 01:51

高い統率力、自分の理念に対する強固な信念(言い換えれば専門外のことへの視野の狭さ)、高い政治能力、乏しい人的魅力を併せ持ったある意味究極の官僚です。
統率、知力に秀でた君主に駒として扱われるのが彼にとってもそれ以外の人間にとっても一番幸せでしょう。ずば抜けた辣腕を生かしてどんな政治的難問でも解決してくれます。
しかしそれ以外の状況だと彼以外の人間の多くの人間が不利益をこうむることになります。高過ぎる統率・政治能力のため、どんな状況からでもトップの座に登り詰めてしまい、一度トップになってしまうと官僚特有の視野の狭さが超人的政治能力と連動して、時に歴史に残る大事件を起こしてしまうからです。官僚の職分を超えて能力が高過ぎるのが、ある意味不幸な人物です。

余談ですが、高宗が自ら病状を見舞った翌日にあっけなく死んだり、死後、「朕は今日、やっと靴の中に刃を置かずに済むようになった」とかいってるあたり、なんだかなぁと思います。
秦檜はその手汚しまくりで悪名が約900年後の現代にもばっちり残ってるわけですが、欽宗見殺し含めて自分の望みを秦檜に叶えてもらった挙句、生前は「朕は彼を得た喜びで夜も眠ることができない」とか言っときながら死後は掌返す高宗観てるとどうも「本当の悪党っつーか黒幕は高宗じゃねえのか?」と思えてならなかったりして。

[412] むた 2007/12/27 22:00

>>411
悪名の押し付けは当然あるでしょう。僕自身は秦檜は他民族からの侵略による国家滅亡を領土半分を失うことで抑えた功労者と考えてます。

人間の功績を評価するのにマイナス100をマイナス50に抑えたというのはその仕事の難しさの割に評価されにくい。そのことで彼は割りを食った人ではないかと思っています

[413] 片田舎の偏屈士 2008/01/04 22:53

魯迅
【統率】10
 南京臨時政府の役員として教育に携わった程度。
【武力】3
 組織的な指導力はおろか、個人的な武力でも勇名は聞かれない。
【知力】81
 古くからの因習に囚われている中国民衆の意識改革を誘発すべく、ただならぬ熱意を持って文壇の世界で作品を発表し続けた。
【政治】32
 下野しながらも政府内に人脈を残したぐらいで、基本的に政治に長けた面は残していない。
【魅力】83
 その時代の中国人はもとより、国籍を問わずに多くの人間から敬意を払われた。常に相手の立場を理解し、批判はすれど貶めはしない言論からも、その人柄が表されている。

[414] 片田舎の偏屈士 2008/01/04 22:54

魯迅
1881年 - 1936年

意識改革未だならず

本名は周樹人。新文化運動の中心人物として中国社会の問題点を批判的に著わした。政治の世界では、当初の国民党に期待するものの、4・12クーデターによる国共合作の崩壊の動乱からその期待を裏切られ、また、全面的な同意は無かったものの、指導力に期待をしていた共産党にも内乱から距離を置いた。常に前時代的な中国民衆の意識を近代化させることに悩み続けた。

[415] 片田舎の偏屈士 2008/01/04 22:54

福沢諭吉
1835年 - 1901年
【統率】50
 慶應義塾の創設者。教育に関わることにはその手腕を発揮した。
【武力】44
 立身流居合の達人。戦術を知識の上では理解していたと思われるが、その機会は訪れなかった。
【知力】85
 日本のみならずに東アジアの国々の諸問題に対し冷徹に批評を下し、時代の中ではその対処に誤りはほぼ皆無と言えた。
【政治】58
 大衆の意識改革を図ったが、その方向が正しい道へ向いたとは残念ながら言えない。ほとんどが失敗に終わったが、中国・朝鮮の改革勢力への支援に熱意を示した。
【魅力】67
 啓蒙者・教育者としての福澤を好む人は多くいたが、好き嫌いの激しい本人の性格もあり、対人的な付き合いでは忌避された面もある。

[416] 片田舎の偏屈士 2008/01/04 22:55

因習からの脱却

身分の低い武士の生まれだったが、オランダ語通訳から身を起こし、医学と英語を学ぶ。渡米の経験から民主主義定着の重要性と民衆の意識改革の必要性を悟り、それを実現させることに尽力する。だが、福澤の理想が実現するには祖国日本は幼く、アジアの民衆も、因習という呪縛から解き放たれるまでにはいかなかった。

[417] 片田舎の偏屈士 2008/01/04 22:56

ホセ・リサール
1861年−1896年
【統率】15
 欧州において同郷の留学生らと意識改革を促す学生連盟を作った。
【武力】5
 完全な平和主義者。個人的にはフェンシングが得意。
【知力】89
 十数ヶ国の言語を理解する言語学の天才として名をはせたが、医学・農業・哲学・芸術・文学と総合的・複合的な知識を理解、習得する驚くべき天才だった。
【政治】78
 流刑の地となったダピタンの地でその知識を活かした住民生活の向上、啓蒙活動を成功させるなど政治力の片鱗を垣間見せた。また、自らの死がフィリピン民衆の意識変化につながると信じ、助命を拒否し、故国のために死ぬ事を選んだ。
【魅力】99
 誰もが彼を愛した。支配層であったスペイン人でさえ。黄色人種を侮蔑していた欧州各国の人間も。今なおフィリピン国民に愛されるのは、彼の崇高な生き方だけではなく、民衆の中に生きた心優しき人格が大きく影響している。

[418] 片田舎の偏屈士 2008/01/04 22:57

フィリピンの魂

スペイン統治下の現地民の中流家庭に生まれ、幼い頃から神童と呼ばれる才知を発揮していた。母の勧めからスペイン人と同じ学校へと通うようになるが、大学を卒業し祖国を離れるまでの間、常にフィリピン人蔑視の雰囲気は消えることは無かった。
医学のために留学した欧州各国(特にスペインとドイツ)で様々な知識を吸収。そこで得た啓蒙的な考えを祖国で抑圧されている民衆の解放へとつなげるため、「ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)」を出版するが、それにより植民地政府当局に目をつけられることとなる。帰国後、あらぬ疑いから僻地への流刑を言い渡されるものの、ダピタンの地で医業を行うだけではなく、総合的な知識を生かした農業振興、子供への教育の指導を行い当地の発展に寄与した。
その後、キューバへと向かう途中、秘密結社カティプナンとの関わりを疑われ拘束される。マニラへと送られたリサールは裁判をかけられ、死刑を言い渡される。現地住民のみならず、当地のスペイン人からも助命嘆願を行われたが、リサールは祖国のために死ぬことを選んだ。自らの死により民衆が後に続いてくれることを信じ、即興の詩「ミ・ウルティモ・アディオス(別れの詩)」を処刑の前の晩に妹に手渡し、1896年12月30日、マニラで銃殺された。

[419] 片田舎の偏屈士 2008/01/04 23:06

変化球の人物を評価。
知識人は勝手が違うので、特に政治力が苦労しました。
三人の思想をどのように理解するか。そして、当時の人々に与えた影響をどう考えるのか。それは皆様の判断に委ねます。良い悪いで判断できるものではありませんからね(特に福澤諭吉)。

個人的にはホセ・リサールが大好きです。
おせいさんとの恋話から日本ともゆかりがありますが、この手の話はこの人あちらこちら(特にドイツとイギリス)で作っているので、彼女だけの話ではないのですけどね(^_^;)

あと、魯迅と内山完造の関係は良いですね。
本来、日本人と中国人の友好はこうあるべきといった見本ですので。今の現状を見ると、双方・・・(-_-;)

[420] 「ど」の字 2008/01/09 00:59

 それでは、かねてから評価することを約束していた武将の評価をしていきます。
 たった一度の功績にぶつかったことで日本史に名を残した武将です。

新田義貞 正安3年(1301年)〜延元3年/建武5年閏7月2日(1338年8月17日)

【統率】52
 時代の波に乗れば大軍の統率も取れたが、その大軍を戦い抜かせる能力は無い。裏切りも頻繁に起こされた。
 当時の武士は掌返しを頻繁に行うような連中であったにしても、離合集散を制する能力がないのは酷い。
【武力】44
 北条一族の支配する鎌倉を短期間で陥落させたが、この功はきっかけにぶつかっての偶然の産物であろう。力攻めを強いて味方に大変な被害をもたらし、しかもほぼ無意味な拙攻に終わっている。鎌倉の陥落は、北条一族の信じ難いミスの連続によるものでしかない。
 競り合う戦いで味方を勝たせる能力は皆無。鎌倉攻め以前も以後も、ほとんど戦功らしい戦功を上げておらず、まともな武将に対してはついに勝利を得られていない。ただ弟の脇屋義助を連れている時は足利直義や高師泰の軍を破ったりもしているから、優れた武将の意見を活かす能力はあったのだろう。
【知力】50
 戦略理解能力に富んでいるとは言えない。彼の白旗城での拙攻が、建武の新政を空しくしたと言っても良い。
 破綻した様子は無いが、しかし知力で物事を認識し解決した形跡は全く見られない。常識的判断はできる程度。
【政治】34
 全くもって政治的人物ではない。組織内で生きていく能力にも欠如していた節があり、穴のほうが目に付く。
 建武の新政においては、功により武者所の長となるも、落首で揶揄されるほどの拙い政治に終始した。混乱を収拾する調停能力が全く無いことは鎌倉政権の史書にも明記されている。
【魅力】50
 没落したりとは言え名門の出。押し出しは立派なので、特別ボーナスをつけてこのくらいの数字。
 身近な家臣を除いて人を惹き付けられなかった。無駄に他人の反発を買うこともあった上に使いでの無い人物であったため、同僚や上司から何度も切られかかっている。
【特殊能力】
※家臣の献身・戦死判定が下されたとき、彼に対する忠誠心が最も高い配下が身代わりに死んでくれる。ただし二回まで。三回目に戦死判定を受けたら本当に戦死する。

【略歴】
 正式な名は源義貞。河内源氏三代目の源義家(八幡太郎)の四男・源義国の長子の新田義重に始まり、新田荘を開発したことで新田氏の通称を持つ。新田氏の祖とされる新田義重が源頼朝の鎌倉幕府の創設に非協力的であったため、鎌倉政権内では全く省みられることは無かったようである。義貞の時代には新田氏本宗家の領地は広大な新田荘60郷のうちわずか数郷に過ぎず、義貞自身も無位無官で日の目を浴びない存在であった。衰退に伴って新田本宗家の一族に対する影響力も下降線を辿っており、一族の紛争や離散を食い止めることもできていなかったことが史書に残っている。

 元弘元年(1331年)の元弘の変では鎌倉幕府に従い、河内国で挙兵した楠木正成への攻撃に参加している。しかし、義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。これを理由のひとつとして、幕府は新田荘に対し多大の軍費を要求し横暴的な取立てを行っており、義貞が幕府に背き挙兵を決意するきっかけになったと考えられる。また元弘の変で出兵中、ひそかに護良親王から北条氏打倒の令旨を受け取っての計画的挙兵だったとの説もある。
 生品明神に一族を集め鎌倉幕府討伐のため挙兵。最初に集まった軍勢はわずか150騎にすぎなかった。この時の彼は一族が多く住まう越後方面への離脱を考えていたようであるが、弟の脇屋義助に諭されて鎌倉攻めを決意したと伝えられる。
 新田軍は上野国守護所を落とし、利根川を越えた時点で足利高氏の嫡子千寿王(後の足利義詮。当時はまだ3歳の幼児だった)の軍と合流。北条氏と累代の姻戚関係にある外様御家人最有力者足利高氏の嫡男が加わったことにより周辺の御家人も加わり、新田軍は数万規模に膨れ上がった(この時同行の部下山名氏などは千寿王(義詮)の指揮下に入り、以後足利方についている。新田一族の中でも足利氏を武家の棟梁と考える者は多かった。彼の人を集める力の欠如を物語ってもいる)。
(続く)

[421] 「ど」の字 2008/01/09 01:02

(続き)
 小手指原の戦いでは鎌倉政権内の不満分子を取り込んで退却を強いるが、分倍河原の会戦では北条泰家(高時の弟)の指揮する大軍に敗北を喫している。この時北条泰家は追撃戦を行わず、しかもその夜無警戒で夜襲を許すという二重のミステイクをして新田軍に決定的な勝利を許し、以後鎌倉軍は完全に守勢に転じた。鎌倉軍は鎌倉に籠もり7つの切り通し(鎌倉に入るために通行する必要がある7つの山道)を固める。新田軍は要害の地鎌倉を力攻めしたため攻めあぐみ大量の死傷者を出したが、潮の干満を利用して稲村ヶ崎から強行突破し(太刀を投じるエピソードは有名)、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。一時は突入した部隊を壊滅させられ攻勢は頓挫するかに見えたが、鎌倉内部に火の手が上がるのを見た防御司令官が絶望しいきなり自刃したことがきっかけで士気崩壊を起こし、5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。

 建武の新政においては、義貞は鎌倉攻めの功により左兵衛督に任ぜられ、武者所の長となる。しかし新政当時の乱発する訴訟や混乱する世相に打つ手を持たず、かの有名な落首(『この頃都に流行るもの〜』で始まり『全部書いていたら日が暮れる、十分の一で止めておく』で終わるあの落首)で後醍醐帝と一緒くたに揶揄された。
 建武2年(1335年)に中先代の乱が起きると、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。尊氏は義貞を君側の奸であるとしてその追討を後醍醐帝に上奏するが、逆に後醍醐帝は義貞に尊氏追討令を発し、義貞は尊良親王を奉じて東海道を鎌倉へ向かう。弟の脇屋義助と共に戦って小さい戦いを幾度か拾うが、鎌倉から出撃した尊氏の本軍に箱根・竹ノ下の戦いで撃破され、京都に敗走する。
 翌建武3年(1336年)正月、入京した尊氏と京都市外で再び戦い、奥州より下ってきた北畠顕家や京都で合流した楠木正成らと連合して足利軍を駆逐する事に成功する。再入洛を目指す足利軍を摂津国豊島河原で破り(残敵掃討に近かったようだ)、この功により正四位下左近衛中将に叙任される(この頃になっても彼の朝廷での地位はこんなものである)。結局追撃の不徹底により逃走の機会を作られ、足利軍の九州敗走を許してしまう。
 九州へ奔る尊氏を追撃するものの、播磨国白旗城で篭城した赤松則村(円心)に阻まれて断念。尊氏は九州を大逆転勝利により平定し、その後捲土重来して海路東上してくるが、義貞は白旗城に篭城する赤松軍を攻めあぐね時間を空費する。
 楠木正成らと共同して戦った湊川の戦いにおいて義貞は和田岬に陣を構えて戦うが、足利水軍の延翼運動に引きずられて戦線を離脱してしまい(この愚かな行動は敵前逃亡罪に問われても抗弁のしようが無い。後醍醐帝に対して自分を切り捨てる事を主張した楠木正成に意趣返しをしたという説もあり、まだこちらの方に理がある)、敵中に楠木正成を置き去りにして見殺しにしてしまう。その後は西宮で再起を図るも果たせず京へ敗走。
(続く)

[422] 「ど」の字 2008/01/09 01:02

(続き)
 湊川の戦いの後、比叡山に逃れた宮方は足利方との和議を進め、義貞を切り捨てて比叡山から下山しようとしたが、これは義貞の家臣堀口貞満が直前に阻止した。
 義貞は恒良親王と尊良親王、子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進み、越前国金ヶ崎城に入るが、まもなく高師泰・斯波高経率いる軍勢により包囲される。義貞、義助は杣山城に脱出し、外から金ヶ崎城の包囲陣を破ろうとするが失敗。金ヶ崎城は延元2年/建武4年(1337年)3月6日落城し、尊良親王、義顕は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送された。同年夏になると義貞は勢いを盛り返し各所で勝利を重ね、金ヶ崎城も奪還する。翌延元3年/建武5年(1338年)閏7月、武家方に寝返った平泉寺衆徒が籠もる藤島城の攻囲軍を督戦に向かうが、越前国藤島の燈明寺畷で敵の援軍と偶然の遭遇戦の末に戦死を遂げた。享年37歳(38歳説もある)。
 首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した清和源氏累代の家宝である名刀鬼切丸もこの時足利氏の手に渡ったという。

【総評】
 たった一度の功績により千載に名を残した武将ではありますが、内実はお粗末なものです。むしろこのような事跡の残る人物がどうやって鎌倉攻めの搦め手を考案し実行し得たのか、そっちの方に興味があります。
 突出した能力が何も無く、また平時の政権内では波風を立てる要素でもあります。
 まあ何とも強みが無く、どこに使うにしても能力の無さで周囲を苦しめる人物です。事跡を分解するととにかく偶然とか運とかいうものに人生を左右されており、その死までも偶然の産物でした。
 特に足利氏に対するライバル心が極めて強く、足利氏への反発で後醍醐帝に付いていたようですが、その対抗心は裏目に出ることがままありました、足利氏との戦いにおける彼は、いわゆる「勤勉な愚か者」でした。無駄な敵愾心で赤松氏への調略をぶち壊し、無駄なこだわりで時間を空費し、無駄な意趣返しでかけがえの無い南朝方武将の楠木正成を失うなど、味方に付けると極めて怖い人物です。
 新田氏を取り除き足利氏と和睦すべきであると進言した楠木正成による奏上は、的確だったと言えます。

[423] やっち 2008/01/09 11:18

>>420-422

 うわっ!悲惨なほど悲しい数字ですね。
 でも納得です。
 尊氏を九州に逃してしまったことと、白旗城に引っかかったことは
どうしようもない愚策ですね。
 某狼ゲームでは戦闘力70台がついていましたが、明らかに過大評価でしょうね。

[424] 「ど」の字 2008/01/20 03:14

>>423
 鎌倉を「実力で」短期間に陥落させたら武力70はあったでしょうがね。
 あれはありえない偶然の連続に次ぐ連続の産物なものですから。
 鎌倉攻め当時の彼の幸運に匹敵するのは、日本史では源頼朝や羽柴秀吉のそれくらいのものです。
 彼らは幸運を掴む実力も十分持っていましたが、新田義貞には実力は全くありませんでした。
 幸運とは実力が無いと活かせないものであることが、実によく理解できます。

 さて。
 先日予告していてなんですが、実はルーク・スカイウォーカーと恩寵王エンリケ・デ・トラスタマラの評価作業は(もしかしたら完成しないかもと恐れるほど)難航しております。
 かと言って、大作になること確実のダグラス・マッカーサーの評価はまだ下敷きの段階です。
 というわけで、次回からはちょっと寄り道するつもりです。
 多分、次は冥王サウロン第一の敵、自分のHN(土壇場の魔術師こと「ど」の字)の由来となったあの方の評価になると思います。

[425] 「ど」の字 2008/01/20 04:20

 今回は、自分(「ど」の字)のこよなく愛する、冥王サウロン第一の敵手の評価です。
 私事ですが、自分のHN『「ど」の字』は『土壇場の魔術師』のことで、元々はこの人(神)をオマージュして付けた自称だったのです。
 冷静に見ていくと穴だらけの指導者なので少し躊躇しましたが、勇気を持って評価していきたく思います。

 ガンダルフ

【統率】98
 その権威と経験をフル活用して、西方自由諸国の士気の拠り所となった。アングマールの魔王がもたらす恐怖と絶望に対抗して人々を抗戦させ得たのは彼のみ。まさに神の統率力。魔王よりは下であるため数値を下げた。
【武力】58
 流れのままに部隊を動かす能力はあるものの、難しい戦いで味方を勝たせる能力はまず無い。順当に戦って、順当に負けている。縛りが大きいのでこの能力を使う局面はあまり無かったのであるが。
【知力】59
 戦略的な感性は逆に乏しい面があり、事態の悪化を座視した。追い詰められてからの奇策には見るべきものがあるが、そもそもそこまで追い込まれる前に悪の勢力に対して手を打てと言いたくなる。アングマールの魔王に対峙するには力不足は明白。
【政治】77
 助言者としての才覚は本物。ただ表立っての活躍は縛りによって封じられていたので点数を抑えた。
【魅力】65
 魅力を表に出し活用するタイプではなかった。姿形は老いてなお矍鑠たる老人。
【特殊能力】
※魔法……多岐に渡る魔法を駆使し、困難を信じ難い方法で打開する力がある。特に火と風の攻撃魔術に適性があり、縛りを解かれた時の個人的武勇は当時の中つ国でも一二を争う。モリヤにおけるバルログとの戦いでは、地形を一変させるほどの破壊力を振り回した。個の戦闘力を問われる局面では武力に+40する。

【略歴】
 彼の名は、西方語で「杖を持つエルフ」という意味である(彼がエルフ族だと勘違いされていたため)。
 白い顎髭に青いとんがり帽子、長い杖がトレードマーク。『指輪物語』が書かれて後の、いわゆるハイファンタジー作品やゲーム作品における魔法使いのイメージを確立した存在でもある。
 登場時点では人間の言葉で灰色のガンダルフと呼ばれていた。西方諸国ではミスランディア(灰色の放浪者ほどの意)とも。
 人間の老人のように見えるが、実際は人間ではなくマイア(小神)。西海の果ての神々の住む国アマンから、モルドール国の冥王サウロンに立ち向かう勢力を一つに束ね、助けるべく遣わされた5人の賢者(これをイスタリと言う。有名なのは灰色のガンダルフと白色のサルマン。名前だけ出る人物としては茶色のラダカストが居る)の最後の一人。神々が中つ国の事を忘れていないという意思表示として重要な存在。なお彼らはマイアとしての巨大な力を振るうことと現地民を支配することを原則禁じられていた。そのため肉体を纏って中つ国に降り立ち、助言を通じてサウロンを阻止していた。
(続く)

[426] 「ど」の字 2008/01/20 04:22

(続き)
 アマンでの本名はオローリン(Olórin)。守護と監視の炎であるアノール(旭日)の火焔を使う神の一柱。最高神マンウェとその妻ヴァルダに仕え、植物を司る神ニエンナから深い憐憫と忍耐の心を学んだ。つまり冥王サウロンや白色のサルマンらとは同格の存在に当たる。
 その他のイスタリはそれぞれ二人一組で中つ国にやってきていたが、彼は最も最後に、そして単独で中つ国に入ってきている。最も遅くに中つ国に入ってきたイスタリだけに、情報入手や打つ手が遅い面が多々あった。
 彼が中つ国に到達したとき、灰色港の領主「船造り」キーアダンから三つの指輪の一つ『魂燃やす情熱の指輪』ナルヤを讓り受ける。結果的にこの指輪が彼を倦怠や悪から守った。
 『ホビットの冒険』ではビルボ・バギンズをドワーフ達と会わせてスマウグ竜を倒す手伝いをさせ、自身も闇の森南部の死人占い師(モルドールに潜む以前のサウロン。この頃はまだ正体が割れていなかった)を白の会議の一員として攻撃し撃攘した。
『指輪物語』ではフロド・バギンズらと共に九人の旅の仲間の一人として旅立ち、その途中でドワーフの廃都モリアで自身同様のマイアの一柱にしてモルゴスに仕えたバルログと遭遇、一時縛りを解かれてマイアールの力を振るいバルログを討ち取っている。その後は騎馬民族の国ローハンで陰謀を暴いたり、ミナス・ティリス(サウロンの仇敵の一つであるゴンドール国の仮首都)ではモルドールに抵抗する人々の士気の拠り所になったりして、モルドールの主攻正面に正対してサウロンを押し留める中核になった。ペレンノール野の戦いと黒門の戦いにも参戦している。指輪戦争の終結後はフロドやビルボ、その他の指輪所持者たちとともに西の海の彼方、神々の住まう至福の国アマンへと帰った。
 彼はイスタリ5名のうち、唯一使命を達成して帰還し得たマイアールである。サルマンは敵を深く研究するうちに「深遠を深く覗き込んだため深遠に見詰められて」堕落し、ラダカストは中つ国の言葉話す者たちの愚かしさに絶望して引き籠ってしまった。その他のイスタリたちもまた別の理由で任務に失敗している。
(続く)

[427] 「ど」の字 2008/01/20 04:22

(続き)
【コメント】
 自身を「執政」「サウロンの敵」と自称しただけあって、第三紀に中つ国に渡ってからは派手な活躍をしています。
 しかし、神の能力を以ってしても、イスタリとしての縛りは相当にきついものがありました。サウロンは自由に弟子を鍛えまた国を直接支配して自陣営を強化できるのに対して、イスタリたちは助言を通じてのみ間接的に自陣営を動かし得るわけで、彼らの有効性はどうしてもその時々の指導者の器量に左右されざるを得ないからです。
 また、賢者と呼ばれている割にはその戦略的能力には不安があり、彼は盛時の西方諸国に助言して冥王の勢力を殲滅することも、衰え行く時代の西方諸国の勢力を回復することも出来ませんでした。
 一つの指輪が再び出現した時点では、もはや手遅れとなった状態から逆転の方策を練ることを強いられることになり、あの無茶な旅につながっていくわけです。
 それ以降も、統率者としては超絶の能力を発揮していますが、それ以外では敵味方の予測どおりに順当に負けつつありました。いくつかの偶然なくしては彼も任務を達成できなかったでしょう。特にアングマールの魔王を討ち取ったメリアドク・ブランディバックの勇気は不可欠でした。

【総評】
 賢者と言われているにしては能力低すぎです。
 統率力が神懸かっていますので、人々の先頭に立って象徴となるべき人です。個の武力もずば抜けていますので、物語で実際にあったように軍隊の先頭に立つと劇的な効果が出るはずです(アングマールの魔王の例がありますので、如何に腕が立とうとも最前線に出続けるのはやはりまずくはありますけど)。知識量とそれを活かす知恵も膨大なものがありますので、最高指導者の側に居る御意見番としても使えます。
 しかし、その戦略・政略眼の無さは致命的で、そっち側の助言は求めるだけ無駄です。頓珍漢な答えを出すことは無いのですが、とにかく彼の策は遅すぎます。戦術的な能力も通り一遍以上の物は無く、ペレンノール野の戦いから黒門の戦いに至るまで一切相手の思惑を外す行動は出来ていません。敵国深く忍び込んだフロドとサムを援護するにしても、もう少しやり方はあったと思うのですが。
 よくもまあ、『指輪物語』をハッピーエンドに終わらせることが出来たものです。

[428] イスラーム好き 2008/01/31 01:05

シールクーフ

?〜1169年

【統率】94
聖地の十字軍を出し抜き死海を迂回してのエジプト電撃戦、ナイルを渡河し敵をおびき寄せての挟撃
等等、シリアからの援軍の期待出来ない敵地エジプトでの功績を多く残す
またビルバイスでの篭城戦では、ヌレディンより送られたフランク人の金髪を兵士に見せつけ、士気を維持し、降伏寸前の所から停戦まで耐え抜いたことも
アレクサンドリアを包囲された時も、単身アレクサンドリアを脱出して民兵を組織し、後方で包囲軍をかく乱するなど、人並みはずれた統率力を発揮した
【武力】97
隠れたイスラームの名将
根っからの武人であり、ザンギー朝の軍事の殆どに関わった
功績を殆どサラディンに持っていかれた為知名度は低いが、間違いなくイスラム世界屈指の武将
【知力】30
戦略はあまりない
カイロ南方でエジプト・エルサレム王国軍を破った際も、直後にアレクサンドリアを急襲しカイロを驚かせたが
逆に海陸から包囲され絶体絶命に陥ったことも。
【政治】1
エジプト宰相時代も政務は全てサラディン任せであった
政治力がないというより、興味がないと言ったほうがいいかもしれない
むしろ役人を殺して親族に迷惑をかけたことも
【魅力】70
兵士と混じって酒を飲み交わしたりして、兵士からは人気があった
また主君ヌレディンとの関係も良好で、憎まれるといった存在ではなかった

【特殊能力】
電撃戦 大酒飲み 肥満

【列伝】
山のライオン
兄にタクリートの代官ナジュム、甥にサラディンを持つアイユーブ家の人間
タクリートで役人を殺してしまい、兄とともに恩のあるザンギーを頼った
その後はザンギーの子、ヌレディンに仕える
エルサレム王国のアモリー王がファーティマ朝=エジプト侵攻の動きを見せると、一軍を率いて電撃戦を敢行し、アモリー王を出し抜いてカイロに入城した
その後もエジプト遠征軍を率い、アモリー王をエジプトから追い出した
ファーティマ朝カリフにより宰相の任を授かるが、わずか二ヵ月後に急逝

また全てのエジプト遠征にサラディンを同行させ、サラディンの戦争能力に大きな影響を与えた

[429] 「ど」の字 2008/02/01 00:28

>>428
 サラディンへとつながる人脈の一人ですね。
 こういう人を紹介していただけるのは、とても勉強になります。

 十字軍の歴史的流れ、忘れかけてるのでもう一度勉強したいなぁ……。

[430] 世界史ファン 2008/02/02 08:49

〜世界の隻眼ちょい悪オヤジたち〜

ハンニバル「やっぱりオレたちみたいに戦乱の時代のちょい悪オヤジは隻眼じゃないとイマイチ渋さが出ないよな〜
      (鏡見ながら)オレたちってやっぱ渋すぎるよな〜、カッコいいよな」

夏侯惇  「そうそう、オレたちはそのワイルドな見た目だけじゃなく、やってることも半端なくちょい悪だもんな〜
      戦場で、自分のその目ん玉を食らうくらいじゃないとさ〜、あの時代にちょい悪は名乗れないぜ〜
      そのくらい無茶しないとね、ちなみにオレの主君の名も曹操」

伊達政宗 「オレなんかさ〜、当時あまりにも、その言動が渋くてカッコいいんで伊達男って言葉が生まれたくらいなんだぜ〜
      オレをまともに演じられるのは渡辺謙くらいだと思ってたぜ〜」

ハンニバル「ケッ!それにしても、何だよ!この眼帯ってやつは」

夏侯惇  「ダッセーな!こんなもんオレは目に病気しても付けられないぜ〜」

伊達政宗 「オレたち戦乱のちょい悪オヤジたちの渋さがこれじゃ台無しだよな〜」

看護士「そこの患者さ〜ん!病院の眼帯患者にケチつけるのだけはやめて下さいね〜
    それじゃ〜、ハンニバルさんの番です、どうぞこちらへ〜」

ハンニバル「あ〜、ハイハイ」

大事な隻眼が結膜炎に掛かり、眼科の検診を受けに来た三人なのであった

[431] 2008/02/04 08:49

アンティゴノスが忘れられてることに絶望した!!

[432] ugota 2008/02/04 12:47

フリードリヒ3世(1440〜1493、在位1452〜1493)

【統率】5(一応死ぬまで皇帝でいられたけど、ぶっちゃけ皇帝としてはほとんど何もしてない)
【武力】4(弟のアルブレヒト6世に謀反された時はウィーン城内にすら入れなかった)
【知力】9(AEIOUと一応アルファベット書けるし、倹約家なので全くの無能という訳ではないが、限りなく凡愚)
【政治】21(息子・マクシミリアン1世の婚姻政策により、結果論だが帝国の版図を広げた)
【魅力】3(民衆には凡愚扱い、弟には謀反を起こされ、ハンガリー貴族には見放される。綽名は「神聖ローマ帝国の大愚図」)

【特殊能力】悪運(敵対関係になった武将がランダムで死ぬ。能力の高い武将ほど確率が上がる)

【列伝】ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝。庭いじりと倹約が趣味のどーしよーもない皇帝さん。周辺のライバルは優秀な奴ぞろいだったが、何故か都合良く寿命で死んでいったのと、息子マクシミリアン1世が優秀だったおかげで帝国は滅びずに済んだ。
個人的には劉禅や今川氏真に匹敵する「ザ・凡愚」である。

[433] やっち 2008/02/04 17:17

>>431

 アンティゴノスもそうだけど、フィリッポス2世もですね。
 スレ違いなので下げ。
 

[434] ガーリックトースト73% 2008/02/05 18:23

大正天皇(在位1912年7月30日-1926年12月25日)

【統率】12
【武力】14
【知力】28
【政治】45
【魅力】43

【特殊能力】
自由奔放 役職に就いていない時に限り政治・知力・魅力+20

【統率チェックポイント】
人生の半分近くを病床で過ごした為、先頭に立ってリーダーシップを発揮する機会もなかった。

【武力チェックポイント】
非常に温厚な人柄で、帝王を体現しガッチリした体躯の明治天皇とは対照的。線が細く、女性のような体つきだった。
また、病弱で、元々体育会系でもなかった。

【知力チェックポイント】
歴代天皇はご謹製の和歌を詠みあげる事があるが、大正天皇は漢詩を好んで製作し、公の場で披露した作品は『登呉羽山』がある。
一方で幼少時代は理系の教科を苦手とし、その上皇太子としての世間の目もあって、これらを克服することは適わなかった。

【政治チェックポイント】
君臨するだけの自分に疑問を抱いていたフシがあり、皇太子時代は当初の予定に無かったルートを自分で決め、進んで臣民とのふれあいに勤しんだ。
明治天皇とは政治に対する考え方を含めて対照的な部分が多く、大正天皇が地域の生の声を拾おうとする度に、
「帝王たるもの、軽々しく行動すべからず」の旨を含め、彼を叱責している。
しかし大正天皇は政治や天皇は臣民の視点に立って考えるべきとの考えを持っていたようで、側近や明治天皇と摩擦を起こしてもこれを変えることはなかった。

【魅力チェックポイント】
民衆には『親しみやすい皇太子』として訪問先では認知されており、突然訪問した大正天皇(当時は皇太子)に対しても驚きながらも温かく迎えた。
一方で政府中枢や軍部では何かと明治天皇と比較され「ひ弱」「頭が弱い」などと揶揄されており、必ずしも臣民全てに人気があったわけではない。
また、盟友であった原敬が死亡した事で彼を守る役目の者がいなくなり、政府や軍部は更にその度合いを強めていった。
臣民の前で涙を流したり、勝手に蕎麦屋に入るなど自由奔放な姿も権力者は苦々しく感じていたようで、元勲の山縣有朋は大正天皇を特に嫌っていたと言われる。

【評価者から一言】
戦前の「昭和天皇を前面に押し出す方針」から、遠眼鏡事件などの根拠が疑わしい逸話が広められ、
明治・昭和両天皇の影に隠され、現在も教科書から殆ど取り上げられることもなく、大衆からその人物像は半ば抹消されつつあります。
しかしながら私達民衆にとっては温和で親しみがあり、話しやすい事もあり、戦前の評価である暗君という評価は些か偏った評価のように思います。
とは言え、大正天皇は戦後、昭和天皇から「先帝は天皇に御成りになるべきではなかった」との主旨の評価がされており、
大日本帝國の天皇として見るならば、彼の考えが周りにそぐわなかった感は否めません。
現代日本で象徴天皇として君臨したならばこれほどの不幸はなかったでしょう。

【列伝】
明治12年(1879年)8月31日〜大正15年(1926年)12月25日
日本の第123代天皇
諱は嘉仁(よしひと)、幼少時の称号は明宮(はるのみや)。
印は壽(じゅ)。在位中の元号から採って、大正天皇と追号された。
大正天皇より御陵が東京に移され、多摩陵(たまのみささぎ)に葬られた。
大正天皇を祀る神社はないが、全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
尚、明治以降の近代天皇制で初の一夫一妻制をとった天皇である。

[435] ガーリックトースト73% 2008/02/08 03:07

鈴木貫太郎

【統率】83
【武力】80
【知力】63
【政治】71
【魅力】72

【特殊能力】
不死身 高確率で死の危険から生還
楽観  一定確率で周囲が誤解

【統率チェックポイント】
終戦に際しての陸軍や海軍、東郷外相などの閣僚を纏め上げた収拾工作は見事の一言。
会議が紛糾すると聞こえない振りや沈黙し、しかしある一方が妥協を示すとすぐさま同調、半ば自己完結し、強引に閣僚を引っ張り上げていった。
独裁的と批判もあるが、1日遅れれば状況は大きく変わる終戦間近の情勢では妥当な纏め方であろう。

【武力チェックポイント】
「政治家より武人の方が向いている」とは本人の談。
元々、実家が旧幕府系出身者の為に、戦にまみえる機会が巡ってこなかったが、日露戦争では第四駆逐隊司令として海軍を指揮。
バルチック艦隊の残党3隻を撃滅せしめる大金星を挙げ、頭角を現している。

【知力チェックポイント】
元々実直で頑固な性格であり、お世辞や頭を使って上の人間に取り入るといった行為は不得手だった。
加えて、発言・行動がしばしば周囲に誤解を与える事もあり、
2・26事件の際には、彼が熱心な勤皇家であり当時は侍従長であるにも関わらず、青年将校に「君側の奸」と名指しされ命を狙われている。
終戦前後では、ポツダム宣言における公式見解を述べる際に『回答する必要を認めません』と黙殺してしまい、
これが海外メディアに『拒絶』と意訳され、連合国側の世論を硬化させた。
また、近衛師団の決起の可能性を楽観視し、結局宮城事件が発生した際には後手に回っている。
しかし、その一方で咄嗟の機転は見るものがあり、2・26事件や宮城事件では間一髪で難を逃れている。

【政治チェックポイント】
ルーズベルトが死去した際には、ヒトラーは罵り、それとは対照的に鈴木は哀悼の意を表した。これはアメリカの世論を軟化させる一因になっている。
また、阿南陸相が「終戦の詔勅を待って欲しい」と直談判をしに来た時には「出来ません」と断言し、黙らせている。
戦時中には強硬な主戦論者として東条らを喜ばせていたが、
これは現在では東条らに和平派と悟られない為の偽装工作だと判明している。
この事からも、時勢をを読む力には優れていたようだ。

【魅力チェックポイント】
物事に一切動じない男として知られており、例え自らの失態でもそれを表情に表す事は殆どなかったと言われる。
それが他の人には「頼もしい」と思えるらしく、2・26事件の安藤大尉や教え子の吉田茂、更には昭和天皇と言った人が彼の人柄に惹かれ、教えを乞うていた。
しかし軍の上層部では評判が良いとは言えず、東条を始めとする徹底抗戦派は彼を総理とする事に断固反対していた。

【作者から一言】

        ——不死身の鬼貫——

日本を本土決戦が行われる前に降伏させた人物です。
本人も断じている通り、政治的な才覚や収拾能力があろうとも、
彼は戦う事に重きを置く職業軍人であり、畑違いの場所で懸命に動いていた事は評価されています。
そんな彼の弱点は「抜けている」事です。
肝心な時に機転が働かず、幾度もピンチに陥っていますが、どういう訳か(?)運が彼に味方し、その度に生き延びています。
まさに“運も実力のうち”運を引き寄せる程の才能が彼にはあったのでしょう。

【列伝】
第42代内閣総理大臣
生年:慶応3年12月24日(1868年1月18日)〜昭和23年4月17日(1948年)
在任:1945年(昭和20年)4月7日〜1945年(昭和20年)8月17日
略歴:元連合艦隊司令長官、元海軍軍令部長、元枢密院議長、元侍従長
階級:海軍大将、従一位勲一等功三級、男爵。

[436] のりお准尉 2008/02/08 17:50

高坂昌信(1527〜1578)
【統率】60
昌信は当初、当初は使番(単なる伝令役ではなく、側近・幹部候補生的存在)として仕える。後に越後上杉氏に対する最前線の守将を任されたりしていたが、目立ったことはない。また武田軍団の中でも退却戦指揮能力が見事だった。
【武力】70
信濃平定戦における小岩岳城攻略戦では一番乗りの功績を挙げ、天文20年(1551年)に騎馬100騎持の侍大将に任じられた。また第4次川中島の戦いにおいても妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げた。
【知力】60
。天正3年(1575年)の長篠の戦いには武田勝頼の戦の下手さを考え、参戦せずに海津城を守備していた。そして敗報を聞くや兵を率いて伊奈にて勝頼を出迎え、衣服・武具などを替えさせ、敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮したと伝わることから、なかなかの知略の持ち主だったといえる。
【政治】55
長篠以降、信玄以来の老臣は昌信だけとなった。この後、勝頼を補佐して武田氏再建をめざしていた。
【魅力】65
美童であった昌信は若き信玄の衆道の相手も務め、信玄が昌信宛に送った浮気の弁明状が現存している。昌信が異例の出世を遂げたのも、信玄の愛情ゆえとの説がある。

—おまけ—
無敵の武田軍団の時代(信玄)に、武田氏の猛将のなかでも非常に慎重かつ見事な采配で退却戦指揮にたけ、『逃げ弾正』の異名をもつ。
また宿敵の上杉軍の死体も手厚く葬り、仁者だった。

[437] 「ど」の字 2008/02/08 20:10

>>435
 ああ、先に紹介されてしまった……。
 マッカーサーとその周囲を勉強中でして。もし時間があったらこの人も、と思っていたのですが。
 数値などは妥当だと思います。お疲れ様です。

>>434
 大正という時代は、良くも悪くもこの帝に合っていなかったということでしょうか。
 戦後の帝なら、と言われましたが、逆に乱時の生まれであったなら更なる酷評を受けていたことでしょう。

>>436
 武田家中の武将は、名前しか知らない人が多すぎて……。
 使ってちょっと役に立つ武将、という印象な気がしますが、有名エピソードなどがあったら是非知りたいと思います。
 ともあれ、お疲れ様でした。

[438] のりお准尉 2008/02/08 22:11

山県昌景(1529〜1575)
【統率】45
武田二十四将の一人。山県隊は部隊の軍装を赤一色に統一し編成したことから、「赤備え」として諸大名から畏怖された。
【武力】80
信濃伊奈攻めにおいて初陣、神之峰城攻めにおいて功名をあげ騎馬150持の侍大将になる。その後の武者振りは、『源四郎(旧名)の赴くところ敵なし』とまで言われた。
また、三方ヶ原の戦いでは手勢約1000人で家康本陣に突撃し、あまりの驚いのため家康は脱糞したと伝えられる。その時家康は自害も考えたという。
そして長篠の戦いにて馬防柵前に前田利家隊の銃弾に被弾し、討ち死。立派な最期であった。
『三河物語』では、『山県という者、恐ろしき武将ぞ」と記されている。
【知力】60
三方ヶ原の戦いのとき、柿本城、井平城、浜松城を手勢1000人で落としていることから武力だけでなく、知力もあり、戦が上手かったといえる。
【政治】50
武勇だけではなく、内政、外交感覚に優れており、竜朱印印奏者となって武田氏の中枢に位置した。
【魅力】70
山県隊は部隊の軍装を赤一色に統一し編成したことから、「赤備え」として諸大名から畏怖された。なお、昌景の死後、徳川家康の重臣・井伊直政や真田昌幸の次男・真田信繁らも赤備えを採用しているのを見ても、その強さがいかに畏敬されていたかがわかる。
また『翁物語』で、信玄の異母弟・一条信龍が昌景に対して、「山県隊はなぜそんなに強いのか」と訊ねると、「訓練も重要ですが、それだけではなく、一番大切なのは戦に臨む心がけであり、いつも初陣のように合戦に赴く覚悟で慎重に策を練り、勝てると思っても確信しない限り戦わないようにしているからです」と答えたという。
これらのことから、昌景は戦国を代表する武将であり、武士の精神の鏡的存在だったといえる。
—ひと言—
ゲームなどでは、真田幸村や山本勘助などが強くされ、この人は雑魚キャラということが多いですが、こんな立派な武勇伝があるんだから強くしてもらいたいです^^b
 

[439] のりお准尉 2008/02/08 23:15

西竹一(1924〜1945) 陸軍階級:大佐
【統率】65
外務大臣などに歴任しており、義和団事件の処理などにあたっていた。西太后からの信頼が厚かった。
また戦車第26連隊長となったのち、硫黄島に出兵した。
硫黄島の部下からの信頼はかなり厚く、好かれていて、はぐれた兵も快く迎え入れたという。
【武力】85
硫黄島の戦いでは、小笠原兵団(第109師団)直轄部隊として戦車第26連隊の指揮をとることとなった。数少ない物資のなかでも、97式中戦車や95式軽戦車の砲搭を使い砲台代わりにして米軍のM4シャーマン中戦車と善戦した。
また戦場では、放置された米軍兵器を用いて勇敢に戦ったとされる。
【知力】65
武力欄でも説明したように、壊れた戦車用いてシャーマンと戦うのは一般の隊長では思いつかなし、戦意も湧かないだろう。そして西大佐は地の利を利用して米軍を苦しめたのでなかなかの戦略家だったことが言える。
【政治】50
広島陸軍地方幼年学校に入学後、1920年、東京中央幼年学校本科へ。同期に名古屋地方幼年学校首席・辻政信、東京中央幼年学校予科首席・甲谷悦雄がいた。1921年4月、陸軍士官学校制度の改編で中央幼年学校本科を半年で修了すると、新設の36期陸軍士官学校予科入学。
途中、隊付け生徒として世田谷の騎兵第一連隊配属(卒業成績 19番中13番)。1924年、陸軍士官学校本科卒業(第36期)。騎兵第一連隊へ。さらに陸軍騎兵学校を卒業。といったなかなかの学歴がある。
【魅力】98
西大佐は『バロン西』とよばれ、世界に名を轟かす馬術の名人だった。
1930年にイタリアで愛馬ウラヌス号と出会う。後に、ヨーロッパの数々の大会に出場し、好成績を残す。
陸軍中尉時代の1932年のロサンゼルスオリンピックで馬術大障害飛越競技で金メダルを獲得する。これが日本人の馬術競技唯一のメダルとなる。
またロサンゼルス市の名誉市民ともなっている。

硫黄島での米軍投降勧告では『馬術のバロン西。出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい』といっていたとう話がある。これを西大佐は無視した(このときすでに戦死していたという説もある)。
また、米軍の情報将校としてグアムの315爆撃団に赴任していたサイ・バートレット陸軍大佐は、東京に訪ね、靖国神社において慰霊祭を挙行している。
これらから西大佐は敵、味方問わず多くの人に人気があったとされる。

—ひと言—
誰書こうか迷ったので、ぼくの大好きな時代の大好きな西大佐について書きました^^b日本は、世界は本当に惜しい人を亡くしたと思います。
映画『硫黄島からの手紙』での西大佐はカッコよかったな^^

[440] 「ど」の字 2008/02/09 17:58

 さて、ではそろそろ大作の投稿をさせていただきます。
 ガンダルフを書いたので、彼に対峙したアングマールの魔王も書きます。
 冥王サウロンが仇敵の一族から見出した至宝、黒き王子の略歴です。

 エル・ムーラゾール

【統率】100
 部下に対して、死が確実な命令を躊躇も違背も無く実行させる神の如き統率力があった。
 自分が知る限り、彼に比肩する統率力を持つ人物は架空・史実通じて徳川家康ただ一人。徳川家康は超人的な領土経営力という裏付けがあったからこその統率力なので、この点では彼のほうが格上。
 有効な組織の構築力にも瞠目すべきものがある。
【武力】87
 良将と呼ばれるに十分な能力を保持。ただありえない戦況を逆転させる無敗の名将ではない。敗退も多々ある。
【知力】84
 サウロンの命令に絶対服従という縛りはあったにしても、それでもなお一流の知性があった。特に戦略構築能力に優れる。
【政治】79
 政争能力だの行政テクだのは未知数だが、外交も内政も高いレベル。「最大多数の最大幸福」を追求しないなら、極めて上手く国を差配できる。
【魅力】100
 ナズグルとしての恐ろしい外見とそれ以上に恐ろしい人格にもかかわらず、彼は居るだけで周囲を喜びで満たし部下のやる気を引き出すというカエサルなみのカリスマ性があったという。
【特殊能力・束縛】
※黒の息
 対峙する敵に対して、精神的な毒に犯す影響圏を持つ。具体的にはナズグルが吐き出す毒の息吹による病気。
 それを受けると急に力が抜けて倒れ、その後、絶えず深まる夢の中に徐々に落ち、ついには声も立てずに死んだように冷たくなって、その挙句に死んでしまう。アセラス(王の葉)と呼ばれる植物の葉を適切に使用することで治せる。
※攻撃無効化
 強力な魔力の篭っていない攻撃は、その全てを無効化。
 これにより、彼はほとんど戦死の可能性が無くなる。
※士気剥奪
 敵対する勢力の士気を、存在そのものによって減殺する。敵全軍の士気を-40%。
 また、直接対峙する敵軍の士気はさらに-40%(合計-80%)。
 事実上、彼に対して軍勢をもって対峙するのは不可能ということになる。
※太陽光線と火と水に対するある程度の弱体化
 指輪の幽鬼に特有の弱点。水を渡る事が出来ず、日光と火に弱い。
 ただし魔王はナズグールの中で最強の存在で、彼だけは太陽の光や火・水に対してもある程度は耐性がある。

【略歴】
 ヌメノール第12代目の王、貪欲で知られた建艦王タル・キルヤタンの子にして未練王タル・アナタミアの弟として、第二紀1820年の日食の日に生を享けている。本来の名はティンドゥムル(上のエルフの言葉であるクエンヤで「黄昏の子」ほどの意味)であるが、この時代、タル・キルヤタンの宮廷ではエルフとその事物は敵意の対象となっていたため、後にエル・ムーラゾール(Er-Murazor)という名を授けられた(彼らヌーメノールの公用語アドゥーナイクで「黒き王子」ほどの意)。奇しくも後のナズグルとなる身に相応しい名を授けられている。
 幼時より才気煥発な若者で、その性質も容姿も誇り高く貧欲だった父や兄に似ていたと言われている。彼は父王の野望(というか欲望)に良く貢献し、中つ国からの朝責を増やさせている。しかし彼はその多大な働きにもかかわらず兄以上の支持や地位を得る事は許されなかったため、やがて兄アナタミアへの妬みを募らせていき、中つ国に自分の国を興すことを志して出奔してしまった。出奔した先でも父兄に従うことを強要されたため、彼はついに父兄の頚木を壊す力を求めてバラド・デュアに赴き、彼の地にて冥王サウロンの徒弟となることを宣言。115年間の長く厳しい修行を積み上げて、冥王その人に次ぐ強大な術師となった。そして1998年、ムーラゾールはその主に永遠の忠誠を誓い、その代償として、サウロン謹製の九つの指輪の最初の一つを授けられた。ナズグルの誕生である。
 第2紀の残りの期間、彼は動き回るサウロンにバラド・ドゥアを任され、同士たる後進のナズグル達を鍛える任にも従事。ナズグルが9人揃った時、彼は最も力ある存在にしてあらゆる策略を任される最も信頼される僕となっていた。その信頼は、かの“サウロンの口”や半トロルの戦将ゴスモグに寄せられるサウロンの好意と比べてさえ際立ったものであった。

(続く)

[441] 「ど」の字 2008/02/09 18:00

(続き)

 ヌーメノール王アル・ファラゾーンの艦隊に攻められ、指輪の幽鬼のいくたりかが逃げ散った時も彼は節を曲げなかったため、サウロンは捕縛された時に備えて彼に一つの指輪とバラド・デュアの守備を託している。彼はその信頼によく応え、サウロンの国モルドールとバラド・デュアを圧倒的なヌーメノールの大軍から守り切ることに成功する。
 ヌーメノール沈没によって肉体を失ったサウロンがモルドールに帰還し自由の民に対する戦いが再開されると、彼自身も大軍と共に召還され各地を転戦し、3429年にはゴンドール攻撃の指揮も執った(この攻勢は失敗し、アナリオン王によってアンドゥイン河流域への侵攻は頓挫)。彼とその軍はダゴルラドへの後退を余儀なくされ、最後の同盟の軍勢からの防御戦を強いられることになる。バラド・デュアは7年にも及ぶ猛攻を受けて遂に陥落。恐らく彼もその混乱の最中に討ち取られたのであろう。
 なお、居城も全ての部下も失った冥王サウロンは自ら上のエルフ上級王ギル・ガラドとエレンディル王に戦いを挑み、殆どの部下を失っていた2人の王を打ち倒すことに成功したのだが、彼自身も相討ちに倒れることとなった。一つの指輪はエレンディルの子イシルドゥアによって切り取られることとなる。

 モルドールでの冥王の敗北から約千年後。中つ国が繁栄を謳歌する裏でサウロンはゆっくりと傷を癒し、そして中つ国に帰ってくると第3紀の1050年には下僕達を手元に召還。彼もサウロンが身を窶して隠れていたドル・グルドゥアへ赴いて命令を授かり始める。2世紀以上もの間、アルノール北方王朝の没落の策略を練って機の熟するのを待ち、1300年、彼は霧降山脈の西の端にある広大な台地に移動。そこにはカルン・ドゥームの要塞があり、軍を集めた妖術王はここにアングマールの魔王国、北方王国を倒すためだけに存在する国家を形成。“アングマールの魔王”の誕生である。
 1350年、アングマール軍は(この当時、アルノールはエレンディルの世継ぎ達の諍いによってアルセダイン・カルドラン・ルダウアの3国に分割されていた)ルダウアを襲撃、59年に渡り戦った末に属国化。魔王は矛を納めず、続いてカルドランを屈服させ、さらに残ったアルセダインを攻撃。566年もの長きに渡って攻勢に耐えたアルセダインであったが、最終王アルヴェドゥイの時代についに破綻。アルセダインは南方王国ゴンドールに援軍を要請していたのだが、その援軍を待てずに国は滅亡してしまう。遅れて到着したゴンドール・イムラドリス(裂け谷)連合軍はリンドンより上陸し、魔王軍と対峙。同年、北方王国滅亡という任務を達成した魔王はアングマールを放棄。アングマールの国土は蹂躙され、これをもって中つ国の北方全域は人も住まない荒れ地となり果てることとなった。

 魔王はモルドールに戻ると、ナズグル達をオスティグラス(Ostigurth)に集め会談を開き、サウロンのため次なる戦略目標をゴンドールの首都オスギリアスを守る要石、昇月の塔ミナス・イシルに定めている。2000年、軍を動員したナズグル達は、キリス・ウンゴルを基点にこの月の砦を包囲。2年の激烈な戦闘の末、ついに月の都は陥落。入城を果たした魔王はここを自らの居城とした。ゴンドールの国民は自分たちが築き愛した街の喪失を嘆き、ここを呪魔の塔ミナス・モルグルと改名することとなった。
 首都圏を守る最終防衛線の喪失もゴンドールには痛かったのだが、もっと痛い損失がここで起こっている。この街の陥落と共に、大変な魔力のある「見る石」パランティアの一つが(破壊し損ねたのだろう)サウロンの手に落ちており、サウロンに膨大な情報を与えると共にそれまで使用されていたゴンドール側のパランティアを封じることにも成功している。これらの多大なる功績の全てに魔王は関わり、その名声はさらに高まったようである。

 これ以降も魔王は様々な武勲を重ねていく。2004年にドル・アムロスの公子エアルドゥアを、2050年にゴンドール王エアルヌアをそれぞれ殺害。特に後者の死によってゴンドール王家の血は根絶され、またこれによりミナス・イシルの奪還計画も潰えてしまった。また、着実にゴンドールの国土を蚕食、首都オスギリアスを圧迫しついに放棄を強いることにまで成功する(ゴンドールは沈む太陽の塔ミナス・アノールを守護の塔ミナス・ティリスに改名して遷都)。

(まだ続く)

[442] 「ど」の字 2008/02/09 18:02

(続き)

 第3紀最後にして最大の戦役である指輪戦争の時代においては、モルドール軍がゴンドール攻略準備に総力を挙げる一方、魔王と他の8人のナズグルは指揮官としての任務を離れて一つの指輪探索の命を受けることとなる。
 指輪を持って逃げるホビットたちを猛追した彼らであったが、そもそも彼らの能は指揮官としてのものであり、如何にナズグルとしての個の能力とサウロンに対する絶対の忠誠があったと言えどもこの人選はミスキャストであった。ガンダルフをはじめとする善の勢力に阻まれ、またホビットたちの機転と強運にすり抜けられて任務を失敗してしまう。

 この探索行失敗の後、魔王は西軍への攻撃のためミナス・モルグルに帰還しゴンドールの仮首都ミナス・ティリスを陥とす準備を再開。3019年初頭、彼は(アラゴルン二世と自らを斬った刃の復活に)焦ったサウロンによって十分な準備が終わらないうちに攻撃命令を受けて軍を動かす。まずオスギリアスの廃墟に駐屯するゴンドール守備軍を掃討して大攻勢を開始。それ以降はほぼ無抵抗のうちに街全体を完全包囲。準備不足であり魔王の理想とするだけの数が揃わなかったにもかかわらず、ミナス・ティリスは力攻めだけで陥落の危機に直面することとなる。
 その危機を救うべく再生王セオデンの親衛隊とローハンの騎士達が出現して包囲軍を横撃し、それを阻止するために行動した数少ない冥王側の騎兵を壊滅させられると、魔王は自ら敵勢の正面に立って陣頭指揮を執り、先頭を切って逆撃を行った。彼はローハン王セオデンを打ち倒し、戦況の再逆転にも成功する。セオデン王の親衛隊は死ぬか狂った馬に連れ去られ、男装して参戦していたセオデン王の姪エオウィン姫と彼女に運ばれていたホビットのメリアドク・ブランディバックのただ二人が残った。
……そして、あまりにも有名な戦闘の末に、エオウィン姫によって乗っていた飛竜を斬られ、次いでメリアドク・ブランディバックの手に持たれた(まさに魔王個人を破滅させるために鍛たれ魔術を掛けられた)北方王国の短剣によって討ち取られることとなる。

【コメント】
 とてつもなく長い間、中つ国で活躍していますので、略歴も膨大なものになってしまいました。
 ナズグルになる前の彼はここまで優れた風には見えないので、長く生きているうちにその能力を伸ばしていったものと思われます。
 冷静に彼の功績を見ていると、「こんな超人を部下に擁しているなら、冥王はオークの兵士による数の優越など要らなかっただろう」とすら思ってしまいます(彼はどうしようもない規律と訓練度しか持たないオークの軍隊でも、ちゃんと精鋭として機能させてしまえたのでありますが)。
 その他のナズグルにも言える事ですが、サウロンによる指輪戦争時代における魔王の使い方はあまりにももったいないものでした。もう少し彼を賢く使っていたなら、間違い無く善の陣営はどこかで破綻を来たしていたでしょう。そういう人材使用上の細かい過誤の積み重ねの上に、この人物の破滅がありました。
 致命的なしくじりで、冥王サウロンは全てを失ってしまいました。彼が生きていれば、フロドとサムが任務を達成することは不可能だったでしょうし、中つ国の善の諸国が指輪戦争後も存在を保つことは出来なかったでしょう。

【総評】
 まさに史上最強の君主です。総合能力で彼を超える人物は上古のエルフにも見当たりません。
 敵と対峙する乱時の国王としては、彼以上の人物は無いでしょう。王宮で不動の姿を見せ、その威を以て部下を治め敵に圧力を掛けるのが最上の使い方です。
 彼は、紛れも無く史実・架空を問わず史上最高級の人材です。あるいはかの「一つの指輪」をも上回るかもしれない至宝です。そんな彼に陣頭指揮を執らせたり、ましてや中立地帯での探索任務に出すなど、とてもじゃありませんが勿体無さ過ぎます。そんなことは適当な指揮官に任せ、彼はその上で「将に将たる」役目をさせるべきです。

[443] のりお准尉 2008/02/10 12:29

伏見宮博恭王(1875〜1946) 海軍階級:元帥海軍大将

【統率】55
日本の皇族、海軍軍人。伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将・大勲位・功一級。初め名を愛賢(なるかた)王といい、華頂宮相続に当り名を博恭と改める。日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加する。皇族出身の中でも艦長や艦隊司令官等を経験し、実戦経験が豊富だった。
【武力】60
自ら率先して最前線に立ち、常に部下将兵を鼓舞し苦楽を共にするのを厭わない姿勢や、操艦の名手として下関海峡のような『船の難所』でも難無く艦を操るその実力は海軍内でも非常に尊敬されていた。また皇族とは思えぬ海軍精神を持っていた。
【知力】45
『特攻戦術』の推進者。事実上『特攻の生みの親は大西龍治郎』となっている。大西中将は『特攻は統帥の外道である。』と反対したものの伏見宮博恭王の推進により認め、皇室に累が及ぶことを防ぐべく大西中将の名を使用した。
大西中将の言うように、特攻は作戦とは言えず、知力はこの程度。
反対する参謀らを権力と戦局を理由に黙らせた。
【政治】78
海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭王自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)軍令部権限強化について『私の在任中でなければできまい。是非ともやれ』と軍令部次長に指示するなど、皇族の威光を利用して艦隊派寄りの政策を推進し、日独伊三国同盟・太平洋戦争と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持っていた。
北原白秋作詞、海軍軍楽隊作曲による国民歌「伏見軍令部總長宮を讃え奉る」も作られている。

また、知力欄でも説明したように、『特攻推進者』というだけでは、『戦争推進者』と解釈されがちだがそうでもない。
現に伏見宮自身は「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」という考えを持っていたとされ、『早期決戦・早期和平』という考え方は、欧米協調派であった山本五十六に近い物があったといえる。
【魅力】60
皇族でありながら、皇族らしからぬことが数多くある人物として有名。
例をあげると、入浴後、皇族であれば湯かたびらを何枚も着替えて体の水分を取るのが当たり前であるが、伏見宮は一般の庶民と同じように、使っていた手ぬぐいを固く絞り、パンパンと払い伸ばしてから体を拭いていたという。下着の洗濯などは自ら行うこともあり、周りの者が「いつその様なことを憶えられたのですか?」と聞かれると「海軍では当たり前である」と答えたといわれる。また嶋田繁太郎の日記によると、握り飯と漬物という簡易な食事を好みよく食べていたという。

—いと言—
『皇族は所詮お飾り』という悪いイメージを壊す実力者。
このような考え方(早期決戦・早期和平)をもつ人物がもっと上層部にいてくれたら、特攻等も生まれなかったと思います。

[444] のりお准尉 2008/02/10 17:20

伊藤整一(1911〜1945) 海軍階級:大将

【統率】68
第八戦隊司令官、連合艦隊参謀長、軍令部次長、第二艦隊指令長官を経験している。部下を大切にし、信頼も厚かった。
【武力】59
伊藤は第2艦隊司令長官着任後、ミッドウェー海戦で無事帰還した戦艦『大和』による『天一号作戦』参加を命令される。その作戦は護衛の航空機を付けない実質的な特攻作戦だったため、伊藤大将は『制空権・制海権もなしの出撃は、沖縄に到達すべくもなく、それを承知の上で、7000人の部下を犬死させる訳にはいかない』と強硬に反対するが、連合艦隊参謀長 草鹿龍之介中将の『一億玉砕の魁となって頂きたい』との一言で作戦を承諾する。

そして1945年4月7日、坊ノ岬沖海戦において大和は米軍の総攻撃にあい、撃沈される。その際伊藤は大和艦長の有賀幸作大佐とともに艦に残り、戦死を遂げた。
【知力】49
アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能にちかく、作戦の意義はまさに、一億玉砕の魁であったといえる。さらに戦争末期には、日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米潜水艦スレッドフィンに行動を察知され、特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡されたという。
この遂行ほぼ不可能の作戦に参加したため、知力が目立つ場面はなかった。
【政治】70
アメリカ駐在経験があり当時の日本との国力差を理解していた為に当時の海軍上層部では、米内光政、山本五十六、井上成美、下村正助などと仲が良く共に日米開戦に最後まで反対していた。
また、太平洋戦争初期に日本が多少の成功を収め軍部が楽観しているときに、『そうじゃない、アメリカがいっぺん来たからにはそんな簡単なものじゃない』と言った事から幅広い視野で世界を見ることができた人物だった。
【魅力】72
海軍内でも有名な愛妻家であった。10歳程年下の妻ちとせを愛しみ、最後まで『良き夫・良き父』であったと云う。花柳界で浮き名を流す傾向が強かった海軍軍人の中においても、伊藤に付いてはその様な浮いた話は一切残っていない。
残された妻や子供の事を気遣った遺書(『親愛なるお前様に後事を託して何事の憂いなきは此の上もなき仕合せと哀心より感謝致候 いとしき最愛のちとせ殿』)は現在でも名文とされている。

——————————————————————————————————
結局『一億玉砕(一億総特攻)』を本格的に開始する前に終戦し、『大和』は無駄死にだった。本営(本部)も後、大きな後悔を感じていただろう。

[445] イスラーム好き 2008/02/11 22:45

ハッサン2世(モロッコ国王)

1928〜1999年

【統率】60
何度もクーデターや暗殺を企てられた事もあったが
彼の体制は死ぬまで維持された
【武力】40
父とともに独立戦争に従軍
ないということはない
【知力】80
緑の行進時の根回し、アメリカを味方にする外交手腕
欧州学んだ、西サハラを巡る一連の帝国主義的手腕は評価が出来る
【政治】70
西サハラ政策で一時期は経済が破綻しそうになったが
オリーブ、リン鉱石業、観光産業などが順調に育ち、アフリカ有数の豊かな国にした
【魅力】10
二度も暗殺されそうになる
国民の人気もなく、粛清された反対派は数知れず

【特殊能力】
シャリーフ(預言者ムハンマドの子孫)の血統 シャリーフを信仰する人間に対し、魅力100

【列伝】
遅れてきた帝国主義者
青年期をフランスで過ごし、欧米思考に染まる
モロッコ独立後、王として就任すると、帝国主義を振りかざし、国民から猛反発を喰らった

彼はアフリカ北西部全域がモロッコ本来の領土である、という大モロッコ主義の持ち主で
国民の不満を外に向けさせ、リン鉱石を確保し、大モロッコ主義を完遂させる為
スペインが占領していた西サハラに、丸腰の民衆35万人を越境させる緑の行進を実行
この大領土侵犯の裏で、スペイン・モロッコ・モーリタニア三国で西サハラ分割協定を結び、モロッコは西サハラを支配した

これに反発したのが、西サハラによる民族自立を目指すポリサリオ戦線である
アルジェリアの援助を受けたポリサリオは、モーリタニアを撃退するまで力をつけていた

モーリタニアの西サハラ撤退を見て、モロッコ軍は南下を開始する
しかしポリサリオは予想以上に強く、ハッサン2世は支配域に砂の壁と呼ばれる分離壁を建築
また、ポリサリオをリビアが支援していたことを槍玉に、アメリカの支援にこぎつける事に成功する

しかし一連の西サハラ政策でモロッコ経済は破綻寸前まで追い込まれた
国連はモロッコに西サハラ住民投票を認めさせ、停戦させた
ハッサン2世はこれに対し、西サハラに大量のモロッコ人を移住させ
被有権者の選定を困難にし、住民投票自体を延期させる(今も延期状態)

シャリーフを盾にアラビア諸王国との友好を固める傍ら、エルサレムとの友好も修復し
アメリカにとってモロッコはアフリカの盟友とも呼べるべき存在になった
また日本とも皇室外交で強く結ばれ、多大な援助を引き出す事に成功している
このように背後を固める一方、カダフィらアフリカの社会主義国家とは強く対立
果ては西サハラ独立を承認したアフリカ統一機構を脱退した
(現在アフリカでアフリカ連合に加入していないのはモロッコただ一国)

このように強烈な個性を持ち、賛否両論ある君主だが
モロッコをアフリカ有数の国へと発展させたのは事実

[446] ガーリックトースト73% 2008/02/12 13:22

ヴャチェスラフ・モロトフ

【統率】56
【武力】30
【知力】93
【政治】91
【魅力】44

【統率チェックポイント】
スターリンに譲るまで、ソ連首相を無難にこなしていた。
だが同時に大きな混乱も無かった時期であり、先導者としての活躍の場は少なかったと言える。

【武力チェックポイント】
ペトログラードでの地下活動を経て、十月革命ではロシア北部を中心に革命運動を指揮している。
一方で他の同志とは違い軍との関わりは薄く、典型的な政治家・文官であった。

【知力チェックポイント】
独ソ不可侵条約を早くから提唱、犬猿の仲と言われた両大国を結び合わせた世界的意義は大きい。
ベルリンに赴いた際も、ヒトラーとの舌戦で一歩上を行っており、
彼を心底悔しがらせている。
戦後、晩年のスターリンに嫌われた際、夫人は収容所に送られ、
あと一歩で自らも粛清対象とされるも、スターリンの死去で難を逃れ、
この事から、彼がスターリンの死去に関わっていたのでは無いかとの俗説も存在する。
この様な話が流布するのも、彼がスターリンに近い実力者であった事を物語っている。

なお、彼はその後も外相を務め、一時期フルシチョフによって左遷されるも、
晩年には共産党員として復員している。粛清が横行していたソ連で天寿を全うできた事自体が彼の強かさ・周到さを表しているとも言える。

【政治チェックポイント】
彼が脚光を浴びたのは外相時代からであると誰もが認めるのは、
その卓越した政治力に基づくものであろう。
勃興当時は四方八方が敵国であったのが、
独ソ不可侵条約は勿論、日ソ中立条約で後方の憂いを経ち、
連合国内で大きな発言力を持っていたイギリス・アメリカと対等以上に渡り合った。
その結果、ソ連がドイツ・日本と各個撃破できうる土壌を作り上げている。
スターリンの政治的構想を実直に、且つ冷徹なまでに実行し、
共産主義国家「ソ連」の全盛期を作り上げた。

【魅力チェックポイント】
カリスマ性があったとの記述はない。
彼本人よりモロトフ・カクテル(火炎瓶)の方が有名である可能性もあるほど。
スターリンの忠実な側近としての印象が強いためか、
粛清対象からはスターリンと同じく嫌われている。
良くも悪くもスターリンという「怪物」がいてこそのモロトフか。

【作者から一言】
彼とスターリンの最強タッグによって、ソ連は政治的に勝利しました。
信長包囲網のような絶体絶命状態から、最終的に勢力を伸ばす事が出来た国は世界史を取ってもごく僅かでしょう。
また、猜疑心の強いスターリンが彼を“コーバ”と呼び、
重用していた事は、単に彼が忠実であっただけでは説明がつきません。
独裁者でも一人では何も出来ません。
有能な独裁者には、常に非凡な側近がついているものなのです。

【列伝】
生没:1890年3月9日(ユリウス暦2月25日) - 1986年11月8日
本名:ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービン
略歴:ペトログラード軍事委員会委員、共産党中央委員会書記、
   ソ連首相、ソ連外相、駐モンゴル大使

[447] 2008/02/12 13:29

ハンス・ウルリッヒ・ルーデル

【統率】 50

【武力】 100

【知力】 70

【政治】 30

【魅力】 100

【統率チェックポイント】
 彼は一介の爆撃機乗りでしかなく、「部隊としての」逸話は殆ど存在しない。
 また負傷していた機銃手のガーデルマンを、自分も重症だったのだが、
「休んでいる暇は無いぞ、すぐに出撃だ!」と引っ張りだして出撃するなど、
 あんまり他人のことを考えていないように思われる。
 それに周囲の面々が従っているのは、彼の統率力よりも魅力によるものだろう。

【武力チェックポイント】
 もはや文句なし。戦闘機乗りで武力100に相応しいのは彼くらいのものだろう。
 牛乳飲んで出撃して牛乳飲んで出撃して牛乳飲んで出撃して牛乳飲んで出撃して、
 撃墜されること数回。義足となってもさらに出撃を続け、
 戦車500台以上を撃破した世界最強のタンクキラー。
 ちなみに戦闘機も5機以上撃墜している為、名実共にトップエースだった。

【知力チェックポイント】
 彼がこの凄まじい戦果を挙げたのは、類稀なる意志力、判断力によるものが大きい。
 当時ルーデルはソ連軍によって賞金をかけられたため、
 撃墜された後、執拗なまでに兵士の追跡を受ける嵌めになったのだが、
 彼はその悉くを回避し、確実にドイツ軍へと生還を果した。
 また休暇を削って出撃するために書類を偽造したりと、
 そういった能力も評価に値する。

【政治チェックポイント】
 政治力に関しては、実はあまり褒められたものではない。
 出世に興味が無かったのか、或いはソ連軍を叩きのめすごとが好きだったのか、
 ヒトラーから再三にわたって後方勤務を持ちかけられるが、全てを拒否。
 連合軍に投降した際も「ドイツ式の敬礼をやめてくれ」「だが断る!」。
 戦後も「ナチスは素晴らしい」「ローマの聖職者がドイツ将校の脱出に協力してくれた。ありがとう」
 などという本来秘せられるべき事柄を、著書に堂々と記していた。
 それでも無事だったのは、やっぱり彼の魅力によるものだろう。

【魅力チェックポイント】
 もはやこれも文句なし。
 ヒトラーに心酔し、ナチスに忠誠を誓いながらも、誇り高いドイツ軍人であり続け、
 またその凄まじい戦果と相俟って、彼に対しての悪い意見は殆ど聞かれない。
 ある意味でのカリスマ性のようなものを所持していたことは間違いあるまい。

[448] 2008/02/12 13:30

【列伝】
 史上最強、現時点でも不動の戦車撃破王。
 ドイツ東部のテレジアで生まれた彼は、20歳で空軍に入隊。
 士官候補生としてポーランド戦役、フランス侵攻に従事するも戦闘は未経験。
 中尉となった後、バルバロッサ作戦で初めて戦闘に参加。
 その後、終戦まで東部戦線でソ連軍相手に爆撃機スツーカを操って戦い抜いた。
 無論、ここまでならば東部戦線で生き延びることができた、幸運なドイツ兵という、
 ただそれだけの男だったのだろうが——その戦果が凄まじい。
 彼のスコアをウィキペディアより転載する。

〈戦績〉
 出撃回数2530回
 被撃墜回数30回
 戦闘による負傷5回
 ソ連軍によってかけられた賞金10万ルーブル

〈戦果〉
 戦車519台
 装甲車・トラック800台以上
 火砲(100mm口径以上)150門以上
 装甲列車4両
 戦艦1隻撃沈(マラート)
 巡洋艦1隻
 駆逐艦1隻
 上陸用舟艇70隻以上
 航空機9機(戦闘機2、爆撃機5、その他2。9機のうち2機はIl-2であったとする資料もある)

 これは公式に確認されたものであり、実際はもっとスコアは高かったと思われる。
 彼は撃墜され、入院していても病院を脱走して戦闘に参加し、
「誰が撃破したのかわからない戦車が多すぎた」為に発覚するまでそれを繰り返し、
 また仲間の部隊員が休暇や褒章を貰えるよう、自分の戦果を分け与えていたからだ。

 ルーデルの戦闘意欲は異常の域に達しており、それで苦労した人々も多い。
 彼と最も多く組んで戦闘した機銃手のガーデルマンは、ルーデル共々撃墜された際、
 「休んでいる暇はないぞ、ガーデルマン。すぐに出撃だ!」
 と重傷を負っていたルーデルによって野戦病院から引っ張りだされ、出撃していた。
 その為かどうかわからないが、ルーデルが負傷し、足を切断する嵌めになった時、
 「ガーデルマン、脚が無くなってしまったよ」
 「バカ言わないでください。脚が無かったら話してなんかいられないでしょう」
 とガーデルマンに笑い飛ばされてしまった。
 ……ある意味自業自得ではあるが。

 そしてガーデルマン以外にも苦労していた人がいる。アドルフ・ヒトラー、ヨセフ・スターリン、そして連合軍だ。
 ヒトラーはルーデルが戦死する事を恐れ、何度も地上勤務をするように忠告したが、悉く拒否されてしまう。
 また既存の勲章ではルーデルの戦果に追いつかず、新たに「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を新設。
 これを授与する条件としてルーデルが提示したのが「二度と地上勤務をするよう言わないこと」であった。
 ちなみにこの勲章。ドイツ全将校を通して、授与したのはルーデルただ一人である。

 またスターリンはスターリンで、ルーデルのあまりにも膨大な戦果に激怒。
 演説の中で「ソ連人民最大の敵」と名指しで宣言し、その首に膨大な賞金をかけた。
 そう言った努力は身を結ぶ事なく、ルーデルは無事に連合軍へと投降したのだが……。

[449] 2008/02/12 13:30

「投降するなら、ドイツ式の敬礼を改めてくれ。それと喋れるのならドイツ語でなく英語で頼むよ」
「断る。私は習ったとおりに敬礼をするだけだ。
 また、ここはドイツで、私はドイツ軍人だ。頼まれたってドイツ語以外は話したくないね。
 そして勘違いしているようだが、我らドイツ空軍は戦いで破れたことは一度も無い。
 単に連合軍の圧倒的な物量で押しつぶされただけだ。
 ———————ま、そんな事はどうでも宜しい。シャワーと食事をもらえないかな?」
 自重すべきだろう、ハンス・ウルリッヒ・ルーデル。

 連合軍は割合と心が広かったらしい。
 戦後、ルーデルは20歳年下の嫁さんを貰ったりしつつ、南米で平和な余生を過ごすことができた。
 実業家として活動しつつ、いくつかの著書を執筆したり、攻撃機A−10開発に協力。
 また義足というハンディキャップを抱えながら、登山家としても有名になる。
 だが、ここでもやはりルーデルは人様に迷惑をかけてしまっていた。
 彼は熱烈なナチス信者であった為、ドイツで行った公演が物議を呼び、彼を招いた軍人二名が退役させられたのだ。
 …………歳をとってもこれである。

 そんなルーデルだが、1982年12月18日にバイエルンで死去。
 盛大な葬儀が執り行われたが、その際に西ドイツ空軍機が会場上空で追悼飛行を行った。
 最後の最後まで、凄まじい人物であった、ということか。

[450] やっち 2008/02/12 16:48

>>440

 大作お疲れ様です。
 私も同作品が好きですし、数字にも納得で、また架空の人物の数値化も好きなのですが、
板違いの批判を避けるためにも、少々作品が長すぎるのではないかと。

>>444

 魅力の評価は難しいところですが、愛妻家であることは「利害抜きで人を引きつける力。人望。 」(>>0
が高いこととあまり関係ないのではないでしょうか。

>>447

 この人に空戦の武力100を付けてしまったら、「レッド・バロン」リヒトホーフェンや
戦況が困難になってから300機以上撃墜したエーリヒ・ハルトマンはどうしましょう。
 ルーデルはエースではあるでしょうが、対地戦がメインですし。
 魅力も100になっていますが、部下思いで僚機も守り続けたハルトマンには劣ると思うのですが。

[451] 「ど」の字 2008/02/12 22:17

>>450
 確かに冗長に過ぎたかと思います。反省……。
 しかしこの人、かいつまんで語るだけでもこんな膨大な内容になってしまうのです。
 次以降(多分中興王アラゴルン王と創始王エルロス)は、もう少し内容を刈り込んでみたく思います。

[452] 「ど」の字 2008/02/13 22:57

 続けて、指輪物語世界観の人物評を上げていきます。
 指輪戦争の勝者にして、滅び行く世界の流れを一時的にしても食い止めた中興王の評価です。

 アラゴルン・エレッサール・テルコンタール

【統率】87
 強力な統率者であることは間違いない。ただ冥王の国モルドールへの進軍で脱落者を出すなど、超一流の評価は下せない。この点ではガンダルフの方がはるかに格上。
【武力】80※
 物語を俯瞰した上では何とか一流といったところ。放浪時代にはローハンやゴンドールで優れた将帥ぶりを発揮したそうであるが、指輪物語の時代では彼が兵力を指揮する機会は無かった。ただ個人的武勇には飛び抜けている。
【知力】99
 指輪物語世界観史上では、自分の見るところ二番目に知性的な人物(一番は彼の祖先であるヌメノールの創始王エルロス)。何よりも抑制力と決断力のバランスが素晴らしく、勇気と知恵を連結させることの出来る真の知性があった。上古のエルフなど問題にしないほどの賢明さと自制心を持つ。裂け谷のエルロンドと比較しても知識量以外は格上。
【政治】85
 物語の終わりまで、彼がこの能力を使う機会は無かった。
 その後の経過から見てこの数字。衰えた敵を慰撫して吸収、平和をもたらし維持するだけの才覚は十分ある。
 また、政争を生き抜く能力も強力無比。これは特殊能力の生存能力で表現した。
【魅力】95
 指輪物語でホビット4人と初対面したときは、長い放浪で擦り切れた雰囲気の不審人物でしかなかった。しかしその時も人としての器の大きさは素朴なホビットたちをして瞠目させている。身を整えて着飾ればエルフの公子と見紛う程の美男子だった(エルフの王たちの家系のみならず神の血まで引いているから不思議ではないが)。
 放浪時代にローハンやゴンドールの内情を見るために臣従した頃も、その不確かな出自にもかかわらず部下や同僚を心酔させよく目標に引っ張った。彼が居なくなると決めた後のローハンやゴンドールが困惑するほど慕われていたという。王位に就いてからも威厳ありながら傲慢さとは無縁な気性はこよなく愛された。
【特殊能力】
※生存能力
 生存するか否かを判定する際は、その判定を要する能力は必ず100として判定する。
 なおこの能力は、彼の遠い祖先である隻手のベレンとほぼ同じものである(アラゴルンは政争にも使用可能)。
※癒し手
 第3紀の末には失われている医療系ロストテクノロジーのいくつかを保持。特に薬学と衛生学に通じている。
 彼が看護する傷病者の死亡確率は著しく低下。また彼の存在する陣地では衛生状態がランクアップし、彼が町割りを手がけた都市にも同じ効果がある。
※個人的武勇
 個人的武勇を問われる場面では、武力数値を+19して99扱いで計算。影とは言えナズグルを5体相手にして撃退する、マイア(小神)の一柱にも等しい武勇を発揮した。

【略歴】
 上記の名は、彼が再統一した西方王朝の開祖となって以後の名。北方野伏の族長としての名はアラゴルン二世。
 エレッサールとは「エルフの石」の意で、彼が額に付けていたエルフの宝石に由来する。テルコンタールとは「馳夫」ほどの意(英語ではStrider。大股で急ぎ歩く者ほどの意)で、ホビットのビルボやフロドが彼を呼んだ名を家名としたもの。必ずしも良い意味を持った言葉ではないものの、アラゴルン王はこの呼ばれ方を気に入っていたらしい。異名は中興王(エンヴィンヤタール)。

 北方野伏の族長アラソルンの子として生まれ、アラソルンが戦死すると裂け谷のエルロンドに引き取られて育つ(エルロンドの娘であるアルウェン姫との馴れ初めはこの頃のこと)。
 当時は復活した冥王サウロンによる戦争の脅威が現実のものとして迫ってきた時代であり、彼はその時代の流れの中でサウロンの仇敵としての身分を隠し南方王国ゴンドールや騎馬民族国家ローハンで放浪の武将として内実を調査しつつ活躍し、あるいは人数わずかになった野伏を率いて滅びた北方王国の遺民(ホビット庄も含む)の守護に立ち働いている。
(続く)

[453] 「ど」の字 2008/02/13 22:57

(続き)
 指輪物語の時代においては、スメアゴル(ゴクリの俗称で知られる、ビルボの前の「一つの指輪」所持者)追跡や、ホビット庄から出てナズグルから逃れるホビット4人を保護したりというという困難な探索の任を無事に達成している。
 エルロンドの御前会議で北方王国の後継者たる正体が明かされて以降も彼は部隊を率いることは無く、指輪所持者を護送する任務に続けて当たり、指輪所持者の隠密隊が分裂するとオークに囚われた指輪所持者ではない方のホビット二人を追跡してローハンへ入り、そこでセオデン王を再生させる一助を担ったりその後のローハン戦役を戦ったりしている。ローハン戦役終了後は「見る石」パランティアを使って冥王サウロンに挑戦し彼の判断を狂わせ、その後呪われたと言われていた道を通ってゴンドールに急行、陥落寸前のミナス・ティリスにわずかな兵力で救援に駆けつけてペレンノール野の大会戦に参加している。
 ミナス・ティリスの防城戦が一段落すると執政を失ったゴンドールと王を失ったローハンの両国の兵力を束ねる名目上の総指揮官としての役割を担い(実際の指揮はそれぞれの国の次席指揮官が執った)、冥王の国モルドール深く潜行した指輪所持者フロドとサムを援護するためモルドールへ進軍し、増強一個連隊にも満たない兵力(5800人。分派したり脱落者があったりしたので黒門に至った時点では4000を割っていたといわれる)で黒門の戦いに臨んだ。
 黒門では数十万もの大軍に包囲され絶体絶命の危機に立つが、その最中に指輪所持者が「一つの指輪」破壊の任を達成したことで冥王サウロンは破滅、その軍隊は戦わずして瓦解して一命を取り留めた。
 その後アラゴルンはゴンドールで執政ファラミアから大政奉還され、西方再統一王朝を開いた。エレスサールは120年という長期にわたって統治して多くの残敵を追討して(とても長い時間が掛かったらしい)西方諸国に大いなる平和をもたらし、最期はかつてのヌメノール王朝の王たちの風習を復活させて自らの意思で世を去った(彼らヌメノール人は、自分で死のうと思ったら安らかに死ぬことが出来るという余人には無い技能があるという)。

【コメント】
 その立場や能力といい、エルフの姫との恋などの人生の軌跡といい、どう見ても彼は隻手のベレンの生まれ変わりです。世が世なら大国に君臨する君主であったはずが、サウロンとガンダルフのヘボ将棋に巻き込まれたお陰で滅びかけた北方野伏の長として世に出ることになりました。
 大作「指輪物語」の半分は彼の冒険譚で占められていますが、実は彼の人生はそれ以前も以後も冒険に満ち満ちています。指輪物語世界観において、彼ほど激しく濃い人生を送った人物は皆無でしょう。
 賞賛と溜息を込めて。「お疲れ様でした」。

【総評】
 強力な君主です。また、武将としても助言者としても、はたまた忍びとしても飛び抜けた能力を持ちます。また、生存能力の高さは彼の遠い祖先である隻手のベレンにも匹敵する死ににくい人物です。
 しかしそれでもなお彼を最前線に出すというのは危険すぎます。アングマールの魔王の例があるのですから、戦場から一歩離れた所で冷静に戦いを見て適切な判断を下すべきでした。物語中でも何度と無く危機に遭遇し、危うく全てを空しくするところでした。国を再復するまでの彼には権威が無く、彼が使える兵力は一騎当千の兵揃いではあれど20人ほどの北方野伏だけだったとは言え、あまりにも危険な綱渡りの連続でありました。それもこれも、西方王朝の盛期にサウロンを捜索殲滅できず、また西方王朝の衰退を食い止められなかったガンダルフの致命的な失策による危機でした。いくらその身が神の一柱とは言え、後から必死になって尻拭いしても失われた時間は取り戻せないのです。
 善の陣営と悪の陣営の運命を分けたのは、ただ上に立つ人間が武運に恵まれているかいないかという、それだけのことでした。

【一言追記】
 イシルドゥアの死によって一つの指輪が紛失することで本格的に始まり、一つの指輪がオルドロインの火口に落ちることによってサウロンが破滅して終わる第3紀は、詰まるところ冥王サウロンとその敵手であるガンダルフとのヘボ将棋の時代でした。アングマールの魔王なぞ、冥王サウロンの打つ手の甘さを配下として嘆くことがあったのではないでしょうか?

[454] ガーリックトースト73% 2008/02/14 01:53

ニコラエ・チャウシェスク

【統率】79
【武力】36
【知力】31
【政治】57
【魅力】69

【統率チェックポイント】
約15年に渡り「王朝」と呼ばれるほどの強固な地盤を保持している。
ソ連という強大な支えがあったとは言え、崩壊まで強権的な政治にも関わらず大きな叛乱もない。
周りの重職の殆どを一族・傍系で占める(30名在籍していたと言われる)など、周辺組織の構築にも余念が無かった。
惜しむらくは、共産圏が崩壊した際の連鎖反応を止められなかった点か。
?小平やカストロのように共産圏崩壊後も失脚も無く独自路線を貫けていたなら80以上は堅かっただろう。
一応、秘密警察を導入するなどして叛乱の早期発見には務めていたのだが…。

【武力チェックポイント】
親西側路線を標榜していた政権初期は、チェコ事件などでも軍の派兵を控え、ソ連を批判するなどした。
だがその一方で、末期になりポーランドに民主的政権が誕生するとこれを攻撃するようWTOに求めている。
非戦的か好戦的かは判断の難しいところだが、結果から考えるとさしたる軍事的働きかけもないのでこの程度が妥当か。

【知力チェックポイント】
智慧に乏しかったのか、側近の言葉を鵜呑みにし、政権末期にエリート官僚の専横を阻止できずにいたりと、失敗は多い。
また、国民生活を見て回る意気込みがあった事は買うが、
そのコースが見定め側近の手で決められ、
事前にありもしない高級品が並んでいた事に満足してしまい、
何の疑問も持たなかったという呆れた逸話まで存在する。
最終的に革命時も側近や官僚が挙って亡命を完了していた中、
自分と妻だけが救国戦線に捕らわれるなど、詰め・思慮が甘いと言わざるを得ない。
権力闘争にはズバ抜けて長けていた事から、全くの無能でもないハズだが。

【政治チェックポイント】
独裁的、強権的な政治体制を敷き、ルーマニア国民を恐怖させた。
親玉のソ連に対してハッキリと物が言える男である為、
就任当初から欧米諸国からは好意的に見られていた。
また、国民に対して最低限度の生活は保障していたと言われ、
貧困層でも飢餓で死ぬといった凄惨な事件は発生していない。
(と言っても、政権末期は債権処理に負われ、生活必需品まで売っていたので飢餓寸前まで国民は飢えたようだが)
言論の力を何よりも恐れていたようで、言論統制に関しては秘密警察を導入して徹底的に規制している。

【魅力チェックポイント】
救国戦線が彼を捕えた際、形だけの裁判の後早々に殺害したのは、
彼ら自身がチャウシェスク本人の影響力の大きさを恐れていたからである。
チャウシェスク子飼いの秘密警察"セクリタテア"は孤児出身であり、
恩を売りやすく権力者にとって使い易いという側面は否めないが、
彼らにとっては拾ってくれた「恩人」であり、革命発生後も終始忠誠を誓っている。
また、現在でも責任を上に転嫁でき、最低限の生活は保障されていたチャウシェスクの治世を懐かしむ国民は存在し、
それは同時に「正義」を自称していた救国戦線にとってはショックだったと言われる。
ともあれ、大多数の人間にとっては彼に恐怖や崇拝は抱いても愛する念はなかったと言える。

[455] ガーリックトースト73% 2008/02/14 02:21

(>>454の続き)
【作者から一言】
所謂、独裁者です。
国民の館や官製集会をたびたび開くなど、目立つ物事が好きだったのでしょうか。
親ソ一色の冷戦時代にソ連を批判する度胸はリーダーの素質充分です。
しかし、やはり彼は国と国民の現状を知らなさ過ぎたと言えます。
国民と政府の認識の乖離に早くから気づいていれば、歴史は変わったかも知れません。
そして、最大の失敗は慧眼を以って信頼できる人材を選べなかった事にあります。
一族で固めた事には言及しませんが、一部の者だけを用いずに、
幅広い人材を雇い、耳を傾けるべきでした。
中途半端に野心家や佞臣的な人間を登用した結果、国は荒廃し、
彼らは革命発生時には早々に国とチャウシェスクを見限っています。
政治面では国内外の批判もありますが、一応国民生活に関心は持っていたようですし、
他の共産国と違って大規模な粛清を行っていません。
更に、大量殺戮の現場が風評に過ぎなかった事、
革命前後における反体制側・軍部らのキナ臭い逸話が出回っている事も併せて、
未だその実像は完全に判明していないと言えます。
しかし或いは、独裁者の割にどうも地味で憎めない、
そして未だ謎のヴェールに包まれている事、それぞれがこの人の魅力なのかも知れませんね。

【列伝】
生没:1918年1月26日〜1989年12月25日
役職:ルーマニア社会主義共和国初代大統領
在任:(1974年 - 1989年12月22日)

[456] ガーリックトースト73% 2008/02/14 22:44

ノロードム・シーハヌ(シハヌーク)

【統率】46
【武力】40
【知力】14
【政治】58
【魅力】85

【統率チェックポイント】
組織を作り上げる事には長けていたが、
それを維持し、安定させていく力はほぼ皆無と言ってよい。
それでもシハヌーク翼賛体制を作り、首相と外相を兼任するまでのプロセスは迅速かつ的確であったと言える。
だが統率力を「持続する力」と考えるなら、常人レベルだろう。

【武力チェックポイント】
軍勢を指揮、および指導した経験はゼロ。
独立戦争とカンボジア内戦時も彼は引き篭もっていただけである。
クメール人にしては背も高く体格も良いのでこの程度と判断。

【知力チェックポイント】
政権内の内部抗争を止められず、親族にクーデターを起こされている。
権力を奪い返す為に対抗勢力と手を結んだはいいが、
その結果、ポルポト率いるクメール・ルージュをカンボジアに引き入れてしまい、
有史以来、未曾有の大虐殺・混迷期を生み出す間接的原因を作った。
利用できれば何でも良かったのか、それともかつて弾圧した相手に優しくしてもらえると思ったのが彼の不孝だろう。
一応ポルポトが危ういと言う事を気付けただけでも彼なりによくやったというべきか。

【政治チェックポイント】
政治的駆け引きでフランスを追い詰め、独立を獲得した。
荒廃した国家の再生と破壊を行っており、政治的二面性を持つ男であろう。
立憲君主制となった後は無難に公務をこなしているし、自らも政治的才能があると考えていたようだ。
しかし何度も失脚を経験しており、政治的判断に安定感が無かったのも事実である。

【魅力チェックポイント】
「カンボジア独立の父」として絶大な影響力を保持し続けた。
半ば神格化されていたといい、政治家に転向して党を立ち上げた際も、全議席を掌握した伝説を持つ。
ポル・ポトを引き入れて国内に混乱をもたらした後も人気は衰えず、
現役を引退した後でさえ国民から一定の支持を得ている。
近代のカンボジアにおいて、彼以上のカリスマは存在しないだろう。

【作者から一言】
国王・党首・首相・外務大臣・国家元首・叛乱勢力首班と、
数多くの経歴を持つ事で知られています。
ロン・ノル、ポル・ポト、フン・センなどの著名な権力者と互角に渡り合い、最終的に勝利しています。
"ロン・ノルがつき、ポル・ポトが捨てし天下餅、拾って食うはシハヌーク"と言った所でしょうか。
しかし、彼が勝利を掴めたのは、単に彼自身の能力だけではなく、
国民や運が味方した事も忘れてはなりません。
考えようによっては、彼が「独立の父」と持て囃され、
それが自分自身の力によるものだと過信した結果、
政治家となり本来の歯車が狂い始めたと言っても間違いではないからです。
尤も、数多くの失敗と復活を繰り返した今の彼にとっては、
このような指摘は百も承知なのかも知れません。

【列伝】
生年:1922年10月31日 - 2008年現在 存命
略歴:旧カンボジア国王、カンボジア首相、初代カンボジア国家元首
   現カンボジア国王(現在は退位)
在位:1941年 - 1955年3月3日、1993年 - 2004年10月29日
備考:ギネスブックは彼を世界の政権で最も多くの経歴を持つ政治家であると認定

[457] ガーリックトースト73% 2008/02/15 00:10

フランクリン・デラノ・ローズヴェルト(ルーズベルト)

【統率】93
【武力】37
【知力】52
【政治】74
【魅力】81

【特殊能力】
 煽動:一定確率で対象を自分の思惑に近づける
 鼓舞:一定確率で士気高揚

【統率チェックポイント】
世界恐慌、WW2を戦い抜けたのは、彼の驚異的とも言える先導力によるものだろう。
様々な民族・宗教・価値観が入り混じる移民国家アメリカを見事に1つに纏め上げ、挙動一致体制を作り上げた。
国民の厭戦感情を巧みな煽りで戦争へと誘導、全てはこの男の目論見通りだったと言える。
遂には有事とは言え史上唯一の四選を達成。これは、彼の纏め上げる力を国民が評価した結果である。
大多数を引っ張っていく才能において、歴代大統領でも屈指であろう。

【武力チェックポイント】
海軍次官を経験しているが、目立った功績はない。
車椅子が手放せない体であり、個人的武勇とは無縁の人間であるが、本人が好戦的思考なのを考慮して、この程度が限界か。

【知力チェックポイント】
スターリンの真意を見抜けず「スターリンとはウマが合う」「彼とは巧くやっていけると信じている」など、
実利よりも好き嫌いで物事を判断しがちな傾向がある。
この為、日本に対して高圧的な態度を採った事は彼の日本嫌いによるものではないかとの憶測もある。
同時にやや理想主義的であり、その夢想掛かった発言に対し、
会議中にチャーチルを呆れさせた一幕もあったと言われている。
しかし実利を軽視したわけではなく、戦争参入の理由も、国内の景気回復が第一だったとの見解もある。

【政治チェックポイント】
マスメディアを多く活用した大統領であり、
自らの政策を国民に伝えることに余念が無かった。
政策としては世界恐慌の脱却源となった「ニューディール政策」が有名である。
しかし実際は成果を上げたとは言えないとの評価もあり、判断は分かれる所であろう。
事実、大戦特需がなければ遠からず破綻していたとも言われ、一概に彼の政治的才覚を認める材料にはならないであろう。
景気回復のキッカケを作ったと言うなら間違いないのだが…。
相次ぐトップ会談ではチャーチルやスターリンなどの大政治家を相手によくやったと言いたいが、
やはり発言力の小ささは否めず、仲の悪い2人の調整役を務めるに止まっている。
敢えて肩を持つなら、彼ら2人と比較するのは些か酷な事であろう。

【魅力チェックポイント】
アメリカを守り抜いた大統領として、今なおアメリカでの人気は高い。
しかし、一歩国外に目を向けると、かつての敗戦国を中心に頗る悪評が付いて回る。
悪名高い「日系人強制収容」、原爆の「マンハッタン計画」、露骨な差別嗜好であった事も原因だろう。逆に言えば、悪名高い事も有名人の裏返しだろうか。

【作者から一言】
日本人には「リメンバー・パールハーバー」のイメージが一般的でしょうか。
太平洋戦争を予期していただの、共産主義者でソ連のスパイであっただの、色々黒い噂が耐えない人物でもあります。
一方で、四選という脅威の在任記録を持つ怪物でもあります。
アメリカ人にとっては、ただ「アメリカの守護者」と言う事だけで、信頼に足るには充分だったかも知れません。
アメリカに限らず、必然的とは言え、あの時代は怪物や傑物が多くの国で誕生したと言えるでしょう。
因みに、日本とアメリカ民主党の因縁はここから始まったと言って良いでしょう。良くも悪くも、非常にアクの強い人物ですね。

【列伝】
生没:1882年1月30日 - 1945年4月12日
略歴:海軍次官、アメリカ合衆国32代大統領
任期:1933年3月4日 - 1945年4月12日(四選)
備考:米国史上唯一、重度の身体障害を持つ大統領

[458] 「ど」の字 2008/02/15 22:01

>>457
 あぁこの人はなぁ……。
 アメリカを混迷から立ち直らせるという内政観点では偉大な大統領でしたが、しかし国際的な政治目的を達成するという対外戦略観点では仰け反るほどの無能だったと思っています。マッカーサー(の日本統治によるアジアでの策源地確保と友好国建設)なかりせば、アメリカ衰退を決定付けた大統領という誹りも受けかねない危うい政治家でした。
 全体の数字については、全く妥当だと自分は思います。お疲れ様でした。

[459] 2008/02/16 03:40

そういえばチャーチルの評価ってまだされてないんですかね?
保管庫には無かったみたいですが……

[460] えすっかるご 2008/02/16 18:09

東條さんが徹底抗戦派というのはどうなんだろう。彼はそんなにえらくないんじゃないかな。華族であるわけでもないし。すでに総理もやめているし。

[461] ガーリックトースト73% 2008/02/16 19:17

そういえば東条もまだ数値出されてないね。(意外だ)
毀誉褒貶が大きい人だから評価するのは難しいだろうけど。。

[462] 粛清天使 2008/02/17 18:04

東條さんは優秀な官僚であってそれ以上でも以下でもない、
そんな気がしますね。こんな感じかしら。

【統率】60
【武力】50
【知力】65
【政治】60
【魅力】40

…なんか面白くないなぁ。

[463] 田舎紳士 2008/02/17 21:56

>>459
永遠の青さんのブログで見かけました。
結構評価高いです。

[464] ガーリックトースト73% 2008/02/17 23:11

正親町天皇(おおぎまちてんのう)

【統率】43
【武力】24
【知力】82
【政治】88
【魅力】83

【統率チェックポイント】
特に朝廷内の騒動もなく、無難に纏めたが、前に出る天皇ではなかった。

【武力チェックポイント】
個人的武勇の逸話もない。まして軍勢など率いたこともない。
戦国時代の過酷な生活で過ごし、天寿を全うしているので大目に見て20代か。

【知力チェックポイント】
戦国乱世の中で一部の公家が保身のために大名と接触を図る中、
常に冷静沈着であり、安易に直情に走らず、忍耐力を持つ人物であった。
信長は、彼の論旨をアッサリと反故にする、天皇直々の天盃を拒否、
挙句、親王の元服式には質の悪い貨幣を入れてメンツを潰そうと画策するなど陰湿な嫌がらせを行ったが、
これに激昂する事無く、信長出陣の折には必ず勅旨を差し向けている。
また、一般には足利義昭が信長に上洛を勧めたといわれるが、
それと同時に彼による「お墨付き」を受けていた事実も忘れてはならない。
この時点で、多少なりとも信長に一目置いていた事が判る。
しかし、妥協が常だったわけではなく、こと朝廷の人事に関しては信長の意向を一切無視、来るべき将来に備えて、信頼に足る公家を選抜していたようだ。
以上の点から、硬軟の切替が出来る知性を持っていた事が理解できよう。

【政治チェックポイント】
室町幕府を滅ぼした織田信長の執拗な政治工作
(馬揃えを用いての示威行動、安土城に天皇を招きいれようとする=自分の方が偉いというアピール)
にも耐え、朝廷と武士との相互利用を実現している。
つまり、権力者から金と武力を引き出し、自らは官位と正当性を与えるという構図である。
この構図は安土桃山時代で一環として遵守され、結果として朝廷は勢いを盛り返す事となった。
信長自身はこの老獪な天皇を疎ましく思っていたと言われるが、
それ以前に詔勅によって数多くピンチを救われている為、それ以上踏み込めなかった。
一説には、本能寺の変に関わっていたとされるが、明確な証拠が無い為、仮説に止まっている。
何れにせよ、戦国の乱世にあって下手をすれば皇統が崩壊する危険もあった中での手腕は概ね評価されている。

【魅力チェックポイント】
天皇の権威は戦国期でも大きな低下は見られず、幕府が力を失った際は自ら勅旨を全国に派遣、支援を引き出している。
取り分け、幕府を解さずに朝廷と大名が直接官位と支援を交換する事は、
大名に対してのアピールと同時に、多大な支援が望まれることであった。
行動的な天皇であり、停戦論旨を多く書いた事で知られている。
これによって争いが集結する度に、大名達は益々尊崇の念を深める事となっている。

【作者から一言】
華はありませんが、非常に老獪な天皇です。
応仁の乱以降、冷や飯を食べさせられ続けていた朝廷における「中興の祖」と言えるかもしれません。
織田信長・豊臣秀吉を相手に戦闘力も財力も知己ですら少なく、
唯一の「権威」を最大限に利用して朝廷を守り立てました。
織田信長との政争は公武決戦であり、差し詰め武器無き戦いの様相を呈しています。
己の領分をよく理解し、"売官"と言われようとも官位を武器に戦国大名を巧みに利用していきました。
戦国期の一番貧しく忙しい時期に彼が即位したのは、まさに運命だったかも知れません。

【列伝】
第106代天皇 諱:方仁(みちひと)
生没:永正14年5月29日(1517年6月18日)-文禄2年1月5日(1593年2月6日)
在位:弘治3年10月27日(1557年)-天正14年11月7日(1586年12月17日)

[465] ガーリックトースト73% 2008/02/18 00:17

閔妃(ミンビ/びんぴ)

【統率】18
【武力】10
【知力】26
【政治】 4
【魅力】12

【特殊能力】
傾国 :この人物を登用すると、国家財政が必ず赤字になる
神格化:死後魅力が+50される

【統率チェックポイント】
彼女が宮廷に上がって以来、政争が絶える日はなかったと言われる。
纏める力などあったらクーデターなど起こされまい。
周りを近親者のみで固めたのも、自らの統制力に自信が無かったからだろうか。

【武力チェックポイント】
高宗の寵妃であり、戦いとは無縁の人間である。
幼児以上、弱い一般人以下と言った所か。

【知力チェックポイント】
権力掌握当時こそ、近代化に着目し推進するが、
惜しむらくは、自らの命が脅かされてからは保身の為に迷走、親中・親露と次々に鞍替えする節操の無さか。
"賞賛すべき"なのは、立ち回り・鞍替えの巧妙さだろうか。
壬午事件の折には、寸での所で危険を察知、側近の女官を囮にして自らは生き長らえている。

【政治チェックポイント】
改革を進めれば守旧派の反発を招き、既得権益の肩を持てば改革派に狙われている。
どうもやる事が裏目に出る人物のようで、
宮中に入り政争に突入したは良いが、前漢の呂后と違い、国内全体にまで影響を拡大すると言う愚を犯す。
それ以降は坂を転げ落ちるように国を引っ掻き回し、
財政が逼迫しているにも関わらず、連日の酒宴・芸人などの娯楽を追求、
反対派だけでなく、支持派の顰蹙すら買うと言う有様である。
自らの命が危うくなったら方向転換する点から、国を良くしようという気概が薄く、権力欲のみによるものである可能性が高い。
政治面において、コレほど擁護する事が難しい人間は歴史上でも珍しい。

【魅力チェックポイント】
当時から悪妃として名声を馳せていたようだ。
しかし、臣民が貧窮しているにも関わらずの豪勢ぶりである、嫌われないと言う方が可笑しい。
まあ、一方では彼女を利用しようとする権勢家は大勢いた事から、
全ての臣民に嫌われていたわけではないようだが…。
彼女が女傑・英雄として返り咲くのは、むしろ大韓民国成立後である。
現在、韓国では偉人として認知されており、墓に献花する者が後を絶たないらしい。

【作者から一言】
評価が若干主観掛かったものかもしれません。
しかし、彼女は間違いなく李氏朝鮮の亡国の種を蒔いた人物であり、
李氏朝鮮末期の写真から判るように、明らかに臣民が貧困と生活に喘いでいたにも関わらず、
豪奢な生活を営んでいた事実は、糾弾されて叱るべきだと思います。
悪女と言われる西太后、則天武后、呂后は、権力欲の旺盛な人間ですが何れもリーダーシップの取れる優秀な人間であり、
それと比べると、彼女は美点の限りなく少ない小物と言わざるを得ません。
なぜ彼女が今頃英雄のように母国から持ち上げられているのでしょうか。
遠い未来、真実を知った韓国国民は、騙されていた事実に悲しむ事でしょう。

【列伝】
生没:1851年10月19日 - 1895年10月8日
略歴:李氏朝鮮第26代王・高宗の妃
諡号:明成太皇后(没後、日本の井上馨により)

[466] 2008/02/18 02:26

>>463
早速見てきました。
ありがとうございます。

[467] 「ど」の字 2008/02/19 02:52

>>465
 お疲れ様でした。
 現代に至る朝鮮半島混迷の一因になった人物ですね。
 よくもよくも、こんなレベルの為政者が次から次へと出てきたものだと呆れてしまいます。普通なら国家も民族も滅びていますよ……。

 自分は近い将来、大統領の任期が終了したらノムヒョン氏のコーエー数値化をしてみたいと考えています。
 確実に閔妃を下回る低評価になるものと思われます。

[468] やっち 2008/02/20 14:26

>>467 ノムヒョン氏

 数値化を見てみたい気もしますが、存命の人物、それも直近まで現職にあった人物の数値化は、
歴史ではなく政治であって、本スレでは不適切であるように思われます。
 スタンスの違いによって議論が紛糾する可能性もありますし。

[469] 「ど」の字 2008/02/22 02:53

>>468
 OKです。もう少し待ちましょう。
 このままで行くと、程無く書くことが出来そうな気もしますが。
(朝鮮半島の為政者は、任期が終了するとたちまち攻撃を受けるので)

[470] マフムード 2008/02/22 16:14

アブド・アッラフマーン1世(731〜781)
後ウマイヤ朝 初代アミール(在位:756〜788)
活動地域:中近東、イベリア半島

【統率】74
 全治世を通じて奔放なアラブ族やベルベル族の統制に苦心し続けたが、それでも出生以外に何一つ資産のない初期条件から王朝建設までこぎつけたことを考えれば、統率力が低いとはいえない。反逆者や敵対者にはきわめて残忍であり、武力と富の誇示と威圧によって人々の服従を引き出した。
 アッバース朝のアル・マンスールは、自ら送り込んだアル・アラー以下、主な将軍たちの生首が尽く樟脳漬けにされ、軍旗や任命書などとともにチュニジアのカイラワーン(アッバース朝の支配地域)まで運ばれて晒されたことを聞き、「あのような悪魔と私との間に大海をおきたもうたアッラーよ、讃えられてあれ!」と叫んだという。

【武力】84
 徒手空拳でイベリアにおしわたり、百戦のあいだをかいくぐり、常に勝者として生き残り、西方の覇者となった。フランク王国の英雄シャルルマーニュのサラゴサ侵攻をも退けている。

【知力】87
 決断力に優れ、非常に機略に長けていた。逃亡時代には身ひとつで数々の危機をかいくぐり、756年には陽動作戦で太守の軍をセビーリャまで引き出した上で密かに敵軍不在のコルドバを急襲し、動揺して引き返してくる敵軍を散々に打ち破った。763年のカルモナ篭城では、決死の覚悟を示すために城門脇の大火の中に将兵の剣の鞘を投じて敵中に突入し、10倍の包囲軍を壊走させた。彼の偉業の最大の基礎となったのは、戦略・戦術・政略の全ての面に関わる高い知力であった。

【政治】76
 不満勢力を糾合して単身敵地で兵を挙げたところからはじまり、敵対勢力への反間や流言など謀略の限りを尽くして一国を建てる。後半生では内政にも力を入れ、コルドバ繁栄の基礎を築いた。

【魅力】43
 ウマイヤ家に所縁の者たちに対しては血筋から来る強烈なカリスマ性を発揮したが、一般のアラブ族やベルベル族には威光が通用せず、支配はもっぱら実力に頼った。そのため763年にアッバース朝によってアル・アラー・イブン・ムギースがアンダルス太守に任命されると、大部分の部下はそちらへ走り、アブド・アッラフマーンは二ヶ月にわたる篭城を余儀なくされた。
 後半生には4000人のベルベル人親衛隊に身辺を警護させ、大衆の前にほとんど姿を現わさず、無慈悲・冷酷で猜疑心の深い暴君として恐れられた。

【特殊技能】サバイバル、煽動、陽動、鼓舞、威圧、教養

略伝:アブドル・ラフマーン1世 ——クライシュの鷹——

 イスラーム世界最初の統一王朝ウマイヤ朝が滅びつつあるころ、傍系王族のひとりとしてダマスクス近郊に生まれる。母は北アフリカのベルベル族出身の女奴隷であった。
 750年、中央アジアから広がったアッバース革命によってウマイヤ朝が滅亡した。めぼしい王族はアッバース家によって皆殺しにされたが、アブドル・ラフマーンは辛うじて追及の手を逃れ、二人の従者とともに5年にわたる逃避行を続け、ついに北アフリカの最果て、大西洋岸に程近いセウタの地で母の部族に身を寄せる。

 当時、北アフリカ対岸のイベリア半島ではアラブの支配が安定せず、戦乱が続いていた。アブド・アッラフマーンは755年にウマイヤ家に心を寄せる者たちの支持を得てイベリアへ渡り、翌年太守ユースフを破ってコルドバに入り、「アル・アンダルスのアミール」を称した。
 その後アブド・アッラフマーンは30年以上にわたる治世のあいだ、絶え間ない反乱を鎮圧し、相次ぐ外敵の侵攻を退け、機略の限りを尽くして極西の独立国・後ウマイヤ朝を確立した。
 その偉業に対しては、彼の生涯の宿敵ともいうべきアッバース朝のカリフ、アル・マンスールによる賛辞が伝わっている。

「クライシュの鷹と呼ぶべきは、まことにアブド・アッラフマーンのことであろう。ただひとりアジアとアフリカをめぐり、軍兵もなしに海の彼方の未知の国に押しわたるという大胆さ。己が機略と堅忍より他は頼るものとてなきに、よく傲岸な敵を怯ませ、叛徒を殺し、異教徒の襲撃を退けて国境を平らかにする。大帝国を建設し、群雄割拠の国土を統一する。これこそ彼以前にいまだ何人もなし得なかったところではないか」

 アブド・アッラフマーンは異郷の地に自らの王国を建てたとはいえ、ついにふるさとを目にすることはかなわず、望郷の想いに耐えかねて王宮の庭にシリアから一本の椰子の木を移植させた。彼はその椰子の木に次のような詩を捧げている。
「われに似て、そなたも故旧と離れ、異郷の土に生き、ふるさとを遠くさかりてあるか」

 アブド・アッラフマーンは極めて誇り高く、深い教養を備え、長身で眉目秀麗、ブロンドの巻き毛を額に垂らした精悍な容貌の人物であったが、どこかで一眼を失っていたと伝えられる。

[471] マフムード 2008/02/22 16:17

訂正

生没年(731〜781)→(731〜788)

名前 「アブドル・ラフマーン」になっているところを全部「アブド・アッラフマーン」に統一

(まあ名前の日本語読みなんてどっちでもいいんですが、統一したほうがいいと思うので)

[472] ガーリックトースト73% 2008/02/23 00:02

スカルノ

【統率】100
【武力】 57
【知力】 78
【政治】 33
【魅力】 96

【特殊能力】
弁舌:話術で大衆を自分の味方につける

【統率チェックポイント】
東ティモール・共産党などの不平分子、国内統治機構の脆弱ぶり、
親オランダ勢力の存在、国軍の台頭、欧米列強の圧力という「四面楚歌」状態にも屈せず、
9月30日事件発生までインドネシアを「バランサー」として「独裁者」として、数多の有力者の間を絶妙なバランスで調停した。
また、巧みな弁舌・先導力を駆使し、西側にも東側にも属さない「第三勢力」の事実上の盟主として発言力を勝ち得ている。
最近になって、東ティモールの独立問題が表面化しているが、
こう言った細々とした問題が今の今まで表面化しなかったのは、
スカルノとスハルト、ハッタという強力な先導力を持つ人物が近年まで統治体制を確立させていたからである。
100を与えたのは何も大袈裟な事ではない。

【武力チェックポイント】
直接兵を率いて戦った実績は皆無だが、最終的に独立戦争の指導者的役割を果たし見事勝利を収めているので常人以上と計測。
独立前は兵士の質の向上に心を砕いているが、彼自身はオランダ独立戦争時にオランダ軍によって捕囚の憂き目に遭っている。

【知力チェックポイント】
唯一の失態である国軍によるクーデター未遂ですら、事前に察知していたと言われるほど抜け目のない人物である。
ナショナリズムが大衆迎合の起爆剤になると早くから提唱、後の自身のスローガン「NASAKOM」へと発展させている。
この「宗教・ナショナリズム・共産党の融合」という概念は、当時としては全く新しい複合要素である。
インドネシアの挙国一致の翼賛体制は、彼のシナリオによって初めて成り立ったと言える。
しかし、共産党とナショナリズムという相反する勢力との協調は、
結果として両者の主導権争いと発言力を助長する結果となっている上、
スハルトの政治的野心を全く見抜けなかった事から、80点台は与えられない。

【政治チェックポイント】
ナショナリズムを標榜する余り、オランダ占領時代の「正の遺産」まで否定してしまい、 国内産業の疲弊を招く。
国際連盟から脱退し、欧米諸国やマレーシアとも争って国際的信頼を失うなど、政治的にはインドネシアをとことん追い詰めてしまった。
クーデター後のスハルトとの会談では、共産党との癒着を指摘され、終始後手に回るなど、肝心な時の交渉力の弱さも気に掛かる。
また、外貨・輸入品目の規制、資産階級であった華人の排除などを実施。
本人は国の為に良かれとしてやったのだろうが、結果として100%を超えるインフレ、更には食糧不足まで発生している。
こうした国内の不満を、更にナショナリズムによって国外に昇華させるという悪循環を生んでしまう。
一方で、外貨に無関心だったわけではなく、日本に対しては友好的に徹し、ODAを引き出している。

[473] ガーリックトースト73% 2008/02/23 00:03

(>>472の続き)
【魅力チェックポイント】
インドネシアの「国父」として、今なお絶大な尊敬を抱かれている。
「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)の愛称で国民に親しまれ、
数多の諸勢力やスハルトですら、その影響力の大きさから彼を亡き者にする事は適わなかった。
若い頃のインドネシア国民党時代から、彼のカリスマ・弁舌に惹かれた人間は多かったようだ。

【作者から一言】
独立戦争を成功に導いた立役者「国父ブン・カルノ」、それが彼です。
大統領の権限が脆弱だった1950年憲法を変更し、自らの元に国民を結集させ、
全てにおいて対照的と言われたハッタ副大統領と共に、現代インドネシアの大元を築きあげました。
権力掌握後は失政も多く、決して優れた政治家ではありませんが、
よく比較される毛沢東と彼が違う所は、国民に対する扱いの違いでしょうか。
前者は「幾らでもいるから問題ない」と言い、スカルノは「とにかく自分の味方につける」事を是としました。
その為、偏狭なナショナリズムに走る事もありましたが、着実にインドネシア国民の愛国心は高まりました。
今まで国とは名ばかりだったバラバラ組織のインドネシアを強引とは言え1つに纏め上げた功績は、評価されて然るべきだと思います。

【列伝】
生没:1901年6月6日 - 1970年6月21日
略歴:インドネシア国民党党首、インドネシア共和国初代大統領
任期:1945年 – 1967年
備考:4人の妻を持つ。第3夫人はデヴィ・スカルノ

[474] ガーリックトースト73% 2008/02/23 00:05

「任期」の項の"&#8211"は変換崩れです。お目汚しご容赦を。
本来は "-"。

[475] 「ど」の字 2008/02/23 16:21

>>473
 強力無比の指導者ではありますね。
 これで内政力がついてきたら良かったのにと思わずには居られませんけれど。

 しかしまだ良かったほうですよインドネシアは。この政治家を排斥せず、国内の混乱を招かなかった分だけ……。
 中世以降の朝鮮半島の惨状を見るにつけ、つくづく国民の資質の重要性を感じてしまいます。

[476] 「ど」の字 2008/02/23 17:29

 さて。
 引き続き指輪物語世界観の人物評価をしていきます。
 サウロンと激しく争った星の国ヌーメノールを創建した半エルフの略歴です。

 エルロス(タル=ミンヤトゥア) 生年・第一紀542年〜没年・第2紀442年

【統率】80
 詳細は語られていないが、神々が直接力を振るった怒りの戦いの余波で土地を失った現地人やエダイン系人類をまとめ、文字通りゼロから大国を作り上げたので最低でもこのくらいはある。この数値は過小評価の可能性大。
【武力】52
 バリバリの武闘派である兄のエルロンドと比較して、彼が戦功を立てたという話は聞かない。
 第一紀を締めくくる怒りの戦いに参戦し、先祖の仇に報じたという記述を考慮してこのくらい。
【知力】100
 自分が見るところ、指輪物語世界観史上で知力にこの数字を与えられるのは彼のみ。
 上古のほとんどのエルフ王が国家を破綻させていった中(例外・ガラドリエル)、彼は文字通り何も無い土地に一から作り上げた大国を410年間恙無く統治し、しかもそれにとらわれて己を変え歪めることも無く自ら世を去った。完璧である。
【政治】90
 国の枠組みを定着させたのだから、政治的テクニックは当時の人類では卓越していたのだろう。多分にエルフの国々を参考にしているにしても、多くの独創もあり単なる猿真似ではない。
 彼は色々なエルフ王のみならず人類の英雄ベレンや小神の一柱メリアンの血筋まで引いており、またフェアノール系エルフにも大きな人脈を持つという、当時の世界勢力の焦点とも言える人物だった。その立場を利用して人類の立地を主張し、国際的に自国を承認させるに至った。
 人類としての彼無かりせば、後の人類の時代は全く無かった。その点では祖々父ベレンと同様に歴史的影響の極めて大きい人物である。
【魅力】80
 彼の時代に、内部的騒乱の話は全く聞かれない。また外交においても至福の地アマンをはじめ多くの国と友好関係を結び一切近隣と争っていないことを踏まえてこの程度とした。

(続く)

[477] 「ど」の字 2008/02/23 17:30

(続き)

【略歴】
 エルロスという名は生まれた時に貰った名前。シンダール語で「星の水沫」ほどの意味。
 タル=ミンヤトゥアとは王になって以降の自称。上のエルフたちの言語クエンヤで「最初の王」という意味。(自分が編纂し国語として制定した言語アドゥーナイクでも母国語シンダールでもなく、自分たちを捕らえたノルドールエルフの言語クエンヤを使って名乗っている。彼のマグロールに対する思いの丈、察するに余りある)

 エアレンディルとエルウィングの息子で、後に指輪物語で重要な役割を務めるエルロンドの弟。ヌーメノール王家の始祖。
 第一紀、エアレンディルが西方に航海するときに母エルウィングや兄エルロンドと共に中つ国に残ったが、シルマリルを求めるフェアノールの息子達の攻撃を受け兄弟して捕虜になる。しかしその後虐待されることも無く、彼ら兄弟はフェアノールの息子の一人マグロールに(彼は有名な『フェアノールの誓言』に倦み疲れ後悔していた)意外にも愛情ある養育をされ、またフェアノール由来の優れた技術も伝えられている。
 この頃初代冥王モルゴスによって中つ国の端に追い詰められたエルフとエダイン系人類は、その直後に起こった怒りの戦いによってようやくその圧力から解放され平和を取り戻す。
 第一紀を締めくくったこの戦いによりエルフは至福の国アマンに帰ることが出来るようになったが、神々が直接力を振るった戦いによって中つ国の多くの土地が水没しており、エダイン系人類には帰る場所が無くなっていた。神々はこの事態を重く見て、中つ国の西の海域を隆起させて新しい島を作り、そこを(咎無くしてモルゴスの害に苦しみ、エルフと共に戦った)エダイン系人類の土地として与えた。この島がヌーメノール島。五つの岬がある星形の形状をしていたことと、そのきっかけを作ったエアレンディルがお星様になったという伝説のために『星の国』とも呼ばれるようになる。
 半エルフであるエルロスは神々にエルフと人間のどちらとして生きるかを問われたとき、人間として生きる道を選んだ(兄エルロンドはエルフとしての生き方を選んだ)。エルロスは土地を失った人々を導いてヌーメノール島に国を創建し、国の形が定まると周囲に推されて最初の王になった。ここに指輪物語世界観史上初めて国際的に認知される人類国家ヌーメノールが誕生する。
 エルロスは人間の宿命である寿命によって死んだが410年もの長きに渡って王として統治し、最期は自らの意思で死の床に横たわって死ぬことを王の慣習として決めそのように死んだ。
 冥王サウロンと相討ちに斃れたエレンディルは直系ではないにしても彼の末裔に当たり、指輪戦争時代の主要人物の一人であるアラゴルン・エレッサール王もそうである。

【総評】
 その他のことはどうあれ、内政を担当させれば理想的な為政者です。
 非常時の才能は歴史書では分かりませんでしたが、幸運にして彼の長い統治の間にそのような事態は起こりませんでした(つまり彼は非常の事態を未然に食い止める知力があったということに他ならないのですが)。
 410年(国造りの期間もあるからそれ以上)という長い間彼を支え続けた情熱とはどんなものだったのでしょうか。

[478] ガーリックトースト73% 2008/02/25 23:40

ハイレ・セラシエ1世

【統率】42
【武力】27
【知力】65
【政治】36
【魅力】61

【統率チェックポイント】
共産党全盛の時代に反共主義を唱え、最期まで靡かなかった。
しかし、イタリア軍侵攻の際にはイギリスに亡命しており、
これにより国民は深く失望したと言われ、後の陸軍によるクーデターの遠因となった。
ただ、アフリカ統一機構推進に深く関わっており、一概にリーダーシップが無いと断じるのは難しい。

【武力チェックポイント】
文官タイプの皇帝であり、実戦経験など無い。
1916年のクーデターでも軍勢を率いたとされる記述は無い。

【知力チェックポイント】
成人前から聡明な男として知られており、各所で州知事として辣腕を奮い無難にこなしている。
1916年のクーデター後における権力掌握術は大したもので、
貴族の子でありながら摂政、遂には帝位へと就き、彼の野望は完成している。

【政治チェックポイント】
外交能力には定評があり、前述のアフリカ諸国に対する調停役、
日本を始めとする先進国とも対話を重ね、親睦を深めている。
しかし、それを差し引いて内務面での失政が顕著であり、
外交にのめり込む余り国政を省みず、結果としてエチオピアの近代化は遅れ、国民の生活は一向に豊かにならなかった。
そして、神話まで歴史があると言われるエチオピア帝室崩壊の原因を作った罪人として歴史に残るのである。

【魅力チェックポイント】
イタリア軍を一度は退却させた事から、ジャマイカでは「黒人の救世主」として崇められる。
一方で亡命した卑怯者として国内では認知される事も少なくなく、特に戦場で戦った軍人らは彼に対して不満を募らせている。
後の独裁者メンギスツ・ハイレ・マリアムは、このような官民感情を利用し、エチオピア帝国を瓦解させ、国内を未曾有の混乱に陥れるのである。

【作者から一言】
     ー 最後のエチオピア帝国皇帝 −

日本の皇室より長い歴史を持つと言われる、かの有名なシバの女王の帝国、それがエチオピア帝国であり、
その最期を見届けたのが彼、ハイレ・セラシエ1世です。
この皇帝は親日家として有名ですね。今となってはエチオピア饅頭しか接点がなくなってしまった彼の国ですが、
戦前は婚姻関係を結ぶ寸前まで仲がよかったのです。
彼は、一言で言うなら「灯台下暗し」。共産主義の脆弱さやアフリカの団結を急務とするなど、遠くを見る事には長けていましたが、足元が見えていなかった。
気付いた時には、下から材木のように切り倒されていたんですね。
昨今、このようなタイプの政治家が増えたように感じるのは私だけでしょうか。歴史に学びたいものです。

【列伝】マイナーかもなので詳しく載せます(笑)
生没:1892年7月23日 - 1975年8月27日
略歴:エチオピア・ソロモン王朝最後の皇帝
在位:在位1930年11月2日(戴冠式が行われた月日)-1974年9月12日

エチオピア南部のショア地方の貴族の子として生まれる。血縁上はアドワの戦いで名を馳せた英雄メネリク2世の従兄弟の子にあたる。
幼少の頃より聡明で若くして各地の州知事を歴任した。
1916年のクーデター後、メネリク2世の娘で女帝として即位したザウディツの皇太子、そして摂政となり実権を掌握する。
ザウディツの死後、1930年4月即位。1936年〜1941年、エチオピアがイタリアに占領されていた期間 (→イタリア領東アフリカ帝国) は英国に亡命。
大戦後は、アフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合)設置に寄与するなど外交面で優れた政治能力を発揮したが、
内政をおろそかにしたため1974年に陸軍のクーデターで逮捕・廃位され、拘禁中の1975年に死去(メンギスツに暗殺されたという説もある。)

[479] ガーリックトースト73% 2008/02/26 01:00

ムハンマド・アンワル・アッ=サーダート(サダト)

【統率】86
【武力】54
【知力】82
【政治】78
【魅力】83

【特殊能力】
忍耐力:挑発に乗りにくい

【統率チェックポイント】
アラブ諸国から何を言われようとも只管に我が道を突き進んだ独裁者であり、
第四次中東戦争でエジプト国民に団結力と力がある事を世界に知らしめた。
国内の統率に関しても、不平分子を徹底的に逮捕・拘束を重ね、
未然に大規模な暴動を抑えている辺りの根回しは流石である。
結局彼を倒したのは突発的な暴力テロでしかなかったのだ。

【武力チェックポイント】
カイロの王立陸軍士官学校を卒業しており、
クーデターでは兵員を率いてラジオ局・テレビ局と言う重要施設を占拠している。
といっても、彼は士官時代は通信担当であり、戦闘経験は無い。
訓練を受け、兵員を率いた実績から常人以上と判断。

【知力チェックポイント】
共産党勢力に対してアラブ民族主義を復興させて愛国心を高揚させたまでは良かったが、
最期は自身のその政策が裏目に出てしまい、テロの凶弾に倒れる。
先見の明どころか墓穴を掘ってしまっているので、これでは高得点はあげられない。
ただ、イスラエルと欧米の協調が必要である事、アラブ諸国が仲違いばかりで頼りにならないことは早くから見抜いていた。
第4次中東戦争ではあくまでシナイ半島奪還の正当性を訴え続け、
イスラエル側を混乱させるなど、戦略面での才能は◎。

【政治チェックポイント】
晩年は経済恐慌やアラブ諸国の締め付けに遭い、思うように教鞭が震えなかった。
しかしながら、経済恐慌は外因的要素により発生した経緯もあり、
彼に全ての責任があるわけではないので大きな原点にはならない。
"不可能"とまで言われたイスラエルとの和平を実現し、
シナイ半島を対話と圧力で奪還し、自身の悲願を達成しただけでも御の字である。
しかし、民衆は彼の政治に不満を示し、支持率を落としているので内政面を差し引いてこの辺りの数値か。

【魅力チェックポイント】
欧米諸国ならびにイスラエル、一般のエジプト国民は軒並み好意的に評価している。
この根拠は、ノーベル平和賞を受賞した事からも明らかと言える。
更に、第4次中東戦争直後は「国民的英雄」として祀り上げられている。(後に逆転するが)
しかし当然だが、アラブ諸国から非常にに嫌われており、「裏切り者」とさえ形容する者もいた。
現在ではエジプトの外交方針の礎を作った人物として認知されているようだ。

【作者から一言】
イスラエルの不敗神話に地をつけたエジプトの英雄です。エジプトと言えば"国父"ナセルが有名ですが、実際にエジプトが飛躍するのは彼の時代からなのです。
イスラエルは、彼の台頭後徐々に建国からの傲慢な態度を若干修正し、エジプトと歩調を合わせるようになります。
同戦争自体は後半イスラエルが反撃した為引き分けなのですが、
サダト大統領にしてみれば、自分が一番やりたかったシナイ半島奪還が達成できたのですから、エジプトに「戦略的勝利」をもたらした人物と言えます。
彼は危険であるとして数多くの思想家を拘束しましたが、
ソ連色が強く、加えてナセル信奉者が幅を利かせていた時代です。彼も苦肉の選択だったのでしょう。
心半ばにしてテロの凶弾に倒れましたが、彼の思いは腹心のムバラク大統領に受け継がれ、現在エジプトは格差はあれど、着実に発展を遂げています。

【列伝】
生没:1918年12月25日 - 1981年10月6日
略歴:エジプト・アラブ共和国副大統領、同国第3代大統領
任期:1970年9月28日 – 1981年10月16日

[480] ガーリックトースト73% 2008/02/29 23:24

アテルイ

【統率】67
【武力】89
【知力】58
【政治】40
【魅力】75

【特殊能力】
鼓舞:一定確率で士気高揚
混乱:敵を混乱させる

【統率チェックポイント】
蝦夷勢力の実力者として、アイヌ軍を纏め上げている。
史料が少なすぎる為、これ以上過大評価も過小評価も出来ないが、
今後の研究で最高権力者だったかどうかによって、この数値は如何ようにも変化するだろう。

【武力チェックポイント】
"日本古代史に類を見ない鮮やかな勝利"を演出している。
「衣川の戦い」では約25000の朝廷軍の精鋭を相手に僅か1500程で挑み、
ワザと負けたように見せて敵を地の利を生かせる場所まで誘い、前と後ろから畳み掛けるように蹂躙している。
その後朝廷軍の大軍を相手に13年もの間交戦を続け、結果的に「征夷大将軍」坂上田村麻呂(武力90以上確実)と2度交戦し敗れるものの、
1度は勝利した上に、どうしようもない物量と相手が悪すぎる為大きな原点はしない。

【知力チェックポイント】
日本史において、少数で大軍を打ち破った希有な人物である。
優れた戦術家であった一方、現実主義者でもあり、勝ち目がないと判ると比較的あっさり降伏している。
しかし、結果的にそれは誤まった選択であり、最期は斬首されてしまうので点数は引かざるを得ない。

【政治チェックポイント】
外交や内政を揮ったとされる史料はない。
が、坂上田村麻呂の懐柔工作による部族の離反を防ぐ事ができず、
10年以上に及ぶ戦乱で土地を荒廃させ、明確な改善策が打ち出せなかったのは痛い。

【魅力チェックポイント】
1980年代以降、才気溢れる英雄として人々に讃えられている。
それまでは「朝敵」として不名誉な評価しか下されなかったが、現在はそれらも改善し、東北地方では電車の名前になる程である。
当時にしても、重要な局面で彼が指揮官に任命された事は、アイヌの人々が彼に期待し、頼りになると踏んでいたからであろう。

【作者から一言】

         ー 蝦夷の悪路王 −

「阿黒王」とも言われるとされる日本古代史随一の英雄、それが彼です。
朝廷軍の圧倒的な物量に立ち向かい、地の利・陽動・ゲリラ戦術を駆使して翻弄しました。
彼の功罪を示す明確な史料はそう多くありませんが、
坂上田村麻呂が英雄として尊重されているのに、ほぼ互角の戦いをした彼が資料集の片隅に申し訳程度に載っているだけです。
アイヌの人も同じ日本人ですから、功績は功績として讃えてあげたいですね。
現在、学会・教育界で再評価が進んでいるとの事です。彼の肩書き・一生がどんなものだったのか。私の知的好奇心を早く満足させて欲しいと思います。

【列伝】
生没:生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日)
略歴:平安時代初期の蝦夷の軍事指導者、それ以上の肩書きは不明
備考:モレ(母禮)(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))アテルイの同僚(?)

[481] ガーリックトースト73% 2008/03/01 01:37

小渕恵三

【統率】74
【武力】41
【知力】48
【政治】63
【魅力】66

【特殊能力】
包容力:相手を和ませる

【統率チェックポイント】
昭和天皇が崩御あらせられた際には、当時の官房長官として抜群の先導力を発揮、竹下登を始めとした大物政治家にも評価されている。
気配りの緻密さとここぞという時に切り捨てる事のできる人物であったようで、
連立政権樹立の為に公明党の願いを聞き入れたり、駆け出し時代に世話になった恩師を閣僚に迎え入れるなどを行っている。
その一方で、自分を落とそうと画策した加藤・山崎一派に対しては容赦ない粛清を行った。
パフォーマンスをかなり初期から行った人物であり、庶民的なイメージを国民にアピールし脆弱だった地盤の確保に邁進した。
一方で論功行賞的な人事を行い、知己が知れる人物を置く事で半ば強引なやり方も成功している。
だが、後の小泉純一郎のような独裁的内閣ではなく、基本は国務大臣に一切を委任する方式を採っており、組織を重要視する人物であった。

【武力チェックポイント】
合気道4段の腕前である。しかし常人の壁は超えられない。

【知力チェックポイント】
景気回復の道しるべを作った人物である一方、
一部では"ばら撒きの極致"の誹りを受けた「地域振興券」や、国の借金を増やした人物として批判も多い。
また、本人も衆議院議長になろうとしたり(同職は"上職"であり一度就任すると再び総理になる事は難しいとされる)、
一時は福田康夫によって政治生命を絶たれる寸前まで追い込まれるなど、やや先の見通しに甘さが見られる。

【政治チェックポイント】
周辺事態法(日米ガイドライン)、憲法調査会設置、国旗・国歌法、通信傍受法、住民票コード付加法(国民総背番号制)を成立させ、日本の政策に少なからぬ影響を与えた。
江沢民の先の大戦に関する謝罪要求を突っぱね、子供の頃から沖縄に興味を持ったから開催地に推薦するなど、その政治方針は頑固さ・芯の強さが窺える。
中央省庁の改善にも積極的に取り組み、彼によって新たな省庁が幾つも誕生した。

【魅力チェックポイント】
「人柄の小渕」の名は虚構に非ず。
猜疑心の強い竹下登にも可愛がられ、持ち前の温和さと包容力で数多の大物政治家の知己を得ている。
総理就任時、国民には然程人気はなかったが、パフォーマンスと庶民性で支持率はジリジリと上昇、野党の政治家(管直人・土井たか子など)も彼を認める発言をしている。
大相撲の総理大臣杯では、観客に大きな拍手で出迎えられ、人気の高さを窺わせた。
東海村の臨界事故では、被災疑惑のあるメロンを自ら試食し国民を驚かせ、こうした真摯な姿勢は若手官僚からも評価された。
その証拠に、若手官僚を対象にした2000年の「理想の上司」では、見事第2位にランクインしている。

【作者から一言】

          ー 人柄の小渕 −

「凡人」(田中真紀子)「真空総理」(中曽根)「非凡人」(小泉純一郎)を始めとして、
数々の異名を持つ、平成の世を代表する総理大臣です。
彼は就任当時こそ「民意を無視している」と批判された人物ですが、
東南アジアに精通し、強力なリーダーシップが評価され、時が経つにつれて評価されていった、珍しいケースを歩みました。
志半ばで父親と同じ病気、同じ病院で亡くなりますが、私は彼が国民が食べたがらなかった東海村のメロン(当時)を食べる姿が強烈に印象に残っています。
温和な印象がありますが、耳毛を周囲に言われると剃らず、総理に就任したら素早く剃ったエピソードなど、かなり頑固な人物です。
しかしながら一本筋の通った人でもあり、"内閣が1つや2つは飛ぶ"と言われた法案を持ち前の組織力と先導力で乗り切りました。
「凡人」と言われますが、私はそうは思いません。小泉氏も彼を当初から認めていたようですし、私も彼がもう少し政界で活躍する姿を見たかったのですが、残念です。

【列伝】
生没:1937年(昭和12年)6月25日 - 2000年(平成12年)5月14日
略歴:第84代内閣総理大臣
在任:1998年(平成10年)7月30日 - 2000年(平成12年)4月5日
備考:「レンジでチンすれば温かくなる」"冷めたピザ"と言われて

[482] 「ど」の字 2008/03/01 01:47

>>480
 お疲れ様です。自分、この人は資料が無くて断念していました。
 坂上田村麻呂の事跡から見ていくと、政治的に切り崩されていった感が否めない指導者みたいです。だいたい、東北の異民族は軍事力(特に戦術)において強力で、戦役の当初は優位に展開しているように見受けます(前九年の役でも同じ傾向が見られます)。彼らの敗北は、武力ではなく政治力・技術力の敗北でした。
 自分は坂上田村麻呂の武力数値に55の評価を与えています。彼は徹底して政治力や産業技術・文化伝播力を使って優位を確定させてから戦っているためで、あそこまでお膳立てをして戦えばその程度の武力でも勝利を得られると踏んでのことです。

[483] やっち 2008/03/04 15:58

>>480

 概ね納得ですが、武力89は過大、というかそれだけの評価を下せる根拠・資料がないと思います。
 大伴弟麻呂や坂上田村麻呂とどう戦ったかもわかりませんし(「善戦」したかも不明)、
わかっていることは負けたという事実だけです。
 唯一わかっている戦勝は見事ですが、相手はビビリで桓武に怒られた
紀古佐美ですし、少数で多数を一度破って89が付くなら毛利元就や南条隆信は
(敵方の陶や伊達が強いことからすると)150くらい行ってしまうのでは。

 私が評価するなら、武力は「優秀」レベル75です。その分、蛮族をまとめ上げて
戦術を実現した統率を評価して70代後半をつけます。

[484] やっち 2008/03/04 16:00

 気になって見返すと、私も村国男依に武力85付けてました。
 過大評価かも。

[485] ハーン 2008/03/06 05:07

>>472
 スカルノの統率力が高いのは異論ありませんが、第三世界の盟主云々は他国間の外交に属すると思われるので、統率は90後半にして、政治に外交にだけボーナスがつくという感じでどうでしょうか?

>>476
 本編に登場していない人物まで評価するとは思いませんでした。ルドルフの評価書いた奴の台詞でないことは百も承知ですが。
 それにしても、この人物の意志の強さよりもこんな膨大な設定を真面目に考えたトールキンの意志のほうが強固に感じてしまいます。

>>478
 最近、興味をもった人物なので、丁度良く評価されていてありがたいです。
 彼の時代のエチオピアをHOIで使ったことがあるのですが、私の腕ではどうしてもイタリアに潰されてしまいますね。無理ゲーでしょ、あれは。

>>479
 イスラエル不敗神話打破に成功するという中東的には大金星をあげたんですから、妥当な評価だと思います。

>>481
 小渕さんは確かにかなり有能ですね。小泉さんがまだ現役なので平成で一番かどうかはまだ分かりませんが、在任中に死んだ総理を見るのは初めてでしたので、かなり衝撃を受けた記憶があります(うーん、年がばれそうだ)。

 久々の中共から一人評価します。

[486] ハーン 2008/03/06 05:09

 トウ小平

 1904年8月22日-1997年2月19日

統率……93 毛沢東が崩壊寸前にまで追い詰めた中国をどうにか建て直し、新たな支配体制を作り上げた。目をかけていた部下を表舞台から退けた後も、死去するまで最高実力者として君臨していました。

武力……40 彼は軍では基本的に参謀的な役割が多く、直接指揮を執ることはあまりないようです。それに、彼はいつも名将劉伯承と行動をともにしており、彼個人の武力は判断し難いです。一人で部隊を率いて戦ったこともありますが、やはり劉伯承が近くにいるので分かり難く、ソ連におけるチュイコフとフルシチョフのような関係だったのだろうと判断して、このくらいにしておきます。

知力……70 国共内戦の最終幕では参謀として国民党軍を撃破に貢献したそうです。中越戦争ではベトナム戦争後の弱ったはずのベトナムを相手に大敗しており、その戦略眼には疑問符がつきます。とはいえ、これは軍閥を弱めるための策略という説もあって真偽がイマイチ分かりません。

政治……80 毛沢東の死後、華国鋒を出し抜いて中国共産党の頂点に上り詰めました。しかし、謀略に関しては毛沢東や周恩来、劉少奇といった建国の元勲がいなくなってからのことなので、些か小粒な印象を受けます。内政に関しては改革開放路線による中国の経済発展はどうも胡散臭いところが多々(ある時期に発表した経済成長率と同じ値を後で出した時に、その数字を建国以来最大の成長率とか発表していたりしますから。そもそも、社会主義国の発表する統計を信じることが馬鹿げてます)ありますが、少なくとも彼の路線から中国は復興したことは事実ですし、各方面の改革派や反対派の間を取り持って、改革開放路線へと舵をとったのは十分に意義あることです(文革と比べればどんな状態でもましですが)。

魅力……62 あからさまな宣伝は無視するにしても、同志や部下への配慮を忘れず、信頼されていたと言われています。

列伝 共和国の世祖
 四川省広安県の客家系地主の家に生まれる。フランスに留学したところ、共産主義に傾倒したのか中国共産党に入党。モスクワで本格的に学んだ後、帰国して内戦に参加する。
 いつまで経っても、革命が上手くいかないため毛沢東の路線に理解を示したところ失脚。復帰後は長征に参加、次第に重用されるようになっていき、劉少奇の腹心にまでなりおおせる。国共内戦でも活躍し、国民党打倒に貢献した。
 毛沢東が大躍進の失敗で失脚すると劉少奇や周恩来とで建て直しに奔走するが、全くこりていなかった毛沢東が引き起こした文化大革命で権力を失う。かなり酷い目にあったが、何とかして生き延び、毛沢東の死後に中国共産党の頂点に登りつめた。
 最高権力者になると改革開放路線を推し進め、中国の復興に尽力した。天安門事件で一切のポストを退くが、それでもなお死ぬまで実権を握り続けた。

 毛沢東の方針を大転換した人物で、明でいうところの永楽帝に相当します。
 彼の時代からようやく中国は復興するのですが、それが今後も続くかどうかは誰にも分かりません。楽観視できる情報がそれほど多くありませんので。

[487] やっち 2008/03/06 14:33

>>486

 彼への評価は現代中国に対する評価に直結するのでノーコメントにします。
 中越戦争について、私も、朝鮮戦争以来の人海戦術・精神主義に固執する軍部を
痛い目に遭わせて近代化の必要性を痛感させるためにやったと、どこかで
読んだ記憶があります。ポルポトはいうなればミニ毛沢東なので、トウは個人的には
全くシンパシーを感じていなかったとも。記憶なのでソースを明確化
できないのが恐縮ですが。
 ただし、当時のベトナム軍は、最強の将軍(ボーさん)、最新の武器(ソ連製+鹵獲した米製)、実戦経験豊富な兵士を抱え、
世界最強でしょう。

 この記事を読んでボーさんを評価しようとしましたが、存命なのでやめました。
 武力90台は確実についてしまいそうです。

[488] やっち 2008/03/06 14:50

 批評ばかりで恐縮なので、自分でもやってみます。

藤原百川

統率 72
 広嗣の乱で没落しかけた式家を統率する。
 光仁の擁立(一種の無血クーデター)では藤原四家をまとめ上げ離反者を出さなかった。

武力 40
 実戦経験はないのでこの数字。

知力 78
 恵美押勝の乱以後逼塞していた藤原氏を再び檜舞台に立たせた戦略は優秀。
 天智系の光仁、母が渡来系の桓武を擁立する戦略も見事である。

政治 85
 道鏡の即位の阻止、その追放、光仁の擁立、皇后及び皇太子の廃立、桓武の擁立と、策謀の限りを尽くして暗躍した。
 日本史上でも屈指の策謀家である。
※ 謀略の能力は政治で評価する。

魅力 50
 反逆者の弟として、だいぶいじめられたようである。
 また、策謀家の常として、あまり人には好かれていなかったであろう。

[489] やっち 2008/03/06 15:01

略伝
 藤原式家の人。宇合の子、広嗣の弟。
 称徳期、恵美押勝の乱の影響で藤原氏全体は後退を強いられていた。特に式家は広嗣の乱によりかなり弱体化していた。
 広嗣の乱の連座を幼少によりかろうじて免れた百川は、当時権勢を誇っていた
道鏡の即位を、和気清麻呂の後ろ盾となって阻止(宇佐八幡宮神託事件)。
 その後、称徳の存在が藤原氏雄飛の障害とみて、称徳が病を得たときに、
それを治せると申し出た韓人女医を斬り殺して称徳を見殺しにしたと伝わる。
 称徳の後継決定にあっては、吉備真備らを出し抜き、詔勅を偽造して光仁を擁立、光仁の厚い信頼により権勢を得た。
 対立する皇后井上内親王を豪腕を駆使して廃し、その子他戸親王を追放。
 山部親王(桓武)を擁立して更に権勢を高めた。
 桓武の即位前に若くして死亡。

 衰退していた藤原氏の再興を果たした立役者である。ただ、彼の属した式家は薬子の乱、藤原緒嗣の早死、承和の変による藤原吉野の失脚を経て没落している。

[490] 三太郎 2008/03/07 15:22

フリードリヒ2世(1194年12月26日 - 1250年12月13日)

【統率】61
 息子や側近の反乱に苦しみ続けました。ただ、その統率を乱す理由になったのが、当時絶頂期を迎えていたローマ教皇と言う点で少々減点を控えています。
 カトリック、ギリシャ正教、イスラムと様々な価値観を持つ者を仕えさせ、纏め上げた才は評価すべきと思います。

【武力】77
 外敵に一度たりとも敗れたことはない、と自ら称していました。それは一応は事実であり、教皇軍やロンバルディア同盟、ドイツの諸侯相手に常に優位にたっています。
 反面、決定的な勝利を自らの手であげた例はありません。ために、延々と続く戦争で消耗する羽目に陥ってしまいました。

【知力】95
 好奇心と合理的精神にあふれ、詩人であり、六ヶ国語を操り、錬金術、天文学、動物学に通じた『世界の脅威』。
 一方、目指した政治は、時代を大いに先取りした中央集権的なもので、玉座に座った最初の近代人と呼ばれています。また、ナポリ大学を設立するなど、目標を達成するための手立てにも目を配っています。
 外交的な状況を見据え、無血でエルサレムを奪回して見せたことも高評価の源です。
 唯一の失策は、後のフランス王フィリプ4世のごとく教皇を掌中に収めてしまわなかったこと。収めるチャンスはあったのに、これをしなかったため、治世の末期は続発する反乱に苦しむことになります。

【政治】68
 政治力を、自分の意志を実現するため非物理的手段を他者に行使し、成功する能力とするなら、残念ながらまあまあ程度の評価です。彼の目標は、支持されず力と恐怖で纏め上げざるをえませんでした。イタリアはもちろん、自治を認め手懐けたはずのドイツでも度々反乱が起きています。エルサレム奪回は見事ですが、教皇との和解と言う目的を達成するには至ってませんし、後に放棄しています。

【魅力】52
 反乱者に拷問で持って答えるなど、冷徹で恐れられていました。それは、子供に言葉を与えずに育てたら、何語をしゃべるか調べようとして、全員死なせた。あるいは、二人の男に食事をさせ、違うことをさせたあと、腹を割いて消化の具合を調べようとした、などという逸話が物語っています。
 一方で、その合理的精神が、熱狂的な信奉者を生んだことも確かです。ドイツ騎士団はかなり献身的な協力をしています。
 波長のあう者からは、大いに信望を集め、そうでない者からは蛇蝎のごとく嫌われる、両極端な反応をされる人物だと思います。

 【略伝】
 シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝。シチリア王フェデリーコ1世。ドイツ王、エルサレム王にもなった。
 若死にしたハインリヒ6世の死後、孤児として教皇イノケンティウス3世の後見のもとシチリアのパレルモで成長した。当時のシチリア島はキリスト教文化とイスラーム教文化とがノルマン人王朝のもとで融合しており、独特の文化を生み出していたが、この環境下で教育を受けたフリードリヒは、当代屈指の学識と科学的好奇心を持つ人物に育った。一方で、馬術槍術に長け、鷹狩を愛好していたと言う。
 神聖ローマ皇帝オットー4世が、教皇と対立したことで、教皇の思惑の下でドイツ王に指名され、オットーの没落後に正式に戴冠する。
 ただこの際、イノケンティウス3世の指示で、シチリア王位は、息子のハインリヒ7世に譲られていたが、教皇の死後、ハインリヒを共同統治者としてドイツ王につけ、当人は神聖ローマ皇帝の冠を手に入れシチリアに帰還した。これは十字軍の実施と引き換えであったが、シチリアの統治……および、戦況の推移……のため度々延期されている。ために、教皇ホノリウス3世の後継者グレゴリウス9世は、フリードリヒを破門する。
 だが、その中でフリードリヒは軍を聖地に進め、テンプル騎士団、ヨハネ騎士団らの敵意の中、交渉によるエルサレムの奪回に成功、エルサレム王の位につく。
 帰還後、イタリアでは法に基づく絶対主義的、中央集権的な統治を進める一方、遠隔地であるドイツでは大幅な自治を認めた。
 しかし教皇との対立は激化し、ロンバルディア諸都市と敵対、さらに息子をはじめ側近の反乱が相次いだ。軍事的には常に優位に立っていたものの、決定的な勝利を収めえることかなわず、病をえて死去。無神論者のごとく振舞った、彼も最期はカトリック式に臨終の秘蹟を受けたと言う。

 当時絶頂期をむかえていたローマ教皇と、キリスト教の権威と言うものをどの程度重く考えるべきかが難しかったです。
 ほかの時代だったら、かくも繰り返す反乱に悩まずにすんだのではないか? と。

[491] やっち 2008/03/07 15:39

>>490

 以下はブログですが、フリードリヒの評価についてなかなか興味深いです。

http://blog.goo.ne.jp/norilino1045/e/6f75e1b5fc1f0e2d3917bb83cd2dba2a

[492] 三太郎 2008/03/07 20:15

>>491
そのブログ、かなり読みました。
大変おもしろかったんですが、でも、きっとフェデリーコ陛下はぼくキャラじゃないと思います(マテ

[493] 三太郎 2008/03/14 02:56

 ネタです。

アンナタール(?−第三期3019年3月25日)
【統率】94
 極めて優秀です。メルコールの副将時代は、概ね別働隊を任されるか、さもなくば主君不在の本城の差配を任されています。特筆すべきは、本城ウトゥムノが陥落し、主君が虜囚になり、そのままバラバラになってもおかしくは無い……元々は同格のマイアを多数含む……軍勢を、主の帰還まで支城アングバンドで維持してのけたことです。
 メルコールの没落後自立。競合する海洋帝国ヌメノールに対し軍事的には劣勢でありながら、中つ国の南方、東方に勢力圏を広げ続けました。オーク、ヌメノール人、東夷、ハラド人、ハンド人など様々な人種を纏め上げ、それを統べる腹心ナズグルを育てたのは彼の才覚です。
 生涯統率を乱したとされるのは、最後のヌメノール王アル=ファラゾーンの軍勢と対峙したときだけであり、これとて一書によれば、劣勢を悟り、軍事的な抵抗を断念しただけであるとされています。

【武力】52
 ヌメノールの軍勢に対し、常に劣勢でした。また、最後の同盟や白の会議の繰り出してきた軍勢に度々敗れています。ですが、エルフ単独の軍勢に対しては、基本的に優位に立ていたので、並程度の実力はあると判断しました。また、メルコールの副将時代には、アングバンドからベレリアンドへの回廊を押さえる要害……喪失後、全ベレリアンドがメルコール軍による略奪の対象となる……トル・シリオンを強襲で陥落させています。

【知力】65
 第二期初期において、エルフたちに中つ国の発展を提言し、また様々な助言を行いました。エルフたちの記録にも、アンナタールが広い知識の持ち主で、友情から大いに益するところがあった、とあります。失われつつあった魔法を維持する手段の発見は、彼の最大の成果になるはずでした。ものを知らん連中が台無しにしましたが、彼の知力は否定されないでしょう。
 また、リンドンとヌメノールの連合軍に敗れた後は、西方への進出を手控え、東方南方に勢力を伸ばしたこと、アル=ファラゾーンとの決戦を避けたことは、基本的に現状を認識できていたことが伺えます。
 人材を見抜く才もあります。当時海のものとも山のものともつかなかった、アングマールの魔王に着眼し、愛弟子としたのは目の確かさの証明でしょう。
 ですが、腹心のナズグルを雑務……もちろんその有無が当人の生死にかかわってはいるのですが……に駆り出したのは失策でしょう。しかも、そこまでやって、指輪を入手しそこね、己の命を失っています。戦備が整う前に、読み違えて最後の同盟のと開戦したことも減点対象です。

【政治】88
 アンナタールが不在時のモルドールは住む者がいない……ゴンドールの記録より……荒野です。しかし、一度アンナタールの意思が介入すると、たちまち中つ国最大の工業地帯に化けます。その生産能力は、自国の軍勢を武装させた上、従属するハンド、やハラドの国々に輸出してなお余りありました。内政に長けて無ければこうは行きません。
 また、恐怖を外交で利用することに長けていました。第二期には、ヌメノールに軍事で劣りながら、多くの国々を従わせています。ナズグルは、才を持ちながら自らの意思で従った、それらの国々の王だったのは有名な話です。第三期に入ってからも、ゴンドールを骨抜きにし、白の会議の議長サルマンを転向……一説によれば従属……させるなどの実績をあげています。。

【魅力】20
 エルフ視点の、偏向した記録しか残ってないため、人気は地の底漂っています。

【まとめ】
 サウロンとは「身の毛のよだつ者」を意味します。モルゴスと言う名がメルコールにつけられた蔑称であることは広く知られたことですが、サウロンも同様です。
 そんな風に書いてある記録は、絶対に偏向した記録に違いないよ、ってな観点で作りました。
 いや、ほんとすみません。

[494] ハーン 2008/03/17 03:56

 エイブラハム・リンカーン

 1809年2月12日 - 1865年4月15日

統率……89 奴隷解放論者と見なされていた彼の大統領就任が南北戦争の引き金となりました。しかし、それは彼が大統領に就任する前から持ち上がっていた問題で、彼の時にはどうしょうもないほど事態は悪化していました。これはむしろ、彼が議員であった時代の出来事なので、彼の政治の原点材料であると考えます。むしろ、カリフォルニアの離反を防ぎ、奴隷州であったケンタッキー州等を繋ぎとめ、内ゲバの激しい南部連合と対照的に、様々な派閥を捌いていった彼の指導力は高く評価するべきであり、この時代までのアメリカ大統領最大の権力を最大限に活用していた。その反面、平和な時代の南部復興事業は彼がさっさと殺されたせいもあり、評価することが出来ません。

武力……33 義勇軍に参加するなどして実戦を経験していますが、指揮官としてではありませんし、どれほど活躍したのかよく分かりません。

知力……54 弁護士として名を馳せ、大統領に就任してからは南部連合の撃破に成功している。だが、北部と南部とでは人口も生産力も全然違うし、南部連合の首脳陣が急造の国家であったせいで内ゲバに終始していたにも関わらず、南北戦争は初の総力戦と言われるほどの大規模な戦争に発展した。しかし、それでもマクレランを二度もポトマック軍司令官(北軍の主力であり、この地位にいた人物が事実上の最高司令官)に任じたこと以外には致命的なミスは犯していませんし、国内でも様々な意見の存在した奴隷解放の意義を理解し、さらには上手く利用して欧州の介入を防いだことは大きな功績だと考えられるので、このくらいはあるでしょう。

政治……38 大統領就任に至るまでの彼の政治経歴はそれほど派手なものではなく、当選と落選を繰り返していた。国政に関わることの出来る政治家になると彼自身を含めた数多くの政治家の失策により、奴隷解放問題は南北戦争にまで発展した。さらに、彼が大統領であった時期は南北戦争の真っ最中で、しかもすぐ後に殺されているので、まともな内政手腕を問われることはなかった。

魅力……98 歴代アメリカ大統領でも屈指の人気者で、その業績から現在もアメリカの歴史上最も偉大な大統領と目されています。奴隷解放宣言やゲティスバーグ演説など、パフォーマンスにも優れていました。彼の魅力を上回る可能性のある大統領はワシントンとケネディの両名くらいのものでしょう。

列伝 合衆国の象徴
 ケンタッキー州ハーディン郡の農場に生まれる。無学な農民だったが体力はあり、頑張って働きながら勉強したところ弁護士の資格を取って開業した。それ以前には地方の議員として当選したが、あまり上手くいっている様子ではない。
 その後、ホイッグ党で下院議員に当選したが、あまり活躍した様子ではない。任期終了は弁護士活動をメインに行い、それなりに認められるようになったようである。一応、地方のポストを与えられることになっていたのを断っている辺り、あまり地位に執着しない性格だったのだろう。
 カンザス・ネブラスカ法がもちあがると、彼はこの法に猛烈に反対し、当時の有力政治家ダグラスとの論戦が一地方政治家に過ぎなかった彼を全国的な政治家に持ち上げる切っ掛けとなる。彼自身は奴隷解放に熱心だったとされるが、大統領に就任してからは国家の分裂を防ぐため、終始曖昧な態度をとっていた。
 紆余曲折を経て、合衆国大統領になると、南部と北部の対立が頂点に達し、南部の奴隷州が中心となってアメリカ連合国を設立。ここに世界史上屈指の内乱に数えられる南北戦争が勃発する。
 総力戦を戦い抜くシステム自体が存在しなかったため、両軍ともかなり苦労したのだが、リンカーンは幾つもの失点を重ねながらも勝利を収め、アメリカ合衆国分裂の危機を防いだ。
 戦後、レコンストラクションを推し進めようとしたところ、本格的に着手する前に暗殺される。

 統率力と魅力の高い象徴的指導者タイプです。優れた指導力で国内を纏め上げ、高い魅力で幅広い人気を集めることが出来ます。
 ただ、知力に難があるため、幾つか失策を犯すかもしれません。政治力は未知数で、あまり期待できません。何分、戦争指導だけやって死んだような感じです。

 面白いことに、能力の傾向は同時代の北軍の将軍であり、彼自身と大統領選挙で争ったジョージ・マクレランと似ています。勿論、リンカーンは彼より全体的に能力は高いですが。
 ポトマック軍の司令官に唯一二度も任命したり(グラント以外は一年持たず、彼だけが二度任命された)、大統領選挙でも争うなどリンカーンとは奇妙な因縁があったのだろうと感じてしまいます。

 ちなみに、少女の手紙で顎鬚と頬髯を生やしたというエピソードを私は大変気に入っています。

[495] ハーン 2008/03/17 04:12

>>487
 中越戦争は謎だらけですよね。しかも、両国とも社会主義国家なものだから、具体的なことが判明するのは当分先のことになりそうです。
 ボーさんの数値化が見れないのは残念ですが(勿論、これは別に彼の死を望んでいるわけでは断じてありません)。

>>488
 奈良時代の藤原氏のなかでは一番優秀そうなイメージです。北家に取って代わられたのは珠に瑕ですが。誰か道長とかやってくれないかなあ。

>>490
 個人的には知力を少し下げるかもしれませんね。エルサレムの奪還はコロンブスの卵みたいで面白いのですけど。

>>493
 さすがに敵の親玉だけあって、色々な評価のできる人物(?)ですね。
 まあ、トールキンもまさかこんな極東の地でこんな評価が下されるとは思っていなかったと思いますが。

[496] 「ど」の字 2008/03/17 17:00

>>493
 中立的視点の評価、お疲れ様です。
 再び読み直した指輪物語世界観史書においても、どうもサウロンは再評価されています。エルフ・ヌーメノール史観でない視点からの評価はこの辺りになるかもとも思います。
 そもそも赤表紙本はアルセダイン(アングマールの魔王に滅ぼされた北方王国)のホビットであるビルボ・バギンズの著作という設定であり、この種族は一貫してエルフ側に立って参戦している事実を思うと、鵜呑みにするのもどうかという気が今はします。

 大部分のエルフ王よりは優秀だったのですから、もう少しバランスの取れた統治を出来ていれば勝つことは出来たでしょうに。

 今後、自分のコーエー数値化はエルロンドやフェアノール、おまけとしてベレンやメリーを書いた後に現実世界日本の平忠盛になだれ込むつもりです。

[497] マフムード 2008/03/18 12:54

ウェスパシアヌス(9〜79)
フラウィウス朝ローマ帝国 初代皇帝(在位69〜79)
 *ローマ帝国 通算第9代皇帝
活動地域:地中海地域
全名:ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス

【統率】85
 ネロの暴政と最初の内乱のあとで、アウグストゥスとは全く血縁関係がない高貴ならざる身分の出にも関わらず、実力で帝国の秩序と元首制の基盤を建て直し、来たるべき2世紀の繁栄を準備した。
 フラウィウス朝はユリウス・クラウディウス朝と五賢帝時代のあいだに挟まれて影が薄いが、ウェスパシアヌスとその息子たちの功績はもっと評価されて然るべき。ローマ帝国の本当の黄金時代はこの時期かもしれない。

【武力】72
 優れた軍人として頭角を表わし、クラウディウス帝時代のブリタニア遠征に従軍、さらに第一次ユダエア反乱をほぼ平定。その気質もいかにも叩きあげの軍人に相応しい剛毅なものであった。
 とはいえ強敵に対する目覚ましい大勝利や新戦術の開発といったトピックがあるわけではないので、優秀レベル。

【知力】88
 ウェスパシアヌスのもっとも偉大な点は、帝位についてからも最後まで平常心と常識を維持し続けたことにある。権力に溺れて人格を変える者が多いなかで、むしろ歴史家タキトゥスがウェスパシアヌスを「皇帝になって前よりよくなった唯一の人物」などと評しているほど。またどれほど批判されても自らの意志を貫く一方、批判者を断罪することを好まず、皮肉や冗談で応じるにとどめたという抑制力もポイント。
 外交面では極力戦争を回避する一方、内政面では各方面からの強い批判に抗して頑固なまでに財政再建を進め、法制を整備して社会秩序を再建し、元首の権力を強化した。これらは後に続く五賢帝時代の繁栄の基礎となった。このように先見力にも優れていた。
 かの有名な便所税の新設や、だれかれ構わず賄賂を取ったという風説によって吝嗇との非難を浴びたが、これについてはスエトニウスの見解に賛成したい。
 「ウェスパシアヌスが元首となると早々、「国庫を建て直すためには四百億セステルティウス必要だ」と告白した言葉が証明しているごとく、国庫と元首金庫の極度の枯渇のためにやむなく、強奪や横領を強いられた・・・(中略)・・・彼は不正に取得したものを最も正しく使用した」

【政治】82
 政争の中を生き延びる能力にはなかなかのものがあった。カリグラの好意を得るためにあつかましいまでのおべっかと大盤振る舞いに訴え、クラウディウスの時代には実力者ナルキッススの知遇を得た。しかしネロのギリシア旅行の際、ネロが劇場で音痴な歌(推定)を唸っているさいちゅうに居眠りをしていたことがバレて、一時政界放逐されている。
 帝位についてからは、内乱に参加した兵士の武装解除をはじめとする多くの難題を処理し、荒れた首都のローマを再建した。統率力や知力の高さもあり、その業績は中興の英主というに相応しいものであった。

【魅力】73
 実に親しみやすい人柄で、多くの庶民的な逸話が伝わる。権力者となってからも暴君めいた振る舞いがまったくなかった点は多くの歴史書に特筆される。軍隊の支持も厚く、内乱時にいくつかの軍隊の兵士たちが自発的に彼に忠誠を誓ったことは有名である。
 とはいえ庶民と支配階級とを問わず、度し難い吝嗇との汚名は最後まで消えず、この評判がウェスパシアヌスの代名詞となった。また支配者としての敬愛というより、むしろ微妙に侮蔑を交えた好意の対象であった。

[498] マフムード 2008/03/18 12:54

略伝:ウェスパシアヌス ——ローマ帝国最初の復興者——

 ユリウス・クラウディウス朝断絶後の内乱を収拾し、フラウィウス朝を建てる。ローマ帝政期に幾度となく繰り返された内乱のうち、最初のものを平定した勝者。

 ウェスパシアヌスの両親は貴族ではなかった。母方は辛うじて騎士階級に属する元老院議員の縁続きであったが、父方の生まれは平民で近い先祖はサビニ地方の農民であったらしい。
 ウェスパシアヌスは軍隊叩き上げとして出世し、いくつかの属州総督を経て皇帝ネロによりユダエア(ユダヤ)反乱に対する討伐軍の指揮官として任命される。
 ウェスパシアヌスは長男ティトゥスと協力して順調に反乱平定を進めるが、イェルサレム陥落を前に、皇帝ネロが暗殺された。かくしてガルバ、オト、ウィッテリウスが相次いで帝位に名乗りを上げ、帝国は内乱に陥った。
 しかし西方の野心家たちが互いに叩き合って自滅するなか、低地モエシアの軍隊を皮切りに東方各地の駐留軍や有力者たちが相次いでウェスパシアヌス支持を表明。彼はこれらの軍隊の助力を得て内乱を収拾し、70年12月にローマに帰還した。
 帝位に着いたウェスパシアヌスは先任者たちのような堕落も暴君化もせず、穏健かつ堅実な政治手腕によって綱紀粛正、治安回復、財政再建を進め、着実に帝国の繁栄を増していった。それは後の五賢帝時代の基礎となるものであった。

 その臨終のさいの言動も、いかにも彼の人柄に相応しいものであった。
「おお、どうやら私は神になるらしい」
「最高司令官は立ったまま死なねばならぬ」

[499] 三太郎 2008/03/19 00:58

>>449
 マクレランを選んだことに関しては、敵手のリーがマクレランをグラント将軍以上に評価してますので、それほど悪い選択では無いのではないかな? と思います。
 組織者としての手腕は確かですし、兵隊の損耗を抑えるやり方は、華々しさに欠けますが、反面、同レベルで損耗を続ければ、国力の差から言って、確実に勝てるのも確かですから。そこまでしなくても勝てたんじゃないか? と言う話もありますが……

>>497
 最高の税務署長さんですね。よくまあコロッセウム作る気になったものと感心しますが、そこら辺がバランス感覚に優れていたところなんでしょうね。
 人格もそうですが、能力的にもバランスがとれてますね、こうしてみますと。

[500] いりあす 2008/03/20 02:44

 またしても久々に投稿させていただきます。幕末期の日本や中国の人物が多数評価されていますが、これに対して植民地支配した側の人物も一人入れてみようかと思い、評価してみました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

チャールズ・ジョージ・ゴードン(イギリス軍人、1833〜1885)

【統率】 85
【武力】 69
【知力】 50
【政治】 35
【魅力】 78
【特殊能力】 常勝軍:外人部隊を指揮すると訓練度・士気に+20%の修正がつく。

【統率チェックポイント】
 ゴードンの真価は戦場での指揮そのものより、中国人の傭兵部隊に過ぎない常勝軍を統率して過たなかった点にある。ゴードン指揮下の中国人部隊において反乱が起きかけた時、彼自身が進み出て不満を抑え込んだという伝説じみたエピソードまで存在する。1860年までは華南一帯に統治能力を保っていた太平天国軍が急速に崩壊したのも、常勝軍のような洋式現地軍が十全に機能した事が大きい。

【武力チェックポイント】
 中国での連戦連勝の実績により名将というイメージが強いが、その後の任地であるスーダンでは少なくとも二度敗北している。どちらかと言えば、彼は少数の正規軍を指揮するよりも雑多な大軍をまとめ上げる能力の方が優れていたのではないだろうか。そんな推定から、統率は一流だが武力は優秀の一歩手前と評価した。

【知力チェックポイント】
 彼が政治的な活動をしたという記録はほとんど残っていない。しかし、クリミア戦争後の露土間の講和時に調査員として派遣されたり、工兵士官として中国国内の調査を手がけるなどしているところから、知力は可もなく不可もない程度と推定した。

【政治チェックポイント】
 基本的には軍人一筋の人で、文官としてはさしたる功績もなく長続きもしていない。
 募金を求められた時には手持ちに金が無く、代わりに清の皇帝から授与された金のメダルを寄付してしまうなど、清貧な人であったという。

【魅力チェックポイント】
 中国での輝かしい戦功も手伝い、イギリス国内では非常に人気が高かった。彼の救出が間に合わなかった事で当時のグラッドストーン首相が辞任する羽目になった点からも、その人望の高さが伺える。

【列伝】 〜〜大英帝国の象徴、チャイニーズ・ゴードン〜〜

 イギリスの軍人の一家に生まれ、士官学校を卒業後自らも軍人になる。
 1860年、太平天国の乱で大混乱に陥っていた中国に駐留軍士官として赴任。二年後、アメリカ軍人ウォードが太平天国鎮圧のため組織していた中国人部隊・常勝軍と共同作戦をとる部隊に少佐として配属され、翌年ウォードの戦死により空席になっていた常勝軍の司令官に任命される。ゴードンの指揮下、常勝軍は英国正規軍や中国の郷勇軍と協調して目覚ましい戦功を挙げ、太平天国の崩壊に大きく貢献した。
 その後イギリス軍人として軍務を歴任し、1873年にイギリスの事実上の保護国だったエジプト領スーダンに総督として赴任。決して安定していたとは言えないスーダンの統治を行うも、1879年にエチオピアとの紛争で捕虜となった事をきっかけに辞職して帰国する。その後、ベルギー領コンゴ、英領インド、中国の英国領事館などに赴任するが、いずれも長続きせずに軍に戻った。
 が、ゴードンの帰国後スーダンではマフディー教徒の反乱が激化し、エジプト軍はスーダンからの撤退を余儀なくされる。このスーダンからの撤退行を成功させるために、イギリス政府はゴードンを派遣した。1884年、ゴードンはスーダンの中心都市であるハルツームに着任するが、間もなくハルツームはマフディー軍に包囲されてしまう。ハルツーム攻防戦は10ヶ月にわたって続いたが、1885年の1月26日に陥落。籠城していたイギリス軍は文字通り全滅し、ゴードンの遺体も発見される事は無かったという。イギリスからの救援部隊の到着は、陥落の僅かに二日後だった。
 19世紀後半は大英帝国の植民地帝国支配が頂点に達し、やがてドイツやアメリカの伸張に押されて行き詰まってゆく時代だった。前半生に中国で輝かしい武勲を立て、後にアフリカの植民地で戦死した彼の生涯は、ある意味で大英帝国のたどった時代を象徴しているかのようである。

[501] 地理公 2008/03/20 08:42

500までに評価された人物

>>402 ヴィクトリア女王
>>406-407 漢宣帝
>>409-411 秦檜
>>413-414 魯迅
>>415-416 福沢諭吉
>>417-418 ホセ・リサール
>>420-422 新田義貞
>>428 シークルーフ
>>432 フリードリヒ3世
>>434 大正天皇
>>435 鈴木貫太郎
>>436 高坂昌信
>>438 山県昌景
>>439 バロン西
>>443 伏見宮博恭王
>>444 伊藤整一
>>445 ハッサン2世(モロッコ国王)
>>446 ヴャチェスラフ・モロトフ
>>447-449 ハンス・ウルリッヒ・ルーデル

[502] 地理公 2008/03/20 08:43

>>454-455 チャウシェスク
>>456 シハヌーク
>>457 フランクリン・ローズヴェルト
>>464 正親町天皇
>>465 閔妃
>>470-471 アブド・アッラフマーン1世
>>472-473 スカルノ
>>478 ハイレ・セラシエ1世
>>479 ムハンマド・アンワル・アッ=サーダート(サダト)
>>480 アテルイ
>>481 小渕恵三
>>486 トウ小平
>>488-489 藤原百川
>>490 フリードリヒ2世(神聖ローマ帝国)
>>494 リンカーン
>>497-498 ウェスパシアヌス
>>500 チャールズ・ジョージ・ゴードン

>>425-427 ガンダルフ
>>440-442 エル・ムーラゾール
>>452-453 アラゴルン
>>476-477 エルロス
>>493 アンナタール

[503] 三太郎 2008/04/05 02:05

東條英機(1884年7月30日 - 1948年12月23日)

【統率】60
 首相在職中、海軍大臣はともかく、軍令部から下にはほとんど言うことを聞いてもらえませんでした。戦局左前になれば、彼を持ち上げた木戸幸一以下に即座に見限られました。戦後は、かつての部下の田中隆吉らに掌を返されています。とても高く評価することはできません。
 とは言え、これらは大日本帝国の組織的な状態によるもので、彼一人の責任とはいえません。無論、優秀なら組織を改編できたでしょうし、実際手をつけて……とは言え、政界および国民の組織化は近衛政権下で始まってましたが……いたにも関わらず、結局上記のごとくなのですが、誰も言うことを聞いてくれなかった小磯国昭や言うことを聞かす気が無かった鈴木貫太郎の後継首相よりは上でしょう。

【武力】55
 北支事変に際して指揮官として、内蒙古一帯を三ヶ月ほどで制圧しています。
 もっとも、中国軍の主力は他所を向いており、強敵だったかかと言うと疑問符がつくこと、板垣征四郎の第五師団の増援を受けていることから、並程度としました。

【知力】14
 1943年9月に絶対国防圏を定め守りを固める方針を決めたはずなのに、1944年1月にインパール攻撃を許しています。その結果はこれ以上ないくらいの大負けでした。知力を構成する意志力、先見性に疑問があると言わざるを得ないでしょう。
 また、サイパン陥落後「サイパンを失った位では恐れはせぬ」などと発言したり、日華事変が続き、軍事予算ばかり増え、インフレが進み、中小企業が次々倒産し、農村が疲弊し、支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と言う見解を述べている中で「撤退は絶対に認められない」と発言しています。問題への正しい理解や戦略眼があるようには思えません。
 カミソリとは言いえて妙で、身だしなみを整える程度の知力しかなかったのでしょう。

【政治】48
 陸軍と言う集団を背景に己の意思を通してきました。細かいところでは、自分と不仲のものから、首相の近衛文麿にまで。結果、首相の座にいたりました。
 もっとも失脚後鈴木貫太郎に同じ手を使おうとして失敗しています。大東亜会議の結果、チャンドラ・ボースにいいように使われています。東京裁判で「陛下のご意思に反して行動するがごとき、不忠の臣はおりません」と発言し、天皇へ責任を負わせないことで、日本を維持しようと考えていた米国をあわてさせています。最終的に「政治をやるものではない」と言う感慨を残していますが、自己評価としても向いていなかった、となったのでしょう。

【魅力】70
 部下思いであり、よく面倒を見たため慕われていました。また、首相時には、そのパフォーマンスの成果か国民からも非常に高い支持を受けています。真面目で仕事熱心ではあり、天皇の支持も最後まであったと言われています。
 ただし、敗戦の過程で評価を落としたので減点があります。

【列伝】
 陸軍大将。政治家。明治の高名な軍人、東条英教中将の長男として東京で生まれる。
 陸軍大学を出て累進し、1936年には中将に昇進。1937年関東軍参謀長。1938年陸軍次官。1940年陸軍大臣。
 1941年には首相に就任。その後、外相、文相、商工相、軍需相を兼ね、1944年には、参謀総長をも兼任し、戦争指導にあたる。
 しかし、戦局の悪化に伴い支持を失い、1944年7月サイパン陥落を機に総辞職に追い込まれる。
 終戦後、A級戦争犯罪人として東京裁判の被告として起訴され、1948年12月絞首刑となった。

[504] 「ど」の字 2008/04/13 00:02

 皆さんお疲れ様です。

>>500
 ハルトゥームの英雄として銅像になった人ですね。
 衰亡しはじめた大英帝国、どういう人物が出れば保てたのでしょうか。こういう人を輩出しているのを見ると、やはり政治の責任でしょうか?

>>503
 当時、戦争に流れていく日本を変えられなかった流されるだけの政治家という評価なんですね。自分もだいたい同じ感想を抱きました。
 最も、流される大日本帝国に対して最大の罪を犯したのは、今も勢力を保っている腐ったマスコミなのではありますが。このままだとまたマスコミの所為で「敗戦」するのではないかと恐れています。

[505] 「ど」の字 2008/04/13 00:03

 こんばんは。「ど」の字です。
 今回出すのは、指輪物語世界観の中でエルフの衰亡を決定付けた半エルフの評伝です。

 エルロンド

【統率】60
 大きな集団を統率して成功した経験は無い。ただエレギオン(柊の国)滅亡に際して国民を避難させイムラドリス(裂け谷)の隠れ家を作るには功績があったので、小集団を率いる才はあったのかもしれない。
【武力】50
 世に出たのはエルダールエルフ最後の上級王ギル=ガラド指揮下の武将としてであり、言行を見るならバリバリの武闘派。
 ただ、頭の中が武闘派であっても能力はそうではなかったらしく、任を達成した験しが無い。エルフと人間の最後の同盟があった時代にはとうとう将の任を解かれてギル=ガラドの伝令をさせられていた。明らかに左遷である。
 それ以降は自らの適性を自覚したのか戦場に出ることは無かった。戦争の何たるかを知っていたとは思えない。
【知力】52
 弟エルロスとは比較の段ではなく劣る。時代の流れを予測する感覚が鈍い。ましてその先頭に立つなど出来ない。
 ガンダルフ同様戦略観にも欠けており、サウロンの勢力回復を二度も座視した責任は極めて重い。
 決断力に欠け惰弱なところも見受けられる。特にエレンディル王とギル=ガラド王が二人で身を挺してサウロンを斃したのに、残された彼が「一つの指輪」を屠り損ねたのは万死に値する。
【政治】59
 長生きしているだけに細かな手配りやテクニックには長じている。
 しかし諸国との連合など、打つべき手を打っていないのは明らか。その職務怠慢、目に余る。
【魅力】74
 ある意味高貴な生まれであり、また教育も伶人マグロールに受けたため自らを良く見せる技能は高かった。
 勢力を著しく減じたエルダールを率いるに相応しいだけの能力はあった。だがそれ以上は無い。
【特殊能力】
※癒し手
 第一紀当時の優れた医療技術をほぼ損なうことなく保有しており、当時の世界では一番の医師。
 彼に治療できなければ、その患者を癒し得る医師は存在しない。
(続く)

[506] 「ど」の字 2008/04/13 00:04

(続き)
【略歴】
 名はシンダール語で「星の館」の意。エアレンディルとエルウィングの息子。ヌーメノール国の初代国王エルロスの兄。エルダールエルフの女王ガラドリエルの娘ケレブリアンと結婚して、エルラダン、エルロヒア、アルウェンの三人の子をもうける。裂け谷(イムラドリス)の主人で白の会議の一員。
 第一紀、エアレンディルが西方に航海するときに中つ国に残ったが、そこでフェアノールの息子達の攻撃を受けエルロスと共に捕虜になる。しかし2人はマグロールに愛情ある養育をされて成長した。
 第二紀以降、エルロンドはエルフとして生きる道を選び、中つ国に留まる。最初は、エルダールエルフの上級王ギル=ガラドや船匠キーアダンと共にリンドンに住まっていた。だが、サウロンとエレギオンの戦いが始まると、リンドンの軍勢を率いてエレギオン救援に赴く。エルロンドは、エレギオンのノルドールの残党を率いて、イムラドリス(裂け谷)の隠れ家を造った。
 その後もエルロンドはギル=ガラドやキーアダンと協力してサウロンと戦っている。最後の同盟の戦いでは何故か将としてではなくギル=ガラドの伝令を勤めることとなり、ギル=ガラドが死ぬ前に風の指輪ヴィルヤを受け継いでいる。また、彼は冥王サウロン対ギル=ガラドとエレンディルの相討ちの場面、そしてイシルドゥアが一つの指輪をサウロンから奪う場面を、キーアダンと共に目撃した。イシルドゥアは一つの指輪に魅せられて、これを自分のものと宣言するが、エルロンドはこれを止めることができなかった。
第三紀にはエルロンドはイムラドリスに戻り、そこで叡智と伝承を蓄えた。自ら出陣することは以後はなかったようだが、アルノール援助のためにイムラドリスのエルフ部隊を派遣し、北方のサウロンの軍勢(アングマールの魔王)を駆逐するために協力している。
 アルノール滅亡後は、アルノールの宝である折れたナルシルや、アンヌーミナスの王笏などヌーメノールの至宝を預かって守る。また代々のアルノール王の末裔(アラゴルン二世も含まれる)を養育するようになった。
エルロンドは『ホビットの冒険』『指輪物語』において、旅の助言者として登場している。一つの指輪が破壊されて第三紀が終わると、エルフの指輪に由来する魔力を失ったエルロンドは他の指輪所持者と共に至福の国アマンへと去った。

【コメント】
 上古の時代にエルダールエルフ衰亡の原因を作ったのがフェアノールであるなら、この人は中つ国に住まうエルフ全体の衰亡の原因を作った人物と言えます。
 サウロンの勢力を掣肘できなかったのも、「一つの指輪」破壊の絶好の機会を逸したのも、世界の衰退を決定付けるあまりにも重い失態でした。大国ヌーメノールを創建した弟エルロスの才覚が幾らかでも有れば、そのような悲しい運命は無かったでしょうに。
 アラゴルン二世(エレスサール王)は二歳にして父を戦死で失って以降は彼の養子として教育されましたが、彼は養父とは似ても似つかないしなやかで強靭な人格に育ちました。アラゴルンがこの人に似なくて良かったなと、心から思います。

【総評】
 知識を蓄え整理する賢者にして癒し手です。それ以外のことに適性はありません。
 その血筋から、エルダールエルフの指導者として期待されるに至りましたが、この人格に人を率いさせるのはちょっと酷だったと思います。また時代の流れを読む才も無く、政治や戦略の助言者としても期待は出来ないでしょう。『指輪物語』では良く書かれすぎです。

[507] いりあす 2008/04/14 23:39

 再び失礼します、いりあすと申します。
 今回は三国志の時代の重要人物でまだ評価されていない人物を一人評価してみようと思い、恐らくは諸葛孔明と並んで最も論争の種になるであろうこの人を評価してみました。皆様の忌憚のないご意見をお待ちしております。

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劉禅(蜀漢第2代皇帝、207〜271)

【統率】 58
【武力】 15
【知力】 49
【政治】 61
【魅力】 56
【特殊能力】 阿斗:統率している国家を滅亡させると魅力が-50。

【総評】
 まず押さえておきたいのは、蜀という国自体が実質的に諸葛亮の構築したもので、丞相・後に尚書令を中心とする行政府の権限が大きく、極端な話皇帝が特に権力を積極的に振るう必要が無い体制が出来上がっていたという点である。また呉と同盟して魏を攻めるというドクトリンに基づいていたため、対魏の最前線にあたる漢中の軍が大きくなりすぎて中央政府のコントロールを逸脱する懸念が大きいという欠陥を秘めていた。この欠陥は諸葛亮の健在な間は全く問題が無かったが、諸葛亮の死後漢中軍を掌握した姜維が独断で北伐を続けるという形で浮き彫りになり、結果として蜀の寿命を縮めるという結果になった。

【統率チェックポイント】
 劉備が遺した蜀という三国中で最も弱体な国を40年間大過なく治めたという点は評価していいと思う。ただ、諸葛亮の死後もその体制を温存せざるを得ず、後に姜維の無謀な北伐を止められなかった(蒋琬・費禕・董允といった諸葛亮抜擢の高官を失い、姜維に対抗できる重臣がいなくなっていたという点は差し引くが)点では高い点はつけられない。優秀な君主ならばどこかで大鉈を振るっただろう。
 となれば、可もなく不可も無しの上、まあまあ未満というあたりが妥当な線と思われる。意外に知られていばうが、劉禅の在位は三国時代の皇帝の中では最も長く、前漢〜後漢〜蜀漢と続く漢朝の歴代皇帝の中でも武帝に次いで二番目に長い。

【武力チェックポイント】
 軍事に関しては実績が全く無い。一つには軍事全体は諸葛亮と彼の遺した武将達が全て行っていたため、蜀自体が皇帝の出馬を全く必要としない組織になっていた事もあるす。
 が、一度たりとも出陣しなかった点から考えれば10台をつけざるを得ない。

【知力チェックポイント】
 劉禅にとって最大のマイナスポイントは、姜維が強く推進した北伐の再開にGOサインを出してしまった事にあるだろう。既に漢朝の終焉から30年以上が経過し、漢朝の王政復古が如何にあり得ないものかは明白だったはずである。にも関わらず姜維を制止できずに漢中軍の暴走を許してしまった点において劉禅の責任は看過できない。しかしそれ以外の判断はやや弱気な嫌いがある事を除けば大きな過ちを犯した事はない(演義ではロクでもない描かれ方をされたが、正史では書く事がほとんど無いほど可もなく不可もない治世だったようである)。
 また、前述の理由により下手をすれば彼の発言権より姜維の支配力の方が大きかったという蜀の構造的欠陥を考えると、あまり酷評するのも酷だろう。というわけで凡人の上ぐらいと評価した。

【政治チェックポイント】
 善政と呼べるほどの治世ではなかったが、悪政と呼ばれるほどの事はほとんどしていない。父劉備の死後は諸葛亮を筆頭とする遺臣団、諸葛亮の死後は彼の子飼いの家臣団を十全に登用して、魏や呉に比べても内訌の少ない平和な治世(前線の漢中を除けばだが)を実現させていた。
 蜀末期の混乱は減点材料だが、元々皇帝権力があまり大きなものではなかった点も考えると、まあまあの域に入れておくぐらいが妥当な線か。

【魅力チェックポイント】
 死後は中国史上でもベスト5に入るであろう悪名を轟かせているが、あくまでも劉備・諸葛亮贔屓の感情への裏返しのようなもので、生前の劉禅は救いようのない人物では断じてあり得ない。まあ好意的に言えば、憎めない人とは言える。

[508] いりあす 2008/04/14 23:40

(続き)

【列伝】 〜〜“暗君”と呼ばれた二代目皇帝〜〜

 蜀漢の第2代皇帝で、史書では後主と呼ばれる。
 西暦207年、ちょうど父劉備が後の丞相・諸葛亮を登用した頃に寄宿先の荊州新野で生まれる。生後まもなく荊州は曹操の侵攻を受け、一度は父に半ば見捨てられて戦場に遺棄され配下の趙雲に救出されたという。
 223年、父・先主劉備の死により蜀の皇帝として即位する。この頃の蜀は根拠地の一つだった荊州を失い、劉備に長年仕えた群臣は大半が死去、国内も呉との戦争によって疲弊した状況にあった。そんな中国内の立て直しとその後の北伐という大事業に着手したのは劉備抜擢の丞相・諸葛亮であった。劉禅本人は実質的に諸葛亮を自らの全権代理人的な位置に据え、その下で象徴皇帝的な立場に甘んじていた。
 諸葛亮死後も蒋エン・費イ・董允といった諸葛亮子飼いの文官達を中心とした体制は十全に運営され、漢王朝による中華統一という本来の理念こそ実現し得なくなったものの四川一帯での割拠は大過なくなされていた。だがこの三人の死後漢中軍の総司令であった諸葛亮子飼いの将の生き残り・姜維が無益な北伐を相次いで行うようになり、蜀の国力は急速に疲弊してゆく。まさに末期症状の蜀であったが、その中においても劉禅は宦官・黄皓の跋扈を許すなど有為な手を打つ事がなかった。
 263年、かくして蜀は魏の大軍の前に蹂躙される。最後の砦・剣閣に拠って抵抗を試みる姜維をよそに、劉禅は兵火により成都が灰燼に帰す事を避け降伏。蜀漢は二代43年にて滅亡した。後に姜維が魏将・鐘会を誘って反乱を起こして殺害され、どさくさで長子・劉璿もが命を落とすのをよそに安楽公に封じられ、悠々自適のうちに晩年を送ったという。

【おまけ的私見】
 話は大幅に飛びますが、とある歴史小説家の作品の中で、大坂の陣の直前の豊臣秀頼が酒色に溺れてしまっていたという描写をしていました。この中で、この時期の秀頼が母・淀殿や家臣達の驕慢から豊臣家が追い詰められてゆく状況を見て“投げてしまった”と説明されています。
 この描写を読んだ際に、蜀末期の劉禅も同じような心境ではなかったか、と考えたのが今回の評価の直接の動機になっています。劉禅と豊臣秀頼には妙な共通点があって、一代で平民から一国の主まで成り上がった一世の雄を父親に持ち、その父の死により若くしてその家を継いだ事や、その後無為に甘んじて家を潰したあたりなどが妙に似ていると感じたわけです。
 はっきり言ってしまえば姜維が北伐に明け暮れていた頃の蜀というのは劉備と諸葛亮の理想の残りカスのようなもので、国力の疲弊を顧みることなく勝算のない北伐を繰り返す漢中の姜維、それを止める力を持たない成都政府、漢朝の復興を頭から否定する士大夫達、そして皇帝という立場にも関わらず国政に発言権を持てない自分。これで投げないのは曹操や諸葛亮のような一級の人物ぐらいのものでしょう。
 蜀滅亡前後の劉禅の態度は何も分かっていないが故の愚行というより、分かっていても何も出来ないが故のものではなかったでしょうか? 後に劉禅が司馬昭に「蜀の事を思い出すでしょう」と問われ「ここは楽しいので蜀を思い出す事などありません」と答え一同を唖然とさせたという有名な話がありますが、劉禅の真意は本当に楽しくて蜀を忘れたのでも保身のため愚鈍を装ったのでもなく、本気で「あの頃の蜀の事など思い出したくもない」と内心で吐き捨てていたようにも思えるのです。

[509] いりあす 2008/04/15 00:40

上記の補足と訂正。

統率チェックポイントの“蒋琬・費禕”は“蒋エン・費イ”と読み替えて下さい。なお、エンは王へんに宛、イは示へんに韋です。
また、同じく統率チェックポイントの“意外に知られていばうが”は“意外に知られていないが”の誤りです。

列伝の中の“劉璿”は“劉セン”と読み替えて下さい。センは感じで王へんに睿です。

大変失礼いたしました。

[510] ハーン 2008/04/15 03:46

>>497-498
 世にも珍しい本当の中興の祖ですね。
 下手な五賢帝よりよっぽど有能な人物だと思います。

>>499
 マクレラン云々は二回も任命することもないのでは? というのが主な理由です。
 それにしても、南北戦争、てそもそも南部に勝ち目あるんですかね? リー将軍も攻勢に出ると大体勝てませんし。

>>500
 太平天国とか終わった後、どうなったんだろうな、と漠然と思っていたので、興味深いです。
 英国の衰退云々はアメリカくらい反則のような国が成長しつつある上に、統一ドイツまで誕生しては仕方ないと思います。

>>503-504
 世界史上最大の戦争に参加した大国の指導者にしては、小粒な印象を受ける人物ですね。恐らく、陸軍大臣辺りが彼の限界だったのだと思います。
 まあ、彼が退陣してからは彼よりさらに相応しくないと思える人物が次々と総理になっているわけですが。
 数値は大体同意ですが、私なら陰険なエピソードを加味して魅力を60代後半くらいにすると思います。

>>507-508
 この人は不当に低い評価を受けていますよね。まあ、だからといって高く評価するような点がないのも事実なのですが。
 評価には概ね同意します。負けるに決まっている状況の国家の君主がたまたま彼だった、それだけのことだと思います。
 例の発言もそう考えると、また違って聞こえてきて面白いと感じました(まあ、歴史上の人物の発言の大半は歴史家が作るものですが)。

[511] ガーリックトースト73% 2008/04/15 23:10

金日成

【統率】94
【武力】65
【知力】76
【政治】42
【魅力】63

【特殊能力】
神格化:死後魅力+30

【統率チェックポイント】
スターリン型の独裁体制を参考に、周囲を一族で固めて磐石な地盤を築く。
朝鮮労働党の結党以来、一度も失脚、及び除名経験なし。小規模政党であるにせよ、常に同党のトップであり続けた。
弱小時代の金日成派は満州派とも呼ばれる満州抗日パルチザン出身者たちで、彼らは他の派閥以上に徹底した団結を誇ったと言われる。

【武力チェックポイント】
真偽は不明だが、若い頃から抗日パルチザンとして「普天堡の戦い」を経験、1940年には彼の指揮する部隊が日本軍"前田部隊"に辛勝している。
日本によるパルチザンの大規模討伐作戦を事前に察知、抗日部隊が壊滅する中、ソ連領に逃走し戦力を温存する。
パルチザンでありながらソ連で軍隊訓練も経験、金日成将軍として朝鮮人民に広く認知される。
朝鮮戦争時では電光石火の早業でソ連軍の援護もあってか緒戦は圧倒的戦果を上げる。ただ、その後はジリ貧になっているので評価は下げた。

【知力チェックポイント】
大胆な判断を素早く行える人物であり、日本軍による掃討作戦、中国共産党による内部ゲバルトが行われても巧みに網をすり抜けている。
朝鮮戦争時は劣勢になると司令官を残して自身は本国に逃亡、身の危険を回避している。
スターリンと同じく大規模な粛清を行いながらも反対に暗殺の危険にさらされた事は風聞を除けば殆ど無いと言われる。
粛清の結果として、20年ほどで満州派による独裁体制を構築、軍部の台頭が囁かれているが、現在でもこの方式は維持されている。

【政治チェックポイント】
マルクス・レーニン主義に早くから見切りをつけ、日本の国体を模倣し「チェチェ(主体)思想」を提唱、
首領(将軍)と人民の立場・格を明確にし、無条件の崇拝を強制した。
一方で、連邦制の意思を韓国側に発信するも拒否され、国際原子力機関に非協力的な姿勢を見せ欧米諸国の顰蹙を買ったり、
核開発に代表される先軍政治を採った弊害で民政が疎かになり、いたずらに国力を低下させ、
おまけに軍部が力をつけて発言力が増す結果となり、不安材料を自ら増やすマネをしている。
反共の統一教会を利用して資金供与を受け、息子の金正日に流動的な権力移譲を行うなど政治的才覚は皆無ではないが、
現在、先軍政治のツケを払わされているのは軍部でも金一族でもなく、末端の朝鮮人民である。

【魅力チェックポイント】
前述の通り若い頃から「金日成将軍」として勇名を馳せている。
彼を語る時は独裁者・粛清・権力闘争というお題目が並ぶが、実像は親しみやすい性格だったようで、
反日思想の朝鮮人が多い中、女中の日本人を雇い、家族に次ぐ扱いをしていたと言われる。
ただ、現在語り継がれるような神がかり的なカリスマは持ち合わせていたとは言えず、足りない部分は自己神格化を通す事で補っている。
ただ、首領の神格化は一党独裁の為、安定的な政権の維持の為に必要に迫られた部分もあり、一概に彼の利己主義によるものだとは言い切れない。

【作者から一言】
初代"偉大なる将軍様"と朝鮮人民が諸手を挙げる人物、それが彼です。
彼の半生はもっぱら権力闘争です。小規模な政党からスタートし、見事朝鮮半島で「神」として君臨しました。
日本人の私から見ればロクでもない人間ですが、これでも世界の共産党党首の中ではマトモな人物なのですから驚きです。
一言で言ってしまえば、現在の北朝鮮は彼が構築した基盤の残りカスです。彼が亡くなった今、徐々に綻びが大きくなっているのが判ります。

【列伝】
生没:1912年4月15日 - 1994年7月8日
略歴:朝鮮民主主義人民共和国初代首相、2代朝鮮労働党総書記、朝鮮民主主義人民共和国主席
任期:総書記(1949年6月30日 - 1993年4月9日)
称号:朝鮮民主主義人民共和国共和国英雄(三回受称し、三重英雄と称される)
備考:「偉大なる指導者」「将軍様」「首領様」「永遠の主席」など、異名に事欠かない

[512] 三太郎 2008/04/16 00:42

>>504
もっとも、この人、首相になるまでの時代の流れに対し、異論があったかと言うと、なかったんじゃないかな? と思うのですが、とは言え、流れ作ったかと言うと、どこまでも、起きた事にとりあえず対応しただけ、みたいな感じが抜けません。

>>510
状況を作り出した、あるいは作り出そうとした人と、状況に対応しただけの人の差ですね。良きにせよ、悪きにせよ。

リンカーンがびびって離脱を認めて戦争にならなかったらば良かった、と言うことで、戦争になった時点でアウトだと思います。もっとも、その割りに、北軍の死傷者妙に多いですが。

[513] やっち 2008/04/16 01:29

>>511

 「先軍政治」は1997年初登場のはず。
 息子のやったことと一部混同されてませんか。
 数値に特に異論はありませんが。

[514] やっち 2008/04/16 01:50

アンリ・ギザン

統率 82
 非常動員された40万以上の軍を率いて「レドュイ計画」と呼ばれる堅固な防衛体制を敷き、6年間に渡ってこれを維持。枢軸国による侵攻を未然に防いだ。
 国内でも、少なくとも軍部隊には中立を徹底させ、中立義務に違反する者を取り締まってスイスの中立を堅持させた。
 仏独伊を結ぶ戦略上の要地にあり、フランスの降伏後は四囲を全て枢軸国に囲まれた状況下でも中立を維持しえたその統率力は一級の評価に値する。

武力 50
 大規模な実戦経験はないのでこの数字。
 中立を侵犯する枢軸国、連合国に対してはともに断固たる対応をとり、空戦を指揮した。

知力 76
 「レドュイ計画」(有事には平野部を放棄し要塞化した山間部に撤退、アルプスの南北を結ぶ通路を遮断しゲリラ戦を行う。)は、侵略によるメリットより損害を大きくすることで侵略を断念せしめる極めて妥当な戦略。
 国内及び軍部が親独に傾いたとき、リュトリの丘で行った演説も見事。

政治 60
 本質的に軍人であり政治家ではない。
 ドイツに好意的な行政当局との関係では苦労したようである。

魅力 75
 リュトリの演説で軍部を完全に掌握しており、人的魅力にも優れた人物であったと伝わる。
 終戦後は潔く地位から退き更なる名声を得た。

[515] やっち 2008/04/16 02:08

−武装中立−
 第2次大戦期のスイスの軍人。
 フランス系スイス人で、戦間期に大佐(平時の軍人トップ)に昇進。
 1939年、戦争の危機が高まると、将軍(非常時にのみに置かれる最高司令官)に任命され、「レドュイ(砦)計画」(内容は「知力」欄に記載)と呼ばれる戦時防衛体制を敷く。
 スイスは仏独伊を結ぶ要地に位置し、ヒトラーは特にイタリア方面との連絡線確保のためスイス侵攻も複数回計画したが、スイスの防衛体制の堅固さにこれを断念したと伝わる。
 他方、スイス国内への対応について、スイスはドイツ系がマジョリティで、心情的に枢軸国への同情が強く、枢軸国側での参戦論も出ており、中立政策に動揺が見られた。そこでギザンは、軍の全指揮官を建国の地リュトリの丘(盟約者団の原初3邦が盟約した地)に招集し、先人が守り抜いた独立と中立を維持することを演説し、全軍の結束を達成する(「リュトリ演説」)。
 その後も中立義務に違反する者には死刑を含む厳しい対応をとり中立を堅持。
 対外的には、連合国・枢軸国を問わず中立を侵犯する者には断固たる姿勢をとる。地上軍の侵攻はなかったが、両陣営とも領空侵犯を繰り返す。ギザンはこれに対して当初は抗議を行っていたが、聞き入れられないことを悟ると、武力による排除を決意し、陣営を問わず侵犯機を迎撃・撃墜している。
 1945年、ヨーロッパでの戦争が終わると、地位を返上して引退。

 有能な司令官です。攻勢には向きませんが、防衛には最適です。その意味で現代日本にもほしい人材。
 彼の人生は、有事に「中立」を維持するには、これだけの努力が必要なんだということを示してくれます。

※大戦期のスイスの中立については、戦後、ドイツ寄りであったとの批判が出ますが、それは政治分野の問題で、彼の責任ではないでしょう。詳細については割愛しますが、批判も、事後的で、かなり的はずれなところがあります。
 

[516] 三太郎 2008/04/18 11:54

>>514−515
戦わない名将ですね。
「スイス侵攻は、得られる成果が見合わないだろう」とは、駐スイスのドイツ公使キュッヘルの言ですが、そういう点ではドイツの理性はちゃんと機能していたってことが伺えます。
将軍選挙で投票数229票中204票獲得と言う実績ありますから、
魅力もっと高くても良いかも。

[517] 「ど」の字 2008/04/19 21:59

>>514-515
 冷徹に「不戦」を貫くことの出来る意思と知性のある指導者ですね。
 戦後日本を率いると考えるなら最適かと思います。けれど戦前の日本だと、この能力を以ってしても難しいでしょうね。あの時代の日本は、まさに「戦乱の渦中」を抜けようが無かった国ですので。
 自分は先の戦争を始めた人間たちの知性は全く認めませんが、終わらせて日本を再建した人間たちの知性は世界史上でも屈指だと思っています。

[518] 片田舎の偏屈士 2008/04/25 22:42

ムハンマド・イブヌル・カーシム
695年-715年

【統率】65 シリアから送られた6000の兵の他、遠征途中で募集したペルシャ現地民の混合軍隊を指揮し、みごとな勝利を収めた。
【武力】76 古代、インダス上流域の部族はアレクサンドロスに対して頑強な抵抗をしめしたが、カーシムが相手をしたシンド地方の王族たちは統一感なく、破竹の勢いを止めることが出来なかった。相手の力量を考え、一級の前での評価。
【知力】68 同僚のクタイバと同じく、上司であるハッジャージの影響が大きく、それを差し引いての評価となるが、現地勢力に根回しをして優位に侵攻を成功させるなど頭脳派の一面を持っている。
【政治】76 これもハッジャージの指令があっただろうが、現地勢力インドの恒久的な支配を根底に置いた寛容な侵攻を遵守。後のイスラム勢力進出の足がかりを築く。
【魅力】74 侵略者にもかかわらず、その悲劇的な粛清を嘆き、善政を慕った現地民は像を建てて祭ったという。

[519] 片田舎の偏屈士 2008/04/25 23:06

シンド・パンジャブの征服者

幼い頃から同族であるウマイヤ朝の冷酷無比な総督ハッジャージ・イブン・ユースフに師事し、軍政を学ぶ。

17歳の時にインドへの侵攻を命じられ、ハッジャージから中央アジアに侵攻するクタイバと、どちらが先に中国へと到達するか競わされたという。

侵攻軍に対する現地勢力の不一致を利用し、戦局は終始優位に終わり、711年にインダス河口域の大都市ダイブルを占領。そこから北上して行き、シンド地方の各都市を占領しながら、713年にはパンジャーブ地方の中心都市ムルターンを占領した。

住民の保護と仏教寺院の破壊をしないことを約束。ムルターンを拠点にさらなる侵攻の準備を整えていたが、最大の庇護者であるハッジャージとカリフのワリードが相次いで亡くなると、ハッジャージ派の粛清を計る8代カリフのスライマーンにより捕らえられて獄死する。

[520] 片田舎の偏屈士 2008/04/25 23:15

お久しぶりです。勉強中の合間で気になった人をお一人評価。

日本で言うところの源義経みたいな扱われ方をする武将です。
しかし、17歳で指揮権を与えられるくらいなんで、ハッジャージからは相当に期待されていた人なんでしょうね。
ハッジャージやクタイバと異なり住民に慕われていたようで、とても、お前たちの首は刎ごろだ・・・なんて言った方の身内には思えません。

とりあえずローマ→中国→イスラム・東欧・インドの流れで勉強中。マイナーばかりになってしまいそうですが、東方世界の人物評価をしていきたいと思います。
ただ、この地域の先駆者であるマフムードさんに比べればまだまだなので、大目に見ていただければと・・・

[521] やっち 2008/04/30 14:14

 未だ評価されていないビザンツ皇帝を幾人か数値化したいと思います。

レオン3世

統率 83
 1年以上にわたるコンスタンティノープル防衛戦を破綻無く
戦い抜いた。その後シチリアの反乱や先々代アナスタシオス2世の
陰謀などを切り抜け、軍管区への統制を強化し、帝国に安定をもたらした。
イスラムの侵攻と内戦により崩壊寸前の帝国を立て直した統率力は
一級である。

武力 78
 ウマイヤ朝の大軍から帝都を守り抜き、その後反撃に出てウマイヤ朝軍
を破った優秀な将軍。ただし、コンスタンティノープル防衛戦の勝利は
同地が世界史上屈指の難攻不落の地であること、秘密兵器「ギリシアの
火」の威力によるところ大であること、敵たるウマイヤ朝が衰退していたこと
から、一級には届かず、その一歩手前の優秀レベル。

知力 65
 彼の知力は聖像破壊運動(イコノクラスム)をどう評価するかで大きく
変わる。また、彼が聖像破壊運動を開始した動機もよくわからない。
 これ以外の点では、金角湾の封鎖やシチリア艦隊の強化等の戦略、
軍管区の細分化等の政略は優秀である。
 聖像破壊運動についてみると、皇帝権力の強化(特に対教会で圧倒的
優位に)に繋がったメリットはあるものの、西方への影響力の喪失、西方よりの
収入の減少(ローマ教皇がコンスタンティノープルに納税しなくなった)、何より
帝国を大混乱に巻き込んだというデメリットも。概してみてメリット3、デメリット7
といったところか。
 一応、皇帝権力の強化を目指して同運動を行ったと解釈して、10点の
減点留める。

政治 70
 東イリリクム教区をローマからコンスタンティノープルの管轄に移して財政充実、
「エクロゲ」と呼ばれる法典の編纂による社会的弱者の救済等、みるべき治績
多し。イタリアに重税を課したことは上記聖像破壊運動と相まって後の北伊失陥の
一因となるため、減点。

魅力 72
 聖像擁護派からは異端とののしられるが、イスラムを撃退した救国の英雄として
名声・権威とも高い。
 同輩に過ぎないアルタヴァスドスから完全な協力と忠誠を勝ち取っている点、個人的な
魅力も十分であったろう。

[522] やっち 2008/04/30 14:27

−イコノクラスム

 東ローマ、イサウリア朝の初代皇帝。
 前半生の詳細は伝わらない。アナスタシウス2世に登用され、後にアナトリア軍管区の
長官となる。ウマイヤ朝の攻勢に際して、アルメニア軍管区の長官アルタヴァスドスと
組んで、首都へ進撃、時の皇帝テオドシウス3世を引きずりおろして即位。
 直後、首都コンスタンティノープルへ押し寄せたウマイヤ朝の大軍を、自身の優れた
戦略・統率力と、秘密兵器「ギリシアの火」の威力で撃退。首都を、帝国を、ヨーロッパ
世界をイスラムの攻勢から救った英雄となる。
 その後も軍管区の分割や統制の強化など帝国の安定に尽力したが、726年、
聖像破壊運動(イコノクラスム)を発令、その端緒を作る(運動が本格化するのは
彼の死後。)。
 小アジア地域からは指示を得たが、ギリシア地域からは反発を呼ぶ。西方
(イタリア、シチリア)での反発は更に強く、ローマ教皇はコンスタンティノープルへの
納税を取りやめ、またその支配を脱するべく頼るべき政治勢力の擁立に
動くこととなる。他方で、反発する教会の広大な領土を没収することで皇帝権力の
強化にも繋がった。
 功罪相半ばする複雑な政策であるが、帝国が重荷になりつつあった西方を切り捨て、
東方の政治勢力として生き残っていくプロセスにおいては、有力な手段であったと
思われる。

[523] やっち 2008/04/30 14:38

コンスタンティノス5世コプロニュモス

統率 80
 軍勢を率いても一級。
 国内でも聖像擁護派を大弾圧して皇帝権力を強化した。統率力は
父に劣らないだろう。

武力 80
 アルタヴァスドスの反乱を鎮圧し、北シリアやアルメニアでもウマイヤ朝に
大勝して領土拡大。キプロス沖海戦でウマイヤ朝海軍を破って
制海権を確立。
 戦術に関しては、父以上と思われる。

知力 64
 聖像破壊運動を強固に推し進めた意図がよくわからないが、皇帝権力の
強化を目的としたのなら見事に成功しているためこの数値。単に宗教的
情熱に駆られてのものなら−30。

政治 60
 父には劣るものと思われる。

魅力 70
 輝かしい武勲により軍民の強い支持を得たという。

※能力補正
「コプロニュモス」 死後、正統派クリスチャンにとっては魅力に-70。

[524] やっち 2008/04/30 14:47

−「糞野郎」

 東ローマ、イサウリア朝第2代皇帝。レオン3世の子。
 父の死により即位。即位直後、アルタヴァストスが反乱を起こし、一時
帝位を追われるが、これを鎮圧し復位。
 即位後は、軍事に優れ、西方ではウマイヤ朝から北シリアやアルメニアを奪回、
国境を東に押し戻す。北方ではブルガリアに遠征して戦勝を重ねた。ただし、
東方やブルガリアに注力せざるを得なかったため西方が手薄となり、北伊の拠点
ラヴェンナをランゴバルド族に奪われる。これによりローマへの統制が弱まり、ローマと
カロリング朝の接近を誘発することとなる(が、西方の維持は帝国にとって重荷で
実益がないものと思われるため、大きな減点はしていない。)。
 国内では聖像擁護派を容赦なく大弾圧し、その教会所有地を没収して皇帝権力
を強化する。
 弾圧された聖像擁護派は、9世紀に最終的に勝者となるわけだが、恨みを込めて
コンスタンティノス5世を「コプロニュモス」(「糞野郎」の意)と呼んだ。
 評価者の宗教的立ち位置によって評価がわかれるが、優れた皇帝であったことは
間違いないだろう。

[525] 無名 2008/05/23 17:10

周恩来と李密をリクエストします。
リクエストだけでは失礼なので自分でも数字だけ評価します。補訂してください。

周恩来
統率 58
武力 45
知力 88
政治 96
魅力 92

李密
統率 78
武力 75
知力 84
政治 70
魅力 69

[526] ハーン 2008/05/25 05:15

>>519-520
 あまり知らない人物ですが、義経よりは政治力がありそうなイメージですね(彼も解釈次第ではそこそこあるらしい)。

>>521-524
 この二人の功績は対イスラムに絞ればカール・マルテルより遥かに功績が上なんですが、正当に評価されていない感じですね。
 やはり聖像画破壊運動が原因ですかね。

>>525
 李密は唐にあまり詳しくないので、知っている人に任せることにして、周恩来だけ評価することにします。

[527] ハーン 2008/05/25 05:17

 まず、評価を読む前に、私は周恩来という人物は毛沢東の忠実な取り巻きではなく、忠臣ですらないと考えています。その実態は中国共産党において毛沢東に拮抗するか、それ以上の力をもっていたライバルであったと考えています(三国志における曹操と荀イクのように、協力しつつ、権力闘争を行っていたんだろう)。
 何故、こんなことを前提にするかというと、彼の中国共産党における立ち位置は論者によって異なっているからです。その時の情勢に踊らされて右往左往していた、誰かを表に立てて裏から操っていた、毛沢東に忠実な腹心等様々なものです。いずれの立場であるかは、現体制が継続している限り判明しないでしょう。
 そのため、人によって周恩来について抱いているイメージにはかなり開きがあると思われますので、それを前提にして読んでください。

 周恩来

 1898年3月5日-1976年1月8日

統率……55 彼は中国共産党における実力者であり、彼の党における実力は非常に強いものであった。だが、自分がトップに立ったことはなく、立とうとしたこともない様子なので、このくらいが妥当だと思われる。

武力……37 南昌蜂起を指揮したが、結局失敗している。国共内戦、日中戦争でも別に軍隊を指揮して功績を立てたわけではない。

知力……80 第一次国共合作から長征まで、彼は中国共産党における有力な幹部の一人であり、数多くの戦略策定に関わっていたのだが、国民党に追い詰められ、壊滅寸前であった。その後の西安事件で決定的な敗北は避けられたものの、こんな事態に陥ったことについて周恩来に責任がないとは言わせません。国共内戦時は事実上の参謀総長として戦争の指揮を行っており、優勢な国民党の打倒に貢献する。勢力が対等になると蒋介石を手玉に取れるようになっていることから、戦略家として無能というわけではないと思われる。ソ連との関係が悪化してからはアメリカと接近することを薦め、文革で孤立していた中国はようやく国際社会復帰の糸口を掴む。

政治……87 中国共産党でも屈指の政治家で、謀略家です。特に交渉と調整を得意としており、失敗に終わったとはいえ反共クーデターでボロボロになっていた共産党を掻き集めて南昌蜂起を主導したり、蒋介石に殲滅されかかっていた共産党を西安事件で救うことに成功している。AA会議は盛り上がったことは盛り上がったものの中印国境紛争等様々な要因から大して上手くいっていない。その代わり、キッシンジャーとの交渉は成功させている。毛沢東の文化大革命を抑えることが出来なかったことは彼一人の責任ではありませんが、決定的瞬間に劉少奇打倒に手を貸した彼が全く関係ないわけないので、このくらいにしておきます。

魅力……85 当時の中国で最も人気の高い政治家の一人です。文革の際に毛沢東の独裁を助けたと非難されており、実際に数多くの党幹部を死地に追いやっているのですが、その割には出会った多くの人物は彼の人柄をとても高く評価しています。その死を悼まれ、第一次天安門事件に発展した。

[528] ハーン 2008/05/25 05:18

列伝 不倒翁
 中国の淮安(現在の江蘇省淮安)の官僚地主の家に生まれた。成績が優秀だったようで、日本、次いでフランスに留学した。
 フランスで共産党に参画。帰国後に黄埔軍官学校の政治部副主任となり、これが後に軍事部門の責任者になり、将軍たちの信頼を得る要因となる。しかし、割合あっさり蒋介石が裏切ったため、南昌蜂起によって反撃を行ったが失敗。
 農村で活動を行っていた毛沢東や朱徳と合流するも、国民党の力は圧倒的で井岡山を放棄して長征に乗り出さざるえなくなる。何とか延安まで辿り着くが、それでも不利な情勢であることに変わりはない。周恩来が西安事件で蒋介石と交渉したことでようやく共産党は壊滅の危機から救われることになる。日中戦争では重慶で蒋介石と交渉を行っていた。
 戦後、スターリンは国民党に共産党を参画させる形をとろうとしていたが、周恩来にもさすがにこの交渉を成功させることは出来ず、全面戦争に突入。蒋介石を台湾に追い出し、毛沢東を事実上の帝位につけた。
 毛沢東が大躍進の失敗で国家主席を降りると、劉少奇をトップにして復興事業を進めていくが、次第に関係が悪化。そのせいか、文革が起こると毛沢東を支持して劉少奇の打倒に協力することにした。
 だが、今度の毛沢東は圧倒的な民衆の支持を取りつけており、周恩来の力をもってしても押さえ込むことは非常に困難であった。というよりは、ほとんど不可能だった。下手に歯向かえば殺されるに決まっている(実際、文革中に行われた孔子批判は周恩来批判でもあったらしい)ので、比較的自分と親しい党幹部を助けながら、毛沢東に従うことにした。
 その後は林彪や江青と権力闘争を繰り広げながら、米国に接近。文革で破綻しまくった外交関係の調整に乗り出す。親ソの林彪がこれに危機感を抱き、林彪事件を起こすとこれの処理に奔走した。
 彼が病死すると毛沢東もほどなく病死。その後、周恩来によって温存されたかつての党幹部がトウ小平を中心に江青一派を打倒。華国鋒も引き摺り下ろし、今日の改革開放路線に移行することになる。

 知力、政治、魅力の高いカリスマ的黒幕です(笑)。戦略策定、経済政策、外交活動、宣伝工作とあらゆることが出来る人物です。しかし、統率が低いので頂点に立たないほうが無難です。軍事以外はほぼ全てが出来る人物ですが、下手に使ったら自分が操られますので、注意してください。

 万魔殿のような中共最高指導部において、最後までその地位と権力を全うしたのは彼だけです(毛沢東でさえ、大躍進の失敗で国家主席を辞任している)。
 中国共産党の殺伐とした人間関係を見ると、実は劉邦陣営も実態はこんなところだったんじゃないか、と思えてきます。

[529] 名無し 2008/05/25 22:24

これはアメリカのゲームです。1度やってみてください。
これは、たった3分でできるゲームです。試してみてください。
驚く結果をご覧いただけます。
このゲームを考えた本人は、メールを読んでからたった10分で願い事が
かなったそうです。このゲームは、おもしろく、かつ、あっと驚く結果を
貴方にもたらすでしょう。

約束してください。絶対に先を読まず、1行ずつ進む事。
たった3分ですから、ためす価値ありです。

まず、ペンと、紙をご用意下さい。
先を読むと、願い事が叶わなくなります。

�まず、1番から、11番まで、縦に数字を書いてください。
�1番と2番の横に好きな3〜7の数字をそれぞれお書き下さい。

�3番と7番の横に知っている人の名前をお書き下さい。(必ず、興味の
ある性別名前を書く事。男なら女の人、女なら男の人、ゲイなら同姓の名
前をかく)

必ず、1行ずつ進んでください。先を読むと、なにもかもなくなります。

�4,5,6番の横それぞれに、自分の知っている人の名前をお書き下さ
い。これは、家族の人でも知り合いや、友人、誰でも結構です。

まだ、先を見てはいけませんよ!!

�8、9、10、11番の横に、歌のタイトルをお書き下さい。

�最後にお願い事をして下さい。さて、ゲームの解説です。

1)このゲームの事を、2番に書いた数字の人に伝えて下さい。

2)3番に書いた人は貴方の愛する人です。

3)7番に書いた人は、好きだけれど叶わぬ恋の相手です。

4)4番に書いた人は、貴方がとても大切に思う人です。

5)5番に書いた人は、貴方の事をとても良く理解してくれる相手です。

6)6番に書いた人は、貴方に幸運をもたらしてくれる人です。

7)8番に書いた歌は、3番に書いた人を表す歌。

8)9番に書いた歌は、7番に書いた人を表す歌。

9)10番に書いた歌は、貴方の心の中を表す歌。

10)そして、11番に書いた歌は、貴方の人生を表す歌です。この書き
込みを読んでから、1時間以内に10個の掲示板にこの書き込みをコピー
して貼って下さい。そうすれば、あなたの願い事は叶うでしょう。もし、
貼らなければ、願い事を逆のことが起こるでしょう。とても奇妙ですが当
たってませんか?

[530] マフムード 2008/06/02 16:42

楊素(?〜606)
隋帝国の重臣、上柱国
活動地域:中国

【統率】81
多くの戦争や土木工事を指揮。とりわけ楊素の率いる軍は非常に厳しい規律で知られ、軍律を少しでも破った兵士・敵軍を撃破するのに失敗して退却した部隊・掠奪を行った部隊の指揮官は全員が斬首されたという。しかし恩賞が公正であったため、楊素の軍は勝利を重ねた。

【武力】80
北周時代から多くの戦いで活躍。南朝陳の討伐戦では大艦隊を率いて長江中流で戦い、ついで騎馬軍団を率いて突厥に勝利する。いずれも直接対峙したのはさほど強力な相手ではなかったものの、南と北でともに勝利をおさめたことは賞賛に値する。

【知力】68
権力の行方を見定める目は確かで、楊堅の台頭が確実になるや躊躇せず彼に与し、文帝楊堅の晩年には晋王楊広と組んで、その帝位獲得に大いに協力した。また軍事・政治にまたがるさまざまな分野で功績をあげたことから分かるように、非常に精力的で有能な人物であった。しかし残忍かつ傲慢、おまけに目立ちすぎたために文帝にも煬帝にも最終的には遠ざけられた。夫婦喧嘩で口走った失言によって左遷されたこともあり、やや慎重さを欠くきらいがある。

【政治】71
多くの宮廷陰謀に関与して才能を発揮し、太子廃嫡と晋王楊広を帝位につけることに成功。しかしあまりにも有能だったためか、文帝の時代にも煬帝の時代にも実質的な政策決定の場からは遠ざけられていた。陵墓や宮殿建設の功績は政治よりも統率の評価に反映。

【魅力】37
優雅にして冷酷な大貴族。豊かな教養を持っていたが、独裁主義的で尊大かつ残忍だったため、人々に好かれなかった。

【特技】謀略、建設、水戦、作詩、書道

略伝:楊素——英雄にして奸臣——

 隋の重臣で大貴族。前半生には多くの戦いで活躍し、後半生には政治と宮廷陰謀に才能を発揮した。
 577年の北斉征服で重要な勝利を獲得し、580年に楊堅に協力して反対派の軍を破る。隋が成立すると御史大夫に任じられ、一時失脚するものの588年には大艦隊を率いて長江三峡から出撃。水戦に長けた南朝の艦隊を次々に破り、「長江の神」と称された。
 天下統一後は騎兵を率いて突厥を破り、陵墓建設や離宮(仁寿宮)の建設を指揮。文帝晩年には晋王楊広と結んでその奪権に協力。文帝暗殺にも関与したと疑われている。
 煬帝即位後は漢王楊諒の反乱を鎮圧して東京(洛陽)の造営を指揮するが、まもなく病となった。煬帝は楊素があまりに多くの陰謀に加担していたため、彼の存在を忌んで、医師に楊素の快復を妨げるよう命令。楊素のほうも帝から下賜された薬を飲むことを拒否し、やがて死んだ。のちに洛陽で反乱する楊玄感は彼の子である。

[531] しろげわねこ 2008/06/02 22:19

ベニート・フアレス(1806 - 1872)
ベニート・パブロ・フアレス・ガルシア。メキシコ共和国大統領
活動地域:メキシコ

【統率】88

メキシコ大統領として、自由党軍として組織をまとめ目標を達成してきた点を評価。

【武力】55

アメリカの援助がないと必ず負けるが、相手は列強なので、まあ仕方ないと言えば仕方ない。

【知力】88

かなりの努力家、神学、法律学を学ぶ。法律家として優秀な人物。

【政治】91

数々の改革を成し遂げた人物であり、国父としてその名は隠れもない

【魅力】87

大統領に何回も当選する。その熱心さと知性は人を感動させるほど。ベニート・ムッソリーニの名前の元ネタ

【特技】経済改革   民主改革

国の経済を安定させる。  社会的不平等を是正する。

伝:メキシコ建国の父

メキシコで初めて原住民から選出された大統領。農夫の両親を早くに亡くし、幼いころから農場で働く。その後オアハカ市へ出て熱心に勉強して1834年に弁護士となり、裁判官、さらにオアハカ州の知事となるが、アントニオ・ロペスの政治腐敗に反抗して逮捕される。釈放後はアメリカに亡命。

1855年にメキシコに帰国したフアレスは反政府の自由党軍に参加、保守派と対立し内戦が起きると、フアレスらリベラル派はアメリカに亡命して臨時政府の樹立を宣言した。

1860年、アメリカの支援を受けフアレスはベラクルスに上陸、翌1861年1月11日にメキシコシティに入り3月の大統領選で大統領に選ばれ、4年の期間を務めた。

1861年メキシコの主要債権国であるイギリス、スペイン、フランスがメキシコ出兵を決定する。フランスはナポレオン3世の傀儡政権を設立する計画の下に1862年にメキシコに侵入した。イギリス、スペインはフアレスの債務返済に関する提案を了承し撤退したが、フランスはそのまま干渉を続け、メキシコシティを占領した。フアレスは北部で抵抗活動を続ける。

 ナポレオン3世がオーストリア王弟、ハプスブルク家のフェルディナント・ヨーゼフ・マクシミリアン大公を騙し、1864マクシミリアン1世としてメキシコ帝国の皇帝に即位させた。マクシミリアン1世と妻のシャルロッテは6月12日にメキシコシティに入り、フアレスに恩赦と首相就任を提示したが、フアレスは帝政と傀儡政権を拒絶し、アメリカの援助の下徹底抗戦した。1867年フランスはメキシコから撤退し、5月にマクシミリアン1世は善政を引き国民に愛されたが、フランスの撤兵やアメリカ人傭兵の裏切りにより逮捕され6月19日に銃殺された。

フアレスは7月15日に共和制の復活を宣言。12月に行われた選挙ではポルフィリオ・ディアスを破り大統領に再選された。

彼は進歩的な自由主義者であり、民主主義と先住インディオへの平等な権利を導入し、ローマ・カトリック教会の政治への影響力を減少させた。最期はメキシコシティのナショナル・パレスで執務中に心臓発作であった。

今でも彼は国父として尊敬を受けている。

[532] しろげわねこ 2008/06/02 23:53

マクシミリアン1世(1832 - 1867)
フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ。メキシコ皇帝
活動地域:メキシコ

【統率】69

フランスが撤兵し、孤立無援になりながらも皇帝軍を一応は維持し続けた点から見てまあこれくらいかなという評価

【武力】29

あんまり活躍しないし、評価は低め。

【知力】89

進歩的な知識人や革新的な思想家と交友を持ち、自身も結構な学識をもつ。ベニート・フアレスを首相に就任させようとする、総督時代は融和政策により領民の不満を解消し対立を避けようとする等、先見の明はかなりある。

【政治】82

非常に進歩的で理想的な統治を行い、人々から敬愛されるも、兄やナポレオン3世等、他者の思惑によって阻害され結局夢破れて終わる。だがそれでも行政にかんして非常に高い見識と理想をもった人物。彼がオーストリア皇帝になっていたらオーストリアはまだ帝国だったかもしれない。

【魅力】94

自由主義思想を持ち、沢山の人々から愛された。特に統治した領民からの人気は高く、植民地の民族主義指導者からも友好的にみられていた。
捕虜になると世界中から、それこそフアレス側を支援するアメリカからも助命嘆願が出された。マクシミリアンが銃殺されるとナポレオン3世や兄のフランツ・ヨーゼフは国民からの凄まじい非難を浴びた。

【特技】経済改革   民主改革          保守派の妨害

国の経済を安定させる。  社会的不平等を是正する。 保守派の妨害がはいると政治力-20、保守派がいないと全能力+15

伝:悲劇のメキシコ皇帝

オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟、第二メキシコ帝国の初代にして最後の皇帝。
兄と違って厳しい躾をされず、母の愛に触れて育った。
1845年オーストリア海軍の司令長官、1857年にロンバルド=ヴェネト王国の総督となる。

 当時イタリア北部を支配していたオーストリア、マクシミリアンがここの総督に任命されたのは嫁のシャルロッテの父、ベルギー王レオポルド一世の口利きだとも言われる。マクシミリアンの統治はそれまであったイタリア人への差別的な政策を撤廃し、鉄道を通して輸出ルートを確保し低迷していた経済を立て直すといった非常に進歩的な政策であり、領民の評価は素晴らしく高まったが、この融和政策を忌避した兄フランツ・ヨーゼフによって罷免される。

その後は自分の家に引きこもって絵を描いたり本を読んだり、友達と会ったりとニートな時間を過ごすが、1864年ナポレオン3世の薦めとシャルロッテの熱心な説得によってメキシコ皇帝に就任するが、このとき兄から準備金の代わりにオーストリアの帝位を永久に放棄するという誓約を強要される。

 若き夫婦はメキシコを半分桃源郷の如き理想郷であると思っており、ナポレオン3世の説明ではメキシコは鉱物に恵まれた豊かな国であり、国民もマクシミリアンの皇帝就任を歓迎している。国民投票でも4分の三以上が認めている。と言っていたが、当時メキシコは自由主義と保守派の内戦が起こっており、米墨戦争によって経済もガタガタであった。

帝位についたマクシミリアンは改革を行おうとするも保守派と対立し、支持基盤を失い、主義主張がほぼ同じであるフアレスを首相に据えて内戦終結と国家の再建を図るも、自身がフランスの傀儡だと思われて拒絶、さらに南北戦争を終えたアメリカの介入と、約定違反のフランスの早期撤退によって、ついに皇帝軍は敗れ、自身も銃殺されてしまう。

このときの助命嘆願は世界的なムーブメントとなって各国首脳、知識人、民族指導者から民衆に至るまでマクシミリアンの釈放を願ったが果たされず、約定を破って兵を引き上げたナポレオン三世や援助を惜しんだフランツは国際的な非難を浴びる事になった。これは人気取りに焦ったナポレオン三世が普仏戦争を開戦させる原因の一つにもなり、ナポレオン3世はビスマルクと大モルトケにぼこぼこにされる事になる。

マクシミリアンは最後に欧州にいるシャルロッテに手紙を書いたが、妻のシャルロッテはヨーロッパで夫への援助を求める交渉の最中発狂しており、手紙も読まれる事はなかった。彼は自分を銃殺する兵士に金を渡して顔は撃たないでくれと頼んだが、運悪く一発の銃弾が顔に命中した。長身の彼の死体は柩に収まりきらず足を切断されてオーストリアまで送られたという。

[533] やっち 2008/06/03 20:28

>>530

 「わしが皇帝になっても、お前を皇后にしてやらんぞ!」ですね。
 こんなこと言って死罪にならないなんて、逆にすごいのかも。

>>531-532

 フアレスについては納得です。
 ディアスの数値化も期待したい。

 マックスについて、個人的にすごく魅力的な人物だったと思いますし、
その末路もかわいそうですが、政治家としての力量は?です。
 反フアレス派に擁立され、仏の傀儡として落下傘のようにメキシコに降り立った彼が、
フアレスと協調したりフアレスのような自由主義的政策を行うことなんて
できようはずもない。
 そもそも米墨戦争や内乱で混迷を極めるメキシコを選んだこと自体問題で、
自由主義的な政治をやりたいなら、ビクトリア女王の勧めに従ってギリシアに
行った方がまだしもでした。
 というわけで、政治家としての現状認識能力に難があり、いずれにしろ政治的に失敗して
あっさり敗死した人物としては知力と政治が高すぎるような。
 私が評価するなら、行って50台かと。
 

[534] しろげわねこ 2008/06/03 20:56

フランツ・ヨーゼフ(1830 - 1916)
フランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。オーストリア・ハンガリー二重帝国皇帝
活動地域:オーストリア

【統率】85

皇帝権力による厳格な支配によって、多民族国家オーストリア帝国を纏め上げた。

【武力】35

よく負ける。早期に近代化できなかったからでもあるが、外交戦略の失敗も大きい。

【知力】38

硬直した思考で視野が狭く、目先の利益を追い、先の事も考えられない。でも周囲の人物の言う事は聞くだけ聞いて、政策に従う事もあり、ただ暗愚な君主というわけでもない。

【政治】62

保守的で厳格な政治を行う。が厳しい支配は支配される人々の心をつかむことはできなかった。やる事なすこと裏目に出てオーストリア帝国の滅亡に至る。時代についていけなかったともいえる。また一連の融和政策やウィーンの文化隆盛は妻エリーザベトの影響が大きかったともいわれる。

【魅力】62

頑固親父。厳格でキッチリとした性格で規則正しい生活を送った。だが頑固すぎる性格は自殺した息子からも嫌われていた。国内国外合わせてみても、皇帝で偉いので尊敬を集めた以外には、あんまり人気が高かったという事はなく、人気者は妻のエリーザベト皇后の役目だった。

【特技】 勤勉

毎日睡眠時間3時間で執務にあたる。それに見合った成果があるかというとそうでもない。

伝:最後の皇帝

オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、オーストリア帝国の最後の皇帝(実質的に)。
弟と違って厳しい躾をされ、母の愛に触れてずに育った。

1848年、伯父の退位によって18歳で帝位につくと国内や属州の独立運動を弾圧、民主主義や自由主義の動きを抑圧して新絶対主義と称する絶対主義的な政体の維持を図った。その為、自由主義者であった弟を罷免して隠居暮らしに追い込むなどした。

1859年イタリア統一戦争に敗北してロンバルディア、1866年にヴェネトを失い、さらにビスマルク率いるプロイセンとの戦い普墺戦争にも敗北して大ドイツ主義(ドイツ諸邦をオーストリア中心に統一するという思想)が頓挫する。

1867年、嫁のエリーザベトの働きでアウグスライヒを実現、オーストリア・ハンガリー二重帝国が成立し皇帝となる。

1873年、君主制を維持しリベラル化に反対する三帝同盟締結、1882年にドイツイタリアと三国同盟を結ぶ。
1914年、サラエボ事件が起きる、セルビアの外交努力も空しくオーストリアはセルビアに宣戦布告、第一次世界大戦勃発。
1916年、肺炎のためウィーンにて崩御、晩年は不死鳥とも呼ばれオーストリアの象徴的存在でもあった。

1918年、オーストリア帝国は解体され、ハプスブルク家の伝統は終わりを迎えた。

[535] しろげわねこ 2008/06/03 21:16

>>533
たしかにマクシミリアンの知力、政治は自分で書いてても高すぎるんではないかな〜とは思ってたんですがw

かなりの内政手腕を発揮し、臣下領民からは絶大な支持を得た人ですが、保身や政争に関しては全く駄目な人でした。

マクシミリアン1世

【知力】60

メキシコの事情を掴めなかった、もしくはつかもうとしなかった点で-29

【政治】62

反対勢力優位のところにしか活躍の場が得られなかった点で-20

フアレスが話に乗ってくれたら保守層の権益を無くして新しい支持基盤を得る事も出来たんでしょうけどね、あとは皇帝自ら共和派に亡命するとかw
まあ傀儡だと思われてたから無理かねえ

[536] しろげわねこ 2008/06/03 22:36

ポルフィリオ・ディアス(1830〜1915年)
ホセ・デ・ラ・クルース・ポルフィリオ・ディアス・モリ。メキシコの独裁者。

活動地域:メキシコ

【統率】85

指揮官としても政治家としても一流といえる。

【武力】85

米墨戦争に従軍、ただし実戦には不参加。レフォルマ戦争では英雄的活躍をし、装備で勝るフランス軍に何度も勝利するなど優秀な指揮官であった。戦後大統領選に2回敗北すると武装蜂起を行う、一度は失敗するも2回目ついに成功させた。

【知力】80

政敵を暴力的な手段をあまり用いずに降したり、政敵を降すために行った運動を邪魔になったら一蹴するなど、非常に柔軟な思考と一種の無慈悲さを持った政治家であり、近代化を促進するなど国家としての生き残りのこともちゃんと考えていた。弊害も大きかったが。米墨戦争に従軍するまでは法律学校で学んでいた。

【政治】70

メキシコは彼の治世によって発展したものの恩恵にあずかれたのは一握りだけ、よってこれはあまり高く評価しない。ただし、近代化を行った事自体は評価できるので70。さらに政敵を貶め、また人を利用し、独裁者として政治力を保つすべには長けていたので特技で+20して「90」

【魅力】32

大統領に落選しすぎ、不正しすぎ、最後はメキシコ革命おこされて追放されてそのまま死去。英雄にしてはあっけな過ぎる。

【特技】 謀略 不正

謀略:政争時には政治+30
不正:在職中は選挙で必ず当選する

伝:もう一人のメキシコの父

メキシコの独裁者ディアスはメキシコのオアハカで生まれた。彼はミステク・インディオとスペイン人の混血のメスティーソだった。

法律学校で学んでいる間米墨戦争が始まり、彼は軍に入隊したが実戦には参加しなかった。

1854年のアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ大統領に対する反乱に加わったディアスは1855年、ナヤリット州イストランの町長に就任、メキシコ出兵では陸軍士官として数々の戦いで勝利した。フランスにメキシコシティが占領された後も南部で抵抗を続けた。戦後1867年の大統領選挙に立候補するもベニート・フアレスに敗北。1871年にも出馬して敗北さらに武装蜂起して反乱をおこすが失敗して捕まる。恩赦で釈放されて1876年の大統領選挙に懲りずに出馬するもテハダ大統領に敗北、また武装蜂起する。今度は成功して1876年11月29日に大統領になる。

大統領就任後は一期を務めた後腹心のマヌエル・ゴンサレスを大統領とし自らは最高裁長官に就任した。ゴンザレスの任期は腐敗と汚職が横行し、彼の任期が終わるとディアスは再び大統領に就任する。

彼は三度目の大統領選で「大統領の再選禁止」をスローガンに掲げ運動を行っており、今回の就任は以前掲げた「大統領の再選禁止」を反故にしていたがその再任は歓迎された。また新聞に、当時のスローガン「投票は有効、再選は無し」を「有効な投票は無し、再選」にもじられた。

1887年には憲法を改正し、無期限の大統領再選を可能とした。彼は投票を操作し権力を維持した。また、政敵への暴力や暗殺も行ったが少数であった。

ディアスはメキシコを近代国家にするための計画に取り組み、産業に蒸気機関と新技術を導入し、国外からの投資を歓迎した。またメキシコシティへの工場の建設を促した。だが外資導入により、主要産業は全て外国資本になり、経済発展の恩恵に浴したのは一部の特権階級だけであった。

1910年の大統領選にはフランシスコ・マデロが反ディアス勢力を結集し立候補するが、選挙の直前にマデロは反乱煽動の罪で逮捕、収監される。6月の選挙では獄中のマデロに対する投票はわずか196票であった。

10月にマデロが恩赦で釈放されアメリカに亡命し、選挙結果は不正があったとして武装蜂起を呼びかけると各地で蜂起が起こり、メキシコ革命となった。翌年の5月25日にディアスは大統領を辞任、フランスに亡命した。

ディアスは1915年にパリで死去した。彼はモンパルナス墓地に埋葬されている。

なかなか、評価の難しい人物ですが、優秀な人物には変わりありません。
ちなみに彼の時代に日墨修好通商条約が結ばれ、日本から大量の移民がメキシコへ渡りました。

[537] しろげわねこ 2008/06/03 22:45

ちょっと高すぎたかも…
(修正)
ポルフィリオ・ディアス

【武力】68

メキシコにフランスの全軍がいってたわけではないし、ちょっと低めに

【政治】60

ボーナスを付けたら100になっちゃったのでさすがにやりすぎかと

[538] しろげわねこ 2008/06/03 23:39

シャルロッテ(1840 - 1927)
マリー=シャルロット・アメリー・オギュスティーヌ・ヴィクトワール・クレマンティーヌ・レオポルディーヌ。メキシコ帝国皇后
活動地域:メキシコ

【統率】15

むしろ乱すくらいの勢いです。

【武力】10

殴り合いとか実際の戦争には殆ど関係しなかった人です。

【知力】22

プライドの高い野心家であるために視野が狭く、目先の利益を追ってしまって痛い目を見る。

【政治】25

プライドの高さから政治的野心は非常に高いが、高いからと言ってどうなるものでもない。根本的に堅実さが足りない。

【魅力】62

マクシミリアンの妻であり、なかなかの評判を得た。後世には悲劇の女性として伝えられる。

【特技】 叱咤

欲のないマクシミリアン1世を政治的舞台に駆り出す。

伝:悲劇を招く野心
ベルギー国王レオポルド1世と王妃ルイーズ=マリーの第1王女にしてメキシコ皇帝マクシミリアンの妻、メキシコ皇后。

シャルロットはプライドが高く野心家であり、夫マクシミリアンの兄、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后であるエリーザベトとは何故だか仲が悪く、夫たちの母ゾフィー大公妃と共に皇后の振る舞いを非難した。

基本的に権力欲のないマクシミリアンに対して、ベルギーの父にポストの斡旋を頼んでみたり、皇帝就任の話に乗ったりとマクシミリアンの功名が辻に貢献するも、それがもとで彼らは悲劇的な最期を遂げる。

シャルロッテの工作によりロンバルディア=ヴェネト総督になったマクシミリアンが自由主義的融和政策をとると、自由主義を嫌うフランツはマクシミリアンを罷免した。この事件は二人の間に溝を作った。さらにシャルロッテがマクシミリアンのメキシコ皇帝即位を主張するとそれまでシャルロッテをかわいがっていたゾフィー大公妃もシャルロッテへの寵愛を失うなど、シャルロットの野心は皇帝一家の仲を引き裂いてしまったと言えるだろう。

メキシコで窮地に陥ったマクシミリアンを救うため欧州へ向かったシャルロッテだったが、ナポレオン三世(職業:皇帝兼詐欺師)は協力を拒否、最後の頼みの綱の教皇に謁見する。彼女は共和派をカトリック社会の敵という事にして欧州連合軍による十字軍遠征を期待したと言われている。しかしマクシミリアンもカトリック教会の利権を制限しようとしていたたため援助を断られる。失意のままメキシコに戻ろうとするも、マクシミリアンの計らいにより、欧州に留め置かれる。これらの失敗と失望の中で彼女の精神は限界を迎え、最後には発狂してしまう。

その後、シャルロッテは故郷ベルギーの城に幽閉され夫の死を知らないまま死去した。

発狂した時のはなし(フランスでナポレオンサードと謁見したとき、顔色の悪かったシャルロッテは三世の嫁にジュースを勧められるが、これを自分を毒殺しようとしていると思い込み、反狂乱で逃げ出すと、広場の噴水に顔をつけて水を飲んだ。「さすがにこんな噴水に毒入れないでしょう、これが一番安全だわw」といったらしい。)

[539] しろげわねこ 2008/06/04 00:40

アグスティン・デ・イトゥルビデ(1783 - 1824)
アグスティン・コスメ・ダミアン・イ・アランブル。メキシコ帝国皇帝
活動地域:メキシコ

【統率】60

軍人としては優秀だが、軍隊と同じ方法で政治を行おうとして失敗する。

【武力】73

もともとスペイン軍にいた士官で中尉まで昇進した。指揮下の部隊を率いて反乱軍に参加、戦いの末スペイン王党派をメキシコから追い出すことに成功した。

【知力】15

彼はもうちょっと考えて行動するべき。

【政治】9

政治にかんしては保身とか全く考えてない上に経済とかそういうのも全く分かってない、内政や政策による人心掌握もド下手。よって栄誉ある逆に凄いの�評価、在位一年は伊達じゃない。

【魅力】72

皇帝に推挙されるほどの人望があった。また皇帝に持ちあげられて、兵士たちの賛同があっても、議会の承認を待つ、反対勢力が現れると流血を避け退位、出国に同意する等、とってもいい人である。

【特技】 追放 再評価
追放:戴冠から一年で廃位させられ国外に亡命させられる代わりに年金をもらう。

再評価:死後英雄にされ魅力+10

伝:サボテンの王冠
植民地ヌエバ・エスパーニャ(北米南西部から中米にかけての地域)のバリャドリードにおいて、彼の誕生直前にメキシコに移住したスペイン人の両親のもとに生まれた。

イトゥルビデは1798年からスペイン軍に在籍し、中尉まで昇進した。1810年にメキシコ独立戦争が勃発した際、独立軍を鎮圧する側であるスペイン軍の一員として闘ったが第にメキシコ独立軍に同情を寄せるようになり、反乱軍の指導者ビセンテ・ゲレロと接近した。

1820年にイトゥルビデは、指揮下のスペイン軍を率いて反乱軍に合流した。この軍は「3つの保証軍」として知られる。

イトゥルビデとビセンテ・ゲレロはメキシコを君主国として独立させる保守的な独立計画であるイグアラ綱領を公布し、統合された独立メキシコ樹立を呼びかけた。 彼らは他の反乱軍の糾合に成功し、メキシコからスペイン王党派を追い出し、イトゥルビデは新政権の首脳となった。

この時、歴史的な過ちとして、メキシコを出てゆくスペイン人達との間に、保有している土地を基軸通貨と交換してよいという協定に署名してしまった。スペイン人らは国中の良質の土地の権利を保有していため、メキシコはすべての通貨をすぐに支払いに使いつくしてしまい、メキシコは国際社会に出現した時点で既に破産状態であった。

メキシコではコンサバドーレと呼ばれる、ヨーロッパの王族による君主制国家を求める人々が主流となっていた。しかしヨーロッパのどの国王もメキシコに王族を遣さなかったため、ナポレオン1世の例にならい、イトゥルビデ自らが皇帝を名乗るように説得されたのであった。

イトゥルビデは不承不承これを受諾した。王権神授説を心から信じており、王室の血統を持たない者はふさわしくないと考えていたためであった。

1822年7月21日、メキシコ立憲皇帝「アグスティン1世」として戴冠した。

イトゥルビデは、軍隊を率いていたときと同じように国を治めようとし、従わない者を投獄した。彼のやり方に反対する勢力が伸張するのは早く、1823年にはアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナらを筆頭とする各州の知事や軍隊の司令官がカサ・マタ綱領を作成し、帝政を倒してメキシコ共和国を樹立することを目的として活動を行った。するとイトゥルビデは流血を起こすことなく退位し、国外へ亡命した。

しかし何故か再びメキシコへの帰国を決意し、1824年、上陸した先のパディーリャの町の当局者に逮捕され、その場で直ちに射殺された。

1838年にアナスタシオ・ブスタマンテの保守党政府は、イトゥルビデの遺体をメキシコシティーの大聖堂へ移し、「国家の解放者」として再評価し、改めて葬儀を行った。

1865年、イトゥルビデの孫に当たるアグスティンはマクシミリアンの養子となっており、子孫はまだ残っているらしい。

[540] しろげわねこ 2008/06/04 01:27

すいません修正の修正で
>>537
ポルフィリオ・ディアス

>【政治】60

>ボーナスを付けたら100になっちゃったのでさすがにやりすぎかと

上の文章ではボーナスで+20と書いてあるのに特技欄を見たら+30だったので混乱したようです。特技欄の方が間違いなので

【政治】70

【特技】 謀略
政争の時、政治+20

[541] ガーリックトースト73% 2008/06/05 10:21

どんだけメキシコ好きなんすか?w

[542] count.y 2008/06/11 23:11

すいませんアニメですが、コードギアスの主人公のルルーシュの能力はコーエー数値化するとどれくらいですかね。

[543] 片田舎の偏屈士 2008/06/12 19:43

ルルーシュ・ランペルージ

【統率】65
一介のテロ集団でしかなかった扇グループを掌握し、日本独立の核となる組織、黒の騎士団を作り上げた。
【武力】79
ギアスを利用した戦略を得意とするが、それを使わずとも戦略的に高い指揮能力を発揮していることから、作中における最も優れた指揮官の一人といえる。
【知力】90
手に入れた力を最大限に利用し、大国であるブリタニアに反旗を翻すことを可能だと判断。数々の奇策・弄弁を用い、奇跡のような成果を挙げる。
【政治】80
ギアスの補助もあるが、戦略における数々の成功は彼の謀略の才がなせる業である。道徳的手段も妹のことを除けば、選ぶことをほとんど躊躇しない実行力がある。
【魅力】73
作中で真の意味で彼のことを嫌う者はいないものの、ゼロとしての彼の魅力は象徴としての虚像であり、本質の部分での魅力は未知数であるが、この程度の魅力は持っているものと考えられる。また、ゼロとしては、その正体の不明さから身内に100%の信用は得られていない描写もある。

【特技】
ギアス:発動することで統率+5。政治+20
シスコン:妹ナナリーが絡むことで知力-30
ゼロ:ゼロとして表舞台に出る場合、統率+20。魅力+20。ブリタニア人には魅力-50

[544] 片田舎の偏屈士 2008/06/12 19:48

—黒の魔人—

表向きはエリア11のアッシュフォード学園に通う生徒、ルルーシュ・ランペルージだが、死んだはずの神聖ブリタニア帝国第11皇子ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアである。

そして、更にその裏の顔は、母の仇討と溺愛する妹が平和に暮らせる世界を創り上げるために、兄の鏡、略してアニガミとして神聖ブリタニア帝国に反旗を翻したダークヒーロ、黒衣の魔人ゼロである。

魔女C.C.から与えられた絶対命令厳守の能力ギアスを使い、ブリタニアの圧制から力無き者達の代弁者として振舞い、力による日本独立目指すが、揺籃の友である枢木スザクの手で、何度もその好機を失う。

ギアスの暴走によって起こされたユーフェミア皇女による日本人虐殺をによって高まる反ブリタニア気運を利用し、後にブラック・リベリオンと呼ばれるブリタニアへの大攻勢を仕掛けるが、ナナリー失踪によって引き起こされたシスコンっぷりを如何なく発揮したルルーシュの戦線放棄により、失敗に終わる。

事後、スザクの手によって捕らえられたルルーシュは、父であるブリタニア皇帝のギアスにより記憶を書き換えられ、第2期シリーズ開始時はゼロとしての記憶を失っていたが、1話にしてあっさりとそれを取り戻し、八神月のような悪人思考で世界の変革を目指す。

[545] 片田舎の偏屈士 2008/06/12 19:51

枢木スザク
【統率】40
作中において、彼が組織を作り上げる場面は皆無であり、その立ち位置からして、組織運営を任された場合、破綻になる可能性が極めて高いと思える。
【武力】86
ランスロットの性能が大きく影響しているものと思われるが、ナイトメアの操縦技術は作中でも上位に位置する。
【知力】67
その結果が良いことになるのか、悪いことになるのか、いまだ不明だが、自らの理想を実現させるため、愚直なまでに理想につながる信念貫き決断をする。
【政治】50
政治の面は未知数であるが、少なくとも、彼の理想とする国を創り上げる方向には進めている。
【魅力】35
対人的な魅力はそこそこにはあるのだが、ほとんどのブリタニア人には嫌われている上、ほぼ全ての日本人には嫌悪・怨嗟の念を抱かれている。ただ、彼を最も嫌っている人種は、アニメの視聴者であろう。

【特技】
ランスロット:ランスロット機乗時、武力+10

[546] 片田舎の偏屈士 2008/06/12 19:58

—ブリタニアの狗—

ブリタニア侵攻時、日本の内閣総理大臣であった枢木ゲンブの息子。
戦争を終わらせようと徹底抗戦を主張する父を殺害するが、そのことがトラウマとなり、後の彼の行動原理の一つとなる。

ブリタニア占領後は、内部からブリタニアを変えるという信念の元、名誉ブリタニア人としてロイドが開発した試作機ランスロットに乗り、その尖兵として活動する。
身内からはナンバーズとして軽んじされ、同胞からはブリタニアの狗と蔑まれながらも、ゼロとの戦いによる戦果。更には皇女ユーフェミアの騎士と指名されたことで次第にその立場を高めていく。
ユーフェミア皇女による日本人虐殺の際、それがゼロのギアスによって引き起こされたことを知らされた彼は、ブラックリベリオン時にゼロと対峙。その正体がルルーシュであることを知ってなお、自らの信念を貫いた。

第2期シリーズでは、友であるルルーシュを皇帝に売った恩賞によりナイトオブラウンズの地位を手に入れており、それによって更なる日本人の憎悪を受けながらも、恭順派の象徴として、自らの理想のためにブリタニアの狗として戦いを続ける。

[547] 片田舎の偏屈士 2008/06/12 20:02

ルル−シュの説明がちとおかしい気もしますがw こんな感じです。

ルルーシュは完全にダークヒーローとして確固たる地位を確立しましたが、強度のシスコンの才能を発揮してくれますので、極めて起伏の激しい作戦で敵味方問わず損害を出させます。

スザクの統率のところでも指摘しましたが、このままスザクが日本を統治する権利が与えられたとしても、統治下の住民から嫌悪されている人間が統治する政権が長続きしたためしはありません。武断を嫌うであろう、その手法で早晩、ブリタニア統治以上の混乱が起きる可能性が高いでしょう。

しかし、100万の奇跡は本当にジェバンニが一晩で(略
スザクは簡単に100万人を手放しましたが、ほぼ下層とはいえ、首都圏から労働・消費人口が一気に消えるのは異常な状態に陥りること確実です。ただでさえ、ブラックリベリオンで疲弊しているところなんですから・・・ってアニメにマジレスしても仕方がないか。

[548] 片田舎の偏屈士 2008/06/12 20:09

>しろげわねこさん
メキシコ詳しいっスね。
南北アメリカは管轄外なんで、大変勉強になります。
マクシミリアンは知ってたけど・・・泣

こちらは次の評価はロシア方面にいきますかな。そこそこに資料が集まったので。

[549] ハーン 2008/06/12 22:59

>しろげわねこさん
 そこまで好きかメキシコ。私も殆ど知らない地域なので、勉強になりました。
 地域繋がりで、アステカ帝国の君主をやってもらいたかったり。

>>547
 現在連載中、放送中の作品の人物は今後の展開次第で能力が変動しまくりそうだから、この数値もかなり変わりそうですが、現時点においては大体同意見です。
 ただ、ルルーシュは現時点では80半ばで、中華連邦の乗っ取りに成功したら90、マジでブリタニアを倒したら90後半をやりたいと考えています(勿論、作中の描写に左右されますが)。

 偶然ですが、私もそこそこ名の知れた架空の人物を評価します。

[550] ハーン 2008/06/12 23:00

 初代メガトロン

 (登場作品:TFシリーズ)

 980万年〜???(日本版はコンボイほどではありませんが、死んでも生き返ります)

統率……97 デストロンはサイバトロンとの戦争が始まった当初はまとも指揮系統がなく、各地のデストロンがバラバラに戦っているのが現状でした。それを初めて纏め上げたのがメガトロンで、彼の台頭でデストロンはようやく纏まった一つの勢力となる。その支配力は凄まじく、彼が地球にエネルギーを探しに行ったサイバトロンを追いかけ、その結果400万年もセイバートロン星を留守にするという非常事態に陥っても、セイバートロン星のデストロンは裏切らなかったが、身近にいたスタースクリームだけは年柄年中裏切っていた。また、事実上彼だけがデストロン軍団全体を束ねることが出来た。メガザラックやデビルZが最高司令官であった時期はごく短いもので、デスザラスは全デストロン軍団を束ねていたかさえ怪しいものです。ビーストウォーズのメガトロンやガルバトロン、マグマトロンは明らかに一部隊の指揮官でしかありません。ギガトロンはビーストウォーズ時代のリーダーと似たようなものですし、トライプレダカス評議会もデストロンのなかの一勢力に過ぎないようです。G2時代にメガトロンが戻ってくると、再びメガトロンが全権を握ることになります。つまるところ、デストロンを完全に支配することが出来るのはメガトロンしかいないのです。

ユニクロンにガルバトロンへ改造されると、最初の頃こそまともだったが頭部に損傷を受けて正気を失う。表立って裏切る者こそオクトーンくらいしかいないが、メガトロン時代よりも部下が変なことをするようになる。部下に精神病院送りにされた悪の首領はこいつくらいのものでしょう。

武力……75 サイバトロンと勝ったり負けたりの繰り返し。地球に着てからは明らかに負けることのほうが多くなった。個人的武勇はそこそこ高いが、ライバルのコンボイ(78)、カセットロンのコンドル(80)には劣る。勿論、合体戦士(85〜90)には間違っても勝てません。ユニクロンなんて無理ゲーです(100)。

ガルバトロン時代になっても唯一大して代わらない項目。個人的武勇は高くなった。

知力……87 作戦立案実行、新兵器開発、外交交渉とほぼ一人であらゆることが出来る。作戦面ではライバルのコンボイを概してリードしていたが、詰めの甘さから失敗を続ける。劇場版以外でのTFの異常な頑丈さが原因だと思われるが、セイバートロン星のエネルギーを枯渇させるまで戦ってもなお勝利を収められなかったのはどうかと思う。スタースクリームの意見を正しいものであったとしても、聞き入れない姿勢は褒められたものではない。詰めの甘いところが目立つが、ビーストウォーズ時代のメガトロンを抜かせば、デストロン屈指の知力の持ち主でしょう。

ガルバトロン時代になると無茶苦茶な暴走で、あまり策を練らなくなってしまう。そのせいでクインテッサ星人にいいように使われることになる。

政治……78 各地で勝手に動き回っていたデストロンをありとあらゆる手段で味方に引き込むことに成功した。メガトロンの支配がどのようなものか、材料はあまり多くないが、数百万年も戦争やっていられたのだから、それなりに得意であったのではないかと推測できる。

ガルバトロンになって珍しく上昇する項目である。エネルギー不足で喘いでいたデストロンを使ってジャール星を要塞化し、セイバートロン星、アセニア星、地球を抑えるサイバトロンに対抗できるだけの勢力を作り上げてしまう(サイクロナスが頑張ったのかもしれないが)。

魅力……62 サウンドウェーブら忠誠を誓う部下がいる一方、その地位を狙うスタースクリームのような部下もいる。稀に物凄い裏切りをされることもあり、人望があるのかないのか分かり難い。いざという時は見捨てられることもあり、魅力がずば抜けて高く、ただの一度も裏切られていないコンボイと比べるのはフェアではないかもしれないが。

ガルバトロン時代になるとショックで頭がおかしくなったせいで、あからさまに人望がなくなった。部下をすぐに殺そうとするわ、意味もなく破壊活動をするわの完全な暴君となってしまう。忠誠を誓っていたサイクロナスでさえ、持て余していた。

ガルバトロン化:統率−25 知力−50 政治+15 魅力−50 個人的武勇+5

[551] ハーン 2008/06/12 23:01


列伝 デストロン破壊大帝

 980万年前のセイバートロン星で何者かによって作られた(素質をあった者を改造していた可能性もある)。この当時、各地でバラバラに活動していたデストロンは当初こそ戦争を優勢に進めていたが、トランスフォーム能力を身につけたサイバトロンに苦戦を強いられていた。メガトロンはそんなデストロンを高度に組織化し、デストロン軍団を結成し、サイバトロンに対して優位に立つようになる。
 目的は圧倒的な力による圧制で平和を実現することあるらしいが、作中でそのことが語られることはない。
 軍事用なのになんでバラバラに戦うのかと大いなる疑問だが、恐らく指揮はクインテッサ星人自身が執ることになっていて、同僚の言うことを聞くように出来ていなかったのだと思われる。
 対するサイバトロンにも初代コンボイという強力なリーダーが出現。こうして両者の数百万年に及ぶ長い因縁が始まる。
 ユニクロン戦争でガルバトロンに改造され、それによって狂気に支配されたが、ユニクロン戦争の敗北で壊滅しかかっていたデストロンを再興し、ロディマスコンボイを相手に死闘を繰り広げた。

 この後の経過は日本版とアメリカ版で異なり、煩雑なためG2まで省く。

 ガルバトロンに変化したはずなのに、G2時代ではどういうわけかメガトロンに戻っていた。一体何時、ガルバトロンからメガトロンに戻ったのかよく分からないのだが、ビーストウォーズ時代は行方不明になっていたそうで、その時に戻ったのかもしれない。戦いの最中に悪の心を失ったとかで、サイバトロンと講和して一時的に宇宙に平和が戻る。
 その後、地球人に送った和平の使者が殺害されたことから、サイバトロンとの戦争が勃発。戦いが何時終わるのかは神のみぞ知る。きっと人類が死滅しても、この連中は戦い続けるんだろう。

 統率が高い独裁者タイプです。高い指導力で超長期に渡る支配が可能です。寿命も長いため、永遠に行うことも出来るかもしれません。
 しかし、武力と知力がそこまで高くないので、敵勢力の殲滅が出来ません。さらに魅力が低いため、魅力の高いライバルに宣伝戦で遅れを取り続けることになるでしょう。

 彼はデストロンがデストロンであるために絶対に不可欠な存在です。TFという言葉がある限り、彼は消え去らないでしょう。
 彼に限らずフィクションの悪の首領は物語を盛り上げるため、或いはスポンサーの都合で詰めがどうしても甘くなってしまう傾向があるようです。

適当に作った各項目のTOP候補

統率 初代コンボイ 初代メガトロン

武力 ユニクロン

知力 千葉トロン 幽霊スタースクリーム

政治 アルファートリン ベクターシグマ

魅力 初代コンボイ

[552] count.y 2008/06/13 14:05

片田舎の偏屈士さん、ありがとうございます。
意外とルルーシュの能力が高くて驚きです。しかも、スザクまで書いてくれてうれしいです。

[553] やっち 2008/06/14 09:39

 私も架空人物の評価を。
 先週の金曜日,TVで映画版をやってまして,懐かしくなって実家に帰り
10ウン年ぶりにマンガ版を読み返しました。
 私,変な理屈の多い主人公よりもこの人物が好きでして。

トルメキアの王女 クシャナ

統率 92
 第3軍を一糸乱れず統率している。同軍は6000名と規模が小さく思えるが,
あの時代の人間社会の規模からすると相当大きい(風の谷の人口が500しかない。)。

武力 90
 作品中で見せた大規模な戦闘指揮はサパタ城からの出撃戦のみだが,見事な浸透戦術で
敵軍の司令官が更迭される程の大戦果をおさめている。

知力 88
 直率する部隊が全滅しても帰国せず敵地を南下して第3軍主力と合流するとの戦略は正しい。
第3軍の指揮権奪還,その後の帰国戦略も見事。ナムリスに一時的に服従し直ぐに反逆するなど,機を見るにも敏。

政治 95
 作品中では具体的描写はないが,トルメキア中興の祖と称えられる治世だったとのことで,
実は政治家として最も優れているのかもしれない。

魅力 98
 トルメキア全軍で最も兵に指示される指揮官。
 その部下たちはことごとく彼女のために命を投げ出している。

[554] やっち 2008/06/14 09:48

−トルメキアの白い魔女−もう一人の主人公

 トルメキアのヴ王の娘。母は正当な王家の唯一の末裔。そのため,成り上がりのヴ王やその血しか引かぬ
異母兄たちに目の敵にされる。
 第3軍の指揮官として同軍を子飼いの精鋭に育てたが,土鬼侵攻作戦に際しその指揮権を奪われ,
辺境諸軍を率いて腐海を南下するよう命じられる。
 途中,酸の海で土鬼の罠(幼虫を囮に王虫の大群に襲わせる,例のヤツ。)にかかり
手兵を失うが,かまわず南下。
サパタ城にて第3軍と合流し指揮権を奪還。
 土鬼に包囲され陥落寸前のサパタ城にあって逆襲をかけ土鬼の攻勢を頓挫させ,その間隙を縫って帰国を図るが,
間悪く大海嘯に遭遇し失敗。
 雌伏し,土鬼の皇帝ナムリスに捕らえられた後,トルメキアの王位継承権を種に同人と政略結婚しようとするも,
隙を見て反逆しナムリスを討ち取る。
 その後,土鬼人と和解し,主人公にしばしつきあった後,父王の死に目に会い,王位を譲られ帰国する。
 帰国後は代王として善政を行い,トルメキア中興の祖と称えられる。

 自然も含めた地球全体からすると主人公が救世主かも知れませんが,少なくとも
人類社会にとっては彼女の方が必要な人材です。
 こんな上司・上官に仕えてみたい。
 ただし,絶対に嫁にはしたくない。

[555] やっち 2008/06/14 09:49

 以上はマンガ版に基づく評価です。
 映画版では矮小な侵略者にされてしまってます。

[556] 「ど」の字 2008/06/14 16:37

 しばらく間が空きました。お久しぶりです。「ど」の字です。
 今回は、「王の帰還」まで国を保った一人の執政の略歴を書いていきます。

 デネソール二世

【統率】85
 乱世の指導者として、全く文句無し。冥王サウロンとアングマールの魔王という最凶コンビに対抗して奮闘、最後まで国内の統率を乱すことがなかった。内通者の一人も出さなかったのは凄い。
【武力】80
 ソロンギル(後のエレッサール王の偽名)の薫陶を受け、立派な将に成長した。長らく取り返せなかったアンデュイン川流域の支配権を取り返したのは、彼が若い頃の功績である。その後も国際的に孤立した絶望的な劣勢の中で、指輪戦争勃発に至るまで良くモルドール軍を押し返し続けた。個人的武勇にも自信があったらしく、敵が迫れば自ら剣を持つとペレグリン・トゥックにも口にしている。
【知力】82
 己の限界を良く弁え、最善手を打ち続けた。パランティア(見る石)の使用とそれによる消耗から狂気に至る過程は、神のプレッシャーについに屈した結果として特に減点要素から省きたい。
【政治】54
 内政は欠けたところ無く優秀だったようだが、常識の範囲を出ていない。外交については国際的孤立状況に陥り、また積極的にその状況を打破しようとしていないので零点に近い。
【魅力】60
 どうも、人に積極的に自分を良く見せる努力をしない人格だったようである。

【特殊能力】

【略歴】
 執政とは、西方王朝二国のうち南方ゴンドール国の王権代行者である。
 ミナルディル王の執政を務めたフーリンが最初の執政であり、代々のゴンドールの王はフーリンの子孫から執政を選んだ。ペレンドゥアの時代以来は、執政本人から息子または最も近い近親者に伝えられる世襲職となった。
 ゴンドール最後の王であるエアルヌアが行方不明(アングマールの魔王に挑戦して死んだ)になり王位継承者もいなくなると、当時の執政マルディルは「王還ります時まで」ゴンドールを統治するようになる。以後マルディルの子孫が王の代わりにゴンドールを統治したが、代々の執政は一人として古の玉座に座ることはなかった。彼らは王冠も戴かず、王錫も持たなかった。
 彼らの忠誠は、指輪物語の追補編に出てくる会話のエピソードに象徴される。

幼少時のボロミア「もし王様が帰ってこなかったら、執政が王様になるのに何百年あったらいいの?」
執政デネソール「王権のもっと小さな他所の国では二、三年かも知れぬ。ゴンドールでは千年でも充分とは言えぬ。」

(続く)

[557] 「ど」の字 2008/06/14 16:37

(続き)

 王不在のゴンドールを守るようになった執政マルディルから数えて26代目の執政がデネソール二世である。ボロミア二世(フロドを護衛する指輪隊の一員)とファラミア二世(白の大将)の父にして、25代目の執政エクセリオン二世の息子である。
 彼の生まれた時代は、モルドール国の脅威が現実のものとして迫ってきていた時代で、エクセリオン二世は世界中から広く将才を集め国防力を強化していた。その中でも出色の武将がソロンギル(後のエレッサール王の偽名)。
 デネソールは若年の頃に彼の薫陶を受けることで、優れた将へと成長を遂げる。ソロンギルはモルドール国の有力策源地であるウンバール港を破壊したことで名を残したが、ソロンギルが去った後のデネソールも長らく奪われたままだった首都オスギリアス奪還戦で勝るとも劣らぬ功績を挙げている。
 父の死後は執政職を受け継ぎ、王が不在のゴンドール王国を統治した。
 老練で賢明、自尊心が高く寡黙な性格。妻は早くに死に、それ以後より一層気難しくなったという。二人の息子のうち、自分にそっくりなファラミアより似ていないボロミアをより愛していたと伝えられる。
 その自尊心ゆえ、ゴンドールに現れるだろう王位継承者である野伏の族長アラゴルン二世と、その援護者である魔法使いガンダルフを警戒していた。
 彼は時折その聡明さと先見の明で人々を驚かせていたが、実はその知識の一部は、パランティアを使って獲得したものであった。だが、7つのパランティアのうち一つはミナス・イシル陥落の際にサウロンに奪取されており、それ以後パランティアはサウロンに通じる危険物として封印されていた。しかし迫り来るモルドール国の脅威に際して、デネソール二世はあえてその封印を破ることを決意したのである。パランティアは正当な所有者に良く従う性格をしていたため即座にデネソールを破滅させることは無かったが、サウロンの意思と戦ってパランティアを使用し続けることにより彼は次第に老け込み神経を衰弱させていく。
 そこにボロミアの死と、ミナス・ティリスへのモルドール軍の大攻勢、ファラミアの危篤が重なったためデネソールは絶望。ミナス・ティリス包囲戦の末期、正門が破られ市街戦になるに及んでついには自ら炎の中に身を投げて自殺した。なおその時、デネソールはファラミアと無理心中しようとしたのだが、その心中は近衛兵ペレゴンドによって阻止され、ファラミアはホビットのペレグリン・トゥックが呼んだガンダルフに救出された。

【コメント】
 国のために神と意思を競い続けて、どれほど心細かったことでしょう。国際的孤立の中、その孤独は察するに余りあります。
 アラゴルンはデネソールと会うのを避けていましたが、会ってやればよかったのになあと心から思います。きっと涙を流して喜んだと思うのですが。モルドール国の圧力に苦しむ彼が、かつて自分を教導したソロンギルの帰還を拒むとは思えないのです。喜んで大政奉還したことでしょう。
 映画でのデネソール二世の描かれ方は悪過ぎます。映画監督は彼に悪意があるとしか思えません。
【総評】
 戦乱の時代の大国を率いるのに不足無い指導者です。気難しく人付き合いの苦手という彼の性格から来ているのか唯一外交能力の欠如が問題なので、その点は優秀な幕僚の助けが要るでしょう。

[558] 「ど」の字 2008/06/14 16:50

>>553-554
 トルメキアの魔女ですね。懐かしい……。

 最初の描写では凄みは見えなかったのですが、第三巻(サパタ城を巡る戦い)以降、どんどん大きな人物になっていきましたね。
 土鬼の王家の生き残りとの和解を見ても、尖っている様に見えてバランスが取れているなと当時は感じていました。
 彼女なら戦後のトルメキアを恙無く統治できたことでしょう。

 しかし、政治95と魅力98は高すぎでは?
 新しいメソッドを組み上げたわけでもなく世界史に冠絶するほどでもないので、ともに90あたりが妥当かと思います。
 逆に「城壁を破壊して出撃口にする」という信じ難い新戦術を駆使して成果を挙げているので、武力を95にすべきかと考えます。

[559] 「ど」の字 2008/06/14 17:41

 今日のおまけ。
 一刀で指輪物語世界の歴史を動かした、バックの里の威丈夫の略歴です。

 メリアドク・ブランディバック

【統率】65
 小集団を率いたことがあるだけだが、その中で統率を乱したという文は無い。
【武力】69
 通り一遍の指揮能力はあった。指輪戦争最後の戦いである水辺村の戦いを勝利に導く。野盗相手ならば十分。
【知力】55
 特に記述は無いが、上流の教育を受けているのでこの数字とした。
【政治】60
 ホビット庄の面倒を見る分ならこの数値で大丈夫。
【魅力】68
 指輪物語の完結後は、ブランディバック一族の長としてホビット庄の指導的役割を務めた。

【略歴】
 指輪の仲間の一人のホビット。愛称メリー。
 史上有名なフロド・バギンズより1世代下で、14歳の年少。ペレグリン・トゥックとは母方の従兄弟。
 その名の通りブランディバックの総領息子。家系の特徴である冒険好きな資質を受け継いでおり、活発な性格。フロドと親しく、フロドの旅に同行してそのまま指輪の仲間の一人となった。
 パルス・ガレンで指輪の仲間が離散したときはオークに捕らえられアイゼンガルドに運ばれかけるが、ローハンの武将エオメル率いる騎馬隊にオークを殺されたことで逃げ出す。その後ペレグリン・トゥックと共に森で迷った末にエントの一人である木の鬚に出会い、エントによるアイゼンガルド破壊のきっかけを作った。
 その後、アイゼンガルドで再生王セオデンに出会い、彼を敬愛して仕えるようになる。セオデン王には止められたが、メリーは戦場に行くことを希望して騎士デルンヘルム(エオウィン姫の変装)の馬に乗せてもらって遠征。指輪戦争最大規模の戦いであるペレンノール野の合戦に参加した。メリーはセオデン王をアングマールの魔王から守って戦うエオウィンを助けるため、魔王の背を塚山出土の剣で刺し致命傷を負わせた。その時黒の息に倒れるが、アラゴルン二世によって癒される。

 指輪戦争後はバックの里の館主となる。またエントの飲み物で成長したその背丈(当時のホビットの平均身長は100cm無かったらしいが、彼とペレグリン・トゥックは150�近い身長になった)により「偉丈夫」と呼ばれる。さらに、ペレンノールでエオウィンを救った功により、ロヒアリムよりホルドヴィネ(誠実な友ほどの意)の名と栄誉を与えられ、エオウィン姫やエオメル王(セオデン王の死後に王になる)との友情を保持し続けた。ホビット庄の歴史やローハンなど他の国との繋がり、パイプ草などに付いての本を多く著したとされる。
 老後は、自分の職や財産を子供に譲るとペレグリン・トゥックとともにローハンに赴き、エオメル王が薨ずるのを看取る。その後はゴンドールで短い余生を過ごした後、王家の墓所ラス・ディネンに葬られた。彼とペレグリンの棺は、アラゴルン・エレスサール王の傍らに並べ置かれたという。

【コメント】
 ホビット史上最大の戦功を挙げた人物です。ただ一度奮った、なけなしの勇気で歴史を動かしました。
 アングマールの魔王は冥王サウロンにとっても替えの効かない人材で、たとえ当時の西方軍の首脳全てと交換したとしても割に合わないほど不可欠でした。魔王を失ったとたんにモルドール軍は緩み出し、柔軟性も失ってしまいます。
 魔王をメリーとエオウィン姫に斬られたと聞いた時の冥王サウロンがどんな反応を見せたか、正直知りたく思います。POWとレパルスを沈められた時のチャーチル首相みたいになったのではないでしょうか。
【総評】
 上流階級の教育を受けただけの、普通の純朴なホビットです。それ以上でも以外でもありません。
 本来ならコーエー数値化する意味も無い人物ですが、その功績があまりに巨大だったので特に項を設けました。
 魔王を斬った大功の陰に隠れていますが、ペレグリン・トゥックと共にエントを説き伏せてアイゼンガルド攻撃に導いた功績も特筆すべきものです。これによりローハン国は余剰兵力をペレンノール野の合戦に間に合わせ、逆転につなげています(そもそもこの功績が無かったら、魔王は前線に出てこなかったでしょう)。

[560] 通りすがり 2008/06/15 01:32

マキシマスとかジュダベンハーとか、架空のローマ人を
もし良かったら数値化してもらえませんか?

[561] 通りすがり2 2008/06/15 20:36

架空のローマ人なら、密偵ファルコを・・・(無理か)

[562] ガーリックトースト73% 2008/06/15 22:03

イアン・ダグラス・スミス

【統率】16
【武力】48
【知力】 2
【政治】36
【魅力】27

【統率チェックポイント】
彼が首相に任命された後も混乱は止む事も無く継続、泥沼の内戦に突入する。
独立前もその差別的嗜好から黒人からはすこぶる評判が悪く、本人も纏める気すらないように見える。
一応小規模にせよローデシア戦線の首班を無事に務めたので温情で2ケタ。

【武力チェックポイント】
第二次大戦中はイギリス空軍のパイロットとして勇名を馳せる。
戦果・功罪ともに詳しく記されていないが、ヨーロッパ戦線を無事に生き残っているので人並み以上と判断。

【知力チェックポイント】
ステレオタイプの白人を絵に描いたような黒人嫌いだったようで、
子供じみた狂言で「白人至上主義」を唱えて既得権益を守るために独立を宣言、白人に特権を与え黒人を抑圧する。
時代にそぐわぬ政治で国際社会の制裁を受け、たちまち国が窮乏、そこに黒人社会の抵抗運動が起こり八方ふさがりの中、
袂を分かったはずのイギリスが見かねて調停するというヒドい有様。
極めて近視眼的な政治家であり、20世紀の首相の中でも先見性の無さは飛びぬけているといっていい。小学生でも彼よりマシだろう。

【政治チェックポイント】
理由はどうあれ、イギリスから一方的に独立を勝ち取った外交手腕は評価しなければならない。
ジンバブエ成立後も、数年はしぶとく国会議員として勢力を保持、死の直前まで打倒ムガベ、政界復帰を望んでいたと言うからその政治に対する執念たるや。

【魅力チェックポイント】
一部の白人からは絶大な支持を得た一方で敵もかなり多い。
ローデシア戦線や少数の白人の権益保持からも判るように、少数で細々と活動する分にはカリスマを発揮するが、
国の首班たる首相職は明らかに荷が勝っていたようだ。
後に彼の理想であったローデシア共和国は僅か15年で瓦解する事となる。

【作者から一言】
今のジンバブエ、以前のローデシア共和国の首相です。
自らの利用を大多数に強要して、国内に無用の混乱を招きました。
大の黒人嫌いで、内戦中は飛行機から黒人を「落として」処刑、抵抗運動を一切認めず弾圧を加えたため、ジンバブエ国内では評判の悪い人物です。
ムガベ大統領の黒人優位政策が問題になっていますが、それでも彼の復帰を国民が望まなかった事が全てを物語っています。
能力は典型的な兵士タイプで、一兵士としてはそれなりですが、政治家としてもリーダーとしても使えない人物です。

【列伝】
生没:1919年4月8日 - 2007年11月20日
略歴:英領南ローデシア首相、ローデシア共和国初代首相
任期:ローデシア初代首相(1965年11月11日 - 1980年)

[563] 2008/06/16 02:28

>>553
まさかクシャナ殿下の評価が見られるとはw
漫画版見た後劇場版を見ると彼女の変わり様に一番違和感を覚えます
できるならクロトワ、ヴ王あたりの評価も見てみたいです

[564] ガーリックトースト73% 2008/06/16 15:20

ムハンマド・アリー・ジンナー

【統率】58
【武力】20
【知力】72
【政治】81
【魅力】83

【特殊能力】
弁舌 交渉や演説に強い
頑徹 他者の懐柔や讒言に囚われないが、ワンマンになりやすい

【統率チェックポイント】
パキスタンの顔役として常にリーダーシップを発揮しているが、独立後は特に政局が不安定で彼の死まで国内が収まる事はなかった。
1937年の総選挙ではイスラーム教徒全体の5%の支持に止まるという大惨敗、
私生活でも家族との離合集散を繰り返し、決して家庭に優しい人間ではない。
それでもインド国民会議派における発言力の大きさ、パキスタン分離独立時の手際の妥当さを評価。

【武力チェックポイント】
病気持ちで病弱。激しい運動は出来るはずもなかった。

【知力チェックポイント】
当初はパキスタン分離独立・イスラーム教国の誕生に懐疑的であった為、ガンジーと協力路線を進み、インド独立に貢献。
しかしガンジーの理想主義に対し、次第に失望し袂を分かっている。
これは、インド独立は支持するが、彼の思考はあくまでイスラーム社会の向上という上の事であり、
ガンジーの融和はカーストの最下層や官吏には不評であった。それを読んだ上の行動であったと言われている。
一方で、イギリスが提案したムスリム優位の連邦案に賛成を投じ、ネルー率いる国民会議派と険悪になったり、
演説にてムスリムに対し「直接行動」を訴えて、後に"カルカッタの大虐殺"を間接的に引き起こすなど短慮な行動も少なくない。

【政治チェックポイント】
政略面でネルー、ガンジー、マウントバッテンといった政治巧者を相手に互角に立ち回り、3者に妥協させパキスタン独立を成し遂げる。
大勢力である国民会議派の勢いに対し窮地に立つ事もあったが、ムスリム連盟を組織し、ワザと極端な態度を示して譲歩を促し、
一方でベンガルやパンジャーブ州の地方政党の地盤を切り崩し、1946年の総選挙ではムスリム連盟が圧勝、
名実共に「ムスリムの代表」として存在感を保ち続けた。

【魅力チェックポイント】
パキスタンでは既に国父として英雄扱い、イスラーム社会でもジンナーの名前を使う事があり、カリスマの高さが伺える。
インド・パキスタンを語る上でネルー・ガンジーには劣るものの、決して欠かせない人物であり、
烏合の衆であったインドのイスラーム教徒がムスリム連盟に一定の支持を付与したのは、ひとえに彼の個人的魅力による部分が大きいと言われる。

【作者から一言】
          ーカーイデ・アーザムー

カーイデ・アーザム、つまり"もっとも偉大な指導者"と呼ばれる政治家です。
パキスタンを独立させ、カーストに悩まされていたイスラーム教徒を開放した英雄ですが、
しかしインド・パキスタン混迷の原因という2つの功罪を持つ人物で、最後まで己の信念を貫いて行動した頑固親父でもあります。
典型的な文官タイプです。他に人がいなければリーダーを任せても良いのですが、統率にやや不安がある為オススメは出来ません。
政治面でのアドバイザー、補佐役が最も彼に適しているでしょう。

【列伝】
生没:1876年12月25日 - 1948年9月11日
略歴:インド・ムスリム連盟首班、パキスタン初代総督
任期:パキスタン総督(1947年8月 - 1948年9月11日)

[565] やっち 2008/06/16 16:07

>>558

 ありがとうございます。
 政治については、エピローグで「荒廃したトルメキアを復興させた」
「トルメキア中興の祖として長く称えられた」みたいな記述があるので、
史上有数レベルと仮定しました。

>>563

 こちらもありがとうございます。
> 漫画版見た後劇場版を見ると彼女の変わり様に一番違和感を覚えます

 そうですね。
 映画版のクシャナを物足りないと思った人は多いようで、庵野秀明は
クシャナを主人公に外伝を作りたいと願い出たようです。
 宮崎駿にあっさり却下されてますが、個人的にはすごく見たかったですね。

 ただ、クシャナ以上にギャップのある人物(?)が一人。
 それは、巨神兵(オーマ)です。
 漫画ではかなり深い、準主役級が演じてもおかしくない重要人物ですが(墓所の主を倒したり、
ナウシカの対母トラウマを払拭したり、等々)、
映画ではビーム2発撃って溶解です。なんじゃそれ。

 ご指摘の2人については、まあそのうちに。

[566] ガーリックトースト73% 2008/06/16 17:03

ダヴィド・ベン=グリオン

【統率】73
【武力】55
【知力】87
【政治】76
【魅力】51

【統率チェックポイント】
シオニストの大物として一癖も二癖もあるユダヤ教徒を纏め上げ、難民をイスラエル国内に次々と流し、ついには国を建国。
パレスチナ分割の際は反対派や過激派をよく抑え、迅速な措置を取れるよう便宜を図っている。
ただし、晩年は同志らに別政党を結成され造反されている。

【武力チェックポイント】
軍事経験が無いにも関わらず、自衛組織のハガナーを結成、アラブ人の抵抗に対し文字通り実弾で応えた。
中東戦争で勝利したのはイスラエル軍であって彼ではないが、勝利した側の首相としてこれくらいは必要か。

【知力チェックポイント】
占領地の開拓・緑化事業と同時に空輸でユダヤ教徒を国内に引き入れる「魔法の絨毯作戦」を実施、国力の拡大に貢献する。
核兵器の重要性も早くから認識していたようで、イスラエルの核保有疑惑は彼の任期中から既に囁かれている。
第一次〜第三次中東戦争ではアラブ諸国に妥協はしないとの立場で一貫しており、結果アラブ諸国より常に優位に進めている。

【政治チェックポイント】
独立前から労働組合や党を結成し、来るべきに備えて政治的な発言力・影響力を高めている。
政治的には強硬路線を堅持、ユダヤ教徒にイギリス軍参加を呼びかけることで恩を売り、先の難民受け入れでも彼らを黙らせている。
国防省にエジプト破壊工作失敗の責任をなすり付けようとしている辺りからも、自己保身にも一日の長がある(結果的になすり付けは失敗したが)。

【魅力チェックポイント】
ユダヤ教徒は彼によって命と安寧の地を与えられたようなものであり、やはりイスラエル国内における影響力は大きい。
しかし強硬な主張を繰り返す事、保身のイメージもまた事実であり、
それは「功績によるカリスマ」であって「人間的魅力によるカリスマ」とは言い難い事も付け加えておく。

【作者から一言】
イスラエルの建国者であり、初代首相です。
同国の建国は、イギリスの二枚舌とナチスの思惑、そしてこの人物とユダヤ教徒の努力によって達成されました。
アラブ諸国から見れば単なる領土の不法占拠者ですが、テルアビヴには彼の名を冠した空港や銅像が聳えており、国民の関心の高さが伺えます。
能力は戦争も政務も人並み以上にこなすオールラウンダーですが、知力が高いので参謀に向いています。
逆に魅力がやや低く敵を作りやすいので君主には据えないほうがいいでしょう。

【列伝】
生没:1886年10月16日 - 1973年12月1日
略歴:イスラエル初代首相
任期:(1948年 - 1953年、1955年 - 1963年)

[567] ガーリックトースト73% 2008/06/16 23:20

アンテ・パヴェリッチ

【統率】66
【武力】57
【知力】38
【政治】53
【魅力】25

【統率チェックポイント】
民族主義団体ウスタシャを組織・構築、クロアチア人の民族意識を対セルビアに摩り替え、敵愾心と愛国心に基づく強固な団結力を植えつける事に成功した。
不平分子・反対派をヤセノヴァッツ収容所にて粛清、クロアチア国内における地盤を確保、維持する為に更に多くの人間を地に曝したと言われる。

【武力チェックポイント】
軍事組織クロアチア・ドモブランを編成、ムッソリーニの庇護の下でウスタシャを指揮し、
旧ユーゴスラビア領内でアレクサンドル1世暗殺を初めとしたテロの責任者を務めた。
ただ、彼は職業軍人ではあるが、チトー(武力45)に不利な条件だったとは言え敗れているので高得点は与えられない。

【知力チェックポイント】
クロアチア独立国にしても収容所にしてもセルビア人の大量虐殺にしても、彼のやった大きな事業の全ては特定の国の模倣であり、
アドバイザーあってこその方針であるので凡人クラスと断じざるを得ない。
枢軸側崩壊に伴い、何の抵抗も出来ないままクロアチアから亡命した彼に先見性を問う余地はないと考える。所詮はファシストの傀儡か。

【政治チェックポイント】
独立まではドイツ・イタリア・ハンガリーなどを渡り歩き、協力を求めて奔走している。
独裁体制を敷いた後は「国籍法」を採択し、全ての非アーリア人の自由を規制、クロアチア人(本人はアーリア人と主張)優位政策を推し進めた。
一方でウスタシャNo2であり独立の同志であるクヴァテルニクと対立し粛清、年を追うごとにより強権的になっている。

【魅力チェックポイント】
チトーに政権奪取された後はかつての同志も仲間も部下も彼を見限っている。
そもそもクロアチアのトップに就任した経緯も枢軸側とのパイプと個人的なコネクションのお陰であり、彼のカリスマは全く加味されていない。
クロアチア優位政策を行いながら、同じクロアチア人から造反が出る始末で、彼らすらも粛清している事から、
極めて人間的魅力に乏しく矮小的な人物である事が伺える。

【作者から一言】
枢軸側の傀儡国家「クロアチア独立国」の独裁者です。
といっても第二次世界大戦の間だけで、僅か6年余りで崩壊しています。
また、彼自身も枢軸側の思い通りに動くよう指令を受けた傀儡であり、利用価値が無くなればすぐに切って捨てられました。
粛清・暗殺・虐殺など黒い話が多い彼ですが、
若い頃は特権階級であるセルビア人から不遇の扱いを受けていたクロアチア人を見て義憤に駆られた若者だったようです。
民族主義を利用していたつもりが、いつの間にか魅せられていたのは他でもない彼自身であり、
ある意味でクロアチアを一番愛していた(偏愛とも言う)男かもしれません。
能力はやはりリーダーシップの取れるタイプで、彼を補佐する優れた参謀・閣僚さえいれば無難に国を動かせるでしょう。

【列伝】
生没:1889年7月14日 - 1959年12月28日
略歴:クロアチア独立国首相兼外務相
任期:(1941年 - 1945年)
備考:人生のうち2度死刑判決を受けた男

[568] ガーリックトースト73% 2008/06/19 00:59

サパルムラト・アタイェヴィッチ・ニヤゾフ

【統率】98
【武力】25
【知力】17
【政治】64
【魅力】63

【特殊能力】
独創力 奇抜な行動を取る。効果は場合によってまちまち。

【統率チェックポイント】
アメリカの週末付録雑誌『パレード』に、"世界で最も権威主義的で抑圧する独裁者"と言われるほどの強権を掌握、
数々の独特な政策を実行し、国内を動揺させたにも関わらず独立して以来生涯一度もクーデター・失脚なし。
トルクメニスタン国内では国父として以上に神に近い存在として扱われ、終身大統領として16年もの間、皇帝さながらの絶対的な権力を持ち続けた。
独立時も彼の迅速な支持によってソ連崩壊直前に独立する事に成功、混乱を最小限に抑えている。
彼の言葉は神と同等で、彼の自伝はクルアーン(イスラームの聖書)と同格。凄すぎる…。
ただ、2002年に狙撃テロを起こされているので1点減点。

【武力チェックポイント】
戦闘経験一切なしの生粋の政治家。恰幅が良いのでそこまで低くはないだろう。

【知力チェックポイント】
他国と同じく、資源大国化を目論んで天然ガス採掘に重きを置く。
彼は子供のような純粋さと我侭さを持っていたと言われ、富が余りあるとはいえ首都から実家までを6つの道路に舗装したり、
図書館や病院を首都以外に置かないとするなど後先を考えず政策を発布している。
果てはインターネットや月日の改変、衛星放送の禁止も行っており、時代の流れに真っ向から逆らっていた。

【政治チェックポイント】
彼の独裁政治によって国は潤沢な資金を獲得している。
資源外交を幅広く展開し、西側諸国相手でもビジネスと見れば隔てなく付き合った。
ロシアの影響力を削ぐため、対外的には「永世中立国」を宣言し、西側の警戒心を逆手にとっている。
天然ガスや石油の利益を国民に直接還元し、生活必需品の低価格化、教育・医療費の無料化を推し進めて国民生活を一気に向上させた。
また、北朝鮮やアゼルバイジャンのように権力の世襲体制を敷くことはなかった(両国と比べて彼の権威・権力ならば容易い事だっただろう事は想像に難くない)。
しかし、そのウラでかなりの額が大統領周辺に流れていたとされ、国庫の管理にだらしない一面もあった。

【魅力チェックポイント】
独裁者で個人崇拝を推し進めながらも、国民を大事にする姿勢から国内に住む外国人から好印象を持たれるのも少なくない。
主権宣言の際は99.8%(注:単独候補)の得票率で大統領に就任、2009年の大統領選挙では立候補しない事を表明したが、
国民評議会の嘆願によって却下されている。
ただ、これらは全て独裁・個人崇拝の国での話であり、内からの操作や演出は容易であることも付け加えておく。

【作者から一言】
              ——ルフビレント(熱き魂)——

トルクメニスタンの終身大統領、ニヤゾフ大統領です。テレビやバラエティーで取り上げられた事もあるので知っている人もいるでしょう。
この人、かなりユニークな人物で「メロンが好きだから」という理由でメロンの日を制定したり、
口パクの禁止や全閣僚にベンツをプレゼントするなどやりたい放題。
しかし更にビックリするのは、それでも国民や部下は何も言わずについてきた事。
いくら独裁とは言え我慢していれば限度もあります。最後まで皆がついてきたのは、ひとえに富の分配をしっかり行った事。コレが全て。
アメとムチとわがまま(笑)を見事に使い分けた、有能な政治家であると思います。
統率・政治・魅力が高いため、やはり首相・大統領にピッタリ。
ただ、国に余裕のない状態でこの人に強権を与えるのは非常に危険です。扱いには十分にご注意を。

【列伝】
生没:1940年2月19日 - 2006年12月21日
略歴:トルクメニスタン初代大統領、トルクメニスタン民主党(DPT)議長
任期:トルクメニスタン初代大統領(1990年10月17日 - 2006年12月21日)
備考:国内での呼ばれ方はサパルムラト・テュルクメンバシュ(トルクメン人の長の意)

[569] やっち 2008/06/19 15:31

 まとめサイト見ていたら評価がもう一つだったので、ナルセスをやってみたいと思います。

[570] ハーン 2008/06/20 00:41

>>564
 インドのほうは少し知っているのですが、彼は全く知らなかったので興味深いです。

>>566
 思えば、パレスチナ問題は大体ここから始まったんですよね。感慨深いものです。近代でまさか僻地に人を集めて新国家建設に漕ぎ着けるなんてことを実現したのは間違いなく偉業ですね(私が無知なだけで、近代でもそこそこ例があるのかもしれないが)。

>>567
 なんというか、傀儡政権の首班には丁度いい感じの能力ですね。スターリンが任命した東側の首脳と似たような感じです。
 ユーゴの英雄チトーはどんな感じでしょうか?

>>568
 素敵な数々の逸話をお持ちの素敵な大統領閣下ですね。素敵な逸話のせいか、他の独裁者と比べるとダークなイメージが低いと思われます。
 ただ、統率が高すぎるかと。まあ、半分くらいネタのような人物ですけど。

[571] ガーリックトースト73% 2008/06/21 02:08

ボカサ1世(ジャン=ベデル・ボカサ)

【統率】30
【武力】44
【知力】22
【政治】31
【魅力】36

【統率チェックポイント】
クーデターを指揮し終身大統領、更に皇帝に就任し帝政を打ち立てる。
しかし就任以来国内は纏まらず、政権はわずか3年で崩壊する。
政権末期の1979年には民衆にも協力者だったフランスにも見限られ、何の抵抗も出来ないままフランスに亡命した。

【武力チェックポイント】
国軍の参謀総長にしてクーデターの指導者。
武力で政権を奪取しているのでこれくらいはあるだろう。

【知力チェックポイント】
時代にそぐわない帝政、相次ぐ同志・功臣の粛清を開始し自らの首を絞め、
挙句戴冠式の際には、国家予算の2倍(2500万ドル)を投じてナポレオンを模した盛大なセレモニーを敢行している。
結局のところ、民衆の暴動や帝政崩壊は時代錯誤であった以上にこの人物自らが蒔いた種に過ぎず、殆ど自爆行為に近い。
また、国内が政情不安にも関わらず同盟者を求めて安易に国を離れてクーデターの呼び水を自ら作り出している。あまりにもヒドイ。

【政治チェックポイント】
フランス大統領に私的に賄賂を供与し、経済援助を確約させているところから、とっさの根回しには評価すべきところがある。
反対派を徹底的に潰すため、かなり踏み込んだ粛清・弾圧を加えており、政権を維持するために手を尽くしている。
ただ、これらの行動が彼自身の政治的才覚の限界を露呈しているとも言える。

【魅力チェックポイント】
自らの軍事的権力を背景に政権を奪取し皇帝に就任しているが、
皆に請われての就任ではなく、民衆には当初から不評であった。

【作者から一言】

      ——遅れてきた皇帝(アンプルール)——

知る人ぞ知る、中央アフリカ共和国終身大統領にして中央アフリカ帝国皇帝です。
20世紀は数多くの王朝が革命によって打倒された世紀です。
彼はその流れに敢えて逆らい、己の夢と欲望の為に突き進んだ男と言えるでしょう。
しかしあまりにも時代錯誤かつ失政続きだった為、日本やイラン、フランスを除く各国から総スカンを受けました。
結局彼の野望はわずか3年足らずで崩壊し、亡命ののちは母国から死刑宣告、1986年に帰国・服役のあと恩赦で釈放された時、
彼には皇帝だった時の風格も無く、迎えもまばらで唯一年老いた母親が彼を温かく出迎えたそうです。
皇帝として過ごした3年間と最期に母親と過ごした3年間、どちらが彼にとって良き日だったのでしょうか。
能力は武力がやや高いものの、全体的にパラメータは低め。兵士として使うなら問題ありませんが、
責任あるポストにつけるのは一種の冒険。足を引っ張る味方は敵以上にタチが悪い事を身をもって知ることになるでしょう。

【列伝】
生没:1921年2月22日-1996年11月3日
略歴:中央アフリカ共和国大統領、中央アフリカ帝国皇帝
任期:中央アフリカ共和国大統領(在任:1966年 - 1976年)
在位:中央アフリカ帝国皇帝(在位:1977年 - 1979年)
備考:従兄弟のダッコ大統領から政権を奪取し、ダッコから奪われた

[572] ガーリックトースト73% 2008/06/21 02:51

そろそろまとめサイト更新しても良いのでは?
もうすぐ1年になるし。

[573] ガーリックトースト73% 2008/06/23 01:22

フェルディナンド・エドラリン・マルコス

【統率】84
【武力】43
【知力】71
【政治】89
【魅力】55

【特殊能力】
開発独裁:経済効率が大幅に上昇するが、年ごとに効力を弱める
根回し :高確率で行動が円滑に進む
Rolex12.:12人の側近が軍事的サポートを担う [マルコス専用]

【統率チェックポイント】
周囲を近親者で固め、20年間に渡り独裁者としてフィリピンを統治し続けた。
生涯を通して何度もピンチに遭っているが、アキノや政敵の排除も怠らず、運よくかわし続けた。
Rolex12.を有効に使い、反対派の共産党系の新人民軍や、少数民族であるモロ人の暴徒に対しての軍事行動を円滑に行っている。
結局彼を倒したのはクーデターでも暴動でもなく、彼の権力を正当性せしめた国民自身の団結力であった。

【武力チェックポイント】
"大東亜戦争時にはわずか3人で後方の日本軍前線を突破し敵兵の50人を殺害、同師団を釘付けにしていた日本軍の迫撃砲を破壊した。"
…とされているのだが、アメリカ公文図書館によれば彼の戦時行動は一切無かったとされている為、これらの記述は一切考慮しない。
一応暴動やクーデター、デモ鎮圧を直接命令しているため苦手レベル以上とする。

【知力チェックポイント】
1972年9月21日の戒厳令布告によって既存の特権階級に与えられていた権益を貧困層に解放する政策を行うが、実際は彼の周囲にしか分配されなかった。
また、これは彼の目論見どおり労働者階級の支持と農地解放によって農民にも支持を得たが、
その権益の分配をめぐり贈収賄・恐喝・横領が生じることになり、後の政権運営に暗い影を落としている。
一方で在任中は米国との関係を重要視し、1966年10月にSEATO首脳会議を主催、南ベトナムにフィリピン軍を派兵して米国とのパイプ作りに腐心した。

【政治チェックポイント】
国内の地方開発と徴税機能の強化・在任中に強靭な経済を作り上げることを公約し、実際に失業率は1966年〜71年までに7.2%から5.2%に減少させている。
政敵のカルロス・P・ガルシアから大統領再選禁止を提案された際、カルロス派による再選禁止支持のための多数派工作があった事を逆に利用し失脚させ、
自分自身は首相として引き続き政権を担えるよう議院内閣制への政体変更を主張していたとされる。
相次ぐ選挙でも不正工作を実行し再選後速やかに報道管制を敷いており、権力闘争に関する機知は非常に鋭敏である事がわかる。
戒厳令と「夜間闇外出禁止令」施行の後、国内の犯罪率が劇的に低下し、政情の安定は1970年代を通じて経済成長につながった事も評価の対象になろう。
もっとも、1980年以降の彼は精彩を欠き、戒厳令の解除で民主化を期待した人々をよそに治安権力を保持、
戒厳令を"開発独裁のための非常措置"であった事の正当性を失う結果を招いている。
また、腎臓病の悪化で妻イメルダと近親者の専横を許し、自分の為に腎臓センターを開設を強制するなど、晩節は評価を下げる出来事が多い。
(おかげでフィリピンの腎臓移植技術は世界有数になるという皮肉)

【魅力チェックポイント】
近代のフィリピンでは強烈なインパクトを放つ。
報道管制・戒厳令・不平分子や共産党の弾圧と行ったため、やはり負のイメージがつくのは否めないが、
これは彼に限った事ではなくフィリピンの歴代大統領の殆どが行っている事である事も留意しなければならない。
現地のフィリピン人は現在のアロヨ大統領よりはマシと考えるものも少なくなく、やはり紆余曲折あれど彼によってフィリピンは変わったと考える者は多い。

【作者から一言】
非常に評価を悩んだ人物です。晩節に社会を停滞させ、汚職や私服を肥やし、反対派をヘリコプターから見せしめの為に落として興じた、
など残虐、かつ権力にしがみつく矮小な独裁者に見えますが、
一方で全盛期には失業者の減少、開発独裁による経済成長を公約どおり達成しており、ただの俗人ではない才能も有しています。
それにしても、「暗黒時代」と断じる人も多い彼と比べてアロヨ大統領よりマシという言葉が出てくる事は驚きでした。どれだけその後が酷いか、という事でしょうか。
能力は非常に優秀なリーダータイプです。魅力と武力にやや不安がありますが、それを補う非凡な政治力、特殊能力の豊富さが光ります。
彼のようなタイプは逆に低すぎる位置におくと「獅子身中の虫」となり非常に扱いが厄介になります。
登用したら十分な地位と行賞を与え、手綱をしっかり締めておくのがいいでしょう。

【列伝】
生没:1917年9月11日 - 1989年9月28日
略歴:フィリピン共和国第10代大統領
任期:(1965年12月30日 - 1986年2月25日)

[574] ガーリックトースト73% 2008/06/24 21:10

清の歴代皇帝は支那王朝でも屈指の質の良さで知られています。
個人的に私はこの清が大好きです。ここでちょっと不肖私なりに評価を。
-----------------------------------------------------------
アイシン=ギョロ・ヌルハチ(清太祖)

【統率】100
【武力】 84
【知力】 77
【政治】 93
【魅力】 85

【特殊能力】 強運
早馬 移動の時、馬の稼動効率が大幅アップ。
八旗 満州人の誇る軍事組織。戦闘力は高くないが確かな統御を誇る。

【統率チェックポイント】
明の離間策によって抗争を繰り返していた建州女真5部・海西女真4部・野人女真4部を全て統一。
ハーンの位に就き、満州文字、八旗制を定めてバラバラだった女真族を1つに結集、
仕上げに1618年には檄文「七大恨」を読み、対明に対する独立意識を確かなものにした。
名実共に"満州"という言葉の生みの親であり、この意義は歴史的に大きい。

【武力チェックポイント】
サルフの戦いでの近代兵器に対する各個撃破による勝利、騎馬民族(実際は狩猟採集民であるが)である事がポイント。
しかしサルフは砂嵐による視界不良、雨による鳥銃(種子島) の使用不可、明側の指揮官が功を焦って突出した事が大きく、ヌルハチ個人の資質とは言いがたい。
実際、寧遠城の戦いでは30万を号する八旗で攻めても陥落できず、紅夷大砲によって惨敗している。
ただ、それ以前のグレの戦い(女真族統一戦)、瀋陽・遼陽の戦いでは鮮やかな完勝を遂げている。先の寧遠城も明の名将袁崇煥が相手だった事も考慮したい。

【知力チェックポイント】
祖父・父を明に誤殺された影響から、早くから明を敵と認識。
明に味方するイェヘや朝鮮に対し明との手切りを強く求めている。
一方で、サルフの戦いで大砲の存在を知っていたにも関わらずそれを重く考えず、
最期まで後継者を定めずにしたために、死後大問題となるなど不明瞭な点もあり、先読みに安定感が無いのも事実である。(後継者問題に関しては諸説あるが)

【政治チェックポイント】
女真のいち弱小勢力に過ぎなかったが、明の李成梁をうまく利用し、明の威光を利用して勢力を拡大する。
また、次第に勢力が拡大すると明側に警戒されると考え、ヌルハチの監視責任者であった李成梁に莫大な賄賂を贈り油断させている。
その後危機感を抱いた明が竜虎将軍の官位を与えると、それすらも自らの武威に利用し、それを以ってモンゴル側と協議、ハーンの号も冠している。
思うに、政治こそが彼の真骨頂ではないか。

【魅力チェックポイント】
老体になっても自ら陣頭指揮に立つ豪快な人物。
公の場では常に前向きだったと言われ、(そう迫られての事かもしれないが)堂々たる姿は肖像画にも現れている。
また、当時から知恵高い文殊の化身と言われ、文武両道の士として尊敬を集めていたのは確かであろう。

【作者から一言】
はいご存知、後金国・のちの清朝の初代皇帝ですね。
小さないち勢力から始まって、ついに満州に覇を唱えました。
明やその尖兵のウェヘや朝鮮に妨害されながらも女真族を1つにまとめ民族の自立を促しました。
清朝中期以降は弱兵として知られる満州八旗ですが、この時は固い結束力でヌルハチ、以下歴代皇帝を支える軍事・社会組織として貢献しました。
彼らを弱兵たらしめたのは「長きに渡る平和」。う〜ん、わが国も考えさせられます。
能力は全て優秀以上の化け物級、特にリーダーは彼の天職。期待以上の働きをするでしょう。あとは賢明なブレーンがいれば完璧です。

【列伝】
生没:1559年2月21日 - 1626年9月30日
略歴:満州後金の創始者、大清帝国初代皇帝
在位:(1616年 - 1626年)
備考:現在の中国では清の初代皇帝は三代目の順治帝とされる

[575] やっち 2008/06/27 00:59


 ナルセスの評価をしたのですが、サーバーエラーで投稿できず消えてしまいました。
 書き直す気力がないので没です。

>>574

 意外と知力が低いんですね。
 サルフの戦いをどう評価するかですが、私なら個別戦闘よりも分散進撃する敵軍を各個撃破という
戦略に真骨頂を見ますので、武力ではなく知力を押し上げることにし、80代を付けるかも。
 最終的には彼の高い能力をどの項目で評価するかでしょうか。

 彼の先達、アクタくんの評価も見てみたいです。

[576] saba 2008/06/28 13:53

>>572
サーセン
とりあえず生きてます
そろそろやります

[577] ガーリックトースト73% 2008/07/01 02:23

アイシン=ギョロ・ヘカン (ホンタイジ/皇太極)(清太宗)

【統率】92
【武力】74
【知力】90
【政治】83
【魅力】80

【特殊能力】流言 人心掌握
八旗 満州人の誇る軍事組織。戦闘力は高くないが確かな統御を誇る。

【統率チェックポイント】
ヌルハチが「満州」の生みの親ならば、彼はそれを定着させたと言える。
満州に住む漢人にも一定の役職を与えて手なずけ、部族集合体に過ぎなかった後金を中央集権的な中国的王朝へと発展させていった。
後金が中原支配を志したのはこの人物の時代からで、モンゴルの玉璽を手に入れる事でモンゴル平原・並びに中原を支配する正当性を高めた。
監査機関"都察院"を設け、百氏百官のあらゆる不公平・不正を明らかにする風紀を作り上げた。

【武力チェックポイント】
内モンゴルのチャハルを征服、李氏朝鮮に対し2度に渡り軍勢を派遣、2度目の丙子胡乱では八旗10万を号する軍勢で親征し見事に勝利している。
しかし、勃興期の君主にしては親征の回数は少なく、明に侵攻した際は名将袁崇煥に城攻めを2度も阻まれている。

【知力チェックポイント】
中原支配の為には地政学上、モンゴルと朝鮮を支配しなければならないことを認識、周りから地盤を固めている。
皇帝の権力を強化することに腐心、即位当初から兄や従兄である重臣たち、また大きな力を持っていたダイシャン、アミン、マングルタイの三将を順に失脚させ(一度にではなく少しずつ)、権力の安定化を図ったが、ドルゴン(知力88)の力を削ぐ事は適わなかった。
しかし一方で、ヌルハチの場合と同様に後継者を決定せずに崩御しており、またしても後継者争いが起こっている。
自身も争いを経験しながら、同じ過ちを犯している事は本来なら減点となるが、
逆に自らの経験を踏まえ、部族長の合議で選ばれるべきと考えていたとも言われ、判断は難しいところである。
また、先の惨敗後、袁崇煥と戦う事を諦めて長城を遠回りし北京を攻めることに方針を変え、明国内にスパイを送り宦官を買収。
「袁崇煥が謀反をくわだてている」と流言飛語を流させ、長年の宿敵を亡き者にしている。有名な「反問の計」である。
彼は武では明に勝てなかったが、智では勝利したと言えよう。

【政治チェックポイント】
軍事と行政を分離し行動をより円滑に進め、中国の機構を巧く取り入れて"六部の制"を制定、皇帝の忠実な側近を育成した。
漢人やモンゴルとの融和を説き、満州人の特権であった八旗に新たに蒙古や漢人枠を設け、
「後金」を廃して漢人の拒否感を和らげる事で満州人の地位向上・多民族による強力な連合を目指した。

【魅力チェックポイント】
人心掌握に務めただけあって対外的にはなかなかの人格者。
部下の失敗をむやみに咎めない、例え自身が刺客に暗殺されかかっても守衛・刺客の両者とも許したとされるほどの度量を持つ(後世に脚色された可能性もあるが)。
一方で、一族を徹底的に蹴落して権力を拡大したため、親戚・皇族の評判は決して良いものではなく、謎の急死も弟のドルゴンが何らかの形で関わっていたとする説も根強く残っている。

【作者から一言】
本名よりもホンタイジの名前が有名ですね。ご存知大清帝国第2代皇帝です。
ヌルハチ死後の激しい権力闘争を勝ち抜き、内モンゴル・朝鮮を屈服させ満州・蒙古・漢人の三者から推載されて清の皇帝となりました。
戦場のイメージが強いヌルハチとは対照的に、彼はあくまでも謀略の士。政敵ドルゴンの帝位収奪の意図をしりつつも有能な彼を重用し、降将や流人を説得し仲間に引き入れ、清を人材溢れる強国に育て上げました。
世襲の2代目というのは初代より格が落ちるとは言われますが、この英雄の才知は初代にいささかも劣らないでしょう。
能力は武勇以外はほぼ満点に近い優等生。バラつきが無く、どんなポストでも活躍できるでしょう。

【列伝】
生没:1592年11月28日 - 1643年9月21日
略歴:大清帝国第2代皇帝
在位:(1626年 - 1643年)
備考:彼の妃大玉児はドルゴンの婚約者。り、略奪婚…。

[578] ガーリックトースト73% 2008/07/01 02:26

>>575
私の評価は統率・政治面が甘く、武勇・知力面で厳しいと思います。
やっぱ人を評価するって難しいですね。でもやってて面白いです。

>>576
はい、ぜひよろしくお願いします。

[579] ガーリックトースト73% 2008/07/02 04:33

どんどん投稿していきます。
---------------------------------
順治帝 (アイシン=ギョロ・フリン)(清世祖)

【統率】87
【武力】76
【知力】85
【政治】98
【魅力】67

【特殊能力】一喝
八旗 満州人の誇る軍事組織。戦闘力は高くないが確かな統御を誇る。
果断 ハッキリした物事を好む。政務・戦略・思想・人格に影響

【統率チェックポイント】
頑固な性格の降将呉三桂を始め、降った漢人を良くまとめた。
満州八旗の権限を徐々に各部族から皇帝直属へと替え、ドルゴンが提唱した「断髪令」に関してはドルゴンの死後も引き続き、かつ徹底的に強行的な姿勢を見せた。
生涯を通して征服王朝としての自覚ゆえか長期政権の地盤作りに執心したと言える。

【武力チェックポイント】
北京を占領、のちドルゴンの死後、13年間に渡る全国親征を開始。朱聿鍵や鄭成功の北伐軍を跳ね返し、中原平定を果たした。
だがいずれも大軍を用いた上での勝利が約束されたものであり、高評価はできない。

【知力チェックポイント】
ドルゴン存命中は幼子だったため彼の言いなりだったが、彼の死後は鬱積と懸念を晴らすかのようにドルゴン一族を粛清しさらに、ドルゴンの爵位を削り帝室から除名している。
また、早くから儒教に傾倒し漢人の風習、特徴、更には皇帝のあり方を学び、柔軟に吸収している。これは後の皇帝にも踏襲された。
また、北京を騒がせていた悪党・李応詩を別件で逮捕した際、即刻処刑を命じて仲間に報復を受ける前に片付けており、胆の座った人物であることがわかる。

【政治チェックポイント】
財政を窮迫させていた文官の削減や近隣住民を徴発しての特産品運搬の禁止、戦時宿場管理の徹底(役人による住民酷使の防止)、
皇帝が着衣する衣類を催促する専門の役人を「金のムダ」だとして排除するなど、一貫して救民政治を心がけた。
中でも宦官の政治関与を厳しく禁じたのは画期的であり、清の全盛期、後の「三世の春」の誕生に貢献したと言える。
ただ、僧侶・道士の受験費の免除は彼らにとっては善政と言えるが、清にとっては税収を下げるだけであり、ベストな選択と言えるかは疑問が残る。

【魅力チェックポイント】
若輩者ながら、果断、そして威厳を併せ持つ人物であり、敵と認識したら容赦の無い性格でもあった。
一方で臣民に対しては一貫して善政を敷き、後世に「三世に負けぬ名君」と賞賛されたが、儒教傾倒に対する非難も当時から根強く、特に満州族から不評だった。
理想主義者であり、自分にそぐわないと判断したら妥協を許さなかったと言われる。

【作者から一言】
支那では「初代皇帝」と言われる大清帝国第3代皇帝です。
13歳で親政を開始し24歳で崩御し、たった11年間の間にこれだけの功績を残した清でも指折りの名君でもあります。
勃興期に子供の皇帝が即位した例は恐らく彼だけではないでしょうか。末期の王朝になると幼帝が即位し国が乱れるといった話は良く聞きますが、彼はまさに特例、特別です。
ドルゴンの教育が良かったのか幼い頃から儒教の本を読み漁っていたのがいい形で働いたのかも知れませんね。
能力は政治が群を抜いて高い官僚・政治家タイプです。魅力面で多少不安がありますがこの程度は統率力と政治力でカバーできる範疇であり、心配する必要はないでしょう。

【列伝】
生没:1638年 - 1661年2月5日
略歴:大清帝国第3代皇帝
在位:(1643年 - 1661年)
備考:天然痘での若すぎる死から出家説が流れた。康熙帝も即位直後になぜか寺に何度も足を運んでおり、
   実は数年は生きていたとの仮説も頷けるが、現在も真偽は闇の中である。

[580] ロベスピエール 2008/07/02 10:50

カミーユ デムーラン 1760〜1794
統率70 新聞とかが結構売れたのでそこそこ
戦闘46 普通より少し弱いぐらい
知力75 文才とかもあるし、多少の才はあるだろう
政治82 一応ダントン派として名をはせた人物
     このぐらいの政治能力はあるだろう
魅力71 民衆を「武器をとれ」演説で鼓舞したりと多少魅力はある

特技   文才 パリ市内での民衆の支持率Up
     鼓舞 士気回復 

[581] ガーリックトースト73% 2008/07/03 03:31

嘉慶帝 (愛新覚羅顒琰)(清仁宗)

【統率】57
【武力】45
【知力】66
【政治】58
【魅力】52

【特殊能力】
八旗 清の軍事・行政組織。清軍の練度・士気がー30 ※強制発動
自責 自らの不徳を認めて魅力が+5 ※回数制限あり

【統率チェックポイント】
乾隆末期からのワシンを初めとする官僚の腐敗・汚職と言った負の遺産を抱えながらも、
ワシン粛清後は宮廷内の混乱を恐れて他の者の罪を咎めず求心力を保った。
しかし、官僚・八旗の堕落を態度を以って是正できず、即位直後から相次ぐ反乱を起こされたことは減点の対象である。
また、混乱収拾の為に「己を罪する詔」を発しても効果は薄く、乾隆帝にも責任はあるとは言え、
不平分子の相次ぐ台頭を許したことは彼の統率力の限界を露呈しているとも言える。

【武力チェックポイント】
華々しい親征こそなかったものの、「白蓮教徒の乱」では9年に渡って鎮圧を指示、暴徒沈静に全力を傾けた。
続く天理教徒の乱ではわずか80余名に紫禁城内に攻め込まれ劣勢に陥るが、後の道光帝らの活躍もあって鎮圧せしめる。
江南で発生した蔡牽・朱濆の乱も鎮定に成功しており、極端に低い数値にはならない。

【知力チェックポイント】
乾隆時代第一の奸臣であるワシンを先帝崩御後速やかに排除している。
相次ぐ乱の折には幾度是正を試みても改善が見られなかった八旗に見切りをつけ、地方の有力者たちを動員して武装集団を作らせた。
これはのちの団練、郷勇の誕生を意味し、八旗に替わって治安維持に役立った反面、地方が豪族化するきっかけとなった。
結果論で言えば"その場凌ぎの愚策"との見解も当然だが、反乱が頻発した混迷期にあって、
地方ごとで中央の手の届かない部分を守らせることはベターな選択であったこともまた認めるべきであろう。

【政治チェックポイント】
相次ぐ戦乱で国庫がカラになり、銀の多大な流出や財政悪化を招き、人口増による食料難で喘ぐ農民を更なる窮地に追いやった。
総じて清の国力が衰退し始めた時期の皇帝なのでどうしても厳しい評価は避けられない。
しかしそれは彼一人の責任では有り得ず、時代や「三世の春」による弊害、八旗の弱体化が関わっており、
全盛期3代の時代の見えないツケが回ってきたと言え、運に恵まれぬ治世であった。
文化面では“乾嘉の学”と呼ばれた考証学が全盛期を迎えていた時代でもあり、国学が大きく向上した時期であった。

【魅力チェックポイント】
苦肉の策とは言え、重税を課し臣民を強いているので三世の春と比較され、末端には不評であった。
親征の経験がほとんどゼロで乾隆帝に対しては頭が上がらなかったことから、後世に小心者と揶揄されているが、
宮廷内の権力闘争を緩和したことからもわかるように、物事に対して慎重であったとも言える。

【作者から一言】
不運の皇帝であると思います。
雍正帝時代にはアヘンが国内に流入し、乾隆末期には当の皇帝が耄碌し政治に興味を失い悪政を敷いた結果、汚職や堕落が目立ってきたと考えられており、
そのツケを背負う羽目になったのがこの嘉慶帝だと言えるでしょう。ともあれ、反乱続きのなか諦めず精力的に活動した直向さには好感すら憶えます。
能力は極めて平均的で使いどころに困りますが、やや知力が高いのでトップの補佐やオブザーバー、参謀あたりが適任でしょう。

【列伝】
生没:1760年11月13日 - 1820年9月3日
略歴:大清帝国第7代皇帝
在位:(1796年 - 1820年)

[582] ガーリックトースト73% 2008/07/03 03:34

訂正です。

>>581
>嘉慶帝 (愛新覚羅顒琰)(清仁宗)

>嘉慶帝 (アイシン=ギョロ・ギョウエン)(清仁宗)

に変更します。どうやら"ぎょうえん"の漢字が文字化けするみたいなので。。

[583] ガーリックトースト73% 2008/07/06 00:08

道光帝 (アイシン=ギョロ・ビンネイ)(清宣宗)

【統率】60
【武力】51
【知力】62
【政治】53
【魅力】64

【特殊能力】
八旗 清の軍事・行政組織。清軍の練度・士気がー30 ※強制発動
勤勉 年齢や病気に関係なく執務に打ち込め、常に自分の最大限の力が発揮できる。

【統率チェックポイント】
彼の治世は嘉慶帝とともに動乱の時代として認知されるが、
以外にも先帝ほど反乱を起こされておらず、国内の戦乱はそれほど大きなものもなかった。
だが逆にアヘンの蔓延が深刻で、帝室にまで及ぶ始末であり、彼が幾ら取り締まりの強化を命じても役人は私服を肥やすばかりで対処が散漫であった。
また、彼が崩御する年に南方で「太平天国の乱」が発生しており、これは彼の指示・および統制が全国にまで行き届かなかった事を意味するだろう。
とは言え、彼の時代までが皇帝権力の絶頂期であり、絶大な権威・権力をいまだ維持していた事実もある。

【武力チェックポイント】
皇太子時代に、紫禁城内に侵入した天理教徒を殲滅せしめた功績を評価。

【知力チェックポイント】
"アヘンの輸入を認めて関税を得たほうが良い"と述べた官僚を一喝、麻薬の中毒性をよく理解し
「それだけでは効果が薄い、根絶せねば」として林則徐に麻薬取締りを一任、一定の効果を挙げる。
しかしそれがキッカケでイギリス艦隊を呼び込んでしまい、驚いた彼は強硬派の林則徐を解任、イギリスとの融和を図った。
彼の行動は、目の前の物事の解決法を探る事には長けていたが、その結果起こりうる"弊害"を正しく認知できていなかったと言える。

【政治チェックポイント】
財政難である事実を認識、竜泉峪に建てられた自らの陵墓は「大きすぎる」として小さな規模に留めさせている。
一方でアヘン戦争では終始後手に回り、北京に軍艦が来ていない時は態度を硬化させて現場指揮官の埼善を悩ませている。
また、冊封体制の瓦解である事を認識できず、相次いで列強と条約を締結させてしまう。この結果、清の対外的な影響力が低下し、
"頼りない"と見た国内の民衆が再び相次いで戦火を広げる事になるのである。

【魅力チェックポイント】
死の直前まで政務を行っていたと言われ、動乱の時代を共に生き抜いた官僚・側近たちへの感謝の念を忘れず、言葉に表すことで彼らの心を掴んでいる。
後継者選定も能力よりも臣民に優しい人物を優先して選んだとされ、彼が日々臣下に対してどのように接していたかが判るであろう。

【作者から一言】
アヘン戦争時の清側の皇帝ですね。
勤勉な皇帝であったようで、病気と老衰に苦しんでも政務を続けていたそうです。
ただ、この時代の清人の枠に漏れず、列強に対しての見通しが甘く認識不足であったと言えます。
イギリス軍は北京に迫った際、かつてのモンゴル軍と同じく放火・略奪・殺人と狼藉の限りを尽したと言われます。
どれだけ当時の列強が恐ろしい存在なのかを理解しなぜイギリスが強かったのかを検証する必要があったと言えるでしょう。これもまた、全て結果論ですが。
能力は全ての能力が平均以上であり、特徴がないため使いづらい人材です。会社で言うなら総合分野の中間管理職あたりが適任でしょうか。

【列伝】
生没:1782年9月16日 - 1850年2月25日
略歴:大清帝国第8代皇帝
在位:(1820年 - 1850年)

[584] やっち 2008/07/22 05:18

 過疎防止のため、架空ネタを一本。
 私が昔はまったゲームの主人公です。

デニム・モウン(デニム・パウエル)
※Lルート準拠

統率 80
 10代の若さながらウォルスタ解放軍を掌握、敵対していたガルガスタンの穏健派も取り込みヴァレリア解放軍を組織。
 戦乱を勝ち抜いた統率力は一級といえるだろう。

武力 100
 ヴァレリア島最高の学者・魔法使いで、竜言語魔法を使いこなす。
 敵が1人だろうが10万だろうが、その場を一歩も動かず、一瞬にして全滅させたり、時間を止めて(「無駄無駄無駄」とは言わないが。)指揮官だけをあっさり討ち取ったりする、
恐ろしい魔法の使い手。
 近づく敵は片っ端から石化したりもする。

知力 70
 公爵暗殺→レオナール粛清によって解放軍の掌握した計略や、対ガルガスタン戦の戦略は
すばらしいのだが、どれも自分で発案した訳ではない。
 他人が発案した優秀な政戦略を取り入れる知性はあるので優秀レベル。

政治 95
 虐殺すら政治的に利用したり、ウォルスタ統一戦線の確立のため敵対していたネオ・ウォルスタ解放同盟を取り込んだり、
ガルガスタンを急進派と穏健派に分断させ(その気もなかったのに)穏健派に
恩を売って取り込んだりと、
政治家としての力量は超人クラスである。

魅力 10
 戦時の司令官としては「英雄」と敬意を払われていたのに、戦乱を収めて即位すると
いきなり諸勢力が敵対。テロに遭う。
 平民出の成り上がりの前王の血を引いているだけの、戦乱の収拾にほとんど何も貢献していない(それどころか戦乱をかき回していた)わがまま女が
王位につくと政情が安定するのに、自らの力量で戦乱を収めた彼が王位につくと
政情不安の極みに陥ってしまう。
 これは、彼の人的魅力のなさに起因しているとみるほかなかろう。

[585] やっち 2008/07/22 05:35

−「戦術鬼」

 ヴァレリア島、王都ハイム出身のバクラム人。
 活動初期はウォルスタ人として「パウエル」の姓を名乗っていた。
 ウォルスタ解放軍に参加し、ガルガスタン人との戦争に従事していたが、解放軍首脳部(ロンウェー公爵、レオナール騎士団長)が
戦況打開のため、ガルガスタン軍に罪を押しつけるべく同胞の虐殺を企図すると、これに荷担し、解放軍の幹部となる。

 解放軍がガルガスタン軍との決戦に敗れ、公爵の指導力が低下すると、レオナールと結んでこれを暗殺。
返す刀で暗殺の罪をレオナールに着せこれを粛清。一気に上位者を排除して
解放軍の指導者となる。

 敵対していたネオ・ウォルスタ解放同盟を取り込み、これをガルガスタン軍主力とぶつけて双方とも消耗させている間に、
子飼いの手勢を率いてガルガスタンの本拠を奇襲し指導者を討ち取り、余勢を駆って消耗したガルガスタン軍主力も殲滅する。
 解放軍内部の指導権も確立。

 その後、前王の血を引く義姉カチュアを王位継承者として擁立し、これを錦の御旗として残るバクラム軍も撃破、
ローディスの干渉軍も退け、ヴァレリア島を再統一する。

 戦乱の終結後はカチュアに王位を押しつけ、守成の苦しみと諸勢力の恨みを引き受けることなく出奔し、各地を放浪した。

※ 今はなきクエスト社のゲーム「タクティクスオウガ」の主人公です。
 かなりはまりました。300時間以上やったかも知れません。
 このゲームには複数のルートがありますが、上記列伝に書いたLルートが最もおもしろいと思います
(虐殺に反対するCルートはわがまま言っているうちに幸運にも解放軍指導者の椅子が転がり込んでくる
非現実的な話なので好きではありません。)。
 が、彼が「ロード」になった場合の救えないエンディングだけは納得できませんでした
(わがまま女カチュアが王位についたらうまく収まるのに何でデニムだとダメなんだ?)。

[586] はっつぁん 2008/07/23 00:13

新参者です。

ナポレオン�世(シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト)

【統率】98
【武力】39
【知力】95
【政治】85
【魅力】90

【統率チェックポイント】
初期のクーデタはことごとく失敗したが、そのたびに建て直し、
政権取得後は軍や警察を支持者で固め強力なイニシアティブをとったことが評価される。
パリの大改造も腹心オスマンを据えて采配を振った。

【武力チェックポイント】
普仏戦争に敗れ、セダンの戦いで捕虜になった。ただし、議会の反対で軍事予算が取り付けられず軍が弱体化していたこと、体調が悪かったことなどから能力は凡人-1とする。

【知力チェックポイント】
パリの大改造、万博など、先見性のあるプロジェクトを遂行した。

【政治チェックポイント】
政府や野党など、「抵抗勢力」を仕立て上げて民衆の支持を取り付ける手法は大変巧みであった。
選挙の際には警察を動員して、反対勢力を押さえつけた。
外交面では伝統的な敵対国であったイギリスとの協調的な関係を築き、安定した国際体制を創出した。
叔父よりも長期にわたって皇帝民主主義を掲げて政権を維持したことは評価に値する。
しかし、メキシコ出兵の失敗による弱体化は、普仏戦争敗北の要因となる。よって政治力85。

【魅力チェックポイント】
ナポレオンのブランドをフルに活用し、総じて民衆からの人気は高かった。ただし、普仏戦争で醜態をさらしてしまったため90とする。

【列伝】
ナポレオンの甥。
生没:1808年4月20日 - 1873年1月9日
略歴:フランス第二帝政皇帝
在位:(1852年 - 1870年)

[587] ラスかリス 2008/07/23 17:07

>>586

他の方の評価をもっとよくご覧になってから、
数値についてもう一度再考されることをお勧めします。

[588] はっつぁん 2008/07/23 20:18

高すぎですかそうですか。
でももっと評価してあげてもいい気がする。
内政と外交はうまかったですよ。叔父さん以上に。

[589] はっつぁん 2008/07/23 20:23

当方としては妥当な数値だと思いますが、ご不満があれば修正してくださって結構です。

[590] ガーリックトースト73% 2008/07/24 00:36

>はっつあん さん

ご苦労様です。
評価は人それぞれですし、あんまり萎縮する必要はないかと思いますぅ。。
アドバイスはアドバイスとして「なるほどね」と思えば。

[591] 石垣眞人 2008/07/24 15:56

「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

[592] ラスかリス 2008/07/24 19:17

>はっつぁんさん

前回のコメントが不躾なものであったこと、まずは謝罪します。

私はナポレオン三世を詳細に調べたことはないので指摘が誤っていることは十分ありえますから、
貴方が誤りだと思うなら数値の変更をする必要は無いでしょう。

私が主に高すぎると考えるのは知力です。
彼の行ったパリ改造や万博は高く評価すべきですし、
外交においてもイギリスとの友好と弱小国を相手とする侵略戦争は、
途中まで非常にうまくいっていました。
このことから80以上は与えてもいいと思います。

しかしメキシコ出兵における読みを誤り、また普仏戦争ではビスマルクの策にひっかかり
国民の意向もありましたが安易に開戦をしてしまいました。

これらの失策を考えますと95は高すぎると私は思います。
80台前半から中盤が妥当ではないかと考えます。

あくまで私の一意見ですので参考程度に思ってもらって構わないのですが、
このスレには他にも多くの評価と評者がいます。
それらの積み重ねてきたものを参考に、もう一度数値について考え直してはどうでしょうか、というのが前回のコメントでした。
ただ自分の好きな歴史上の人物を評価してみた、だけならスレに書き込む必要はありませんからね。
その評価が他の人にどう評価されるのか、その評価を受けて自分の評価がどう変わるのか、
そしてそれにより多くの人が納得する評価にすることが出来るであろうことが、このスレの醍醐味なのではないでしょうか。

私はこのスレの代表者でもなんでもないのに偉そうな事を長々と語って申し訳ありませんでした。
これからも評価を続けられていくことを願っています。

[593] はっつぁん 2008/07/24 23:37

はっきりした根拠を添えて丁寧なご回答ありがとうございました。

普仏戦争開戦は奥さんと議会の圧力があって、その前のメキシコの失敗でもはやこれ以上の権威の失墜が致命的であるという彼の認識があったんだと思います。さらに年をとって冴えを失ったこと、結石をわずらったことで判断を誤ったのではないでしょうか。

しかしながら、これ等の数値設定では結果も反映されるべきですし、90点台は多くの方に受け入れられないというのは事実かもしれません。以上の点を踏まえるとご指摘くださった知力は86といったところでしょうか。

[594] 2008/07/25 03:50

>>584
タクティクスオウガか…名作ですね。
あれはルートによってキャラの立ち位置が全く変わってしまうのが印象的でした。
よくSFCにあのボリュームを詰め込んだものです。
しかしやっぱり竜言語魔法はチート過ぎますねw

[595] count.y 2008/07/28 22:22

キューバの英雄カストロの実力はどれくらいですかね。
アメリカ相手に半世紀以上も抵抗してキューバ一国を治めるのは凄い
と思います。しかも、ソ連が崩壊してキューバも苦しいのに北朝鮮より安定してるのは大したものですよ。

[596] やっち 2008/07/31 23:17

>>594

 シナリオに不満はあるのですが(片眼親父との決着が中途半端、デニムは
戦乱中は各民族の圧倒的支持を受けていたのに何で王位についた途端
あんなことになっちゃうんだ?!)等々、
それでも秀逸であることは間違いないですよね。

 完全に余談ですが、あんな名作を作った松野氏が移籍したのに、スクエニのシナリオは
なぜ一向に改善しないのでしょう。

>>595

 興味深いテーマではありますが、存命人物の数値化はしないという不文律がありまして。
 もう少し待ちましょう。

[597] 携帯の人 2008/08/01 00:33

存命がダメなら、この前殺された「運命の娘」ベーナズィール・ブットー女史などどうでしょう

[598] 片田舎の偏屈士 2008/08/01 20:43

最近、史実の人物評価していないなぁ・・・と思うこの頃です。
古代ロシアやペルシアなんか色々と資料が出だしているんですが、
まだまだですね。

ちょっと前にナポレオン3世の評価で意見の食い違いがありましたが、
90代後半は神に近い超人クラスなんで、一国のトップを取ったといえど、長期政権を樹立できなかった人物に対しては、自分では与えないでしょうね。
自分も以前、三国志の関羽を高い評価でした方に苦言を呈したときに色々とありましたが、評価することは大変難しいですね。ホント
自分が文天祥を評価した時には、やはり色々な方の意見がありましたが・・・それぞれの評価があってこそ、数値化スレだと思います。

[599] count.y 2008/08/01 20:46

>>596
すいません知りませんでした気を付けます。

それではゲームキャラでジルオール最強の英雄ネメアともう一人の主人公旅先の主人公をお願いします。

[600] やっち 2008/08/02 02:16

>>599

 いえいえ、謝るほどのことではありません。

 すいません、そのゲームやったことないので、他の方に期待します。

[601] やっち 2008/08/02 02:34

 私も最近史上の人物を評価していないので、久しぶりにやります。

ヤン3世ソビエスキ

統率 78
 戦場では抜群の統率を示した。
 ポーランド貴族たちをよく制しているが、永続させることはできなかったので、
それは魅力で評価する。
 神聖同盟の統御には失敗している。

武力 88
 約3万の寄せ集めのポーランド・ドイツ諸侯軍を率いて、15万以上はいたであろう
オスマン軍を大破する(第2次ウィーン包囲)。
 その前後にもオスマン軍を相手に度々勝利を収めており、戦闘については一級である。

知力 59
 決して頭は悪くなく、致命的な失敗もないのだが、戦闘の勝利を戦争の勝利に結びつけることが得意でない。
 第2次ウィーン包囲とそれに続く対オスマン戦の主力であったにも関わらず、
ポドリア奪還以上の成果に結びつけることができず、成果はごっそりオーストリアにさらわれてしまう。
 対オスマン神聖同盟を統御できず孤立したことから、外交も得意でない。
 衰退するオスマンに注意を注ぎすぎ、興隆期のブランデンブルグプロイセン、ロシアの勃興を座視したこともマイナス。

政治 62
 大きな失政はないが、政治的な成果もない。
 絶対主義の時代に、世襲王制を確立できず、選挙王制を克服できなかったことは大きなマイナス。

魅力 85
 無敵と恐れられたオスマン陸軍をヨーロッパ人で初めて大破した、また
イスラムの攻勢からキリスト教世界を守った英雄として抜群の名声を得る。

[602] やっち 2008/08/02 04:19

−ポーランド王国最後の輝き

 かつてはヨーロッパ有数の強国として隆盛を誇ったポーランド王国も、
彼の時代は、「大洪水時代」と呼ばれる混迷期を経た衰退の時代にあった。
 その中で、軍人として軍功を重ね、ポーランド軍司令官として活躍。
 国王ミハウの死後、議会の貴族たちに国王として推戴される(当時のポーランドは選挙王制)。即位後も対オスマン戦に活躍。
 1683年、オスマン軍がウィーンを包囲すると(第2次ウィーン包囲)、皇帝から各国に救援要請が出される。
これに応じて、ヤン3世は約3万の援軍を引き連れウィーンの救援に向かう。
 15万を超えるオスマン軍に対し、その総司令カラ・ムスタファ・パシャの統率が行き届いていないことを見抜き、
偵察によってその司令部を察知すると集中的に攻撃して、オスマン軍を大破した。
 この戦勝の後、教皇の提唱によって神聖同盟が結成されると、その主力として活躍するが、
オーストリアの戦果が突出すると、各国の利害が対立し足並みが乱れる。
 ヤン3世はこれを統御することができず、嫌気がさして戦争継続中に帰国する。
 帰国後は、自身の子に王位を世襲させることで、ポーランド混迷の原因となっていた選挙王制を覆そうとするが、
最終的に失敗する。
 彼の治世、ポーランドは大きく国威を伸張させたが、それは彼の個人的力量によるところで、
それを永続させることができなかった。大選挙侯の下で勢力を伸張するかつての属国ブランデンブルグプロイセンの勃興を
座視したことも後の
憂いに繋がっている。
 ポーランド王国はその後2度と浮揚することなく、ヤン3世の治世は最後の一瞬の輝きとなった。
 同じく選挙王制を克服できなかった隣国ドイツは、30年戦争というツケを払うこととなったが、
ポーランドはやがて亡国の憂き目というツケを払うこととなる。

 軍人としては相当優秀ですが、政治家としてはそこそこです。
 優秀な参謀又は宰相(オクセンシェルナ級とはいわないまでも。)が付けばいいのですが、
史実ではそうならなかったので、亡国を招くこととなってしまいました。
 もちろん、彼一人の責任ではないですが。

[603] count.y 2008/08/02 21:32

そういえば鄭成功のスレはまだ出てませんね。
我輩はかなりの英雄と思いますが、どうです。

[604] 閑話休題 2008/08/02 21:35

レス番が〜00になったら、地理公さんが一覧載せてくれるまで投稿自粛しましょうよ…

[605] 地理公 2008/08/03 14:06

600までに評価された人物

>>503 東条英機
>>507-509 劉禅
>>511 金日成
>>514-515 アンリ・ギザン
>>518-520 ムハンマド・イブヌル・カーシム
>>521-522 レオン3世
>>523-524 コンスタンティノス5世コプロニュモス
>>525 周恩来、李密
>>527-528 周恩来
>>530 楊素
>>531 ベニート・フアレス
>>532>>535 マクシミリアン1世(メキシコ皇帝)
>>534 フランツ・ヨーゼフ1世
>>536-537 ポルフィリオ・ディアス
>>538 シャルロッテ(メキシコ帝国皇后)
>>539 アグスティン・デ・イトゥルビデ
>>562 イアン・ダグラス・スミス
>>564 ムハンマド・アリー・ジンナー
>>566 ダヴィド・ベン=グリオン
>>567 アンテ・パヴェリッチ

[606] 地理公 2008/08/03 14:06

>>568 サパルムラト・アタイェヴィッチ・ニヤゾフ
>>571 ボカサ1世
>>573 フェルディナンド・エドラリン・マルコス
>>574 ヌルハチ
>>577 ホンタイジ
>>579 順治帝
>>580 カミーユ・デムーラン
>>581-582 嘉慶帝
>>583 道光帝
>>586 ナポレオン3世

>>505-506 エルロン
>>543-544 ルルーシュ
>>545-546 枢木スザク
>>550-551 初代メガトロン
>>553-554 クシャナ
>>556-557 デネソール二世
>>559 メリアドク・ブランディバック
>>584-585 デニム・モウン

[607] 地理公 2008/08/03 14:12

>>603
親父の鄭芝龍のほうが総合力では上になるかも? なんて思います

>>604
いや、来るのが遅れたりするんで、あんまり気にしないでいいですよ

[608] さば缶 2008/08/05 07:52

ども
発酵が進んでシュールストレミングになったという説もある
さばの缶詰野郎です。

すいません、まとめサイトの更新ですがもう少しお待ちください。
。。
お盆くらいにはできると思います。

[609] ガーリックトースト73% 2008/08/20 21:16

5日くらいサーバーが停止したみたいですね。
やっぱり更新はもう少し長引きそうですか?

[610] ZIRIA 2008/08/21 23:10

天智天皇

【統率】24
蘇我入鹿暗殺まではそこそこ人をまとめている感があるが、
孝徳天皇、石川麻呂、大海人皇子等々相次ぐ粛清と離反。
【武力】52
暗殺・謀殺が得意だが、軍を率いた実績は多くない。
とはいえ負けは無いので普通レベル。
【知力】17
百済一辺倒という外交政策の誤りから国家滅亡の危機を
招く。大海人皇子を処分しておかなかった辺りも
レベルが低い。中臣鎌足に操られていた感がある。
【政治】71
評判は悪いが権力を確実に奪取し、大化の改新と言われる
一連の政治改変を実施(改革とはいえない)。強引な遷都等
実行力はある。
【魅力】21
摂政時代からその政策は不人気であり、人望が有ったとも
思えない。民からも部下からも女性からも不人気。

特技
暗殺 政敵を高確率で暗殺する。
謀殺 忠誠度の低い部下を高確率で謀殺する
遷都 国力を浪費して都を移す。
歴史改竄 陰謀家の部下の後継者が都合の良い歴史を書くので
歴史的評価がすべての数値で20〜50上がる。

この人ダメ人間だと思うのだが…
陰謀家・猜疑心の塊・暴君・外交失敗
家康と頼朝と清盛と秀吉の悪いところを集めるとこうなるのか…
大海人皇子を排斥してないから尊氏の優柔不断も入るかな。

[611] さば缶 2008/08/22 18:57

>>609
はい。お待たせしてすいません。
今週末までおまちくださいm(_)m

[612] whangarei 2008/08/23 00:42

 日本の戦国の人物です。

 土気(酒井) 胤治

【統率】49
 遠江発祥の名族の流れであり、
初代と言われる浜氏から何代も経過し、
地域に根付いている。
 第二次国府台合戦の折、
北条家による無体な言い掛かりに対し、
相手が大国である事にも屈っしなかった。
この合戦では同じ上総の里見家側に与し、
合戦自体は里見側が負けてしまったものの、
北条側の追撃を稲毛浜付近で迎撃し、
損害を与えて、以後の追撃を不可能にした。
 以後も含めて苦しい戦いが多かった様だが、
家中から返り忠をする者は無く、
配下の信頼はかなり厚かったかと思われる。
【武力】64
 千葉氏旗下の地方領主の一人である小身ながら、
2〜3万と言われる北条氏政の送った大軍に、
敢然と立ち向った。
この時期盟友であった里見、長尾家も
それぞれの事情により、援軍が送れなかった。
 殆ど四面楚歌状態であったが、更に大軍による恫喝で、
一族の東金(酒井)家が敵側に回り、
土気方攻撃に加わったのは、相当痛かったと思われる。
 しかしながら屈せず、自身の堅固な城と、
周辺の有利な地形を大いに活用して、
敵側に大損害を幾度も与えた。
【知力】29
 単独で大国の北条家を相手にする訳にはいかず、
反北条の他国との同盟関係を利用して、
自領への軍事的な圧力の分散を図ったりもした。
 無体に屈せず、大軍を何度も撃退しているものの、
このままでは滅亡は目に見えているので、
数年後に子息を小田原に質に出して降伏した。
 その後、子息に家督を譲って、家名の存続は果たすことが出来た。
【魅力】41
 地方領主ではあるけど、
結構な家柄で、知名度はそこそこあった模様。
 苦しい激戦や包囲等の状態が何年も続いたものの、
離反者が出ず、内部崩壊など起こさなかったのは、
結構な力量の持ち主だったかと思われる。

[613] さば缶 2008/08/25 07:18

できたところまで更新しました。
残りも追って更新します。

[614] ハーン 2008/08/25 12:04

あと一息、でもありませんが、更新頑張ってください

[615] もうこいつは二度と球界に関わるな 2008/08/25 23:24

星野仙一

【統率】55 一般並みの統率力はある。しかし、長期的な視野に立った統率はそこそこできるも、短期的な統率力は全くと言っていいほど不得手。また柔軟性、機敏性に欠ける。

【武力】62 意外かもしれないが、自身の性格を見ると「強い物には媚びへつらうが、弱い物には傲慢になる」。また普段は穏健。
ただ乱闘や審判への抗議時に特殊能力が加わり、パワーアップ。

【知力】15 北京五輪後の会見を見た時、こいつに一番欠けているのはこの部分だなと感じた。何よりも現場掌握能力が無い。
また敗戦から反省しようとする精神も感じられない。辛くなると現場から逃避しようとするのもマイナス。

【政治】70 監督としてよりもGMの方がむしろこの男には向いている。根回し能力は球界でもピカ一。
球界以外でもこの能力一つで世間でやっていける。

【魅力】48 財界やスポンサーからの人気はある。しかし、一方で強権的なやり方に反発する人も少なくない。

【特殊能力】乱闘 武力+30 審判への抗議武力+20(両方ミックスで+38) 短期決戦×(統率−40 知力−15 政治−35)

星野仙一(1947〜) 北京オリンピック野球日本代表
下馬評は高かったが、結果はメダルなしに終わった。

[616] もうこいつは二度と球界に関わるな 2008/08/25 23:26

615修正 北京オリンピック野球日本代表→北京オリンピック野球日本代表監督

[617] 喝食 2008/08/27 01:04

失礼します。自分も今回の結果を悔しく思っている一人ですので似たような感情がありますがやはりまだ亡くなっていない人は評価しない方がいいのではないでしょうか。事実オリンピック前と後ではかなり評価が変わったでしょうし。生きている限り名誉挽回の可能性があります。

毎回楽しく拝見させていただいております。投稿、不適切でしたら大変申し訳ありません。

オヤケアカハチ
【統率】44 石垣島を掌握し琉球王府への朝貢を絶った。島の首長レベルで凡人より多少上

【武力】46 数に勝る琉球王府の軍に対し善戦したものの奇襲により破れている。組織化された軍に対抗し得る力はなかった。

【知力】18 その後の人頭税などの収奪を考えると先島地方のみで独立の道を歩もうとした点は評価できる。しかしそれを可能とする知見は持っておらず徒に追討を招いてしまった。

【政治】33 居城跡とされるフルストバル遺跡が石垣島に残る。小規模村落をまとめて動かす力はあっただろう。外交という観念があったかは疑わしい。

【魅力】60 琉球側からは化け物のような扱いだが石垣島では現在でも人気があり悲劇のヒーローである。

特技
呪詛 自軍の士気が上昇、一神教徒以外の軍の指揮がランダムに下がる

先島の抵抗者

沖縄本島よりもさらに南に位置し石垣島を中心とする八重山諸島の15世紀末の英雄。現在日本最南端の有人島である波照間島で生まれた。容貌魁偉、頭髪は赤く長く歯は成人の如く生え眼光人を射殺すと伝えられるように鬼子の特徴が備わっていたので断崖の岩場に捨てられたが近くの集落の人に助けられ育てられたという。その後石垣島の大浜村で勢力を拡大。1500年には琉球王府への朝貢を絶ちオヤケアカハチの乱を起こした。これに対し琉球王府は宮古島の豪族仲宗根豊見親を先鋒、アカハチのライバルだった石垣島の豪族、長田大主を案内として約3000人の追討軍を派遣した。海を前にして布陣したアカハチの軍は王府軍に対し呪詛をかけ、意気盛んで王府軍はなかなか上陸できず攻めあぐねたが夜になってからの奇襲によって上陸は成功しアカハチの軍は壊滅、その後八重山諸島で大きな抵抗運動が起こることはなかった。ウルトラマンのレッドキングのモデル。

[618] 「ど」の字 2008/08/27 17:51

>>615
 彼のことを考えると、頭が痛くなってきます。
 人として欠けている部分が多過ぎ、およそ人を率いる職業に不向きです。特に貪欲に過ぎ、部下の離反を招きやすい部分は致命傷(この欠点は、NPBで成功した名監督と言われる人には得てして憑いて回る弱点ですが。野村監督とか)。
 名誉を挽回できる可能性は無いでしょう。
 ただ、まだ存命の人物ですので、コーエー数値化はすべきではないかと思います。このままだとまだ評価を下げる可能性は大きそうです。

 自分が評価するなら、恐らく日本史上最低の将軍である「鬼畜」牟田口将軍に匹敵する無能でしょう。日本スポーツ史において、NPBを終焉させた愚将として名が残りかねません。

[619] ガーリックトースト73% 2008/08/27 21:26

デスラー総統

【統率】 98
【武力】 98
【知力】 92
【政治】 96
【魅力】100

【特殊能力】粛清 挑発 鼓舞 強運 慧眼 弁舌
デスラー戦法:物質ワープを利用した宙間奇襲攻撃。高確率で混乱
不死身   :生存率大幅アップ。
プレッシャー:戦闘開始時、敵艦隊の士気がダウン(小)

【統率チェックポイント】
ガミラス総統時代はいかなる劣勢に陥っても1人の裏切り者も出さなかった。(1度失敗すれば死刑と通告していたにも関わらず)
シリーズを通して宇宙の大部分を支配する総統、強大な支配者であり続け、恐怖・崇拝・懐柔とあらゆる手段での人心掌握を図った。
しかしガルマン・ガミラス総統時代、再び地球やヤマトと戦う可能性を避けるため、
「オリオン腕方面の恒星系には、手を出すな」と将兵に厳命したにも関わらず、東部方面軍の独断専行を許す結果となった。
ただ、彼の長い戦歴・政歴の中で、組織の把握が行き届かなかったのはこの一度だけである。

【武力チェックポイント】
ガルマン帝国瓦解後は自ら最前線で指揮を執る機会が多く、暗黒星団帝国のマゼラン方面軍には艦隊の数・性能ともに劣る戦いであったため苦戦を強いられたが、不利と判断するやすぐさまヤマトに加勢を求め、辛くも退けている。
ガルマン・ガミラス帝国はわずかな手勢とともに彼自らが切り開いた領土であり、わずか1年で宇宙最大の領土を誇るボラー連邦と勢力を二分するまでに至った事実は驚異的とさえ言える。
また、白色彗星帝国の客将としてヤマトと戦い、判定勝ちとはいえヤマトに勝利した唯一の人物でもある。

【知力チェックポイント】
ガミラス本星の状況を察知するや、即座に地球に標準を合わせて攻撃している。常に冷静・冷酷に物事を見極められる人物であり、取り乱すことはない。しかし、極めて近しい人間との関わりでは僅かに私情が見え隠れすることもある。
ヤマトの危険性を暫く軽視していたが、ガミラス帝国瓦解後は一貫して慢心することなくヤマトと相対していることから、誤りは即座に直すことのできる柔軟性を持つ事が判る。
ただ、地球人を奴隷化する方針を頑なに変えることなく、「窮鼠猫を噛む」可能性を甘く見ていた事実は否定できない。

【政治チェックポイント】
作品中でも優秀な人材の多いガミラス人の中で、常にトップとなれる政治的才覚を有する。
常にガミラス人の安寧を望み、清廉潔白な政治を貫いた一方で、失敗した部下・下品な部下は容赦なく粛清の対象とする。
あれだけの大帝国にも関わらず、生涯ただ一度も自分に比肩しうる政敵を作ったことはない。常にトップ、常にNo.1。

【魅力チェックポイント】
自分以外の崇拝の対象は許さないとするなど傲慢な面もあるが、ガミラス人からは神とさえ言える絶大な尊崇の対象。全宇宙にも名が知られており、ガミラスを嫌う人間からも評価する声は多い。
人物的にも常に物腰柔らかで礼を失することのない紳士であり、ガミラス人に対する信頼、また好敵手に対する賞賛や敬意も欠かさない。
何度挫折しても、必ずどこからともなく人間が集まってくる強力なカリスマ性は、この冷酷な独裁者が時折見せる義理堅さ・誠実さからも現れているようだ。

【作者から一言】
ご存知、宇宙戦艦ヤマトのガミラス帝国総統、デスラーです。
作品を見た方は理解されていると思いますが、言うまでもなくシリーズ屈指の才覚を有し、その作品貢献度は極めて高いと言えるでしょう。
圧倒的な存在感は本作を知らない人にも影響しており、デスラーと聞いて「ああ。あの!」と思う人も多いと思います。
この人物はまさに作者の松本零士が具現化した「理想の独裁者」であり、粛清も厭わない果断さ・冷酷さの一方で、汚職とは一切無縁の清廉潔白さは見るべきものがあると思います。
能力は何をやらせても超一流。サポートはないよりあった方がいい程度で、これだけの才能があれば自分1人で立身出世することも思いのままでしょう。

【列伝】
生没:???? - ????
略歴:ガミラス帝国総統、ガルマン・ガミラス帝国総統
備考:「ガミラスに下品な男は不要だ」「逢いたかったよヤマトの諸君」など数々の名言を残す

[620] ガーリックトースト73% 2008/08/27 21:33

>>613 さば缶 さん
まとめサイト更新ご苦労様です。
"スレで探す"の目次の項の「アテルイ」が「アルテイ」となっていますので、お手数ではありますが訂正のほどをよろしくお願いします。

[621] 解釈学 2008/08/28 00:56

>613
まとめサイトをいつも楽しく見ています(こういう表現でいいなかな?)ご苦労様です。これからも頑張ってください。

>618
ニュースで結果だけしか見てないのですが、試合内容は燦々たるものだったようですね。ニュースキャスターの人たちは割と、良いように伝えていたのですが・・だいぶオブラートに包んだ表現だったようですね。牟田口将軍にたとえられるようでは、お終いですな。
そう考えると、帰国後の記者会見は大変見苦しい印象を持ちますね。
自分にはまだまだ次があると自負しているあたりがなんとも・・

[622] 喝食 2008/08/28 01:46

>>618
失礼、生きていれば挽回の可能性があるというのは一般的に言って、誰にでも少しはという程度の意味でした。実際問題彼が挽回する可能性はおっしゃる通り、年齢的にもゼロに限りなく近いでしょうね。まだまだ下がるかもという意味で評価できないという方が妥当でしょうね・・・。

 玉藻前

【統率】10
【武力】90
【知力】68
【政治】55
【魅力】91

【特殊能力】妖術 幻術 変化 誘惑

【統率チェックポイント】
完全に一匹狼じゃなくて一匹狐。組織を纏め上げたり強固にしたりなんて興味なし。逆に組織の内側に侵入し、破壊することを喜びとしている。やろうと思えばできるだろうが眷属を従えている様子もない。
【武力チェックポイント】
地の利があり、幻術を頼りにしているとはいえたった一匹で朝廷の数万の軍と互角に渡り合う。軍を率いることはできないが自分だけで十分強い。化け物レベル。
【知力チェックポイント】
600年以上生きており知らぬものはなく、また狡猾だが自分の術への過信からか迂闊にも正体を陰陽師に見破られてしまっている。那須野で捕捉されてしまっている点もマイナス。
【政治チェックポイント】
殷、周、日本と巧みに権力者に取り入り国を傾けて滅す、または乗っ取ろうとする。しかしその成果は多くは妖術や変化の術頼みであろう。
【魅力チェックポント】
国を傾けるほどの絶世の美女。また妖狐の代表格であり人を惑わすことなど朝飯前だろう。しかし狐状態だとマイナス70か。

【列伝】 三国伝来白面金毛九尾の狐
殷の妲己などと同一視される妖狐。鳥羽院の御所に突然現れその美貌と尋ねて知らぬものはないという博識、弁才の巧みさで院の寵愛を得る。金色の光を放ち輝くことから玉藻前と呼ばれた。それからにわかに上皇は病に伏せり医者の手当も効果がない。陰陽師安部泰成に占わせたところ病は玉藻前によるものだという。そこで泰成は泰山府君祭の幣取を行ったところ玉藻前はその正体を現し那須野に逃亡したため朝廷は三浦介義明、上総介広常を将軍に数万の兵を擁して那須野の玉藻前を攻撃した。妖狐は怪しげな術を使い激しく抵抗、多くの兵が倒れ軍は退却を余儀なくされる。義明らは対策を整え再度攻撃、安部泰成の助力によりようやく玉藻前を討ち取った。妖孤の死骸は殺生石とよばれる毒石となった。

日本三大妖怪の一。二尾という説もありますがせっかくなのでなるべく大きいスケールの物語を採用しパワーアップさせました。中国から渡ってきてなければ数値は下がると思われます。

[623] 扇面 2008/08/28 02:31

ずっとこのスレのファンでしたが投稿は初めてです。日本史上屈指の有名人だが、未だに評価されてない人をやってみます。

藤原道長(966年〜1028年)
【統率】 71
先人の蓄積が多くあるにせよ、公任や実資、行成といった優秀な人材を十分使いこなし、
摂関政治の最盛期を現出した。盛期の国のトップとしては低い数字かもしれないが、
当時の貴族社会はせいぜい数百人程度の集団なのでこの程度も与えれば十分だと思う。

【武力】 39
豪放磊落な性格で武士に向いてたと思われるが、生涯発揮する機会が与えられなかったのでこの数字。
源頼光が心服したというのも好材料。刀伊の入寇への対応は現代から見ると杜撰な面があ
当時としては常識的な判断で後生の禍根にもならなかったので、プラス材料にもマイナス材料にもしない。
個人的に平安貴族に40以上を与えるのが躊躇われるので、ギリギリまで上げてこの数字。

【知力】 68
定子への嫌がらせや三条天皇への傲慢な態度などは宮廷政治家らしい嫌らしさを感じさせるが、
長徳の変の落ち着いた対処や三条天皇の皇子敦明親王に娘を嫁がせる配慮をみせるなど、
彼の非凡な政治センスを伺わせる。

【政治】 80
藤原氏伝統の手段である天皇との婚姻策を生涯にわたり推進し、ついに一家立三后を実現させる。
現代から見れば運と血縁に頼りすぎな方法に見えるが、当時はこれが最も有効な方法である。
御堂関白と言われるが、実際は敢えて関白にならず、内覧というそれに近い権限を得た上で、
公卿の筆頭として自分から会議を主導する能動的な政治手法も評価できる。道長が亡くなると
公卿たちはこうした積極性を失っていき武士に政権を取られることになる。

【魅力】 95
豪快で大らか性格で、人の上に立つ風格を持ち多くの人に慕われた。そうした個人的な魅力も
さることながら、彼の王朝文化の保護者としての手腕を高く評価してこの数字。源氏物語は言うに及ばず、
仏像の定朝、往生要集の源信、三蹟の一人で和様書道の完成者である藤原行成、少し時期が早いが陰陽道の
安倍晴明とそうそうたるメンツが並ぶ。もし道長がいなかったら、これほど華やかな文化にならなかった
と思われる。彼らの生み出した文化は、日本文化の非常に重要な要素となり、後世まで憧れの対象になった。

【特殊能力】強運

【作者から一言】
日本の歴史上屈指の有名人ですが、案外評価が難しい人です。あまりに運と先祖たちの積み重ねが大きく、
彼個人の功績が見えづらいからです。しかし、細かく見ていくと所々に彼の非凡な才能が伺えます。
藤原氏、ひいては貴族の没落が始まり時代が中世に移っていくのは、彼の築き上げた外戚関係が途切れ、
その政治的遺産が無くなった時なのは、なかなか象徴的な出来事だと思います。

[624] 喝食 2008/08/28 10:33

>>623
貴族政治の代表者でありながら武士の風格、気質を持つ興味深い人物ですね。尊敬できるかはわかりませんが・・・。月はいつかは欠けていくものですが。その圧倒的な自信、豪放な人物だったのでしょうね。

 八岐大蛇

【統率】29
【武力】95
【知力】 8
【政治】 5
【魅力】15

【特殊能力】八俣 一度に八回攻撃が可能

【統率チェックポイント】武力によって生贄をとってはいたがそれ以外に何かをしたということはない。する気もない。

【武力チェックポイント】強力な竜神。嵐の息を吐き、松や柏が背中に生え八つの山と八つの谷に広がるほど巨大。いくらスサノオでもこんなのと真正面からやってられない。ただしヒドラのように不死ではない。

【知力チェックポイント】頭が八つあろうが所詮は爬虫類。明らかに怪しいワナにも気付かず、酒を飲んで酔っ払って討ち取られる。

【政治チェックポイント】当然政治的行為能力も皆無に近い。ただ現われて人を襲うだけ。

【魅力チェックポイント】竜族だろうが蛇に近い。大凡、人望なんてあろうはずもなく。

【列伝】荒れ狂う河川の化身
高天原を追放された素戔鳴尊が出雲の簸の川の辺りに降りたところ翁と媼が少女をかかえて泣いている。事情を尋ねると答えて言うには翁は脚摩乳、媼は手摩乳その娘である少女は奇稲田姫といいここには八岐大蛇という化物がやってきて八年間、毎年一人の娘を吞みついには娘は奇稲田姫一人になってしまった。まもなく八岐大蛇がまたやって来るという。そこで哀れに思った素戔鳴尊は奇稲田姫を嫁にもらうとの条件で八岐大蛇退治を引き受ける。素戔鳴尊はまず棚田を八面に区切りそれぞれ翁に用意させた酒樽を置いて待ち構えた。すると頭と尾が八つ、眼は赤酸漿のように真っ赤に光る八岐大蛇がやって来た。背には松や柏が生え八つの山と八つの谷の間にまたがる巨大さであった。八岐大蛇は酒を発見すると樽それぞれに頭を入れて飲み干し酔っ払って眠ってしまった。この隙に素戔鳴尊は手にした十握剣で八岐大蛇を粉々に切り刻んだ。尾を斬る時に剣先が少し欠けたためその尾を割くと中から剣が出てきた。天叢雲剣、後に草薙剣といわれる剣である。素戔鳴尊はこれを天つ神に献上した。

ギルガメッシュ叙事詩のフンババのように人間の文明に征される自然の象徴ですね。それまで自然の脅威になすすべがなかった人々が鉄の力によってそれを克服した、またはしようとした。その結果失われたものもありますが。

[625] やっち 2008/09/01 19:08

>>623

 彼の遺産が途切れた時期に立った後三条が、機を見るに敏でかなり有能な人物だったのも
藤原氏には不幸でしたね。
 冷泉や花山のような人物だったら藤原氏もそう早くは転落しなかったかも。

[626] ガーリックトースト73% 2008/09/02 22:53

モハメド・シアド・バーレ

【統率】 5
【武力】38
【知力】44
【政治】 3
【魅力】 8

【特殊能力】

【統率チェックポイント】
数年間の間に何度もクーデター未遂・暗殺未遂を起こされ、それにより恐慌状態に陥り、縁故・氏族主義を推し進めて集権能力のなさを露呈。政権末期には大統領官邸を中心にした数百メートルの範囲にしか支配力が及ばず、もはや統制能力以前の問題。

【武力チェックポイント】
イタリアのファシスト入隊経験を持ち、黒人でありながらイタリアの士官訓練コースを首席で卒業。1969年には大統領暗殺を契機にクーデターを指揮、6日で首都を制圧している。
エチオピアとの10年間にわたる"オガデン戦争"では、現有戦力7万人全てを投入し地上戦を優位に進めるものの、ソマリア国内で内戦が激化したため頓挫している。

【知力チェックポイント】
汚職にまみれた国内の民主主義を否定し、科学的社会主義を掲げたまでは良かったが、彼の急進的な理想主義は国民に理解されず、結果社会機構を弱めるだけに終わった。
銀行国有化や男女平等、女性組織の構築など、後の世を考えると着眼点と先見性は決して低くない。しかしその改革のほとんどは従来の部族社会を根底から否定するものであり、反発は容易に考えられたのだが。その後彼は失敗の責任を国民に転嫁したり、否定したハズの民主主義を掲げて権力にしがみ付いた。

【政治チェックポイント】
現実味の薄い改革に打ち込み、悪戯に国内を混乱させ、ソマリア内戦の直接的原因を作った第一の人物。エチオピアとの戦争で自らの権力が脅かされつつあり、アメリカの関係を強化し、5300万ドルの経済援助と4000万ドルの軍事援助を取り付ける。唯一彼が謀略の才能を見せたのは側近を使ってシェルマルケ大統領を暗殺した時くらいものだろう。

【魅力チェックポイント】
就任当初こそ汚職の根絶・縁故主義の打破を訴えて国民の支持を得るも、間もなく縁故主義や「近代化」をさらに推進し部族勢力の反感を買う。理想主義者で気が短く、自己弁護に優れ、猜疑心の強い性格で一部の恩恵を受けた者以外の信頼は皆無。事あるごとに公約無視を行い、国民は失望を通り越して見放すまでになり、政権末期には"モガディシュ市長"と揶揄され、もはや首長と同格にまで落ちぶれている。

【作者から一言】
アフリカの実情は中世社会であり、部族や馬族が行きかう未開地域も多く存在します。彼の不幸はファシストに被れ、それをそのままソマリア社会のピースに歪な形ではめ込んでしまったこと。妥協はよく政治において批判の対象になりますが、それが全く無しでは反発を招くだけであり、賢い選択とは言えないでしょう。理想主義者であるが故に「こんなにいい事なのになぜ従えない?」と国民をいつしか自分より下に考えてしまい、結果舵取りを誤った悪例と言えるでしょう。実績と呼べるものがほぼ皆無である為、能力も厳しく採点させてもらいました。

【列伝】
生没:1919年? - 1995年1月2日
略歴:ソマリア陸軍司令官(准将)、ソマリア第3代大統領
在任:1969年10月21日 - 1991年1月27日

      ——アフリカ史上最悪の暴君——

1919年、エチオピアのオガデン地方のシラボ町で生まれたとされる。ダロット族の支族の1つ、マレハン族出身。1969年10月15日に第2代大統領シェルマルケが暗殺されると、少将となっていた彼はこの機を逃さずクーデターを決行。同21日にはモガディシュを制圧、11月1日には彼自身を議長とする最高革命評議会を設立した。間もなく憲法を停止し、実権を掌握。科学的社会主義への転換を発表して、国名をソマリア民主共和国と改めた。
クーデター直後の彼は意欲にみちた改革者で、ソマリアの近代化を致傷した。しかし思い通りにいかない改革を見るに、次第に猜疑心を肥大させ、権力欲のみの暴君へと変貌。治安局や治安裁判所を設立し、法律の訓練を受けていない軍人による司法活動を正当化、さらに権力をマレハン族を中心に固めて世論の反発を買う。そしてオガデン戦争の敗戦に伴い、流入した多数の難民との摩擦でソマリア内戦が勃発、ついに権威失墜に至る。軍を頼る強権統治を開始した彼が、玉座から引き摺り下ろされるのは時間の問題であった。
1990年3月には、大規模な反政府勢力の攻撃が始まり、5月には首都全域に戒厳令が発動される。12月にはアイディード将軍率いる統一ソマリア会議が激しい戦闘の末首都を制圧。彼はなおも2回ほど首都奪回を企てたが失敗に終わり、結局ケニアに国外逃亡、その後ナイジェリアに亡命、1995年1月2日にナイジェリアのラゴスで心臓発作によって死亡した。

[627] ガーリックトースト73% 2008/09/04 02:47

ヤーセル・アラファート

【統率】74
【武力】60
【知力】64
【政治】62
【魅力】77

【特殊能力】
技師:物作りの才能。技法習得・活用に限り知力+5

【統率チェックポイント】
学生時代にはパレスチナ学生連合の議長として、成人後はファタハやPLOの議長として選出され、統率力を発揮。しかし晩年は穏健派となったせいか壮年期までの精彩を欠き、それまで何とか抑えていた過激派(PTFP、黒い九月など)の独断専行を許す結果になり、イスラエルどころかパレスチナの信頼も揺らいでいる。

【武力チェックポイント】
PLO議長就任後、エジプト軍の元工兵大尉としての経歴を生かし、PLOを率いてイスラエル側に越境攻撃を決行、迎撃してきたイスラエル軍の反撃を退け、一躍時の人となった。生涯の大半を通じて武力闘争を続け、国軍(ヨルダン、イスラエルなど)を相手にテロやゲリラ活動で翻弄し続けた。

【知力チェックポイント】
時流を読む能力はなかなかのもの。赤軍が活発化した70年代は一貫して過激派の最右翼として活動を続け、冷戦終結後の90年代は穏健派に鞍替えし、イスラエルおよび西側諸国との融和を図った。しかし何度も本拠地を鞍替えしており、1か所で地盤を固める才能には恵まれなかったようだ。提携国との根回しも弱く、捨てられる時は早かった。

【政治チェックポイント】
晩年はイスラエルとの和平に向けた協議は挫折、ハマースとの外交交渉も暗礁に乗り上げるなど、政治的な失敗は少なくない。しかし失脚をするたびに何度も復活し、死ぬ直前までパレスチナ重鎮としての地位を保持し続けた。

【魅力チェックポイント】
パレスチナ人の評判は支持8割、批判2割といったところ。死の直前にフランスで入院する際、西側諸国が「厄介者」扱いしたように、欧米諸国での好感度は低い。穏健派になって以降はイスラエルからも過激派からも危険視され、何度も命を狙われる羽目に。
しかし、それでも彼以外に混迷極まるパレスチナ情勢をカリスマ性で纏められる人物は皆無であり、事実彼の死後のパレスチナは集団指導体制に移行しており、今後の先行きを悪くする大事件であったことは間違いない。

【作者から一言】
パレスチナの人物と聞いて、最も有名な人ではないでしょうか。かつてタレントの松本明子が電波少年の企画で現地を訪問し、ニコニコ笑いながら応対していたのが印象的です。彼は何と言うか、三国志の劉備に似ている気がします。国から国へ移り住む「ヤドリギ」である点、豪快に大笑いする点、何度でも表舞台に復活している点なんかはそっくりだと思います。
能力は統率と魅力が高い「神輿タイプ」。まつり挙げられれて初めて力が発揮できる人物と言えるでしょう。

【列伝】
生没:1929年8月 - 2004年11月11日
略歴:パレスチナ解放機構 (PLO) 執行委員会議長、パレスチナ自治政府初代大統領
在任:パレスチナ自治政府初代大統領(1996年 – 2004年)

      ——パレスチナの不死鳥——

本名、ムハンマド・アブドゥッラウフ・アル=クドゥワ・アル=フサイニー。エルサレムのアラブ系スンナ派ムスリム(イスラム教徒)の織物商家の5番目の子として生を生す。出生地はハッキリせず、これに絡んで彼がパレスチナ人であるかは不明。
少年時代をカイロおよびエルサレムで送った後、カイロ大学で工学を学んだ。学生時代はパレスチナ学生連合に所属、1952年〜56年まで議長として活躍した。同年、スエズ危機が起こるとエジプト軍に入り、第二次中東戦争で工兵大尉として従軍。戦後はクウェートで技師として働きながらパレスチナ解放運動を続け、後のPLO主流派となる「ファタハ」を結成。63年にシリアにてイスラエルに対する武装闘争に入り、ファタハをパレスチナ解放運動の主流勢力に成長させた。のちにファタハがPLOに加入すると、アラファートは69年にその議長に就任、パレスチナ解放運動の指導者に立つ。
翌年、PLOによるテロがヨルダンを巻き込んで国際問題になると、難民による治安の悪化を恐れたヨルダン国王フセイン1世は、9月14日に戒厳令を布告。国王親衛隊のベドウィンを投入、PLOを攻撃しアラファートはヨルダンから追放される。その後レバノンに移るが、間もなく追放された。
その後は穏健派として周辺諸国を睥睨、93年イスラエルと和平を成立させ、イツハク・ラビン同国首相と会見した。翌年、和平協定に基づいてパレスチナ自治政府が設立されるとパレスチナに戻り、96年1月の選挙でその大統領長官に選出された。
しかしその後ラビン首相が暗殺され、イスラエルで強硬派が主流となるとアラファートは窮地に陥り、2000年以降のハマースの活動激化を契機にイスラエル軍によって事実上の軟禁状態に置かれ、04年10月、体調の悪化を理由に治療のためフランスに移送、11月11日午前3時30分にパリ郊外のペルシー仏軍病院で死去した。

[628] ガーリックトースト73% 2008/09/04 03:05

>>627
>在任:パレスチナ自治政府初代大統領(1996年 – 2004年)

>在任:パレスチナ自治政府初代大統領(1996年 - 2004年)

に訂正します。どうやらまたしても文字化けのようです。

[630] ハーン 2008/09/06 03:38

 それでは、以前に予告していたある法則による数値化をこれから行いたいと思います。
 以前よりは人数が少ないので、幾分楽でした。

>>619
 興味深い人物なんですが、未だに本編を全て見たことはないんですよね。

>>622
 おお、とうとう妖怪が出てきたか。随分と自由なスレになったものですね(私が元凶の一人)。
 しかし、この狐さん、周の時代から日本に来るまでなにやってたんだろ……

>>623
 かなり運がいい人というイメージがありますね。有名人なんですが、むしろ周りのほうがさらに有名であまり出てこない印象です。
 それにしても、平安時代は比較的資料が揃っているのに、あまり人気がありませんね

>>624
 この手の怪物の期限は探っていくとなかなか面白いですね。
 日本最強の妖怪この蛇か、例の狐さんのどっちかでしょうね(武力的な意味合いで。怪現象となると、色々面倒なので)。

>>626
 これは酷い。
 ひょっとしたら、ソマリアが不味いことになっている要因の一つがこの男かもしれませんね。
 さすがに独立からここまで時間が経過しているのに、植民地支配の影響を論ずるのもバカらしいので。

>>627
 晩年はいるんだかいないんだか分からない人だったんですが、それでも議長なのは、若い頃に積み重ねてきた功績のためなんでしょうね。
 それにしても大丈夫かな、あの辺……

[631] ハーン 2008/09/06 03:39

 アレクサンドロス大王

 紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日

統率……83 父フィリッポスの死後、混乱したマケドニアを纏め上げ、ペルシアとの戦争を開始した。遠いインドへ遠征している間はさすがに、本国や占領地域で幾つか問題が起きたようだが。遠征の最後のほうでは王というよりは、探検家であった。

武力……100 世界史上最強の指揮官。世界帝国ペルシアの圧倒的大軍を名采配で悉く撃破し、ギリシア人にとって未知の世界であるインドにまで進出。故郷に帰りたがっている兵士を率いて勝利を収め続けた。遊牧民に対しても、消耗戦をしかけて全滅させた。マケドニア・ファランクスは父フィリッポスから受け継いだものも大きいが、彼自身の軍事的才能は否定できない。

知力……82 確かなビジョンと優れた判断力で終始戦役をリードし続けた。これもペルシアに勝利を収めた要因の一つであると考えられる。だが、次第に狂気を感じさせる言動が増えていき、個人的な挑戦のためにマクラン砂漠を踏破。この時の死者は東方遠征で今まで失った兵士たちよりも多かったと言われている。

政治……52 大帝国を建設したまではよかったが、その支配体制を整えることが出来なかった。というより、やる前に逝ってしまった。マケドニア人とペルシア人を馴染ませるための政策は大抵強く反発され、結局断念したであろうことはディアドコイ戦争の有力馬を見れば分かります。だが、戦役の前半ではギリシアの各ポリスから協力を取り付けており、能力がないわけではないと思われる。

魅力……93 残虐な面もあるが、概して英雄らしい英雄だったとと思われる。ディアドコイたちは彼の仕草などを真似ていたそうです

 この人物はあまりにも有名なので、列伝は書かず、総評だけを載せます。

 世界帝国ペルシアを滅ぼした世界史上トップクラスの英雄である。だが、秩序を回復させる間もなく逝ってしまってディアドコイ戦争を起こすことになったのを見ると、既存の秩序を好き勝手に破壊した挙句、それを放置して死んだと思われても仕方がない。当時を生きていた人々にとっては悪夢のような存在だっただろう。
 その後、ヘレニズム文化が花開き、発展したことを加味したとしても、世界史上屈指のはた迷惑な男であることだけは確実である。

[632] ハーン 2008/09/06 03:39

 ランスロット

統率……65 彼はキャメロンではアーサー王の騎士ですが、国元では一国の主です。専ら冒険をしているのですが、その割には本国で問

題が起きている様子はありません。まあ、甥達が頑張っているんでしょう。

武力……87 個人的武勇では確実にアーサー王を上回り、全ての円卓の騎士中屈指の武勇を誇る。ていうか、一人で騎士12人もヘチ倒す、てどうよ。戦術能力もアーサー王に付き添ったローマ遠征と、不倫問題で円卓が崩壊した際にアーサー王の軍勢に城を包囲されても退けているのを見ると優れた指揮官であることが分かる。

知力……27 基本的にいきあたりばったりで、すぐにその個人的武勇を頼みに行動する。実際、聖杯探索には失敗している。だが、意外と腹黒く、保身のためにすでに決着の着いている一騎打ちを強引に続けて口を封じたこともある。しかし、概してグィネヴィア絡みで頓珍漢なことをして、円卓の破壊に大きく貢献した。

政治……58 基本的に年がら年中冒険をしているので、その政治力は分かり辛いが、フランス全土が彼の一族によって支配されていることを考え合わせると、低いとは思えない。

魅力……88 最も騎士らしい人物として、キャメロンでも広く人望を集めていた。さらにその武勲と名声によって、彼の甥たちはフランスとその全属国の君主となったそうです。というより、下手したら一人でアーサー王と戦えかねませんし、実際に戦っています。王はアーサーだが、騎士としては彼が第一位だったと言われている。

個人的武勇:個人戦に限り、武力が+6される

列伝 円卓の破壊者
 ランスロットの父ベンウィックのバン王の子として生まれる。幼い頃に父が敵の襲撃で殺され、湖の精ニミュエに育てられる。
 長じてアーサー王の宮廷に入り、円卓の騎士の一員となる。そこで王妃グィネヴィアの目に留まり、後に不倫関係に陥り円卓を崩壊させることになる。
 紆余曲折の末、次第にアーサーの知らないところで二人の関係は深まっていき、とうとう不義が発覚。不倫が原因でグィネヴィアが処刑される寸前に力ずくで救出したせいで話がさらにややこしくなり、有力な騎士ガウェインをはじめ、多くの騎士が彼の敵に回った。
 一旦はローマ教皇を通じてグィネヴィアを返すことで休戦するが、一年で再戦。一月ほど睨みあっていると、アーサー王の軍勢がブリテン島を離れている間にモルドレッドが反乱を起こした。それによってアーサー王の王国は崩壊することになる。
 全てが終わった後、自分の行いを悔いた彼は修道院に入る。後にグィネヴィアの訃報を聞き、絶食した後に餓死した。

 恐らく最も有名な円卓の騎士です。人望厚く、武勇に優れ、女性に対する思いやりもある騎士の典型のような人物でした(その割にはグィネヴィア以外の女性に冷たいのは気のせいだろうか? というか理想の騎士にはあまり見えない)。
 ローマ遠征以降、あまり出番のないアーサー王に代わる第二の主人公である。というか、ローマ帝国との対決以降の本筋はほとんど彼とグィネヴィアの独壇場である。
 アーサー王の宮廷には確かに素晴らしい騎士たちが揃っていたが、誰も彼もが騎士であったことが悲劇であった。そして彼の存在はそれをこれ以上なく顕している。マーリンさえいれば、もう少しマシな結末を迎えられたかもしれない。

[633] ハーン 2008/09/06 03:42

 ジル・ド・レイ

 1404年 - 1440年10月26日

統率……55 少数の部隊を率いて戦い、功績をあげている。無茶苦茶な領土経営の割に反乱が起きていないのを見ると、それなりに優れていたと思われる。

武力……61 百年戦争でそれなりに活躍したらしいが、その地位や役割に誇張が多いと言われている。

知力……57 当時を生きていた貴族にしては教養のある人物であった(時を読めない貴族さえいたそうです)。錬金術の実験をしていたのかもしれないが、見るべき成果はあげていない。

政治……10 祖父はなかなかやり手の領主だったのか、その死後に相続した財産は莫大なものであった。そのため、それを狙った協会に陥れたとも言われているほどである。だが、彼はこの莫大な財産を浪費するばかりで、見るべき治績はあげていない。それどころか、少年を掻っ攫っては残虐な手段で殺すということばかりしていた。しかも、そのために国家裁判と宗教裁判にかけられ、処刑されている。内政、政略、全てにおいて見るべき点が見当たらないどころか、無茶ばかり重ねている。とても高くは評価できない。

魅力……62 彼に関する罪状には誇張された面が多いとも言われているが、それはよく分からない。彼が火刑に処されると彼の魂の救済が祈られたそうなので、悪事が発覚してもなお完璧に嫌われていたわけではないようです。

列伝 青髭

 フランス、ブルターニュ地方ナントで貴族の子として生まれる。利発な子だったらしく、流暢なラテン語を学んだらしい。幼くして父が亡くなったために祖父に弟ともども引き取られる。
 この祖父がなかなか権力欲の強い男だったらしく、跡継ぎのいない貴族の家を継承してしまおうと度々彼を送り込んだという(何回も失敗しており、大分たってから成功した様子)。これが後の青髭という快楽殺人者の行動のモデルになったとも言われている。
 百年戦争ではジャンヌ・ダルクとともに一連の戦いに参加したのだが、その際の彼の地位は大して高くない上に大した役割も果たさなかったようである。率いていた兵は大した数ではなかったらしい。ジャンヌ・ダルクとの関係が深いかどうかも怪しいと言われている。
 しかし、それが評価されたのかフランス大元帥に昇進する。だが、彼の率いる部隊が少数であったことと、名声のあるリッシュモン大元帥が追放されていたことを加味すると、勲功が大きいからというよりは、戦勝に貢献した名門の貴族だから就任したと考えたほうが事実に近いと思われる。
 1435年に引退して故郷に引きこもると、少年を用いた残虐な儀式を行って殺害して性的興奮を得たり、錬金術の研究をしていたらしい。こんな悪事がばれないわけがなく、次第に噂は広まっていき、教会にもそれを示唆する報告が届けられる。
 だが、さすがに戦争の英雄を証拠もなしにしょっぴくわけにもいかなかったのだが、暴走したジル(領主権を巡って教会と揉めたらしい)がミサを行っている教会に突入したせいで、一気に捜査が進み、彼の悪事が明るみになる。最初こそ抗弁した彼だったが、さすがに隠し切ることが出来ず、罪を認め、神に罪を謝した。
 絞首刑に処され、遺骸は焼かれる予定であったが、罪を認めたことからそれだけは赦された。

 統率と武力の高い典型的な軍人です。統率力と武力が平均以上なので、軍を率いさせるのがいいと思われます。ですが、政治が絶望的に低い上に変わった趣味をもっているので、絶対に内政を担当させないようにしましょう。とんでもないことになります。

 彼が罪に落とされたのは財産を狙った教会の陰謀ではないかとも言われていますが、それだったらジルが教会に突入する前にしょっぴかれていると思われるので、その可能性は低いと思われます。危険を感じて先手を打ったにしては、不手際が過ぎます。
 しかも没収された土地がジル・ド・レと親しかったブルターニュ公に配分されたのを見る限りだと、恐らく普通に調べてみたらやばいことが判明してきた、というのが実態に近いと考えられる。
 かなり変わった趣味を持った貴族。それが私の彼に対する評価です。

 ジャンヌ・ダルクとの関係は私はジャンヌはあくまで、ちょっと頭がおかしくなった一庶民だと考えているので、そんな女性が犠牲になっても名門貴族たるジル・ド・レイが気に病んでいたとはとても思えません。

[634] ハーン 2008/09/06 03:44

 ディルムッド・オディナ

統率……30 騎士団のメンバーなのだから、部下を使ったことがあったのかもしれないがよく分からない。

武力……80 フィアナ騎士団随一の戦士。その武勇は間違いなく団長のフィンを上回る。妖精王に助太刀するなど武勲を重ねていた。こ

の手の英雄の武力はどうしてもエピソードの数に比例して高くなってしまうので、それほど高くすることは出来なかった。

知力……40 よくも悪くもない。判断材料が少なすぎる。あの逃避行はケルトの英雄という性質を鑑みると減点するのは酷過ぎる。フィ

アナ騎士団のメンバーなんですから、詩文には通じていたんでしょうけど。

政治……37 未知数。あの逃避行まで、騎士団でそこそこの地位にあったことを考えると極端に悪くはないと思われる。

魅力……70 絶世の美男子で、頭部にある魔法のほくろで出会った女性を虜にしてしまう。フィンに歯向かっての逃避行を援助してくれ

る人物もそこそこいた。

列伝 誓約の悲劇
 ケルト神話の英雄。フィアナ騎士団の一員でドンの息子。 若さの神オェングスに育てられた。
 長じてフィアナ騎士団に入団。勲功を重ねて団長フィン・マックールの信頼を得て、その親友となる。
 フィンの後妻になるべく招かれたコーマック・マックアート王の娘グラーニャが、年老いたフィンに貰われるのを嫌がってディルムッドに自分を連れて逃げるよう懇願する。こんな話、断ってしまうべきなのだが、誓約(ゲッシュ)で女性の願いを聞き入れなければならなかったため、グラーニャを連れて逃げ出す。
 さすがのフィンも怒り心頭で追いかけるが、ディルムッドはどうにか逃げ出すことに成功する。しばらくはグラーニャに手を出さなかったが、次第に彼女を愛するようになり、四人の子供をもうける。その後、何とかフィンに赦されて帰還を果たす。
 フィンとともに狩りに出かけていた最中、謀略か偶然かはよく分からないが、大きな猪に瀕死の重傷を負わされてしまう。幸いにも近くに傷を癒す泉があったが、フィンはかつての怒りがこみ上げてきたのか、汲んだ水を二度もこぼしてしまう。三度目に注ごうとした時にディルムッドはすでに事切れていた。この時の情景は論者によって異なるが、結果としてフィンは助けられる親友を殺してしまったのである。
 その後、グラーニャは夫を亡き者にしたフィンに復讐を試みるが、フィンの度重なるプロポーズに心を動かされ、それを受け入れる。

 誓約を反故には出来ないケルトの英雄の悲劇を体現した人物である。アーサー王伝説のランスロットと の関係のモデルになったと考えられている。まあ、かなり可哀想な人です。個人的にはランスロットより、よほど同情します。

[635] ハーン 2008/09/06 04:33

 アンラ・マンユ(Angra Mainyu:アヴェスター語,アングラ・マイニュ、アンリ・マンユ、アンリ・マユとも)

統率……98 ダエーワ、アジ・ダハーカといった無数の悪霊を支配している。彼らが人間を誘惑して、悪の道へ導こうとしているらしい。裏切られたという話も聞かないから、その統率力は高いと推測される。現代人なら悪事に誘惑されていることに少し心当たりがあるかもしれないが、何時ものことだと考える人も多いと思われる。

武力……99 善なる神アフラマズダに対抗できる唯一の存在である。アフラ・マズダに対抗してありとあらゆる対となる存在を生み出しており、その魔の力は凄まじいものがあるのだと考えられる。

知力……00 すでに敗北が確定している戦いを挑んでいる。また、無知で知恵がないらしい。

政治……50 現在進行形の話なので、成功しているのかいないのさえ分からない。まあ、現代社会を憂う人にとってみれば、成功しているのかもしれないが。アフラマズダの教えを広めるゾロアスター教の信者が減っているのは成功と言えるかもしれない。

魅力……00 この世の全ての悪の根源。醜悪で無慈悲で知恵がない。嫉妬深く、強欲であり、常にアフラマズダに取って代わることを考えているらしい。

列伝 魔王の原型
 世界の始めに善なる神アフラ・マズダとともに創世神ズルワンによって作り出された存在。
 アフラ・マズダが作り出した世界に嫉妬し、取って代わろうと戦いを挑んだ。だが、アフラ・マズダは9000年後には自分が勝つことを知っているため、講和を申し出たが、無知なアンラ・マンユはその申し出を断り、戦い始める。
 アフラ・マズダ自身が生み出した世界の人間を誘惑して、その世界の崩壊とアフラ・マズダの打倒を企んでいる。そのため、彼にとって最大の脅威はアフラ・マズダの教えを広めるゾロアスター教であり、その殲滅のために色々と手を打ったらしいが全て失敗している。まあ、今現在の世界情勢を見ると成功していると言えるのかもしれないが。
 9000年後には人類の救済者であるサオシュヤントによってこの世界から追放されることになってる。

 ようするにサタンの元になった神です。そしてサタンの影響を受けた魔王の多い今日においては、全ての魔王の原型といえる存在となりました。
 9000年後には敗北が確定しているそうですが、果たして今彼は「これなら勝てる」と考えているのでしょうか? 是非聞いてみたいですね。

[636] ガーリックトースト73% 2008/09/06 17:25

光緒帝 (愛新覚羅載シ恬)(清徳宗)

【統率】42
【武力】33
【知力】79
【政治】48
【魅力】57

【特殊能力】
変法自強運動:上からの改革。統率・魅力が+20 ※成功率10%
八旗    :清の軍事・行政組織。清軍の練度・士気が-30 ※強制発動

【統率チェックポイント】
変法運動を支持したはいいが、改革支持派の内部抗争を取り持つことができず、結局一部勢力の離反を甘受する結果を招く。皇帝でありながら西太后には恐ろしさのあまり意見具申もできず、そのシンパである栄禄、袁世凱と言った守旧派の専横を防ぐことも敵わなかった。絶対権力を持つ清国皇帝を務めるにあたって、彼は最低限の統率力しか有していない。無理もない、彼は頑固者の康有為1人、満足に動かせなかったのだから。

【武力チェックポイント】
個人的武勇および戦術指揮の経験は皆無。病弱でもないのでこのくらいはあるだろう。

【知力チェックポイント】
清国の前途を嘆き、急進的な改革が必要と判断、周囲の激烈な反発にも耐え、康有為を中心とした「戊戌の変法」を全力でバックアップした。戊戌の変法は、"百日維新"と呼ばれるほど短命な改革ではあったが、クーデターによって頓挫し、実行されなかった各種改革案も、それを一度は潰しにかかった西太后らによって再度取り上げられているので、彼の見る目は結果的に正しかったと言えよう。ただし、この変法は日本のモデルをそのまま模倣したようなもので、実質的なオリジナルではない事も付け加えておく。

【政治チェックポイント】
守旧派・官僚らに対する根回しを怠り、結果クーデターを起こされた事実から、高い評価は与えられない。改革派に与するも、守旧派の切り崩しも出来ず、逆に改革を裏から支えていた総署大臣の翁同龢を西太后によって隠居させられたことからも明らかなように、幼少の時期から彼女には手玉に取られっ放しであった。劣勢を挽回しようと袁世凱に助力を乞うも、寸前で見事に裏切られ、アベコベに捕縛される始末である。裏工作の出来ない「正直者」と言えばいいのだろうか…。

【魅力チェックポイント】
孫文を始めとする改革派・若手からは変革の旗頭として大いに期待された反面、既存の勢力からはすこぶる評判が悪く、特に西太后は彼に面と向かってツバを吐くなど嫌う者はとことん嫌ったとされる。情熱に燃える理想主義者で信念を持ち、小細工を用いない正確であったため、外国勢力からも一定の評価がなされていたようだ。

【作者から一言】
王朝末期の君主と言うのは、後世の脚色も相まって悪く書かれることが多いのですが、光緒帝は先見性に富んだ良君であると思います。ただ、一刻を争う事態だったとはいえ、変革があまりにも急すぎた事はしばしば指摘されているようです。日本なみの早さで改革を行うことがどれだけ、特にプライドの高い国で行うことが難しいのか。評価していて改めて思った次第です。
能力は知力が飛びぬけて高い側近や参謀タイプ。統率力の低さが致命的なので、平時ならばともかく、乱世を生き抜くにはこの人物を据えるのはオススメできません。

【列伝】
生没:1871年8月14日 - 1908年11月13日
略歴:大清帝国第13代皇帝
在位:(1875年 - 1908年)

      ——朝露と消えた「立憲君主」清国——

道光帝の第7子醇親王の第2子として誕生。母は西太后の妹。先代同治帝が早世した後、西太后の策謀により、傀儡として帝位に即位。この時わずか3歳であった。
1871年のイリ問題、76年の琉球譲渡、85年の清仏戦争によりベトナムへの影響力を失い、94年には日清戦争が勃発。ついに朝鮮への影響力をも失った。これらを光緒帝は大いに嘆き、以後清の国勢回復を強く望むようになった。それゆえ康有為、梁啓超らによる変法運動への興味を強く持つようになり、西太后の傀儡を脱し、親政によって清の中興を成し遂げようとした。しかし次第に派閥内に軋轢が生じ、康有為一派以外の人々が離反してしまう事態となる。離反しなかった者も変革を是としない守旧派の政治工作によって更迭、その矛先が光緒帝本人に向けられるのに、さほど時間は掛からなかった。
固有の武力を持たない改革派は、袁世凱の裏切りに遭い、たちまち捕縛されてしまい、変法派のほとんどは処刑、彼自身も監禁状態に陥り、以後政治的発言力を失墜し、二度と返り咲くことはなかった。
1908年、死去。2007年の報告で、彼の遺体の毛髪から多量のヒ素が検出されており、また西太后と1日違いで後を追うように亡くなっていることから、彼女の命令で砒素による毒殺がなされた可能性は高い。

[637] ガーリックトースト73% 2008/09/06 17:28

>>636
>略歴:大清帝国第13代皇帝

>略歴:大清帝国第11代皇帝

でした。申し訳ない。

[638] リー 2008/09/06 17:42

そういえば、鄭成功のスレはまだ出てない。
やっぱり、難しいのかな

[639] 「ど」の字 2008/09/07 03:14

>>638
 父親との兼ね合いや歴史の流れからも、非常に難しいと思いますよ。
 自分的には、歴史のIFを考えてみたい人物です。

 さて、今からまた架空世界の人物を評価したいと思います。
 今回は指輪物語から離れてみました。

[640] 「ど」の字 2008/09/07 03:15

 今回は、日本と少し似ている国の独立を守り抜いた、架空世界の人物を取り上げます。
 東の魔王、猛獣使い、皇国の守護者の略歴です。

 新城直衛
【統率】100
 士気崩壊して壊走する軍隊を、その渦中にありながら一度ならず立て直す、あり得ないほどの統率能力を持つ。
 敵よりも先に自分を恐怖させる手法で指揮下の部隊を率い、完璧な統率を見せた。
 ここまで来ると、人間ではなくもはや魔王の域。
【武力】98※
『大協約』世界の歴史において、エポックメイキングとなる多くの独創をした。
 彼の存在は、彼の生きる世界の戦争を根底から変革してしまうことになる。
 実践指揮能力も絶大。劣勢な軍を率いながらあり得ないほどの戦勝を重ね、祖国の独立を守り切った。
 個人的武勇は人並みだが、彼は常に軍用剣牙虎(彼の育てた私物)を連れ歩いていたことで知られている。
【知力】78
 物事を斜に構えて見る癖があり、それゆえに斬新な視点で物事の本質を見ることが出来た。
 読書量の多さも有名であり、総合的な知識においては当時の皇国でも有数。
【政治】47※
 怜悧な観察眼を持っているが、政治に関わる意思が極めて薄弱(軽蔑していた節も散見される)のためこの点数。
 やれば出来る人であり、駒城父子との政治的連携は見事であった。
【魅力】7
 三白眼が印象的な凶相の怪人として知られており、その出自から人間的態度にも問題が多々あった。
 統率手法からも忌避されており、彼の実力に心酔している将兵たちからも人格は嫌われ続けた。ただ徴兵で軍務に就いている兵士を慈しむ姿勢から、兵士や市井の人々の支持は絶大だったという。
【特殊能力】
※護衛獣(剣牙虎)
 彼の個人的武勇は55として判定するが、彼と対峙する前に個人的武勇98扱いのこの獣を除去する必要がある。
 暗殺するに際しては獣の感覚も騙す必要があるため、二度個人的武勇98に対抗ロールせねば除けない。
※政治アシスト
 受動的に政治能力を判定する時は、政治能力を+30。他人に「使われる」際には、優れた能力を発揮した。

【略歴】
 人と龍が共存する大協約世界と言われる世界で、小さいながらも貿易によって繁栄していた皇国という国と海の彼方から侵略してきた帝国と呼ばれる国との一連の戦争によって世に出た人物。作中では敵将ユーリア・ド・ヴェルナ・ツァリツィナ・ロッシナ姫との数奇な関係で知られる。
 幼くして内乱で村を焼かれて孤児となり、それ以前の記憶を一切失う(彼と剣牙虎との付き合いはこの頃から。よく虎に育てられた子供と呼ばれている)。そこで皇国有数の貴族であった駒城家の父子に拾われて駒城家の育預として育つ。
 長じて職業軍人としての道を進み、銃兵隊から当時実験的扱いだった陸軍兵学校の剣虎兵教官を経て(担当生徒たちを育てる能力は高かったが極端な教育方法に問題があった)陸軍独立捜索剣虎兵第11大隊第2中隊に参謀として配属された。
 帝国軍来寇時は陸軍中尉。彼の大隊は天狼平野での皇国大敗以後、撤退戦で中核となる。大隊長戦死により最先任士官であった彼が野戦昇進で大尉に昇進、以後混成大隊を指揮して味方の撤退まで敵師団の攻勢を良く支えた(なお、彼の率いた混成大隊は彼と共に捕虜となった二十余名を除いて全滅)。

(続く)

[641] 「ど」の字 2008/09/07 03:16

(続き)

 捕虜交換により内地帰還後、新城直衛は北領での戦功により少佐まで昇進、同時に水軍名誉少佐も任官(陸軍少佐への昇進は、水軍名誉少佐任官への政治的対抗措置)。その後陸軍から近衛に転属。近衛衆兵独立鉄虎第501大隊を任され、本土最北端からの敵侵攻を防衛する龍口湾の戦闘に参加。敵司令部に肉薄するも、味方がいち早く崩壊を来たしたため撤退。各地の落伍兵を編入しつつ圧倒的な敵勢に対する遅滞戦闘を実施し、したたかな痛撃を与えた。その後本土中部虎城地域の要衝である六芒郭に入城し、冬の到来まで良く持久を果たす。六芒郭防衛戦の最終段階で帝国軍内部の反乱を利して包囲を突破し東方軍司令ユーリア姫を捕虜にして撤退(六芒郭は爆破)。
 部隊の帰還・再編の間に彼は前線配置への復帰を願い出て公用便の配達任務を拝命している。この当時虎城地域で指揮を執っていた駒城保胤中将が過労と風邪により昏倒し、公用便の配達任務中であった新城直衛少佐が中将の命により指揮権を預かる(新城直衛は義兄である駒城保胤の個人的信頼を強く得ていた。虎城地域の防衛軍主力は駒城一門の軍であり、半ば私兵であったためこんな型破りな事が可能だった)。敵軍を内懐に導出して後方輜重と砲を叩くための戦略的撤退を強引に実施した後に病の癒えた駒城保胤中将に指揮権を返還、自ら部隊を率いて敵の輜重と砲に致命的な損害を与えることに成功する。
 虎城防衛戦後、中佐へ昇進。皇都帰還後、近衛嚮導聯隊を任される。その直後に起こった帝都叛乱では叛乱を率いた守原一門の集中攻撃を受けるも切り抜けて自部隊を掌握、大協約世界史上初の空挺作戦によって帝を奪還し叛乱鎮圧に決定的な功績を挙げた。
 それ以後は皇国髄一の武将として、長く祖国を守ったという。
(物語『皇国の守護者』の冒頭は、本編の六十年後に新城の未亡人となった駒城麗子…駒城保胤の娘…が娘婿に宛てた書状の形を取っている)

【コメント】
 作者が思い描く「有能な指揮官」の具現とも言える人物です。本来なら能力以外の面で世に出ず埋もれる人格のはずが、幾つもの偶然によって世界を動かしました。こんな人物を不動の味方として得たことが、皇国と駒城家を破滅から救いました。
 逆に彼を敵に回した相手は、不幸であるとしか言いようがありません。彼に加えてユーリア姫(武力99)やそのお付きのクラウス・フォン・メレンティン(武力88)まで居て、後ろ盾が駒城篤胤(政治89)と駒城保胤(知力91)の親子なのですから、如何なる国難に遭っても国を保つことができるでしょう。

【総評】
 生まれついての戦術指揮官です。参謀や官僚としても優れた能力を持っていますが、その極端な性格から戦場以外では能力が活きず大成しないでしょう。
 基本的に、地位が上がって注目を集めるほど実力を発揮しづらくなる人格です。組織の上に押し上げるには、強力な後ろ盾と有能な副官(内助の功などでも可)が必要になります。後ろ盾が無いと部下が納得しませんし、政治を担当する副官が居ないと内外の敵の政治的工作でたやすく失脚してしまいます。

 自分なら、彼を部下として使うのは御免です。出来ることなら重要でない仕事を与えて、手元から追い払ってしまうでしょう。
 それでは通用しない乱世こそが、彼の主役となる舞台です。

[642] ガーリックトースト73% 2008/09/07 11:56

蘇我馬子

【統率】63
【武力】52
【知力】89
【政治】90
【魅力】28

【特殊能力】流言 暗殺 根回し 鼓舞
法施:仏教の教えを広める。仏教徒に対する統率・魅力+10、他宗教に対する統率・魅力-10

【統率チェックポイント】
蘇我一族の頭領として50年以上に渡り宮廷政治の権勢を欲しいままにしたが、あくまで彼は天皇のブレーンとしての側面が強く、上に立って組織を構築する能力に関してはそこまで評価しない。聖徳太子との合議による政権の確立後は、日本の中央集権化を進めた。

【武力チェックポイント】
物部守屋との戦いでは3度戦って3度とも大敗。最終的に物部に勝利したのは仏頼みによる仏教徒の奮起と、単なる運による部分が強く、戦術的に勝利したとは言えない。それでも兵士を鼓舞する才覚は人並みにあったと思われるのでこのくらいか。

【知力チェックポイント】
父の遺志を継ぎ、仏教こそが日本の文化・国力にとって有益であることを認識、積極的なロビー活動を通して着実に仏教徒を増やした。表向きは一貫して仏教徒としての立場を通し、寺院や塔を建立するなどして大陸の外交官が訪問した際の国威高揚に大いに利用した。こんにちにおける仏教定着の祖とも言える存在で、後世に与えた影響は大きい。

【政治チェックポイント】
皇室に肉薄した、日本史上稀に見る権勢家。軍事的背景を武器に攻勢を強める物部氏に対し、皇室の外戚として蘇我氏と皇室を連携させることにより幾度となく危機を回避。皇室の持つ「権威の衣」を最大限に利用し群臣を抱き込み、キングメーカーとして長きにわたり権力を保ち続けた。一方で邪魔者と判断すれば、たとえ天皇であっても容赦なく排除した。政敵に対し先手を取る場面が多く、疫病や葬儀までも政治的な道具として利用、祟俊天皇や物部守屋を直接的行動に出ざるを得ない状況に追い込んでいる。教科書に記載される聖徳太子の政治的功績は、この馬子とのタッグによる賜物であり、決して太子一人の力によるものではないことも付け加えておく。外交面では遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入した。

【魅力チェックポイント】
自分の身内・親類に対する愛情はかなりのものであり、守屋との戦いでは元物部氏である妻や幼少である刀自古郎女を地方に送る配慮を見せたり、自分が崇峻天皇殺害を命じた東漢駒がその後、馬子の娘の河上娘を奪って妻とした際は烈火の如く激怒し殺害するなど逸話も多い。それもあってか身内受けは良好である。
しかし帰化人と関係が深いという事で白眼視されることも多く、家柄が古くプライドの高い人間ほど彼を忌避したとされる。カリスマを発揮した記述は存在せず、敵は敵として叩くだけであり、敵を味方に引き込む才能には恵まれなかったようだ。皇室を蔑ろにしたとされ、後世の評判も最悪。

【作者から一言】
大変有能な政治家です。帰化人や当時少数派だった仏教を日本有数の宗教にまで大きくした人物として知られていますね。外戚と聞くと何やらマイナスのイメージが働きますが、宮廷闘争はともかくとして、内政における働きは抜群だったと言えるでしょう。首尾も一貫しており、非常に決断力に富んだ人物です。今の日本に必要なのは、このように方法が汚くても明確な意思が存在する政治家なのかもしれません。

[643] ガーリックトースト73% 2008/09/07 11:58

>>642の続き

【列伝】
生没:551年? - 626年6月19日
略歴:大臣(おおおみ)
備考:漫画「日出処の天子」では短気な好色家として描かれている

      ——嶋大臣——

 生年不詳。蘇我氏宗家、蘇我稲目の嫡男として誕生し、間もなく父の影響で仏教に興味を示すようになり、敏達天皇元年(572年)の敏達天皇の即位時に大臣就任を契機として周囲に仏法を広め始める。敏達天皇14年2月(585年)、馬子の病をキッカケに、皇室の祭祀を管理する物部守屋との宗教闘争が始まる。守屋の仏教弾圧は苛烈を極め、尼を縛りつけて鞭打ち、仏殿を破壊し仏像を海に投棄するようになった。この頃の蘇我氏はまだ弱小であり、馬子は尊敬する尼らがぞんざいに扱われることに、直接行動に出ることなくひたすら耐えた。

 時は過ぎて用明天皇の即位後わずか1年目、用明天皇2年4月(587年)、天皇は病に伏した。この時天皇は三宝(仏法)を信仰することを欲したため、守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、用明天皇の異母弟である穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。守屋は怒ったが、先の守屋のやり方が裏目に出た事と、馬子の草の根的な根回しで群臣の多くが馬子の味方であることを知り、一旦は退いた。程なく用明天皇が崩御すると、守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇后)を奉じて穴穂部皇子を殺害。馬子は周囲と協議し、報復を受ける前に物部氏を滅ぼすことを決め、百氏百官からなる大軍を以って挙兵。馬子軍は守屋の本拠を攻めるが、軍事を司る物部兵は強力で、稲城を築いて頑強に抵抗。3度撃退されたが、仏法を広めることを誓い、兵士に奮起を促し再度攻勢。馬子軍の迹見赤檮(とみのいちい)が守屋を運よく射殺し勝利した。

 その後は祟俊天皇、推古天皇を即位させた立役者として宮廷内に置いて確固たる地位を確立。寺院建立を進める一方で、推古天皇28年(620年)には聖徳太子と共に「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。しかし聖徳太子が進める皇室権力の強化に少なからぬ懸念を抱きつつ、推古天皇34年(626年)死去。なお、この懸念は時を経ずして現実のものとなる。

[644] 喝食 2008/09/07 23:07

>>630
歴史にちょっとは関係があってネタ的なものを考えたら狐と蛇になってしまいました。こいつらに匹敵するといったら大鯰か酒呑童子、ダイダラボッチなんかでしょうか。自由ばかりではいけませんね・・。反省して歴史上の人物、アレクサンドロス大王の敵をやってみます。

メムノン

【統率】79
【武力】74
【知力】88
【政治】56
【魅力】61

【特殊能力】後方撹乱 防御戦 逃亡 急死

【統率チェックポイント】
アケメネス朝ペルシア帝国に雇われ小アジアの沿岸部一帯を指揮する。アレクサンドロス大王のマケドニア軍に対し陸海両方において効果的に対応し統率に乱れを見せていない。彼の死後、エーゲ海域での反攻作戦がすぐに頓挫してしまったことからもその組織力が優秀であることがわかる。

【武力チェックポイント】
パルメニオンの先遣隊には勝利している。グラニコス川での遊兵化しての敗北はマイナスだが全体的な指揮権がなく、むしろ焦土戦なんか提案して嫌がられた後だったので多くは責められないか。ハルカリナッソス攻囲戦ではアレクサンドロスを大いに苦しめており防御戦では非常に粘り強い。海上ではペルシア海軍が優位だったことを差し引いてもキオス島攻略やレスボス諸島包囲などその手腕は高く評価できる。

【知力チェックポイント】
極めて優秀な戦略眼を持ちマケドニア軍の戦闘力の高さとその弱点である資金不足、内政不安、海軍力の弱体を正確に把握していた。直接対決を避け優勢な艦隊による後方撹乱により戦場をペルシアからギリシア本土に移そうという彼の戦略が継続していたならばアレクサンドロス大王は更なる苦境に陥っていたことは想像に難くない。しかし実際は彼の死によって実現しなかったために80代に止めた。

【政治チェックポイント】
海洋都市国家ロードスに生まれ当時のギリシア都市間の政治状況に精通していた。しかしペルシア軍では雇われの身分であり的確な焦土戦の提案を退けられたり、ハルカリナッソスに入る前に妻バルシネーと子供を人質に出しているなど悲哀も見受けられる。

【魅力チェックポイント】
外国出身でありながら小アジア一帯とペルシア艦隊の指揮を一手に任されていた。ある程度の人望はあったのだろう。

【列伝】
メムノン(?〜前333)

——大王の好敵手——

ロードス島出身。兄メントレとアケメネス朝ペルシアに傭兵隊長として仕え、アレクサンドロス大王のペルシア侵攻時に小アジア一帯を指揮して防戦した。彼は妻バルシネーと共にマケドニアを訪れたこともありアレクサンドロス大王とも面識があった。そのためマケドニア軍が極めて強力であり正面から戦っても勝利するのは困難なことを理解しており、またその資金が乏しいために戦いが長期化すれば引き揚げざるを得ない事もわかっていたため、事前の作戦会議において焦土戦術を提案するも現地太守の提案により退けられた。彼の危惧は現実となり、ペルシア軍はグラニコス川で敗退。メムノンは辛うじて窮地を逃れる。その後ハルカリナッソスで守りを固めたメムノンはここで激しく抵抗、マケドニア軍は多くの損害を出しながらもなんとかここを占領するもメムノンには逃げられてしまう。ここでアレクサンドロスが一旦作戦を中断している間にメムノンはギリシアの反マケドニア勢力と共同してエーゲ海域に反攻作戦を展開する。キオス島とレスボス島の大部分を制圧、一度奪われたミレトスも奪還する。資金の問題から艦隊を解散してしまっていたアレクサンドロスは窮地に陥ってた。しかし前333年夏、メムノンはレスボス島で唯一抵抗していたミュティレネを攻囲中に病没。後任者に作戦を継続する意志も能力もなくダレイオス3世は側近の反対によってイオニアの戦力を東方に移転。エーゲ海における大反攻作戦は頓挫した。

かなりの名将だと思うのですがいいところで急死してるためになかなか評価しにくい人物に思えました。ただその戦略眼が的確だったことは間違いないと思います。このような人物がいればどんな強敵が攻めて来てもそう簡単に征服されはしないでしょう。すべて任せることができればの話ですが。

[645] ガーリックトースト73% 2008/09/08 21:53

**まとめサイト担当者の方**

>>479 ムハンマド・アンワル・アッ=サーダート(サダト)
が記載漏れでしたのでご報告させていただきます。

[646] ガーリックトースト73% 2008/09/08 23:30

ガマール・アブドゥン=ナーセル

【統率】83
【武力】52
【知力】92
【政治】70
【魅力】99

【特殊能力】弁舌 勤勉 交渉
演劇:舞台演劇の才能。弁舌・交渉の効果がアップ。

【統率チェックポイント】
演説の才能があり、聞き取りやすい話口調に終始し、ある一定のキーワードを何度も繰り返すことで何時間にもわたる演説にも関わらず、聴衆を魅了した実績がある。しかし、シリアと結成したアラブ連合共和国はわずか3年後、シリアの脱退で崩壊している。これはエジプト国内では抜群の統率力を見せたナセルのある種「限界点」であると位置付けられよう。

【武力チェックポイント】
第一次中東戦争の際は陸軍少佐としてアラブ連合軍に参加し無事に帰還している。一方でスエズ戦争ではイギリス・フランス・イスラエル連合軍に対しなすすべもなく敗退、第三次中東戦争ではわずか6日で敗退という、スエズ以上の大敗北を喫した。よって、敗れていないサーダートよりも評価を若干下げることにする。

【知力チェックポイント】
社会を動かすには軍人になるのが一番であると若くして直感で見抜いた。第二次大戦中に反英軍事クーデターを計画し一旦は頓挫するも、後にエジプト革命を指揮し目的を達成。エジプトにおけるスエズ運河の重要性、アラブ連合の必要性を強く認識し、スエズ戦争では戦術的に敗れはしたものの戦略的には各国にスエズ運河領有を認めさせるという大勝利を収めている。アジアとアフリカの連携にも尽力し、第三世界の旗手としての地位を獲得した。
イスラエルに対しては一貫して強硬路線を通し、パレスチナ人の権利回復の原則を求めつづけた。

【政治チェックポイント】
自身の暗殺未遂事件を政治利用し、政敵のナギーブ一派の追い落としを図って大統領に就任した。内政面では水資源確保のためにアスワン・ハイ・ダム建設を推進。他にも地主が占有していた農地を平等に分け与える農地改革を実行、王制下で停滞した政治・経済の是正を推し進めた。
しかし、国家収入をスエズ運河に頼っていた感は拭えず、運河の収入が無くなると、たちまちインフレが進行している。アラブの連帯感を重要視した弊害で、対外的には対イスラエルの急先鋒に祭り上げられてしまい、エジプト軍の腐敗、イスラエル軍との差を把握できず、第三次中東戦争ではシナイ半島を失う失態を犯す。終わってみれば、エジプトをより窮地に立たせた人物とも言える。

【魅力チェックポイント】
失態を犯しても国民から常に愛された。周囲を魅了するカリスマを備え、大統領辞任を示唆した際には国民が泣き叫びながら絶叫、路上に飛び出し、即時辞任撤回を求めた。独裁者でありながら暗いイメージはなく、信念と情愛で動くその姿はアラブ社会からも賞賛され、事実上の盟主として高い信頼を勝ち得た。
欧米社会では「ナイルのヒトラー」「中東のスターリン」などと揶揄されるが、それも影響力の高さゆえの嫉妬である可能性もあろう。今現在でも彼の墓石に花が絶えることはない…。

【作者から一言】
これほど国民から愛された独裁者も珍しいと思います。「100人の20世紀」という番組で彼を知る機会があったのですが、何というか、カッコよすぎです、この人。サングラスをつけて砂漠の熱射を仰ぎ見る写真があるのですが、男だてらに惚れてしまいました。現在でもエジプト国民から絶大な人気があり、エジプトに変革の嵐を巻き起こした傑物として評価されています。

[647] ガーリックトースト73% 2008/09/08 23:30

>>646の続き

【列伝】
生没:1918年1月15日 - 1970年9月28日
略歴:エジプト第2代大統領
任期:(1954年11月14日 - 1970年12月28日)

——"エジプトのために生き エジプトのために死す"——

 1918年、エジプト北部地中海沿岸の都市アレクサンドリアで郵便局長の息子として誕生。39年に陸軍士官学校卒業後、英・エジプト共同領アングロ=エジプト・スーダンでの勤務を申し出、同地に赴任。第二次世界大戦が勃発すると、エジプト解放のため、アンワル・サーダートと共にイタリアの数人の諜報員と接触、イタリア軍がエジプトに侵攻した時と同時に、反英軍事クーデターを起こすことを計画したが、頓挫した。

 48年、第一次中東戦争が始まると、少佐としてアラブ連合軍に参加。アラブ連合軍が敗北すると帰国、52年7月23日、自由将校団と共にクーデターを起こし、翌年には王制を廃止しエジプト革命を達成。将軍ムハンマド・ナギーブを首班に迎え、ナギーブを委員長とする革命指導評議会を結成した。しかし次第に険悪となり、ナギーブを支持するムスリム同胞団によるナーセル暗殺未遂が引き金となって、ナギーブ派を追放し自ら大統領に就任した。

 対外的には汎アラブ主義政策を採り、他の中東諸国が結んだバグダード条約機構に反対。逆にアラブ諸国の団結を唱えて主導権を握った。また、非同盟主義を唱えて第1回アジア・アフリカ会議に出席、第三世界の旗手となった。56年7月にはスエズ運河の国有化を宣言し、スエズ戦争(第二次中東戦争)を経て諸外国に領有を認めさせた。しかし、58年にシリアと結成した「アラブ連合共和国」は3年で崩壊し、67年には第三次中東戦争(六日戦争)で惨敗を喫し、シナイ半島がイスラエルに占領されていよいよナーセルも窮地に陥り、この責任を取って辞任を宣言した。しかし、国民は辞任を拒否。大統領に留まることを求めたため、失脚は免れた。

 間もなく国内ではスエズ運河の収入が無くなり、インフレが進行。ナーセル体制は瓦解しつつあった。70年、ヨルダン内戦の仲裁を行うなど多忙の中、突如心臓発作で急死。享年52歳。なお、上記の格言は彼の墓石に刻々と刻み込まれているものである。

[648] 喝食 2008/09/09 04:03

アハマド・シャー・マスード

【統率】79
【武力】87
【知力】81
【政治】67
【魅力】93

【特殊能力】
渓谷の獅子:渓谷、山岳において防御力が大幅にUP
ムジャヒディン:イスラム教徒以外に対する戦闘力UP

【統率チェックポイント】
彼という支柱がなければ北部同盟のような雑多な集団はタリバンが熱狂的に拡大した時に霧散してしまっていただろう。ソ連軍に対してもアフンガンゲリラの統一戦線を強く訴え実現している。部隊の統率は一級。しかし民主的選挙を強く望んだように、強権的に人々を動かしたり利害に訴えたりはしなかった。その優しさゆえかソ連撤退後は仲間であったムジャディン達の権力闘争に巻き込まれ原理主義タリバンが台頭することになってしまう。

【武力チェックポイント】
この現代に入って世界に他にどれだけこれほどの名将がいただろうか。ゲリラ戦の名手。絶壁に囲まれたパンジシール渓谷を難攻不落の砦とし、度重なるソ連正規軍の攻撃も効果をなさなかった。弱点である補給線を攻撃し兵力の増強を許さず遂には撤退に追い込んでいる。他からわずかな支援しか受けられないなかでパキスタン正規軍から物資、旅団規模の兵員の支援を受けるタリバン軍相手に戦うことを強いられ、味方の買収によりカブールを失うも防戦に慣れたパンジシールでは再び押し返している。

【知力チェックポイント】
バランス感覚のとれた見識を持ち、共産主義や原理主義に与せず、麻薬に頼らず真にアフガニスタンに必要なものを見定めていた。ソ連撤退後の内紛は多くがヘクマティアルに足を引っ張られたことによる。カブールでタリバンに対し防衛線が崩れると市街の被害を恐れ速やかに撤退するなど判断も適切。民主的な選挙を強く求め、乱されてしまったアフガニスタンを平和な姿に戻すことを切に願ったがその生前には果たされなかった。

【政治チェックポイント】
共産主義政権への抵抗運動に始まりソ連軍との戦い、その後の内乱とタリバンとの戦闘と、正に戦いにあけくれ政治的プロジェクトを実行する余裕などほとんどなかったであろうがその中でもわずかな資金を割き病院や学校を建設している。理想だけを語る人物ではなかった。

【魅力チェックポイント】
偉大な人格者。鉄の意志を持つソ連軍撃退の英雄でありながら権力に固執することのない姿勢を貫き、奢ることなく平和な一つのアフガニスタンを求めた。ソ連軍捕虜を自発的に解放し撤退を妨害しないなど軍事指揮官としては稀に見る寛容さはサラディンを彷彿とさせる。

[649] 喝食 2008/09/09 04:08

>>648の続き

【列伝】
アハマド・シャー・マスード(1952〜2001/09/09)

——パンジシールの獅子——

パンジシール渓谷のジュンガラック村に王国陸軍将校の三男として生れる。本名はアハマド・シャー。マスードは「幸運なる者」を意味する。カブール大学工学部建築学科に入学し、共産主義の台頭を危惧してイスラム青年運動に参加、1974年には武力放棄を企て失敗。パキスタンに逃亡した。この時民衆の支持なくして革命は成らないという教訓を得たと語っている。
1978年にパンジシールに帰還、翌年には渓谷から政府軍を追い出してイスラム解放区を設立している。ソ連軍のアフガン侵攻に際してはカブールとソ連を結ぶ補給路であるサラン・ハイウェイを攻撃し守っては自然の要塞であるパンジシール渓谷で度重なるソ連軍の攻撃を撃退した。ソ連軍も補給路にトーチカを作るなどして対抗したがゲリラ攻撃は十分に防げず消耗、第七次攻撃では衛星軌道から爆炎が確認されたという一週間に亘る爆撃を加え兵力5万、戦車・装甲車500両、戦闘ヘリ・ジェット機200機という大兵力を渓谷に集中したが失敗。最後には制圧を断念させその戦いぶりからパンジシールの獅子と称えられた。
ソ連軍撤退後はパシュトゥーン人からなるヘクマティアル派など共に戦ったムジャヒディンの間での権力闘争に巻き込まれ、その間に隣国パキスタンが支援したタリバンが台頭。カブールを包囲したヘクマティアル派、ドスタム派、マザリ派の連合軍とさらに南から来るタリバンを巧みな戦略で撃退するも同じパシュトゥン人のヘクマティアル派の兵士を吸収したタリバンは勢力を増す。東部ジャララバードの知事や首都カブールの防衛の一角だったパシュトゥーン人組織が買収されたことによりカブールの防衛線は崩壊。市民の犠牲を恐れたマスードは撤退を決意した。
その後再びパンジシール渓谷に戻り防戦する。投降を求めるオマル師に対し「あなたが国民に支持されていると言うならば選挙をしよう。そこであなたが支持されたならば従おう」と述べて拒否。タリバン軍を撃退するも北部の要衝タロカンではパキスタン正規軍2個旅団が加わったタリバン軍に対し2000人の損害を与えるも弾薬の不足により撤退、窮地に陥った。
その後一進一退の攻防を続けている中、2001年9月9日にジャーナリストを装ったテロリストの自爆テロにより命を落とした。国を解放した後は信頼できる指導者に政治は任せて中退した大学に戻り建築学を勉強したいという彼の望みは叶わぬ夢となってしまった。

真の英雄。冷静に評価できませんでした。人々が農業基盤を破壊され麻薬を栽培せざるを得ず、タリバンが復権する今のアフガニスタンを考えると・・・。彼が新しい国を見る前に亡くなってしまったのが残念でなりません。

[650] ロギー 2008/09/09 22:54

>>649の続き
アハマド・シャー・マスード、我輩は彼を知ったのは最晩年の頃です。でも、彼こそ真の英雄と呼べるにふさわしいですよね。
もし、彼が生きていたらアフガニスタンは今のタリバン再台頭はもう少し弱かったかも知れませんね。

でも、彼の意思を継ぐ者たちがアフガニスタンを救うと我輩は思います。

[651] やっち 2008/09/11 15:32

>>648

 似た人物として、まとめサイトのゲバラの項を見たら、順に40 80 70 18 85 でした。
http://www.h7.dion.ne.jp/~sankon/2ch/history/s04/4279.htm
 うーむ。ゲバラが低いのか、マスードが高いのか、判断がつきません。

 個人的にはすごく好きな人物です。

[652] 喝食 2008/09/12 15:25

>>650

そうですね。楽観はできませんがそう願っています。

>>651

うーん、ゲバラの数値はかなり妥当に思えます。彼らの違いは良かれ悪しかれ柔軟性と信仰でしょう。武力ではマスードが上だと思いますが、魅力は判断に迷います。最初マスードには同じ85をつけたのですが評価の途中でかなり上がってしまいました。過大かもしれません。モーターサイクル・ダイヤリーズの映画を見てても思ったのですがゲバラはあまりに理想主義的で潔癖だったがゆえに、成功し失敗しています。個人としては理解できる人を選ぶが革命のシンボルとしてはまた違ったのでしょう。シンボルという意味ではカストロを凌いでさえいますから。そういう点は特殊能力により評価するのがよいのではないでしょうか。

ムワタリ

【統率】80
【武力】68
【知力】89
【政治】78
【魅力】71

【特殊能力】
  虚報 :敵部隊を無防備状態で誘導
 鉄器利用:貴重品として主に経済力が上昇
 重装戦車:攻撃・防御が上昇、機動力が低下

【統率チェックポイント】
ヒッタイトの大王として当時としてはかなり高度に組織化された軍をもってオリエントの覇権を軍事大国エジプトと争う。カデシュでは奇襲成功後の絶好のチャンスを兵士達の略奪行為により逃してしまっているのが痛いが略奪は当時の常識であったのに加え砂塵による視界不良で彼自身が戦況を把握していなかったことが原因であり統制を失っていたわけではない。

【武力チェックポイント】
直接軍の先頭に立つのではなく伝令によって後方で指揮しており武勇や戦術面での臨機応変さという点ではライバルに劣ったか。主力の戦車部隊が打撃を受けた後はエジプト軍に対し守勢に回らざるをえなかった。

【知力チェックポイント】
古代社会屈指の戦略家であろう、カデシュの勝利はその卓越した知略による。偽の情報によって敵をおびき出し周到な準備によって勝つべき状況を作り出す。負けない戦いをしている。エジプト軍が戦意を失い、戦略目的を達成するとすぐさま平和条約を結ぶなど引き際も心得ている。

【政治チェックポイント】
多民族国家ヒッタイトを支配。外交的にもエジプトと互角に渡り合いシリアの支配を維持。シリアを重視して首都ハットゥシャからダルフンタッシャへの遷都も行った。

【魅力チェックポイント】
国の総力を挙げてのエジプトとの決戦に挑んで勝利している。国内の支持は高かっただろう。

【列伝】
ムワタリ(前1305?〜前1282?)

——カデシュの戦いの勝利者——

ハッティ(ヒッタイト)の王。ムルシリ2世の子として生れミタンニ王国を滅ぼした祖父シュッピルリウマ1世の意志を継承してシリアへの勢力拡大を推し進めた。そのため強きファラオとして同じくシリアを狙っていたエジプト王ラムセス2世との衝突は避けがたく、彼がシリア北部のアムル人居住地域を扇動して反乱を起こさせたことに対し挑発を意図し、国内の兵力を動員してシリアへの軍事的圧力を強めた。これを好機と捉えたラムセス2世はアメン、ラー、プタハ、セトと名付けられた4つの軍団からなる二万の軍を動員しパレスティナに進撃、ガザを策源としてさらにカデシュを目指す、これに対しムワタリは一万七千の兵を動員。すでに先にカデシュに到着し戦車兵を丘に隠して待ち構えていた。スパイの虚報に踊らされ慢心していたエジプト軍は突如現れたムワタリの戦車部隊に蹴散らされる。絶体絶命の中なんとか自身の奮闘とヒッタイト軍が陣地を略奪していたことにより助かったラムセス2世は体制を立て直し反撃、ヒッタイト軍をカデシュに撤退させるも損害は大きく、戦いを継続する能力は残っていなかった。損害により同じく戦いの決め手を失っていたムワタリは和平を提案、ラムセス2世もこれを受け入れるしかなかった。現存する世界初の成文化された国家間条約が取り交わされ、公式な軍事記録に残された世界初の戦いとなった。双方が遺跡に自分達の大勝利と記しているが結果は引き分けに近い。カデシュを含むシリア北部の支配権は保留となり、その後も抗争が続くことになるがムワタリ自身がその後ラムセス2世と相見えることはなかった。

マフムードさんのラムセス2世を参考にさせていただきやってみましたがほとんどカデシュの話になってしまいました・・・。ヒッタイトといえば鉄製武器と勝手に思っていましたが当時は貴重でそんなに使っていないんですね。ミタンニから学んだ戦車戦術と外交力、組織力がその強大化を可能にしたんでしょうか。

[653] 片田舎の偏屈士 2008/09/12 22:01

ミハイ・ビテアズル
1558年-1601年
在位:1593年−1601年
【統率】79
対オスマン帝国戦においての指揮権のほとんどは彼にあり、同盟諸国の軍をまとめて勝利を収めた。また、国内では強権的な政治体制で不満を鎮圧した。
【武力】83
オスマン帝国を相手に勝利を収めて「キリスト教の勝利者」の栄光を受けるが、全盛期を過ぎたオスマン帝国と脆弱なルーマニア諸国との相手ばかりであるので控えめに評価します。
【知力】63
在位8年でワラキア公からトランシルヴァニア・モルダヴィア両公国まで統べる大公となるが、急進的な勢力拡大から援助を受けていた神聖ローマ帝国からも裏切られ、国を奪われた貴族達からの反発も激しかった。
【政治】75
オスマン帝国を欺き、機を見るや同盟国へ軍事介入するなど機略には長けるが、その治世のほとんどを戦争に費やしていたため、国内政治においては強権的な手段以外は不明である。
【魅力】40
性格は果断であり、既得権益を侵害された貴族には恨まれていた。援助をしていた神聖ローマ帝国からも、その影響力が拡大したとたんに裏切られたことから、対人的な魅力は低いと見られる。

[654] 片田舎の偏屈士 2008/09/12 22:05

——ワラキアに吹いた嵐——

ミハイ勇敢公として知られるワラキア公。
果たした偉業の割りに幼年期からの記録が乏しく、王族の私生児と推測されている。当時ワラキアを支配していた宗主国オスマン帝国の思惑もあり、1593年にワラキア公に就くが、その翌年にオスマン帝国が神聖ローマ帝国と争う隙を突いて反旗をひるがえす。
神聖ローマ帝国のルドルフ2世の援助を受け、トランシルヴァニア公バートリ・シグモンドとモルダヴィア公アロン・ヴォダと同盟を結んで、カルガレニの戦いでオスマン帝国軍を撃退。その勝利を称えられて「キリスト教の勝利者」の称号を得るが、最終的にはオスマン帝国とは平和条約を結び貢納を収めることで決着。
このことにより自治権を獲得することになるが、神聖ローマ帝国を実質の宗主国としてオスマン帝国の干渉に対抗をするようになる。
しかし、ルドルフ2世がトランシルヴァニア公国の支配権をめぐりゴタゴタを引き起こすと軍事介入をし、1599年にトランシルヴァニア公に就任。更にはその翌年にモルダヴィア公国にも軍事介入し、その公にも就き、史上初めてルーマニアを統一をする。このミハイの影響が及んだ支配領域三ヶ国は後の大ルーマニア主義の目標となる。
だが、ミハイ公の権力の拡大を恐れたルドルフ2世とトランシルヴァニアのマジャール系貴族が反発。更にはポーランドの軍事介入を招きミハイの支配は瓦解。ワラキア公からも廃位された後、再起を図ってオーストリアの傭兵隊長バスタと組んで挙兵してトランシルヴァニア軍を破るが、同国の支配をもくろむバスタの刺客に手によって暗殺されてしまう。

[655] 片田舎の偏屈士 2008/09/12 22:20

自分が評価するのが武力低めの人材ばかりだったので、ちょっと武力の高い人を評価してみました。
知力が高いようで低いため、トップに立たせると向こう見ずに走っていき、潰れてしまう身内にとっても外部にとっても厄介なタイプです。
大人しく司令官で留まっていれば、勇敢の呼び名に相応しい活躍をしてくれることでしょう。

>>631-635
Fate/zeroッスね。しかし、東洋系の人物が出てくれなかったことが少しだけ残念でしたね。メジャーでないところを狙えばロスタムとか出してほしかった。

>>636
光緒帝先越された!
ちょいと見知ったんで、資料を整理していつかは評価してみようと思ってたりしていました。ビバマイナー!

>>648
マスードを知ったのはフルメタであったことは内緒ですか?
高潔な人物で強いことは強いのですが、自分が評価したら新興のタリバンに国を奪われてしまっている点がマイナスになるでしょうかね

しかし、メムノンとかムワタリとか・・・・・・マイナーの道は俺にはまだ厳しいな!

[656] ガーリックトースト73% 2008/09/13 10:01

シアオシ・ツポウ1世(ツイ・タウファアハウ)

【統率】72
【武力】65
【知力】84
【政治】82
【魅力】76

【特殊能力】弁舌 慧眼

【統率チェックポイント】
大きな権力を持っていた各地の首長をまとめ上げ、欧米列強の度重なる外圧にも関わらず対抗し続けた。彼の統治した領土・臣民の質量はさして大きいものではなく、統一後も暴動が幾度も発生しているが、立憲君主国移行・武力を背景とした外圧が横行した時代にあって、トンガの領土を確立させ列強に認めざるを得なくさせた統治能力は決して過小評価されるべきではない。

【武力チェックポイント】
初めの方こそ小規模な競り合いで負傷することもあったが、自らキリスト教に改宗した後は戦いで敗れたことは一度もない。もう1つの王朝であるツイ・カノクポル朝の後継者をハアパイ諸島のヴァレタにて破り、その後の度重なる内戦も常に勝利しつづけた。しかし、世界史という観点から見れば、人口も少なく国土も狭いトンガの戦争全てが小競り合い程度になると思われるので、この程度の数値とした。

【知力チェックポイント】
キリスト教と接するうち、国民の必要と要望に見合った成文法の必要に気づき、宣教師を使って近代憲法と立憲君主国としての国家成立に腐心。同時に自分自身の才覚の限界をよく認識し、外国人である宣教師・シャーリーを首相に据え、欧米視点での助言を求めた。明治憲法より14年も早い近代憲法の制定であり、類稀な先見性を有していたことが伺える。

【政治チェックポイント】
前時代的な中世国家からの脱皮を図り、国王集権を推し進めて首長の権限を削減。また法典や土地の保有、出版の自由化を特に重要視して臣民の権利確立。更に奴隷を解放し、身分差別を大幅に緩和した。仕上げは友好条約の下でイギリスの保護領となり、イギリスの部分的な影響下に置かれる事で軟肌であった軍事力による直接支配の問題をよくカバーした。

【魅力チェックポイント】
トンガ国民からは植民地支配から国土を守り、トンガ国民による独立を保ち続けた「誇り」そのものであるとされ、こんにちの"立憲君主国トンガ"の正当性を与える何よりの材料となっている。

【作者から一言】
トンガ中興の祖とも言える英雄です。激動の時代にあって、軍事力も人口も国土、そして国際的な協力も充分とは言えない状況にあって、なお独立を守り続けました。近代憲法の制定にあたっては、当時にあってはトンガ人の理解と必要性を超えるものであった、と言われ、臣民にとっては疑問だらけであったことは間違いありません。多数の批判に遭いながらも、事をなしえた決断力は素直に尊敬したいと思います。
能力は知力と政治が高い官僚タイプ。といってもほかの能力も悪くはないのでどのポストにおいても重用されるでしょう。

【列伝】
生没:1797年 - 1893年
略歴:トンガ王国カノクポル朝第19代国王
在位:(1845年 - 1893年)

——戦士・戦略家・雄弁家の顔を持つポリネシアの誇り——

 1797年、ツイ・カノクポル王の甥として、同時にツイ・トンガ王の王太子として誕生。当時のトンガは14世紀以降、ツイ・トンガとツイ・カノクポルという2つの王朝に編成されていた。しかし戦乱が絶えず、有力者ツイ・ハアタカラウアが99年に殺され、内戦に一応は終止符が打たれたものの、予断を許さない情勢であった。そんな中彼は土着の宗教に見切りをつけ、キリスト教に改宗。1831年にはイギリス国王の名前に因んでシアオシ(ジョージ)と改名し、姓をツポウと改めた。同時に彼の支配する領民もキリスト教徒となり、トンガに変革の嵐が起こる。

 1864年、叔父ツイ・カノクポル王の死によって、彼はツイ・カノクポルの後継者を戦いにて破り、国王シアオシ・ツポウ1世としてトンガ統一を完遂。いよいよ懸案だった外国勢力との外交に取り掛かる。75年に首相に就任した宣教師シャーリー・ベーカーの指導の元で、即日取引や騒音の禁止・税金といった「商業主義」を導入。近代的な立憲君主国として歩むために議会を設け、成文憲法を制定した。1875年から93年の間に彼は4か所を修正し、トンガに合った憲法作りを実行。
 同年、96歳で崩御するも、足掛け28年間を以って作られた王国の基礎は強固であり、日本・タイと共に植民地になることなく1000年以上の歴史を持つ王朝も存続され、今もトンガ臣民の尊敬と羨望を集め続けている——。

[657] 2008/09/15 00:26

既に2ch板でも数値化されていますが、
・ヤン・ウェンリー(『銀河英雄伝説』、“魔術師にしてペテン師”)
【統率】 90(運営は他人任せだがそうする(そうさせる)だけの度量と人物鑑定眼は一級)
【武力】100(“不敗の魔術師”この言葉に尽きる)
【知力】 90(健全な判断力と高い自己抑制力は見るべき物があるがそれだけに“見えなくてもいいところまで見えてしまう”)
【政治】 10(知力の高さの裏返し。“見えなくてもいいところが見えてしまう”結果)
【魅力】 90(死後もなを燦然と輝くカリスマ)
【特殊能力】
・戦場の心理学者:戦闘時相手のイニチアブを見てから行動順序を決められる

[658] 2008/09/15 00:28

>>[657]
【私見】
 この数値をつけてみて思ったことは“コレでは同盟の指導者達が排除しにかかるのは無理はない…”。
 これだけの器量を持ちながら【知力】が高いため政治の悪いところが見えて“しまう”から政治に幻滅してなかなか協力しようとしないし、隔意を持って接しているので相手からも敬遠される。自分達に従わないくせに【魅力】が高いので本人の好むと好まざるとに関わらず人が集まって一大勢力を築いてしまう。“私人”としては好ましい人物ではあるが“公人”としては明らかに問題がある。彼の人となりを“よく知る”知人と“虚像しか知らない”大衆であればともかく、“中途半端にしか知らない”政治家などから見ればルドルフという前例があるだけに“何をしでかすか判らない”得体の知れない実力者などあってはならないのであり、トリューニヒトやレベロが排除しにかかったのも無理からぬ話である。このような状況を招いたのはヤンの欠点である社会性の欠如、“公人としての立場による政治的責任と行動原則”を軽視というか無視してしまったことに端を発するものであり、自業自得といわれても仕方がない。

 それでいて【知力】が高いため自身の行動に一定の制限をかけてしまい、【政治】が低いので自らの道理に反する策が取れない。ビュコックの言葉ではないが“彼がもし敗れるとしたら彼の理想へのこだわり”と言われても仕方がない。ヤンが新たに再起するのと、命令違反を犯してでもラインハルトを討ち、灰燼に帰した政府を新たな指導者として再建するのとでは[民主主義という体制のブランド]の価値がどれほど違うものになるか。一流浪の集団が掲げるスローガンと国家が掲げる大儀とでは遥かに民衆へのインパクトが違ってくる。おそらくシェーンコップはこのことを“歴史の正道”として理解していたがヤンにはその“理想へのこだわり”ゆえに選べなかった。それでいて(やむを得ない事情があったにせよ)武装蜂起して抵抗し多くの尊い人命が失われる結果に至った事は、作品中でも言われている“彼の覚悟の不徹底”が招いた惨事である。世の中は全てを満足させることは出来ないことが当たり前であるが、それなら“より多くを満足させる”方がマシである。それが政治というものであろうが、ヤンはその現実を飲み込むことが出来なかった。

 もし平世ならば世に出ることはなかったろう。乱世にあって花開くものであるが、従わせようとすればよほどのカリスマを持って尊敬させるしかないが、それが可能なのは“ヤンの理想の対極にある”ラインハルトしかいない以上その選択は出来ない。ならばいっそ世に埋まれていた方が世界の為にも益だったのではないか。所詮“乱世の徒花”である。

(些か生意気な評価をしているが、数値化してみて“ヤンはなぜあれほどまでに同盟政府から警戒されるのか?”を考えるとこういう論にならざるを得ませんでした。ちなみに『銀英伝』で一番好きなキャラはヤンですが。)

[659] 喝食 2008/09/15 02:40

>>655
内緒でお願いします。まあ何をきっかけにしたかも大事ですがそこからもっと知りたいと思うかどうかの方が重要でしょうか。

どれだけの戦力を用意できたかとか兵站とか含めて最終的に国を失う失わないのとかいう結果責任はかなり政治で評価してました。タリバンはソ連がいなくなった後にみんな油断して仲間割れしてた隙をついてでてきたように思うので逆に新興だからこそ大きくなれたんではないかと思ったりもしました。ササン朝とビザンツの隙をついてイスラームが出てきたみたいにです。スーダンのマハディ派とかもそうですがシンプルな信仰心に支えられた勢いのある集団の力は想像してるよりもかなり強いように思います。あれだけボコボコにされてもトライバルエリアに逃げてまたゾンビのように生き返ってるのをみるとタリバンという組織の粘り強さを感じます。長々と申し訳ないです。

ウィンストン・チャーチル

【統率】91
【武力】42
【知力】90
【政治】81
【魅力】82

【特殊能力】鼓舞 弁舌 文才 躁鬱

【統率チェックポイント】
弁舌を駆使して国民を鼓舞し、ナチスドイツ軍の電撃戦の前に大陸遠征軍が大打撃を受け、フランスが降伏して孤立無援の状態にあるイギリスに戦意を取り戻す。不屈の闘志を持って国を統率し国防力を高め、バトル・オブ・ブリテンを戦い抜いた。

【武力チェックポイント】
サンドハースト陸軍士官学校卒業後将校に任官。従軍記者としてボーア戦争で捕虜になるが脱出に成功している。

【知力チェックポイント】
無謀なガリポリ侵攻作戦の失敗はマイナスだが教訓をノルマンディーで活かしたか。チェンバレンの宥和政策が進む中にあってヒトラーの危険性を見抜き、ドイツのソ連侵攻や日本の対米侵攻も察知していたともいう。戦後は米ソ冷戦を予言し「鉄のカーテン」演説を行った。軍事面以外ではその洞察力は超一流といってよいだろう。文才にも秀で、著書「第二次世界大戦回顧録」でノーベル文学賞を受賞している。

【政治チェックポイント】
保守党と自由党を渡り歩き、ガリポリの失敗にもかかわらず再び政界に復帰し内閣に入るなどしぶとい。第二次大戦ではアメリカやソ連を戦争に参戦させるため精力的に活動、結果米ソを大戦に引きずりこむことに成功しイギリスを勝利に導いた。しかし大戦後半はイギリスが国力を大きく失っていたこともあって二大大国に主導権を奪われ、総選挙でも敗北している。

【魅力チェックポイント】
数多くの失敗、欠点にもかかわらず何度となく重要ポストに返り咲くことができたのは政治力ばかりでなく彼の個人的魅力にもよるだろう。時には好かれ、時には最も嫌われもしたが現在ではイギリス史上最も人気のある人物であるといえる。

[660] 喝食 2008/09/15 02:42

>>659の続き

【列伝】
ウィンストン・チャーチル(1874〜1965)

——「絶対に屈服してはならない。絶対に、絶対に、絶対に、絶対に。」——

正式なフルネームはサー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル。マールバラ公の子孫としてオックスフォードシャー州のブレナム宮殿で生まれる。サンドハースト王立陸軍士官学校を卒業後軍に入隊。一族のコネを利用して世界各地で植民地戦争に従軍し、従軍記者として名声を得た。しかしその奇抜な行動や売名行為で反感を買い軍内部での昇進が難しくなったため保守党議員として下院選挙に立候補し当選。その後保護関税政策での意見対立により自由党に移る。後に海軍大臣となりイギリス海軍の近代化を進めたものの大臣在任のまま突入した第一次大戦では強力に推進したガリポリ侵攻作戦の大失敗し辞任。陸軍に復帰し西部戦線で戦った。彼は多くの人から有能な人物であると支持されていたこともあって再び政界に復帰、重要ポストを歴任し自由党政府が倒れるとまたも保守党に戻った。しかし財務大臣に任命されて行った金本位体制復活が手酷く失敗。総選挙で敗れしばらく不遇の時を過ごすこととなる。しかしナチスドイツが台頭すると状況は一変。かつては共産主義に対してファシスト党を賞賛したこともあったが既にその危険性の気付いており、ヒトラーを激しく批判。ネヴィル・チェンバレンの融和政策にもほぼ一人で反対する。第二次大戦への突入によって政府が大衆の支持を失うと海軍大臣へ復帰。支持を失ったチェンバレンの後任として首相に指名される。西部戦線では南フランスのアルデンヌの森を突破したドイツ軍の電撃戦によりイギリス・フランス軍は瞬く間に壊滅。ダンケルクに追い詰められたイギリス軍だったがあまりの進撃ぶりを心配したドイツ軍が機甲部隊の温存を考えている間にチャーチルはあらゆる船を総動員してなんとか撤退を成功させた。フランスは降伏し、イギリスは孤立。軍も大損害を受けていた。その中でもチャーチルは不屈の精神力で国民を鼓舞し軍の強化に努め、優秀なレーダー網とスピットファイアに代表される戦闘機部隊によってバトル・オブ・ブリテンと呼ばれるイギリス本土防衛線を戦い抜く、イギリス侵攻を断念したヒトラーがソ連に侵攻するとそれまで徹底的に嫌っていたソ連と同盟し1941年には日本の真珠湾攻撃によりアメリカが参戦する。戦略爆撃により生産力が衰えたナチスドイツは東部戦線を持ちこたえることができなかった。戦争が終わると同時にチャーチルの求心力は失わる。ヤルタでもイギリスは蚊帳の外であった。1945年には保守党が総選挙で敗北。チャーチルは政権を失う。その後スエズ動乱時に短期ながら首相に再任されるもその後は世界の表舞台から退き1965年に90歳で没する。

ドイツ、ソ連の独裁者が評価されていたのでそれならば彼を評価したいと思いやってみました。腹黒紳士国家イギリスですが、この人は能力は別として彼ら二人よりははるかにまともな人物です。売られた喧嘩は買う、それが衰退への道だとしても必要な時は必要なのでしょうね。彼の名言の数々はかなり好きです。

[661] ガーリックトースト73% 2008/09/15 13:45

>>657 因 さん

【列伝】を書かないとまとめサイトには掲載されなかったと当方、記憶しておりますが、宜しかったでしょうか?

さて、今日は休みですので、久々に大量投下してみましょうか。

[662] ガーリックトースト73% 2008/09/15 14:50

木村昌福

【統率】76
【武力】78
【知力】79
【政治】23
【魅力】77

【特殊能力】一喝 鼓舞 混乱 誘発
支援巧者:撤退・補給・人命救助の成功率が100%に。

【統率チェックポイント】
一言でいえば沈着冷静。負傷しても士気が低下することを何よりも懸念し、揮下の艦隊には絶対に知らせずに帰還した逸話を持つ。
時には自ら殿を務め、危険海域でとどまる旗艦を見て将兵を奮い立たせ、完璧な救出活動を展開した。

【武力チェックポイント】
戦果夥しい猛将の部類ではない。戦果と言えば『通商破壊戦』においての輸送船撃沈、ミンドロ島沖海戦での輸送船撃沈くらいで、戦い自体には何度も敗れている。
彼の名将と呼ばれた所以は、キスカ島撤退での"芸術的"とも称される全人員の無傷生還や、ビスマルク海戦で負傷しても最後まで指揮したと言われるように、防戦によってこそである。

【知力チェックポイント】
キスカ島撤退作戦では、隠密作戦に都合の良い天候を待ち続け、決して作戦を強行する事はせず、1回目の出撃では躊躇なく撤退するなど、状況をよく判断した作戦を行った。その後も上層部の批判に心動かされること無く、アメリカ軍に作戦を悟られずに守備隊5,200人を無傷かつ短時間で救出した。
とにかく運用の際は慎重であり、ミンドロ沖海戦でも敢えて旗艦に巡洋艦を選ばず、小回りの利く駆逐艦を選ぶ念の入れようであった。

【政治チェックポイント】
叩き上げの軍人であり、政治とは無縁である。
また、少々不器用な性格でもあり、政治的な駆け引き、人を欺く類の謀略の才能は乏しい。

【魅力チェックポイント】
勇猛、そして豪快。部下をむやみに叱らず、常に沈着冷静。人命を優先する志向ゆえか、彼が指揮した部下からは悪い噂はなく、信頼は厚かった。事実、退役後は自分を慕う部下とともに会社を興している。
しかし、一方では上層部からは扱いにくい人材であることは確かで、度々上の支持を無視して任務を遂行したため、誹謗中傷の誹りを受けることもあったようだ。

【作者から一言】
斜陽の大日本帝国を支えた良将です。撤退戦や補給では神がかりとも言える才知を発揮し、帝国兵を1度ならず戦禍から救いました。
カイゼル髭をまとい、酒豪でありましたが日本の将帥において数少ない人命救助を優先する人物といえるでしょう。
能力は政治が極端に低い以外はまさに良将の二つ名に違わぬ才覚を持っています。特殊能力も豊富で安心して艦隊司令を任せられるでしょう。

【列伝】
生没:1891年12月6日 - 1960年2月14日
略歴:第3水雷戦隊司令官、第1水雷戦隊司令官、海軍兵学校防府分校長、防府海軍通信学校長
備考:「撃っちゃあいかんぞォッ!」(白人を載せたボートに自艦の機銃指揮官が射撃命令を出そうとしたとき)

——ショーフク——

 静岡市の近藤家に生まれ、生後すぐに木村家の養子となる。海軍兵学校に第41期生として入校。卒業時成績順位は118人中第107位であった。

 生粋の水雷屋として軍歴を過ごした人物で、開戦時は巡洋艦「鈴谷」艦長。1943年2月に第3水雷戦隊司令官に着任。ビスマルク海海戦で重傷を負い、復帰後第1水雷戦隊司令官に着任。7月にはキスカ島撤退作戦を成功させる。44年にはレイテ島挺身輸送作戦「多号作戦」を二度指揮して成功させ、さらにミンドロ島の米上陸地点への突入作戦礼号作戦をも成功させた。その後、海軍兵学校防府分校長、防府海軍通信学校長(兼任)として終戦を迎える。

 戦後は山口県防府市で、彼を慕う旧部下と共に製塩会社を経営した。同時にトレードマークであったカイゼル髭を剃り落し、穏やかな日々を送り、1960年2月14日に山口県防府市で胃癌により千葉医大付属病院にて死去。享年68。

[663] ガーリックトースト73% 2008/09/15 16:22

山下奉文(やました ともゆき)

【統率】69
【武力】90
【知力】65
【政治】46
【魅力】81

【特殊能力】一喝 挑発 鼓舞
猪突猛進:指揮下の攻撃力・運用速度が100%になるが、一定時間経過後士気-20
補給軽視:指揮下の兵糧・弾薬の消耗率が1.5倍になる

【統率チェックポイント】
マレー侵攻作戦では1番乗り競争をもり立てることで互いの隊の闘争心を煽り、統率された状態でなお進行速度を速めることに成功した。
シンガポールの統治においては支那ゲリラや敵軍協力者の粛清を敢行し不平分子を一掃。華僑の地であるが故に反日色の強かった同国をひとえに黙らせた。
ただ、ルソン島の戦いでは将帥が戦死している状況とはいえ指揮系統が麻痺し時間が経過するにつれて組織的な反撃ができなくなっているため、一級の評価を与えることは難しい。

【武力チェックポイント】
当初予定の30%ほどしかなかった35000の兵力で88000の英印濠連合軍を55日で撃破。中でもジットララインを1日で破り、用意周到な準備がなされていたとはいえ、難攻不落のシンガポール要塞を陥落せしめたのは大きい。ルソン島の戦いでは物量差に劣ると踏んで奥地に潜んでの持久戦に打って出たが、事実終戦まで持ちこたえているためこれも妥当な選択か。

【知力チェックポイント】
シンガポールの戦いでは弾薬がほとんど尽きた状態でも相手が降伏してくれたので運が良かったものの、ルソン島の戦いでは補給軽視のツケが案の定兵士に降りかかり、夥しい餓死者を出している。
ただ、台湾沖航空戦の戦果の発表を誤報と考え(実際これは正解)、レイテでの安易な一大決戦に持ち込むことに反対し続けた。

【政治チェックポイント】
2・26事件ではあからさまに皇道派決起将校らに対し理解を示してしまい、出処進退を誤る。実際これが致命的であり、統制派であった東条英機首相に邪険に扱われ、どれだけ戦果を挙げても陛下に拝謁を賜ることはならなかった。
シンガポール統治においての内政面では、擬似紙幣や宝くじを導入して財源の確保に努めている。

【魅力チェックポイント】
大雑把かつ豪快、そして情愛を以って接する将帥であり、風評を気にして皇道派将校の肩を持つ事を躊躇するものが多い中で、席上にあって1人堂々と理解を示した。
味方はもちろん、敗戦後は敵軍からも好かれ、フィリピンでは今も「山下財宝」なるものが残っているとされるほど有名な人物である。

【作者から一言】
大日本帝国陸軍きっての猛将です。水野晴郎が演じた「シベリア超特急」でも有名ですね。私が最も好きな陸軍将帥の1人です。一説には小説「銀河英雄伝説」のビッテンフェルト将軍のモデルとも言われますが、真偽は闇の中です。
能力は武力が突出して高い、極めて有能な将軍です。ただ、彼だけでは知力が心もとないので、誰か有能な参謀をつけてあげましょう。

【列伝】
生没:1885年11月8日 - 1946年2月23日
略歴:大日本帝国陸軍大将
官位:従三位勲一等功三級
備考:有名な「イエスかノーか」は敵軍のイギリスではなく稚拙な訳しかできない通訳に対してはなった言葉である

——マレーの虎——

 高知県長岡郡大豊町にて誕生。陸軍士官学校(18期)、陸軍大学校(28期)に進み、卒業後スイスやドイツに留学。帰国後、陸軍省軍事課長、軍事調査部長等を歴任。2・26事件では皇道派の幹部として決起部隊に理解を示し顰蹙を買う。これもあって山下は軍から身を引く覚悟も固めたが、川島義之陸軍大臣が各所に説得。朝鮮・竜山の歩兵第四十旅団長への転任という形で軍に残った。その後、1939年9月23日に大阪第4師団長となる。

 マレー作戦では第25軍司令官として指揮を担当。瞬く間に連合軍を撃破し英司令官パーシヴァル中将のフォード自動車工場にて降伏勧告を受諾。マレー半島およびシンガポールを占領する大金星を挙げた。しかし、東條英機によって前線から遠ざける形で満州に配置され、その後は大きな作戦を任される事はなかった。その後、負けが濃くなってきた44年、第14方面軍司令官として再度抜擢。日本軍が占領していたフィリピンの防衛戦を指揮する事になった。この間、「マッカーサー参謀」の異名を誇る堀栄三中佐の補佐の元、あらゆる困難を排して状況把握に成功。結果レイテ決戦の愚に気づくも、政治的発言力を失った山下にはどうすることもできなかった。ルソン島の戦いでは辛くも持ちこたえるが、本国の降伏と共に降った。

 捕虜、のちに戦犯としてアメリカ軍により軍事裁判にかけられた。マニラ大虐殺等の責任を問われ、死刑判決。 米陸軍の法務将校からなる山下の弁護団は、判決を不服としてフィリピン最高裁、アメリカ連邦最高裁判所に死刑執行の差止めと人身保護令の発出を求める請願を出した。しかし米最高裁は6対2の投票で請願を却下し、山下はマニラで絞首刑に処せられた。

[664] ガーリックトースト73% 2008/09/15 18:27

プレーク・ピブーンソンクラーム元帥

【統率】85
【武力】48
【知力】80
【政治】87
【魅力】16

【特殊能力】粛清 交渉 政略 猜疑心

【統率チェックポイント】
約20年に渡り強力な指導体制を維持。大戦下の混乱期にあってなお地位を守り続けた。統制のためには手段を選ばず、首相就任後間もなくして王族・官僚・議員に及ぶ50人もの人間を粛清。愛国主義を推進し、愛国の名の元に服装を制限、華僑を締め出し治安強化を貫いた。

【武力チェックポイント】
王族や将校の反乱をたびたび鎮圧する一方で、自身が行ったクーデターは2回とも成功させている。しかし、彼はやはり政治家としての功績の方がはるかに大きく、戦術能力自体は並の軍人程度と推測される。

【知力チェックポイント】
世渡りがとにかく上手く、日本軍が国境進入許可を求めた際は直接会わずに事後承諾でイギリスとの摩擦を最小限に抑え、日本の敗戦色が濃くなってくると辞表を提出し、自ら責任を負う形で「ポーズ」を取って後々の再起に繋げた。しかし日本軍の横行を黙認せざるを得なかったり戦後は政権の腐敗を抑えられなかったりと失点もある。

【政治チェックポイント】
二枚舌を駆使し、日本とイギリス・フランス・アメリカの4大国と対等に渡り合った。総じて独立を保てたのはこの宰相の手腕によるところ大であり、1カ国に追従するのではなく、どの国にも知己を残しておく事で後の交渉に有利に動くことができた。
内務面では、乱立していたタバコ産業の専売化、ツバメの巣の採掘ライセンスの保留、食品商やタクシードライバーの外国人締め出しを行う一方で、華僑の帰化を推進し国内の一体化を図った。
政敵も数多く作ったが、そのたびに粛清を駆使して蹴散らして見せ、王室に対しては王室財産局を作り締め出そうとするも、結果的に財閥化し、タイ経済の発展に貢献することとなる。だが、晩年は精彩を欠き、不正を隠蔽しきれなかったり、サリット元帥のクーデターを見抜けなかった。

【魅力チェックポイント】
実力はある事は誰しも認めるのだが、若い頃から政争に明け暮れ、不正・粛正と重ねたため、彼の古巣である軍以外の人望はほとんどない。王族・華僑らにはきつく当たったため特に嫌われ、晩年には軍人であるサリット元帥に見限られる形で政権の座を追われる。個人的魅力の欠如を強権を以って補う形の、典型的な独裁者であった。

【作者から一言】
タイの外交上手は結構言われていることですが、彼の指導力なくしてタイは独立を保てなかったのではないでしょうか。表裏を使い分けることのできる人物で、大戦中も日本に協力しながら、一方では首都が破壊された場合に備えて新都市建設にも着手していたようです。いやはや、タイには色々とすごい人材がいるんですね。

[665] ガーリックトースト73% 2008/09/15 18:28

>>664の続き

【列伝】
生没:1887年7月14日 - 1964年6月11日
略歴:タイ王国陸軍元帥、タイ王国第3・第11代首相
任期:第3代(1938年12月16日 - 1944年8月1日)、第11代(1948年4月8日 - 1957年9月16日)
備考:彼の妻は結婚当初わずか13歳の教員であった。

——永年宰相——

 1887年、ノンタブリー県で農業を営んでいた林姓の華人・キートとタイ人の妻・サームアンの間に生まれる。陸軍士官学校、参謀学校と進み、参謀学校は首席で合格。それを讃えられ、「ルワン」という官位と「ピブーンソンクラーム」という欽錫名が与えられ、陸軍少将に配属された。後にフランスへ留学し、ここでヨーロッパ式の近代的民主義思想に触れたとされる。

 帰国後、人民党に入党し1932年に立憲革命を起こす。翌年ボーウォーラデート親王がクーデターを起こすが、これを鎮圧。その翌年に成立したプラヤー首相政権下で陸軍大将に就任した。しかしこの間の1934年2月と38年11月9日の2度に渡り襲撃され、同年の12月9日には食事に毒を盛られて暗殺されかけた。何れも政敵某が行ったとされる。

 その後1944年まで首相となり、中立政策や国境通過協定を結ぶなどして大国と渡り合うも、日本敗色に伴い枢軸側についた責任を問われ失脚し投獄される。しかし間もなく無罪放免で釈放され、軍部から「政変団」を組織し47年にはまたしてもクーデターを起こして首相に返り咲く。この後は親米路線を推し進め、経済・軍事協定を相次いで締結する一方で、政変団を使って作為的クーデターを発生させて治安強化の名の元に独裁体制を敷き、見事に返り咲いた。この結果、しばらくは安定的な政権が維持されるが、57年には不正が発覚し国民デモが発生。これを契機としてサリット元帥をはじめとする有力者が相次いで反旗を翻し、同年9月17日にクーデターを起こして失脚した。

 彼自身はタイのトラート県に逃げ、そこからカンボジアへ亡命。その後、知人が多い日本の東京で亡命生活を送っていたが、後にインドで出家。還俗後、神奈川県相模原市で死去。享年77歳。ちなみに、タイでは役職を本名としても問題ではなく、「プレーク・ピブーンソンクラーム元帥」までが正式名称である。

[666] ダミアン《江頭6時6分6秒》オーメン 2008/09/15 19:08

↑下から失礼しやす!
666(σ^-')σゲッツ!!!

ヤッホーー

(^O^)ノ[]☆[]ヽ(^O^#)

楽しいなーー

(^O^)ノ[]★[]ヽ(^O^#)

ルネッサ〜〜ンス

[667] 喝食 2008/09/16 19:03

モクテスマ2世

【統率】83
【武力】45‐75
【知力】39
【政治】81
【魅力】65

【特殊能力】
建築 天文 治安維持 人身御供 無免疫
チナンパ:淡水上において耕作可能
一の葦 :未知の征服者に対し強硬な態度をとることができない

【統率チェックポイント】
アステカ帝国の皇帝として500から600万人の民を従えメキシコ北部からホンジュラス、ニカラグアまで至る20万平方キロ以上に及ぶ国土を統治しスペイン人が来襲するまでその拡大は止まることがなかった。その規模は旧大陸の大文明に匹敵する。一方でその支配は属国からの貢物によって支えられ、恐怖によってその不満を統制するものであったがためにスペイン人の調略には大きく揺らいでしまい最後には瓦解してしまう。

【武力チェックポイント】
勇猛な軍を率いて近隣の諸部族をほぼ制圧し、一部は生贄の確保のために敢えて残しておくほどに強力であった。率いた兵力の規模からコルテスを過大視することはできず安易に旧大陸の基準で判断した場合は四十から五十代に止まるだろうが絶対的な火力の差と馬を知らなかったことから妥当と言えるかは疑問である。

【知力チェックポイント】
アステカの宗教的世界観と不幸な偶然に判断を拘束されていたために彼だけを大きく責めることはできない。高位の貴族に限られた厳格な宗教教育を受けた彼にとってケツァルコアトルは模範とするトルテカの主神であり、トルテカの血をひく彼の祖先でもあった。彼にしてみればその時間違いなく悪魔の軍隊を率いる神が戻って来ていたのだった。当時のアステカの知識階級として極めて常識的な判断であったのかもしれない。しかし結果として凶悪な侵略者を無防備で首都に招き入れてしまった。

【政治チェックポイント】
宗教と一体化し王権から独立した洗練された法体系に支えられ極めて良好な治安を維持していた。首都を中心に発達した交易網から莫大な富を得て大規模な祭典を幾度も行っている。楽園の如く美しいテノチティトランを初めて目にしたスペイン人達の驚きはいかほどのものだっただろうか。

【魅力チェックポイント】
新王の神への宣旨には王は神の代理人として国を統治するとあり、建前上は絶対的な存在ではなかったようだ。数少ない逸話からは内省的でやや潔癖な性格が窺える。一方で他部族に対する支配は貢物を要求し、生贄を取る強圧的なものであった。コルテスの化けの皮が剥がれると激怒した民衆をなだめようとして殺されたとされるが暗殺の可能性もある。

[668] 喝食 2008/09/16 19:04

>>667の続き

【列伝】
モクテスマ2世(1480?〜1520)

——破滅に至る予言——

モクテスマ・ショコヨトル。アステカ帝国皇帝。アウィツィオトルから1502年に王位を継承した。アステカは豊かなメキシコ盆地の覇権を握って以降急速に勢力を拡大しておりモクテスマの時代には1516年に同盟都市テスココの王位に自分の甥であるカカマを傀儡として即位させているなどその最盛期にあった。しかしその繁栄も長くは続かなかった。1492年のコロンブスのカリブ海域到達以降、この未知の大陸への進出を活発化していたスペイン人達であったが1519年にはコンキスタドール、エルナン・コルテスがメキシコ海岸に上陸する。彼はアステカの富の情報を知ると600人のスペイン人兵士と20頭の馬、10門の大砲とともに西へ進み各地の部族を制圧。政治的分裂を利用して抑圧していたアステカへの復讐をそそのかし多くの部族から傭兵を集め首都テノチティトランを目指す。一方のモクテスマはこれに困惑し、畏怖していた。アステカの神話によればセー・アカトル(一の葦の年)にかつてアステカを追われたケツァルコアトル神が肌の薄い髭を生やした姿で再来するとされており1519年はまさにその一の葦の年だったのである。アステカの主神ウィツィロポチトリやテスカトリポカと対立するケツァルコアトルはアステカの前身であるトルテカの主神でありアステカの学院カルメカックの保護神として賢人や高齢の貴族達に深く信仰され、モクテスマにとっても他の神々とは別格の存在であった。アステカに圧迫されていたトゥラスカラと同盟したコルテスはアステカの同盟都市チョルーラを制圧。馬に乗り火器を操るスペイン兵を率いるコルテスをケツァルコアトルの再来と信じ込んでしまった彼は戦意を喪失。テノチティトランに着いたスペイン人達を丁重に招き入れる。しかしアステカの強大さを目の当たりにしたコルテスはモクテスマの心変わりを恐れて彼を幽閉してしまう。その後コルテスが首都を留守にして対立するキューバ総督ベラスケスの派遣した討伐軍を打ち破っている間、ウィツィロポチトリ神の祭日に残った守備兵が祭典を止めさせようとアステカ貴族200人を殺害。激怒した民衆をなだめようとしたモクテスマは投げられた石に当たり死亡した。その後一年で天然痘など未知の病気に蝕まれていたこの巨大な国家は滅亡。徹底的に破壊されその高度な文明は永久に歴史から姿を消すこととなる。

武力評価に非常に困惑してしまいました。結果的に致命的な誤りを犯してしまった彼ですがコルテス達の侵入が無ければ偉大な王として称えられたことでしょう。もしは禁物ですが・・・。それにしても彼らコンキスタドールが行った行為の結果には愕然としてしまいます。どれだけの貴重なものが失われてしまったか、計り知ることができません。

[669] 2008/09/16 20:49

>>661
[ガーリックトースト73%]さま、ご指摘ありがとうございます。
彼の事跡は当たり前の話ながら既に多くの人に知られていますし、何より2chの投稿による【列伝】でほぼ書くべき事は書かれているので今更とも思いまして書きませんでした。その代わり乱文ながら【私見】という形で載せさせてもらいました。

[670] 2008/09/16 22:37

>>657
ヤンの能力の改正です。
(改)【魅力】90→93
(追加)【特殊能力】“くたばれ、カイザー”(発動時麾下の全部隊の士気が最高値になる)

おお、ヤンは既にあるのにまだ無いとは…、ということで。
・ラインハルト・フォン・ローエングラム(『銀河英雄伝説』、“黄金獅子”もしくは“金髪の儒子”)
【統率】 97(帝國軍の強さの根元)
【武力】 95(ヤンにこそ苦杯をなめたが、“常勝の天才”の名は後世に語り継がれるべき)
【知力】 70(頭はいいがまだ精神的に未熟…)
【政治】 80(公的意識は高い。旧弊を一掃し銀河に新たな時代を築き上げた。)
【魅力】 98(その存在そのものがカリスマ)
【特殊能力】
・“ジーク・カイザー”(発動時麾下の全部隊の士気が最高値)
・皇帝病(一定時期より発病チェックを行う。成功するたびに発症可能性が高まる。失敗して発症後は別チャートにて症状チェックを行う。症状が進むと所在地より動けなくなる。最終チェックに失敗すると彼は死亡しゲームは終了する。この時点で[後継者]がいない場合帝國は無条件に敗北する。[後継者]がいる場合は続行を選択できる。)

[671] 2008/09/16 22:41

>>670
【列伝】
ラインハルト・フォン・ローエングラム(旧帝國歴467〜新帝国歴2(宇宙歴776〜802))
−銀河を呑した獅子帝−

SF小説『銀河英雄伝説』の一方の主人公。ローエングラム朝開祖。
旧姓ミューゼル。ゴールデンバウム朝の貧乏貴族の家に生まれ、10才の時に姉のアンネローゼが皇帝の寵姫として(誘拐同然に)召し出されると門閥貴族の横暴がまかり通る現体制に不信感を持つようになり、親友であるジークフリート・キルヒアイスと共に帝國の打倒を志し、軍人となる道を選ぶ。
“寵姫の弟”という事で蔑視を受けつつもそれを最大限に利用し、なおかつ前線で武勲を重ねることで栄達を重ねると共に、後の幕下に加わる諸将達を見いだしていく。帝国暦486(宇宙暦795)年9月の第4次ティアマト会戦後ローエングラム伯爵家の門地を受け継ぎラインハルト・フォン・ローエングラムを名乗る。
帝国暦487(宇宙暦796)年2月のアスターテ会戦(この会戦で生涯の宿敵となるヤン・ウェンリーと初めて対峙し不覚をとられている)での武勲により若干20才で元帥に昇進、宇宙艦隊副司令長官に任ぜられると見いだした諸将達を招き入れる事で人事の刷新をはかり、同年8月からの同盟軍の帝國領侵攻作戦に置いて迎撃作戦の指揮を執り同軍に壊滅的打撃を与える事に成功し宇宙艦隊司令長官に任ぜられる。
皇帝フリードリヒ4世の死後の混乱によって発生したリップシュタット戦役にて敵対した門閥貴族連合を打倒し帝國の実権を握るも、自らの狭量によって盟友にして自らの半身と頼むべきキルヒアイスを喪ったことは彼にとって一生の痛恨時となってしまう。
のち帝國宰相と軍最高司令官に(自ら)任じ、帝國の改革に取り組み旧弊を打破していきつつ、帝国暦490年(宇宙暦799年)に発動した[ラグナロック作戦]においてフェザーン自治領、更に自由惑星同盟を征服、宇宙暦799年/帝国暦490年/新帝国暦1年6月22日に禅譲(事実上は簒奪)によって皇帝に即位、ローエングラム朝を建てる。
その後第二次ラグナロク作戦を発動し旧同盟領を併合、反旗を翻しイゼルローン要塞に篭もったヤン・ウェンリー一党(彼の死後はその残党)との抗争、更に宿将ロイエンタールの反乱(新領土紛争)を経たのち、長らく彼の秘書を務め幕僚総監に任じたマリーンドルフ伯爵令嬢ヒルデガルド(ヒルダ)と結婚、新帝国暦3年5月に長子アレクサンデル・ジークフリートを授かる。
しかしその体は謎の病気に冒され(変異性劇症膠原病、通称“皇帝病”)、同年(宇宙歴801年)7月25日新帝都フェザーンにて崩御。享年25才、その治世わずかに2年余りであった。なを崩御後は長子アレクサンデルが即位、皇妃ヒルダが摂政皇太后として補佐し、彼と共に戦い生き残った7人の提督(後の世の“(皇居の在する地の名を取って)獅子の泉の7元帥”)がそれを支えたとされている。

容姿はきわめて端正、豪奢な金髪とアイスブルーの瞳を持つ白皙の美青年として描かれる一方、その性格は世慣れせぬ子供っぽさと生真面目さを持ち、その容姿に反して贅沢を好まないというより貧乏性とも取れる一面がある。
ヤンに遂に勝利し得なかったとはいえ軍人としてもまた政治家、為政者としても水準以上の能力を持ち、当時人類社会全体を覆っていた旧弊を打破し新しい時代を創り上げた一代の英雄。

[672] 2008/09/17 23:02

>>671
済みません。間違いました。
誤)ラインハルト・フォン・ローエングラム(旧帝國歴467〜新帝国歴2(宇宙歴776〜802))→
正)〜新帝国歴3(宇宙歴776〜801)

ということで今回は、
・ユリアン・ミンツ(魔術師の偉大なる弟子)
【統率】 70(階級と経験の不足こそあれ見るべき物はある)
【武力】 78(同上)
【知力】 60(同上)
【政治】 70(ヤンなんぞよりよっぽど社交的で世慣れしている)
【魅力】 80(“巧まずして絵になる”)
【特殊能力】
・後継者:ヤンが指導者であるとき、その死亡時に彼が生きていれば自動的に後継者に任ぜられる。任ぜられると全ての能力が〔+10〕される。
・“一級の戦士”:彼がパイロット、白兵戦要員の時、武力に〔+10〕される。これは“彼自身が戦闘に参加する”場合全てに優先して発動する。

[673] 2008/09/17 23:06

>>672
【列伝】
ユリアン・ミンツ(宇宙歴782〜)−弟子にして伝道者、そして後継者−
SF小説『銀河英雄伝説』の登場人物。
 自由惑星同盟軍軍人の息子として生まれるも両親に先立たれ祖母、更にはその死後には孤児院で育てられるなど所在を転々したのち、軍人子女福祉戦時特例法(通称:トラバース法)によりヤン・ウェンリー(当時大佐)の被保護者となる。
 稀代の英雄に憧れていつしか彼と同じ軍人の道を志すようになり、ヤンのイゼルローン要塞赴任に伴って従卒となる。ヤンは生来の軍隊への嫌悪感から彼が軍人になることに余りよい感情を抱いていなかったが、それでも希望には出来るだけ答えてやろうとポプラン、シェーンコップといった一流の戦士に指導させるよう計らっている。
 宇宙戦闘艇スパルタニアンパイロットとして初陣(宇宙暦798年/帝国暦489年1月)を迎えたときには初陣ながら帝國軍戦闘機ワルキューレ3機と巡航艦1隻を撃破するなど天秤をみせ、正規の軍人(少尉)となってからフェザーン駐在武官としてイゼルローンを離れる。
 かの地でヤンが危惧した“フェザーンへの帝國軍侵攻の可能性”を喚起するも時既に遅くラグナロック作戦によるフェザーン占領に巻き込まれて護衛役のマシュンゴらと共にフェザーンを脱出、その際に帝國軍の臨検を逆用して駆逐艦を乗っ取るなど活躍し“同盟の新たなる英雄”と騒がれたこともあった。またこの際同行者の中にいた、フェザーン中枢部と深い関わりのある地球教主教に地球に対する幾ばくかの情報を示唆される。
 バーミリオン会戦後に同盟軍を退役した後にその話を確かめるためにポプラン、マシュンゴらと共に地球へ赴き、同時期行われた帝國軍による地球教討伐のどさくさに紛れて情報を入手、その後ハイネセンをを脱出したヤンらと合流、イゼルローン要塞再奪取作戦に白兵戦要員として参戦し活躍する。しかしヤン暗殺事件においては間に合わず彼の亡骸を見つける事しかできなかった。
 ヤンの死を受け、革命軍司令に就くことになる。同盟滅亡時彼より階級の高い者は幾らでもいたが(ユリアンの最終階級は中尉)、彼らがユリアンを推したのはユリアンが“ヤンの弟子”であること(ヤンのカリスマを最も受け継いでいる)だった。その事が彼を知らない人から不安視されていたが、同年の新領土紛争の際の帝國軍との交渉で政治的力量を、翌年の第11次イゼルローン要塞攻防戦では敵2個艦隊を相手にヤン仕込みの戦術眼をみせて勝利し次第に地歩を確立していった。
 そして6月のシヴァ星域会戦において乾坤一擲の賭の元、帝國総旗艦ブリュンヒルトへ突入し、多大な犠牲のもと皇帝ラインハルトと直談判に及び遂にヤンが望んだ“将来への民主主義の芽”を残すことに成功する。
 その後は作品が終了したためはっきりとしないが、“ハイネセン新政府の指導者としてその運営に従事した後、ヤンが目指していた歴史研究家になって彼らの事跡を後世に書き残す”とのことである。

 周囲の人から“ヤンなぞより(戦士として)よほど役に立つ”と評されるほど優秀で(というよりヤンが“首から下は不要”と揶揄されるほど生活無能力者)、教官役のポプラン、シェーンコップらも高く評価しており、実際に数々の場面でその腕前を披露している。またその他様々な分野でも優秀で(ことに家事は一流でヤンの“文化的な”生活を一身に担っている)、周囲から“器用貧乏”とも心配されるなどであり、ヤンが死ぬ前までは“早熟の秀才型”に見られていた。しかし死後は生来の生真面目さもあって“『ヤン・ウェンリー語録』を携えた努力型の布教活動家”とも見られるようになった。
 しかし何より彼は“ヤンの弟子”であることを自負し、周囲もその事を最も自覚していた。その事が彼を“ヤンの後継者”の座へと押し上げ、戦いの中でその器量を磨いていった。
 時としてその態度は“謀反気がない”とからかわれ、あるいは“ヤンの考えを剽窃しただけ”とも酷評されることもあるが、彼は常にそうありたいと願ったのであり、その事は“独善でも過信でもなく”理想的な後継者としてその任を果たし、体現者としてそして記録者としてヤンの思想を見事に後世に残したこと(この面での後世の評価は“ほぼ完全な形で残ったことはともかく客観性に些か欠ける”とのこと)は賞賛に値する。

彼の能力はそのままでもそこそこ使えますが(あくまでそこそこですが、まだ将来の延び代がある)、何より[後継者]に選ばれてからが本番です。

[674] 喝食 2008/09/18 02:45

インノケンティウス3世

【統率】94
【武力】10
【知力】36
【政治】85
【魅力】76

【特殊能力】
神学 :宗教分野に限り知力が上昇
破門 :カトリック教徒の統率・政治・魅力を大幅に低下、十字軍の対象に。
十字軍:異教徒、異端に対し各国から討伐軍を動員。暴走・失敗の可能性大。

【統率チェックポイント】
教皇権の絶頂期。その威光は全ヨーロッパに及びドイツ皇帝、フランス王、イギリス王など逆らう輩を破門や聖務停止を使って屈服。権力基盤の固まっていない世俗の権力者達は抗うことができなかった。十字軍の暴走を差し引いても十分世界史レベルと言ってよい。

【武力チェックポイント】
自らの手を汚す必要はない。

【知力チェックポイント】
破門の乱発で知られるが自らの勢威の維持拡大の為に何を行うべきかは的確に理解していた。しかし自分で提唱したのに金を出すのは嫌ったのか第4回十字軍は資金不足からヴェネツィア商人にそそのかされてあろうことかキリスト教徒の町ザラを占領し、さらにはコンスタンティノープルを攻略してしまう。ろくでなしレベル。

【政治チェックポイント】
教皇権至上主義を唱えて積極的な政治活動を行う。皇帝や国王は彼の意のままに任免された。第4回十字軍の失敗もなんのその。責任問題など知らぬ顔でその後も説教師を各地に派遣。少年十字軍の悲劇が引き起こされることとなった。一方で托鉢修道会の認可はその後のカトリック教会に大きな活力を与えたといえる。

【魅力チェックポイント】
その学識と人格、信仰の深さから枢機卿では最も下位の助祭枢機卿でありその中でも最年少であったにもかかわらず満場一致で教皇に選出されている。宗教者としては極めて魅力的な人物だったからこそ、その辣腕を発揮できたのであろう。

【列伝】
インノケンティウス3世(1161〜1216)

——教皇は太陽、皇帝は月——

イタリアのアナーニ出身。ボローニャ大学とパリ大学で神学・法学を学び枢機卿となる。1198年にはわずか37歳で教皇に就任。教会内部を改革し教皇権の拡大に努めた。その時代、スコラ学は精緻を極め、ノートルダム大聖堂をはじめとするゴシック様式の大聖堂が各地に建設されており。フランシスコ会やドミニコ会などの新しい托鉢修道会も誕生していた。彼はドイツではフリードリヒ2世を後見して帝位に就け、フランスでは離婚問題からフィリップ2世を聖務停止で圧迫する。アルビジョワ十字軍も推し進めた。カンタベリ大司教の叙任をめぐってジョン王とも対立したがこれも破門によって屈服させて臣下とする。しかし自ら提唱した第4回十字軍はキリスト教国である東ローマの首都コンスタンティノープルを陥落、インノケンティウスは十字軍を全員破門する事態となり大失敗に終わってしまう。その後も十字軍の必要性を訴え1215年にはラテラノ公会議を開催。その演説において教皇と皇帝の関係を太陽と月にたとえ、皇帝の俗権は教皇権を反映するにすぎないと嘯いた。教皇権は絶頂にあったが翌年の1216年に逝去した。

わがまま言ってられるうちは言っておいたほうがいいんでしょうか。神の物は当然神の物ですがカエサルの物もカエサルにはあげたくなかったようです。

[675] 2008/09/18 23:10

>>672
ユリアンの【特殊能力】に〔くたばれ、カイザー〕を追加。コレがないと…

今回は、
・ジークフリード・キルヒアイス(ラインハルトの“半身”)
【統率】 92(能力も�2)
【武力】 92(同上)
【知力】 73(ラインハルトよりよほど大人だが所詮50歩100歩)
【政治】 75(占領地の統治において手腕をみせる)
【魅力】 93(その穏やかな性格は陣営の緩衝材的役割を果たす)
【特殊能力】
・後継者:ラインハルトが指導者であるとき、その死亡時に彼が生きていれば自動的に後継者に任ぜられる。但し、〔血縁関係のある後継者〕がいる場合はそちらが優先する。
・身代わり:ラインハルトと同じエリアにいる場合でラインハルトに〔暗殺〕が行われた場合、彼が代わりに死亡する。以降ゲームから除外され、復活しない。また彼が〔身代わり〕で死んだ次のターンはラインハルトは一切の行動が出来ない。

[676] 2008/09/18 23:16

>>675

【列伝】
ジークフリード・キルヒアイス(旧帝國歴467〜488)−喪われた多くの可能性−
SF小説『銀河英雄伝説』の登場人物。
 帝國下級官吏の家に生まれた彼にとって運命の転機となったのは10才の時、隣家へ落剥して下町へと移り住んだ貧乏貴族の家族が転居してきたことからである。その貴族の息子、ラインハルト・フォン・ミューゼル(後のラインハルト・フォン・ローエングラム)と友人になると共にその姉のアンネローゼにほのかなる思いを抱いたとも伝えられるが、その日々はアンネローゼが後宮に(拉致同然に)召されたことでラインハルトが復讐を誓い軍人の道を志し、彼も道を同じくすると誓った事から終わりを告げる。
それ以降ラインハルトに陰日向無く行動を共にし、時にその身を一命を賭して護り、あるいは諫言し、またその苛烈なる性格から何かと周囲と揉めやすかったラインハルトと周囲の間を取り持つ緩衝材的役割を果たした。
 次第に地歩を固めつつあるラインハルトとともに昇進し、ラインハルトの元帥府開設時に提督の列に加わると隔絶足る武勲を挙げ、自他共に認める陣営の�2ととなったが“�2不要論”を唱えるオーベルシュタインからは特別待遇に眉を潜めるのだった。
 帝國歴488年のリップシュタット戦役では別働隊として辺境星域の制圧に従事、リッテンハイム候との決戦であるキフォイザー星域会戦に置いてはわずか800隻の小集団で5万隻もの敵軍を翻弄し勝利するなどラインハルトに劣らぬ手腕をみせる。
 しかし、ヴェスターラント虐殺事件の対応を巡っての見解の相違(この時点では単なる“キルヒアイスなら判ってくれるはず”という甘えが拗れたものに過ぎなかった)からかねてより苦言を呈するオーベルシュタインの意見を受け容れ、彼に対する特別待遇をやめて一部下として取り扱おうとして、まずこれまで護衛役として彼にだけ認めていた武器の携帯を禁じた。
 しかし運命の旧帝國歴488年9月9日、ガイエスブルク要塞内での捕虜謁見式の最中に、ブラウンシュバイク公の仇を討たんとしたアンスバッハ准将の凶弾からラインハルトを護らんとその身を楯として庇って命を散らすことになる。享年若干21才。自らの狭量から喪うべからざるものを失ってしまったラインハルトは茫然自失とし、しばらく全く無気力になってしまった。またそのトラウマから生涯逃れることが出来ず、失われた多くの可能性と共に帝國の未来に重い影を落とすことになった。

 力量の質量ともラインハルトにけして引けを取らず、一部に置いては勝る部分もあり、何より射撃の腕は超一流と称すべきものであり、“もし捕虜謁見式で今まで通り銃の携帯が認められていたら何の問題もなくアンスバッハを射殺していただろう”と誰もが認めていた。
 それに対して性格は非常に穏やかで、ラインハルトの苛烈な部分を補い周囲との緩衝材的役割を果たした。人柄もよく、彼に対する特別待遇にはオーベルシュタイン以外の誰からも文句がでることが無いことからその人柄が伺え、敵将であり捕虜交換式で面識のあるヤン・ウェンリーからもその死を惜しまれている程である。

 その早すぎる死は以降の歴史に余りに大きな、失われた可能性を残した。
“…ジークフリード・キルヒアイスが生きていたら…”、
これは後の世に不愉快な、手に余る問題が発生したときに帝國諸将らがしばしば漏らした言葉である。

 最後にラインハルトが彼の墓に手向けた言葉を記そう。彼は喪われた半身の墓碑にただ一言こう刻んだのである。
〔Mein Freund(マイン・フロイント、「我が友」)〕と。

 オーベルシュタインが危惧したとおり、彼の能力は�2どころか“万が一の時の”指導者にもなれます。二人さながらに生存していたときはヤン提督絶叫ものでしょう。ラインハルトを生かそうとすればまず間違いなく途中で強制除去されますので、それまでにケリを付けましょう。

[677] 喝食 2008/09/19 22:05

ビームラーオ・ラムージー・アンベードカル

【統率】85
【武力】 0
【知力】90
【政治】84
【魅力】80

【統率チェックポイント】
自らに降りかかる圧倒的な不条理に屈することなく、知識を蓄え、バガヴァットギーターにまで遡るカーストの呪縛に対し挑戦し、奇跡的ともいえる成果を上げる。不可触民と低いカーストの人々を組織してその地位向上に努め、アンタッチャビリティーの憲法における廃止とカーストからの離脱、仏教への30万人の集団改宗を実現させた。

【武力チェックポイント】
保守的なヒンドゥーの暴力に対しても非暴力を貫く。貯水池の利用やヒンドゥー寺院への立ち入りを求めた運動で自身暴力にあいながらも、非暴力での抵抗を続け最後には法的に勝利する。

【知力チェックポイント】
幸運な援助に支えられ学びえた近代的法知識によってヒンドゥー主義に対抗。インド独立後にネルー内閣の初代法相を務め憲法草案起草委員会の議長に指名され、他の委員の欠席や空席のため殆ど一人で憲法草案を起草。アンタッチャビリティーの廃止を含んだその草案は制憲議会によって採択される。彼は古代インドの立法者になぞらえ、現代のマヌと称えられる。後には不可触民を解放する宗教として仏教を見い出した。能力と意義両面において極めて優秀。

【政治チェックポイント】
保守的な多くのヒンドゥーの抵抗の中でヒンドゥー法改正の失敗など挫折を味わいながらも徹底的にアンタッチャビリティーと戦った。あのガンジーですら基本的には不可触民の解放を志向してはいても、カーストの安定の維持と民族運動の一体化を重視する立場から時には彼の運動を恫喝し、分離選挙には死に至る断食で対抗しさえしたのである。独立という大目的の為に譲歩を余議なくされつつも、マハトマに対してすらその信念を曲げることはなかった。

【魅力チェックポイント】
彼の能力、魅力、人格にかかわらずカーストに囚われた人々は彼を蔑視し、穢れているとするのである。しかし彼と彼が指摘する問題を理解できる人々に、そして彼と同じ境遇にある人々には熱烈に支持された。支持者達からは「バーバー・サーハブ」即ち師父と呼ばれその名を冠した施設が多数存在する。

[678] 喝食 2008/09/19 22:07

>>677の続き

【列伝】
ビームラーオ・ラムージー・アンベードカル(1891〜1956)

——声なきものたちの指導者——

中央インドのマウーに十四人兄弟の末子として生まれる。しかし成人できたのは彼を含め5人のみであった。一家は州最大の不可触民カースト、マハールに属した。遺伝にも由来せず、その根拠は定かではないが古代インドのマヌ法典により触れると穢れるとされた彼らはヒンドゥー寺院へ立ち入ることができず、貯水池や井戸から水を汲むことさえ許されていなかった。マハールカーストは戦士族でもあり彼の父もセポイとして雇われていた。教育の重要性も理解しており学校に通うことはできたがそこで様々な差別に遭遇することとなる。しかし彼の才能は際立っておりその才能を認めたバラモンの教師アンベードカルは彼を愛し、自らの苗字を与えその後彼はアンベードカルを名乗ることとなる。

不可触民として初めて名門エルフィンストーンカレッジに入学し修士号を得た彼は開明的なバローダの藩王サヤジー・ラオ・ガエクワード3世の支援を受けニューヨークのコロンビア大学で多岐にわたる分野を研究。修士号と博士号を得てさらにイギリスに渡りロンドン大学で経済学を学びグレイズ・イン法曹学院で弁護士資格の取得を目指す。しかし奨学金が切れたために一度中断して帰国。バローダ藩国に高い地位で就職したものの差別から召使いにさえ物を手渡されず、家すら借りられない状況にたまりかねて辞職。コールハープール藩王シャーフーの奨学金により再度渡英し中断していた経済学の博士号そして弁護士資格を得た。

インド国民会議派やガンジーの不可触民撤廃運動などカースト側からの運動ではカーストの再編に利用されるのみであり不可触民自身からの運動が必要であると考えた彼はボンベイで被抑圧者救済会の理事長となり不可触民の社会的・経済的立場の向上に奮起する。1926年にはボンベイ州立法参事に留保された被抑圧者階級議員に指名される。翌年には不可触民に開放される決議が行われたにもかかわらずいっこうに実行されないチャオダール貯水池に行進し水を飲む。暴行を受けつつもその後、法的な勝利を確定させ各地の貯水池や寺院への行進を続けた。イギリスがインドの自治の範囲を検討するサイモン委員会を立ち上げるとインド人の委員が選ばれなかったために国民会議派がボイコットする中で委員会に協力。普通選挙では不可触民留保議席を、そうでない場合不可触民を分離した選挙を求めた。インド統治法の改正の為の英印円卓会議にも被抑圧者階級の代表として出席。イギリスの犬と罵られながらも不可触民のために分離選挙を行うことを訴えた。第二次円卓会議へ出発する前日にはガンジーと会談。カースト側からのガンジーと不可触民としてカーストを完全否定するアンベードカルは互いの立場の違いから分離選挙をめぐって対立。アンベードカルはガンジーと決別する。イギリスが分裂選挙を認めるとガンジーは自治運動の立場からこれに反対。死に至る断食を行いこれの撤回を迫った。ネルーや他の国民会議派の指導者から説得を受けたアンベードカルはやむなくガンジーと会談。留保議員の譲歩と引き換えに分離選挙を撤回した。

独立後はネルー内閣の初代の法相を務め憲法草案起草委員会の議長として空席や不在により全く他の委員の助力が得られない中でほとんど一人で憲法草案を起草した。その第17条において不可触民性は廃止され、いかなる形においての不可触民性も禁止。カーストによる差別も禁止した。1949年に憲法草案は制憲議会によって採択された。その後ヒンドゥーの民放改正に着手するも近代的な家族法適用を目指したがために権益を失うことを危惧した保守派ヒンドゥーの強硬な反対により失敗。法案は廃案となり法務省を辞任し野党から総選挙に出馬するも国民会議派に敗北した。その後カースト制度と闘い、なおかつインドの伝統に根ざした宗教として仏教に傾倒。1956年10月14日に仏教に改宗すると宣言しマハーラシュトラ州ナグプールにおいて彼の呼びかけに応えた30万人の不可触民とともに仏教に集団で改宗。同年12月6日にこの世を去った。

[679] ガーリックトースト73% 2008/09/19 23:02

因さんが盛り上げてくれましたので、かなり銀英伝の項が充実してきましたね。能力値を見る限り、どいつもこいつも化け物揃い…ゴクリ

面白そうなので、私も銀英伝の中で一番好きな武将で便乗します。。
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ナイトハルト・ミュラー

【統率】80
【武力】77
【知力】74
【政治】38
【魅力】65

【特殊能力】鼓舞 強運
鉄壁:守勢側の場合のみ統率+5

【統率チェックポイント】
第8次イゼルローン要塞攻防戦では味方の9割を失う惨敗を喫するも、自身も重傷を負いながら、不屈の気力でベッドから指揮を執り、敗残兵を奮い立たせた。後のバーミリオン会戦では帝国側の全体指揮もままならない危機的状態から、ただ1人艦隊を統率。主戦場に駆け付けた。また、作中では"宇宙艦隊司令長官も務まる"とさえ語られている。

【武力チェックポイント】
同僚のオスカー・F・ロイエンタールは「3倍の兵力差があっても防御できる」と称するほどの守勢の鬼。幾度も乗艦を破壊されようとも決して引くことはなく、青年期こそヤンやメルカッツに手玉に取られるなど失敗もあったが、それらをバネにして戦術を磨いた人物。

【知力チェックポイント】
中尉時代はフェザーン駐在武官として任に就き、作戦行動の情報提供や航路案を示してラインハルトを驚かせた。世渡りも巧く、若くして元帥府幕僚の地位や勲章を得、先のウルヴァシー事件では恩賞を固持して手柄をルッツに譲り、結果的に彼に恩を売っている。イゼルローン戦では帝国将帥の誰よりも早くヤンの不在を確信しているので少なくとも頭の回転はケンプより上である。

【政治チェックポイント】
根っからの軍人。世渡りは巧いが謀略・政略には向かない。オーベルシュタインやヤンに対し暫く負の感情を抱き、実よりも情で態度を決めたことも1度や2度ではない。ヤン死後はユリアン率いる共和主義者と帝国の橋渡しとなり、両者に対し心を砕いた。

【魅力チェックポイント】
誠実、そして実直。普段は包容力さえ垣間見える温厚な紳士であり、同僚から一目置かれる存在。ピンチの時こそ本領を発揮する用兵家であるため、劣勢時における存在感はかなりのもの。本編中で彼を悪く言う登場人物はほぼ皆無で、帝国内で一貫して「信頼できる人物」として定着している。しかし女性にはトコトン縁がなく、本編では遂に一度も賑わすことがなかった。戦場では怒鳴ることもしばしば。

【作者から一言】
地味ながらもバランスのとれた能力を備え、どこに出しても恥ずかしくなく、敵将ヤンから「良将」と称された実力は本物です。戦うごとに成長著しい人物で、物語が終盤になり主要な登場人物が次々と鬼籍に入る中で前途多難の新帝国を支え続けました。ロイエンタールが列挙した最強の5人には劣りますが、敵に回すのはかなり危険な人物に間違いなさそうです。

[680] ガーリックトースト73% 2008/09/19 23:04

>>679の続き

【列伝】
生没:宇宙歴770年(帝国歴461年) - 没年不詳
略歴:フェザーン駐在武官中尉、統帥本部総長代行、黒色槍騎兵艦隊臨時司令、
階級:銀河帝国軍上級大将

——ミュラー・デア・アイゼルンウォンド——

 「鉄壁ミュラー」とも言われる。初登場は中佐時代のラインハルトが巡航艦艦長として同盟領で隠密作戦に従事していた際、フェザーン駐在武官中尉として間接的に登場。作戦行動の情報提供や航路案などで、ラインハルトが「期待以上だな」と関心を示し、この時にラインハルトの知己を得た事が描かれている。

 その後幕僚としてラインハルトの旗下に入り、貴族連合の根拠地であった"ガイエスブルク要塞"をワープによって移動させイゼルローン要塞にぶつけた第8次イゼルローン要塞攻防戦では、カール・グスタフ・ケンプ大将の補佐として副司令官に任命される。当初、敵将ヤン・ウェンリーの不在もあって戦況は帝国側優位に展開。途中、ヤンの不在に気づいた彼はケンプに意見具申をするが却下され、逆に後方に追いやられてしまっている。その後ヤンの帰還で形勢は逆転し、要塞とケンプ司令官、そして味方の9割を失い、全滅。自身も重傷であったが、奮い立ちベッドから指揮を執り統率し、敗残兵を率いて生還。自身は処罰を覚悟でラインハルトに謁見したが、寸でのところで許された。

 バーミリオン会戦では分散した諸提督の中で唯一戦場に駆け付ける事に成功し(オーブリー・コクランのエピソードはこの時のものである)、ラインハルトの危機を救う。この時、乗艦を3度撃沈されながら不退転の意志で指揮を執り続けた事から、「鉄壁ミュラー」の異名で呼ばれるようになる。その戦いぶりは、ヤンをして「良将」と言わしめ、その功でローエングラム王朝成立後は最年少ながら上級大将の筆頭とされた。

 その後も多くの戦いで本陣の後方を堅守。またウルヴァシー事件では負傷しながらもラインハルト1世を守った。この時、元帥号授与の話もあったが、最も功績が大きかったのはルッツだとしてミュラーは固辞している。物語終盤では、ラインハルト崩御後の帝国を支えた功績ある人物として紹介されている。なお、本編で記載されていないので没年は不明。

[681] 2008/09/20 00:40

今回は、英雄を支えた女性達。そこで
・ヒルデガルド・フォン・ローエングラム(帝國の国母)
【統率】 73(ラインハルトにとって欠くべからざる秘書官)
【武力】  9(軍人でもなく、しかも女性なので…)
【知力】 86(“一個艦隊の武力に勝る”とさえ絶賛される)
【政治】 90(その力量はカイザーさえ凌ぐ。)
【魅力】 80(皇妃の座に就くのに皆が好意を持って迎えた)
【特殊能力】
・後継者:ラインハルトが指導者であるとき、その死亡時に彼女が生きていれば自動的に後継者に任ぜられる。[後継者]を生んでいる場合、彼女は[帝國宰相]に就く。
・皇妃:【魅力】が[+10]。ラインハルトの皇妃となってからは一切の公的地位に就くことが出来ない。また会議の場でも意見を提案することが出来ない。この制限はラインハルトが死亡した段階で直ちに解除される。
・妊娠:彼女が妊娠したとき、発生後は行動に一定の制限が加えられる。出産予定の数ターン前から一切の移動が出来ない。

[682] 2008/09/20 00:44

おお、私の他に『銀英伝』に手を出す人がいるとは…、これは急がなくては。

>>681

【列伝】
ヒルデガルド・フォン・ローエングラム(帝國歴468〜)−銀河帝國を育てた才媛−
 通称ヒルダ。旧姓マリーンドルフ。ゴールデンバウム王朝の貴族であるマリーンドルフ伯爵家に生まれる。
 帝國歴488年に発生したリップシュタット戦役にて“貴族としての立場上”貴族連合に参加しようとする父を説得、その見解をラインハルトに示した上で家門の保証と引き替えに忠誠を誓うことで家を護り、ラインハルトからもその政治的才幹を賞賛される。
 その後請われてラインハルトの主席秘書官に任ぜられ数々の献策を行う。事にバーミリオン会戦においてヤンとの直接決戦に拘るラインハルトの苦戦を予想し、独断でミッターマイヤー・ロイエンタール両提督を動かしてハイネセンを衝くことで同盟政府を降伏させ、彼らを通じてヤンを停戦に追い込む事でラインハルトの窮地を救ったことは彼女の最大の功績とされている。
 その後もその知謀で王朝の運営に大きな貢献を成し、新帝国歴2年5月の回廊の戦いにおいて戦死したシュタインメッツ上級大将の後任として幕僚総監に任じられ、女性としては異例(というより新旧帝國軍に置いて女性の軍属は彼女が初めて)の出世を果たした。
 新帝国歴2年8月29日の“ヴェスターラント虐殺事件の遺族による暗殺未遂事件”においてショックを受けたラインハルトの心の渇きを癒すため、彼の願いに応じて一夜を過ごす。その翌朝、自宅に帰宅するなり早速ラインハルトの(ヒルダに対する愛情と言うより“ヤッてしまった(笑)からには責任をとらなくては”という非常に幼稚な義務感からの)求婚を受けるも一度は返答を避ける。しかし彼のその偉大な才幹に比べて純朴で真摯な態度に魅かれ、同年12月30日彼に妊娠の事実を告げると求婚を受諾し、新年パーティの席で公表後1月29日に式を挙げる。
 出産予定日は6月初頭であったものの5月14日、結婚に伴って仮の皇居に定めた”柊館”が後継者誕生の妨害を計る地球教徒の襲撃を受け炎上、かろうじて難を逃れたもののそのショックで早産、同日22時50分長子アレクサンドルを無事出産した。
 同年7月26日、夫である皇帝ラインハルトの崩御に伴って摂政皇太后の座について息子の補佐を行い、その後(夫の遺言により)彼女の名で元帥に昇進させたミッターマイヤーら“獅子の泉の七元帥”らと共に帝國を開明的な方向へ運営していったと伝えられる。

 その知謀は“一個艦隊にも勝る”とも賞賛されるほどの器量を持ち、客観的で合理的な判断力に支えられた政治的センスはローエングラム朝に居並ぶ諸将達をも遥かに凌ぎ、ラインハルトさえも舌を巻くものである。
 また卓越した知性に裏付けられた判断力、分析力は衆も認めるもので、リップシュタット戦役において父やラインハルトに対して示した見解(�大義名分�マリーンドルフ伯爵家の政治的価値�指揮系統の統一�下級兵士達からの忠誠、において勝るラインハルトが勝利する)や、バーミリオン会戦における判断(ヤンは彼の政治的信条から政府の命令には逆らわないと見越して政府を通じて降伏させる)はラインハルトをして異例と言うべき重用(主席秘書官への抜擢や女性初の幕僚総監への任命)をもって報いられると共に、実家のマリーンドルフ家を帝國一の権門へと押し上げることになった。
 一方私人としては温厚で才や家柄をひけらかさない性格で周囲から好意的に見られる(未婚時は親しみを込めて“フロイライン・マリーンドルフ”と呼ばれていた)一方で、些か女性らしさに欠けるというか疎い一面もあり、ことに恋愛感情に関しては“公人としては最高だが私人としてはかなり未熟で幼稚”と揶揄される夫のラインハルトよりマシというレベルである。結婚してからもそれは変わらず、閨房において語られるのは艶談より軍事・政治に関することであり、さながら“第二の大本営”とも揶揄されるものであったと伝えられる。しかし結婚や出産、夫の死という場面を乗り越えて女性らしさもかいま見えるようになった。

[683] 2008/09/20 00:45

>>682続き
 “帝國を生んだのは皇帝ラインハルトだが、育てたのは皇妃ヒルデガルドである。”
皇帝ラインハルトはその生涯の前半にジークフリード・キルヒアイス、後半にヒルデガルド・フォン・マリーンドルフという得難い助言者を得、その死後に皇妃ヒルダに全てを託して全く憂える事がなかった。ユリアン・ミンツと後事を語り合った時、死が避けられぬものと悟った彼はこう述べたという。
「…皇妃は予よりはるかに政治家としての識見に富む…」
 これは皇帝ラインハルトの最大の“のろけ”じゃなかったのかと語ったのはユリアンの言。

 彼女は間違いなく“一流の政治家”です。【武力】はともかく【知力】と【政治力】が高レベルでバランスが取れており躊躇無く陰謀が行えます。また【統率】と【魅力】も高いので民心も安定しさせやすいです。[皇妃]になるとその能力が使えなくなりますが何とか支えられますので問題もありません。むしろ勝利条件にも関わる(“ラインハルト死亡時、彼に後継者がいない”場合状況に関係なく帝國は敗北)のでちゃんと思いを遂げさせてあげましょう。

[684] 喝食 2008/09/20 01:17

架空の存在は無理矢理抑えてましたが見てたらやりたくなってしまった・・・。自分も便乗させていただきたく。飛び道具で申し訳ありません・・・。

アルテミスの首飾り

【統率】40
【武力】70
【知力】12
【政治】 0
【魅力】30

【特殊能力】
全自動防衛システム:常に士気が一定。移動不可。
準完全鏡面装甲:通常の艦隊による攻撃を受け付けない

【統率チェックポイント】
太陽動力によって半永久的に稼働。マジノ要塞みたいに各衛星が相互に連動して防衛にあたり、オールレンジ攻撃が可能!完璧な防御システム・・・のはずだった。

【武力チェックポイント】
各種ビーム砲、ミサイルなどあきれるほどの重装備。しかも敵の弾は全然きかない。一般論からいっても固定砲台と艦砲射撃の打ち合いでは技術力に差がなければ圧倒的に砲台が有利だろう。しかし所詮機械なので与えられた戦術判断しかできない。

【知力チェックポイント】
全自動システム。来た敵を確実に殲滅するのみ。これだけのシステムなのだから有人にして対応力を担保した方がよかったのではないだろうか。技術的慢心だったか。

【魅力チェックポイント】
首都ハイネセンを守る最後の砦として頼もしく思われていた?救国軍事会議は最後まで頼りにしている。

【列伝】
アルテミスの首飾り

——処女神の首飾り——

自由惑星同盟の首都ハイネセンを守る全自動防空システム。12個の衛星からなり、全方位の攻撃が可能。理論的には鉄壁の防御を誇っていた。フェザーンが開発にかかわったとみられ、同型の物がカストロプ動乱で使用されたともいわれる。艦隊を失った救国軍事会議はこれを最後の頼りとしていたが氷塊を体当たりさせるというヤンの作戦により全く活躍することなく沈黙した。ハードウェアに固執すると思考の柔軟性を失う好例と言える。

イゼルローンやガイエスブルグの強力さにくらべなんともお粗末な結果に終わるこの兵器。氷ぶつけられ、ゼッフル粒子で燃やされ・・・哀愁がただようかんじがなぜか好きです。

[685] 2008/09/20 20:54

>>681
ヒルダの【特殊能力】に追加。
【特殊能力】
・有能なる秘書官:彼女が秘書の時、処理能力が[×20%]。[皇妃]になってからは使用できない。

自分の評価はどうも他の人と比べると数値が甘くなりがちである。

今回は、英雄を支えた女性達その2。
・フレデリカ・グリーンヒル(革命軍政治代表にしてヤンの妻)
【統率】 72(ヤン艦隊の優秀な事務官)
【武力】 58(副官としての業務がほぼ全て)
【知力】 85(“イゼルローン1の賢者”)
【政治】 62(夫より社会性はマシ)
【魅力】 78(魅力ある才媛)
【特殊能力】
・有能な副官:彼女が副官の場合、処理効率が[×15%]、表示できる情報が[+2」される。
・“憧れが現実に”:ヤンと結婚した場合、[後継者]の資格を得る。
・後継者:ヤンが指導者であるとき、その死亡時に彼女が生きていれば自動的に後継者に任ぜられる。ユリアン生存時は自動的に[政治指導者]となる。【政治】【魅力】が[+10]。
・毒料理:彼女の手作り料理を食べたとき、一瞬だけ全能力が[−10]。瞬間的にでも体力が[0以下]になる場合そのキャラは死亡する。

[686] 2008/09/20 20:55

>>685

【列伝】
フレデリカ・グリーンヒル(宇宙歴774〜)−革命軍の賢なる象徴−
 ヤン・ウェンリーの妻(結婚後は[F・G・ヤン]を名乗る)にしてその死後遺志を受け継いで革命戦争を指導する女性。同盟軍の重鎮であるドワイト・D・グリーンヒル大将の一人娘として生まれる。
 彼女にとっての転機となったのは宇宙歴788年、14才の時に遭遇した事件であった。病弱な母を伴って療養に訪れた惑星エル・ファシルが帝國軍の包囲を受け孤立、その脱出計画の責任者だった中尉と運命的な出会いをする。その中尉の名はヤン・ウェンリー、この時フレデリカら民間人を救出した功で望まぬ英雄の座を駆け上がることになり、彼に憧れたフレデリカも軍人の道を志すことになる。
 794年士官学校を次席という優秀な成績で卒業、統合作戦本部情報分析課に配属された後、翌年キャゼリヌ少将の配慮で新設されたばかりの第13艦隊の司令に就いたヤンの副官(中尉)として転属する。なを、ヤンは彼女から指摘されるまでエル・ファシルで彼女に出会ったことを忘れていたとのことだった。
 その後、ヤンがイゼルローン要塞司令に就くとそのまま赴任(大尉)、794年の救国軍事会議のクーデターにおいて父が首謀者となった事で微妙な立場に置かれることになったがヤンからの信頼は変わらず、その後も副官としてヤン艦隊の事務を取り仕切りその処理能力は衆目の一致するところであった。
 799年最終決戦前に少佐に昇進、5月のバーミリオン会戦前にヤンのプロポーズを受けて結婚を承諾、会戦後の6月10日に結婚し(25才)[フレデリカ・グリーンヒル・ヤン]となった。なをこの時軍から退役している。
 しかし平穏な新婚生活は帝國高等弁務官のレンネンカンプの横槍と、その意を汲んだ同盟政府からの干渉によって7月22日にヤンが同盟誠意府中央検察庁に逮捕され、危険人物として処断されかかるに至って終わりを告げ、彼女はシェーンコップらと協力してヤンを間一髪のところで救出しその危機を救った。
 同盟政府を離脱すると再び夫の副官として司令部の運営を取り仕切ったが、800年の回廊の会戦後疲労により体調を崩してヤンがラインハルトとの会見に赴くのに際して同行せずに夫を見送り、これが夫との永遠の別れとなってしまった。
 同年8月8日、キャゼリヌらの要請を受けて解散したエル・ファシル独立政府に変わる民主共和制を掲げるイゼルローン共和政府(8月の新政府[The New Gabamento in Augusut]とも)の政治代表に就任、衆を指導しながら6月のシヴァ星域会戦において帝国政府との間に停戦が成立し共和政府が解散するまでその座にあった。
 なを、ヤン・ウェンリーとの間に実子はなく、彼の血はここに断絶する。

 ヤン艦隊の面々が揃って舌を巻くほどの記憶力と情報処理能力を有し、ことに記憶力は5年前に1度見かけたきりのバグダッシュ大佐のことも覚えていて、それが彼のヤン暗殺の企みを未然に阻止する要因となったこともある。
 また見識も健全且つ常識的で、“彼女の言を聞くと日頃不真面目なイゼルローンの面々も謹厳な顔つきで考え込む”と言われ、“イゼルローン一の賢者”とまで賞する向きもあった。その一方で彼女によれば“日頃は上手に尻尾を隠している”とのことで、結構手の早い面もあるとのことである。
 その一方で主婦としての能力にはかなり疑問符がつき、ヤンとの新婚生活も最初の食事はサンドイッチなどの挟む物ばかり、余りの惨状に流浪中に同行したキャゼリヌからも“食材をムダにするから料理を控えて”と控えめな表現で苦言を呈され、ユリアンが地球に赴いて新婚二人だけの生活の頃には“ユリアンが早く帰ってこなければ家に新婚夫婦の餓死死体が転がっている、なんて事になりかねない…”とキャゼリヌに毒舌混じりに心配されていたほどであった。

 基本的に副官ですので彼女を上に立てるより誰かの下に就けて補佐させる方が向いています。後継者になってからも積極的に行動するより【魅力】が高いので“民主主義の象徴”として後方でどっしり構えていた方が信頼が置けるでしょう。【知力】も高く【政治】もそこそこなので無謀なことは行わず、健全な行動によって自然に支持を集めていくことで“帝政に対するアンチテーゼとしての民主共和制”を対抗勢力として育てていくことになるでしょう。
 あと、[毒料理]は同人誌のネタです。

[687] 喝食 2008/09/20 23:09

ソロモン

【統率】95
【武力】40
【知力】93
【政治】78
【魅力】85

【特殊能力】
伝説化 神託 建築 召喚術 浪費
ソロモンの指輪:祭祀もしくは呪術行為の権威・精神的影響力が上昇。
ラビエルの書 :神秘主義についての知識が上昇
契約の箱 :効果不明。

【統率チェックポイント】
ダビデに支持され、兄アドニヤや反抗者を排除して王位に就き後世に称えられる平和と安定を維持した。その力は悪魔や天使さえも使役したと言われるほど。少なくとも同時代や後世の人々に完全にそれを信用させるだけの手腕と精神的な拘束力を持っていた。伝説化されているとはいえ死後数千年たっても彼の技は垂涎の的である。

【武力チェックポイント】
その名は平和を意味するシェロームから派生する。ダビデに強く男らしくあれと言われたように幼少時は弱々しかったようだ。抑止力として強力な軍隊を持っていたが絶頂にあった国家の勢威、婚姻も含めた巧みな外交政策により国際関係は安定。大規模な戦争を行う必要はなかった。

【知力チェックポイント】
誇張があるとはいえ、メソポタミアやエジプトの全ての人々を上回る知恵をもっていたとさえ言われる古代における知恵の象徴。あらゆる学問に精通していた。神から何でも望むままに得られる状況において知恵を求めたことや、母性によって本物の母を見分けるなどのエピソードは彼の的確で公正な判断力を表す。しかし王として生まれたために民衆の暮らしよりも国家の威厳と地位の維持を重視し過ぎた感は否めない。そのツケは魅力と統率において劣る後継者が払わねばならなかった。

【政治チェックポイント】
エジプト、ティルスなど周囲の国家と結び外交関係は安定。その知恵によって王国は空前の繁栄をむかえる。平和による莫大な富を築いたがエルサレム神殿に代表される大規模な建築などそれ以上の浪費がたたって晩年には民に重税を課し、死後に統一イスラエルの基盤を揺るがしてしまう。

【魅力チェックポイント】
王位を簒奪しようとして敗れたアドニヤを一度は許すなど反抗者に対しても自らの地位を失わない程度に猶予を与えており、当時としてはかなり寛容と言ってよい。晩年の重税と過酷な労役の中でもそのカリスマにより彼の生前は国が揺らぐことはなかった。

【列伝】
ソロモン(前1035?〜前925?)

——ソロモンの知恵——

ダビデとバテ・シェバの子。列王記によれば神との約束によるダビデの支持の下、王位を狙う兄アドニヤとそれを支持する軍の長モアブ、祭司エブヤタルを排除し、イスラエルの民衆の支持を受けて王位に就いたとされる。即位後はエジプト王パロと結びその娘と結婚する。またエジプトから馬を輸入し、金銀を蓄えた。これらはモーセの律法に反する行為であり、逆に言えばソロモンが現実的な思考能力と外交センスを持っていたともいえる。ティルスの王ヒラムとも同盟関係にあり神殿建設において援助を受けている。その40年の治世においてイスラエルは平和と繁栄を謳歌。エルサレム神殿も完成し、大河の西側の全ての王を支配した。その人口は海辺の砂のように多くなったといわれる。また学問も栄え、全ての人よりも優れているとされたその知恵を聞くために多く王が彼の所にやって来た。アラビア半島の南、もしくはエチオピアとも言われる彼方からやって来たシバの女王の訪問も受けている。しかし度重なる事業により豊かだった財政も晩年には悪化、重税や強制的労役は民衆を苦しめた。そのため絶対的カリスマであった彼の死後、後継者争いによりイスラエルは北イスラエル王国とユダ王国に分裂してしまうことになる。

迷信になど惑わされないつもりが・・・。伝説の影響を色濃く受けてしまいました。

[688] ハーン 2008/09/21 00:45

 さすがに数が多すぎるんで、最新40のなかである程度知っている人物限定で感想を書くことにします。
 十日間感想ゼロがほぼなのは少し物足りないので。

 銀英伝ネタばっかりなのもなあ……と思い古代のやられ役を一人投稿します。

>>648
 今のところ、「最後の名将」ですよね。
 ソ連をアフガニスタンから追い出しのはザップにも匹敵する偉業だと思います。

>>655
 最終巻の出版は大分前なのに、思いのほか、遅れまくっちゃいましたね。他に評価したい人もいたので。
 東洋の英雄がいないのは、原作者からの縛りだそうですが、ちょっと残念でしたね。那タとか猿飛佐助でも出てこないかと思ってたんですけど。

>>657
 私ならヤンの知力を80後半にして、政治を一桁にでもするでしょう。彼は理想主義が酷くて、自分の目的を実現不可能としか思えないほど遠いものにしてしまいましたから。
 ここまで態度の煮え切らない軍閥のボスも珍しいですよね。

>>659
 私なら本当にやばくなった時(第二次大戦勃発、インド独立運動)じゃないと、国民がわざわざ彼を選ばないことから、政治を70くらいに下げると思います。
 性格的には疑いなくあの二名よりはるかにマシですよね。というか、何でまあ何処の国も、ここまで個性的な面子が揃ったのやら。
 第一次大戦の人気が大して高くない理由が分かろうものです。

>>663
 恐らく、昭和陸軍最強の将軍でしょうね。個人的には栗林が好きなんですが、硫黄島でしか自分で指揮執ったことないからなあ。
 陸軍と海軍は本当に仲悪いですよね。調整できる人物がいないもんだからなおさら。

>>667
 この人とこの国は運が悪かったとしか言いようがありませんよ。
 名君に分類できそうな彼の国を滅ぼしたコルテスとその一味が凄まじすぎたとしか言いようがありません。
 普通の神経してたら、征服諦めますって。

>>670
 一瞬、知力が低いかとも思いましたが、考えてみるとラインハルトの敵はヤンを除いて大抵知力が低いから、こんなもんでしょうね。
 メルカッツはブラウンシュヴァイクに足を引っ張られるし、帝国領侵攻作戦の参謀はあのフォークですし。

>>674
 さすがは絶頂期の法王といった感じの能力ですね。
 教皇は一部の例外を除いて、すぐに死ぬものだから、意外と評価しにくいんですよね。

>>677
 一瞬、ガンジーに別名があったのかと思ってしまいました(武力が0だったから)。
 やはり建国期は傑物が多いんでしょうね。まあ、あれだけ植民地が独立すれば、そりゃあ建国ラッシュにもなるわな。

>>679
 鉄壁さんはラインハルト陣営のなかではちょい地味ですね。まあ、三元帥のキャラが立ちすぎているだけですが。
 知力が高い気もしますが、私も大体こんな感じの数字をつけると思います。

>>687
 ついにソロモン王が……
 伝説に引きずられるのは仕方ありません。この王はほとんど伝説の王なんですから。

[689] ハーン 2008/09/21 00:45

 ダレイオス3世

 前380年頃〜前330

統率……63 二代続けて皇帝が殺されうという末期的な状況の帝国で一時的な支配を確立し、マケドニアとの対決に備えた。だが、負けが込むと暗殺された。

武力……40 古代の戦いは数字などがかなり怪しいのですが、優勢な戦力を率いながら劣勢なマケドニア軍に負けたことは事実なんでしょう。別に評価に値する部分もないので、子の程度とします。

知力……60 アレクサンドロスが進入してきた当初はその実力を甘く見たことでメムノンの焦土作戦を退けたことから、判断力に難ありと見られてしまいました。ですが、普通に考えて大帝国のペルシアが最近売り出しはじめた新興国の侵入に対していきなり焦土作戦をしたらそのほうがむしろおかしいです。実際、メムノンははフィリッポス2世の先遣隊を小アジアで押さえ込むことに成功しています。彼がいきなり焦土作戦を行わなかったのは当然です。後を見れば焦土作戦が正しい判断だったのは明らかなのですが。また、先代の王二人を亡き者にしているペルシアの宰相バゴアスを打倒することにも成功している。

政治……45 即位してから三年で外敵の侵入を受けたため、優れた政治力は仮にあっても、発揮される時間はなかった。まあ、ペルセポリスを追われるまで殺されていないので、このくらいにしておこう。

魅力……50 アレクサンドロスの引き立て役ということで、あまり評価は芳しくありませんが、アルメニアの太守をしていた時は勇敢に戦っていたとかで、そこそこ人気があったようです。傍流の彼が帝位を得たのもその辺りが理由でしょう。

列伝 世界最強の指揮官の最大の獲物

 アルタクセルクセス2世の兄弟の家系に生まれる。即位前の名はアルタシャタという。アルメニア太守になると勇敢に戦っていたらしい。
 アルタクセルクセス3世とアルセスを殺害して権力を思うがままに動かしていた宦官のバゴアスと通じて帝位を手に入れ、その後諍いを起こしたのか殺害して地位を保つ。ついでにエジプトの反乱を潰し、マケドニアの西アジアへの侵入を抑えこんだ。
 しかし、プルタコスによると、この辺りの時期だと後にアレクサンドロスがダレイオスに送った手紙に、父王フィリッポス2世暗殺にバゴアスが関わっていると言っているので、バゴアスが主導した可能性も否定できない。バゴアスはエジプト鎮圧軍の指揮官であった人物であるから、軍事にも通じていただろう。
 ペルシアの陰謀か、宮廷事件か、それとも痴情のもつれかは分からないが、マケドニアの侵攻もフィリッポス2世が暗殺されたおかげで一段落する。この時期からマケドニアの再侵攻の時期までの詳細は分からないが、少なくとも反乱の絶えないエジプトを再度征服したことは間違いない。
 アレクサンドロスが案に相違して国内を纏め上げて侵入してくると、判断を誤り、イッソス、ガウガメラの決戦で敗北を重ね、最後には側近に殺されてしまう。
 ここに世界最初の世界帝国アケメネス朝ペルシアは滅びたのである。

 彼は衰退期に入った国家を建て直そうとした君主であると私は思います。皇帝を何回も立てては殺している宦官を倒し、反乱を起こした地方を再占領していることから、それなりにやる気はあったんでしょう。
 しかし、残念なことに彼はそれに着手する前に人類史上最強の将軍と戦う羽目になりました。ちょっと、運の悪い男ですね。

[690] 片田舎の偏屈士 2008/09/21 01:04

アレクサンデル6世
1431年 - 1503年

【統率】72
反対する勢力がありながらもルネッサンス期の教皇として指導力を発揮。宗教権力によるイタリア統一という道筋を築き上げた。
【武力】30
戦略眼は持っていただろうが、軍の指揮は息子のチェーザレが取っていた。
【知力】57
君主として有能ではあったが、それが教皇として取る行動ではないために打つ手のほとんどが自身を貶める方向へと行ってしまい、多くの敵を作ることとなる。また、その強欲故に死期を早めてしまっている上、国家以上にボルジア家の繁栄を優先的に考えていたために、後のイタリア問題という禍根を残すこととなった。
【政治】89
他の勢力から忌み嫌われたボルジア家の毒。暗殺、金銭懐柔、聖職売買など駆使して教皇にまで上り詰める。対外的にも毒をもって毒を制すかのような二重外交を展開してフランスとスペインを戦わせて勢力を削ぎ、分裂していた北イタリア諸都市の協力を妨害した。
【魅力】3
その陰険陰湿な手段を恥とせず、好色と強欲に耽った悪徳の教皇として当時から今日にかけてすこぶる評判が悪い。存命中から法衣を来た悪魔として揶揄されていた。

[691] 片田舎の偏屈士 2008/09/21 01:09

——悪徳に栄えし教皇——

第214代ローマ教皇。本名をロドリーゴ・ボルジアといい、その名が示すとおりスペインの生まれである。
ボローニャ大学で法学を学いたが、叔父のカリストゥス3世に登用されて司教となり、インノケンティウス8世没後の教皇位を巡る候補となる。
厳格なローヴェレ枢機卿 (後の教皇ユリウス2世)と激しく対立するが、もう一人の対立候補や枢機卿らを買収して当選し、教皇アレクサンデル6世となる。
息子のチェーザレや近親者を要職に起用するなどボルジア家による教皇庁の支配に着手するが、ナポリ王国の継承権争いから発生したフランス軍の侵入に対し、一時はローマに入城を許すほど劣勢に陥ってしまう。
この危機を謀略を駆使して教皇位を死守すると、スペインとフランスを争わせるなどして手玉にさえ取ってみせ、分裂したイタリア国内の問題をチェーザレに一任し、軍の指揮権を与えてボルジア家による教皇領の拡大に努めた。
だが、腐敗した治世と手段を選ばないチェーザレの手法に反発する勢力に悩まされ続け、その報いを受けるかのように1503年にマラリアにかかって亡くなった。

[692] 片田舎の偏屈士 2008/09/21 01:11

ユリウス2世
1443年 - 1513年

【統率】82
実質の前任者を否定しつつも、イタリア国内問題については政策を一部継承。教皇領の支配権回復を行い外国勢力の駆逐に尽力。その権力を強固なものとした。
【武力】60
軍人教皇と呼ばれるほどに積極的な政治闘争を展開。自らが軍を率いて都市を攻略さえした。
【知力】80
ヴェネツィアが興隆したと見ると諸外国とカンブレー同盟を結んで対抗し、イタリア国内の世俗権力の抑制に努めるが、フランス勢力を排除しようとした神聖同盟は、自身の対外的に妥協をしない頑なな姿勢とあいまって、結果として諸外国の介入を招いてしまい、以降の北イタリアが混沌とする原因となった。
【政治】78
ボルジア家打倒を旗印に支持を集めるだけではなく、チェーザレから支持を取り付けて法王の座に就くという離れ業をみせた。その後はチェーザレをスペイン送りにしてイタリア国内での敵対者を排除した上で教皇権の強化に努めた。対外的にもフランスに対抗するカンブレー同盟、神聖同盟と主導権を発揮。
【魅力】90
この時期の厳格な宗教家にしては珍しくルネッサンスの風潮を否定せずに芸術振興に理解を示したおかげで評判は良い。また、教皇としての責務とイタリア国内の諸問題に真摯に向き合った姿勢から軍人教皇と揶揄されるが、その指導力を発揮した姿から人気が高く、アレクサンデル6世と対を成す存在である。

[693] 片田舎の偏屈士 2008/09/21 01:14

——軍人教皇——

第216代ローマ教皇(在位1503年 - 1513年)本名ジュリアーノ・デラ・ローヴェレ。
教皇シクストゥス4世の甥にあたり、修道院で長く生活した後に叔父に司教へと登用されて若くして枢機卿になる。同じ枢機卿であったロドリーゴ・ボルジアと激しく敵対し、教皇位を争うが敗北。
アレクサンデル6世の世となったローマからフランスへと逃亡すると、シャルル8世を唆してナポリ王国継承を名目にイタリアへと軍を進めさせ、一時はバチカンに入城するなど優勢に立つも、諸外国の妨害にあいフランス軍は撤退を余儀なくされる。
その後、アレクサンデル6世が病没するとピッコロミニ枢機卿を支持して教皇位に就けさせることに尽力。結果、勝利してピウス3世が誕生するが、わずか26日で急逝。その後任に就くためにローヴェレは、いまだにローマに影響力を持っていた仇敵のボルジア家のチェーザレと和解し支持を取り付けるという手段で教皇ユリウス2世に就任。
その後、チェーザレをスペイン追放にしてローマにおけるボルジア家の影響を払拭させることに邁進し教皇領を回復。更なる拡大を目指してヴェネツィアと対立。諸外国とカンブレー同盟を敷いて包囲網を形成し、その影響力をそぐことに成功。
だが、次第にフランスが北イタリアに勢力を伸ばし始めると今度は、「蛮族を追い払え!」
の大号令を発してフランスに対するヨーロッパ諸国との神聖同盟を結んでこれに対抗した。諸外国の介入を招く禍根を残すが、教皇領を基としたイタリア地盤勢力の確立を達成し、1513年2月に病没。
芸術の愛好家としても知られ多くの芸術家の援助。ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井絵を描かせる際、幾度となく衝突するが、遂に気性の激しいミケランジェロを屈服させて完成にこぎつけさせた。

[694] 片田舎の偏屈士 2008/09/21 02:02

ちょうど中世ヨーロッパの調べ物が終わったところだったので、インノケンティウス3世が評価されていたので、実にわかりやすい二人を評価しました。
アレクサンデル6世の魅力はゼロもありなんだよなぁ〜(いしかわじゅん風
悪評しかないという点でゴミレベルですが、それでもまだ評価される人間ですしね。
君主としてでしか輝かない人間であり、人の下に就かせると問題ばかり噴出してしまうので取り扱い注意です。

ユリウス2世のエピソードはホント面白い物ばかりですが、ミケランジェロとのやり取りはある意味秀逸。
システィーナ礼拝堂の天井絵の遅筆を指摘して喧嘩になっただけでなく、
「わが体の反れること、シリア人の弓のごとし」
と、製作の苦痛を漏らしていたミケランジェロのハシゴを蹴り倒すと脅したりと、まあ、元気なお爺さんです!
この方も君主になるべき人間で。その頑迷さから猪突猛進してしまいますが、彼の出来ることを間違いなくやり遂げてくれます。やり遂げますが、後の影響までは見てくれませんのであしからず。

私もわかる人だけレス

>>659
>ササン朝とビザンツの隙をついてイスラームが出てきたみたいにです
うん。自分もあの文章書いた後、これが頭に浮かんだ。新興の恐ろしさは、爆発的な成長ですからね。

チャーチルは何気に万能だよな。あの時代の政治家の中では最も性格的に政策的にまともな人。
左翼的な思想が残っていた時代に世界史を習っていた自分には、この人はトンデモ政治家扱いで習わされていました

>>667
馬があれば戦争に勝てたものを・・・・・・(ハハハッご冗談を!
この地域の王はたいてい似たり寄ったりの実績を残して消えるんですが、この人の場合は運が悪すぎます。
モクテスマやアステカの民が弱かったというよりも、コルテスやスペイン人がよく戦えたな・・・・・というのが正直な感想。未知の生贄を欲する蛮族に戦争しかける時点で、普通なら妥協したりもしますが、それを可能にしたのが当時の悪評名高いスペイン人でありコンキスタドールなんでしょうね。

>>674
封建社会の過渡期に割り込んだ教皇ですが、彼がルネッサンスによる強化された俗世権力との戦いに身を投じたらどうなるのでしょうか?

>>687
伝説ですよね。数値化の場合、死後に王国が分裂した原因を知力のせいにするか政治力のせいにするか・・・・・・。

>>689
名前を見た瞬間、
「ああ・・・・・・負けた人ね」
と呟いてしまったorz
メムノンの焦土作戦を退けたのは大国の王として仕方がないことですね。大国の面子を潰すことは、現代でさえ困難なことなのですから。

[695] 2008/09/21 20:37

>>688
 ラインハルトの【知力】の予想外の低さは彼自身の精神の未熟さ、つまり自律心、自制心の結構な低さで設定しました。もし本当に【知力】が高いのならバーミリオン会戦は発生しません(ヤンを無視あるいは牽制するに留めてハイネセンを突けば事足りる)。回廊の戦いもしかりです(回廊の両側を封鎖するだけで無力化できるがそれを実施したのはヤンの暗殺後、つまり“戦いに興味が無くなった”から)。新領土紛争はともかく(彼は出陣したがったが)、シヴァ星域会戦も(体調不良も要因に含めて)部下達の自制も聞かず自身が出陣したばかりに共和主義者との和平を結ぶ隙を作ってしまい、後世に民主共和制が復興する契機(その意味でシヴァ星域会戦は帝國にとって[軍事的にはともかく歴史的には決定的敗北]と評すべき)を与えてしまいました。
 戦士として、そして“常勝の天才”としての彼の存在意義を考えれば正しいのでしょうが、国家を指導する権力者としては自身の名誉より何より喪われるものの大きさを第一に考えなくてはならないのです。この事はヒルダやミッターマイヤー、ロイエンタール、そしてオーベルシュタインは特に痛烈な言を持って非難しています(それでビッテンフェルトと大乱闘をしでかしたが)。
 トリューニヒトは死ぬ前にラインハルトのことを「…才能はあっても、人間としては完成にほど遠い、金髪の尊大な坊や…」とまで言って嘲笑しました。言ってることはかなりのアレなものですが(ヤツ風情がそこまで言う資格があるのかは別として)、端から見れば言ってることはそんなに的はずれでないと思います。軍事的な事案に限られますが、“ヤンに正々堂々と戦って勝ちたい”という感情的な欲求を理知的な判断に優先させる様な人間に余り高い【知力】を評するのはどうかと思いましてやや低めに設定しました。
 もし問題があるようでしたら、
【特殊能力】玉座の改革者:[内政]に関して【知力】を[+10]して実施する。
を追加して公人としての能力を高くしてやってもいいかもしれません。

次は帝國3長官。まずは
ウォルフガング・ミッターマイヤー(宇宙艦隊司令長官、“帝國の双璧”)
【統率】 90(“疾風”の名は伊達じゃない)
【武力】 91(帝國軍の“双璧”)
【知力】 68(常識人で理性もある)
【政治】 59(基本的に政治家ではないが真っ当な感性は持っている)
【魅力】 90(ラインハルト、キルヒアイスに次ぐ“戦場のカリスマ”的存在)
【特殊能力】
・疾風ウォルフ:MAP間の移動時麾下艦隊の移動力は[×50%]、戦場での移動は他の全艦隊の移動後にもう一度移動できる。
・“ミッターマイヤーに二言無し”:占領地の治安が最高値。

[696] 2008/09/21 20:38

>>695
【列伝】
・ウォルフガング・ミッターマイヤー(旧帝國歴459〜)−帝國軍の双璧、至宝、王朝を代表する家臣−
 ローエングラム朝の軍人。帝國軍宇宙艦隊司令長官、獅子の泉の七元帥の一人にして筆頭の主席元帥。
 平民の造園業者の息子として生まれ、ごく普通の少年時代を過ごした後士官学校に入学、中尉時代にオスカー・フォン・ロイエンタールと出会い、以後優秀な同僚として、そして何より生涯の友となる。24才の時に遠縁の親戚にあたるエヴァンジェリンと結婚、以後子にこそ恵まれなかったものの仲睦まじい夫婦となる。
 帝國歴486年のクロプシュトック事件においてオブザーバーとして参加するも、鎮圧後に民間人に暴行を働いた貴族士官を射殺、これが討伐部隊指揮官のブラウンシュバイク公の怒りを買って投獄され、あわや謀殺されかかるもロイエンタールが助力を仰いだラインハルトによって救出され、以後彼に忠誠を誓うことになる。
 487年ラインハルトの元帥府開設時に艦隊指揮官(中将)として迎えられ、同盟軍の帝國領侵攻作戦で活躍、この時敗走する敵艦隊後方を追撃する味方艦隊前衛が追い越してしまう程の苛烈な追撃を行った事でその異名足る“疾風ウォルフ”と讃えられ、戦役後ロイエンタールと共に大将に昇進した。
 リップシュタット戦役とキルヒアイスの横死を経てロイエンタール、オーベルシュタインと共に上級大将に昇進し実戦部隊の代表的存在となり、488〜99年のラグナロック作戦においては作戦の肝であるフェザーン占領作戦を指揮、第一次ランテマリオ会戦を経バーミリオン会戦ではヒルダの献策に従ってハイネセンを急襲、戦場で苦戦するラインハルトを救い、新帝国成立に際し元帥に昇進し宇宙艦隊司令長官に任ぜられる。平民出身での生者の元帥昇進は史上初(キルヒアイスも元帥に任ぜられているが死後)。
 その後も軍務に邁進したが、新帝国歴2年のロイエンタールの反乱(新領土紛争)においては私情を排して討伐部隊を指揮、第二次ランテマリオ会戦にて帝國の双璧が相打つ事態となった。紛争はロイエンタールが麾下のグリルパルツァーの裏切りで致命傷を負いハイネセンで死亡したことで終結したが、“疾風ウォルフ”は肝心なときに親友の死を看取ることが出来ず、親友の庶子である赤子(後に養子にしフェリックスを名乗らせる)と最後まで彼に従った従卒を連れて傷心を負って帰国するのだった。
 その後も帝國軍の重鎮として活躍、娘のヒルダが皇妃となることに伴って公職を退くことを考える国務尚書マリーンドルフ伯フランツの後任に推されるなど一軍人の枠を越えた役割を求められるようになる。
 新帝国歴3年のラインハルト崩御に伴い、遺言により七元帥の筆頭足る主席元帥に任ぜられることが決定している。
 同作品の最後を締めたのが彼とエヴァンジェリンの夫婦、養子としたフェリックスの親子であり、未来を創る側にある人物であることが示されている。

[697] 2008/09/21 20:43

>>696続き
 軍人としては新帝国ではラインハルトやロイエンタール、故人ではキルヒアイス、敵方ではヤンやメルカッツ、ビュコックらに比肩しうる才を持ち、事に神速を極める果断な用兵から“疾風ウォルフ”、ロイエンタールと並んで“帝國の双璧”、その死後は“帝國の至宝”と賞賛される。
 性格は公明正大、清廉で正義感の強い人物として描かれ、それでいて陰湿さと無縁な陽性な性格から同僚からも部下からも信頼が厚い。但し不正や軍規に厳しく、その剛直さ故に門閥貴族に恨まれあわや謀殺されかかった件や、民間人に暴行を振るった麾下の将兵を問答無用で公開処刑に処し、寛大な処置を求める上官の嘆願に一顧だにしなかった件など正義感の強い人物である。またその誰からも好意を持って迎えられる性格からマリーンドルフ伯の後任として国務尚書に推されおり、彼自身は一軍人であることを望んでいるにしてもその立場からいずれ何らかの政治的要職に任ぜられることは確実である。
 性格が反対であるロイエンタールとの友情は意外に長く続いたが、新領土紛争の時は帝國の分裂を避けるため、部下の血でラインハルトの手を汚さぬ為、何よりラインハルトがロイエンタールを討つことで彼を憎んだりすることの無いように断腸の思いで討伐軍を率いて不毛なる死闘を繰り広げたが、彼らの友情に何ら傷が付くことはなかった。
 帝國軍幹部の中では珍しい妻帯者であり、エヴァンジェリンとの間に子は成していないもののその中睦まじさはつとに有名である。ロイエンタールの死後、彼の遺児である赤子を自らの養子としてフェリックスを名乗らせ、最後まで従卒を務めたハインリッヒ・ランベルツを引き取り、後に記された元帥伝にて「…互いに全く繋がりのない4人が、一軒の家で、いつの間にか違和感のない」生活を送るようになったと記されるほど円満な一家であった。

 “双璧”と賞されるだけあって軍人としての能力は高いです。(“疾風”の能力は独ソ戦ゲームでよく使われる〔機械化移動〕をイメージしました。)政治家としては積極的に政務に取り組むより【魅力】の高さで重きを成すタイプでしょう(例えばウェリントン公のような)。

[698] ロギー 2008/09/21 22:25

だれか〜銀河戦国群雄伝ライの主人公、竜我雷の能力数値を書いてください。
彼もかなりたかいと思いますよ。

[699] 喝食 2008/09/22 02:05

>>688
マスードとモンテスマ、アンベードカルはやってて感情移入し過ぎてしまいました。モンテスマは・・・そうですねー。多少時間は前後したとしてもアステカは侵略者、そして新大陸にいない家畜に由来する旧大陸の疫病と向き合わなければならなかったでしょうがあのタイミングと人物が最悪だったのは間違いないでしょうね。なのでモンテスマが本気だったら、コルテスがマガリャネスみたいになる可能性はかなりあったんじゃないか。少なくとも戦う術を学ぶ時間かせぎになったんじゃないかなんて考えてしまいます。アンベードカルはその魂においては疑い無く、能力においてもマハトマに匹敵すると勝手に思っていますので能力値もかなり意識してつけました。3人とも個人には重すぎるとてつもない力に一気に押し寄せられたという点では似ているでしょうか。

>>694
その爆発的拡大の後、その集団が拡大に対応できる度量や知恵をもっているかが問われることになるんでしょうね。対応できなければ拡大に巻き込まれた地域は悲惨なことになる。タリバンは失格だったようです・・・。
数値化された2人のルネサンス教皇みたく良くも悪くも華やかな文化に影響されまくってルネサンス期には教皇達も世俗権力に近い感じになってたイメージがあります。教皇が世俗権力と同じ土俵で戦ってたら分が悪いでしょうか。ゆるんで俗っぽくなっていると見られず神通力が生きていたのならば教皇権力は極めて強力です。多少世俗が強かろうがインノケンティウス3世ほどの統率力があれば相当手強い存在となったのではないでしょうか。グダグダになってなければ後でルターにあそこまで文句を言われることもなかったかと思ったりもしました。

また長々と申し訳ありません。休みと気象条件とやってて楽しくなったのとで黙々と評価してましたがちょっと我に返りました。ソロモン王の魔術にでもかかっていたんでしょうか。自省。

[700] 喝食 2008/09/22 02:35

>>689

モンテスマ=モクテスマ2世でした。統一性を欠き申し訳ありません。

[701] 地理公 2008/09/22 18:30

>>601-602 ヤン3世ソビエスキ
>>610 天智天皇
>>612 土気胤治
>>617 オヤケアカハチ
>>623 藤原道長
>>626 モハメド・シアド・バーレ
>>627 ヤーセル・アラファート
>>631 アレクサンドロス大王
>>633 ジル・ド・レイ
>>636 光緒帝
>>642-643 蘇我馬子
>>644 メムノン
>>646-647 ガマール・アブドゥン=ナーセル
>>648-649 アハマド・シャー・マスード
>>652 ムワタリ
>>653-654 ミハイ・ビテアズル
>>656 シアオシ・ツポウ1世(ツイ・タウファアハウ)
>>659-660 ウィンストン・チャーチル
>>662 木村昌福
>>663 山下奉文
>>664-665 プレーク・ピブーンソンクラーム元帥
>>667-668 モクテスマ2世
>>674 インノケンティウス3世
>>677-678 ビームラーオ・ラムージー・アンベードカル
>>687 ソロモン王
>>689 ダレイオス3世
>>690-691 アレクサンデル6世
>>692-693 ユリウス2世

[702] 地理公 2008/09/22 18:30

>>615 星野仙一
>>619 デスラー総統
>>622 玉藻前
>>624 八岐大蛇
>>632 ランスロット
>>634 ディルムッド・オディナ
>>635 アンラ・マンユ
>>640-641 新城直衛
>>657-658 ヤン・ウェンリー
>>670-671 ラインハルト・フォン・ローエングラム
>>672-673 ユリアン・ミンツ
>>675-676 ジークフリード・キルヒアイス
>>679-680 ナイトハルト・ミュラー
>>681-683 ヒルデガルド・フォン・ローエングラム
>>684 アルテミスの首飾り
>>685-686 フレデリカ・グリーンヒル
>>695-697 ウォルフガング・ミッターマイヤー

[703] ガーリックトースト73% 2008/09/22 19:45

ハイ・バ・チュン (徴姉妹)

【統率】57
【武力】74
【知力】26
【政治】21
【魅力】62

【特殊能力】挑発
美化:死後魅力+20
像兵:移動力が1/2になるが、攻撃力が2.5倍になる
姉妹国王:姉妹存命時に限り、姉が殺害されても妹が自動的に国王となり、統治下の治安・忠誠度が変化しない。 ※専用

【統率チェックポイント】
反漢精神と光武帝政権打倒を掲げて民族解放運動を盛り立てた。わずか3年ではあったが、南越の合浦・九真その他65の県を統治しベトナムの自立を達成。しかし、その後後漢との戦闘では厭戦気分に陥る自軍を制しきれずに瓦解している。

【武力チェックポイント】
戦象やベトナム相撲の力士を使った突撃戦術で一瞬にして65の城を陥落せしめた。後漢の元勲、馬援が20000を号する兵で侵攻したが、ジャングルを利用した地の利で頑強に抵抗し続けた。しかし、結局は敗れ10000の捕虜と1000弱の兵を失っている。ただ、兵士の娯楽と訓練の為に自らベトナム式のクリケットを考案するなど軍事的センスは確か。

【知力チェックポイント】
徴税権を南越側に委託を要請したり、宮廷を構えて徴税を強行するなど、事あるごとに後漢に挑発行為を繰り返している。当時の後漢は光武帝劉秀が存命した全盛期であり、情報の流通が当時乏しかったとは言え、兵力・国力の差から考えてもこれらの安易な挑発は愚行と言わざるを得ない。支那王朝からの脱却を目指した先見性を買ってこの数値となった。

【政治チェックポイント】
王を僭称(支那にとっては)し、自ら税を取り立てる事で自らの領地と影響化の確認を行った。後漢が南まで手が回らないと踏んで各地の不平を持つ諸侯を結集して挙兵しているが、誤りではないにせよ認識が甘かったというべきだろう。

【魅力チェックポイント】
姉は気性の激しい性格である反面優しい女性で、自らも憤りつつも後漢の圧政に耐えかねた諸侯を見かね、挙兵したと言われる。妹は姉に従順で、姉の死ぬ直前まで姉と共に連れ添っている。しかし、諸侯の殆どは彼女らの魅力よりも後漢に対する突発的な怒りの方が強く、軍が苦戦に陥ると我先にと逃げ出しているが、現在ではベトナムではホー・チ・ミンにならぶ英雄である。彼女らは生前よりむしろ死後に美化された傾向が強く、現在でも彼女らを祀る寺院が数多く存在する。

【作者から一言】
ベトナムが誇る女傑姉妹です。ベトナムは昔から女系国家であり、とにかく女が強い(!)。ベトナムの女は「男は浮気するモノ」と決めつけた上で(噛みついたり鶏を屠殺しながら)愛を求めてくるので、ベトナムの男は何よりも奥さんを怖がるそうです(笑)。そのルーツの原点が彼女たちなのかもしれませんね。
武力が突出して高い武将タイプです。反面それ以外はかなり低いため、一国のトップに据えるのは止めた方がいいでしょう。

[704] ガーリックトースト73% 2008/09/22 19:46

【列伝】
生没:姉妹共に 紀元後(14?)?年 - 43年
略歴:[姉]徴王朝徴王 [妹]徴王朝国王補佐
在位:徴王(紀元後40年 - 42年)
備考:[姉]チュン・チャック(徴側) [妹]チュン・ニ(徴弐)

——ベトナムのジャンヌ・ダルク——

 チュン・チャック(徴側)は現在のハノイ北西部の有力な貉将(地域の軍事を司る諸侯)の娘として生まれたが、生年は紀元後14年前後ともいわれるが、正確には判っていない。妹であるチュン・ニ(徴弐)の出生地は不明だが、姉と同様であると推測される。暫くして姉は地方の有力者、ティ・サックと結婚。国内の有力者として周囲の信望を集めるた。

 しかし、日頃から頭痛のタネであった交趾郡の太守・蘇定の悪政が苛烈さを増すようになると、怒り心頭のチャックは挙兵を決意。40年3月には南越内の合浦、九真、日南各郡65の県の諸侯がこれに賛同し、そこに妹チュン・ニも加わってベトナムに一大勢力を形成。チャックは自ら女王として"徴王"名乗りミーリンを首都として宮廷を構え、徴税を強行する姿勢を示した。

 だが、これに対する後漢側の判断は素早く、41年、光武帝劉秀は姉妹によるこの行動を『重大な反乱行為』とし、建国の元勲、馬援を「伏波将軍」に任じ反乱鎮圧を下知。劉隆を副将として、20000を超える軍勢を率いて42年4月には南越へ到着した。当初馬援は、短期に首都を制圧する電撃戦で押し崩そうとしたが、入りくねる山や川といった環境や、熱帯の不慣れさから著しく士気を低下させてしまった。また姉妹軍側も像兵を駆使し善戦。長期戦になるかと思われたが、姉妹軍側の消耗もまた激しく、軍内部に厭戦気分が蔓延するようになり、万策尽きた姉妹は一大会戦を決意。馬援軍と浪泊(現在の広東省付近)で相対するも、1000名弱の死者と10000名以上の捕虜を出す大敗北を喫してしまう。

 姉妹はミーリン方面へ逃れたものの、馬援軍による追討は徹底しており、首都ミーリン制圧ののち、翌43年2月6日、ついに姉妹ともどもに捕らえられ、殺害された(入水自殺したとも言われている)。紀元後14年が生年日であるなら、両姉妹とも20代で死亡した事になる。

[705] ガーリックトースト73% 2008/09/22 19:51

もう700ですか!?ええーー早っ!!!
最近は職人さんも多くなって賑やかになったおかげかもしれないですね。

[706] 2008/09/22 21:14

ミッターマイヤーの能力に追加。これはいるな。
【特殊能力】
・双璧:ロイエンタールと共同で戦闘を行うとき、[移動力]【統率】【武力】に[×20%]

帝國3長官その2。次は勿論。
オスカー・フォン・ロイエンタール(統帥本部総長、新領土総督、“帝國の双璧”)
【統率】 92(“知勇のバランスの取れた”名将)
【武力】 88(帝國軍の“双璧”)
【知力】 59(意外かもしれないが理由は後述)
【政治】 73(統治者としても破綻はなかったが理性とのバランスに問題)
【魅力】 82(叛乱においても最後まで子飼いの部下からの離反は起きなかった)
【特殊能力】
・双璧:ミッターマイヤーと共同で戦闘を行うとき、[移動力]【統率】【武力】に[×20%]
・“矜持にかけて”:ゲーム中3回、もしくは一年間に2回査問を受けたとき、彼は無条件で叛乱を起こす。但しラインハルト、ミッターマイヤーと同じエリアにいる場合は無視する。
・有能な行政官:[内政]に関して【知力】を使うとき[+20]して判定する。
・“お前も国を奪ってみろ”:麾下の将兵の[規律]が最高値。
・統帥本部総長:この地位にあるとき、麾下の兵を一切動かすことが出来ない。麾下の兵力は〔皇帝本隊〕扱いとなる。

[707] 2008/09/22 21:23

>>706
【列伝】
・オスカー・フォン・ロイエンタール(旧帝國歴458〜新帝国歴2)−帝國軍の双璧、忠誠心と矜持の狭間−
 ローエングラム朝の軍人。帝國軍統帥本部総長、新領土総督。
 下級貴族の父と名門であるマールバッハ家の令嬢レオノーラとの間に生まれたが生後程なく母が自殺、父親には半ば育児放棄されるという不遇な境遇の元に少年時代を過ごす。長じて後士官学校に入学、決闘事件を起こして降格された中尉時代にウォルフガング・ミッターマイヤーと出会い、以後優秀な同僚として、そして何より生涯の友となる。
 帝國歴486年のクロプシュトック事件においてオブザーバーとして参加するも、民間人に暴行を働いた貴族士官を射殺したことで討伐部隊指揮官のブラウンシュバイク公の怒りを買って投獄されたミッターマイヤーを救うべくラインハルト(当時ミューゼル)に助力を仰ぎ、あわや謀殺されかかった友を救出、以後彼に忠誠を誓うことになる。
 487年ラインハルトの元帥府開設時に艦隊指揮官(中将)として迎えられ、同盟軍の帝國領侵攻作戦で活躍、戦役後ミッターマイヤーと共に大将に昇進した。
 リップシュタット戦役とキルヒアイスの横死を経てミッターマイヤー、オーベルシュタインと共に上級大将に昇進し実戦部隊の代表的存在となり、488〜99年のラグナロック作戦においては陽動であるイゼルローン要塞攻略作戦を指揮し最終的にヤンの放棄により再奪取、バーミリオン会戦ではヒルダの献策に従ってハイネセンを急襲、戦場で苦戦するラインハルトを救い、新帝国成立に際し元帥に昇進し統帥本部総長に任ぜられる。
 更に新帝国歴2年には旧同盟領を統括する新領土総督に任ぜられ、そこでも優秀な統治者として辣腕を振るったが、彼に私怨を抱くラングと混乱を望むルビンスキー、地球教との策謀によって発生したウルヴァシー事件(新帝国暦2年10月7日)によって叛乱を決意(新領土紛争)、第二次ランテマリオ会戦にて帝國の双璧が相打つ事態となった。
 しかし紛争は麾下のグリルパウツァーの裏切りで致命傷を負いハイネセンに帰投、死に向かう床でラインハルトを愚弄するトリューニヒトを殺害すると、12月16日、友の来訪を待ちわびながら事切れた。“疾風ウォルフ”は肝心なときに親友の死を看取ることが出来ず、親友の庶子である赤子(後に養子にしフェリックスを名乗らせる)と最後まで彼に従った従卒を連れて傷心を負って帰国するのだった。

 軍人としては“最も知勇の均衡が取れた”提督と人物鑑定眼に定評のあるメックリンガーに評されるほどバランスの取れた能力を有し、新領土総督を務めたときも破綻無く統治してみせた手腕など軍政家としても一定以上の水準を有し、誰もが認める当代一の名将である。また一戦士としてもきわめて優秀で、旗艦トリスタンに突入した当代一の猛者シェーンコップと一騎打ちを繰り広げついぞ決着が付かなかったこともある。彼自身を含めて多くの人が“乱世の雄”と評価しているが、ユリアン・ミンツは彼の能力を“王朝の創業者(乱世の雄)ではなく三代目(守勢の人)向き”と評しているのが面白い。
 性格はときとして尊大とも冷徹とも、好意的にみれば誇り高く高貴とも取れるほど自信家で、時に舌鋒鋭く冷笑をみせることから買わなくてもいい恨みを買うこともしばしばで、“つまらぬ悪意”を受けることも多い。また時として貧乏性とも取れるラインハルトなどよりよほど貴族らしく、“貴族趣味のロイエンタール”などと揶揄されることもあった。
 また長身と右が黒で左が青の瞳というエキゾチックな容貌(金銀妖眼)、優雅な振る舞いから女性に非常にもてたが、女性に対しては“女性側から一方的に迫られ、関係を持っては捨てる事”を繰り返し漁色家として知られている。しかし深層心理としては、女好きというよりむしろ深刻なまでの女嫌いに由来するものであり、幼少の頃の不遇の原因(愛人と同じ色をした瞳をナイフで刳り抜かれそうになり阻まれて自殺、父には“生まれるべきではなかった”と罵られながら育つ)からくるトラウマが一因にある。

[708] 2008/09/22 21:32

>>707続き、
 幼少から“生まれるべきではなかった”と詰られて育った境遇といつしか世の中を斜めに見るようになった思考、水準以上の能力は彼にいつしか“どうせならいっそ…”と歪んだ境地に達せさせた。しかしラインハルトという一代の天才には遠く及ばないことを自覚しており、彼に対しては欠けることのない忠誠心で仕え、その覇業に大きく貢献した。
 それでもなを、彼自身の中に燻る野心との均衡を抑えきれず、その間隙を衝かれて発生したウルヴァシー事件によって追い込まれた状況下で叛乱を起こす道へと突き進んだ。それは彼が望んだ道であろうか。それともそう“思いこもうとした”だけだったのか。
 親友であるミッターマイヤーは彼との最後の通信で自ら破滅の道へと突き進む友を嘆いて「血の色をした夢に酔っている」と諭した。叛乱を起こしながら彼の下にあって忠誠を拒んだエルスハイマーに対し、ミッターマイヤー宛の“彼が叛乱に荷担していない”旨を示す書簡を託した。叛乱を起こしておきながら麾下の艦隊に帝國軍旗である黄金獅子旗を掲げ、“何の所以のない同盟市民を巻き込んでの焦土作戦”という勝ち易き策を取らず正面決戦という愚劣な策を選び、“敵であった”ラインハルトを愚弄したトリューニヒトを問答無用で射殺した。何より彼はもう道を同じくする事の無い親友への最期の言葉が「皇帝を頼む…」であったのだ。
 一連の矛盾する行動はとてもじゃないが本気で戦おうとしていたとは思えない。彼は自分自身の心の闇に負けたのだ。

 彼はその死において発した言葉は、「我が皇帝、ミッターマイヤー、勝利(ジーク)、死」であり、その意味には諸説あるが、最期を看取った従卒のハインリッヒ・ランベルツはこの話題から距離を置きけして語ろうとしなかったという。

 正式な家族はいないが、リップシュタット戦役後彼が拘禁したリヒテンラーデ候一族に連なると称する女性、エルフリーデ・フォン・コールラウシュとの間に男子をもうけている。そもそも彼女は“一族の恨みの対象”であるロイエンタールを恨んで討とうとして果たせず、仇とも狙う男との間に子まで成し、一時身を隠したが重傷の床にあるロイエンタールの元に密かに産んだ子と共に現れ、彼の最期の薦めに従って親友であるミッターマイヤーに託すと(”今なら仇を討てる”という彼の誘いを断り)再び消息を絶っている。その心情はいかなるばかりか判りかねるが仇と恨む男に対して愛憎半ばする感情を抱くに至ったその胸中いかばかりか、人の心というのは計りかねるものである。

 この能力をみて“おやっ?”と思った人。多分正しい人です。作中の業績に比して【知力】を著しく低く評価しています。たびたび評しているように“【知力】=理性、自制心”と考えているためです。彼は“自らの矜持(と言えば聞こえはいいが要はプライド、見栄)”のためにどれほど多くの無関係な人命が失われるかについて考慮し、例え謀殺という不本意な結果が出たにせよ出頭して裁きを待つべきでした。状況が状況であったせよ多くの人々の必死の説得にも関わらず(そして間違いなく好意的な弁護の元、寛大な処分が下るであろうにも関わらず)、“矜持”というつまらぬもののために軽々しく叛乱という手段に出てしまった人物の【知力】に高い評価は出せません。
 その他の能力が高いため色々な場面で使えますが[“矜持にかけて”]が怖いです。単独行動も任せたいのですが“兵力を握ったまま叛乱”と言う事態を避けるべく、出来るだけ手元に置いておきましょう。

[709] 扇面 2008/09/23 13:45

渡辺崋山(1793年〜1841年)
【統率】 55
田原藩の家老職について藩の士気向上、有能な人材の登用に取り組み、一定の成果を上げている。
田原藩は1万2千石の小藩で、藩士同士は幼少の頃から顔見知りなのでこの程度でしょう。

【武力】 46
田原藩は渥美半島にあったため海防の必要から、蘭学通じて西洋兵学の学習に務めている。
しかし、その実践は後に田原藩家老になり、彼の政治面での後継者になる村上範致にやらせている。

【知力】 82
朝4時起床、就寝夜2時という生活を続け、寸暇を惜しんで勉学に励み、儒学と絵画において当代一流の
知識を身につけ、藩政と尚歯会で発揮した。蘭学は直接オランダ語を身につけたわけではなく、高野長英、
小関三英らに日本語訳させたものを読んでいたが、これは画業と藩政に忙しかったため。むしろ長英らを
使いこなして適切な知識を得ていたことを評価したい。当時もっとも先見的で視野が広い考えを持っており、
特に西洋を科学技術や美術、医学だけでなく、道徳面でも評価しようとしたのはおそらく彼が初めてだと思われる。
もっとも、こうした開明的な思想を持ってしまった故に、悲劇的な最期を遂げることになるわけだが・・・。

【政治】 62
学業と画業を通じて培った人脈を使い、藩政改革に取り組み成果を上げている。農学者大蔵永常を
招き殖産興業に務め、報民倉という食料備蓄庫を設け天保の大飢饉でも餓死者を出さなかった。

反面、政治闘争は苦手で、藩主の跡目争いでは藩上層部にあっさり後れをとっており、蛮社の獄では
罪を逃れることは出来なかった。そもそも現代の我々は藩政での実績や蛮社の獄を先に習い、
その後画家としての崋山を知るので、彼を政治家または蘭学者だと思いがちであるが、
彼自身は自分を文人、または画家だと思っており、政治家が本分だとは思っていなかった。

【魅力】 78
時の先覚者たちのリーダー的存在であり、尚歯会は彼が作った訳でもないのに、その中心人物と目された。
元々藩主就任に反対した経緯のある主君の三宅康直や、俊英だが性格に問題ありまくりな高野長英、
根っからの江戸っ子で崋山と全く異なる画風の「奇想の絵師」歌川国芳といった、身分や背景が全く異なる人
とも親しく付き合えたことは彼の人柄の良さが伺える。
蛮社の獄の際は、佐藤一斎や市河米庵といった崋山が描いた肖像画が残っている者ですら、鳥居耀蔵を恐れて
無関係を装う者も多い中、身命を投げ打って助命嘆願に尽くしてくれた松崎慊堂や高久靄崖、弟子の椿椿山が
いてくれたお陰で切腹を免れている。同じく逮捕された高野長英にはこうした人はいない。

【特殊能力】修身(知力と魅力にプラス補正)

[710] 扇面 2008/09/23 13:47

【列伝】画家と政治家 〜私(わたくし)と公(おおやけ)〜

寛政5年、江戸三宅坂の田原藩藩邸で家老の子として生まれる。当時の渡辺家の知行は実質11石ほどで、江戸で
人一人が普通に生活するのに18両は掛かり、一石は約一両弱の計算なので家は極めて貧しく、幼少の頃から
絵を描いて生活を助けていた。12歳の頃大名行列にぶつかってしまい、その武士たちにぶちのめされた屈辱を
機に儒学を学ぶことを思い立ち、画技の方も16歳で金子金陵、ついでその師の谷文晁に師事し本格的に絵を学ぶ。
20歳半ば頃にはほぼ文人画家とし独り立ちを果たし生活も安定した。この頃、よく寺子屋の場面が歴史の本に
載せられる初期の傑作「一掃百態図」を表し、庶民の生活を生き生きと、しかし決して下品にならないようを描く。
30歳近くなると西洋画を取り入れて画風が変化し、彼の画名を不朽の物とする肖像画を描き始める。

40歳の時家老に就任し、積極的に藩政改革に乗り出す。この時沿岸警備の必要からそれまで絵としての興味が
強かった蘭学を本格的に学ぶ必要性を感じ、前藩主の弟三宅友信に頼み蘭書を購入してもらい、それを長英らに
訳させ知識を蓄える。彼の知恵と人格を頼もうと周りに江川英龍などの先進的な幕臣や知識人が集まるが、
これを危険視した鳥居耀蔵の弾圧を受け、田原に蟄居させられる。田原での生活は経済的にも精神的にも苦しく、
彼の門弟が江戸で書画会を開き、絵を積極的に売って生活を助けようとしたけれども、これが却って守旧派の
反感を買い、藩主に累がが及ぶことを恐れた崋山は納屋で切腹してしまう。享年49。
彼の遺書「不忠不幸渡邉登」には崋山の悲痛な叫びが宿っている。
黒船が日本にやってくるのは、死の12年後のことである。

【コメント】
歴史の教科書でお馴染みの人物ですが、実はなかなか評価しづらい人物です。画家や思想家、政治家といった
全く違ったジャンルそれぞれで無視できない業績を上げており、またどうしても彼の絵を生で見ないと彼の為人が
実感として分からないのですが、日本画は材質上展示にあまり適さないため、なかなか見る機会がありません。
自分は画家として崋山を主軸だと考えて書きましたが、違う面からもっと掘り下げて考えることが出来る懐が
深い人物です。当時、文人画が流行し数多く描かれましたが、今日の我々の目から観ると良さが全くわからない
モノも多いなか、彼の絵には武士らしい気品や精神性の高さが滲み出ており、同時代の文人画家とは明らかに
レベルの違う境地に達しています。

絵と政治。全く異なる道を、彼ほど高いレベルでこなした歴史上の人物は他にいないでしょう。個人的に
文部科学大臣に打ってつけの人物だと思います。見識と魅力が高いので、実行力と智謀に長けた部下をつければ
一国の宰相もこなせるでしょう。本人はいやがるでしょうが・・・。

[711] 2008/09/23 15:59

帝國3長官その3。最後はこの人。
パウル・フォン・オーベルシュタイン(宇宙艦隊総参謀長、軍務尚書、“冷徹なる義眼”)
【統率】 54(効率的な事務運営には評価が高い)
【武力】 15(前線指揮官の適正はないに等しいが本分ではない)
【知力】 97(自己制御は死の瞬間まで完璧。“人間は道理だけでは語れない”事を無視する節があるのでマイナス)
【政治】 94(自らの命さえ道具にする完璧なマキャベリスト)
【魅力】 33(同僚には嫌われたが部下には畏敬の念をもたれていた)
【特殊能力】
・汚名:捕らえた敵将を“彼の提言”によって解き放つと敵陣営にて処刑される。処刑した陣営への支持値が〔×(−30)%〕。
・大乱闘:ラインハルトが同行しない場面でビッテンフェルトと同行した場合、〔大乱闘〕が発生する。発生するとビッテンフェルトは謹慎し(ラインハルトによって解除されるまで動けない)、〔黒色槍騎兵艦隊〕が不穏化する。
・身代わり:ラインハルトと同じエリアにいる場合でラインハルトに〔暗殺〕が行われた場合、彼が代わりに死亡する。以降ゲームから除外され、復活しない。キルヒアイスが条件を満たす場合はキルヒアイスが優先。
・否定的提言:彼は様々な場面で提言を行う。
   �提言を受け入れない場合彼の忠誠値が(−1)、他の提督の忠誠値が(+1)。
   �提言を受け入れた場合彼の忠誠値が(+1)、他の提督の忠誠値が(−1)。
   �上記に加えて人事に関するものの場合、提言を受け入れた場合対象者の忠誠値が(−5)、受け入れない場合忠誠値が(+5)。

[712] 2008/09/23 16:00

>>711
【列伝】
パウル・フォン・オーベルシュタイン(旧帝國歴452〜新帝国歴3)−帝國の影を担った公益機械−
 ローエングラム朝の軍人。軍務尚書。
 帝國貴族の子弟に生まれたが、先天性の障害のために両目が全く見えず、世が世なら“弱者”として抹殺されかねなかった事が彼をしてゴールデンバウム王朝を憎む根元となった。
 長じて士官学校に入学、軍人の道を志すがその異様な容姿(見えぬ目の代わりに機械の義眼を仕込んでいた)と従順ならざる性格から出世はともかく重く用いられることはなかった。帝国暦487(宇宙歴796)年5月の第七次イゼルローン要塞攻略戦時には要塞駐留艦隊の参謀(大佐)を務めていたにも関わらず彼の進言を尽く却下した挙げ句、ヤンに乗ぜられてみすみす要塞を喪わせた艦隊司令ゼークト大将を見限って敵前逃亡、戦死したゼークトらに代わって要塞失陥の責を押しつけるスケープゴートとして処断されかかり、助力を求める形で当時宇宙艦隊副司令だったラインハルト・フォン・ローエングラムを頼ったことで歴史に大きく関わることになった。
 ラインハルトに自分を売り込むことで安全を勝ち得ると彼の元帥府の参謀長兼元帥府事務局長に就任(准将)、同盟軍の侵攻作戦撃退後は宇宙艦隊総参謀長に任ぜられ(中将)、一躍地歩を確立するが周囲の評価は冷ややかなものであった。
 リップシュタット戦役とキルヒアイスの横死を経てミッターマイヤー、ロイエンタールと共に上級大将に昇進し、同時に宇宙艦隊総参謀長在任のまま統帥本部総長代理に任ぜられる。
 新帝国創設時に元帥に昇進、軍務尚書に任ぜられると様々な謀略に従事、新帝国を暗部から支え重きを成す。
 新帝国3年7月26日、皇帝ラインハルト危篤の隙を狙った地球教徒の襲撃において彼らを招き入れて一網打尽にする計画(その為に死にゆくラインハルトすら囮に使った)を立てるも自らが襲撃を受け負傷、そのまま息を引き取った。享年39才。その死は“計画的な殉死”とも“単なる計算違い”とも、あるいは“自らを“今後の帝國の安寧のための危険分子”と見なして排除した”とも、様々に語られるが真相は不明である。

 軍令より軍政に長けた軍官僚と言うべき人物で、特に謀略、権謀術数といった裏面に強く、この面に強い謀臣を欲したラインハルトに売り込むことで自らの地歩を確立、以後彼の影となって王朝の覇業を支え続けた。
 彼の策謀として最も知られるのが、リップシュタット戦役においてブラウンシュバイク公が離反した領地のヴェスターラントに対して熱核兵器を使用し領民200万人を虐殺するのを黙殺するようラインハルトに進言し、実行させる事で民心を離反させた件であるが、この一件がジークフリード・キルヒアイスを喪う要因になった事でラインハルトの心に拭いきれない傷を残すことになってしまった。
 その他多くの策謀によって功を挙げたが、その“目的のために手段を選ばぬ”非情さと手法は同僚の多くの諸将からは実力を認められつつも敬遠され、無用な軋轢を重ねた。特にロイエンタールとの軋轢は根が深く、後に彼が叛乱を起こした要因の一つとされ、ビッテンフェルトには不毛な対立の挙げ句に暴力で報いられるという大椿事を引き起こしてしまった。
 しかしそれら諸将も実力と共に(渋々ながら)認めているのが彼の公人としての私心の無さ、時として自らの命さえも謀略の道具として使うことに躊躇せぬ覚悟の強さ、ラインハルトに対してさえも“耳に痛い”諫言をはばからぬ一方でその身が危険にさらされるときには身を楯にして庇う事に躊躇わないなど忠誠心の篤さは疑いようがなく、日頃の振る舞いさえも“(彼が諸将の憎悪を買うことで)ラインハルトへの批判をかわす”側面があるとの評がある。
 彼の持論である“�2不要論(ラインハルトに代わりうる存在はあってならない)”は結果としてキルヒアイスを死に追いやり、ヤンを遠ざけたがけして持論を曲げることはなかった。彼自身の部下・手下にはハイドリッヒ・ラングが如き佞臣、野心過多な輩か意のままに動く“道具”のような人材が多く、彼の所管の軍務省は“規律は保たれているが(ストレスからの)胃炎患者が多い”と評され彼の仕事の質を伺わせる。だが、一方で一度は貴族連合に荷担しながら帰順したアントン・フェルナーを補佐役に用い、有能ではあるが忠実とは言えない(たびたびそのやり方に皮肉混じりに批判されたりしている)彼を重用するなど一方ならざる面もある。

[713] 2008/09/23 16:03

>>712続き
 性格は徹頭徹尾冷静且つ冷徹であり、その態度は死を前にしてさえも“(もはや助からぬのだから)治療は労力の無駄であり偽善でしかなく無用”と言って医者を歯白ませた事など完璧に保たれていた。他人はおろか自分の感情さえも忖度することはなかったが、一方で総参謀長時代にラインハルトの元帥府の前で拾ったダルメシアン種の老犬を拾って世話し、この犬のためにわざわざ夜中に餌の鶏肉を、しかも自ら肉屋に走って買ってくるまでして面倒をみ、その死に際して執事にその面倒を最期までみてやるようわざわざ遺言を残すなど単なる冷血漢ではない、人間らしい一面もかいま見せたことはどんな人間にも隠されている、内面の複雑さを物語っている。

 ラインハルトは皇妃ヒルダに対し「(オーベルシュタインを)一度も好いたことはない」がその意見に「最も従ってきた」と語り、その理由を彼の意見は「反論の余地無く正論を語る」からと評した。そしてもし自分が「王朝の利益に背反する」ならば躊躇無く「自分を廃立する」だろうとまで言ってのけた。
 彼が仕えるのは人ではなく人が成した“主義”であり、それを体現した“王朝”そのものである。
 同時代幾多の人物が仰ぐべき旗を掲げて戦った。しかし、人ではなく理想のために戦ったのは皮肉な話だが彼ともう一人、常に彼と反対の立場にあって彼が危険視し続けたヤン・ウェンリーのみである。彼は理想を成し遂げるために行動が必要であり、それ成し遂げるためには悪さえも許容する覚悟が必要であることを常に自覚しており、ひとかたならざる労を傾けて遂に覇業を成し遂げるのに大きな功を成した。ヤンが理想を実現するのに時としてそういった尋常ならざる行動力が必要であると自覚していたのにも関わらずその事から逃げ続けた挙げ句、理想の実現さえも危うくしてしまったのとは対照的である。
 一方で理想を実現するにはそれなりの覚悟がなければそもそも語る資格がないとでも言うべきオーベルシュタインの剛直さには誰も容易にも近づけるものでなく、ヒルダは彼のことを“正論だけ彫り込んだ、永久氷土の石板”と評した。けだし卓見である。そしてその非情なる手段が(道義的是非はともかく)肯定されうる時代が終わったとき、その舞台からの退場を余儀なくされた事は彼の本意かどうかはともかく、けして不幸なことではないだろう。
 蓋世の英雄ラインハルトの死が“英雄の時代”の終わりであると同時に、稀代の謀臣オーベルシュタインの死は”謀略の時代”の終わりを告げるものであり、これにより新しい“協調と安定”の時代を迎えたのであった。

 “冷徹なる義眼”“帝國印、絶対零度の剃刀”オーベルシュタインの能力は、“自身の葛藤を制御できなかった”ロイエンタールや“制御が効きすぎて何もできなかった”ヤンより【知力】を高めに設定しています。【知力】【政治】の高さに比して【魅力】が低く、徹頭徹尾官僚向きです。数々の提言が行われますが採用の有無に関わらず彼自身よりむしろ周囲に悪影響が出ますので注意を。
 周囲との人間関係がおよそ最悪に近いので同行者には注意し、間違っても“ビッテンフェルトと二人連れ”等という面白いことをしてはいけません。収拾がつかなくなります。

 あとお好きな方、彼のオプションとして[眼からビーム]を付けてあげて下さい。そうすれば少なくとも護衛くらいは務まるでしょう。
・オプション[眼からビーム]:彼の白兵戦能力を高めるためのパーツ。視線の通る正面の敵に対して先制攻撃ができる。この処理を行ってから通常の白兵戦を解決する。
(なをネタの大元はでじこ、ではなく“『銀英伝』のバッタもの”『無責任艦長タイラー』シリーズのDr.キタグチです。)

[714] リー 2008/09/23 21:15


>>698のロギーさんのリクエスト銀河戦国群雄伝ライの主人公の竜我雷
の能力値スレは難しいのかな。
誰か出来る人はやってください。

[715] ガーリックトースト73% 2008/09/23 21:48

フルヘンシオ・バティスタ

【統率】32
【武力】46
【知力】37
【政治】55
【魅力】 9

【特殊能力】
篝火:特定の大国の後盾がある場合、統率+15 魅力-10

【統率チェックポイント】
合計で10年ほど独裁者として君臨、彼の就任後国内は一応の安定を見せるが、政権下では親米政策を推し進め独裁強化に乗り出すも、相次ぐ学生や左翼の運動に有効な手を下せなかった。またキューバ革命の際、自身の送り出した政府軍兵士の多くが軍務を放棄してしまい、数で圧倒し普通に勝てる戦いに敗れた。これは致命的でその後亡命を余儀なくされている。彼は元々軍部出身であり、知己もあるハズの古巣にすら見限られた事実は重い。

【武力チェックポイント】
軍歴は軍曹までだが、1933年と1952年の反乱をリードし軍事クーデターを達成。軍の総司令官も経験しており、一応の軍事教養はあると思われる。

【知力チェックポイント】
ラモン大統領から入閣要請をされたが、これを短命内閣と判断し拒否している(実際当たった)。しかし全体的にツメが甘く、共産党と手を組むが議会選挙に敗北、大統領になったはいいが派閥作りに失敗し亡命など悪例に事欠かないが、革命前後、わずか2日で大統領辞任と亡命を終えた手際の良さは流石。

【政治チェックポイント】
親米政権を作る代わりに米国でのカジノ運営および亡命先の確保、国内マフィアの利益を保証する代わりに金品を受け取るなど、善悪はともかくとして交渉事には精通している。カストロ一派の処刑はリスクが高いと判断し「恩赦」の名の元に釈放するなど、ただの無能者ではない事は確か。

【魅力チェックポイント】
国民や軍、最後にはアメリカにも見捨てられている。1度は大統領選挙で勝利しているが、これも彼の裏工作あってこその勝利で、彼の実像が明らかになるにつれてそれすらも通用せず、クーデターや粛清など強硬な手段に打って出ざるを得なくなっている。

【作者から一言】
カストロが倒したキューバの大統領です。一応独裁者なのですが、統率が極端に低く、その器はありません。軍歴も軍曹どまりで、兵を指揮するような将器の才覚も乏しいでしょう。しかし、彼自らが経営するフロリダ州のカジノは大盛況だったそうで、政治力がやや高いことからわかるように、彼は国のトップより商人の方がピッタリだったに違いありません。

【列伝】
生没:1901年1月16日 - 1973年8月6日
略歴:キューバ共和国大統領
在任:1940年 - 1944年、1952年 - 1959年

 1901年にキューバのバネスで誕生。欧州系とアフリカ系の混血児(ムラート)であるとされる。高校卒業後、21年にキューバ軍に入隊。軍曹となった33年、"軍曹の反乱"を起こす。その結果、当時の臨時政府を打倒し、ラモン・グラウ・サンマルティンが9月10日、大統領に就任。その際ラモンに入閣を要請されるも、これを固辞。軍参謀総長になった。翌年の5月20日、ミゲル・マリアノ・ゴメス・アリアスが大統領に就任。今度は入閣を受諾し、国防相兼軍総司令官に就任。たちまち政権の実権を握った。この横暴にゴメスは拒否権を発動したが、バティスタはこれを利用、議会動員でゴメスを罷免し副大統領ホセを繰り上げて大統領に据えた。

 1938年になると、共産党を突如合法化し、野党連合を打倒するために自身との共闘を促す。万全の体制の選挙と思われたが、結局野党連合に大差で敗北。しかし彼は次なる手として裏工作を敢行。40年の議長選挙では第一党の真正革命党を抑え、自身の「薫陶」あるマルケス・スターリングを議長に据えることに成功。それを踏まえて同年7月には候補グラウを抑え大統領に初当選した。しかし、その直後の44年に行われた総選挙では、彼の推すカルロス・サラドリガスがグラウに敗北するという大失態を犯してしまう(現職大統領の推薦である為)。進退極まった挙句、アメリカ・フロリダ州に亡命する。

 しかしここでも虎視眈々と再起の機会を覗い、1948年のアメリカ総選挙では自由党から上院議員に立候補し当選。それを引っ提げて50年には帰国し、大統領選落選後の52年3月10日に2度目の軍事クーデターを敢行。議会選挙を無効とし、時の大統領に辞任を突きつけて亡命に追い込んだ。アメリカの後押しもあり、これで彼の支配体制は盤石かと思われた。

 だが、議会選挙の無効化で失職した弁護士のフィデル・カストロが翌年7月26日に武装蜂起。これは鎮圧せしめるも、次ぐ56年12月2日には今度は現政権を批判する運動を展開。キューバ国民の多数を味方につけてしまう。そして58年5月24日、キューバ革命が発生。カストロ一派が潜伏する農村部に軍を派遣するも、軍が職務を放棄。政府軍の敗色が濃厚となった同年12月31日、突如大統領辞任を表明。元日には航空機でドミニカ共和国へ亡命、彼の野望は潰え、失意のうちに1973年8月6日、死去。

[716] 喝食 2008/09/24 03:46

ガウタマ・シッダールタ

【統率】70
【武力】 0
【知力】99
【政治】65
【魅力】97

【特殊能力】
如来:涅槃後に知力・魅力が100に上昇
中道:思考・判断に失敗しない
法輪:布教時に統率が上昇

【統率チェックポイント】
その教えはすぐにガンジス川中流域に広まった。死後自らの遺骨を神格化することを禁じたにもかかわらず、弟子達はその遺骨を仏舎利として崇拝してしまう。その真意を完全に理解させることはできなかった。死後の分裂やインドでの仏教の衰退までを彼に帰することはできない。

【武力チェックポイント】
その出家は単に老病死苦を見知ったためだけではなく大国コーサラとの微妙な関係において反戦派であった彼が少数派になったことからとも考えられる。最古の仏典の一つであるスッタニパータからは人が戦いの反目からどのように自由になるかを追い求めていた様が窺える。

【知力チェックポイント】
なぜ人は苦しみの中で生きなければならないのか。どうすればその苦しみから解放されるのかという極限の問いについて彼以上に真理まで達した人間はいないと言ってあながち間違いではないだろう。中道という考えを最初に発見した。彼自身は人々にいかにして苦しみから解放されるかを説いたのであり、一人の人間として悟りを開いて仏陀となったのである。自らを神であると語りはしなかったし、神について語ることもなかったし。死後の世界について語ることもなかった。

【政治チェックポイント】
勢力のある宗教団の創始者としてかなりの政治力は持っていただろうが積極的に政治策を駆使していたとは考えにくい。コーサラ王ヴィドゥーダバの故郷カピラヴァストゥへの侵攻を三度思い止まらせるも四度目にはついに宿縁の止め難きを知り。制止することなく、シャカ族は徹底的に殺戮を受けた。

【魅力チェックポイント】
苦行を行った時はその師達から後継者と目される。悟りを開いたと信じた後も自らが得た知識を人々に伝えるという困難な道を選んだ。コーサラ王プラセーナジットやマガダ王ビンビサーラをはじめ多くの人に敬愛されその入滅時の人々の悲しみは多くの絵画において象徴的に表される。自身の神格化は彼の本意ではなかったがその遺骨を8つの大国の王が競って求めたという。

[717] 喝食 2008/09/24 03:47

>>716

【列伝】
ガウタマ・シッダールタ(前463〜前383)

——真理に目覚めた人——

サンスクリット語でガウタマ・シッダールタ(ガウタマは最上の牛、シッダールタは目的を達する人)、パーリ語ではゴータマ・シッダッタ。仏陀(目覚めた人)、釈迦牟尼(シャカ族の聖者)、如来=タターガタ(かくのごとく来たる人)とも。現在のネパールのルンビニーで当時の大国コーサラに従属するカピラヴァストゥのシュドーダナ王とマーヤーの間に生まれる。マーヤーは出産が原因で命を落とした。当時のインドは外来のアーリア人が現地に溶け込み商工業の発展とともにカーストが緩んできた時代であった。現地に生まれてから王子として何不自由ない暮らしを送っていた釈迦であったが飢えや病に苦しむ人々を見て苦悩した彼は結婚しラーフラという子をもうけた後に29歳で出家する。その後7年間、想像を絶する凄まじい苦行を続けた後、苦行によっても苦悩は解決せず極端な方法で悟りを開くことはできないという結論に至る。スジャータという女性から乳粥の施しを受けた彼はそのまま菩提樹の下で瞑想に入った。そして苦しみを含めこの世のあらゆるものが複雑に絡み合い繋がっているのだと考えついに瞑想の末、真理に目覚め仏陀となった。自分の悟りを人に伝えることを当初はためらったものの、考え直した彼はかつてともに修行した五比丘とサールナートで再会。苦行をやめたことを軽蔑していた五比丘だったが釈迦の姿からそのただならぬ境地を感じ、中道の教えを受けて弟子となる。これを初転法輪という。その後45年間自身の教えを人々に説き、信者は増え、祇園精舎の寄進を受けたこともあった。最晩年にはマガダ国を起ちガンジス川を渡ってマッラ国に達する。そのクシナガラの沙羅双樹の下で弟子達にみとられながら入滅。80年の生涯を終えた。

イエスとムハンマド、孔子が評価されていたので少し勇気がいりましたがやったものの、あまりに有名な人物なのに意外と知りませんでした。勘違いや修正点があればご指摘お願い致します。八百万神が存在するこの国のあいまいな宗教感が結構好きなのですがそれも取り入れた世界宗教が仏教だったことにもよるでしょうか。

宗教に多くの人が様々な強い思いを持っていることは周知の事実です。この国にいると実感がわきませんが宗教を信じていることが道徳の必要最低条件であるという国が圧倒的に多いことも胆に銘じ、その思いを傷つけたり、不快にさせることは望んでいません。言うまでも全くないことですが自分の数値など当然一面的な物、こういういい方が適切かわかりませんが空なるものです。歴史において果たした役割を考えると避けて通ることができなかったため数値化しましたが健全な(あくまでも健全な)すべての宗教に対し敬意を払いたいと思っています。偉大すぎる、信仰の対象である人物なので念のため。

[718] 2008/09/24 19:48

まだ帝國、次は諸提督を七元帥から。
フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト(黒色槍騎兵艦隊司令、“獅子の泉の七元帥”)
【統率】 81(指揮官先頭の元一糸乱れぬ突撃を敢行)
【武力】 90(帝國の“呼吸する破壊衝動”)
【知力】 44(物事の本質を見抜く眼は意外に高いがいかんせんおバカ)
【政治】 48(そんな面倒なことは知らないが要領は悪くない)
【魅力】 85(部下達からの信望は厚い)
【特殊能力】
・全艦突撃!:宣言すると1ターンの間のみ艦隊の〔攻撃力〕を[2倍]、〔機動力〕を[×50%]、〔防御力〕を[−(×25)%]する。終了後は麾下の全艦艇が混乱(〔D〕で表示。命令に対する反応が遅れる。〔回復チェック〕に成功すると〔通常状態〕、失敗すると〔大混乱〕。)する。
・“噂通り”:彼の麾下の艦隊が敗走しかけた時点で発動する。発動した場合、麾下の全艦隊が[強行突撃]をかける。発動した場合は艦隊の〔攻撃力〕を[3倍]、〔機動力〕を[2倍]、〔防御力〕を[−(×50)%]し、最も近い敵に向かって攻撃を掛ける。1ターンが終了するまで一切の命令を受け付けない。終了後は麾下の全艦艇が大混乱(〔DD〕で表示。行動に制限。回復チェックに成功しても〔混乱状態〕にしかならない・失敗した場合除去される。)する。
・強運:彼の乗艦への攻撃は命中率を[−50%]する。
・大乱闘:ラインハルトが同行しない場面でオーベルシュタインと同行した場合、〔大乱闘〕が発生する。発生するとビッテンフェルトは謹慎し一切の能力を使用できず、[ラインハルトからの召還命令]がない限り惑星外へ移動できない。謹慎は彼が本土に召還されるかラインハルトが所在惑星に移動して解除を宣言するまで状態は続く。謹慎中〔黒色槍騎兵艦隊〕が不穏化する。
・挑発:彼を対象として[挑発]が行われた場合、成功値に[(相手の知力)−48(彼の知力)]をした値を補正する。但し、上位指揮官がいる場合は無視する。

[719] 2008/09/24 19:51

>>718
【列伝】
フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト(旧帝國歴458〜)−帝國軍の勝利の象徴たる黒き猛虎−
 ローエングラム朝の軍人。黒色槍騎兵艦隊司令で後に“獅子の泉の七元帥”の一人と称される。
 彼がラインハルトの目に留まったのは大佐時代、当時ミューゼルを名乗っていた頃に彼の分艦隊の麾下に戦艦の艦長として配属され、第六次イゼルローン要塞攻略戦(宇宙暦794年/帝国暦485年10月〜12月)において非凡なる働きをみせた事による。
 やがてラインハルトは元帥に昇進し元帥府を開設、その際幕下に招かれ艦隊司令(中将)に任ぜられ、続く同盟軍の侵攻作戦における反撃作戦において同盟軍の名将ウランフ中将を戦死、更に決戦となったアムリッツア会戦においてアップルトン中将を戦死させるなど多大な武勲を挙げた。しかし功を焦ってヤンの逆撃をくらって大損害を被り、結果同盟軍を壊滅させる好機を逃がす要因を作ってしまいラインハルトよりの叱責を受ける事となった。
 のち許され艦隊を再編、リップシュタット戦役、ラグナロック作戦に出征、第一次ランテマリオ会戦においては勝負を決する突撃を敢行するなど常に高い破壊力で勝利に貢献、新帝国創設時に上級大将に任ぜられる。
 続く第二次ラグナロック作戦においては先鋒を務め、マル・アデッタ会戦に置いて勝利を決定づける働きを示すも、ヤンとの決戦となる回廊の戦いの前哨戦(新帝国歴2年4月)においては挑発に乗せられて猪突した挙げ句、同僚のファーレンハイト上級大将を戦死させる失態を犯す。しかし許されて本戦に参加、ヤン艦隊の要たるフィッシャー提督を戦死に追い込む殊勲をあげ、これがヤン暗殺の遠因となった。
 新領土紛争における第二次ランテマリオ会戦(2年11〜12月)においてはミッターマイヤー麾下の討伐舞台の一員として力戦する。“オーベルシュタインの草刈り”に同行してハイネセンに赴いた際は方針を巡って帝國軍実働部隊を愚弄した(とビッテンフェルトは捉えた)オーベルシュタインに暴行を加えるという大椿事を起こして謹慎、許されて最終決戦となったシヴァ星域会戦(3年5〜6月)に参加し、革命軍の重鎮足るメルカッツ提督を戦死させる武勲を挙げ終戦を迎える。
 後にラインハルトの遺言によってヒルダから元帥に任ぜられ、生き残った同僚らと共に“(皇居の在する地の名を取って)獅子の泉(ルーヴェンブルン)の七元帥”の一人として重きを成すことになるが、平和な時代にはその身をさぞや持て余すことだろう。

 彼の用兵は何より攻撃力と破壊力において勝り、その特性から最終局面にあってとどめを刺す役割を与えられ、その稀代に違わぬ比類なき武勲を挙げてきた。また彼の代名詞である“黒色槍騎兵艦隊(シュワルツ・ランツェンレイター)”はその名の通り麾下の全ての艦艇が黒一色に塗装され、旗艦[王虎(ケーニヒス・ティーゲル、この船は戦争中苛烈な任務の中でただの一度とて被弾しなかった無類の強運艦としても知られている)]を先頭に立ちふさがる敵を粉砕する、その黒き奔流は帝國軍の勝利の象徴として敵に恐れられてきた。ただしその特性上守勢に弱く、ヤンにしばしば苦杯をなめてきたが、それでもこの艦隊の前に立ちふさがりその攻勢を防ぎ得たのはかの魔術師くらいしかおらず、常に受けた損害以上の戦果を揚げ続ける事でその名を全宇宙に轟かせた。
 彼はいわゆる“猛将”であり、戦術能力に優れているが、戦略的感性においてもけして劣るものでなく、しばしば物事の本質を衝く発言を行うことで皆を驚かせている。
 艦隊首脳部も彼に似た猪武者が多く、例外は副参謀長のオイゲン少将くらいで、将兵達からも慕われており、彼が謹慎させられていたおりにはオーベルシュタインに対する不満を募らせ、遂には彼の麾下の憲兵隊と大乱闘事件(後に[ダウディング街騒乱事件]と呼ばれる)を起こすに至った。

[720] 2008/09/24 19:52

>>719続き、
 性格は短気で頸烈、口は悪いが邪気はなく、カラッとした性格で“ガキ大将がそのまま大人になった”様な陽性の性格から同僚や将兵からもあきれられつつも慕われている。ただし部下からは”怒ると味方でも撃つ”と思われていて、その事が第二次ランテマリオ会戦において味方の潰走を防いだ事もある。それでいて、先に挙げたように“物事の核心を突くような発言”をして周囲を驚かせたり、ヤンを挑発する文章を発して“喧嘩を高値で売り付ける才能がある”等と奇妙な関心をされたり、“戦闘で最も功績を挙げた部隊”として病院船を挙げてその役割を再認識させたりと、単なる好戦的な単細胞でないしたたかな一面をみせることもある。
 またオーベルシュタインとの不仲はつとに有名で、かの大椿事も“起こるべくして起きた”と評されている。
 ラインハルトに対しては熱狂的なまでに崇拝していて、曰く“彼の前では虎が借りてきた猫になる”とのもっぱらの噂である。
 なを芸術的なものに対する才能・感性は皆無であり、かの“ラインハルトの芸術の秋”に際して彼も動員されたが、彼を古典バレエの鑑賞会に同伴させたことは“皇帝の人事の失敗”扱いされているほどである。また“ルビンスキーの火祭り”において火災に巻き込まれた、(既に皇帝病によって動くこともままならぬ)ラインハルトを救うのに必死で、結局彼を救い得たものの宿泊先のハイネセン国立美術館に収蔵された貴重な芸術品の大半を消失せしめてしまい、同僚で“芸術家提督”として名高いメックリンガー上級大将などは功を認めつつも苦言を呈している。

 彼はその能力からして独立して行動させるより、原作の通り本隊所属にして最終局面などに投入して雌雄を決する役割を果たすことになります。特殊能力からしてそうですし(この能力はナポレオニックゲームなどでみられる“騎兵ルール”を参照にしました。)、[挑発]に乗りやすいので尚更です。また“噂通り”はボードゲーム版の設定を参照しましたが、一部“独ソ戦ゲームのコミッサール”ルールを混ぜました。彼と対戦する場合はその狂的な戦闘力に驚愕することでしょう。
 オーベルシュタインの仲は最悪なので、間違っても二人連れにする等という面白いことをしてはいけません。収拾がつかなくなります。好きこのんで“乱闘が見たい”のでしたら別ですが…
 あと、あの“皆殺しの田中”とまで恐れられる作者の魔の手をかいくぐり(“殺すつもりだったが生き残ってしまった…”との言)、遂に最後まで生き残った事に敬意を表して特殊能力[強運]を付けました。

[721] ハーン 2008/09/25 00:56


>>690
 ここまで、世俗君主とドンパチした教皇も珍しいですよね。お前、絶対にイタリア統一のために教皇になっただろ、て気分です。
 親子揃ってロクデナシなのが印象的ですよね。

>>695
 私の場合は「喪中の軍は討てん」とか訳の分からないことを言って、途中で戦いをやめて帰ったのは「こいつ正気か?」と思いましたね。
 ロイエンタールも反乱を起こす時、ラングとかオーベルシュタイン云々よりも、これを大義名分に掲げればいいと思ったほどです。

 ミッターマイヤーはこんなところですよね。常識的なのが、異彩を放つんですから、他の二人と皇帝がいかに変人なのか分かろうものです。

>>703
 この姉妹の反乱が成功していたら、史上最強の女将軍の名は不動だったんですけどね。
 相手が光武帝じゃ仕方ないか。

>>706
 彼の反乱については、かなりの部分、意味不明ですよね。
 反乱の必然性が大してない上に、計画的じゃありません。実は作者がうっかり構成をミスって、伏線を回収するため、どうにかして反乱を起こさせたんじゃないかと思ったほどです。

>>711
 銀英伝屈指の個性的なキャラですよね。目的を達するために至極当然のことをしている分、ヤンよりも高い知力をもっているというのにも納得です。

>>714
 大昔にアニメを見たきりなので、少なくとも私には無理ですね。=
698

>>715
 カストロ議長にやられたあの人ですね。
 前にカストロの伝記を読みましたが、やけに小物っぽく描かれていたのを憶えています(カストロの伝記だから当然だが)。
 あと、某ゲームでは結構苦労したラスボスでした。

>>716
 王族で、しかもこれだけの大人物なのに生年さえよく分からないのが、インドらしいといえばインドらしいですよね。百年もずれると、当時の思想界も相当違っているんじゃ、と思いました。
 解釈はこんなところでいいのでは? 当の仏教でさえ、様々な宗派があるんですから。

>>718
 ビッテンフェルトは三元帥に次いで、キャラが立ってますよね。彼がオーベルシュタインの葬式でどんな悼辞を読んだか、見てみたいですね。

 このスレは一応、世界史上の人物の数値化スレですので、さすがに銀河英雄伝説のキャラだけを連続で投稿するのはどうかと思います。スレの趣旨に反すると思われるので、自重したほうがよろしいかと(さすがに同一人物が十人近く連続で、架空の人物を投稿した例はありません)。
 何回かに一度、史実の人物を入れるなどして、バランスをとってはどうでしょう?

[722] ハーン 2008/09/25 00:56

 カイドゥ

 (? - 1301年)

統率……63 小勢力から中央ユーラシア一帯の支配者にまでなった。だが、彼の体制はあまり強固ではなく、死後に手下であったはずのドゥアにさっさと乗っ取られている。

武力……62 当時の彼の勢力が小さいこともあってバラクにいきなり敗北しており、その後も分裂したはずのチャガタイ一族の平定にかなり時間がかかっていることから、同情の余地もあるとはいえ、名将ではありません。アントンとノムガンがシリギの裏切りにあわなければ彼の中央ユーラシアの勢力はさっさと潰されていたでしょう。東方三王家が反乱を起こした際にかなり有利な情勢にも関わらず、バヤンの固めているカラコルムを抜くことが出来ませんでした。それに、さすがにフビライの死後、多方面に振り分けていた兵力を一方向に叩きつけられると敗退しているので、こんなものでしょう。

知力……88 小さな勢力から身を起こし、知力の高いフビライを相手に取り込まれず、東西に強力な敵を抱えながら中央ユーラシアに自分の帝国を作り上げました。彼自身の率いる勢力が周囲と比べると劣っていることから、積極的に動くことは少ないのですが、好機は決して見逃さず、バラクの没落、シリギの裏切りに際しては積極的に攻勢に出て勢力を拡大しました。東方三王家の反乱では好機を生かせませんでしたが、それは武力がそれほど高くないからです。

政治……40 内政面に見るべきところはありませんが、極端な悪政を敷いていたわけでもないようです。フビライが死ぬと多くの亡命者が元に戻っていったことから、利害の調整に優れていたとは思われない。カイドゥやアバカによって破壊された各都市が復興しているのはマスウード・ベクとその一門の手腕に帰しておきましょう。

魅力……70 武勇に優れ、高潔、人望の厚い人物であったという。反フビライということであぶれた勢力をまとめていたということもあり、フビライの死後は元への投降者が相次いだ。

列伝 オゴダイ家の亡霊
 チンギス・ハーンの三男オゴダイの五男カシの子。
 オゴダイ死後の勢力争いで、弾圧されていたオゴダイ一門の傍流だったが、モンケ死後のフビライ・アリクブカ間の争いに乗じて、オゴダイ一門を掌握。フビライからの入朝要請を拒否して、フビライに従わない意向を示す。
 この手の分離現象は当時のモンゴル帝国では流行っていたらしく、フビライに派遣されたはずのバラクでさえ、勝手にチャガタイ一門の当主に納まって、好き勝手をしていた。このバラクとは領土を巡って対立していたが、ジョチ一門の助力で講和。いわゆるタラス会盟によってマーワラーアンナフル一帯の権益をバラク、カイドゥ、ジョチ一門の三者でおのおの分割することが決められる。
 とはいっても、一時しのぎの講和であることは変わりなく、バラクがイル・ハン攻めに失敗して戻ってくると、すかさず攻め立ててバラクを亡き者にして、チャガタイ一門の乗っ取りを目論む。十年以上の戦いの末、何とかドゥアを傀儡にして、チャガタイ一門を自分の勢力化においてしまう。
 チャガタイ家と戦っている間に、元からフビライの息子ノムガンの率いる遠征軍が派遣されるが、裏切りによって瓦解したため、カイドゥは九死に一生をえる。これらの成功によって、カイドゥは広大な領土を得ることに成功する。
 だが、さすがに大勢力の元との直接対決は避けようとしており、東方三王家の反乱といった好機がなければ、積極的に攻めるようなことはしなかった。
 フビライの死後は元の政権安定によって、次第に貴族たちが元に行ってしまう。このままでは先細りになると判断し、元との決戦に打って出る。しかし、カラコルムの戦い、タミールの戦いのいずれにも元軍に敗退し、その時に負った傷が元で死去。ヴァッサーフ史によると、勝った後に傷が悪化して死んだとも言われている。
 彼の死後、傀儡であったドゥアはカイドゥ死後の後継者争いを利用して、勢力を拡大して独立。最終的にオゴダイ家を併合してしまうことになる。

 知力と魅力の高い革命家タイプです。高い知力で好機を見逃さず、人を集められますから、情勢次第では大きな進展があるでしょう。
 しかし、政治が低いので、政治の高い配下のフォローが必要です。また、武力も極端に高いわけではないので、上手く補う必要があるでしょう。

 モンゴル帝国の混乱期に勢力を拡大した梟雄。マジでフビライにとって変わる気があったかは分からないが、前後の状況を見ると生き残りに必死だったんだろうと思われ、そんな余裕があったか否かは怪しい。
 恐らく、中央アジアに自分の王国を作るのが、基本的な目標だったのだろう。

[723] 喝食 2008/09/25 03:04

>>720 因さん
銀英伝は好きな作品ですので非常に楽しく拝見させていただいていました。列伝や数値などからも熱意と知識が伝わりました。しかし自分も銀英伝の人物が続くことを少し残念に思っていました。多様な時代や作品の評価を見たいと思うからです。好みもありますが作品中の銀河の歴史だけでなく史実の人物の評価も拝見したく思います。

>>721 ハーンさん
あ、そう言えば生没年に?をつけるのを忘れていました。

>>717
失礼しました。(前463〜前383)を(前463?〜前383?)に訂正します。

とかいいつつすでにやってしまっていたので投稿・・・。

クマムシ

【統率】 2
【武力】 1
【知力】 1
【政治】 0
【魅力】10

【統率チェックポイント】
生物として広く地球上に分布。個体での生育に特に問題なし。

【武力チェックポイント】
ゼロに限りなく近い。他の動植物の体液や有機堆積物をエサとする。

【知力チェックポイント】
脳みそはない。

【政治チェックポイント】
考慮の余地なし。

【魅力チェックポイント】
不思議な生き物が好きな人達に人気。

【特殊能力】
クリプトビオシス:対環境面において生命力が99に上昇。

——地球最強の生物——

体長50μmから1.7mm。生物界37門のうちこの生物だけで緩歩動物門を構成する。緩歩動物門は昆虫やカニなどの節足動物門に近い。北極から熱帯まで世界中に広く分布し、深海や温泉の中にも生息している。環境が極端に悪化するとクマムシは体内の水分を3%以下まで低下させ代謝を極限まで抑制。クリプトビオシスと呼ばれる樽型(tun状態)に変化し極めて強力な環境耐性を得る。水分のない状態で100年以上生存可能でほぼ絶対零度の−273℃から151℃まで生存可能。人の致死量が500レントゲンに対し50万レントゲンのX線を浴びても死ぬことはない。600メガパスカルの高圧でも90%以上が生き残った。また真空状態でもしばらく生存ができることが確認されている。

生物シリーズやってみました。とても小さく、そこら辺にウジャウジャいるらしいのですが各種数値が無茶に高いなかなか楽しい生き物です。

[724] 2008/09/25 21:10

[ハーン]さん、[喝食]さん、配慮が足らずに大変失礼しました。実在の人物でも何人か評価に挑戦してみたい方もいるんですがまだ選定できてなくて(『銀英伝』の方は書き置きしているためかなり早い)。今しばらくお待ち下さい。

 今しばらく『銀英伝』、まだ帝國、2人目は既に既出だが、
ナイトハルト・ミュラー(“鉄壁ミュラー”、“獅子の泉の七元帥”)
【統率】 88(“鉄壁”と称される粘りが信条)
【武力】 84(失敗もあるが着実に手腕を磨く)
【知力】 66(破綻なき穏和な人柄)
【政治】 62(諸将中最年少ながらミッターマイヤーに“後任を任せうる”人材として評価)
【魅力】 86(口さがない敵からさえも信頼された)
【特殊能力】
・鉄壁:宣言すると3ターンの間艦隊の〔攻撃力〕を[+20%]、〔防御力〕を[×2倍]、〔機動力〕を[−10%]する。
・不退転の決意:彼の乗艦が撃沈されても、自動的に他の艦に移乗して指揮を執る。
・“フォーカス!”:彼をPCとして使用している場合、[見る]コマンドを使用すると様々な“ネタ”を発見する確立が〔×2倍〕。

【列伝】
ナイトハルト・ミュラー(旧帝國歴461〜)−敵さえも感服させる“鉄壁”−
 ローエングラム朝の軍人。“鉄壁”と称され後に“獅子の泉の七元帥”の一人に数えられる提督。
 彼がラインハルトとの知遇を得た時期は不明で、一説には彼が一艦長時代に従事した隠密任務において情報面で的確なサポートを行ったことによるとされる。ラインハルトが元帥府を開設した時点では諸提督の列には名がなく、正式に陣営に加わったのは宇宙艦隊司令長官に昇進し、全艦隊に対する指揮権を有してからである。
 リップシュタット戦役後大将に昇進、第八次イゼルローン要塞攻略戦において副将として参加するも作戦は失敗、主将であるケンプを始めとする参加兵力の実に9割を喪失し、自身も重傷を負うも責任を果たすべく厳罰覚悟でラインハルトに謁見、責任無しと処断されるとその場で気絶し3ヶ月間の入院を余儀なくされる。
 復帰してラグナロック作戦に参加、バーミリオン会戦においては諸提督に先駆けてラインハルト本隊の元に到着し奮戦、激戦の中で旗艦リューベックを撃沈されるとノイシュタット、その後オッフェンブルク、ヘルテンと次々に乗艦を代えつつ不退転の決意で戦い抜き、遂にラインハルトの危機を救った事で、“鉄壁ミュラー(ミュラー・デア・アイゼルンウォンド)”と称されることになる。
 新帝国で上級大将に昇進、先の戦功によって上級大将の首席として扱われ、新王朝において初めて竣工した最新鋭旗艦であるパーツィバルを下賜される栄誉にも預かった。
 その後第二次ラグナロック作戦に参加、マル・アデッタ会戦、回廊の戦いに参戦、ヤン・ウェンリー死後に弔問の使者としてイゼルローン要塞を訪問し、ユリアンらと知遇を得る。ウルヴァシー事件においては皇帝随行員として事件に遭遇し、負傷しながら皇帝を護り抜き、“オーベルシュタインの草刈り”においてはオーベルシュタインに同行し、ビッテンフェルトの暴行事件に際して処分が軽くなるよう奔走、シヴァ星域会戦では本隊にあって護りにつき終戦を迎える。
 後にラインハルトの遺言によってヒルダから元帥に任ぜられ、生き残った同僚らと共に“(皇居の在する地の名を取って)獅子の泉(ルーヴェンブルン)の七元帥”の一人として重きを成すことになる。

[725] 2008/09/25 21:10

>>724続き
 彼は諸将の中では最年少であり初期は諸将に経歴で及ばないとされた。第八次イゼルローン要塞攻略戦においてケンプの副将に任ぜられたのはその為で、実際ヤン不在の情報を掴みつつも情報を生かす機会を与えられず、奮戦するも客将のメルカッツや帰還したヤンに翻弄されるなど未熟な面が見られた。その時点で自ら(の才幹)がヤンに及ばない事を自覚して研鑽を重ね、遂にバーミリオン会戦で一矢報いヤンをして“良将”と讃えられるに成長した。攻勢における剽悍さもさることながら難局に強く、事に防御戦で卓越した手腕をみせ“鉄壁”の異名をもって知られる存在である。
 また時を重ねるに連れ器量を増し、後にミッターマイヤーに“後任(の宇宙艦隊司令長官)を任せても問題ない”とまで言わしめる程となった。

 性格は穏和で篤実、その誠実な人柄は味方のみか、彼の敵で毒舌を持ってならすヤン艦隊の面々にさえ“信頼できる人物”と評され、“ヤンの崇拝者”たるユリアン・ミンツに「もし帝國に生まれたのならミュラーのように軍人になりたい」と思わせたほどである。
 女性関係としては“中尉時代に手酷い失恋をした”という噂があり、“オーベルシュタインの犬”“アイゼナッハが喋った!”“ビッテンフェルト御乱行”などの同僚のゴシップネタによくよく巡り会う奇妙な運もある。
 また芸術的感性は余りなく、“ラインハルトの芸術の秋”においては“聴いてもわかるはずのない前衛音楽”を拝聴せねばならぬ羽目になり、「いっそ戦争の方がマシ」とぼやいたが後日ロイエンタールの叛乱という形で実現してしまい、軽率な発言に思い出しては憮然としたという。

 [ガーリックトースト73%]さんの評価に比べてかなり“甘い”数値がつきました。どちらかとすれば“小ミッターマイヤー”的な数値で、後任としては何の問題もないでしょう。
 [フォーカス!]は冗談ですが、いかにも同人誌で“出刃亀”あるいは“不幸な目にばかり遭っている”との評判のミュラーらしい、気苦労の多い話です。

[726] 片田舎の偏屈士 2008/09/26 19:43

ジャムカ
? - 1205年

【統率】60
過去の栄光から程遠い落ちぶれた身から成り上がり、一時は若き英傑として勢力を築く。また、反チンギス・ハーン勢力に取り入って戦争を仕掛けさせるなど暗躍をした。
【武力】38
若き日のチンギス・ハーンを十三翼の戦いで破るが、この時点では戦力差と士気の違いが大きく、その後、メルキト勝負を挑んで敗れるだけではなく捕虜になっているのは大きくマイナス。取り入った勢力の元でも勝利に導くことも出来ないことから、それほど戦上手とは思えない。
【知力】59
チンギス・ハーンと並ぶことが出来ないと悟ると決別して対立。反チンギスの立場で何度も何度もその前に立ちはだかるが、それと同じくらいの敗北を重ねてしまう。考え出す策も綿密に見えていて穴があるため、直前で見破られてしまっている。
【政治】83
乏しい魅力でよくもまあ何度も雇い入れてくれる人がいるのだと感心すらしてしまうが、それは他者に取り入り策謀を張り巡らせる能力がジャムカに備わっていたからに他ならない。ただ、ジャムカがチンギス最大のライバルと言われるわりには用いる策のほとんどが失敗に終わっている。
【魅力】20
成り上がり故に、お世辞にも人を惹きつけるものは策謀以外何も持っていない。十三翼の戦い後の捕虜に対する釜茹でが無かったとしても、何らかの理由で人が離れていったことには変わりがない。最後は残された部下に裏切られてしまったこともマイナス。チンギス・ハーンは若き日の友として扱ったので、その点だけはプラス。

[727] 片田舎の偏屈士 2008/09/26 19:50

——覇王の宿敵(とも)——

ジャダラン部は周辺諸国の史書に名が見られるほど、かつては強大な部族であったが、その後衰退してジャムカの代にはモンゴル部に取り込まれるまで落ちぶれてしまっていた。
モンゴル部の中で血筋は劣るジャムカだったが、才能にあふれ、切れ者という評価で頭角を現していくようになると、ケレイトの王トオリルもその話を聞き、彼が保護していたテムジンに引き合わせる。
幼い頃に盟友(アンダ)の誓いを行った間柄であった二人はその誓い再確認するが、次第に青年として育った二人の差異(血筋と性格)を感じ取ったジャムカがテムジンから距離を置くことになる。
そしてジャムカの一族の者がテムジンの配下の家畜を略奪しようとして殺害される事件が起こり、その関係は完全に決壊してしまうと、テムジンの属するキヤト氏と対立するタイチウト氏と同盟して攻撃。この十三翼の戦いと呼ばれるこの戦いはジャムカ側が勝利したと言われるが、捕虜に対する釜茹での処刑により人望を失ってしまう。
敗北したテムジンが逆に強大化し、ケレイトと同盟してモンゴル平原の西方での地位を確立するのを見ていたジャムカは焦りのあまりメルキトに戦いを挑んで敗北し、一時は捕虜になってしまうが、釈放された後、危機を募らせた東方諸部族の反ケレイト・テムジン同盟の盟主に推挙される。
グル・ハンと称して戦争の準備を整えるが、同盟に加わっていた妻ボルテの実家からの密報を受けたテムジンにコイテンでの戦いを終始優勢に進められて大敗。自らの部族を失ったジャムカは、密かにトオリルの元へと身を寄せ、その息子でテムジンと不仲であったイルカ・セングンと手を結んでテムジンの暗殺を計画するが、ケレイトに仕えていた馬丁の密告、あからさまな誘い込みといった稚拙なモノで失敗に終わる。
だが、トオリルとテムジンの離間には成功し、一時はテムジンを追い詰めるが、苦境の中から体勢を整えたテムジンに逆襲され敗北。
逃走したジャムカは西方最後の勢力ナイマンに身を寄せ、王のタヤン・ハンを扇動してテムジンと戦うが、タヤンの器量の無さに失望し、いたずらにタヤンを怖がらせるようなモンゴル部族への賛美を口にして大敗へと導かせた。
最後はメルキトへと逃げ延びるが、メルキトもテムジンの前にあえなく滅ぼされた後、残った部下に見限られてテムジンの元へと送られ、助命を持ちかけられるもこれを拒否し、血を流さないを大地に流さないように袋に包んで馬に踏ませるという処刑法である「貴人の死」を受けて死んだ。

[728] 片田舎の偏屈士 2008/09/26 20:18

う〜ん、初期チンギス・ハーンのライバルとして有名ですが、世界史上最弱のライバルと言ってもよいくらいです。もっと低くい評価も可です。

やることなすことダメだった君主というとジョン(イングランド王)がいますが、ジョンの場合はリチャードの負の遺産があるというハンデがあります。
ですが、ジャムカの場合は才能で伸し上がったわりに、上の立場になった途端にダメになってしまいます。短絡的で先見の明がないことが災いしたのでしょうか・・・・・・?

自分が仕切らないとダメな性格なので、周りが上に立たせたくはないと思っていても、上に立っちゃっています。目の届くところで満足いく職に当てておくのが無難でしょうか。いや、扱いづらい・・・・・・

>>703
昔からベトナムは中華に弓引く存在。その後も何度も退かせていることから、この二人も可能だったのかなぁ・・・・・・と思ってしまいます。

>>715
カストロを擁護するとかはないのですが、この人が上に立ったらダメでしょ、っと思わせる政治家です。

>>716
お疲れ様です。宗教・文化係では自分は知識人をちょこちょことやっているので、評価しづらいでので苦労がしのばれます。
その後の仏教がブッダの考えと乖離したのは、彼のせいではなく、広めた人と、普及された地域の問題でしょう。

>>722
ジャムカを評価していたところだったので、タイムリーな感覚。
カイドゥの娘で勇猛な女戦士の名前ってなんでしたっけ?

[729] 2008/09/26 21:14

 “『銀英伝』ばかりでなく実在の人物もやるべき”とのご指摘を受けましたのでそれではと。
 以前栗林忠道中将を取り上げた方がいらっしゃったので私はこの人物を採り上げてみます。
・宮崎繁三郎(日本陸軍第2師団第16連隊連隊長、第31師団歩兵団長、第54師団長、瀬戸物屋[岐阜屋]店主)
【統率】 82(“旧軍最優良の野戦指揮官”)
【武力】 86(ことに防衛戦での手腕は名人級)
【知力】 72(インパ−ル戦での故事はこの人の人間性を物語る)
【政治】 57(情報端出身の割にこの方面は苦手な面もあるがノモンハンでの配慮は見事)
【魅力】 86(“戦後インパール戦の生存者は牟田口の名を聞くだけで怒りに肩を振るわせ、宮崎の名を聞くだけで怒りを鎮める”)
【特殊能力】
・防衛戦の名手:〔防衛戦〕を宣言すると麾下の部隊の〔戦力〕が[+30%]、〔機動力〕が[+20%]。

・宮崎繁三郎(明治25(1892)〜昭和40(1965)年)−旧軍最優良の野戦指揮官にして“旧軍の良心”−
 旧日本陸軍の指揮官。陸士第26期、陸第第36期卒。最終階級は中将。
 明治25年、岐阜県岐阜市生まれ。岐阜中学(現:県立岐阜高等学校)卒業後、軍人の道を歩む。学生時代は特に目立つ成績ではなく、中位で卒業する。
 彼の名を一躍知らしめたのはノモンハン事件(昭和14(1939)5〜9月)における活躍で、陸軍第2師団第16連隊(編成地:新発田)連隊長(大佐)として参戦、高地攻防戦でソ連軍を撃退、同戦闘における“唯一の勝利部隊の指揮官”として(多分に宣伝的意味もあったが)武名を轟かせたがそれ以上に彼の名を有名にしたのがその後の配慮で、彼は部隊の中の石工の心得のあるものを集め石に日付と部隊名を刻ませると土に埋め、それを領土交渉の席で持ち出すことで交渉を有利に進め、流石のソ連交渉団もぐうの音も出なかったと伝えられる。
 後に第31師団(師団長:佐藤幸徳)に歩兵団長(少将)として配属、運命のインパール作戦に参加する。彼は率先して荷物を背負って峻険なアラカン山脈を進軍、要衝コヒマ占領を指揮し市域の過半を制圧した。しかし無謀で無計画な作戦は破綻し補給は断たれて孤立、遂に師団長が独断で撤退を実施すると彼の部隊が殿軍として撤退戦を指揮、目まぐるしく砲を移動させ巧みに英軍をくい止めつつ味方に撤退する時間を与えた。更にこの戦いにおいて、彼は味方の負傷者は一人として戦場に残さないとの信念の元、補給を断たれて餓え、部隊から落伍した他部隊の将兵を見つける度に遺体は埋葬し、まだ息のある者は収容させ、自らも負傷者の担架を運び、食べ物が欲しいと言えば自分の分まで分け与えるなどして多くの将兵を救い続け、日本軍の将兵の死体で埋まり後に“白骨街道”とまで称された地獄の後退戦を繰り広げたのである。この撤退時の行動は彼の名を単なる名将として以上に、人格者として理性的軍人として不朽のものにしたのだった。
 その後第54師団長(中将)に就き第28軍に所属、軍司令桜井省三(中将)麾下の元ビルマ防衛戦に従事、第15軍、第33軍が相次いで壊滅しビルマ防衛が破綻に瀕してもなお巧みな指揮で英軍を苦しめるも、上級部隊であるビルマ方面軍司令木村兵太郎(大将)が指揮を投げ出して逃亡してしまい敵中に孤立、終戦を迎える。戦後捕虜になったが指揮官としての義務を放棄することなく、部下達が不当な扱いを受けたときは体を張って守り続けたと伝えられる。
 帰国後は一切の売名行為を慎み下北沢駅前に瀬戸物屋[岐阜屋]を開店、その店主として清廉な生涯を終えたという。なを今際の際に際して見舞いに来たかつての部下に「敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?」と何度もうわごとでつぶやき続けたと伝えられている。

 活躍したのがノモンハンとインパールという“旧軍の愚行そのもの”として語られる戦場ばかりであることから一般的な知名度は低いものの、その戦歴から“旧軍最優良の野戦指揮官”との評価が高い。“他部隊に対する配慮が足らない”“戦いを求めすぎる”との酷評もあるが旧軍屈指の名将として挙げられる人物である。更に人格者としても賞賛され、特にインパール作戦における“日本軍の良心”と呼ぶべき彼の行動は同作戦を指導(実際には“安全な後方で芸者遊びしていた”だけだが)した牟田口廉也と対比して挙げられ、同作戦に参加し生還した将兵からは牟田口の名を口にするたび、一様に怒りで口を震わせ、宮崎の名を口にするたび、一様にその怒りを鎮めたという。

 些か思い入れの強い人物なだけにかなり甘い数字になってしまいました。前線指揮官としては申し分ありませんし、【知力】も高いので非道なこともしないでしょう。安心して任せられる逸材です。

[730] 2008/09/26 21:33

 まだ帝國、3人目はこの人。
アウグスト・ザムエル・ワーレン(隻腕の勇将、“獅子の泉の七元帥”)
【統率】 80(補佐役として重きを成す)
【武力】 85(派手さはないが的確な指揮で勝利に貢献)
【知力】 61(温厚な紳士然とした人物だが敗北に囚われない精神的強さも持ち合わせている)
【政治】 55(健全な思考の持ち主)
【魅力】 81(けして堅苦しい人物ではなく気さくな面も好かれていた)
【特殊能力】

【列伝】
アウグスト・ザムエル・ワーレン(旧帝國歴458〜)−隻腕の勇者−
 ローエングラム朝の軍人。“獅子の泉の七元帥”の一人に数えられる提督。
 彼がラインハルトとの知遇を得た時期は彼が巡航艦々長時代に副長として赴任したことに始まり、“独創性はないが与えられた命令を確実にこなす能力の持ち主”と評している。
 487年ラインハルトの元帥府開設時に艦隊指揮官(中将)として迎えられ、同盟軍の帝國領侵攻作戦で活躍、決戦となったアムッリツァ会戦においてはキルヒアイス麾下の別働隊として勝利に貢献する。
 続くリップシュタット戦役においてもキルヒアイス麾下の別働隊として辺境地域の宣撫に務め、リッテンハイム候との決戦であるキフォイザー星域会戦においては本隊として活躍、戦役後大将に昇進する。
 ラグナロック作戦においては本隊付として参加、第一次ランテマリオ会戦において活躍するも、タッシリ星系会戦においてヤンの機略に嵌り敗北を喫する。
 新帝国創立時に上級大将に昇進、キュンメル事件に端を発した地球教討伐において“先の敗戦の汚名返上の機会”として討伐部隊の指揮官に任ぜられるも地球教徒のテロに遭い、そのときの傷が元で左手を切断する羽目となり以降義手を着用する。なをその際に“教団に捕らえられたフェザーン独立商人”を騙ったユリアン・ミンツ一行とそれとは知らずに対面する。
 負傷療養のために第二次ラグナロック作戦における同盟領侵攻には不参加、ヤンにイゼルローン要塞を奪取された上にシルヴァーベルヒ工部尚書爆殺事件に巻き込まれて負傷したルッツに代わって本隊に合流すべくフェザーンを進発するも戦闘には間に合わず帰投した。
 新領土紛争における第二次ランテマリオ会戦においてはミッターマイヤー麾下の討伐部隊の一員として力戦し、戦後は旧同盟領に留まり治安維持に務める。
 第11次イゼルローン要塞攻防戦(宇宙暦801年/新帝国暦3年2月)に参加するも連携ミスによって敗戦、艦隊の損耗が大きかったのでシヴァ星域会戦には参加せずハイネセンで終戦を迎える。
  後にラインハルトの遺言によってヒルダから元帥に任ぜられ、生き残った同僚らと共に“(皇居の在する地の名を取って)獅子の泉(ルーヴェンブルン)の七元帥”の一人として重きを成すことになる。

 ヤン・ウェンリー、ユリアン・ミンツの両名に敗北した唯一の将帥ではあるが、本来は堅実な手腕で戦術能力には定評があり、キルヒアイス・ミッターマイヤーの副将としてこれをよく補佐した。
 普段は穏和で話の判る紳士であるがいざというときの剛胆さには定評があり、第二次ランテマリオ会戦においては旗艦[火龍(サラマンドル)]が被弾、艦橋にまで被害が及びテロに遭って失った左手の代わりに付けられた義手が吹き飛ばされながらも、うろたえる部下を叱責しながら戦闘を続行した逸話や、ダウディング街騒乱事件において武器を片手ににらみ合う黒色槍騎兵艦隊将兵と憲兵隊(その数双方一個連隊規模)の間に装甲車で割って入ると車の砲塔にブラスター片手に腰掛け、両軍兵士が激発しようとする度に睨み付け遂に衝突を阻止した逸話などその胆力の大きさが伺いしれる。またヤンに手痛い敗北を喫しながらも“この次は負けない”と精神的再建を果たせるだけの度量と克究心もあり、器の大きい人物である。
 帝國諸将の例に漏れず芸術的感性は余りなく、“ラインハルトの芸術の秋”においては自分の番が回ってくる前に“芸術家”として知られるメックリンガー上級大将と何とか任務を代われないものかと(後方総司令官の任を代わればフェザーンを離れられ皇帝に付き合わずに済む)日頃の剛胆さはどこへやら、戦々恐々としていたという。

 結婚歴はあるが妻は一子を産む際難産で死亡、子供を自分の親に預けており中々会えないのを気にかけており時々写真を眺めることがある。

 有力どころには流石に劣りますが手堅い能力の持ち主で、どんな場面でも重宝し使い勝手のいい提督です。
 【特殊能力】が思い当たらなかったのでちょっと寂しい表となってしまいましたが、もし少し飾ってやろうと思ったキトクな方は彼の【特殊能力】に、“左手に[ロ○ット○ンチ]”でも、“[サイ○ガン]”でも、“[マジッ○ハ○ド(∪←こういうヤツ)]”でも付けてあげて下さい。

[731] ガーリックトースト73% 2008/09/26 21:33

平将門 (たいらの まさかど)

【統率】82
【武力】96
【知力】15
【政治】37
【魅力】90

【特殊能力】一喝 鼓舞 挑発
奇襲:初見の敵部隊に対して使うと必ず混乱
火計:焼き打ち・火攻の成功率が上昇
僭称:一門衆・譜代家臣の忠誠が100になるが、同時に「朝敵」の効果が生涯に渡り永続。
朝敵:全敵部隊の士気が100になり、死後魅力-50。 ※強制発動

【統率チェックポイント】
関東一円を支配し、朝廷への反抗心から独自に官吏を置き、独立国家さながらの統治を確立。太守を領地に派遣せず、代理長官を立てて新皇直轄地として全土を収攬せんとした。しかし承平天慶の乱では配下の武将による独断専行を許してしまい、結果無駄に兵を消耗した。

【武力チェックポイント】
同時代でも3本の指に入るであろう、卓越した戦術家。数において3倍も4倍もする敵を打ち負かし、時にはわずか100騎のみで圧倒的多数の連合軍を掻き回し、最期の決戦では寡兵400騎で突撃、敵側に2900騎の損害を出すなど、もはや神懸かりの域。実際関東一円の影響力は彼の武威による功績が全てである。

【知力チェックポイント】
気性激しく短絡的な行動も多い、典型的な猪武者。叔父と女性のあり方について大喧嘩した結果殺し合いに発展。教養も少なからず欠如しており、「介(のすけ)」と「守(のかみ)」の違いも理解できない程と言われる。周囲に担ぎあげられた印象もあるので一概には言えないが、まず将来に対する展望などあったら新皇僭称など反発を招くだけであることくらい認識できようもの。

【政治チェックポイント】
民衆が悪政を嘆いたと伝えられる程の政治下手である一方、叔父・良兼との戦いの際、一部の包囲を敢えて解いて良兼を逃亡させ、度量の違いを内外に示した上で自らの正当性を認めさせるなど、政治的な駆け引きに無頓着ではない。調停仲介にも乗り出し、戦争中だった興世王と武蔵武芝の2人を会見させて一時的とはいえ和解させた実績もある。

【魅力チェックポイント】
後世の暴君のような評価もあるが、実像は激情家ながらも慈悲深い人物であったようで、爪弾き者の代弁者として彼らを庇護したり、将門の家族の遺影を掲げて攻め込もうとした叔父の心理作戦に動揺したり、兵士による凌辱を受けた敵方の家族を憐れんで着物を与えるなど、人がいいというよりやや甘さが残る若武者であったようだ。しかしそれゆえに諸将も部下も朝敵と蔑まれてもついていったのだろう。

【作者から一言】
平安動乱、そして武士団誕生のキッカケを作った人物の1人です。彼が誕生させた国は教養・政治力の欠如を圧倒的な武力と統率で補った好例の1つと言えるでしょう。それゆえに将門死後の関東一円は源頼朝の時代まで時節を待たなければなりませんでした。1人のカリスマに頼ることの格好よさと同時に怖さを感じる事例でもあると思います。

[732] ガーリックトースト73% 2008/09/26 21:34

>>731の続き

【列伝】
生没:延喜3年(903年)? - 天慶3年2月14日(940年3月25日)
略歴:平新皇
在位:939年 - 940年3月25日

——無敵を誇った僭称親皇——

平安時代の延喜3年(903年)に鎮守府将軍、平良持の男子として誕生。父の領地の関係から現在の千葉県北部の生まれと考えられるが、明確な史料はない。しばらくして、成長した将門は地方より上京、藤原北家であった藤原忠平と主従関係を結ぶが、間もなく父良将が急死したため領国へ帰還。その後、承平5年(935年)の2月に源氏らの一党に常陸国(現在の筑西市)にて襲撃を受けるが、これを撃退。そのまま将門は源氏一党の本拠である真壁郡へ進軍して大将・源護の本拠を焼き討ちし、伯父の国香を焼死させた。これが発端となり、同年10月、源護と姻戚関係にある一族の平良正は軍勢を集めるが、これも撃破。次いで加勢にきた叔父の良兼をも奇襲で返り討ちし敗走させ、全国に勇名をとどろかせる。

 しかしこれが朝廷の耳に入ることとなり、後日将門は平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受ける。その後朱雀天皇が元服し、その大赦によって放免されたが、これにより良兼を始めとする平一族との溝は深まり、間もなく再戦に発展。当初心理作戦を用いた良兼の奇略に苦戦するも、最後は良兼らの兵を筑波山に駆逐、失意のうちに良兼は病死した。

 この頃、興世王と百済貞連という2人の有力者が不和となり、興世王は任地を離れ、以前争いを仲裁してもらった将門を頼るようになる。また、朝廷への租税を滞納した罪により追捕令が出ていた藤原玄明という男が同じく庇護を求めると、将門は彼らを匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日(939年)、兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き武力を背景に追捕撤回を談判。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、心ならずも戦闘に突入、手勢1000人余と敵軍3000人という圧倒的不利からたちまち逆転、敵将の藤原維幾は間もなく降伏し、国衙は将門軍の前に陥落。将門は印綬を没収した。しかしこれは朝廷に対する紛れもない反逆であり、将門は予期せぬ立場に追い込まれてしまう。しかしそれで開き直ったのか、1か月で関東一円を手中に収め周囲の反対を押し切り「新皇」を名乗り勝手に天皇位に即位。朝廷はこれに対し更に態度を硬化、もはや将門と朝廷の争いは不可避のものとなりつつあった。

 "将門謀反"の報はただちに平安京にも伝わった。しかし、同時期に西国で藤原純友の乱と重なり、朝廷は動揺。直ちに藤原貞盛が一族の藤原秀郷と力を合わせ兵4000を招集し関東に進軍してきた。ただ、この時将門は諸国から召集していた兵士の大部分を帰国させていたので、手許にはわずか1000人足らずしかおらず、時間の経過とともに不利になると考えた将門は940年2月1日に出陣。しかし部下の独断専行によって緒戦は貞盛・秀郷軍に大敗。連合軍は敗走する将門軍を追撃し下総国川口にて再び合戦。しかし今度は新皇御自ら陣頭指揮に立ち奮戦。一時的に押し戻すが、予想通り、時間が経過すると数に勝る官軍に将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた。起死回生の大勝負をしかけるために、将門は地の利のある本拠地に敵を誘い込む作戦を開始。しかし貞盛・秀郷らはこの策には乗らず、勝利が疑いない事を民衆に呼びかけ、追随感を演出。現地で更に兵を招集した。そこに藤原為憲も加わり、2月13日、将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」を開始。民衆は焼かれる自宅に困惑するが、といって将門側に走る者はいなかった。将門は少なからず民衆に強いていたとされ、民心はすでに離れていたからだ。しかし当の将門の英気は衰えず、甲冑をつけたまま連合軍の網の目を掻い潜り、反撃に向けて兵を召集するが、敗色濃厚の将門につく兵はおらず、僅か手勢400を率いて味方の援軍を待った。しかし、間もなくその所在が敵の知ることとなり、結局寡兵のまま最期の決戦を迎えた。

 2月14日午後3時、北風が吹き荒れたのを契機に、将門軍は風をまとう形で攻勢を掛け、戦局を優位に展開。負けじと貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、連合軍は相次いで攻勢を失敗。軍兵2900人が逃げ出し、残り精鋭300余の兵が残るのみとなった。勝利宣言をする将門、意気揚揚と自陣に引き返す。しかし運命の悪戯か、ここで急に風向きが変わり逆風になると、今度は連合軍が風をまとって反撃。将門は愛馬を駆り最前線にて奮戦するも、そのうち愛馬の歩みがわずかに乱れ始め、将門の動きが鈍った。その刹那、飛んできた1本の矢が将門の額に命中し戦死。享年37歳とされる。彼の遺体は晒し首となり、日本初の打ち首獄門の例となった。

[733] いりあす 2008/09/27 00:27

フェリペ2世(スペイン・ポルトガル・シチリア国王、1527〜1598(在位1556〜1598)

【統率】 82
【武力】 25
【知力】 68
【政治】 64
【魅力】 70
【特殊能力】
 カトリックの盟主:カトリック信徒の多い領土への統治に関しては統率・政治に+10の修正がつく。
          プロテスタントの信徒の多い領土への統治に関しては統率・政治に-20の修正がつく。
          カトリックを国教とする国家との外交に関しては知力・政治に+10の修正がつく。
          プロテスタントを国教とする国家との外交に関しては知力・政治に-20の修正がつく。

【統率チェックポイント】
 従来型の封建体制から脱却し、ヨーロッパ各地の分国や新大陸に副王を派遣して統治した。
 副王は属州の総督に近い官職で、国王を頂点とする中央集権型の絶対王政の形態の一つとも言える。
 カトリック擁護政策がたたってオランダの独立を招いたが、それ以外の地域では統治の実効は挙がっていた。

【武力チェックポイント】
 ヨーロッパ中を駆け回った父カールとは違い、マドリッドの宮廷で政務に専念していたため実戦はほとんど経ていない。
 スペイン軍自体はレパントの海戦で活躍したドン・フアン公やジョバンニ・アンドレア・ドーリア提督などの指揮官に恵まれ、
 テルシオと呼ばれる砲兵と槍兵を組み合わせた新型ドクトリンを取り入れた陸軍の実力にも支えられて多くの戦争を戦っている。

【知力チェックポイント】
 対抗宗教改革の申し子のような人物で、この点が彼の治世において国家の選択肢を狭めた事は否定できない。
 また、イングランドとの和平条約の穴を突かれて新大陸との通商船を襲われてしまうなど、脇の甘いところもあった。
 一方で、カトリック勢力を糾合し、味方につける才覚についてはかなりの水準にあると見ていい。

【政治チェックポイント】
 世界中に散在する領土を集権的に統治したという点については高く評価できるが、イスラムやプロテスタント勢力との戦争が
 長きにわたって続いたために、バンカロータ(要するに財政破綻ないし債務不渡り)を在位中4度も行っている。
 新大陸で得た富の殆どをを軍事費で吐き出してしまった事が、近世後期以降スペインが列強の座から滑り落ちる原因になったと言えるだろう。

【魅力チェックポイント】
 個人的な人柄や人格に関する特筆すべきエピソードは残っていないが、国内で悪評が特になかった点を考えるとこのぐらい。

[734] いりあす 2008/09/27 00:28

(続き)

【列伝】 〜〜太陽の沈まぬ帝国———その栄光と斜陽〜〜

 16世紀後半のスペイン国王で、近世前期絶対王政を代表する絶対王政型君主の一人。

 スペイン・オーストリア・シチリア等を支配したハプスブルク家当主・カール5世の長男として産まれ、父の死後ハプスブルク領のうちスペイン・シチリア・ネーデルラント・新大陸等を継承する(オーストリア公国と神聖ローマ皇帝家はカールの弟フェルディナントが継承した)。
 しかしハプスブルク家は父カールの時代に始まったイタリア戦争が長期化していたため、多大な軍事費に圧迫された財政は破綻状態にあった。1559年にイタリア戦争を終結させてハプスブルク家のイタリア支配を再確立させ、国家の中央集権化に着手する事で国力の増強に乗り出す。スペイン本国以外のハプスブルク家領および新大陸の植民地には副王を派遣し、各地から提出される文書を精力的に決裁する事で広大な領土を効率的に統治した。
 敬虔なカトリックであり、プロテスタントに対する妥協を嫌った(スペインの異端審問に暗く過酷なイメージがあるのは、こうした彼の態度にも一因があると言えよう)。プロテスタントの多いネーデルラントが独立宣言を出した際にはカトリック主流の南部(後のベルギー)を抱き込んで北部ネーデルラント(オランダ)と戦い、一方でヴェネツィア共和国救援のための艦隊を派遣して、オスマン朝の海軍を相手にレパントの海戦で大勝している。また、同じく熱心なカトリックであったイングランド女王のメアリー1世と結婚し、ユグノー戦争と呼ばれる内乱に突入したフランスのカトリック派を支援している。
 1580年、叔父にあたるポルトガル王エンリケ1世の死去によりポルトガル王位を継承。ポルトガル領であったブラジル・マラッカ・インド沿岸部なども版図にに加わり、彼の帝国は史上空前の規模となった。しかし、プロテスタント派のイングランド女王エリザベス1世がオランダを公然と支援したため、オランダの独立を抑えるのは困難となる。スペイン領で最も商工業の発達したオランダの独立はスペインにとって死活問題となるため、1588年に新大陸との通商路を執拗に襲うイングランドを叩くために大艦隊を派遣するが、ドレイク提督率いるイングランド海軍に敗北を喫した(アルマダの海戦)。
 その後もプロテスタント勢力との戦いは続いたが、オランダの独立による経済力の低下は補う事ができず、新大陸からもたらされる莫大な金銀をもってしても軍事費の増大による財政破綻を防ぐ事は出来なかった。彼の死によってスペインが世界の主役であった時代は終わりを告げ、七つの海の主導権はオランダとイギリスの、ヨーロッパ大陸の主導権はフランスとオーストリアのものになってゆく事になる。

【私見】
 評価の難しい人物です。15〜16世紀のメジャーな君主があらかた数値化されているのに彼がまだだった事も、調べていくと納得できた気がします(笑)
 カトリック勢力に対する協調や統治の一方で、プロテスタントやイスラムとは戦いの手を広げた末に国を先細らせてしまっています。通常での国内の統治なら平均以上の水準なのですが、オランダの独立を防ぐ事もオランダの代替となる経済地域を作る事もできなかった点が彼の限界と見るべきなのでしょうか。

 アルマダの海戦の敗北は、風や潮の影響が小さく島や海峡の多い狭い水域での戦闘になりやすい地中海と、風浪や潮流が強い上に障害物の無い広い水域である北海や大西洋の環境の違いが根底にあるのではないでしょうか。大型・鈍足・短射程という地中海型の編成であるアルマダをイングランドに派遣しても、外洋の環境に翻弄された末に外洋型であるドレイク艦隊に敗北するのもむべなるかなといったところでしょう。大西洋における私略船戦術といい(これは後世の通商破壊の走りとも言えます)、老舗のスペインよりも新興のイングランドの方が海洋国家同士の戦争をよく理解していたというのは、歴史の皮肉と言うべきなのか、それとも必然と見るべきなのか。

[735] いりあす 2008/09/27 00:34

 挨拶が後回しになりましたが、前スレでヤン提督を評価して現在の銀英伝キャラ評価ブームの端緒を開いたような気がするいりあすです(汗)。銀英伝キャラは個性派が多いので、確かに数値化が面白い人物には事欠かないようです。

 ただ、コーエー方式で数値化すると提督達の能力はどうしても似たりよったりになりますから、提督達の評価は程々にした方がいい気がしますね。あとはトリューニヒトとルビンスキーという二大問題人物を数値化して打ち止めといったあたりでしょうか。

 さて、今回はまとめサイトを見ていて「あれ、この人はまだ評価されていないな」と気づいた人物を評価してみました。同時代の君主達と比べるとやや辛い評価になった気がしますが、皆様のご意見をお待ちしています。

[736] 2008/09/27 23:11

>>735
 [いりあす]さんの仰るとおり、諸提督を評価するとそこがネックになります。
 先に名が挙がっているトリューニヒトやルビンスキー、あるいはド・ヴィリエのような悪役、もしくはフォークや門閥貴族達のようなある意味“個性的な”連中(ものすごく“低い”数字のオンパ−レドになりそうだが…)に比べると、諸提督方々は基本的に優秀ですのでそれなりの数字しか出てこず(私が採点すると、【統率】【武力】【魅力】が概ね80台、【知力】【政治】で一部を除いて50〜60台)、余り個性がなくなってしまいます。
 もしこの辺りを少しでも解消しようとするなら【特殊能力】で個性を調整した方が早いかもしれません。特にヤン一党は艦隊司令官ばかりの帝國軍に比べて一芸に秀でた人が多く、これで調整しなければ数値に反映させようがなくなってしまいます。あくまでもネタですが。
 

[737] 猫王 2008/09/28 00:28

>>728 カイドゥの娘はアイジアルク。
東方見聞録によれば「自分との勝負に勝てば結婚するが負ければ馬100頭献上せよ」と公言し、多くの男が挑戦したがだれもかなわず最後には10000頭の馬を手に入れたとされ、父カイドゥもそれ以降戦争の際は常にそばに連れていったとされる。

[738] 2008/09/28 02:22

銀河英雄伝説など糞だよ。何が黒色騎兵だ!わらわせるな!
作者の偏見に満ちたくされ伝説だ!
ヤンウエンリーなど虚飾の偽善者そのもの!文句あらば受けたまろう。
幼稚な作戦でイゼルローン要塞を騙し取れるか阿呆!

[739] もんじ 2008/09/28 08:07

イチロー(鈴木一朗)

【統率】 61
【武力】 77
【知力】 81
【政治】 51
【魅力】 85

【特殊能力】努力家、饒舌、親子鷹、姉さん女房、シチュエーション陶酔者
一番ライト…………一番槍を仕掛けたときに武力+5。他者に出し抜かれると武力−5
レーザービーム……守備時に武力+10。魅力+10
振り子打法…………身体を最大限に使って飛距離を伸ばす打法。使用した場合に武力+10、知力−20
エリア51…………守備時に知力+5。魅力+5
春先に弱い…………1月〜4月にかけては武力−10
30年発言…………激怒した際に武力+5
寄付…………………行政投資に限り政治+20

【アイテム】
マジックバット……通称イチローモデル。かなり『細い』バット。長さは普通。
          クリティカル率が高くなるが、イチロー以外が使うと武力−10

[740] もんじ 2008/09/28 08:08

つづきイチロー

【統率チェックポイント】
あくまで彼は己のプレイで他者を引っ張るタイプである。
だが、WBCでアメリカ戦に負けたときに決起集会を開き、チームを一つにするなど
他者をまとめる素質はあるように思える。
【武力チェックポイント】
目立ったケガがなく、その継戦能力は目を見張るものがある。
それだけに留まらず様々な環境に適応させる力も持っている。
特に守備時における強肩に定評があり、レーザービームと称されるほど。
打撃に関してはヒットを量産するものの戦局を覆すほどの力はない。
しかし振り子打法を使っているときは別であり、
強打者をも唸らせるホームランアーティストとなる。
【知力チェックポイント】
身体能力のみの選手と思われがちだが頭の回転は速い。
守備時のポジショニング取りが上手く、より早く走るための研究も欠かさない。
エリア51と称される彼の守備範囲はただ足が速いだけのものではない事がわかる。
野球エリートの道を突き進んでいるが、学業も疎かにしなかった。
演技が上手いのだが、彼の処世術にはならないようだ。
【政治チェックポイント】
マスコミへの対応の悪さから孤高の天才と称されるケースが多い。
また、建前を駆使する事をさほどしないので敵を作りやすい。
しかし、MVPの賞金や自身の年俸から行政や養護施設へ寄付するなどの行動も多く
プライドが高く、好き嫌いが多いにもかかわらず、自らの立ち位置を危険なものにはしていない。
むしろそれを楽しみ、多くの求心力を集めてより高い位置に立とうとすら思える。
【魅力チェックポイント】
負けず嫌いであるため敵を作る事も多々あるものの、
気質は基本的に陽性であり、笑いの耐えない口数の多い人物でもある。
プロ選手としての心構えが非常に高く、過去の偉業者へのリスペクトも欠かさない。
率先して先頭に立ち、己のプレイで他を引っ張るので彼を慕うものも多い。
グラウンドの外の活動でも震災支援や地元への寄付なども多くしているが
名誉に対して執着心が少なく、名球界入りを断り、国民栄誉賞は2度も辞退している。
他者からのつまらぬ干渉に苛立つ事もあるが、周りの人間の多くが納得する主張である事が多い。
これらに挙がるイチローイズムに心酔する者も多く、広く慕われている。
ただのスポーツマンでなく日本を代表するトップアスリートの一人であることは間違いない。
なにより、彼が守備についたときの安心感は異常である。

【列伝】
wikipediaを見ればいいじゃない

【コメント】
打撃は常にトップバッターに回るように打順を組むべし。
中距離打者としての素質も十分あるが、彼の足を考えるなら2番以降に配置するのはオススメできない。
守備は投手もこなせるようだが、やはり範囲の広い外野手が一番である。
ライトであるが、守備範囲の広さを生かしセンターにする手もある。そこらへんは指揮官の好みであろう。
運用的には彼をホームに帰す長距離砲ないしチャンスに強い中距離砲が欲しいところである。

[741] ガーリックトースト73% 2008/09/28 11:00

レフ・トロツキー

【統率】64
【武力】37
【知力】81
【政治】52
【魅力】54

【特殊能力】弁舌 演説 煽動
頑迷:他者の懐柔や讒言に囚われないが、ワンマンになりやすい
革命論:発動後、国民に対する魅力が+10、政党に所属している場合、党幹部に対する魅力が-10。

【統率チェックポイント】
サンクトペテルブルク・ソビエトの指導者から始まり、メンシェヴィキ・ボルシェヴィキともに中枢として活躍。赤軍の創設者でもあり、わずか数年で近代的な軍事組織を作り上げた。しかしレーニン死後はスターリンに出し抜かれることも多く、徐々に彼の派閥は切り崩されている。

【武力チェックポイント】
10月革命および赤軍を組織し反革命軍の撃破に貢献したが、彼個人の武勇は大したことはない。

【知力チェックポイント】
レーニンの統率能力の欠如をかなり早い段階から見抜いている。赤軍構築の素早さ、後の世に大きな影響を与えた永続革命論の提唱など、聡明さを語る事例は多い。ただ、スターリンの真意を見抜けず致命的な立場に追い込まれるまで存在を楽観視していた事は減点対象になろう。農民運動の弾圧を支持したりストの武力鎮圧の容認など、自らが嫌っていたスターリンとの共通点は多く、レーニンの「一番有能である」との評もあくまで"党幹部の中では"と限定したものと推測される。

【政治チェックポイント】
ドイツとの交渉では、ドイツ政府が強硬姿勢を見せて軍をロシア領内に侵攻させると、講和派のレーニンに賛成し、講和に踏み切っているし、2度に渡りロックフェラー財閥からの資金供与を交渉し成功させてもいる。だが、こと権力闘争になると全くの体たらくで、スターリンが窮地に陥るという絶好のチャンスを迎えながら、他の幹部を中傷し彼らと組むのを拒否したり、党大会では自分への個人攻撃と気づかずに場違いな永続革命論の讃美を説き場を失笑させるなど、富農出身者特有の甘さが随所に見られる。根回しも下手で、スターリンの完璧なまでの慎重さに手も足も出なかった。

【魅力チェックポイント】
ソ連建国の功労者の筆頭格であったことと、彼の書いた本や彼のする演説は巧かったので人気があった影響で、国内外問わずトロツキストが発生し彼を後押ししている。しかしこれは単なる「政策」の人気であり、個人的魅力ではない。また人格面では、元メンシュヴィキである点、なまじ優秀と自負するが故に自分以外の人間を見下し、孤独を好む上に己惚れの強い性格であるので党内での人気は良いとは言えず、ソ連亡命後、亡命先諸国は腫れ物でも触るかのように彼をやっかんでいた。

【作者から一言】
レーニンは最晩年の手記にて「一番有能だがうぬぼれが強い」と称していますが、私は彼の才覚をそれほど評価していません。レーニンは別に慧眼ではありませんでしたし、トロツキーもスターリンと根本では似た部分を持っており、彼が仮に書記長になっても、スターリン時代と同じような現象が起こったであろう事は十分に予想できうるでしょう。むしろ、世界革命などというロクでもない理論ががスターリンによって阻止された事実を、私たちはある意味では幸運に思うべきなのかもしれません。

[742] ガーリックトースト73% 2008/09/28 11:01

>>741の続き

【列伝】
生没:1879年10月26日 - 1940年8月21日
略歴:サンクトペテルブルク・ソビエト指導者、外務人民委員、共和国革命軍事会議議長
派閥:メンシュヴィキ → ボリシェヴィキ

 本名はレフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュテイン。1879年に現在のウクライナ南部のイワノフカで、ユダヤ系の富農の子として誕生。学生時代に初めてマルクス主義に触れ、共産主義運動に入る。1898年には南ロシア労働者同盟の幹部であったため2年の懲役刑を受けて収監され、1900年にはシベリア流刑に処されるが、2年後には脱走している。その後スイスを経てイギリスに亡命し、そこで機関紙『イスクラ』を出版していたロシア社会民主労働党と合流。なお、レーニンとはここで初めて顔を合わせている。翌1903年、社会民主労働党が分裂すると、レーニンらが結成したボリシェヴィキではなく、メンシェヴィキに所属するも、しかしスグに脱退している。

 1905年、再びロシアに帰国して地下活動に入り、サンクトペテルブルク・ソビエトの指導者に就任。10月には国内ストライキにも関与するが、12月に逮捕され、シベリアへの終身流刑を宣告されたが、護送中に脱走。オーストリア・ウィーンへと亡命して雑誌『プラウダ』を創刊し、ここにて永続革命論を初めて提唱した。1917年、ロシア革命が始まると滞在先のニューヨークから帰国。メジライオンツィキの指導者としてボリシェヴィキと歩調をあわせ、7月にはボリシェヴィキに入党し、9月にペトログラード・ソビエト議長に就任。10月革命では、軍事革命委員会の委員長として軍事蜂起を指導、ボリシェヴィキの権力奪取に貢献した。レーニンが人民委員会議議長に就任した連立政権のもとでは外務人民委員に就任するも、1年と経たずに辞任、かわって共和国革命軍事会議議長になる。彼は赤軍の創設に着手し、内戦において赤軍の指揮者として反革命軍の撃破や外国勢力の排除に功績をあげた。

 しかしレーニンが死ぬと、それまでの栄光に満ちた地位もスターリンの卓越した政略によって崩されることとなる。スターリンはレーニンへの葬儀の日程に含みを加えてトロツキーの出席を妨害、結果間に合わず党員の信望を損ない、トロツキーが提唱した世界革命論に反対し、一国社会主義論を唱えて官僚らの支持を得て一気に勢力を拡大する一方で少しずつ、しかし確実に派閥勢力を削り取られていった。また、政策論争にて党の主流派と激しく対立。反対派を組織して抵抗するが、疲弊した国を憂う大衆を味方につけたスターリンの前に敗北。党を追放される。その後中東・ヨーロッパを転々とし、その度にスターリンの圧力を受けて亡命を繰り返した。

 1940年8月20日、亡命先のメキシコで『スターリン伝』を執筆中、秘書の恋人になりすましたラモン・メルカデルによってピッケルで後頭部を砕かれ、死亡した。なお、犯人はメキシコで20年間服役した後、ソ連に帰国後1961年にレーニン勲章を受けた。

[743] 喝食 2008/09/28 21:47

>>728
ありがとうございます。人物が人物なだけにやっててずっとこれで大丈夫かな?という感じでした。しかし勉強にはなりました。

>>731
おお、平将門が。怨霊のイメージが非常に強いです。この人最後は民衆から嫌われてたんですね・・。意外です。兵法に卓越して恐ろしいほど強かったでしょうが最後の戦いはある程度よめるといっても一定の風向きが長く続けば続くほど変わる可能性もありうるでしょうから有利なうちに決せなかった時点で敗北は当然かと単純に思ったりしました。運用兵力の規模とか支配領域、集団戦闘の発達度、圧倒的不利とはいえ最後に戦術的に敗れていることから自分がやった場合世界史レベルで評価できない気がしました。

>>733
いたって評価がしにくい人物ですね。統治システムが十分整っていない広大過ぎる領地を引き継いでよくがんばったと思うんですが失敗が痛過ぎる。敵を増やし過ぎたのはあると思いますが妥協でどうにかなったのか、どのみち限界だったのか考えてしまいます。

ヨハン・グーテンベルク

【統率】31
【武力】30
【知力】69
【政治】15
【魅力】45

【特殊能力】
活版印刷:所属する文化圏の知性に対し知力95に相当する影響を与え学術・文化を振興。既存の宗教組織の統制力を低下する
大発明家:死後に魅力が90に上昇

【統率チェックポイント】
かなりの部分は借金によるが、印刷所を切り盛りして商業印刷事業を行っていはた。

【武力チェックポイント】
技術者・発明家。目立った戦歴なし。

【知力チェックポイント】
既存の技術を利用しつつ、いくつかの独自の技術によって印刷機を改良し活版印刷の歴史を切り拓く。職人としての深い知識と創造性を持っていなければできなかったであろう。

【政治チェックポイント】
活版印刷技術の開発に没頭するあまり財産を使い果たし借金を重ね、最後には訴えられてその成果のほとんど全てを失った。世渡りはうまくなかったようだ。

【魅力チェックポイント】
一流のマイスターとして尊敬されていた一方で印刷技術の開発などでかなり借金に追われる生活だったようだ。もし裁判の記録がなかったならば歴史にその名前が残ることすらなかっただろう。しかし現在ではその偉業は広く知れ渡り、欧米を中心に高く評価されている。

【列伝】
ヨハン・グーテンベルク(1398?〜1468)

——印刷技術の祖——

本名ヨハン(ヨハネス)・ゲンスフライシュ。グーテンベルクは通称。ライン河畔のマインツ市の裕福な貴族であるゲンスフライシュ家に生まれる。1434年頃からシュトラスブルクにおいて活版印刷技術の開発に取り組んだ。金属細工師であった彼は性質を熟知した金属によって活字を作ろうと試み、鉛に少量の錫とアンチモンを加えた三元合金と呼ばれる鉛合金によって活字を鋳造。ブドウ搾り機を改良して均等な圧力を加えられる印刷機を開発し、油性インキを使用した。活版印刷の起源自体は中国や朝鮮半島の方が早かったがこのような独自の技術によって活版印刷のシステムを統合・確立したことからグーテンベルクは活版印刷の祖とされている。彼の印刷技術の最も大きな成果とされているのは聖書の印刷である。ほとんどのページが42行で印刷されたことから42行聖書とも言われるグーテンベルク聖書は特定階級のものだった聖書を他の階級にまで普及させ識字率を向上。また聖書の自国語への翻訳を後押しして後の宗教改革に繋がった。しかし彼自身は印刷技術の開発のために多額の借金をしたヨハン・フストなる金融業者から裁判を起こされ敗訴。印刷中の42行聖書の版権や印刷機材全てを失っている。この裁判の記録はヘルマスペルガー公正証書と呼ばれ皮肉にもグーテンベルクが印刷技術を開発した証拠となった。その後新たな出資者を得て印刷事業を継続、ラテン語の実用辞典カトリコンや免罪符などの印刷物を残している。1962年には争いにより家や工房を失うも1965年に印刷術開発の功績によりマインツ大司教アドルフ2世に家臣としてとりたてられ免税と衣類や穀物、ワインの支給などある程度は経済的に保障され、その後1468年にこの世を去った。

かなり特殊能力頼りの評価です。偉大な成果の割に一般人との違いが全然際立って見えません。職人さんなんですね。

[744] やっち 2008/09/29 13:06

蘇軾

統率 62
 何らかの組織を作り上げた訳ではなく、統率の高さを示す具体的エピソードは少ないが、
地方官として治績を残していることから、まあままな統率力はあったのだろう。

武力 20
 基本的に文官。

知力 70
 旧法党であったが、募役法の利点を見抜くなど、判断能力は高かった。問題は、それを実現する手腕の不足にある(→政治)。
 文学では超一級。

政治 72
 剛直な性格から、官界遊泳は不得意で、何度も左遷を経験している。
 地方官としては高い治績を残しており、特に杭州では西湖の浚渫や蘇堤の建設などの業績をあげ、
後代に同都市が発展する基礎を作り上げた。
 折衷してこの数値。

魅力 82
 高名な文人。
 また、良心的な官僚として領民に慕われたという。

特殊能力
 蘇東坡 死後魅力に+10

[745] やっち 2008/09/29 13:15

蘇軾 号は東坡居士。一般的に蘇東坡と呼ばれる。

 北宋期の文人、政治家。
 若くして進士に及第し官僚として働くが、神宗期、王安石の変法に反対して左遷。その間、
詩文で政治を誹謗したとして投獄も経験する。
 神宗死後、旧法派の復活とともに中央に返り咲くが、彼はがちがちの旧法党ではなく、
新法のよいところは残すべきと主張したので、旧法派の首領で教条主義的な司馬光とも対立する。
 新法派復活とともに再度左遷されるが、新旧両派の和解に伴い許され帰京する最中に病死。
 地方官としては高い業績を上げ、特に杭州赴任時には西湖を浚渫しその土砂で堤を築いて(蘇堤)。

 先日、夏休みに杭州に行ってきたので、この地にゆかりのある人物を誰か評価しようと思って、彼を選びました。
 それにしても、文人は評価が難しいですね。彼は政治に関与しているので
まだしもですが。政治にほぼ関与していない純然たる文人、例えば、夏目漱石と芥川龍之介を数値でどう差を出すか。

 

[746] 片田舎の偏屈士 2008/09/29 18:20

ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア
皇暦2000年〜2018年

【統率】90
ギアスの補助があるとはいえ、恐怖による支配で独裁制を確立。既得権益を持つ貴族階級による抵抗はあったが、それらを鎮圧した後には困難な状態になろうと反乱すら起きなかった。
【武力】89
シュナイゼルとの互角の戦いが真骨頂であったが、ギアスによって操られた死を恐れない兵士の補助が大きく、超人級の手前となる。
【知力】100
得意のサクラダイト火山噴火と先読み録画映像は神策の域を超えている!
また、シスコンを克服した彼は、自身が考え出した計画を成し遂げる策を完遂し、全ての人類に平和という財産を残した。
【政治】88
短い統治は概ね安定したものであったようだが、具体的な政治を行ったことは貴族制度の廃止、財閥の解体、ナンバーズの解放であり、それらを行ったことで特権階級の反乱を招いた。対外的にもゼロレクイエム完遂のために手段を選ばずに非道の手段さえ取った。
【魅力】15
皇帝即位当初は人道的な政治を取ったことで高い評価を得るが、次第に強引な手段による独裁を行い人心は離れていった。誰にも知られることの無いゼロレイクイエムを理解した人物による魅力と差し引いてこの程度とします。

【特技】
絶対順守のギアス:発動することで統率と政治が100になる
悪逆皇帝:ギアスを発動せずとも全ての国民、配下に対する政治力が100になり、魅力が0になる。死後、世界に平和がもたらされる

[747] 片田舎の偏屈士 2008/09/29 18:21

——神聖ブリタニア帝国第99代皇帝——

先代皇帝シャルルの息子として日本へと人質に送られ死んでいたはずの第11皇位継承皇子であるが、密かに黒の魔人ゼロとして日本で暗躍。幾多の挫折と多くの人達の死を乗り越えて父を誅殺した後に、ギアスの力を活用して皇帝へと即位する。
即位後は、特権階級の権益を無視した改革を行い多くの反乱を招くが、それら全てを鎮圧して帝国を維持し、元は自らが作り出した超合集国へ参加を画策するが、圧倒的な国民数を利用した実質的支配権の獲得という目的が見破られると、各国首脳を人質にとっての強制的な承認へと切り替える。
そこへシュナイゼルによる横槍が入り参加承認は流れてしまい、更には超合集国と連携し、フレイヤ・ダモクレスの恐怖による世界平和を目的とするシュナイゼルと争うことになるが、熾烈な頭脳戦の末に勝利を収めて世界統一を成し遂げる。その後、反抗分子の処刑の場でゼロ(スザク)の手にかかり、最愛の妹ナナリーの愛の告白を受けながら若い命を散らす運命を受け入れた。死後は全ての悪意を受ける悪逆皇帝・魔王ルルーシュの名で平和に対する悪意の象徴として記憶されることとなる。

[748] 片田舎の偏屈士 2008/09/29 18:44

前回の評価から最終回を迎えたので評価。
悲しいけど良い最終回でした。
作品の中で上位3人に絞り純粋な評価を順に、
統率:シャルル>シュナイゼル>ルルーシュ
武力:星刻(シンクー)>シュナイゼル=ルルーシュ>コーネリア
知力:ルルーシュ>シャルル=シュナイゼル>シンクー
政治:シャルル>シュナイゼル>ルルーシュ
魅力:シュナイゼル>シャルル>>>>>ルルーシュ
作中での描写が無いために憶測の部分での評価になりますが、いかがでしょうか?
ちなみに総合力ではやはりシャルルが強くなりそうですが、武力が未知数です。
総合力シャルル>>>>>>>>>>>>>玉城

>>731
喝食さんが言っていますが、自分も運用兵力の規模は統率・武力を計る目安にしていますので、90台評価はしないかな。
超人級なら圧倒的戦力不利を逆転できるレベルですしね。

>>737
ありがとうございます。うろ覚えだったので、発音が違う表記だと検索に引っかからずに途方にくれていました。

>>733
宗教問題は、父親がフッガー家からの援助の見返りに免罪符の販売権を与えたのも影響しているような気がします。

>>743
今度は美術史の人物評価もしようかと画策しておりました。文人はムズイよ・・・・・・

>>744
政治の面ばかり見ていたのですが、確かにこの人は一族で文人ですね。

[749] 猫王 2008/09/29 20:43

文人はやはり特殊能力、あるいは特技で算出するのがいいのではないでしょうか。

[750] 扇面 2008/09/29 22:53

自分も特殊や特技で出すのが妥当かと。本家の信長だと「教養」というパラがある作品もありますが、今更新しい項目を作るのも何ですし、数値付けの基準が決められません。その点では崋山は楽だった・・・。

>>733-734
自分がやってもほぼ同じ数字になるでしょうね。ただ、オランダとの戦争が無くても、富を産業に回せたかは少し疑問があります。大航海時代で優秀な人材はどんどん海外に行ってしまいましたし、国が率先して産業を興すべきだと言う考え方がまだありません。おそらく国王や貴族の贅沢に浪費されて終わりでしょう。

[751] ガーリックトースト73% 2008/09/29 23:19

お二方の『平将門』の項に対するご意見ありがとうございます。
まあ、贔屓する人物は自然と評価も甘くなるのが人間というものなのでしょうね。反省反省。。
ただ、私は「量」よりも「密度」を優先的に判断しますので、
シンガポールの独裁者リー・クアンユーや台湾の蒋経国などは統治領土の割に私であれば高評価を与えると思います。
評者ごとで評価方法の違いが表れるのもまた面白いですよ。

[752] ガーリックトースト73% 2008/09/29 23:21

ソブーザ2世

【統率】71
【武力】32
【知力】44
【政治】60
【魅力】35

【特殊能力】

【統率チェックポイント】
内戦・クーデターの絶えないアフリカ大陸で61年の間絶対君主として在位し続けた統治能力。政党を非合法化し議会を解散、王族による政務独占を推進し臣民による反発の目を根元から刈り取っている。

【武力チェックポイント】
軍を総攬・総括する立場であるが、実際に軍を動かした経験はない。

【知力チェックポイント】
結局は失敗するも、紛いなりにも外貨を呼び寄せる白人達が所有する土地を奪回しようとするなど暴走が目立つ。。美女100人を侍らせるなど国際社会からの顰蹙も買った。"HIV大国"の汚名脱却の為の有効な手だてが打てず、挙句最貧国の仲間入りをするなど見通しもまるでダメ。しかし生涯に渡り行動に迷いが少なく、意志の大きさはかなりのもの。

【政治チェックポイント】
スワジランド独立の立役者。経済を依存している南アフリカとの不可侵条約を締結、隣国との緊張回避に努めた。内政面では決して善政は敷かなかったが、権力闘争や議会・憲法を禁止し絶対王政を確立するまでのプロセスは鮮やか。再びリバンドラ(両院制議会)と憲法を臣民に約束し開かせた一方で自らは拒否権を保持し続けるなど、飴と鞭の使い分けも巧い。

【魅力チェックポイント】
時代にそぐわない絶対王政を敷いているため、国際社会の評判は良くない。自分にそぐわない反乱分子を騒ぎが大きくなる前に摘み取っているので、表面上は彼の統治を享受しているかのように見えるが、実際はングワネ民族解放会議や王族であるドラミニ家にまで反乱者が出ている。ただ、この国の女性は富と権力の為に王に見初められようと努力している。

【作者から一言】
20世紀になって絶対王政を敷いた希有な国史を歩んだ国、スワジランド。その時の国王がこの人。100人の妻を抱え、三権を完全に掌握。富と権力を欲しいままにしました。現在でもアフリカ最後の絶対君主国として有名ですね。それにしても、妻100人とは・・・羨ましい限りです。能力は統率・政治が高い一方で魅力がやや低く、典型的な独裁者タイプです。戦争さえなければまあ無難に国を治められるでしょう。

【列伝】
生没:1899年7月22日 - 1982年8月21日
略歴:スワジランド王国第7代国王
在位:1921年 - 1982年
備考:1982年当時、在位61年は君主として世界最長不倒記録である

 1899年、スワジランド国王ヌグワネ5世の皇太子として首都ムババーネにて誕生。父ヌグワネ5世は、この後の4ヶ月後に崩御し、直ちに皇太子であるこの赤ん坊が王位継承者として指名されたが、彼が成人するまでは祖母が摂政と決まり、代わりに国政を揮った。

 月日は流れて1921年、スワジランド王国第7代国王として即位。しかし当時は国王とは名ばかりのお飾りであり、スワジ人の政治組織は存在するものの、実権は富を独占する白人とスワジランドを『高等弁務官領』として宗主国の立場にいたイギリスが"指導"と称して憲法にまで口を出していた。これを憂慮した国王はまず1921年に白人からの土地を奪回しようとするが、これは失敗する。しかしその後自治領、保護領と格を上げていき、1968年9月6日、ついに独立を宣言。1888年以来、実に80年ぶりの完全独立であった。

 その後、古来からの伝統であった国王による親政体制に戻し、国王とその側近、王族であるドラミニ家が国政全般にわたり全権を掌握。首相以下、全閣僚を国王自身が内閣の総攬者たる君主政治が開幕した。さらに翌年にはイギリス色の強かった憲法、王党派以外の政党を原則禁止し、国王自らが行政・立法・司法の三権を一手に担い、絶対王政を確立した。1977年には議会までも廃止し、民族社会単位の"ティンクドラ"を導入する。翌年の1978年10月には国際社会を考慮し独自の新憲法を公布、上院20議席・下院50議席のリバンドラ(両院制)を導入した。ただ、国王が拒否権を持ち強力な影響力を有しているため有名無実と化し、これに不満を持つングワネ民族解放会議が反体制活動を行うも、国王が即座に逮捕を指令し取り潰された。

 1982年8月21日、83歳で死去。在位は61年もの長期に渡った。その後間もなくして1年もの間、後継者争いが起こっているが、それに勝ち残り、1986年4月25日に第8代国王として即位したのが彼の息子のマホセティベ王子、後の「ムスワティ3世」である。

[753] シャルル・ダンジュー 2008/09/30 13:03

>>752

 おもしろい人物ですね。全く知りませんでした。
 そこで若干ご教示願いたいのですが、父王が死んで彼が即位するまでの訳30年間、同国は国王不在だったのでしょうか。
 また、「1982年当時、在位61年は君主として世界最長不倒記録である」とは、
1982年当時に在世・在位していた君主としては最長記録という意味でしょうか。

[754] シャルル・ダンジュー 2008/09/30 13:04

>>753

2行目
誤 訳
正 約

[755] ガーリックトースト73% 2008/09/30 18:07

>>753-754 シャルル・ダンジュー さん
ご質問を受けましたので回答を返させて頂きます。

>父王が死んで彼が即位するまでの訳30年間、同国は国王不在?

はい。ソブーザ2世が「王位継承予定者」として君臨していますが、
実際は祖母、つまり父ヌグワネ5世の母が摂政(君主の代理として暫定的に政務を行う役職)として、
ソブーザ2世が成長するまで国政を担っていたようです。

>1982年当時に在世・在位していた君主としては最長記録という意味?

【西タンザニア・ンゼガ地方】ムソマ=カニヨ・1864年〜1963年2月・在位99年
【アラカン王国】ミンティ王・1279年〜1374年・在位95年
【エジプト】ペピ2世・紀元前2281年〜紀元前2187年・在位94年
【モナルーク朝】ファシド4世・968年〜1050年・在位82年
【高句麗】長寿王・413年〜491年・在位78年
【ポルトガル】アルフォンソ1世・1112年〜1185年・在位73年8ヶ月
【フランス】ルイ14世・1643年〜1715年・在位72年
【リヒテンシュタイン】ヨハン2世・1858年〜1929年・在位71年
【ペルシア】シャープール2世・309年〜379年・在位70年
【パレンケ】キニチ=ハナーブ(パカル1世)・615年〜683年・在位68年
【ハンガリー】フランツ=ヨーゼフ・1848年〜1916年・在位68年
【エジプト】ラムセス2世・紀元前1304年〜紀元前1237年・在位67年
【コパン】「煙イミシュ」・628年〜695年・在位67年
【イギリス】ヴィクトリア女王・1837年〜1901年・在位64年
【日本】昭和天皇・1926年〜1989年・在位62年1ヶ月
【ヤシュチラン】イツァムナーフ=バラム2世・681年〜742年・在位61年
【キリグアー】カック=ティリウ=チャン=ヨアート・724年〜785年・在位61年
【清】康煕帝・1661年〜1722年・在位61年
【スワジランド】ソブーザ2世・1921年〜1982年・在位61年 ←←←
【デンマーク】クリスチャン4世・1588年〜1648年・在位60年
【清】乾隆帝・1735年〜1795年・在位60年
【イギリス】ジョージ3世・1760年〜1820年・在位60年
【タイ】ラーマ9世(プミポン国王)・1946年〜 ・在位60年

上の表を見て頂ければわかりますが、あくまで20世紀という枠内での不倒記録ですね。
しかし、世の中には上には上がいるもの。歴代1位の在位99年は凄すぎですね。
アフリカは自然に近い食材と奔放な精神で、食事さえできれば長生きする人が多いのかもしれません。

[756] やっち 2008/09/30 22:07

>>755

 ありがとうございます。
 >>743は私です。某スレで史上の人物を名乗ったままになってました。

 ご教示ありがとうございました。
 幼君に摂政がつくのは珍しくないとして、その幼君が即位しないのは珍しいですよね。
 その間、その国の主権者ないし国家元首は誰だったのでしょう。

 で、30歳を過ぎるまで即位しない(又はさせない)のも不思議。
 せっかくの一粒種、遅くとも15、6歳になれば元服させて即位させそうなものですけど、
30歳過ぎまで王太子のままなんて、権力を手放すのを嫌がった摂政側近との
暗闘でもあったのかな、と想像してしまいました。

[757] やっち 2008/09/30 22:08

 ごめんなさい。生年を1889年と見間違えてました。
 >>757後段はご放念ください。 

[758] 喝食 2008/10/01 04:49

>>751
なるほど了解しました。ありがとうございます。確かに評者によって色々なので違いを見るのは大変興味深いですね。武人はかなりたくさん評価が出ていて比較がやりやすいので整合性にかなり目が行ってしまったようですね。

アウグスティヌス

【統率】65
【武力】16
【知力】95
【政治】77
【魅力】81

【特殊能力】
弁論 文筆 神託 独り言 時間把握
教父哲学:理性的思考と信仰の間に矛盾を生じない
 回心 :改宗によるペナルティを一度だけ回避できる
 告白 :改宗後の宗教に対する弁論の効果を高める
神の国 :世俗に対する教会の権威を高める

【統率チェックポイント】
彼が修道会生活において定めた規則は過度の禁欲を否定したもので初期西方修道会の起源となった。この規則に従った修道士達は後に聖アウグスチノ修道会を作っている。

【武力チェックポイント】
基本的に戦わないがキケロに影響を受け、正戦論の基礎を作る。戦争の正当性について理論的判断基準なんてものを作ってしまった。後の国際法や戦時法に繋がってはいるだろう。

【知力チェックポイント】
ラテン教父中最大の神学者・思想家。ギリシア哲学とキリスト教的信仰を統合し知性と信仰の対立を終結させる。新プラントン主義をキリスト教化しスコラ哲学への道を開いた。認識論においては近代哲学の父デカルトの先駆をなしている。また哲学・思想を共有すべきものとしたことから知的財産の無償性を説いた最初の人物とされることもある。彼の影響を受けた人物は数えきれず、西欧の思想に対する影響は極めて大きい。

【政治チェックポイント】
異教や異端との激しく論争。キリスト教の教義の一本化に尽力しローマカトリックの体系を構築した。国家論においてはキケロの著作をキリスト教的に解釈して受け入れ、あらゆる国家権力も神に由来すると説いた。

【魅力チェックポイント】
回心の意義を際立たせる意味が大きいのだろうが「告白」では改宗以前に犯した過ちを正直に書いている。彼ほど異端とされる側から自らを見ることができたキリスト教徒はおらず、その上で(だからこそかもしれないが)異教・異端を厳しく非難した。他宗教の間で揺れ動き、苦悩したことが彼の魅力の一つでもあり奥深さでもある。もちろんのことだが選び取ったキリスト教徒には非常に人気があり、現在でも特に尊敬されている。

【列伝】
アウグスティヌス(354〜430)

——ヨーロッパの教師——

ヒッポのアウグスティヌス。北アフリカのタガステで熱心なキリスト教徒の母と異教徒であった父の間に生まれる。16歳でカルタゴに移った。彼は当初はマニ教を信仰していたもののその善悪二元論に疑問を感じ、万物は一者から流出すると説く新プラトン主義を知って決別した。次にローマで修辞学を学び国立学校の修辞学教授の職を得てミラノへ移った。ここで司教であったアンブロジウスと出会いその影響を受け、悩み抜いた末にカトリックの洗礼を受けた。その後職を辞してアフリカに戻りヒッポのカトリック司教となる。その後50年間「神の国」や「告白」を代表とする著述活動を行うとともにドナティストとのものを含めた多数の論争文によって異端や異教との論争に明け暮れた。このような活動の中でカトリックの教義を整え、その神学体系の礎を築いた。しかし430年、ヒッポがヴァンダルの王ガイセリックの包囲下にある中でこの世を去る。ヒッポが陥落する数か月前のことだった。

武力に対して知力の超人クラスが少ないかなとなんとなく思ったのでキリスト教徒でトップクラスに知力が高そうな人物をやってみましたが・・・やってて頭痛くなってきました。哲学者は嫌です・・・。

[759] 喝食 2008/10/03 03:01

卑弥呼

【統率】75(九州説) 80(畿内説)
【武力】 9
【知力】73
【政治】78
【魅力】71

【特殊能力】
鬼道:精霊信仰者・多神教徒に対し統率が上昇。一神教徒に対し魅力が低下

【統率チェックポイント】
戦乱が続いた国をまとめることができる程度にその呪術の力は人々に信じられ畏怖されていた。一大率なる役職をおいて属国への監視も抜かりがない。死後の戦乱が彼女の同族である壱与が立つことで治まっていることからも彼女の権威が一過性のものでなかったことがわかる。

【武力チェックポイント】
女王になってからは人前に出ることすらなかった。敵国への呪詛などは大いに行ったのだろうが実際の戦いの指揮は全て臣下がしていたようだ。

【知力チェックポイント】
どこまで自身の考えによって判断していたかは不明だが亡くなると再び国が乱れてしまっている。全くのお飾りというわけではなかっただろう。女王になった時には既に高齢であったという。神の声を語って自らの意志を実現させる非常に狡猾な人物であった可能性も否定できない。

【政治チェックポイント】
超大国である魏を利用して自らの権威を高め、声高に宣伝してやっかいな狗奴国を抑えようとした。実効性がどこまであったのかはわからないがそのおかげで今日でも彼女が存在したらしいことを知ることができる。多くは弟や有力者の助言と協議によったと考えるが主たる政策が彼女の意志で実行されていたとしたらこの数値では済まない。

【魅力チェックポイント】
呪術によって人ならぬ者の声を伝えるものとして崇拝の対象であったと思われる。直接自身のカリスマ性を示して他者を導いたわけではなかったか。人心掌握力の多くは統率において評価。

【列伝】
卑弥呼(?〜248?)

——邪馬台国の幻影——

魏志倭人伝に書かれた倭国の女王。当初邪馬台国は男の王を立てていたが戦乱が長く続いたために諸国が共同で卑弥呼を女王に立ててこれを治めたという。鬼道で人を惑わしたとされ、呪術を行い占いによって政治を行っていたとみられる。239年頃に帯方郡を通じて中国の魏に難升米と都市牛利を使者として遣わし、明帝より親魏倭王の称号と金印紫綬を与えられた。死後は巨大な墓が作られ、百余人が殉葬されたという。その後男王が立ったため再び国は乱れたが一族の娘である壱与が13歳で即位すると治まった。

どこらへんに国あったかとか、古事記やその他の誰だとか、方向を間違ってたとか、そもそもはるか海のむこうの中国のすごい昔の歴史書を信用できるかとか諸々の頭を悩ます問題はかなりの部分置いておいてというかとりあえず逃避しまして・・・存在したものとして単純に魏志倭人伝とイメージのみでやってみました・・。独裁者の評価見てもわかります通り統率は高ければいいってもんでもなさそうなので畿内説の肩を持っているわけではないですし特に他の地域である可能性を否定するものでもありません。

[760] ガーリックトースト73% 2008/10/03 23:01

ディオ・ブランド—

【統率】75
【武力】68
【知力】39
【政治】54
【魅力】79

【特殊能力】挑発 政略
慢心:圧倒的優位に立つと魅力以外の全能力が-10
上昇志向:上司が自分より全能力のいずれかが低いと自動的に上司殺害イベントが発生する。
悪のカリスマ:犯罪歴がある部下の忠誠度が100になる。
THE WORLD:スタンド能力。一般人に気づかれることなく殺傷することができ、5〜9秒時間を止めることができる。
吸血鬼:『肉の芽』『不死身』の特殊能力に加え、人間を吸血鬼にすることができるが、行動力・移動力が半分に落ちる。
・肉の芽:中確率で強制的に相手の忠誠度を100にする。※対面した人物のみ
・不死身:高確率で死の危険を回避

【統率チェックポイント】
人間の時から自分に対する恐怖・羨望・金・条件などを持ち出して、他人を利用し使うことに卓越している。吸血鬼となってもそれは変わらず、ジョースター一行に対し破格の懸賞金を掛ける事で自ら動かず始末しようとしている。その統率力は、時には捨て石となって役立とうとする者もいるほどである。ただ、やっている事と言えば組織もまるで整っていない賊のマネごとのようなモノであり、世界征服の展望が本当に進んでいたのかは疑問が残る。

【武力チェックポイント】
ケンカボクシングの才能は一流で、運動神経も抜群。更には吸血鬼のパワーとスタンド能力(備考にて後述)も身につけ、ジョナサンやジョセフ、花京院を討ち取るなど、個人的な武勇は言うことなし。しかしまとまった部隊を使っての戦いは弱く、部下を使って何度もジョースター家を滅ぼそうとするも全て返り討ちにあっている。

【知力チェックポイント】
世界征服が夢と語るなど理想は高いが、ジョナサンを必要以上に追い詰めて危機に陥ったり、一度は危険視したジョースターの血統を時が経つとまたしても侮るなど、見通しの甘さや学習能力の欠如が著しい。礼儀作法や教養、学業の知識は豊富で同じ失敗はしまいと考える辺りは及第点だが、結果として慎重になり過ぎて裏目に出たり(承太郎との決戦)、反省を行動として生かすことができなかったのは致命的。唯一評価できるのは犬のダニーを焼き殺した際に完全犯罪を達成した時くらいか。

【政治チェックポイント】
父親を騙して毒を盛り殺害、次いでジョースター家のありとあらゆる人間を騙して父親と同じ方法で当主殺害を図りお家乗っ取りを画策するも、あと一歩でジョナサンに感づかれた。しかし復活後はわずか4年で億単位もの金が楽に払えるほどの財力を有している事から、非合法であれ何であれ金品を掻き集める術には長けていたようだ。

【魅力チェックポイント】
一部の犯罪者や悪人を自称する者にとっては絶大的な恐怖、そして尊崇の対象。若い頃は冷静ながらも心は野心と感情に燃える人物であったが、年とともに落ち着き、彼の「人間的」魅力に惹かれて、あるいは簡単な仕事で大金を惜しげもなく出す気前の良さから、世界中から有望なスタンド使いが集まってきている。死後の後世に与えた影響も計り知れず、彼を殺したジョースター一族ですら、この男の悪の思念に引き寄せられた後継者に殺されている。ただ、中には本当にお金だけが目当ての賞金稼ぎや肉の芽で強制的に従わせた者もおり、また残虐な方法で人間狩りを行っているので彼を知る一般人には恐怖の対象でしかなく、一概に超人的なカリスマを有していたと断じるのは難しい。

【作者から一言】
ロマンホラー漫画の傑作『ジョジョの奇妙な冒険』最大の悪役にして、もう一人の主人公です。作中では希有の天才、絶世の美男子として描かれていますが、世界史上の人物として評価した場合、彼には失敗や慢心も多く、高評価は与えられません。しかし最終的に彼の忠実な後継者が、20年以上後に"ある意味で"世界征服とジョースター家の抹殺を達成させており、間接的に目的を達成していた、とも言えます。能力はどれも平均以上で魅力も高く、その上特殊能力も強力で、比較的使いやすい人物と言えるでしょう。しかし過信すると知力の低さと『慢心』『上昇志向』の特殊能力が仇となり、気づいた時には手遅れとなる可能性も持っています。扱いにはご注意を…

[761] ガーリックトースト73% 2008/10/03 23:03

>>760の続き

【列伝】
生没:1867年 - 1988年2月3日
略歴:ジョースター家養子、エジプト「DIOの館」当主
備考:スタンドとは「一般人が視認できない実体をもった背後霊」の事。スタンドはスタンド使いでしか見えないし、倒せない。

——邪悪の化身——

 1867年、下級階層のダリオ・ブランドーの嫡男として誕生。出生地はイギリス・ロンドンではないかと言われている。幼少時に愛する母親を過労で亡くし、その過労の張本人にも関わらず、全く意に介さない父ダリオを憎み、13歳の時に毒殺。翌年の1881年、ダリオの知己を頼って名門貴族ジョースター家の庇護を受ける。この時、当主の息子ジョナサンに辛く当たり、以後事あるごとにジョナサンを苛めているが、当初からお家乗っ取りを画策していたものと考えられる。しかし調子に乗ってジョナサンの恋人エリナを乱暴したためジョナサンの怒りを買い、完膚なきまでに殴打される。これの報復として彼の愛犬ダニーを焼却炉に入れて殺害。ジョナサン以外の誰にも疑われることなく完全犯罪をやってのけた。しかし一方で自らの短絡さを反省し、その後は冷静な行動に努めた。

 1888年11月、大学卒業間近を控え、正式に養子となって財産の相続権を得た事で、いよいよ当主の毒殺を図る。しかし父である当主の様子を察したジョナサンが毒の存在を疑い始めたため、彼の殺害も決意。かねてから気になっていた「石仮面」のメカニズムを研究していたジョナサンの論文を盗み、浮浪者に石仮面を装着して人体実験を開始。吸血鬼となる可能性を確信に換えた彼は、ジョナサンを刺した返り血を以って自らが吸血鬼にならんとする。しかしジョナサンの身代わりとなって当主が死亡し、ディオは吸血鬼となった。と同時にその場にいた警察官を残らず殺害、ジョナサンや自分を「ゲロ以下」と評したジョナサンの友人スピードワゴンも殺そうとするが、死闘の末敗北。しかし死の淵から復活した彼は、人間の生き血を吸って体力を回復しつつ、イギリス南部ウィンドナイツ・ロットに逃亡。追ってきたジョナサンと再び対決するが、吸血鬼の弱点である太陽エネルギー(波紋)を使った攻撃に虚を突かれ、またも敗北。太陽エネルギーに侵された胴体を自ら切り捨てて逃亡した。そして1889年2月7日、完全にディオが死んだと確信したジョナサンを、今度は妻のエリナと新婚旅行へ行く客船に乗り込んで奇襲、完全に虚を突かれたジョナサンを死闘の末殺害する。ディオは唯一自分を負かし、好敵手として尊敬したジョナサンの肉体を自らの頭部と合体させ、戦闘の余波で沈没する客船を尻目に海底奥深くに消え去った。しかしこの間の90年以上彼は海底で生存し続け、再起の機会を虎視眈々と待っていたのである。

[762] ガーリックトースト73% 2008/10/03 23:05

>>761の続き

 1983年、大西洋のアフリカ・カナリア諸島沖にて、一基の棺桶が引き上げられる。ディオは目覚めるなり世界各地を転々とし、後の後継者エンリコ・プッチを始めとした人間らと交流を持ち、1986年にはスタンド能力を発現。1987年頃にはスタンド能力を使って時を止める経験をし、スタンド使いの有力者エンヤを味方につけた彼は、体力が次第に戻ってきたこともあっていよいよ世界征服と宿命のジョースター家の抹殺を開始する。しかし数多の実力ある刺客をジョースターとその仲間らに送り込むも、揃いも揃って敗退。自らの本拠地エジプト、さらには居宅にまで乗り込まれてしまう。それでもなお彼らを侮るディオは、腹心のヴァニラ・アイスを派遣しジョースター一向の5人と1匹のうち、1人と1匹までを殺害するも最終的には敗北。ディオを追い詰めるが、時を止める能力とスタンドパワー、吸血鬼の圧倒的なまでの体力・生命力の敵ではなく、恐怖を感じて逃走するジョースター一行を逆に追い詰め、ジョセフと花京院の2人を一瞬で殺害。残るジョセフの息子、承太郎も一笑ののちに叩き伏せるが、この時承太郎にディオと同じく時を止める能力が発現。突然の事で狼狽するディオは必要以上に慎重になり、承太郎に「対応を考える時間」を与えてしまう。承太郎の心臓を止めるという大胆な作戦に引っ掛かったディオは死んだと勘違いし近距離にまで近づいてしまい、承太郎の強烈なパンチを浴びる。歩けなくなるほどダメージを受けたディオであったが、もしもの時の為の逃走経路は確保しており、マンマと逃げおおせた彼は再び血を吸って完全復活。しかも、血を吸って体が馴染んできたことでスタンドの能力が"成長"し、5秒までだった停止時間が9秒にまで伸びる。一瞬しか止められない承太郎との差は歴然で、勝利は揺ぎ無いものとなっていた。しかし、ここでディオは興奮のあまり慢心し、勝負をつけようとせず自らの成長した能力を試そうとしてしまう。中途半端ないたぶりかたをした結果、鬱憤が溜まりに溜まった承太郎はついに激昂。停止時間と停止時間との間にスキができる事を忘れていたディオは、承太郎の停止時間の終わりを計算した攻撃で膝を折られ、絶対絶命のピンチに陥る。

 動けないディオを前にし、正々堂々と「ディオの膝傷が完治する瞬間」をゴングとして決闘を申し込む承太郎。だが、今まで過程よりも結果を重視した生き方をしてきたディオにとって、それは便所のネズミの糞にも匹敵する程の愚かしいことであった。結局、完治する直前に自らの"血の目潰し"を以って奇襲を掛ける。だが、既に戦いを通してスタンド使いとして成長していた承太郎の怒りの一撃で膝の下を壊され、衝撃が全身にまで行き渡ったところで肉体が破裂。

 1988年2月2日、完全敗北、死亡。不死身の吸血鬼であるディオは、翌日の2月3日、承太郎の手によって朝日に晒され、煌めきと共に大地に消える。だがしかし、彼の壮大な野望は後継者エンリコ・プッチによって受け継がれることとなる。

[763] ガーリックトースト73% 2008/10/03 23:27

>>762の6行目

×ジョセフの息子、承太郎
〇ジョセフの孫、承太郎

ですね。間違えましたゴメンナサイ。

[764] ガーリックトースト73% 2008/10/04 22:48

空条承太郎

【統率】38
【武力】76
【知力】63
【政治】21
【魅力】51

【特殊能力】
頑迷:他者の懐柔や讒言に囚われないが、ワンマンになりやすい
不動:兵士の士気が変動しない
生物学:生物学に関することに限り知力+10
スタープラチナ:スタンド能力。一般人に気づかれることなく殺傷でき、2〜5秒時間を止めることができる

【統率チェックポイント】
高校生1人満足に使えない。不言実行の士であるため誤解されることも多く、他が勝手な行動を取ってピンチに陥ったことも多々ある。それでも何とか収拾がつくのは、彼の圧倒的な力によるところが大きい。

【武力チェックポイント】
幼少の頃は割とひ弱だったが、やる時はやる子供だった。作中では最強の名を欲しいままにし、ついに彼が死ぬまで正攻法では誰も倒すことができなかった。ディオ・吉良・プッチを始めとして彼の武勇に一目置く人物は多い。

【知力チェックポイント】
決して万能ではないが、感情よりも理詰めでまず考え、物事の本質・自分が何をすべきかを正しく理解することができる。作中では取り敢えず消極的な方法を用いて様子を見たり、ダービー兄弟との戦いでの牽制のかけ方もまずまず。ヒトデの研究で博士号を取得するなど一定の教養も持ち合わせている。良くも悪くも「今」を生きる事に関しては一級だろう。

【政治チェックポイント】
無口で他人との意思疎通を億劫に感じるなど、コミュニケーション能力に問題がある。交渉といえば威圧したり行動によってプレッシャーを掛けるなどくらいで特に見るべきものはない。一応、祖父の知己を使ってSPW財団と協力関係を保っているのでこのくらいか。

【魅力チェックポイント】
身長が高く、日英ハーフあるので女性からは非常に人気がある。一方で敵を作りやすい人物でもあり、一時期は叔父の仗助や娘の徐倫も彼を煙たがっていた。しかしそばにいるだけで有無を言わせぬ安心感があり、皆が頼りとすることは事実である。

【作者から一言】
ロマンホラー漫画の傑作『ジョジョの奇妙な冒険』のpart3の主人公です。もっとも、part3以降もサブキャラとして登場し、ディオを倒した最強の男として本編終了まで君臨し続けました。一応世界を守る側の総大将(?)なのですが、堅物で無口なため頼りにはされても人を率いて行動するタイプではありません。統率・政治も低く、彼を使うときはあくまで単独任務が前提です。それを守れれば頼りになる武将として活躍するでしょう。

[765] ガーリックトースト73% 2008/10/04 22:49

>>764の続き

【列伝】
生没:1970年? - 2011年
略歴:生物博士
備考:作中で最も多く登場した人物

——最も冷たく、最も熱い男——

 1970年、日本・東京で空条貞夫と妻ホリィとの間に誕生。1971年に誕生したとする説もある。一人っ子で幼少時は優しく真面目な少年だったが、この頃から覚悟を決めたら突っ走る性格であった。また、少なくとも1986年にはジョナサンの肉体を持つディオの影響で承太郎にもスタンド能力が備わったとされる。

 1987年12月、闘争心を持たない母ホリィがスタンド能力を悪い方向に成長させてしまい、昏睡状態に陥る(スタンドは精神力の塊。闘争心のない人間は取り込まれてしまう)。これをディオの影響と断言した祖父ジョセフ・ジョースター、そして既に戦いを通して仲間となったモハメド・アブドゥル、花京院典明と共にディオが潜伏するエジプトへと旅立つ。途中ジャン・P・ポルナレフを、祖父と知己のあるSPW財団が派遣した犬のイギーも加わり、数多のスタンド使いを蹴散らしディオの邸宅に足を踏み入れる。アブドゥルとイギーを失いながらもついに一行はディオと対面。しかしディオの圧倒的なまでの実力差に一度は邸宅から脱出、逃亡する。だが、間もなく花京院、次いでジョセフも討ち取られ(ジョセフは後に蘇生するが)、自らも全身を骨折するなどピンチに陥るも、承太郎の"心臓を止めて死んだと錯覚させる"という決死の機転と突然の「時間を止める能力」の発動で満身創痍になりつつもディオを撃破し、ジョセフと母を救出した。その後、間もなくしてアメリカ人女性と結婚、1992年に娘徐倫を授かる。承太郎22歳の時であった。

 月日は流れて1999年、老い先短い祖父ジョセフの財産分与のくだりで身辺整理をするうちに、ジョセフに不倫歴があることが発覚。日本人女性と関係し、息子が日本・杜王町にいるらしいというのだ。代表として承太郎が捜索し、ほどなく叔父仗助を発見。しかし杜王町を見ていくうち、徐々にこの町がスタンド使いの巣窟と化していることに気づき、媒介である"弓と矢"の所有者を見つけるべく捜索を開始。同じく仗助やその友人の広瀬康一・虹村億泰、そして杜王町を憂慮する多くの同志と協力し、媒介源虹村形兆・音石明、そして殺人鬼の片桐安十郎や吉良吉影とその吉影の父吉廣を撃破。町の後のことを彼らに任せ、アメリカに帰国した。この時に杜王町でのヒトデの生態を研究。博士号を取得している。また、2001年には調査を進めるうち、ディオの息子の存在を確認。実際に目で確認してもらおうと広瀬康一を派遣し、吸血鬼かどうかの皮膚の採取を依頼している。

 2011年、娘徐倫が刑務所に収監されたと聞きディオを信奉するスタンド使いの陰謀であると見抜いて即座に救出を画策。SPW財団の協力を仰いで徐倫と面会する。しかし徐倫は1999年の自らが42度の高熱に見舞われた時も、2006年の時にバイク事故で捕まった時も承太郎が仕事を優先したこと(と彼女は思っている)を鮮明に憶えており、承太郎との脱出を拒否し、彼の指示を聞かず独走してしまう。結果脱出が遅れ、敵と揉み合っているうちに何者かによって仮死状態にされる。その後長らく呼吸するだけの植物人間と化したが、徐倫とその友人らが彼の記憶と力を取り戻し、間もなく復活。自分を仮死状態にした敵、エンリコ・プッチを打ち倒すべく徐倫の元に急ぎ、すんでのところで最終の地ケープ・カナベラルに到着し瀕死の徐倫を救出し、同時に娘と和解。静かに怒りを燃やす承太郎は容赦なくプッチを追い詰めるが、あと一歩のところでプッチの『全ての時が加速する能力』が発現。時を止めることで時の加速に対抗し善戦するも、プッチの徐倫の命を利用した陽動に冷静さを失い、やむなく対応。次の瞬間にはプッチに真っ二つにされ、死亡。享年41。なお、プッチはその後、徐倫の友人のエンポリオに倒された。

[766] 喝食 2008/10/05 03:50

ギレン・ザビ

【統率】 91
【武力】 78
【知力】 89
【政治】100
【魅力】 96

【特殊能力】
弁舌 鼓舞 扇動 独走 虐殺 対人関係
慢心 :暗殺の可能性が大幅に上昇
選民主義:自国民に対する魅力・統率が上昇するが敵国の戦意を高める。また和平案が不利なものである場合、拒否する可能性が大

MS戦術 :ミノフスキー粒子下の有視界戦闘において通常運用の艦隊又は戦車部隊、戦闘機や戦闘ポッド部隊に対して圧倒的に優位
MA戦術 :局地的戦闘においてMS部隊にある程度優位
コロニー落とし:敵国の任意の拠点に対し壊滅的なダメージを与える。制空権を完全に確保していない場合は阻止行動によって目標が外れる可能性大。条約により制限可能
ソーラ・レイ:集結中の敵戦力に対し武力100の範囲攻撃。回数制限有。防御不可

【統率チェックポイント】
ジオン公国の全権を掌握。首相や議会は彼の傀儡に過ぎず、公国を作った父デギンすら彼の行動を規制することはできなかった。一年戦争当初は有能だが癖のあるザビ家の面々を上手く利用、キシリアとドズルの関係も調整して軍を編成。凄まじい戦果をあげる。戦局が苦しくなった後も物量に勝ると自身が述べる連邦に対して地球上に拠点を失い、要塞ソロモンを失うもその存命中はジオン国民の戦意を維持した。甘いと言われて暗殺されてしまっているがその絶対的な自信から独裁者にありがちな猜疑心に陥ることなく有能な妹や弟を活用できたとも言えるため、暗殺されたことのみによって大きく減点するのは躊躇われる。

【武力チェックポイント】
通常は独裁者らしく安全な位置で戦略的な指揮を行っていたため戦術的な軍団の指揮は概ねドズルやガルマ、キシリア等に任せていたがア・バオア・クーでは自ら防衛部隊を指揮。レビルを失い、ソーラ・レイで打撃を受けていたとはいえ物量に勝る連邦軍に対しキシリアが勝利は揺るがないと見るほど優位に戦いを展開していた。彼の死によって一気に指揮系統が混乱し、戦況が逆転していることから実際の戦闘の指揮においても非常に卓越していたと考えられる。

【知力チェックポイント】
IQ240。人口1億5千万人のジオン公国を率いて腐敗、疲弊しているとはいえ地球圏の人口100億以上をほぼ掌握、国力にして30倍以上の差を持つ地球連邦と戦い、その人口の半数を失わせほぼ勝利寸前までこぎつける。MS戦術の優位性を確信し連邦軍の内情や戦力を的確に把握していたからこそこんな考えられないような暴挙にでることができたのだろう。不幸なことに戦略眼は超一流であった。レビルの脱出と「ジオンに兵なし」演説や木馬の驚異的な活躍とレビルの後押しによる連邦の予想以上に早いMSの実戦投入など誤算もあるがどんな事態に対しても彼はその都度戦略を練り直し対応しており自身が暗殺されるまで決定的な破綻には至っていない。一方で自らに絶対の自信を持っていたために対人関係において人の感情を読み取る能力は欠如しておりそのためにデギンの心情やキシリアの叛意を理解することができず、自身の暗殺を招いてしまった。

【政治チェックポイント】
政治力において地球圏で彼に匹敵する存在は僅かである。地球連邦の衆愚政治が資源を浪費するとして嫌悪し、少数のエリートが先導する社会が人類の永遠の存続を達成すると考えその実現の為に手段は全く選ばなかった。動機はどうあれ目的を実現する能力は超人的。一週間戦争、地球降下作戦など空前の大作戦の実行のみならず戦況が苦境に陥っても次の策を用意する天才的手腕を持っており、しかも自身の基盤であるサイド3では反乱の兆しすら見せていない。弟の死を戦意の高揚に利用、キシリアとの政治的対立も実権を掌握していた彼にとってはほとんど問題にならない程度のものであったとみられる。もし行動の障害となるほどの脅威と見ればデギンのように排除してしまっていたであろうし、国家と軍を私物化していた彼にはそれをできる能力があった。あのキャスバルでさえ彼の政治組織の統制力を前にして表立って決起することはできず、その天才的なパイロットとしての技量をもって内部から侵入し、キシリアとお互いを利用する関係になっていなければ復讐は困難であっただろう。

【魅力チェックポイント】
これほど非道な人物でありながら国民や軍には熱狂的に支持されていた。演説によって人々を扇動する能力では彼の右に出るものはいない。その死後ですらエギーユ・デラーズを代表とする熱狂的な信奉者が決起するなどしている。そもそもゲームにしてからが「ギレンの野望」である。

[767] 喝食 2008/10/05 03:52

>>766の続き

【列伝】
ギレン・ザビ(UC0044〜UC0079)

——宇宙世紀最悪の独裁者——

デギン・ソド・ザビの長男。ジオン公国の総帥であり階級は大将。ジオン・ズム・ダイクンによる宇宙市民の独立運動においてその頭角を現した。徹底的な合理主義者で目的のためには手段を選ばぬ冷酷な人物であり、父デギンからは「ヒトラーの尻尾」と呼ばれる。どこまで関与したかは定かではないがキャスバル・レム・ダイクンは父であるジオンがザビ家に殺されたと述べており、その実力からも彼がその殺害において中心的な役割を果たした可能性は大きい。その卓越した政治手腕によって徐々にデギンの権力を我が物としてジオン公国の実権を掌握した。IQ240という天才でありそれがために他者を見下す傾向にあった彼は地球連邦の民主制の腐敗した様を衆愚制として嫌悪。自分たちジオン国民を優良種として優勢人類生存説を唱えそれ以外の民衆を抹殺することで人類社会が永続できると考え、新兵器であるMS部隊をもって連邦に戦いを挑んだ。開戦当初の一週間戦争でNBC兵器を用いてサイド1、2、4を壊滅させコロニーを質量爆弾として地球に落下させるブリティッシュ作戦を実行するも連邦艦隊の抵抗により失敗する。この間に地球圏の人口の半数が失われる。その後ルウム戦役ではジオン軍はMS部隊の効果的な運用により3倍の兵力差を跳ね返し、指揮官レビルを捕虜とする。連邦軍は戦意を喪失し事実上の降伏まで目前であった。しかし和平の直前でレビルが脱出。ジオンの内情を見てとったその演説により一年戦争は継続することとなる。その後彼は地球降下作戦を発動。一時は地球上の半分を制圧するも補給線が伸び切りジャブロー攻略に失敗。拠点であるオデッサをも失い地球上の戦線をほぼ失う。その戦場が宇宙に移った後も戦線の後退を余儀なくされドズルが守るソロモンも陥落した。尤もソロモンに送った増援がいかに強力とはいえビグザム一機であったことからギレン自身は元々、ソロモンを時間稼ぎとして準備を整え、連邦の艦隊を引き込んでソーラ・レイによる打撃を与えてア・バオア・クーで完全にこれを叩くつもりであったと考えられる。予想外にもデギンが和平交渉に向かったもののこれをレビルもろとも光の中に消し去った彼は当初の予定通り最終防衛ラインを自ら指揮する。超大型空母ドロスを擁するジオン軍の守りは固く、優秀な指揮官であるレビルを失い、大打撃を受けた連邦軍に対し圧倒的ともとれるほど優位な戦いを展開。勝利は揺るがないかに見えた。ここに至って共に指揮をとっていたキシリアはギレンの父殺しを糾弾。意に介さないギレンであったがキシリアは彼に向けた銃の引き金を引く。稀代の独裁者の最後はあっけないものであった。その後ギレンの死によってジオン軍の指揮系統は混乱。その隙をついた連邦軍の猛攻によりア・バオア・クーは陥落することとなる。

超人的に優秀な戦闘技能を持つわけでもなく、登場回数も多くないにもかかわらずこの存在感。まさに悪の帝王です。最後がなさけないのがちょっと残念。でも最もこの人らしいかもしれません。最後にシャアがやったことは結局のところこの人のやり方とどう違っていたのでしょうか。

[768] ガーリックトースト73% 2008/10/07 21:29

世宗大王 (李氏朝鮮)

【統率】64
【武力】48
【知力】57
【政治】76
【魅力】49

【特殊能力】
扶儒抑仏:儒教国に対しての友好度+30、仏教徒に対する統率・魅力-20
美化:死後魅力+20

【統率チェックポイント】
大きな反乱もなく無難に治めていた。女真族領に侵攻後、支配機構(六鎮)を置き、現地の安定化に努めた。また、国語・ハングルを制定し、朝鮮人の団結力を高めた。

【武力チェックポイント】
朝鮮北部を侵攻し、現在のウラジオストック近辺を制圧。女真族を追い出した。

【知力チェックポイント】
技術・学業を奨励し、彼の治世の間に測雨器、雅学や活字・印刷技術が大きな発展を遂げた。一方で儒教を奨励し仏教を軽んじたため仏教の文化や風習までも否定され、現在に至るまで復興はされていない。また、必要なまでに女真族を抑圧し服従を強制したため、のちにホンタイジが朝鮮に侵攻するキッカケを作ったとも言える。

【政治チェックポイント】
逐一日本・明国の動向を気に掛け、幾度も通信使を派遣して実情把握に努めている。内政では一貫して通貨・言語・文学の統一化に力を注ぎ、医術や外交に関する条文が数多く編纂されている。

【魅力チェックポイント】
読書家であり聡明な王であったようで、父王の信頼を得て兄を押えて王位に就いた。しかし彼は生前よりも死後、魅力を高められた人物と言え、現在でも駆逐艦や自治体、紙幣に至るまで彼の名が使われている。

【作者から一言】
朝鮮の人が今も昔も口を揃えて言う「李氏朝鮮史上最高の国王」が彼です。本が好きだったようで、1日中同じ本を繰り返し読んでいても全く飽きなかったという逸話を持っています。能力は統率と政治がやや高く、政党の党首などに据えればなかなかの活躍を見せるでしょう。

【列伝】
生没:1397年5月6日 - 1450年5月18日
略歴:李氏朝鮮第4代国王
在位:1418年 - 1450年
備考:「荘憲英文睿武仁聖明孝大王」の諡号を与えられる

——海東の尭舜——

 1397年、第3代国王・太宗の第3王子として誕生。母は閔氏(元敬王后)。1406年、忠寧大君(職官)に封じられ、沈氏(後の昭憲王后)と結婚した。その後しばらくして病弱な父王太宗から王太子への譲位が検討される。しかし外戚との確執や王太子である譲寧大君の不適切な性格が問題となり、度々お流れになった。1418年、意を決した太宗は譲寧大君から王太子の資格を剥奪し、聡明で知られた三男の世宗に譲位した。しかし、父太宗はその後も院政を敷いて倭寇討伐を促すなどして影響力を保持した。

 1422年、太宗が崩御すると直ちに世宗による親政が始まる。彼の治世の間に朝鮮東北部の女真族に侵略戦争が仕掛けられ、女真族を抑圧し朝鮮領とした。外交では日本に対し通信使が派遣され、室町幕府との友好や倭寇抑圧の要請とともに国情視察を行っている。1432年には簡儀台(天文台)を設置し、渾天儀(天体観測器)などを製作させた。また、時間を測定する日時計や水時計も製作させた。活版印刷では、1403年に発明された青銅活字「癸未字」の発展型として「庚子字」や「甲寅字」を開発させた。

 1450年、53歳で崩御。先に没していた昭憲王后とともに、太宗の陵墓である、現在のソウル特別市瑞草区に合葬された。しかし1469年には、昭憲王后とともに京畿道驪州郡の英陵(世宗大王陵)に移葬された。

[769] 一見 2008/10/08 07:35

名前ぐらいしかしりませんが、説明文の内容からして武力と政治と魅力が低すぎませんか?
評価スレでは伝統的に朝鮮史の人物にマイナスのバイアスがかかってる感じがあります。

[770] 喝食 2008/10/10 02:22

>>769

僭越ですが個人的に思ったことを。自分では朝鮮史の人物の評価はやっていませんがまとめサイトを見てみるに朝鮮史の人物は評価人数に比較して超人クラスもいますし全体としてバイアスと言うほど偏っているとは言えないと思うのです。日本史の人物でもシビアながら極めて的確に思える評価が多いですし(戦国時代の人物など人気があるからでしょうか特に)、李舜臣など有名な人物の評価は実績に比べて成果が誇張さえれているという立場からと思うのでそれは一つの見方としてありうるものと思います。また個々の評価にはそれぞれ評価された方の評価基準があり、朝鮮史は評価人数もそれほど多くないことからも伝統的な傾向というほどのものでもないと思います。もしご自分なりにそれらの人物に対して妥当と思える基準があれば具体的な数値評価として拝見したく思います。勝手な見方で恐縮です。長々と申し訳ありません。

[771] 喝食 2008/10/10 02:31

>>770

誇張さえれている→誇張されているの間違いです。失礼しました。

[772] ガーリックトースト73% 2008/10/11 23:53

マルコムX (マルコム・アール・リトル)

【統率】62
【武力】34
【知力】73
【政治】50
【魅力】84

【特殊能力】演説 弁舌
不運:「暗殺」「粛清」の対象となった場合、通常より成功率が上昇してしまう。
正統ムスリム:イスラーム・ムスリム勢力への統率・魅力・政治がそれぞれ+5

【統率チェックポイント】
子供の頃から学級委員長に何度も当選。また演説に精通しており、黒人が好むあらゆる白人・白人社会に対する罵詈雑言を繰り返すことで、壇上に立った彼の姿に心酔し追従した黒人は多かったと言われる。。

【武力チェックポイント】
単なる演説家なので武力は常人なみ。しかしニューヨークの黒人街でスリ・強盗・売春、果ては麻薬とさまざまな悪徳に手を染め、裏の人間と渡り歩いたこともあった。

【知力チェックポイント】
高校中退にもかかわらず、刑務所内で一心不乱に勉強し、出所の際には新聞記者に一流大学出と間違えられるほどの言葉用法・司法・立法の知識を有したことから、知識の呑み込みは早い。時勢を見る目も確かで、完全非暴力主義のキング牧師を批判し、彼のアンチテーゼとして黒人の支持を得ながらも、ストークリー・カーマイケルのような過激な暴力を全面的に容認する姿勢ではなく、白人批判にしても中東の白人とアメリカ系は別の問題である、と分けて考えられる思考を持つ。

【政治チェックポイント】
公民権運動の中心人物の一人として活躍。また、ムスリムとして彼らと黒人社会との橋渡し役を一手に引き受け、黒人を差別しない白人が多いイスラムを布教しようと活動に邁進している。ただ、彼の行動はどうしても急進的なものが多く、事実、無用な反発を招いた事もあって大局的なヴィジョンを有していたかは疑問。

【魅力チェックポイント】
世界の人権問題を語る上で欠かせない人物の一人。勤勉で質素、そして人当たりもよいため収監された刑務所でも慕われていた。キング牧師の考えに賛同できない勢力の代弁者として自らの元に糾合、モハメド・アリやカーマイケルを始めとして彼の薫陶を受けた人間は多い。しかし第一人者のキング牧師には及ばないだろう。

【作者から一言】
昔はこの人「危険そうな人」くらいのイメージしかなかったのですが、後になって調べてみると彼の口から出たあらゆる罵倒や急進的な考えは生い立ちの凄惨さから来ていると知り、ショックを受けました。キング牧師は当然ですが、やはり彼も信念の元に散った偉人であると思います。能力は武力以外は軒並み高めですが、「不運」の効果で簡単に暗殺されてしまうので注意が必要でしょう。

[773] ガーリックトースト73% 2008/10/11 23:54

>>772の続き

【列伝】
生没:1925年5月19日 - 1965年2月21日
略歴:ネイション・オブ・イスラム教団スポークスマン、ムスリム・モスク・インク創立者、アフリカ系アメリカ人統一機構創立者
備考:「スーツケースと眼鏡、あと時計かな」(最も役立ったものは?と聞かれて)

——レッドサタン——

 1925年、アメリカ・ネブラスカ州のオマハで誕生。この時の改名前はマルコム・アール・リトルを名乗っている。6歳の時に、父親が原形を留めないほどの死体となって発見された。誰しもが彼の考えを憎むバプテスト協会による他殺を疑ったが、警察はなぜか「自殺」と断定。マルコムの家族が高額の生命保険を積み立てていた保険会社も自殺とされて"安心"したのか払戻金を出し渋り、遺族に対し一切の保険金も支払わなかった。これが原因で母親は精神病に侵され、挙句の果てには入院先の職員らから執拗なまでの追い打ちを受け(子供たちを手放すよう何度も迫ったとされる)、後を追うように死亡。これらの事件をきっかけとして、マルコムXは白人と白人社会を深く憎悪するようになる。

 その後マルコム少年は白人の上流階級の家に引き取られたが、マルコムの著書ではあくまでも「高価で珍しい"動物"」として扱われたと語っている。実際、戦前のアメリカでは裕福な白人ほど黒人の孤児を引き取る事が流行っており、ほぼ事実であろう。マルコム少年は学校では成績優秀で、学級委員長にも何度か当選したが、引っ越し先の中には白人の学校に一人だけ黒人として通った時もあり、一番後ろに座らされた。そして成長し、現状に不満を感じたマルコムは高校を中退。新たな引っ越し先のボストンでは靴磨き、ニューヨークでは黒人街で犯罪に手を染めた。この時から、他の黒人達から『レッド』と呼ばれるようになる(若干肌の色が明るいため)。

 しかし1946年1月12日(20歳)には逮捕され、収監された。通常の窃盗罪は初犯ならば軽いが、当時彼は白人女性と関係を持っていたため白人の反感を買い、通常よりも長い刑を宣告された。収監されたチャールズタウン州刑務所では罵倒の毎日で、神や聖書に対しても容赦なく切り捨てたため、彼は服役囚から『サタン』と呼ばれた。1948年にイスラム教に改宗し、獄中でブラック・ムスリム運動を指導するイライジャ・ムハンマドに出会い、その教えを研究。刑務所内の討論会に参加したり、館内の図書全冊を模写するなど勤勉に学習した。出所後、彼を支援するネイション・オブ・イスラム教団から"X"の一字を与えられ、以後『マルコムX』と名乗った。しかし1962年、師匠であるはずのイライジャが少女を強姦し子を産ませていたことが判明し、マルコムは彼と教団に失望し激怒したとされる。彼は間もなく告発し、教団内における立場を危うくする事になる。1963年2月、教団は彼の暗殺を画策するがこれは失敗に終わった。

 1964年3月にマーティン・ルーサー・キング牧師と挨拶程度の対面をし、同じ年にイスラム教の聖地・メッカに巡礼。そこで彼は現地のイスラム教徒から熱い歓迎を受け、白人の多種多様の有りようを目の当たりにして帰国。以前の求心力を失ったネイション・オブ・イスラム教団を脱退。アフリカ系アメリカ人統一機構を創立するが、このことが彼の死期を早める結果となった。このマルコムXの行動に激怒した教団側が、全メンバーに対しマルコムXの暗殺を指令したためである。

 1965年2月14日の爆弾テロは寸でのところで家族ともに助かったものの、その一週間後の2月21日、演説中に15発の銃弾を浴びて蜂の巣にされ、間もなく死亡。遺体はニューヨーク州ハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。…なお、彼の死には現在も謎が多く、一説にはCIAやFBIも関与していたと言われている。

[774] ガーリックトースト73% 2008/10/12 23:38

ハッサン・グレド・アプティドン

【統率】26
【武力】32
【知力】44
【政治】49
【魅力】38

【特殊能力】
懐柔:相手より知力・政治の両方が上回れば一定確率で味方にできる。ただし『頑迷』の能力を持つ人物には無効。

【統率チェックポイント】
22年間大統領としてジブチを統治したが、部族間の対立を防ぐことができず、内戦にまで発展。もともと大勢与党である進歩人民連合を率い、事実上の一党独裁というアドバンテージがありながら組織の瓦解を防げなかった。

【武力チェックポイント】
政敵の統一民主回復戦線に対し政府軍に指令を出し攻撃を仕掛けて戦闘を優位に進め、和平に持ち込んでいる。が、彼は軍属ではないので高評価はできないか。

【知力チェックポイント】
内戦を未然に防げなかったことは事実であるが、批判があるとわかると即座に脱部族政策を打ち出し、大統領職の直接選挙制導入を公約に入れて見事再選している。

【政治チェックポイント】
新憲法や複数政党制を導入するなど、自らの権力保持のためには少々の妥協は恐れない。日本にも度々訪れ、阪神大震災の義捐金をポケットマネーで出したり、公明党という政治基盤を持つ創価学会への会談もこなしている。

【魅力チェックポイント】
「男性と女性が戦争したら女性につく」と豪語するフェミニスト。甥のゲレとは違い、敵を味方に引き入れる魅力はない。長期にわたる政権も実利をチラつかせて維持してきた賜物に過ぎない。

【作者から一言】
アフリカ東部・ジブチ共和国の初代大統領ですが、結論から言いますと、彼より後継者である甥・ゲレの方が優秀です。もちろん、隣国ソマリアの故シアド・バーレ元大統領よりは有能であることは間違いないですが、やはり内戦を引き起こした第一の人物ということで辛めの評価を甘んじて受けて頂きたいと思います。

【列伝】
生没:1916年10月15日 - 2006年11月21日
略歴:ジブチ共和国初代首相・初代大統領
在任:ジブチ共和国大統領(1977年6月27日 - 1999年5月8日)

 1916年10月15日、フランス領ソマリランド・ガリッサ村で誕生。彼はムスリムであるが、同教徒の名前は本人の名前と父親、そして祖父の名前から構成されるため(サッダーム・フセインは"フセインの子サッダーム"という意味)、"グレド"と"アプティドン"はそれぞれ父親と祖父の名前ということになる。当時のアフリカは独立の機運が高まっており、当然フランス領ソマリランドにも時代の風が起こっていた。しかし、この国には昔からイッサ族とアファル族という2つの大きな部族の対立があり、その結果独立問題は複雑となっていたので、未だフランスの海外県にとどまっていた。しかし1967年には、国民投票によって引き続きフランス領であることを選択したあと、フランス領アファル・イッサと改称される運びとなり、独立の機運が再び熱を帯び出す。その後、議会選挙が開催され、アファル族率いる進歩党が圧勝し、続いてイッサ族を基盤とする独立アフリカ人民同盟も勢力をのばし、フランスに対し独立を要求。その結果、1977年にはジブチ共和国として独立し、既に政治家として基盤を確立していたハッサンが大統領に就任する。この時彼は61歳。"開花"と呼ぶには遅すぎるものであった。

 ハッサンの大統領就任で一時は政情が安定するも、ほどなく部族間の対立が表面化。イッサ族出身の彼はどうしても同族を優先してしまい、アファル族から不満が噴出。1991年には内戦という最悪の事態となる。ここにきてハッサンは部族優遇を止め、大統領職の直接選挙を提案し、一時は地盤が緩みかけた地位を見事修復する。そして、投票をボイコットしたアファル系の統一民主回復戦線に対し、ハッサンはただちに攻撃を承認し全面攻撃。94年12月には政府側と統一民主回復戦線の穏健派は和平合意に調印し、連立与党を組んで全議席を掌握し、再び強権を維持した。1999年に甥であるイスマイル・オマル・ゲレに大統領職と自らの政治基盤を譲り、これを以って政界を引退。

 2006年11月21日に死去したが、90歳と長命であった。

[775] 喝食 2008/10/13 13:39

自重しようと決めたつもりが・・・申し訳ありません・・・。

イブン・アル・ハイサム

【統率】35
【武力】24
【知力】91
【政治】55
【魅力】58

【特殊能力】
光学 天文学 数学 物理学 哲学 帰納法
科学的手法:自然科学の分野において思索による限界を超えて知性を高める。未知の自然法則の正確な理解と発見のためにほぼ必須

【統率チェックポイント】
エウクレイトスやプトレマイオスの著作をアラビア語に翻訳して教えるなどして生計を立てていたようだ。

【武力チェックポイント】
研究に没頭。アルキメデスみたいなことはできたかもしれない。

【知力チェックポイント】
イスラム科学を代表する天才。実験に基づいた極めて近代的な方法で自然法則の解明に尽力し、その成果は特に光学・数学・物理学において目覚ましい。当時のイスラムの賢者の例に漏れずあらゆる学問に通じていた。ナイルの氾濫への対策が可能と豪語して失敗して以降、実験に没頭してその生涯を研究に捧げた。後にその業績はラテン語に翻訳されロジャー・ベーコンやヨハネス・ケプラーなどに伝わった。天文学との格闘から科学的手法が確立される過程において彼の果たした役割は非常に大きい。

【政治チェックポイント】
ナイルの氾濫防止に失敗すると狂気を装って危険を回避。自分の身を守る術は心得ていた。

【魅力チェックポイント】
賢者として尊敬を集めていた。光学分野においてその著作は17世紀に至るまで支配的な地位を占めている。

【列伝】
イブン・アル・ハイサム(965〜1039)

——光学の父——

本名はアブ・アリ・アル=ハサン・イブン・アル=ハサン・イブン・アル=ハイサム。ラテン名はアルハゼン。バスラ出身。諸学問に通じ科学者として名声を得ていた彼はナイル川の流量の調節が可能だと述べたためエジプトを支配していたファーティマ朝の王アルハーキムに招聘される。しかし実地調査によりその不可能を悟り王の怒りを恐れてその死まで狂気を装った。城から出された彼はその後の生涯を研究に没頭。数学や物理学など幅広い学問で多くの著作を残した。特に光学の分野ではプトレマイオスに注目してその成果を検証。新発見により多くの部分を否定して近代光学の基礎を作った。目から出た光が対象を走査して目の中に像を作るというそれまでの考えを否定。太陽その他が発する光が対象に反射しそれが目に入って像を結ぶという正しい理論を提示し、現在の基準で見てもかなり正確な眼球の構造を記している。その研究は実験や観察の結果を帰納してそれを厳密に数学を用いて演繹するという近代的ものであった。「視覚論」など彼の著作はその後ラテン語に翻訳され広くヨーロッッパに伝わる。ケプラーやデカルト、ホイヘンス、ニュートンなどによる発展は彼の成果を土台としたものである。

ギリシアの自然学から実験と観察によって法則を導き出す自然科学の道を開拓したイスラム科学の巨人の一人です。光学や物理学、数学など科学者としては数百年単位で時代を超越しておりトップクラスの人物ですがそれを世界史上の知力として極端な評価をするのは躊躇われたので彼の手法を特殊能力として評価してみました。

[776] 喝食 2008/10/14 13:11

アダム・スミス

【統率】56
【武力】28
【知力】80
【政治】89
【魅力】76

【特殊能力】
経済学 哲学 文筆 道徳
諸国民の富:経済・貿易を自由化。得られる富を増大し労働意欲を高める

【統率チェックポイント】
自由競争の推進者であったが道徳哲学の立場から公共心も重視し、個人は単に利己的であるだけでなく他者の視線を意識することによって均衡が保たれると考えた。また公正な競争を実現する為の規制にはむしろ積極的であった。

【武力チェックポイント】
幼少時は極めて内向的な性格であった。目立った軍事経験もなし。

【知力チェックポイント】
古典派経済学の創始者。代表的著作である「国富論」の大部分はヒュームやチュルゴーの思想と比べて目新しいものではなかったが哲学や政治思想としてではなく科学として経済を論じたという点において最初のものであった。当然ギルド制度に批判的であり、それに阻まれ開業できないでいたジェームズ・ワットを助けて勤めていたグラスゴー大学で実験器具の店を開けるようにはからっている。ワットは大学の構内の芝生の上で蒸気機関の改良プランを閃いたという。経済成長における技術革新の重要性にも着目していた。

【政治チェックポイント】
富の源泉とその分配について初めて総合的に分析した。現在でも各国で採用されている多くの経済政策が彼の分析を基に考え出されている。その意義は極めて大きいが実際に行った政治活動は限られるため80代に止める。

【魅力チェックポイント】
著作「国富論」で多大な名声を得る。フランスの知識人達とも親しく交流し知識を深めている。また収入の多くを慈善事業に寄付した。死後もその評価は高い。

【列伝】
アダム・スミス(1723〜1790)

——神の見えざる手——

スコットランド出身の経済学者・哲学者。グラスゴー大学でフランシス・ハチソンの下、道徳哲学を学びその後1751年から63年までグラスゴー大学教授として教壇に立つ。当時は経済学という分野は存在せず、主に論理学や修辞学など一般教養を教えていた。1752年から道徳哲学教授に就任。1759年には講義録である「道徳情操論」を発表。
同感(sympathy)という感情に基づいて公平な観察者の視点を人々が意識することにより、社会の秩序が維持されるとして道徳の基準を示して経済学で論じる利己心の根底を流れる思想を考え出した。その後1763年に教授の職を辞して家庭教師としてフランスに渡りチュルゴーやダランベールなど知識人達と交流。1766年にスコットランドに戻り経済学最大の古典である「国富論」(原代「諸国民の富の性質と原因の研究」から「諸国民の富」とも)を執筆する。その中で「神の見えざる手」という言葉を使い利己的に行動する個人が市場で自由な経済活動を行うことによって経済的な均衡がもたらされるとした。その自由主義経済思想はその後の世界を主導することとなる。1787年にグラスゴー大学名誉学長に就任。1790年にこの世を去った。

ワットと友人だったというエピソードが微笑ましく感じられます。現在でも様々な経済的な困難が起こる度にその原因のかなり多く部分が過剰な利益追求によって起こったモラルの低下によるものであることを知ります。市場経済を重視した彼ですが本来教えていたのは道徳哲学だったことからも似たような危険についても早くから気が付いていたのではないかと思ったりしました。みんな危険がわかっていないわけではないんでしょうが・・・。

[777] ガーリックトースト73% 2008/10/18 00:38

ヘイダル・アリエフ

【統率】88
【武力】27
【知力】86
【政治】69
【魅力】41

【特殊能力】頑迷 不正
弾圧:魅力-10 統率+3 治安回復(大)
蓄財:貯蓄の才能。一定期間経過後、自動的に私財が増加

【統率チェックポイント】
ソ連時代から四半世紀以上に渡りアゼルバイジャンを牽引。極めて独裁的・強権的であったにせよ、政情不安の同国をまとめ上げ、崩壊寸前の経済を復活させた。生前に徹底して不平分子や反対派の一掃を行ったため、息子に流動的な権力移譲を行っている。強権政治に伴う国民の不満をそらすためにナショナリズムの高揚、緊張関係にあるアルメニアへの責任に転嫁するなど利用できるものは何でも利用した。彼の死後、社会内不信が拡大し特に反対派の活動が活発化していることも念頭に置きたい。

【武力チェックポイント】
戦闘の経験もない、ただの政治家。壮年期にKGBの議長を務めた経験がある。

【知力チェックポイント】
良くも悪くも『意志の人』。親玉のゴルバチョフに対し公然と牙をむき、当然失脚するも、早々に共産党に見切りをつけ故郷に舞い戻り、草の根的な政治活動から再スタート。その後わずか3年で再びトップに返り咲いた。ナゴルノ・カラバフ自治区をめぐる一連の戦争でも強硬路線を貫き、油田利権をチラつかせて調停に現れた敵国アルバニアやアラバフはもちろん、ロシアやフランスをも手玉に取った。

【政治チェックポイント】
油田を開拓し外貨を積極的に貯えた結果、アゼルバイジャンの経済を復活させた。一方、同国を汚職大国へと"昇華"させた張本人でもある。権力闘争には強く、邪魔者は勢力を拡大する前に残らず摘み取った。大統領選でも不正選挙を行い圧倒的大差で当選。権力の世襲を推進し事実上のアリエフ王朝を確立。大統領就任時に自分を支援したロシアに対しては基本的に配慮を見せ、その知己を使ってカラバフ自治区の調停を依頼している。

【魅力チェックポイント】
権威主義的な考えの持ち主で、かなりのワンマン。その上頑固で融通が利かないため人間的な魅力は語るに及ばず。汚職・腐敗・世襲と負のイメージが多いため国際社会の評判も悪い。しかしアゼルバイジャンには彼以上の人材はいないのも事実で、何かにつけ彼を頼る人間は多い。また、国民はアリエフよりむしろ野党の政務能力に対しての不安感の方が強く、強権的でも安定した政治を求める声は強い。短期間で表舞台に復活したのもこの辺りが関係している。

【作者から一言】
意志の力は偉大です。良いにつけ悪いにつけ、強固な覚悟を持つ人間は自然と注目されるものです。ヘイダルは油田利権で得たお金を自らの懐に入れたりアゼルバイジャンに汚職を蔓延させたりもしましたが、彼なしで石油・天然ガスで潤う現在はあり得ないのも事実であり、国民感情も様々なようです。能力は統率が突出して高く、知力もかなり高いため大局的な目で見ることの出来る独裁者になりえるでしょう。

[778] ガーリックトースト73% 2008/10/18 00:39


【列伝】
生没:1923年3月10日 - 2003年12月12日
略歴:アゼルバイジャン共和国KGB議長、同国共産党中央委員会第一書記、同国第3代大統領
在任:アゼルバイジャン共産党中央委員会第一書記(1969年 - 1982年12月)
   アゼルバイジャン共和国第3代大統領(1993年6月 - 2003年10月)

 本名はヘイダル・アリルザ=オグル・アリエフ。出生地は確定していないが、アゼルバイジャンの飛び地領であるナヒチェヴァン近辺で生まれたのではないかと言われている。学業に励み、国立アゼルバイジャン大学に進学。歴史学を専攻する。卒業後の1944年、アゼルバイジャン国家安全保障局(後のKGB)に入局、1967年には議長に就任し頭角を現す。1969年からはアゼルバイジャン共産党中央委員会の第一書記に選出され、82年まで務めた。同年12月にはソ連に渡り首相代理に就任。晴れてソ連の政治局員となったが、彼の政治姿勢を快く思わないソ連の古参幹部らがゴルバチョフを焚きつけ、間もなくヘイダルは政治局から追放され失脚。頂点から一転、野に放逐された。

 再起を図るヘイダルはソ連時代に培った政治家としての経験を生かし、1990年には共産党を離党してナヒチェヴァンに舞い戻って、同地のアゼルバイジャン人議会議員、ナヒチェヴァン自治共和国最高議会議長に相次いで当選。更にはアゼルバイジャン本国の最高議会副議長に就任。最後にはロシアの力を借りて失政を繰り返す第2代大統領アブルハズ・エルチベイを失脚させ、自らが第3代大統領に就任(1993年)している。晴れて大統領となったアリエフは抜群の指導力を発揮、反対者を一掃しつつ外資・外貨の積極的な受け入れによってナゴルノ・カラバフ紛争によって嵩んだ膨大な戦費で壊滅状態にあったアゼルバイジャン経済の立て直しに着手。油田・天然ガスを採掘し財政を見事改善させる。その間の大統領選挙対策も対策を立て、不正を行い他候補を蹴散らし1993年と1998年の2度に渡る選挙をも圧勝。わが世の春を謳歌した。

 しかし、確かに彼の産業振興政策によって石油・天然ガス事業は大々的に発展し、アゼルバイジャンに巨万の富をもたらしたが、何十年も実力者が変わらず親族が経済・政治の両方を取り仕切る国がいつまでも変質しないはずはなく、いつしか巨大な利権となって汚職や政界の腐敗が進み、ヘイダル自身も私腹を肥やすようになり、国際社会から「世界有数の腐敗国家」という評価を受ける結果となる。また、1999年頃からヘイダル自身の健康不安が度々囁かれるようになり、2003年の生中継中のテレビの前でついに倒れる。その後はアメリカにて治療に専念、息子・イルハムへの権力移譲を企図し、来る大統領選に向けて側近に策謀を指示、着々と地盤を固める。その甲斐あってイルハムは大差で圧勝し当選。これに満足したヘイダルはイルハムに大統領職を譲り、糸が切れたかのように2ヶ月後の2003年12月12日、アメリカ・オハイオ州の病院で死去。享年80歳。

[779] ガーリックトースト73% 2008/10/18 00:40

>>777-778は同じ人物の項です。

[780] 喝食 2008/10/19 12:08

ザビビも終了間近ですね・・・。折角なので評価とはとても言えませんがやってみたかったこの女性?を。

地球

【統率】100
【武力】100
【知力】100
【政治】100
【魅力】100

【特殊能力】
生態系 海洋 大陸地殻 大気 水循環 炭素循環 プレートテクトニクス 固有磁場 知的生命体

【統率チェックポイント】
全体から見ればほんの僅かな厚みしかない生物圏によって生命体を生み出し、維持してきた。我々はこの星なくしてはそもそも存在し得ない。太陽という大き過ぎる熱源を利用できる絶妙な位置に生まれ我々を生み出した。これを単に偶然と捉えるのはあまりにも驚異的過ぎる気がしないでもない。宇宙は果てすらわからないほど広大であるから地球と同じような星はいくらでも存在するのは確かで、そこにどれだけの生命が満ち溢れているのかはわからないが今のところ知りうる限り唯一のこの例が極めて貴重な、異例の存在であるのは確かであろう。どうやったら生命が生まれるのかはもちろん、生命が何かということすらはっきりしていない。ひょっとすると我々は宇宙でも極めて孤独な存在なのではないかとすら思える。

【武力チェックポイント】
何度となく超巨大隕石の衝突にさらされ、海が干上がり、地表が炎に包まれても再び青い海を取り戻して進化の果てに多種多様な生物を生み出した。人類にとっても命の拠り所であると同時に少し機嫌を損ねただけでも凄まじい猛威を揮う恐ろしい面も持ち合わせている。人がどれだけ力を持ったとしても40億年以上生きた「彼女」の前では些細なものなのかもしれない。

【知力チェックポイント】
ほとんどは無機質な物体に過ぎない。しかしほんの一部で数十億年に亘って試行錯誤を繰り返した結果、驚くべき生物圏を持つに至った。その生態系の複雑さや完成度を前にすれば人類の叡智などと言ってもまだまだ遠く及ぶものではない。どれだけそのシステムがよくできているかはここに生まれ、生活しているだけで身に染みて理解できる。人類は自身が地球の作品であり、生まれた後も地球の自然を教師としてきた。科学技術のみならず文化や風俗など精神面においても知り得ることの答えは必ずと言っていいほどその自然の中に見出すことができるだろう。尤も地球は別に説教を垂れるために存在しているわけではないだろうから人間が勝手にそう見ているだけなのかもしれないが。そのシステムの全てを理解するのが不可能に近いほど困難であることは間違いない。

【政治チェックポイント】
その規律に多少なりとも反逆できるの可能性があるは人間くらいであろうか。その人間にしても地球の資源と環境に極度に依存していることは言うまでもない。地球はその内部の幾多のシステムの複雑な相互作用により、全体としてある安定した状態を保つ。全球凍結もまたその選択肢の一つであるために生物と環境が相互に作用しているかどうかについては議論があるが生物のみでは限られた種類でもカオスにふるまうシステムが環境を含めると安定が容易であることも確かである。少なくとも「利己的な遺伝子」などと同じようなメタファーとして「生命のようにふるまう地球」を想起することはできる。もちろん科学的な厳密な生命の定義としてはまた別の問題である。

【魅力チェックポイント】
生命の母。人類の揺り籠。知的生命を生み出し、多くの生物が生まれ消えていった場所。宇宙の年齢の約3分の1を生きもう晩年に差し掛かる。人類はいつかここを離れる時が来るのだろうか。

[781] 喝食 2008/10/19 12:10

>>780の続き

【列伝】
地球(45.6億年前?〜?)

——太陽系第三惑星——

生命として捉えた場合の地球。イギリスの科学者でNASAに勤めていた科学者ジェームズ・ラヴロックはこの地球という星が気候や化学組成を生命にとって都合のよい状態に保つ自己制御システムであるという仮説を考えた。彼の隣人でノーベル賞受賞作家のウィリアム・ゴールディングがギリシア神話の大地の女神から名を取ったことによりこの地球の生態システムは「ガイア」と呼ばれるようになる。これは生物が与えられた環境にただ順応するのではなく、環境に適応しつつもそれを改変し岩石や大気、海など有意な量で循環するすべての領域と全生命を含むシステムの一部となり、絶え間なく相互作用を続け、その相互作用から「ガイア」という自己制御システムが誕生するとするものであった。ラヴロックはガイア理論が仮説から理論たり得る証拠として�惑星の維持管理にバクテリアが果たす役割が大きいこと、�生物が助長する岩石風化による二酸化炭素の大気中からの取り込みが気候制御の主要な機能としてあること、�海洋藻類が主要元素の循環に関わっていること、�海洋藻類によって放出される硝酸ジメチルが雲の形成に深く寄与していること�デイジーワールドという仮想惑星において明度の異なる黒から白までのヒナギクが生育するだけで環境条件が制御されることを示したシュミレーションモデルにより恒常的なシステムが目的とはかかわりなく動くことがわかったことなどを提示している。その理論にはリチャード・ドーキンスなど批判も多く、地球科学者は好意的に見る傾向にある一方で生物学者には批判的な意見が多い。広く科学界に受け入れられたものとは言い難いが地球のシステムを考える上で極めて興味深いアイデアであったことは間違いないだろう。この星のシステムについて人類が知り得たことはまだ僅かである。

[782] やっち 2008/10/20 20:58

アレクサンドル・ヴァシレフスキー

統率 86
 参謀としても前線司令官としても一級。
 素人に毛が生えた程度のソ連兵を率いて、ウラヌス作戦(スターリングラード攻防)、バグラチオン作戦等の高度な作戦を指揮して東部戦線を勝利に導いた。
 対日戦でも100万を超える大軍を指揮して勝利を成し遂げている。

武力 85
 戦術家としても一級。ジューコフとのコンビは陸戦において当時の世界で屈指である。
 モスクワ防衛、スターリングラード、クルスク、バグラチオン作戦、東プロイセン制圧と、独ソ戦の主要な戦闘全てに参加し、最終的に勝者となっている。
 対日戦でも関東軍を撃破。

知力 84
 スターリングラードにおける3方向からの進撃・包囲やバグラチオン作戦における正面突破戦略の採用など、戦略面でも一級。
 彼の指揮する戦闘では敵軍と同数以上の味方の犠牲が出ているが、彼自身それを織り込み済みで戦術を立案しており、かつ緒戦で精鋭を失ってしまった当時のソ連軍にあってはそれが最も有効な戦法であって、戦略目的も達成できているので知力や武力を減点しない。

政治 72
 これだけの力量と名声を持ちながらスターリン体制下を生き抜いただけでも優秀な政治家といえる。
 武人であることを貫いたのも一種の韜晦かも知れない。

魅力 62
 個人的には魅力的な人物であったようだが、カリスマではジューコフに及ばないか。

[783] やっち 2008/10/20 21:09

 ソ連軍参謀総長、極東軍総司令官、後に軍事相。

 牧師の子として生まれる。後に赤軍に参加。
 バルバロッサ作戦で大損害を被った後のソ連軍で頭角を現し、急速に昇進。参謀総長となる。総司令官代理ジューコフとのコンビで、スターリングラード、クルスク、バグラチオン作戦を立案・指揮してドイツ軍を破った。
 その後、前線司令官に転じ、東プロイセンを奪取する(今もロシア領)。
 ドイツ降伏後は極東軍総司令官となり、対日戦を指揮して関東軍を破っている。
 彼の戦略は、乱暴にいえば「敵が100万人いるなら、こちらは300万人を動員し、2倍の損害を出して敵を全滅させてもまだ100万人残る(→で、また200万人動員)」というもの。
 動員された方にしてみればたまったものではないが、大粛清やバルバロッサ作戦で弱体化した当時のソ連軍がとりうる唯一の方法であったろう。

 第2次大戦のドイツ軍の優秀な将軍は有名なのに、ソ連軍の将軍はあまり知られていない。目立つのはジューコフくらいで、その陰に隠れて相当マイナーですが、かなり優秀です。参謀としても前線でも使えるのがよい。政治的野心がないのもお得。

 先週、「ジューコフ元帥回想録」を入手し読んだのでジューコフを評価しようと思いましたが、既にされていたので、この人にしてみました。

[784] とりあえず名無し 2008/10/22 23:14

岸信介(1896〜1987)
大日本帝国商工大臣、自民党第三代総裁、日本国首相(1957〜1960)
「戦後日本最大の権謀家」

統率:73
戦前満州で絶大な権力を握る。戦後は治安統制強化や日米安全保障条約改正などの重要な施策を進めるが、デモが相次いで総辞職に追い込まれた。ただしこれは魅力不足も大きい。

武力:52
官僚であり軍人ではない。だが果断で目的のために手段を選ばない性格(米国要人警護のために闇社会の顔役たちに提携を呼びかけるなど)を考慮して平均より高め。

知力:80
戦後日本の基本路線を最終確定した指導者。戦略的能力は高い。

政治:87
戦後日本で最大の権謀家。戦前満州国で事実上の通産大臣として辣腕を振るい、戦後は一時戦犯として収容されるも復活、数々の政争に勝ち抜いて首相にまで登りつめた。自衛・経済力強化、外交基盤拡大、安保改定などの功績をあげるが、警職法改正は挫折。

魅力:30
強力かつ有能な政治家として米国・台湾などから高く評価される。しかし国内では彼の経歴やキャラクターが強い反発を浴び、岸の時代は近代日本史上もっとも激烈な反体制運動(安保闘争)によって記憶されることになる。

[785] 喝食 2008/10/24 06:10

ホモ・サピエンス

【統率】96
【武力】99
【知力】30〜
【政治】89
【魅力】70

【特殊能力】
直立二足歩行 火 言語 農耕 牧畜 文化 組織化 宗教 思想 戦争
道具加工:自然物を複雑に組み合わせて加工。様々な新しい道具を製造する
科学技術:知識や技術の蓄積・利用により種としての限界を超越して発展可能。存続する限りほぼ限界はない。そのあまりの威力のため暴走の危険性大

【統率チェックポイント】
極地から赤道まで気候その他の条件を選ばず進出。数十億にまでその数を増大させ更に増え続ける彼らは繁栄を謳歌しているようにも見え、一概に絶滅が近いということはできない。しかしその繁栄が生態系にとって悪影響を及ぼすほどになっていることも事実である。

【武力チェックポイント】
他種との戦闘においてはその組織力・技術力において無敵を誇る。彼らを極端に脅かす存在は彼ら自身かそのネットワークによって拡散するであろう新型ウィルスくらいだろうか。しかし資源として一方的に恩恵を受ける側である為に他の種を壊滅させるまで至るその行為は自滅と言えなくもない。多くの種にとっては消えて無くなってしまったほうが都合がいい存在であることは確実である。彼らは地球の薄皮の上で世話になっている同居者を迫害して得意になっているだけだと言うこともできないだろうか。

【知力チェックポイント】
発達した脳を持ち個々の知性や認識力の優秀さには疑いがない。科学技術によって種の限界を超越し大気圏外まで進出。遠く宇宙の彼方からミクロの世界までその認識は幅広い。しかし、その優秀さ故に種全体として見た場合の賢明と言うにはほど遠い行為の数々が際立ってしまう。同じ種で集団で殺し合い、後先考えずに環境を改変。資源を浪費して多くの貴重な種を絶滅させた。遠い宇宙への進出も種としては現実的ではない現状でははっきり言って他の種からしたら馬鹿で迷惑な存在でしかない。よって全体として認識能力はすばらしいが知性や判断能力、自己制御の能力など総合して見た場合はろくでなしレベルと言うしかないだろう。とは言ってもわずか数百年で科学技術を発達させたことから言ってもその可能性に限界が見えないのも事実である。存続さえ可能であればの話だが・・・。

【政治チェックポイント】
極めて複雑な社会を発達させた。数が増えてしまったことを有利に働かせるには分業化して複雑な社会を発達させるのは確かに極めて有効であり、彼らはそれを可能にするだけの知能を持っていた。しかし一見単純にも思える同種の共同体間での相互理解においては失敗も多くそれがために無意味に共同体を滅ぼしてしまったり、必要ない膨大な被害を出してしまったり、果ては行き過ぎた自分たちの行為を統制することすら満足にできていないことも多い。当然自分たちのことを考えることで精一杯で他の種との折り合いを考える余裕はないようだ。

【魅力チェックポイント】
誕生してからの殆どの期間において彼らは完全に自然の一部であった。他の種への攻撃も多くは生き残る糧を得るためのものであった。農耕や技術によってその個体数を増大させ、それに対応すべく知性を頼みに必死に技術を発達させたことを大きく責めることは難しい。結果的に迷惑な存在になってしまったものの、それは彼らの知能でも対応不可能なほどの急速な技術発展をしたがためにその技術を環境に適応させる術を見出せていないからだと思いたいものである。その悪行にもかかわらず彼らにも少しは興味を引く点があるようで彼らを恐れているように見える自然の動物達も長い付き合いでその個体が危害を加えないと理解すると興味を示し別の態度を見せることも珍しくはない。彼らの創造的な業績については判断が難しい。存在や能力があまりに突飛である意味極端に高度であるためにその生い立ちの記録や生み出した物の価値、考えてきたことなどを同居者達に理解させるのは無理な話だからである。しかしだからといってそれらがつまらないものであると言い切ることもできない。彼ら自身はその価値を信じ切っているようだし、ひょっとするとそれを理解できる者にとっては極めて魅力的ものなのかもしれない。

[786] 喝食 2008/10/24 06:11

≫785の続き

【列伝】
ホモ・サピエンス(約20万年前?〜)

——地球最凶の生物?——

地球の生物の一種。直立二足歩行によって空いた手を利用して複雑な道具を加工。高度な知能を発達させる。環境に適応するよりもむしろ技術や道具によって環境を変化させることによって地球上を席巻し、急速にその個体数を増やし繁栄した。言語など特殊な意志伝達手段を駆使して他の生物には見られないほどの高度に複雑化した社会構造を形成する。発達した脳は精神性を生み出し。教育によって情報を引き継ぐことによって科学技術をも獲得。限定的にしろ宇宙空間への進出も可能にした。その急速な拡大と環境改変は地球環境とその生態系に大きな影響を与えている。

自分なりにこの生物をやってみたらこんな感じになってしまいました・・・。この種の繁栄が続くことを心から願います・・・。

[787] ガーリックトースト73% 2008/10/25 02:40

ジャヤーヴァルマン7世

【統率】63
【武力】66
【知力】51
【政治】72
【魅力】60

【特殊能力】
仏教狂信:国内の文化力が上昇し、仏教徒に対する統率+10。しかし国家財政が必ず赤字になる

【統率チェックポイント】
クメール帝国の頂点として精力的に活動。領土的には最盛期を築き上げ、スコータイ朝・チャンパ王朝を支配下においた。また、大量の寺院建設や仏教信仰によって団結心と信仰心を煽り、国内をまとめようとした。財政切迫により民衆の不満は溜まっているが、大きな反乱もないので中堅クラスと判断。

【武力チェックポイント】
チャンパの王ジャヤ・インドラヴァルマン4世を討ち、帝国を滅亡の危機から救った英雄。武威を以ってチャンパ軍を撃退し首都を奪還。逆に攻めのぼりチャンパ領を侵している。

【知力チェックポイント】
帝国の隆盛と斜陽を同時に行った人物。クメール様式を確立した1人で後の世に大きな影響を与えるが、一方で仏教に傾倒し、国家財政を逼迫させ後のアユタヤ王朝に対する抵抗力を弱めるきっかけを作った。

【政治チェックポイント】
アンコール・トムを建造、周辺国に国力を見せつけることで戦争の抑制を図った。「王道」とともに121の宿泊所、102の病院を建てて行脚往来の円滑化を推進。名実ともに東南アジアの中心地とした。

【魅力チェックポイント】
熱心な大乗仏教徒であり「愛」「慈悲」「平等」「寛大」の4つの思想とともに、臣民に対しては愛を以って接することを心がけたとされる。しかし寺院建設の為に多大な徴発を要求される臣民にとっては憎悪の対象でしかない。やや理想主義的な価値観を持ち、美を重んじ、バイヨン(アンコール・トムの一部)に自らを投影させて神格化を図ったとも言われる。

【作者から一言】
アンコール・トムの建造者として著名な人物です。首都まで奪われ滅亡間近だったクメール帝国を中興させた人物ですが、支那・唐の玄宗皇帝の如く、腰を据えてからは迷走し国費を浪費し国が傾く原因を作った人物でもあり、名君か迷君かは評価の分かれるところだと思います。全体的にバランスが取れており、穴がなくオールマイティに活躍できる人物です。やや政治力が高いので政治家としての才も期待できるでしょう。

【列伝】
生没:1130年 - 1218年
略歴:クメール・アンコール朝第20代ヴァルマン
在位:(1181年 - 1218年)

——クメール帝国中興の祖——

 アンコール朝(クメール帝国)は東南アジアの源流であるが、12世紀になるとチャンパ王国(ベトナム人の一部族の祖先)の蚕食に悩まされ、首都を制圧されるまでに衰えていた。ヴァルマン(守護者。王に相当)につく前のジャヤーヴァルマン7世はこれを苦々しく思っていた一人であり、粘り強くチャンパの挑発に耐えて力を貯え、1181年にはチャンパ王ジャヤ・インドラヴァルマン4世を討ち取り、彼が占拠していた古の王宮と首都を奪還。ヴァルマンに即位した彼は、間もなくチャンパ勢力を国内から駆逐した。1190年には自らアンコール軍を率いて親征を行いチャンパに侵攻、逆に領土を奪い勢力を拡大している。

 内政面では王道を整備し国内の街道や病院・停留所の建設を積極的に行なって国民に広く活用させ、国内の流通の促進を図り、アンコールワットやアンコール・トムを完成させ、諸外国に国威を見せつけた。歴代のヴァルマンがヒンドゥー教徒であったのに対し、彼は熱心な大乗仏教徒であり、臣民に対しては重税を課すこともあったが基本的には仏教の精神に則り慈愛に満ち、12世紀後半にはニャックボアン(沐浴場)を建設して観世音菩薩の慈悲の恵みが病人に与えられるようにと祈願している。

 1218年、死去。享年88。彼の死後、財政難に陥り相次いで徴発された国と臣民は活力を失い、属国のスコータイ・チャンパの勃興を許すこととなる。

[788] 喝食 2008/10/25 04:09

雪舟等楊

【統率】41
【武力】15
【知力】90
【政治】55
【魅力】73

【特殊能力】
禅宗 水墨画 作庭 神格化

【統率チェックポイント】
修行僧時代の職位である「知客(しか)」は中世禅宗において寺院経営を担当する東班に対し修行方面を司る西班に属し、本来は専ら修行の人であった。真正の禅僧として厳しく修行し相国寺内に重きをなしたことからある程度の統率力はあったと考えられる。その彼が東班の天章周文を画業の師とすることができたのは彼の師である春林周藤の影響力と彼自身の画才によるだろう。

【武力チェックポイント】
禅とは釈迦が悟ったであろう無我の境地を座禅などを通じて理解・体得する試みであると考える。究極的にはそこに迷いや煩悩は存在しないだろう。

【知力チェックポイント】
寧波の五山の第三、太白山天童景徳寺より天童山第一座(首座)の役職を授かる。外交使節への儀礼もあるかもしれないがここで修業した日本人は臨済宗開祖栄西、曹洞宗開祖道元など多数いるにもかかわらず第一座は雪舟唯一人だという。禅僧としても極めて優れた人物であったのは間違いない。美術史においては言うまでもなく別格の存在。中国に学んで日本独自の水墨画を創始した。その文化的意義は世界史的にも評価できるだろう。本人もそれを自覚し大いに気概を持って帰国したようである。曰く「大唐国裏、画師無し、画無しと道(い)はじ、只是師なし」その気概は数々の傑出した作品となって実を結んだ。

【政治チェックポイント】
相国寺住持である禅僧春林周藤の高弟としてそれなりの政治力はあっただろう。大内氏の援助により中国に渡り、多くの作品を描いた。晩年は地方にあって画と禅の生活をしており政治とは無縁であったか。直門も地方に住したために中央の画壇的流派ではないが第一人者として地方にあっても正統たり得、その門弟から長谷川等伯の長谷川派、雲谷等顔の雲谷派、秋月等観などが輩出される。筆法を学ぶものは江戸時代にあっても尽きていない。

【魅力チェックポイント】
幼いころに柱に手を縛られながら流した涙を使って足で鼠を描いて師を驚嘆させた逸話が後世の記述により伝わる。ルールに捉われずにその作風を変える自由闊達な気質を持っており明に渡った後はその画風は力強く、晩年にはさらにとても大胆なものとなる。突出した第一人者に対しよくあることであるが後世には神格化されている感すらある。

【列伝】
雪舟等楊(1420〜1506)
代表作:「破墨山水図」、「慧可断臂図」、「四季山水図」、「山水長巻」、「秋冬山水図」、「天橋立図」、「花鳥図屏風」など

——画聖——

室町後期の画僧。諱は等楊、等揚とも。雪舟、拙宗、晦庵、備渓斎、雲谷軒などと号する。備中国赤浜に生まれる。現在の岡山県小田郡小田市で彼の生家も小田という武家とされる。幼少で宝福寺に入る、その後上洛、赤浜は大井庄なる相国寺の荘園であったことから在地の名門武家としてツテをたどったか相国寺に入門して第三十六代住持春林周藤の弟子となる。この相国寺には幕府の御用絵師として画壇の頂点にあった周文がおり、雪舟がその絵の師として画技を学んだことは確実である。寛正6年(1465)に元の礎石梵?の雪舟の二大字を手に入れ相国寺の竜岡真圭に雪舟二字説を書いてもらって字とする。その後明に渡って絵を学ぼうと考えた彼は遣民船を取り仕切る大内頼政を頼って山口に移り住み雲谷庵に身を置いて画業を営んだ。応仁元年(1497)についに遣民船により寧波に上陸。天童景徳寺において第一座に推され、北京で礼部院の中堂に壁画を描いて名声を博したという。大運河を利用して北上したようで、その間にも広く中国の自然をつぶさに観察していたと思われる。文明元年(1469)に帰国後するも都は応仁の乱の最中であり、豊後の大友氏の城下に天開図画楼を構えた。その後も各地を巡って作品を制作し、82歳の頃は天橋立でその風景を写生している。永正3年(1506)に87年の生涯を終えたという。最後は山口に戻ったと思われるものの、終焉の地がどこかは諸説あってはっきりしない。

世界史上でも屈指の芸術家です。すこし援助の手を差し伸べるだけで後はほったらかしでも多大な文化的成果が期待できます。文化的な知力は高いですがおそらく戦闘には向かず、政治的な野心もそれほどないので安心です。

[789] 猫王 2008/11/04 22:49

オデュッセウス

【統率】69
【武力】74
【知力】99
【政治】97
【魅力】80

【特殊能力】 神々の加護 女運 漂流

神々の加護:危機的状況に陥ったとき神々の助けがある。
女運:女性に好意をもたれやすく何らかの助力が期待できる。(ただし行き過ぎて軟禁されることも)

漂流:船で遠出をした場合20年ほど帰れないことがある。

【統率チェックポイント】
あくまでアカイア勢では軍師的立場であって、自身も王とはいえ小島の島主でしかなく、総大将の経験はないので優秀一歩手前。
【武力チェックポイント】
智謀が目立つが、アキレウスや大アイアスには劣るもののそれに次ぐクラスの武勇の持ち主で、他に誰も引けなかった弓を引いている。また軍を率いての行動も大きなミスはない。
【知力チェックポイント】
オデュッセウスと言えばこれであり「策略巧みなオデュッセウス」とも呼ばれる。トロイの木馬などが有名であり常に用心深く、後世に啓蒙や理性の奸智の代名詞のごとく語り継がれる。ただしその狡猾さはパラメーデースなど味方の将に向けられることもあった。
【政治チェックポイント】
小国イタカの王としては満点をつけていい。他国の王族が皆ヘレネに求婚する中、その従姉妹のペネロペに目をつけ大国スパルタと親戚になり縁つながりの強国ミュケナイとも親しくなる。
【魅力チェックポイント】
他のギリシャ神話の英雄と違い特に容姿に優れているわけではないものの、その智謀によって盟主アガメムノンをはじめ他の諸将にもよく意見を求められた。また先述のパラメーデースなどを罠にはめ悪名をきせ処刑させるなど相当に悪辣な策を使うも自身の評価に変わりはない。また妻ペネロペをはじめ魔女キルケーや妖精カリュプソー、王女ナウシカアなど錚々たる面子に好意を寄せらている。

[790] 猫王 2008/11/04 23:29

【列伝】
イタカ島王
オデュッセイア主人公

——狡猾なる稀代の策士——

ホメロス作の『イーリアス』『オデュッセイア』における中心人物。そのたぐいまれなる智謀と策略で知られる。作中最初にその頭脳が発揮されるのは絶世の美女ヘレネをめぐる求婚者たちの仲裁である。またそれによりスパルタ王ティンダリオスに取り入り、その姪ペネロペをめとりスパルタと姻戚関係になり、ヘレネの夫となったメネラオスの兄で全ギリシャの盟主ミュケナイ王アガメムノンとも縁続きになる。トロイア戦争がおこると、二十年の間帰ってこれないという予言をおそれ、なんとか回避しようとするも賢者パラメーデースに見破られやむなく参戦。なおそのさい同じように、この戦争に加わると命を落とすと予言されていたアキレウスを策をもってむりやり引き込む。またトロイアの援軍としてきたトラキア王レソスを暗殺、トロイア陥落の条件であった神像パラディオンをディオメデスと共に盗み出すことに成功する。また自分をこの戦争に巻き込んだパラメーデースを、同じ軍師的立場ということもあり、トロイアと内通しているという噂を流し証拠をねつ造、処刑させる。広義では大アイアスも彼と争ったことにより不遇の最期を遂げる。そののち有名なトロイの木馬を考案しトロイアを陥落させる。ただし『オデュッセイア』はここから始まるという長い長いながーい話である。
基本的にきわめて優秀で部下としてなら信用はできるが信頼するのは危険が伴う。

[791] ネタですが 2008/11/05 02:19

バラク・フサイン・オバマ
※現時点までで

アメリカ合衆国上院議員、民主党大統領候補、次期大統領(もはやほぼ確定)

統率77
クリントン陣営みたいな内紛や、マケイン陣営みたいな副大統領の迷走を起こさず、草の根レベルから支持陣営をうまくまとめている。

武力40
未知数。対話重視姿勢。

知力86
知性と教養は彼の大きな武器のひとつ。打つ手打つ手の大半が図にあたって今や勝利も目前。

政治70
具体的な政策などはあまり出しておらず、政界経歴も浅いので半ば未知数。でも政界経歴が浅いのに黒人初の大統領の座を目前にしている。

魅力95
黒人初の大統領として、彼は当選の瞬間から伝説となり、世界史上に不滅の名を刻むこととなる。稀代の演説の名手。アメリカのみならず、世界の多くの人々から熱狂的な支持を受け、地滑り的大勝利の見込み。

[792] 石垣眞人 2008/11/05 15:23

「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

[793] ガーリックトースト73% 2008/11/06 21:24

川内康範(かわうちこうはん)

【統率】20
【武力】22
【知力】66
【政治】49
【魅力】67

【特殊能力】文章力 交渉
頑迷:他者の懐柔や讒言に囚われないが、ワンマンになりやすい。
生涯助ッ人:誠意を尽くして請うと必ず協力してくれる。

【統率チェックポイント】
彼は人を使って行動する人間ではなく、自分が動いて現状を変えようとする人物である。人の為に動くことはあっても自分の為に人を動かすことは何より彼自身が認めない。また、彼の死後、遺族は彼の生前の言を重く受け止めずに森サイドと和解していることから、親族の統制すらままならなかったと評価せざるを得ない。

【武力チェックポイント】
ガンジーの非暴力主義に共感し、慈愛の精神を重んじる平和主義者。いままで森や渡辺プロダクションを始めとして確執も数多く経験したが、暴力で解決したことは一度もない。

【知力チェックポイント】
我の強い性格で生涯を通じて信念を曲げた事がないとされ、意志の頑なさは周囲も認めるところ。福田赳夫の秘書を務め、鈴木善幸や竹下登の特別顧問を務めた経験があり、また熱心な法華宗徒で仏教に関する造詣は深い。

【政治チェックポイント】
森がスキャンダルで民放に出演NGを受けた時は対応に奔走し粘り強く交渉を続け、NHK出演を取り付けた。日活時代に築いた保守・革新問わず幅広い人脈を生かして時代を先取りしたヒーロー・月光仮面を生み出し、一躍時の人となる。グリコ・森永事件では混迷する現状を憂い自ら犯人と交渉(紙面上ではあるが)、結果失敗するも犯人を少なからず動揺させた。

【魅力チェックポイント】
非常に偏屈で頑固な人物で、人ごみを嫌い、みちのくの奥地に居宅を構えるまでに至る。しかし決して人間嫌いではなくむしろ義理堅い人物で、人に貸しても借りない事を信条とし、予定キャンセルの際はどれだけ自分の地位が上がっても自ら謝罪電話を掛ける。こういった姿勢を評価し彼を慕う人間は少なくない。人助けを重んじ、困っている人を見捨てられない人物でもあり、激動の半生を送り母親を亡くし途方にくれる若き日の森進一をわが子のように手厚く保護、そのほとんどを通じて陰陽両面で支えた。しかし周囲に理解されにくい人物であることも確かで、「おふくろさん」騒動では彼の頑迷な態度に違和感を覚えた視聴者も多かった。

【作者から一言】
義理人情に厚く、意志を曲げない筋の通った人です。ただ、彼を見ていると本当に評価されるべき人間が、必ずしも世間を惹きつけるワケではないことが言えると思います。ワイド・スクランブルでの対談を見ていましたが、印象としては「気難しそうだが、優しさの見え隠れするお爺ちゃん」といったイメージでした。日本の政界・歌謡界の発展に尽力した川内翁のご冥福を心よりお祈りいたします。

[794] ガーリックトースト73% 2008/11/06 21:25

>>793の続き

【列伝】
生没:1920年2月26日 - 2008年4月6日
略歴:活動家、作詞家、脚本家、政治評論家、作家
備考:トレードマークである耳毛は達磨太師にあやかったもの

——喧嘩康範——

 1920年、北海道函館市にて日蓮宗の住職の息子として誕生。本名は川内潔(きよし)。1932年に地元の学校を卒業後は就職し、家具屋の店員や製氷・製缶工場、炭坑などで働きスキルを磨く。その後兄を頼って上京し、新聞配達の傍ら日本活動写真株式会社(日活)に出入りし人脈を広げ、1941年には東宝に入社し脚本を手掛けるようになる。終戦直後の1945年には戦死将兵の遺骨引揚運動を推進、活動家としても著名となる。1958年にはドラマ「月光仮面」が大ヒット。この頃から作詞活動も始め、ヒット曲誕生の立役者となる。また、この後の1968年頃には仕事を通して森進一と知り合い、彼の境遇を知り公私ともに面倒を見るようになった。

 1975年から94年にかけて、アニメ「まんが日本昔ばなし」の監修を長きに渡り務め、その一方で福田首相(当時)の秘書として活躍。1984年のグリコ・森永事件では「1億2000万円提供するから手を引け」と自ら私財を投じる覚悟で犯人と「週刊読売」の誌上で対決、乞食と呼ばれるのを嫌った犯人サイドとの交渉は決裂するも、それと同時に犯人サイドはこの川内の行動を賞賛し、世間に対し強烈なインパクトを残した。しかし、既に高齢期を迎える川内はこの一件を最後に露出を控えるようになり、脚本やアニメ・映画の監修以外は表舞台に姿を現さなくなる。

 また、長い間「親子同然の間柄」として森進一との仲は良好であったが、2002年に自身の盟友である作曲家の曽根幸明(そねこうめい)が満身創痍の身で書き上げた曲を森に見せ、歌ってくれるよう頼んだものの、既に歌謡界の大御所として知られる森は歌うことを断り、徐々に両者の関係に亀裂が生じるようになる。そして森が「おふくろさん」の歌詞の一部を川内の了解もないまま自分に合うように改変、川内はこれに気づき、再三に渡り森サイドに接触を試みるも森と電話で話すことすら敵わず、ついに激高。有名な「おふくろさん」騒動に発展する。2007年2月19日の記者会見で健在ぶりを見せつつ、「今後一切自分の作詞した曲は歌わせない」と明言。森は驚き、何度も川内に接触を試みるも川内は決して応じなかった。2007年末には薬害肝炎問題の対応に苦慮する福田康夫総理大臣(当時)にアドバイスしたとされるも、結局森とは復縁することなく、2008年4月6日午前4時6分、青森県八戸市の病院にて慢性気管支肺炎の為、88歳で死去。

 ただ、著書の中で森に対し"赦さぬことが人情"と述べており、最期まで真に人間を憎むことは出来ない人物であったのかもしれない。

[795] 喝食 2008/11/08 22:28

よし、まだ終わっていない!

>>789
叙事詩の人物やってみたいと思ってました。特殊能力の漂流が特徴的でいいですねー。登場人物ではないですが便乗させていただいてこの人やってみます。

>>791
彼には特別な英雄性がありますね。危機にこのような人物が出てくるとはアメリカもなんだかんだいっておもしろいといったら判断が早すぎでしょうか。でも期待大です。しかし・・・前途は非常に多難。この評価が極端に下がらないよう切に願います。

>>793
このような人物とはよく知りませんでした。森にも多少の言い分があるのでしょうが恩を仇で返すとは・・・。傲慢になってしまったのでしょうか。親族が安易に和解してしまったのは彼の意志を考えると残念に思います。

ホメロス

【統率】12
【武力】 8
【知力】97
【政治】51
【魅力】80

【特殊能力】
叙事詩 神話 口承文学
伝説:自身伝説化されただけでなく、伝説そのものを創造した。死後に知力が魅力となる。

【統率チェックポイント】
旅する詩人。その影響は果てしなく深いが統率の類ではなく、知力と魅力で評価すべきだろう。

【武力チェックポイント】
盲目であったとされる。彼はただ歌った。英雄達とその苦闘を。

【知力チェックポイント】
「ホメロスとは誰か?」という疑問に完全に答えを出すことはできないが多くの矛盾は詩人が歌うことを考慮して作らたからと考えれば、それまであった口承による伝説や神話を素材として『イリアス』と『オデュッセイア』という地中海世界、延いては西欧文明なるものの根幹となったと西欧人が思っている叙事詩を創造した偉大な詩人がいたと考えてよいだろう。それは二人の別人であったのかもしれないが。問題はその成果を知力で表現してよいかということに尽きる。100としてよいような気もするが分野は唯一つであり、創造性のみの評価である。またその意義を本人が意識して行ったとは考えにくいため世界史評価としてこの数値とした。アリストテレスであっても自身が知力においてホメロスより格上だなどとは言うことは多分ないだろうが。

【政治チェックポイント】
その作品は民族の一大叙事詩であり、結果として大プロジェクトであったが政治的な思惑は後の時代に彼の作品を集め、研究した者達のほうが大きかっただろう。

【魅力チェックポイント】
その作品が大きく変わっただろうとはいえ残っただけでも80代を与えてよい。しかし生前は極めて優秀で人気はあっただろうが一詩人に過ぎなかった。その伝説に影響されてインドまで行ってしまったどこかの大王や彼を模範として叙事詩を作った共和制っぽい帝国の詩人。例として前の二つに天と地ほどに劣るものの、評論家に今世紀最悪とまで言われてしまったが商業的には成功だった後の時代の映画の存在なども考え、特殊能力で評価を補いたい。

【列伝】
ホメロス(前9世紀後半頃?〜前8世紀前半頃?)

——「怒りを歌え、女神よ。ペレウスの子アキレウスの」——

古代ギリシアの詩人。キオス島出身と言われ、スミルナで暮らしていた。叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』と作ったとされる。両作品は主に吟遊詩人によって歌われるものとして作られ、後にその詩は前6世紀頃ソロン又はペイシストラトスによって集められ作品としての固定化がなされたとみられる。前3世紀頃にアレクサンドリア図書館での研究によってその文献的研究が進んだ。その後にホメロスが誰なのかや複数いたのではないか、両作品が同一人物によって作られたのではないのではないかという疑いが生まれた。このような考えは例外的であったが近代に一人のホメロスを否定する見解が出て注目されるようになった。これらの議論を「ホメロス問題」という。しかし両作品はそれまで存在した素材を組み込んで作られたものであり、言語的な矛盾も観客の前で歌われるものであったがゆえと考えられる。その才能によって二つの偉大な叙事詩を作ったホメロスという詩人がいたことを否定はできない。叙事詩の代名詞である両作品は文学の模範としてギリシア、ローマの文学の土台となった。文学は文化の発展と密接に関連し、科学や芸術、哲学や宗教を表現するものであることを考えればルネサンスを経て現在までその影響の広さと深さは計り知れない。

完全に作り話と思われていたり、古代の常で不確かなことが多い人物ですがその偉大さに疑いはありません。このような人物がいれば民族の発展と英雄の活躍を歌いあげ、その後の文明の確立を後押ししてくれることでしょう。スケールがでかい・・。魅力と知力が逆でもいいかもしれません。

[796] さば缶 2008/11/09 14:12

さばです。

thebbsが終了ということなので、
良かったらこちらをお使い下さい。

歴史上の人物を数値化するスレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9685/1226207176/
【ネタ系】フィクション上の人物を数値化するスレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9685/1226207384/

[797] ハーン 2008/11/09 15:34

ご配慮ありがとうございます。今後も頑張ってください

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